ストップ!売国教育
「ジェンダーフリー」は、米国では、認知されず、全面的に否定された、単なる、日本で捏造された造語に過ぎません。その先鋭的な左翼思想と国籍不明の教育方法に国民の多くが疑問を持ちはじめています。

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2006-05-10

恐るべしジェンダーフリー教育(小中高一貫思想教育)

テーマ:ジェンダーフリー教育の現場
About [小中高の一貫した思想教育]
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最初に、ジェンダーフリーの構成経緯とその弊害、そして、小学、中学、高校のジェンダーフリー教育の実例が書かれています。「家庭崩壊」へと導く一貫した思想教育が色濃く現われています。
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2002『正論』8月号


<ジェンダーフリーの甘い罠>


 貴方がこんなことを言われたとする。「女なんだから、もっとおしとやかにしなさい」「男なんだから泣くんじゃない」
 そこで貴方はこう思う。「なんで女だから、男だからって、世間が決めた枠にはめられなきゃいけないの。男とか女とか関係ないじゃん」

 すると、貴方の耳に甘く囁きかける者がいる。「君がそう思うのは正しいよ。男らしさ、女らしさというのは、みんな生まれつきにあるものじゃなくて、社会的文化的に作り出されたものなんだ。これをジェンダーといってね、ほとんどは女性に対する差別意識から生じてるんだよ。だから、そんなものに縛られる必要なんかないんだ。そういう規制や抑圧から解放されて、もっと人間らしく自由に生きるべきなんじゃないのかな。こういうのをジェンダーフリーといって、今急速に広まっている運動なんだよ」

 貴方はなるほどと思って、ジェンダーフリーを望ましいものと考えるかもしれない。

 しかし、ちょっと待ってほしい。うまい話には嘘があるという。不平、不満を持っているときが最もつけこまれやすいものだ。貴方に甘く囁きかけた者は、本当に貴方のためを思って言っているのだろうか。

 ここでは、ジェンダーフリーとはどんなものか、またジェンダーフリーという名の下にどんな教育が行われているかをまとめておく。現実に行われている奇々怪々な実態を知ることで、貴方のマインドコントロールはきっと解けるだろうからね。


<ジェンダー論は妄想の産物>


 ジェンダーとは生物学的に規定された性「sex」ではなく、社会的文化的に規定された性差「gender」を意味している。こうした「ジェンダー」の概念は、60年代から70年代にかけてアメリカで起きたウーマンリブ運動を発端としている。

 女性が男性に支配されているという「性支配」体系を構築したウーマンリブ運動は、その支配構造から女性を解放するために、社会的制度における同等な権利を得る運動を展開する。やがて、これが一定の成果をおさめると、今度は「男女」という枠組み自体に差別構造が内在しているという認識に至り、これを抹消しない限り真の解放はないと考えるようになる。ジェンダーとは、生物学的性の差異ではなく、人間が人為的に作り出した社会的文化的性差であり、支配者(男)が被支配者(女)を統治するための道具であるというのだ。こうして、「男女」という枠組み、すなわち「男・女らしさ」を撤廃しようとする動きが生じた。これがジェンダーフリーである。

 しかし、ここにはいくつもの誤謬がある。その最たるものが、ジェンダーのほとんどが社会的文化的に作られたものだという認識である。こうした考えはM・フーコーの『性の歴史』やJ・バトラーの『ジェンダートラブル』等による「性欲や性別は歴史的社会的に構築された観念的カテゴリーであるという」分析に拠っているが、最近の大脳生理学はこうした゛思い込み゛を見事に一蹴している。医学の専門書には、いわゆる「男・女らしさ」が大脳の構造的差異や男性ホルモン(アンドロゲン)の有無によって生じることが明確に書かれている。ジェンダー論者がいかに言質を弄してもこうした学問的事実によって、その論理は根底から覆されるのだ。

 もちろん、現在の「らしさ」には男女の生得的特質から派生したジェンダー(社会的文化的性差)があるのは確かである。しかし、これらは安定した社会を築くために醸成された文化、あるいは慣習というべきものであり、全否定すべき根拠はどこにもない。たしかに「女は~してはならない」とか「女のくせに」といった行動規制(因襲)や男尊女卑的な発想は排除されるべきだが、一般に言われる「らしさ」の大半は望ましいものである。「男らしさ」には゛我慢強さ゛や゛逞しさ゛゛責任感゛、「女らしさ」には゛優しさ゛や゛繊細さ゛゛母性的包容力゛等があることからも、それは明らかだろう。こうした「らしさ」を、「ジェンダー=悪しきもの」という一面的な見方によって否定すれば、望ましい徳目が消えていき、人間性の荒廃を招くのは必至であろう。

こうした批判に対しては次の反論がある。「らしさ」という枠が存在する限り、その枠に入り切らない個を阻害することであり、それは「差別」につながるというのだ。しかし、「らしさ」に入らない少数の個があるからといって、望ましい徳目を含むすべての「らしさ」を否定するというのは、少数による全体支配―――すなわちファシズムと同根の発想である。肝心なのは、「らしさ」を否定するのではなく、多様な価値観を許容することであろう。

 ジェンダー論者は抑圧からの解放を叫ぶが、「らしさ=内的規範」なき自由は放縦に過ぎず、放縦が蔓延すれば社会は容易に荒廃する。このように、ジェンダーフリーの背後には、モラルを低下させ社会を荒廃へと導く強烈な「毒」が隠されているのである。
 

<誰も支持しないジェンダーフリー>


 ジェンダーが生得的な男女差から派生したものであり、「らしさ」が全否定されるべきものではないとすれば、論拠として残されたのは「男女間の支配構造」のみとなる。「男が仕事、女は家事」といった役割分担は性差別であるというのがその典型だが、これは単なる主観にすぎない。専業主婦を「働けない」「育児を押し付けられている」と考えれば差別となるが、「働かなくてもいい」「育児という大切な役割を担っている」と考えれば優遇されていることになる。「差別」とは不利益を伴う概念であり、客観的な論拠がなく本人が不利益を認識していなければ、「差別」とはならないのだ。

 現在、多くの者はジェンダー論者のいうように、旧来の役割分担を「差別」だと思っているのか。これに関する興味深いデータがあるので紹介しよう。以下は、アメリカのチルトン研究サービスという組織がまとめた「フェミニズムによる男女の役割変化をどう思うか」という調査である。(対象は1997 年における無作為に選ばれた成人804人。http://www.gendercenter.org/survey.htm より)

・8割の男女がこの役割変化のせいで育児がより困難なものになっている

・7割の男女がこの役割変化のせいで結婚を成功させることがより困難なものになっている

・5割近くの男女がこの役割変化のせいで女性が満足のいくライフスタイルを持つことがより困難になっている。

・男女とも5割近くが小学生の場合、働く母親よりも専業主婦の母親に敬意を感じている。

・6歳以下の子どもを持つ専業主婦の5割強が世間から働く母親と同じ敬意を受けている、また3割近くが働く母親よりも敬意を受けていると感じている。

・男女とも7割近くが「母親は家庭にいて家事と育児に従事するほうがよい」という意見に強く、もしくは幾分同意している。

 いかがであろうか。驚くべきことに、フェミニズム先進国であるはずのアメリカで、旧来の役割分担を支持する割合が過半数を超しているのだ。女性も家事と育児をすることに対して不利益とは認めておらず、圧倒的に多くの者が「差別」ではないと考えているのがわかる。つまり、「男女の支配構造」というのは一部の見方にしかすぎないのである。

 アメリカ社会がこうした思想から急速に脱却しつつあるのは、その「毒」を現実のものとして認識したからであろう。ところが、日本においては男女参画社会という美名のもとにこうした危険性が巧みに隠蔽され、しかも行政主導によってジェンダーフリーが実践されているのであるから、その病理は深いといわねばならない。

 では、そのような思想は具体的にどのように実践されているのか。ここではその象徴的な例を紹介してみよう。妄想を積み重ねたような思想であるだけに、その実践例は頭を抱えてしまうような戯画性に満ちている。


<ジェンダーフリーのトンデモ実践例>


 男女共同参画法が施行されてより、ジェンダーフリーの洗礼は生まれたばかりの子供にまで及ぶようになった。すでに新聞報道されたので承知している向きも多いと思うが、文科省の出した子育て支援パンフレットには、「女の子に愛らしい名前を、男の子に強そうな名前をつけること」や「女の子のひな祭りや男の子の鯉のぼり」を否定するような内容となっていた。作成した日本女性学習財団は「子供の性格などを考えずに安易に男女『らしさ』を押しつけてはいけないという趣旨だった」というが、弁明にはなっていない。要は、自分たちの思想の前には、親の願いや日本の伝統文化など無視してもかまわないというのである。

 ジェンダー論者による文化破壊は、雛祭りや鯉のぼりにとどまらず、昔話や童話にまで及ぶ。例えば、桃太郎のように、おじいさん(男)が山へ柴刈りに(仕事)、おばあさん(女)が川へ洗濯(家事)といった昔話は「おかしなかたより」があるとされ、性別役割意識を小さい頃から刷り込んでしまうために、子供たちに読ませてはいけないという。自分たちの価値観に合わないものは否定してもよいという発想は、思想統制につながる全体主義そのものである。

 小学校に入れば、その刷りこみは組織的かつ巧妙になる。その象徴的な例が男女混合名簿である。「男子が先」は女子差別につながるというのだが、これほどナンセンスな話はない。「名簿の後半に位置づけるのは差別である」という前提に立つのなら、五十音順にしたところで五十音順で生徒を差別することになってしまう。男女というカテゴリーの序列に問題があるというのなら、年ごとに男女の順を入れかえればいいのだが、ジェンダー論者はあくまで混合名簿に固執する。それは「区別=差別」だという妄想を抱き、「区別=違いによってわけること」と「差別=扱いに差をつけること」の相違をまったく理解しようとしないからである。

 以下、学校における実践例について『ジェンダーフリー教育』『学校をジェンダーフリーに』(ともに明石書店)という本から引用する。(前者をA書、後者をB書と記す)

 B書によれば、ジェンダーフリー教育を行う理由として、現在の学校システムが「性差別を再生産する装置」であるからだとする。だが、その論拠としてアメリカの調査報告を挙げるだけで、日本の現状を分析したデータは記されていない。そのためか、根本的な教育制度や学習形態には言及せず、「隠れたカリキュラム」という言葉を使って、名簿、制服、呼称など瑣末なことを取り上げて「男性中心に作られた枠組み」を変革していこうとする。

 その一環として、男女の呼び方を統一しようという動きがある。男子を「くん」女子を「さん」と呼ぶのは「区別=差別」であるから、男女ともに「さん」づけで呼ぼうというのである。男女別の呼び方に差別性など全くないにもかかわらず、このような動きが急速に広がっているのは、ジェンダーフリーの内包する全体主義的な恐ろしさを示唆している。

 授業での実践も首をかしげるようなものが多い。ある小学校では一年生を対象として「家族について考えさせ」、「標準モデル以外の家族の子供たちに対して差別意識を生じさせない」ために、次のような授業が行われた。(A書より)

 まず、家族の絵を書かせて自分の家族を全員に紹介する。片親の子供にも、他の生徒から質問があれば、親が離婚した等の理由を説明させる。小学一年生には残酷なことだと思うが、この教師は「離婚は悪いことではない。結婚という形態が当たり前ではないことを伝える」意義があるのだという。そうして「大人になったら、おかあさんやおとうさんにならないで一人で暮らしたり、友達同士で暮らしたりしてもいいんだよ」と語りかけるのである。たしかに個々の生き方は自由だが、学校という場で、しかも小学一年生に伝えるべき内容であるとは思えない。これでは結婚制度の否定を刷りこんでいるようなものである。女子からは「おかあさんになって子供を産むのは痛いし、しんどいからいやや」という声が出たそうだが、この教師が子育ての大切さや喜びを伝えた様子はない。もちろん、小子化によって国の根底が崩れるであろうことは眼中にもないようだ。

 続いてB書より、かの国立市の小学校で行われた学芸会の様子を紹介しよう。

 この小学校では、「女の子が主人公の作品が極端に少なく、あっても女の登場人物は役割分業そのもの、美しいお姫様や優しいお母さんといった具合」なので、自分たちで自分たちで脚本を作ることにした。題して「アリーテ姫の冒険」。有名なフェミニズム童話である。「アリーテ姫はかしこくて勇気のある女の子、しかも乗馬うまく、いわゆる男らしい特技だけではなく、縫い物をし、絵を書きダンスをするのが好きという女の子らしい特技も備えている」というが、絵を書きダンスをするのが好きだという男はたくさんいる。この人達の方が勝手に性的な役割分担を決めているのが何ともおかしい。

 問題なのは事前の指導である。「授業では女はかしこくない方がいいかというショッキングなテーマを取り上げて四つの狙いを定めた。①『女はかしこくなんかない方がいい』という王様の言葉から女のあるべき姿と社会的偏見について考える。②難題を解決する冒険の過程の中で、力、武器を使わなかったことから何が本当の力かを考える。③お姫様が登場するほかの童話との違いに気づき、どちらのお姫様が生き生きとして魅力的かを感じ取らせる」というのだ。

① は絶句である。「女はバカな方がいい」と男は思っている。それをどう考えるかと小学生に聞いたわけである。男は女性を蔑視する存在であり、闘うべき相手であると教えたも同然である。しかし、実際に男はそんなことを思っていない。女性は優しく賢くあってほしいと願っているのが普通である。本気でそう思っているのなら、この教師たちこそ偏見に毒されているというべきだろう。

②は男の攻撃性を批判し、力に訴えない女性を賛美するつもりらしいが、ジェンダーフリーといいながら男女のカテゴリーに固執している矛盾に気づいていない。

③は論外。自分達の芝居こそ絶対的に素晴らしいものだと思わせるわけだから、まさに独善そのものである。
 さて、この学芸会がどうなったかというと、
「フィナーレに登場する銀色の馬の役は、はじめ男の子が希望していたが、練習中にその男の子がアテリーナ役の女の子に憧れ、つきしたがう蛇の役になり、かわって馬の役になったのは小柄な女の子だった。これまでの学芸会の歴史の中で、疾走する馬に乗って観客席から舞台に駈け上がったヒロインなどなかっただろう」
 何のことはない。女生徒が主役となって男子生徒を従えたことを喜んでいるだけで、常々批判している男性中心劇の逆をやったにすぎないのである。
 ちなみに、この国立市の教員組合女性部は、かつて5年国語の教科書(光村図書)に載っていた今江祥智の「どろんこまつり」を男女差別につながるという理由で削除させている。以下、B書より引用する。
「どろんこまつり」は「気弱で゛女っぽい゛男の子と、お転婆で゛男っぽい゛女の子が、最後にどちらも゛本来゛の゛男らしさ゛゛女らしさ゛に゛立ちもどる゛という物語である」ため、彼らは「性差別をあまりにも強く全面に出している作品で、このまま見過ごすことはできない」として光村図書に抗議し、「これからは女子が活躍する文学を取り上げる」等の確認を取りつける。その結果「次回の教科書には掲載されなかった」。
 これにより、「私たちは、教科書会社に質問や抗議をしていくことで、教科書を変えていくということができるということを実践的に学んだ」という。

 しかし、「らしさ」が性差別につながるというのは、この人達の勝手な思いこみであり、世間的な常識となっているわけでも、法的根拠があるわけでもない。にもかかわらず、自分たちの意向によって教科書を変えようとするのは、少数による言論統制にほかならない。

 ジェンダーフリー教育の対象は生徒だけではない。PTAの集会などでは外部講師による講演が全国で行われている。私の元に寄せられた情報から、ある小学校で行われたセミナーの様子を紹介する。

 講師は若い未婚の女性だった。一通り話が終わった後、保護者の一人が質問した。

「娘がいるのですが、母親としてはお嫁にも行って欲しいし、健康でチャンスがあるなら出産もしてもらいたいのですが、今のように男女平等って教えていくと、何で私たち女だけが産まなくちゃいけないのと言われそうで心配なんですけど。どうやって男女平等を教えながら子育ての大切さを教えたらいいですか?」

 これに対して講師は次のように答えたという。

「今の質問ですが、そういう考え方は子供を産めない女性に対して差別を生むことになります。ですから、産んだ方がいいといった考えを子供に押しつけるのは良くないと思います。私は子供を産んではいませんが、このような教育の現場で皆さんと一緒に子供を育てていると思いますし、専業主婦に比べて税金も多く払っていますから。それに今、世界では人口爆発が起こっていて将来、食料危機の心配もあるわけですから、日本人が子供を産まなくなっても大したことではないと言う人もいます」

 強引な差別認識、出産や育児への抵抗、専業主婦蔑視、少子化への密かな期待―――これらがジェンダー論者の本音のようである。


<家族と専業主婦への敵視>


 中学ともなると、その内容も多岐にわたるようになる。(以下、A書より)

ある中学の家庭科教師は、教科書に家族団欒の光景が載り、「家庭は共同生活を営む場で、家族が安心して毎日の生活を送り、明日への活動力をつくりだす場でもある」(開隆堂)とあることから、両親がそろっているのが当たり前で、そうでない家庭の子供に対する差別や偏見が生じると思い、様々な家庭があることを認識させるために、深江誠子という人の手記を読ませた。深江氏は「五歳で生母と死別し、その後母が三人も変わり、恩義を受けた三番目の母が社会から冷遇されていたのを知り、被差別の立場にある人に関心を持つようになり、自らの子供を差別社会と闘わせるためにあえて私生児した」人である(手記より)。手記に言う。「私は自分の生んだ子を私生児にすることに何のためらいもなかった。私は家庭が波瀾に満ちていたからこそ、既存の結婚制度の欺瞞性を見抜く力を養われた」と。

 深江氏がいかなる考えを持とうと自由だが、学校教育とは社会の仕組みや秩序を教えるのが基本であり、反社会的な考えを持ちこむのは禁物だろう。これでは既存の結婚制度や家族を否定しているようなものである。

 その他の実践も似たりよったりで、夫婦別姓を賛美したり、現行の結婚制度や戸籍制度を批判したりといったものが多い。その中でも突出しているのが、「三歳児神話を問う」という授業である。

 狙いは「子供は三歳までは大切な時期だから母親が育てるべきだという、いわゆる゛三歳児神話゛があるが、親の労働権を保証されるためには保育所が必要であるため、保育所の実態と意義を伝える」ことだという。授業では、保育園は何の問題もない良い所であると教えるのたが、この教師がそう思うに至った経緯がふるっている。

 この教師は以前に、自分の子供を保育所に預けていると生徒に言ったら、「子供がかわいそう」と言われ、「゛母親゛の感覚が甦り」「いますぐ子供を抱きしめたい衝動にかられた」そうである。しかし、五歳の子供に聞いたら、保育所が好きだと答えた。理由は、おもちゃや先生を独占できるからだという。たったこの一言だけで「子供への少しの負い目は完全にふっきれ」、「三歳児神話は家事を女に押し付け、福祉を安上がりにするための仕組みである」ことを見通してしまうのである。何という短絡さなのか。三歳児神話の是非を問うには、膨大なデータと学問的な検証が必要であろう。それを子供の一言だけで都合よく解釈してしまうのだから呆れるばかりである。

 この女教師の文章には、「社会的には女性の個人としての労働権が認められていない」「親が子どもを預けて自分のことをする権利がある」等、゛権利゛という言葉が頻出する。その反面、育児や家事は「女が経済的生活力を捨て、犠牲を払う」ことであるとして、母性による行為を否定する。女性として生まれ、子宝に恵まれながらも、働くことのみを優先する一面性には薄ら寒いものを感じてしまう。

 たしかに今は「男は仕事、女は家事」と固定化すべき時代ではない。産業構造が変り、労働の質が変化したことで、多くの女性が適正を生かして働くようになったのは当然のことである。しかし、だからといって、家事や育児、主婦という存在を蔑視するのは「偏狭」の謗りを免れないだろう


<なんでもかんでも女性差別>


 高校にもなると、様々な観点から女性差別が取り上げられる。次に紹介する「女子マネージャー撤廃論」はそのトンデモぶりにおいて突出している。書いたのは神奈川県の高校教師である。長いので要約する。

「高校生にとってモテるというのは重要なことである。モテたいがために本来あるべき自分の姿を不本意な形でねじまげてしまうことはよくあることだ。この文脈上に女子マネージャーがいる。彼女たちは、好きでやっているのだからいいじゃないかと言うが、そう思う背景が何であるのかを押さえるべきだし、゛好きでなくても゛やらなくてはならなくなる人が出ることに無自覚になってはいけない。

 家庭や学校で繰り返し繰り返し男と女は違うというメッセージを送られつづけ、その与えられた価値観によりモテることを選ぼうとするときに゛好きで゛マネージャーを選ぶ生徒が生み出される。

 つまり、女子マネージャーは強制ではないが、性差別社会において刷りこまれた意識によって゛選び取らされた結果゛として存在する。

 いったいどこに自らすすんで自分を中心部ではなく周辺部に置きたがる人がいるだろうか。本来ならば、選手として関わりたいと思うはずなのに、女子マネージャーが後を絶たないのは、男達の裏方に回ることがむしろ高く評価されることを彼女たちが知っているからである。

 自分がメインステージに立たず他者に夢を託すという彼女たちの姿は、夫や子供に夢をたくす゛妻゛や゛母゛の姿に見事に重なる。こうして、女たちは自らの糧を自らで得るという当たり前のことができなくなり、家庭に囲い込まれ、自分自身を生きることを辞めてしまうのである」

 いやはや何とも凄まじい。この女教師は女子マネージャーに「貴方たちはモテたいという下衆な動機でなったのだろう」と非難しているのだ。しかも、「自らすすんで自分を周辺部に置く」という゛献身゛の概念をまったく理解せず、専業主婦は「自分自身を生きることを辞めている」と一方的に断罪するのである。

 しかし、高校生がモテようとして何が悪いのか。「周辺部に身を起きたがること」を打算だと非難するが、この世はそうした人々の献身的な行為によって支えられていることを知らないのか。この教師の皮相かつ独善的な見方には気分が悪くなるほどである。

 国語の授業でもジェンダー思想が絡むと、呆れた実践となる。ある女教師は、教科書に女性作家が少ないことを確認させた上で「このように文字における女性の業績を無視した教科書は、長い性差別の歴史であることを確認してから授業に入る」という。この教師は、教科書編纂者が意図的に女性作家を排除していると思っているらしい。私の手元には日本推理作家協会の住所録があるが、女性作家が少ないのは女性差別の結果だというのか。

 授業では田嶋陽子著『もう「女」はやってられない』(講談社)の一部を読ませて恋愛について考えさせる。この本は「男性支配社会において女が男と対等でいられるのは<恋>までで、<愛>つまり結婚生活が始まると女は奴隷になる仕組みを説き、女が経済力を獲得すれば男女の力関係は変わり<愛>も変わると結んでいる」という。この教師は授業を通して「愛という名のもとに女と男が上下関係になってしまうのを語るのに急で」、「女と男はしょせん支配・被支配の関係にすぎないから、対等な恋愛など存在しない」というメッセージしか伝えられなかったと気にしていたが、生徒から「恋愛は別にしなくてもいいんだ」という感想があったことで「少しは自己発見に役だってくれた」と満足する。しかし、公教育の場で「恋愛は支配・被支配の関係だ」「主婦は奴隷だ」などと教えられる生徒こそ哀れである。このような授業がトラウマになって、正常な恋愛や結婚ができなくなるのではないかと心配してしまう。

 これまで述べたのは、どれも教師の自主教材による刷りこみだったが、来年度から使われる高校の国語教科書には、とうとうジェンダー思想そのものが登場することになった。『国語総合』(桐原書店)にはメンズリブの中心メンバーである伊藤公雄氏が書いた「ジェンダーの視点から」という評論が載っている。内容はご多分にもれず勝手な思いこみに満ちており、男女に生物学的性差がないことを説明する部分では、ニューギニアの原住民に男女の゛らしさ゛が逆転している部族がいることを挙げて、これによって「男らしさや女らしさは文化や社会によって作られたものであることが明らかになった」と断じている。あらゆる文明社会でジェンダーが存在していることを無視して、未開部族のわずかな例ですべてを説明してしまうのだから恐れ入る。「女性は生物学的に男性より体力が劣る」という常識には「オリンピックの女性と競争して勝てる男性はそれほどいない」と反論し、なぜ「男は仕事、女は家庭なのか」と批判する。極めつけは「セックスがジェンダーを規定しているのではなく、むしろジェンダーがセックスを規定している」という部分である。欄外の注釈には「生後のしつけや教育によって、生物学的な性が強化され、また、どちらの性で生きられるか決められることもある」と書いてある。つまり、「社会的要因によって女を男として、男を女として生きさせることもできる」という極論から、「生物学的な性は個を決定する要因ではなく、゛らしさ゛も文化的社会的に作り出されたものにすぎない」と断じるである。どれも例外から一般を導き出そうとする暴論である。しかも、最後の「学習の手引き」には「身の周りにある゛男らしさ゛゛女らしさ゛の例を挙げ、それについてジェンダーの視点から話しあってみよう」とある。

 いよいよ来年度からは国語の時間でもジェンダーフリー教育が行われるのである。


<ジェンダーフリーは女性を不幸にする>


 以上見てきたように、主観と偏見による奇矯でいびつな思想が、男女共同参画法という゛お墨つき゛を得て、学校や役所によって広められつつある。謳い文句は「性別によって差別されたり、人権が侵害されたりすることのない社会を作ろう」というのだが、現実はまったく逆になるだろう。なぜなら、「らしさ」とは社会をより安定させるために醸成されたものであり、そうであるがゆえに、「らしさ」が消失すれば必ずや悪しき影響が出るだろうからだ。

 仮に、ジェンダー論者の言うように、「らしさ」をすべて排除すればどうなるだろうか。女性においては優しさ、繊細さが失われていき、下品で粗野な行動が蔓延するだろう。母性の喪失は育児の意義や喜びを失わせ、子育ては面倒なものでしかないという意識から、放任や虐待が増えるだろう。子供の荒廃が家庭や学校の荒廃、ひいては社会の荒廃へとつながっていくのは自明である。また、子育てに積極的な意義を見出せない母親は、いかに保育所が完備し労働条件が整ったとしても、進んで子供を産むことはないだろう。少子化が国の根幹を揺るがすのは論を待つまでもない。

 また、ジェンダー論に従えば、゛献身゛を隷従だとして厭うようになるが、男女を問わず、他者に尽そうとしない者、他者のことを考えない者が幸福になれるはずはない。経済的に自立し、社会的な権利を得たとしても、誰からも大切にされず、感謝もされず、荒涼たる孤独の中で生きるしかないだろう。

 「男らしさ」の中には゛女性を守る゛という「逞しさ」や「優しさ」がある。いわゆる゛ダンディズム゛と呼ばれるものである。これらは男が本来攻撃的かつ本能的であるがゆえに、゛女性を守る゛ために作り出されたものだろう。まさに、ジェンダー論者の否定する社会的文化的性差そのものだが、こうした゛男らしさ゛を否定すれば、本能的な欲望が剥き出しになり、女性にとって不利な事態を招くのは目に見えている。セクハラやDV(夫婦間暴力)が増加しているというが、それらは゛男らしさ゛の喪失で説明できる。すなわち、女性を守ろうとする゛男らしさ゛(内的規範)が喪失したがゆえに、女性の人権が侵害されるのである。

 ジェンダーフリーは基本的に女性の権利拡大を目指すものだが、その結果はまったく逆になるだろうことを認識すべきである。


<聡明な貴方へ>


 これでジェンダーフリーの問題点はわかってもらえただろうか。難しい話は抜きにしても、この思想には明らかに問題がある。「らしさ」を否定していけば、「男らしくない男」と「女らしくない女」が大量発生することになるが、そんな事態を誰が望むだろうか。

 そもそも現実には、世の8割以上の人が「男・女らしく」したいと思っているのである。(『女性白書2000』より)にもかかわらず、「らしさ」を否定する思想を押しつけるのは、多数の人の「思想信条の自由」を侵害する行為であろう。ジェンダーフリーはその前提において、「らしさ」という抑圧からの解放を叫びながら、その思想によって多数を抑圧するという決定的な自己矛盾を内包しているのである。

 大切なのは「らしさ」を否定することではなく、互いの性差を認め、尊重した上で、多様な価値観を認めることであろう。もちろん、性別による行動規制や男尊女卑的な発想は問題だが、ジェンダーフリーで正しいのはこの一点だけである。それ以外には文化や社会を破壊する「毒」が隠されているから注意しなければならない。

 今もっとも大切なのは「ジェンダーフリーから自由(フリー)になること」なのである。

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from[http://homepage1.nifty.com/1010/jender.htm ]
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