こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅 Coffee Break Essay のコーナーで、順次発表させてもらっています。そんなエッセイが200作を超えました。そこで、時系列に並んでいる作品の中からランダムにチョイスし、改めてここに転載することにしました。題して「Coffee Break 別邸」。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思います。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、加筆している作品もありますが、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

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 私は一九六〇年にえりも岬の隣、様似町(さまにちょう)で生まれている。幼いころから「狐に化かされる」とか、「狐に騙(だま)される」という話をよく聞いてきた。キツネに騙されて山に向かってどんどん入って行き、それこそ帰らぬ人になるというのだ。大人たちが大真面目にそんな話をし、キツネを恐れていた。

 大学一年の夏、えりもの漁師の家に泊まり込んで昆布干しのアルバイトをしたことがある。ある朝、漁師のカアちゃんに高校生の娘を起こしてきてくれと頼まれた。浜と自宅との間には、人の背丈を超えるドングイが鬱蒼(うっそう)と生い茂っており、自宅は山側にあった。

 勢いよく走りだす私を遠くで見ていたバアさんが、私がキツネに騙されて山に向かって走って行ったと勘違いした。私の姿が消えたと同時に、別の道から娘が姿を現したからだ。バアさんが血相を変えて私を呼び戻しに来た。

 一九七八年に公開された「キタキツネ物語」は、空前の大ヒット映画となった。この映画によって、キツネのイメージが払拭(ふっしょく)されたか、以降、キツネに騙されるという話をほとんど聞かなくなった。

 「狐につままれる」という言葉がある。意外なことが起こって何が何だかわからず、ポカンとすることである。これも「狐に騙される」に隣接する言葉だろう。

 三十代のころの話である。東京・杉並の明大前から、練馬の社宅に引っ越したことがあった。引っ越しは土曜日で、月曜日には会社で大きな会議があった。会議の後には会食があり、それが二次会に及んだ。

 駅から自宅までは歩いて十二、三分の距離である。酔いと引越しの疲れが混然一体となり、通い慣れた住宅街の道を、重い足取りでトボトボと歩いていた。ふと顔を上げると、遠くに見える自宅の窓に明かりが灯っていない。いつもならカーテン越しに明かりが漏れているのである。起き出した娘を妻が寝かせつけているのだろうか、と怪訝(けげん)に思いながらアパートの前に立って、愕然(がくぜん)とした。その場にへたり込んでしまった。暗い窓にカーテンがなかったのだ。つまり私は、二日前に引っ越した杉並のアパートの前に立っていた。

 会社から練馬の社宅に帰るには、それまでと同じ都営新宿線に乗るのだが、途中で丸ノ内線に乗り換えなければならない。それがいつもの調子で、乗り換えずにそのまま行ってしまったのだ。というか、電車に乗ったとたんに寝てしまい、目が覚めたら偶然にも明大前駅だった。慌てて下車し、ホッと安堵していたのだ。それどころか「どうだ、オレもたいしたもんだろう」と、ちゃんと目覚めたことに、少し得意な気分になっていた。

 携帯電話のない時代である。そこから一時間かけ、さらに重い足取りで帰ったのだった。「ずいぶん遅かったわね」という妻に、「キツネに騙された」と言ったら、キツネにつままれたような顔になっていた。神奈川生まれの妻には、意味が理解できなかったようだ。

 

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 サラブレッドの群れが、あちらこちらで草を食(は)んでいる。その中を一両編成のディーゼルカーが、のどかな響きを立てて走っていく。苫小牧発様似(さまに)行きのJR日高線は、山と海の間を縫いながら、ひたすら牧場を走る行程である。

 平成二十一年七月、私は特別な思いを胸に、ふるさと様似を訪れた。この町は、北海道の太平洋岸に面した小さな漁村で、一帯は、日高昆布とサラブレッドの一大生産地となっている。

 前年の八月、実家でひとり暮らす母が脳梗塞に倒れた。七十三歳だった。二ヵ月半の入院の後、札幌の妹のもとで加療生活を送っていたが、翌年三月、室内で転倒して大腿骨を骨折した。暖かくなったら実家に戻るつもりでいた母は、やむなくひとり暮らしを諦めた。ふるさとを離れて生活することは、母にとって初めてのことである。

 様似は、札幌から車で四時間の僻地である。東京からは、最短でも九時間かかる。当時、私は練馬にいた。いつまでも実家を空き家のままにしてはおけなかった。

「お前に全部まがせるから……すまないね」

 と母に言われていた私は、親類を通じてやっとの思いで実家の処分先を見つけた。母は脳梗塞で倒れて以来、一度も実家には帰っていなかった。札幌から往復八時間の道のりに、体力的な自信がなかったのだ。

「かあさん、持ってきて欲しいものないか」

「……いやー、もうなーんにもいらない」

 預金通帳や印鑑、父の位牌など大切なものは事前に妹が引き上げていた。が、母は着の身着のままで札幌へ搬送されたので、洋服など身の回り品は、一切実家に残したままだった。何もいらないはずはない。子供たちの手を煩わせたくない、そう思っているのだ。私はアルバムなど、最低限のものだけを確保し、あとは近所に住む伯父夫婦に処分を頼むつもりでいた。

 始発電車で練馬を出て、様似に到着したのは昼過ぎだった。様似で汽車を降りたのは、私を含め五人だけである。もう何年も前から無人駅となってしまったこの駅だが、思えば若い日々、進学、就職と、私の人生の節目を見守ってくれた駅であった。

 駅前に広がる空を眺めながら、大きく深呼吸をした。かすかな潮の香りが鼻腔をつく。帰って来た、という思いが胸に満ちた。同時に、切なさが胸を圧(お)した。

 実家で伯父夫婦と合流した。玄関を開けると、ひんやりとした空気が澱んでいた。位牌のない父の仏壇に手を合わせ、休む間もなく、アルバム探しを始める。押入れを開けると、もらい物のタオルや石鹸、食器類が、ぎっしりと詰まっている。ポケットティッシュは、大きなダンボール箱から溢れ出していた。昭和十年生まれの母は、何も捨てられない世代なのだ。その量は想像を超えていた。

 やっとの思いで押入れの奥から古いアルバムを見つけ出した。そのひとつ、真紅のベルベット地のアルバムをめくると、結婚式の写真が目に入った。若き日の父と母が、神妙な顔で神主のお祓いを受けている。結婚式は、母の実家である銭湯の二階で行われた。私が生れた場所でもある。

 傍(かたわ)らにいた母の兄である伯父に、

「おじさん、ほら、こんなのが出てきたよ」

 と指し示すと、「おお……」といいながら、懐かしげに見入っている。この伯父も母が倒れた三ヵ月後、脳梗塞で札幌に運ばれていた。

 アルバムには、私や妹の赤ん坊のころからの夥(おびただ)しい写真があった。それらの傍らで、若き日の父や母が笑っている。五十年も前の記憶が蘇り、ページをめくるたびにそのときの匂いや感触までが呼び起こされた。ここにもうひとつの家族があったのだ、と思った。すっかり時間が止まってしまった。

 だが、現実の時間は容赦なく過ぎていく。夕暮れに急き立てられ、荷物の整理もそこそこに、私は親類の家を訪ね歩いた。冷たい雨が降り出し、七月中旬というのにどこの家のストーブにも火が入っていた。

「ケンかい。いやー、よく来てくれたね」

 何年かぶりの突然の訪問にもかかわらず、みんな温かく迎え入れてくれた。翌日も可能な限りの人々を訪ね、その足で札幌へ向かった。ふるさとを懐かしむ時間は、残されていなかった。

「すまなかったね、大変だったでしょう」

 神妙な表情で母が頭を下げた。

「アルバムだけは、ちゃんと見つけてきたから。今度、美香がもってくるよ」

 仕事の都合で一緒に行けなかった妹が、翌週、私が探し出したものを回収してくることになっていた。私は二時間ほど母のもとで過ごし、その日の最終便で東京へ戻った。

 後日、妹が写真を持ち帰ると、母は古いアルバムを抱きかかえるようにして自室に消えた。扉の向こうから子供のような嗚咽が、しばらく続いていたという。その話を聞いたとき、「もう、なーんにもいらない」と言い放った母の言葉が胸に迫り、涙が溢れた。

 

 追記

 本作品は、「アポイ岳ファンクラブ会報」五十八号(平成二十一年十二月二十五日発行)への寄稿に際し、「ふるさとを処分する」に加筆したものである。さらに、『随筆春秋』四十六号(平成二十八年九月発行)掲載に際し、再加筆している。

 

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 振り返ってみると、東京の朝のラッシュは壮絶だった

 東京に住み慣れている者には、ごく普通の日常なのだが、地方から出てきたばかりの人にとっては、驚きと戸惑いの強烈な洗礼となる。改札から押し寄せてくる人の波、ざっと見渡せる人数は、数千人だろか。特急、通勤準急、通勤快速、各駅停車などが、一分にも満たない間隔で次々と到着し、吐き出された人々がドッと改札を出てくる。誰もが無言で、足早に出口へと急ぐ。または、次の乗り継ぎ電車の改札へと向かう。そんな人の流れに足がすくんで、身動きが取れなくなる。東京が嫌になる手始めは、この朝の通勤ラッシュから始まる。

 新宿、渋谷、池袋、上野、東京、品川などといった駅は、埼玉、茨城、千葉、神奈川方面から都心に向かってくる人が乗り込んでくる駅である。いずれもJR山手線上に並んでいる。通勤では、ほとんどの人がこれらの駅を通ってくる。

 東京の人口は一三〇〇万人だが、通勤可能な首都圏として捉えると、少なく見積もっても三五〇〇万人くらいに膨れ上がる。北海道で例えるなら、札幌圏と言ったらいいだろうか。札幌市と小樽市、苫小牧市がつながって境目がない状態で、旭川市や室蘭市からも人々が乗り込んでくる。そんなイメージが首都圏だ。毎朝、通勤・通学で三〇〇万人が近郊から都心を目指す。

 あまににも人が多く、駅のコンコースの床が見えない。前を歩く人の背中も見えない。人間の密度が高すぎて、肩と頭しか目に入らないのだ慣れてしまうと、半分寝ながら歩いても、次の改札を通過できるようになる。だが、不慣れな人にとっては、極度の緊張を強いられる。私も最初のころは、人の流れの中にうまく合流できなかったり、目の前を動く人が多すぎて、「人酔い」に悩まされた

 コンコースは、増水した川の濁流に似ている。人々によって大きな流れができているのだが、その流れに乗って歩かなければ、目的の方向に進むことはできない。流れを間違えれば、とんでもないところまで押し流されてしまう。本流から支流へ移るタイミングも難しい。ましてや流れに逆らって歩くことなど不可能だ。

 私が東京にいたころは、電車と地下鉄を三本乗り継ぎ、約一時間かけて通勤していた。だが、一時間は恵まれた方だった。一時間半の通勤は、ザラだった。当時、私は練馬に住んでいた。日本橋にある会社に向かう通勤経路は、西武池袋線、東京メトロの丸ノ内線と半蔵門線という都心を縦断する電車だった途中乗り継ぐ池袋駅と大手町駅は、巨大ターミナル駅である。池袋駅の一日の乗降客数は、二六〇万人を超える。これは新宿に次ぐ数で、つまり世界第二位ということらしい。

 池袋に乗り入れている路線は、西武池袋線、東武東上線、それに東京メトロの丸ノ内線、有楽町線、副都心線、さらにJPでは山手線、埼京線、湘南新宿ラインである。出口に向かう人と乗り継ぎの改札を目指す人で、コンコースは沸騰した鍋のようにごった返す。池袋には、駅の出口が五十ヵ所以上あるという。

 私は西武池袋線で池袋駅に出ていたが、この線が高架になって複々線化されるまでは、とりわけひどい混雑だった。電車が池袋に近づくにつれ、駅に着いても乗客の圧力でドアが開かない。ホームで待つ乗客は、それを手で開けて無理やり乗り込んでくる。乗り込む客も必死だが、その背中を押す駅員も汗だくでホームを走り回っていた。

 満員の車内では、肋骨が圧迫されたまま次の駅までいく。動かせるのは第一関節だけだ。いったん電車が走り出すと、次の駅までは指すら動かせない。立ったまま眠ることができるので、そういう意味では楽だった。電車が込み過ぎて、痴漢もほとんどいなかったただ、肋骨が圧迫されるほどのすし詰めなので、若い女性には気の毒だった。鉄道各社は、さかんに時差出勤を呼びかけているが、一時間早く家を出ても、混雑はまったく変わらなかった。

 下半身がモゾモゾするので、何事かと思ってみると、下から見上げる子供と目が合う。私立の学校へ通う小学生である。子供たちにとっても、これが当たり前の毎朝の通学なのだ。ある意味、逞しいことだが、これを普通と考えていると思うと、末恐ろしい子供たちである。将来のエリートは、こうして育まれ作り上げられていく。

 私が東京生活を始めた一九八三年のころは、まだ、地下鉄にエアコンがついていなかった。熱気を出すエアコンは、地下鉄では使用できないと言われていた。それゆえ、夏の暑さは筆舌に尽くしがたかった。当時はまだ、クールビズという概念もなかった。多くの人がネクタイを締めて通勤していた。日本人は真面目なのである。ノータイで出かけて、会社でネクタイを着用すればいいのだが、それが気持ち的に許されないのだ。誰のネクタイも、その結び目まで汗が染みていた。さすがに上着は、会社に置いていた。ノースリーブの女性が恨めしかった。

 汗で、ワイシャツが背中に貼りつく。その背中にこちらの背や胸がピタリとくっつく。これは極めて不快なことだった。女性の香水がワイシャツに移るくらいならまだいいが、口紅が肩などについてしまうこともあった。そんな夜、会合などがあって飲みに行ったりすると、自宅に帰ってからが大変だ。

「あら? これ……どういうこと?」

 ややこしいことが巻き起こる。

 座席に座っている人は安泰かというと、そうでもない。目の前に立っている人が自分の膝の上に崩れてきて、重なり合うのだ。電車がカーブを曲がるときなど、いっせいになだれ込んでくる。なにを大げさな、と言われそうだが、それが毎朝の光景だった。冬は着膨れして、超満員に拍車をかけた。電車に乗れない人が、大勢いた。

 そんな通勤なので、会社に着いたら、すでにヘトヘトになっている。しばらくは放心状の体で机に座っていた。だが、やがて、そういう通勤が当たり前になる。要領を得ると、さほど疲れも覚えなくなり、普通の朝になっていく。いつの間にか東京のハードルを、ひとつ乗り越えている。

 

   平成二十九年二月

 

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 公衆電話を利用しなくなって、どれくらいになるだろう。かつては外出先からどこかへ電話する際には、公衆電話が不可欠だった。誰もがテレカ(テレホン・カード)を持っていた。ポケベル(ポケット・ベル)で呼び出され、慌てて電話ボックスに飛び込む姿を目にしたものだ。今は、スマホの時代である。ガラケーすら、あまり目にしなくなった。

 公衆電話の受話器を握りしめ、ふるさとの両親に電話したこともあった。好きな彼女に、愛を告白したことも。受話器を持つ手が汗ばみ、何度も受話器を持ち替えた。彼との行き違いで、受話器を握りしめたまま涙した日も。公衆電話にはそんな想い出がしみ込んでいる。昭和の想い出といってもいいだろう。

 この日の札幌の朝の気温は、-14度だった。電話ボックスに咲く氷の華を見ながら、ふとそんなことを思っていた。

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 私の生まれ故郷は、北海道の小さな漁村様似(さまに)町である。学生時代から北海道を離れたのだが、うち二十八年を東京で過ごした。そして平成二十三年三月から、ふたたび北海道での生活を始めている。

 東京の生活の中で、妻が重篤な精神疾患を得、九年間北海道に足を踏み入れていない期間があった。その後、妻とは離婚する。長期間北海道に接していなかったため、寒冷地仕様の免疫力が、私の中から跡形もなく消失してしまった。もともとの〝寒がり〟とも相まって、寒さと風土の違いに混乱をきたすことになる。さらに、五十歳を過ぎた年齢が、環境への順応を強く阻(はば)んだ。

 六月が過ぎ、いよいよ七月になっても肌寒い。とりわけ朝夕は、何かを羽織っていなければ、鳥肌が立つ。十五度前後の気温の日々が続く。暑い日でも、日中の気温は二十五度程度だ。これが札幌の七月である。最初の二年間を室蘭で過ごしたのだが、室蘭はそれよりさらに四、五度低かった。釧路は室蘭よりさらに二、三度低い。これが北海道のスタンダードだ。

 東京からいきなり室蘭で生活を始め、覚悟はしていたが、戸惑った。いつまでたっても暑くならない。このままだと、夏が来ないうちに、またあの冬が来る。そんな危惧が強迫観念のように迫ってきた。

「ノリちゃん、いつになったら夏になるんだろう……」

 恐る恐る会社の同僚に向けると、

「なに言ってんですか、コンドーさん。夏じゃないですか、今」

 困った人だという顔で苦笑い。傍らにいたマルちゃんが、

「八月一日から十五日までが、真夏ですよ。それでおしまい!」

 王手をかけたようなドヤ顔で、将棋の駒をピシャリと置いた。

 確かにそのとおりで、八月になると三十度に近い日が増えた。二十八度の気温に、みな暑い暑いと汗を流している。だが、湿度がないため、ケタ違いに過ごしやすい。東京の夏とは比較にならないのだ。でも、ひとり涼しい顔をしているわけにもいかず、

「やっぱり、夏は暑いね」

 と心にもないことを言っていた。自宅では一度も扇風機を使わなかった。というか、扇風機を持っていなかった。家電量販店が配っていた団扇だけで夏を過ごした。団扇を使うのは、風呂上がりの火照った体を冷ますときだけだった。それは今も変わらない。

 八月も十五日を過ぎると、空気がガラリと入れ替わる。明らかに秋風が吹き、いつの間にかススキの穂が銀色に光っている。室蘭で過ごした二年間と、その後の札幌での生活の中で、北海道の夏がそういうものだと、改めて教えられた。北国の夏は、セミの命ほどに短い。

 一昨年(平成二十七年)八月のブログに、次のように記していた。

 

 八月十八日。今日は、寒い。完全に夏が終わった。現在、午後十時。気温は、一六・六度。冷たい雨も降っている。

 こうなるとシャワーじゃダメだ。温かい風呂に入リたくなり、蛇口をひねる。わが家の風呂は、湯船のお湯が適量になるとアラームが鳴る。

 そのアラームがなかなか鳴らない。しばらく時間が経って、そんなことに気づく。心配になって風呂場を覗きにいくと、湯船が空っぽだった。濛々(もうもう)と湯煙を揚げながら、お湯だけがジャージャーと流れ落ちていた。ウマの小便のような勢いで。栓をするのを忘れていたのだ。夏が終わった。

 

 東京。

 七月に入ると、すでに梅雨明けを心待ちにしている自分がいる。容赦ない陽射しに晒(さら)される日々が始まるが、降り続く雨と鉛色の空を眺める毎日に、もうウンザリなのだ。

 梅雨も末期になると、分厚い雲の下で蒸し焼きにされて暮らす。タールのようにネットリと肌にまとわりついてくる暑さ。汗で身体がナメクジのように滑(ぬめ)っている。それが四六時中続く。不快感は、すでに限界点だ。家中のあらゆるものが湿り気を帯び、古い壁紙は波を打ち始める。カビ菌の繁茂を必要以上に恐れるのだが、それでも気を抜いたところで、カビがしっかりと増殖している。

「ねえ、どうして手、放しちゃうの」

「だってさ、汗、気持ち悪くね?」

 手をつないでいた若い二人が、通りすがりにそんな会話を残していく。

 

 待望の梅雨明け。圧倒的な太陽が顔を出す。エアコン室外機の熱風と地を這う熱気が、渾然一体となってアスファルトを融かす。「猛暑」とか「酷暑」という言葉では言い尽くせない。すべてを焼き尽くす、それはまさに「炎暑」だ。連日三十五度を超す日々が、これでもかと続く。「暑い」と言っても暑さが紛れるわけではないが、つい口をついて出る。

 夜の闇の中、遠くで赤ん坊の泣く声が聞こえる。日付が変わっても、二十八度の熱気が漂っている。風がそよとも動かない。日中の三十七度は、何とかやり過ごせるが、夜中の二十八度は耐え難い。エアコンのタイマーが切れるたびに目が覚め、睡眠がズタズタに斬り裂かれていく。輾転反側(てんてんはんそく)、白む窓を恨めしく眺める。それでも梅雨の末期よりはマシだと思いながら。

 そんな中でも、若者は恋をする。セミにも負けないような熱狂を求め、海へと繰り出す。飲んで騒いで抱き合って、夏の勢いは止められない。かすかな風の揺らぎに、秋の気配を覚える。秋風は、日常への復帰を促し、〝遠い夏の日の記憶〟として封印されていく。夏とは、そういうものじゃないのか。そんな固定観念から、なかなか抜けきれずにいる。

 

  平成二十九年一月

 

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 2016年 第3回こんけんどう写真大賞が決まりました。大賞受賞作は、「オロロンライン 稚内への道」です。

 

[受賞理由]

 見渡す限り木が生えていない。日本海(左)から吹きつける風のせいだ。ゆえに雪も積もらない。もちろん人も住めないから家もない。だからコンビニもないし、電柱もない。信号なんて必要ない。制限速度? 好きな速さで走ればいい。ただ、あまりスピードを出し過ぎると、空に舞い上がるぞ。

 走れども走れども凍てついた道が続く。でも、道は真っ直ぐに北へと延びる。その先にあるものに向かって。この道の先にあるものを信じて、ただひたすら走る。この写真を見ていると、いろんなことが浮かんでくる。

 池田綾子作詞・作曲「明日への手紙」の冒頭の歌詞、

「元気でいますか。/大事な人は できましたか。/いつか夢は かないますか。/この道の先で……」につながる。

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 祖母(母方)の家系は熊本藩士だった。元禄十五年に吉良(きら)邸に討ち入った四十七士の一人、堀部弥兵衛(やへえ)の介錯を行った者がいた。そして、曾祖父が屯田兵として渡道して来た。わかっていたのは、それだけだった。

 後に東京の赤穂義士研究家佐藤誠氏と熊本の史家眞藤國雄氏との知遇を得た。それが祖母の家系、米良家を調べるきっかけになった。八年にわたる調査で、現当主の曾孫を含めた十七代四百年にわたる事跡が浮かび上がってきた。

 曾祖父の兄亀雄が、明治九年の神風連(しんぷうれん)の乱(熊本)で自刃していることが判明。廃藩置県により失職した士族は、その後の断髪令や廃刀令により、その存在意義を失った。退路を断たれた彼らの憤激は、武士としての死に場所を求める方向に走った。

 当時、新政府軍の軍営が熊本城に置かれていた。二三〇〇人の敵に対し、二〇〇人足らずで斬り込んだのである。難攻不落と称された、かつての勤務先への襲撃だった。翌年の西南戦争では、曾祖父の叔父左七郎も銃弾に倒れている。

 反乱軍である彼らとその家族は、逆賊の汚名を被り、菩提寺への埋葬すら許されなかった。曾祖父が自らの出自を語らなかった一端を、垣間見た思いがした。

 この詳細をネットで発表していたところ、平成二十年、熊本の自衛官(当時)髙久直広氏により、米良家の墓が発見された。曾祖父の父母兄弟や祖父母、叔父の五墓碑である。

 実はこの米良家の墓、熊本の史家荒木精之氏により一度見出されている。荒木氏が昭和十六年より神風連の乱に加わった者の墓を捜し歩いていた。米良亀雄の墓を探し当てたときの感慨を二首の歌に託している。

 

「藪(やぶ)をわけさがせし墓のきり石に御名はありけりあはれ切石」

 

「まゐるものありやなしやは知らねども藪中の墓見つつかなしえ」

 

 荒木氏の著作の中に見出した歌である。その後、米良家の墓は再び時間の中に埋もれてしまった。

 平成二十二年、私は佐藤氏とともに満を持して熊本を訪ねた。存命である祖母の弟妹から、米良家の永代供養を託されていた。曾祖父が、明治二十二年に墳墓の地を離れ、一二〇年の歳月が流れていた。

 発見された米良家の五墓碑のうち、一基は完全に破壊されていた。眞藤氏の調査により、明治二十二年の大地震で、斜面上部からの石の直撃を受けたものと推測された。別の一基には、大石が接して止まっており、周りにはほかにも大きな石が見受けられた。地震は、曾祖父が北海道に上陸した一週間後に発生している。

 さらに亀雄を含めた二墓碑の礎石底部に、比較的新しい修復痕があった。誰かが倒れていた墓碑を立て直し、修復してくれた跡である。

 この四月、再び熊本が大地震に襲われた。修復痕のあった二墓碑が、また倒れていることがわかった。周囲の状況が完全に落ち着いたら、立て直してもらわねばと思っている。

    平成二十八年十一月

 

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 たばこを吸う行為が病気と言われるようになって、どれくらいになるだろうか。喫煙=病気という構図は、ある意味衝撃的だった。病名を「ニコチン依存症」という。ウイキペディア(インターネット百科事典)では「……タバコ商品の常習的な喫煙を継続した結果、薬物依存症と習慣依存と認知の歪みによって、自らの意思で禁煙をすることが困難になった精神疾患を指す」と容赦がない。精神病者だというのだ。

 むかしは、父親が居間でたばこを吸うのは、当たり前の光景だった。大人になったら、だれもがたばこを吸い、酒を飲む、そういうものだと思っていた。

 学生時代、肉体労働系のアルバイトを何度か経験したが、休憩時間になると、

「おーい、たばこにするどー」

 という声がかかった。そういう人たちも含め、全員が精神病者だったのか……。

 地下鉄のホームで電車を待っている間もたばこを吸い、線路には投げ捨てられたおびただしい数の吸い殻が散乱していた。もちろん柱には灰皿が括り付けられていた。気の利いた駅には、消火用の水の入ったペットボトルまで置いてあった。あの密閉された飛行機の中でも、禁煙サイン(離着陸時だけ禁煙ランプがついていた)が消えたとたん、あちらこちらでいくつもの煙が立ち上った。新幹線にも喫煙車輌があった。今では到底考えられない。若い世代に話しても、「このオヤジ、何を大袈裟なことを言ってやがる」と取り合ってくれないだろう。

 たばこのない状態がすっかり常態化し、逆にたばこのある状況が不自然になった。かつての「常識」が化学変化でも起こしたかのように「非常識」に変わったのだ。まさにコペルニクス的転向である。今、男性の喫煙率は、三割を下回っている。

 吸わないのに吸わされている「受動喫煙」という考えが嫌煙権に勢いを与え、禁煙運動を一気に加速させた。たばこと病気の因果関係が明確になってきたことが、人々の禁煙意識を一足飛びに高めた。もちろん、先を走っていた欧米諸国の影響は大きい。

 「慢性閉塞性肺疾患」、「がん」、「虚血性心疾患(狭心症と心筋梗塞)」を、喫煙関連三大疾患という。「慢性閉塞性肺疾患」とは、気管支炎を起こし、痰・咳が出やすくなることや、気管支が細くなり、息切れを感じる症状である。喫煙者の二〇パーセントがこの病気を発症しているという。ほかにうつ病の発症率が高まったり、歯周病にも一役買っている。また、スモーカーズ・フェイスといって、いわゆる「老け」の要因も喫煙によるものとされている。要は、何でもかんでも「たばこが悪い」のだ。かくして「愛煙家の皆様」は、「ニコチン依存症患者の皆様」と天地が逆転した。

 

 平成二十三年の春、東京から北海道に転居し、驚いたことの一つが喫煙者の多さだった。東京では喫煙場所を探すのに一苦労するのだが、北海道ではどこでもたばこが吸えた。これじゃ、たばこを止めるきっかけがつかめないだろう、と思った。ただ、これは北海道に限ったことではなく、大都市圏以外の地域では、どこも同じなのだろう。

 私がたばこを吸い出したのは、大学生になってからである。中学生になると、興味本位で隠れてたばこを吸う輩が出てくる。高校生になるとそれが加速する。そのころの私は、たばこにはまったく興味がなかった。

 初めてたばこを吸ったのは、十九歳、一浪時代の受験の最中だった。京都のとある大学を現地受験し、結果発表を見に行ったら、落ちていた。滑り止めの学校だった。翌日には本命の試験が控えていた。強い失意を抱きながら、トボトボと薄暗い街道を歩いていた。途中で見つけた喫茶店に入り、コーヒーと一緒にたばこを注文した。吸ったのは、キャスターだった。立て続けに二本ばかり吸って、あとは丸めてゴミ箱に捨てた。

 本格的にたばこを吸いだしたのは、大学入学後である。大学の持つ自由な雰囲気に圧倒され、一気に大人になった気分がそうさせた。酒を覚えたのも同時期である。

 四十歳からエッセイを書きだしたのだが、文章を書くのに、たばこは切っても切れないものとなっていた。ちょっと行き詰ったとき、一服することで打開できることが多々あった。たばこがなければ文章が書けない、そんなふうにさえ思っていた。かといって、ヘビースモーカーだったわけではない。私は元来胃腸が弱く、ニコチン〇・一ミリのたばこを一日十五本ほど吸う程度だった。禁煙気運の広がりを感じつつも、止める気などさらさらなかった。

「たばこ? 止めるのなんか簡単だよ。オレなんかこれまでに二百回も禁煙してきたんだから」

 こんな調子で、周りを煙に巻いていた。

 妻もたばこを吸っていた。私と似たり寄ったりの本数だった。それが、精神疾患を得てから、一日に三箱も吸うようになった。チェーンスモーカーに変貌したのである。燻製(くんせい)になるのではと心配になるほど、たばこへの依存を深めていた。

 どこの病院も敷地内から喫煙場が撤去されていたが、妻が入退院を繰り返していた大学病院の精神科病棟だけは、喫煙所があった。患者の多くがヘビースモーカーなのだ。イライラが募って攻撃的になる状況を、ニコチンの鎮静力で緩和する。病気の性質上、喫煙を容認せざるを得なかったのだろう。

 結局、妻は十二年半の闘病生活の後、同じく入退院を繰り返していた病気仲間の男性のもとに走った。私が五十歳、妻が四十一歳だった。私は妻との離婚を機に、人生を変えたいと強く願った。妻の知らない私になりたい、と。それが禁煙の動機だった。

 禁煙パッチなどの禁煙ツールを使わず、いきなり禁煙外来に頼った。ニコチンの離脱症状に打ち勝つ自信がなかったのだ。周囲の失敗事例をいくつも聞いていた。

 禁煙外来が功を奏し、二カ月の投薬治療で三十年の喫煙生活に終止符を打った。文章を書いているときも、食後も酒の席でも、たばこを吸いたいという気が起こらない。依存症状を克服でき、本当によかったと心から思う。

 喫煙していたころ、食後の一服は不可欠だった。また、長旅の電車を降りた後や空港の到着ロビーで、まず行っていたのは、喫煙場所を探すことだった。そんな労力が不要になった。こんな楽なことはない。

 狭い喫煙所でたばこをふかしている人達を見ると、気の毒だなと思う。ニコチン依存症患者が、喫煙によってニコチンの離脱症状を一時的に緩和している、そんなふうに映るのだ。かわいそうな人々だ、と。

 今、喫煙している人達も、遅かれ早かれ病気に罹患し入院する。そうなれば、必然的に禁煙を迫られる。心臓にペースメーカーを埋める手術のため入院していた私の叔父は、カレンダーを丸めて病室の窓からたばこを吸っていた。そんなけなげな努力も、すぐに看護師にバレ、こっぴどく怒られていた。

 喫煙しているだけで精神病者だと言われ、その喫煙行為により新たな病気のリスクが増大する。もはや喫煙者に勝ち目はない。「あいつ、まだたばこ、吸ってる。バカじゃねえ?」「やっぱ、ビョーキだな」そんな冷ややかな目にさらされている。喫煙者の肩身は、狭くなる一方だ。

 たばこは、税率負担額が六割を超える商品である。年間二兆円を超える貴重な税収財源だという。たばこ税は、国税部分もあるが、地方税としての貢献度が高い。

「オレは、高額納税者だ」

 と豪語する喫煙者をしばしば目にする。だが、しょせん負け犬の遠吠えにすぎない。それは本人が一番感じていることだろう。

 どうせなら、たばこひと箱を千円程度に引き上げてやるべきだ。それが、たばこを止める大義にもなろう。喫煙者にだってプライドはある。そんな花道を作ってあげることも必要だ。

 それでも吸いたければ、好きにさせておけばいい。いずれ、強制終了の日が来るのだから。何とも気の毒な人々である。

 

   平成二十八年十月

 

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 今日(10/1)、TBSの「王様のブランチ」を見ていたら、最新文芸書ランキングTOP10の発表をしていた。佐藤愛子先生のエッセイ『九十歳。何がめでたい』(小学館 2016.8.6)が、第2位だった。
 このエッセイを読み終え、どうしてこういうのが評価されないのだろうか。読書離れとはそういうことなのか、とひどく嘆息したのを覚えている。
 今日のTVで、そんな思いが一気に払拭された。なんだか報われる思いがした。

 

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 『2011年版ベスト・エッセイ集』(文藝春秋刊)に収録されている拙作「風船の女の子」が、国語の試験問題になりました。この9/11に実施された日能研の全国公開模試で、中学受験を目指す小6向けの試験です。

 嬉しいことに拙作の全文が使われていました。400字詰原稿用紙8枚の作品です。それを1万人弱の小6の受験生が読んでくれたと思うと、これはもう大感激です。嬉しいことです。

 日能研の難問は、東京の人のよく知るところ。電車の広告に算数などの問題が出ており、それを通勤の途中で毎日のように目にしているからです。私の問題用紙の左上に「難関」と書かれてあります。難関校用の試験なのでしょう。

 問4はひっかけ問題。問5と問6は、この字数制限内では、本人の私でさえ、容易に答えることは出来ません。いわんや小学生をや、です。この問題を小学生が解けるのでしょうか。驚いちゃう。

 

 なお、「風船の女の子」は、2014年4月22日のブログにアップしています。

http://ameblo.jp/j7917400/entry-11829667935.html

 

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