武頼庵のブログ

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 お元気でお過ごしでしょうか?

 以下の記事は1月4日にFacebookに投稿したものです。



 「30日に入浴中ギックリ腰はんが久しぶりに訪れて来てヤバイと思いました。が、すかさず感謝します、と言いました。
 感謝します、と言って直ぐに痛みが無くなった訳ではありません。体はくの字になり歩き辛くなりました。ギックリ腰はんとの対話が始まりました。
 祈りのリクエストもしました。

 さてどんなことにも意味がある、と思い色々と考えました。
 一番最初に考えたことは、3年8ヶ月前に見つかった直腸ガンの再発からの転移によるものかということでした。でもチョット違っていそう。
 神さまに祈ると、大丈夫だ、と言われているように感じました。神さまの声が聞こえる訳ではありません。私の一人芝居かもしれません。それでもいいのです。そう言われているように思いました。
 仮に再発、転移でも私はガンの声を聴き対話します。ガンのメッセージがあると思うからです。

 神さまが大丈夫と言われるなら癒しはなっています。
 改めてギックリ腰はんと対話です。
 動くのは億劫ですから寝て過ごすので対話と神さまに祈る時間は十分にあります。
 自分の思いは早く癒されて痛みが取れることでした。しかし取れません。少々イラつきます。
 ずっと寝ている訳にはいきません。トイレに行ったり食事をしたりします。気分転換をします。寝っ転がって「こち亀」を読み馬鹿馬鹿しさに吹き出します(今41巻から43巻をTSUTAYAから借りて読んでいます)。大晦日は「ガキつか」を観てバカ笑いをします。

 一旦寝てしまうと起きる時に痛みが出て辛いことがあります。だからゆっくり起きる必要があります。でも実はここに意味があったように後で分かってきました。
 ま、とにかくゆっくり起きる。ゆっくり歩く。ゆっくり座る。椅子に腰掛ける。椅子から立ち上がる。
 元日半ばくらいまでは斜め60度の姿勢で膝を曲げての移動。きついです。誰か助け手が欲しいと思います。でも今は自分の宿題です。

 2日になるといくらか上体が起きてきたので、大川市昇開橋温泉に行きました。
 車の乗り降りは面倒臭いですが、何とか耐えました。
 温泉ではサウナにも入りスッキリしました。

 結局この頃から答えは分かり始めました。
 その答えは、「ゆっくり進みなさい」だと思っています。
 気づかずに人と比べて、特に同年代の人と比べて焦っていたようでした。
 3日になると随分動き易くなってきました。ありがたいです!

 昨年の大きな気づき「今、ここ」を生きることの大切さとも関連があるようです。
 それは、私たちの脳(無意識と言ってもいいでしょう)が現実と想像の違いの区別がつかないという性質ゆえに起きるうまくやれなかった過去の出来事への後悔とその記憶。その記憶や経験をデータにして考えてしまう将来への不安や心配。これらは全て「虚」、つまり「実体がない」ということでした。私たちはいかに「つまらない虚」の中に生きていて、「今、ここ」に何と生きていないのだろうと思いました。何と無駄な時間を費やしてきたのだろうと思いました。そして、このことは同時に大きな可能性があること気づかせてくれました。

 今、ここで、ああだこうだと悔いたり心配したり不安を持ったり思ったりする自分は実であっても、思いや意味づけは「虚」なのです。
 脳の勘違いは、あたかも過去の出来事を思い出すと、今、ここでも起きているかのように、再体験しているかのように体までもが反応してしまいますが、でも「虚」、実体がないのです。
 同じように将来のことも既に今体験しているかのように先取りして感じてしまいます。でも「虚」なのです。
 ここに気づくと、も~の凄く大きな可能性が開いていくと思われました。
 過去の記憶からの自由、将来への不安や心配からの自由、解放がありました。つまらないネガからの解放でした。
 正しい用語の使い方かどうかは知りませんが、個人的な意味でのパラダイム・シフトが起きたようなものです。

 この気づきがあったのでギックリ腰、この痛みがどう癒されていくか、ある意味楽しみでもありました。
 「今、ここ」で描く将来は「つまらない虚」でも「楽しい虚」でもその選択は自由なのです。
私は自分に正体不明のブレーキをかけていた分、上手にブレーキを外して、「楽しい、ワクワクするような虚」を描き、その為に「今、ここ」、「実」の時に何をどうするかを考えて行動していきたいと思っています。
 誤解を恐れずに言うならば、明日は無い。ただ、「永遠の今、ここ」があり続けるのです。そして、救いも「今、ここ」です。
 したいことをして気分良く人生をもっと楽しんで歩んでいきたいです!
 気分が良ければ良いことが引き寄せられる。
 おや、随分腰が楽になってきたぞ!
 腰はん、ありがとう!
 祈ってくださった方々、心より感謝です!

 写真は私が多分一番幸せだった頃に撮られた母とのものです。」


 1月7日現在ほぼ痛みは消えました。
 改めて神さまが私に語っておられたことは、「私(神さま)のペースで歩きなさい。時には飛び、時には走りなさい。」だと思っています。
 私が一番活かされるスピードであり、動きですね。

 では、失礼いたします。
 お元気で>



     武頼庵
     橋爪章一


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 遅ればせながら明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いいたします。


 さて、我が信愛会空手道稽古会場の一つ柳川細工町道場として使わせていただいてる光照寺(保育園)の山門前の掲示板に昨年8月に貼られていた掲示物です。

 人はその性質として自己中心性、聖書で言う「肉」を持っています。
 私など相手のことを100%考えているつもりでもできないのです。どうしても自分のことを考えて欲しい自分がいます。
 そこで、相手の欲求充足を妨げずに自分の欲求充足を満たすために、意見の違いを交渉することを行いますが、どうしても人間的なので限界があります。

 この不完全さをぶち壊したのが十字架に付けられて死んだキリストです。正月早々死んだなんて、と言われそうですがそうなのです。しかし、これは神が願われた計画です。
 神ご自身が弱い弱い赤ちゃんの姿を取り、汚れたこの世の象徴である馬小屋で生まれ、冷たい石でできた飼い葉桶の中に寝かされる。
 この赤ちゃんがこの世に送られた目的は私たちの罪(神から的はずれという意味、自己中心性)、病い、死、悪を滅ぼし愛なる神に私たちを一人も漏らすことなく招くためです。
 罪、病い、死、悪を滅ぼすために神は喜んでその子を十字架に捧げられたのです。
 100%相手のことを考えることのできない私たちの不完全さを十字架に付けられて担ったのです。
 私たちの恨みつらみも憎しみも悪意も敵意も殺意も、そんなものぜ~んぶを担ったのです。
 真にキリストは私たちのごみ捨て場となったのです!

 アホか、と思いますが、真実です。
 そんなことなんかして欲しいと頼んでもいない、と言う人のためにも死んだのです。
 キリストを信じないでこの世を去った人、例えば私の実母や昨年死んだ叔母、そして弟の奥さんのお父さんのためにも死んだのです。
 神の愚かと言えるほどの愛です。真に無条件の愛です。

 この世にはまだ様々な罪が、病いが、病死が、事故死が、自死が、他殺が、戦死が、謀殺が、堕胎が、悪があります。
 何故あるのか私には分からない。でも私には神から託された働きがあることは分かります。それは祈りです。子なる神であるキリストへのさんびと感謝です。

 これが何になる?
 「肉」は叫びます。

 一言で言うなら全ての人の救いに繋がるということだと思っています。
 死で終わりではないと信じるからです。
 そのために全ての人の救いを願い執り成しの祈りをするのです。

 「肉」の目で見れば自分が、自分のいのちが一番であって欲しい。でも、その自分が、自己中の自分がキリストを信じた時にキリストと共に葬られたのです。
 しかし、それで終わりではない!
 3日目に復活したキリストと共に新しく生まれたのです!
 キリストと共に復活して、私たちに与えられた復活のキリストの目で見ればどのいのちも一番です!そう見える目が与えられています。その眼をもって祈ります。執り成します。

 私たちが何かできて価値がある、できないと価値がないということを超えて愛する愛があり、その愛を信じて(信仰も与えられたもの。全て与えられたもの。何も持たないことが軽くします。)、復活のキリストの目で一人一人の存在、いのちを大切にして今年も過ごしていきたいと思います。

 武術の要素の一つに他者否定的要素があります。相手を否定するのが武術の特徴です。相手を負かさなければ自分が負けます。殺されます。
 二つ目に相互媒介的要素があります。相手がいることで成り立ちます。相手がいなければ成り立ちません。一人相撲です。
 私はこれら要素がキリストの十字架によって相互調和的になることをずっと願って来ました。
 相互調和的になると「武術」は「武道」となっていくものと考えます。
 神の知恵をいただき良い武道、いのちを大切にする武道にしていきたいと願っています。

 重ねて今年もよろしくお願いいたします。
 祈りつつ。




     武頼庵
     橋爪章一







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 こんにちは。
 お元気でしょうか?

 あることがきっかけで山内文孝先輩の写真が掲載されているサイトを訪れたら、新しい写真がアップされていました!

 あることとは、ある方のFacebookに投稿された写真が、山内先輩が山に向かって写った写真と似ていたことです。
 そこで RITZさん(山内先輩の写真を掲載されている方)のサイトを見てみました。
 山の景色は違っていましたが、写真を最後までたどっていくと、新しい写真が掲載されていました。
 驚いたのは、新しい写真の最初のものでした!
 どこかの教会堂、おそらくカトリック教会の会堂の前で撮られたものが出てきました。
 新しい写真は3枚でしたが、記事によると、天草に行かれたときのものと分かりました。
 ならば、教会堂はカトリックのものである可能性が高いと思い調べてみるとやはりカトリックの会堂でした。
 崎津カトリック教会の前でした。

 う~ん?!

 これから先は私の勝手な想像です。
 山内先輩の魂の深いところでは神さまを、キリストを知っていたかもしれない。
 偶然というのはない。
 弟の連絡で山内先輩の死去を知り、その後芦原会館熊本支部長にそのことを確認、そして支部長を通じてお参り、祈り、という流れが全部つながった気がしました。そして、安心しました。それは、キリストをこの世では知らずに世を去っても、地上の私たちの祈りを通してキリストのもとに行き、新たないのちに生き、私たちのために祈っている、と思えるからでした。


 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。(ヨハネの黙示録5:13)


 誰一人キリストの愛の流れから漏れることはない。芦原先生然り、山内先輩然り、私の実母然り、全ての人々然り。
 人が作ったという意味での哲学、思想、学問、主義主張というキリスト教を通して申し上げるのではありません。
 キリストという生きた神に出会った者として、触れられた者として申し上げているだけです。
 他の方々の信仰心は尊敬しています。ご理解の程をお願いいたします。

 あぁ、良かった!、というのが実感でした。
 たまに、礼拝の時に来ておられるかもしれません。
 あるいは、しっかりやれよ、と励ましておられるかもしれません。
 ありがたいことです。
 
 
 ではまた。
 ごきげんよう。  

 RITZさんはこちらからどうぞ


    武頼庵

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