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沖縄心理カウンセラー比嘉倫絵のla la smile


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みなさんおはようございます♪
沖縄の心理カウンセラーの比嘉倫絵です。


今、孤独感について綴る前に、
一人の女性の手記を書いていますが、
孤独感は想像以上に深い闇に包まれているんだなと、
私自身書きながらざわついてしまいますが、前回のつづきです。

 


「最後まで握りしめていたのは孤独感でしたVol.2」

 

私の「この人はこんな人だ」と決めつけて、そう思い込みたい気持ちは既に自分自身を抑えることもできなくなっていました。


「それを証明したら、たとえ失っても心構えができているはずだから、きっと私は傷つかないだろう。もう、傷つくことに恐れなくてもよくなるはず」と、こんな風に傷つくことを恐れる気持ちがある反面、「また、一人ぼっちになるんじゃないか?また、裏切られるんじゃないか?」という、失うことを恐れる気持ちも同時に持ち合わせていて、また、あの時の感覚を味わうことが、本当に怖くて仕方がありませんでした。


しかし「また次に同じことが起こった時、あの時と同じようになるだろうか?またあの時の恐怖を味わうだろうか?」という先生の質問に対し、ふと立ち止まって考えてみました。


すると「いいえ、多分あの時と同じではないと思う」という答えでした。


この怖いという感情は、裏切られた思った時に一瞬にして味わった恐怖であって、あの時の恐怖が苦しみと悲しみとしてここに残っているだけで、実際に同じことが起こったらと想定してみても「ほらね、やっぱり」とは出てくるけれど、もはや同じ怖さの感覚は起こらなくて、あの怖さはきっとないだろうということに気づいたのです。


であれば、この恐怖は過去の恐怖が記憶に残っているだけであって、今の恐怖ではない訳だから何も怖がることはないのに、「だったら私はいったい何をこんなに恐れているのだろうか?」と、そんな疑問がよぎりました。


もちろん、出逢った頃は相手を疑う気持ちもありませんでした。しかし、裏切られたと知った時、どうしてもその事実を受け入れることができず、さらに相手の開き直った態度や、話し合いにも応じてくれない相手の不誠実な態度が、悲しみを怒りと憎しみに変えていきます。


何度も相手の元へ行き話し合いを求めてもだんまりで、時には門前払いをされ、何の悪びれもなくしらばくれる相手に対して、認めさせたいという気持ちもありました。


怒りと憎しみは、駆け引きをしながら、苦しんでいる姿を見れば一瞬スッとはするけれど、またすぐに騙されているんじゃないかと?疑う気持ちが湧き起こるようになっており、逆に、苦しんでいるのが見えなかったり、何にもなかったかのように幸せそうにしている姿を見ると、「私はこんなに苦しいのに、なぜあなたは楽しんでいられるの?」と。怒りと憎しみは最高潮に達してイライラして仕方がありませんでした。


すっかり正気を失っていた私は、「あなたは私を裏切り、人の気持ちが分からず、私をこんなに苦しめる酷い人なんだよ」という、相手に罪悪感を持ってもらいたかったいだけだろうか?それともただ認めさせたかっただけだろうか?


そうとするなら、相手に罪悪感を持たせながら、辛い日常を繰り返しても繋がっていたいのはなぜだろう?


それとも「自分はダメな人間だ」と、相手に劣等感も持たせ、存在価値のない無価値な人間で在り続けてもらいたかっただけだろうか?


相手の不誠実な態度を見て、私は大切にされていないと感じ、悔しくて仕返しがしたかっただけだろうか?それともただ単に、失うのが恐いだけだろうか?


何時間も無駄な時間を費やしてまでも私は何が欲しかったんだろう?

いったい私はどうして欲しかったんだろうか?

 

何度この質問を自分に投げかけても出てくる答えは、「ごめんね」のひと言と誠実に向き合って欲しかった。と、たったこれだけでした。


しかし、何かが心に棘が刺さった感じでしっくりきません。


こんな日が続き、なかなか胸の痛みが取れなくて、再び先生のセラピーを受け、記憶を辿っていく中で、私は私の本心に気づき愕然としました。


それは、罪悪感や劣等感や無価値であって欲しいのは相手にであって、自分は持ち続けて生きたくないけれども、私の孤独感だけは手放したくない。というものでした。


同じパターンを繰り返していたのも、生きづらさを抱えていたのも、他の誰のせいでもなく、私の元々持っている孤独感だったんだと。


体は震え、羞恥心でいっぱいで「とても申し訳ないことをしてきた」と、涙がぽろぽろと流れてきます。


私がこれまで相手にしてきた事は、「ほらね、やっぱり」と思いたい気持ちや、「やっぱり私は一人ぼっちだ」と思いたい気持ちが、「自分は誰からも愛されない」ということを、ただ、証明したかっただけなのかもしれません。


そして、人を疑いながら生きないといけなかったのは、「私は孤独である」ということを証明したかったのかもしれません。


酷い扱いをされてきたのに、離れきれなかったのは私で、タタかれたり無視をされたりすれば、胸は痛み悲劇のヒロインになれたし、その時だけが、私の中の孤独感は泣き叫ぶ事ができたのです。


私の恐れは、人を失うのが恐かったのではなくて、孤独に浸らせてくれる存在を失いたくなかったのです。


私自身が孤独感を手放すことができず、相手には、私が傷つくような卑怯で非道な裏切る悪い人じゃないといけなかったし、相手には、罪悪感も劣等感も無価値観も持ってもらわないといけないのは、相手が悪者であることで、私は罪悪感を持たずに、悲劇のヒロインになれるし、周りの人達の私への同情は、最終的には相手を一人ぼっちにして究極の孤独という恐怖を味あわせ、孤独という恐怖を感じているのは私一人ではないと思いたかったのでしょう。


実際に、そんな相手だったからこそ引き合ったんでしょう。


今までも、同じような要素を持った人としかこの関係性は作れなくて、同じパターンを繰り返してきた訳がようやく分かった瞬間でした。


私は、どうしてこんなにも歪んでしまったのだろうか?
私は、いつからこんな風になってしまったのだろうか?


私の中の孤独感。思い返すと両親も揃っているのに小さな頃から寂しかった。


働きづめの母親の帰りを通りで待つ日も多く、時には待ちくたびれて、真っ暗な部屋に一人眠ってしまった時もありました。

 

母親が帰ってきても構ってもらうどころか、夕食の準備をして掃除と洗濯などをして忙しくしている母親に対し、私はわがままを言うことはありません。


小学校の頃、学校から帰ってくると家には誰もいなくて鍵も開いていなくて、雷が鳴って一人で恐くて仕方がなく近所に寄らせてもらうことがありました。母親が帰ってくると「よそに迷惑をかけたらいけない」と叱られ、あの頃から、どんなに恐くても助けを求めることもしなくなったような気がします。寂しさと恐怖に怯えながらも甘えることができなかった幼少期です。


私は孤独を抱えながらとても疲れています。私はこんなにも疲れきっているのに、それでも、孤独感を手放すことができなかったのは、他の誰のせいでもなく私自身だったのです。


お母さんへ「お母さん、私はもっとお母さんに甘えたかった。とても寂しかった。」

何度つぶやいてもとてもしっくりくる言葉です。(つづく)


子供の頃に母親に十分な甘えを許されなかった彼女は、
寂しさがいつの間にか孤独感となり、


「私は甘えたかったんだ。私は寂しかったんだ。」と気づくのですが、
彼女の母親も家計を支える為に仕事をして家事をしてきただけで、
まさか我が子がこんなにも寂しさを抱え傷ついてきたとは思いもしないことだろう。


しかし、子供は「え?こんなことで?」というくらいのちっちゃい事でも傷つくのです。
なぜなら子供はお母さんが大好きだからです。


人は心の傷があれば、そこに気づくまで永遠と同じパターンを繰り返していきます。
しかし、自分の幸せを望んでいる人は、そこに気づいた時、
羞恥心が湧き起こり、同じパターンを繰り返せなくなります。


心の傷がうずいている時はどうしても明るい方が見れませんが、
心の傷がうずきだした時が自分を見つめるチャンスなんですね♪


孤独という深い闇。。。恐るべし!


ではでは。

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