こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅 Coffee Break Essay のコーナーで、順次発表させてもらっています。そんなエッセイが200作を超えました。そこで、時系列に並んでいる作品の中からランダムにチョイスし、改めてここに転載することにしました。題して「Coffee Break 別邸」。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思います。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、加筆している作品もありますが、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

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 十月十日といえば、一九六四年の東京オリンピックの開会式の日である。それゆえにこの日が「体育の日」となっていた(ハッピーマンデー制度により、現在では十月の第二週の月曜日が「体育の日」に変わっている)。友達の中には十月十日に結婚した者もいる。祝日で覚えやすく、なにより気候がいい。他人の結婚記念日ながら、忘れ得ぬものとしていまだ記憶にある。だが、この十月十日、いいことばかりでもないらしい。十月十日生まれの人には、ある特別な悩みがあるという。

 それは、両親が元旦に〈姫始め〉をした証、という何とも恥ずかしい思いがあるという。周りからもそう思われるし、自分でもそう勘違いしている人が大勢いるというのだ。

 日本では、むかしから妊娠期間を「十月十日(とつきとおか)」と表現していた。妊娠してから十ヵ月と十日で赤ん坊が生まれる、と。今では「妊娠×週」という「妊娠週数」を使用しており、四十週目で出産を迎える。だが、月数で表現したほうがわかりやすく、「妊娠○ヵ月」という表現も大いに幅を利かせている。「妊娠三十一週」だとピンとこないが、「妊娠八ヵ月」となれば、「あと二ヵ月か……」と即座に反応できる。

 しかし、この十月十日生まれの恥ずかしい思いには、二つの大きな誤りがある。ひとつは、秘め事をした日=妊娠初日と捉えているところである。愛し合った後、受精するまでにはタイムラグがある。妊娠は、精子と卵子が受精して始めて開始される。精子の寿命は二、三日から長くて一週間。その間に女性の側で排卵があり、受精しなくてはならない。排卵後の卵子の寿命はわずかに六~八時間だという。だから、絶妙なタイミングで排卵が始まっていなければ、元旦での妊娠はありえない。

 二つ目の大きな間違いは、妊娠月数の数え方である。産科では、四週=二十八日を「一ヵ月」とカウントする。暦日の三十日や三十一日ではない。もし元旦に受精したのであれば、出産予定日は九月二十四日(閏年だと二十三日)となる。つまり、元旦から数えて十月十日(とつきとおか)目は九月二十四日であって、十月十日ではない。

 この妊娠月数の数え方も日本独特なもので、「数え月」でカウントする。つまり、「妊娠×ヵ月」と表現する場合、ゼロからではなく一から始める。そうなると、「妊娠三ヵ月」の場合、愛し合ってから一ヵ月半に満たないうちにその時期に入ることになる。以前からずっと疑問に思っていたのは、TVドラマなどで、

「今日、お医者さんに行ったら……妊娠三ヵ月だって……どうしよう」

 という場面に出くわすときである。三ヵ月も生理がなかったんだから、もっと早く気付くだろう、不自然じゃないか、とずっと思っていた。その誤解が、今回いっぺんに氷解した。

 順調に生理がある人の月経周期、つまり生理が始まってから次の生理が始まるまでの期間の平均値は、二十八日間だという。つまり、妊娠期間は、ちょうど十周期分に相当する。妊娠十ヵ月の満了時が、分娩予定日となるわけだ。うまいこと出来ている。

 妊娠第一日目は、最終月経が始まった初日である。「妊娠〇(ゼロ)日」という。二人が愛し合った日ではない。だから、妊娠週数は、最終月経が始まった日から一週間までを「妊娠〇週」とカウントする。次が「妊娠一週」、その次が「妊娠二週」となる。つまり、妊娠のカウントは、妊娠した日=受精日から数えるのではなく、妊娠前から数えることになる。そして、四十週〇日が出産予定日となる。最終生理日から出産までは二八〇日で、それを妊娠期間といい、二八〇日目が出産予定日となる。生理初日から排卵まで十四日かかるので、受精後では二六六で出産することになる。

 なんだかわかったようでわからない、七面倒くさい仕組みである。一ヵ月を二十八日と数えるなら、十月十日(とつきとおか)だと二八〇日+一〇日=二九〇日となり、二八〇日とは十日の違いが出てくる。これらは、旧暦から新暦への移行や「数え」から「満」へのカウントの変更、最終生理初日からの計算など、時代を経ながらの変化の過程で生じた誤差なのだろう。私はそう勝手に推測している。

 なぜここまでくどくどと説明してきたかというと、私自身が「できちゃった婚」だと勘違いしていたせいである。両親の結婚式が昭和三十四年四月十日で、私の誕生日が翌一月十五日である。九ヵ月で生まれている。今上陛下のご成婚と同じ日に両親が結婚していて、皇太子殿下の誕生日が二月二十三日である。皇太子殿下がハネムーンベイビーだと勘違いしていた。誤解はそこから始まった。

 この春(平成二十八年)、私は五十六歳にして初めて自分の母子手帳を目にした。早産と聞いていた私の誕生だったが、母子手帳の「出産予定日」欄には「昭和三十五年一月」とあり、「在胎月数十ヵ月」と記されていた。もうこれは、どう見ても「できちゃった婚」に間違いないと確信した。

 そんなことをエッセイにしていたら、ある方から、産科では月数のカウントの仕方が違うということを教わった。それで、いろいろと調べてみたわけである。その結果、私は婚姻後に予定どおりに生まれていたことが判明した。

 つまり私は、両親の名誉を著しく毀損(きそん)してしまったのである。私自身の子が「できちゃった婚」だったので、両親まで疑ったのだ。私の無知がもたらした冤罪(えんざい)である。疑ったことを素直に詫びなければならない。母には口に出して問い質してはいないので、心の中でひっそりと詫びた。

 ちなみに、両親の結婚式の翌日から私の出産日までを数えてみると、ちょうど二八〇日なのである。それをどう考えるかだが、もうこれ以上の憶測はやめておこう。

 

  平成二十八年九月 

 

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 お友達が明日(9/28)引っ越しをする。それを聞いて、自分の引っ越しを思い出した。以下の文章に前後を肉付けすると、エッセイの体をなす。前後とは起承転結の「起」と「承」、それに2、3行の「結」である。さて、どう肉付けしよう。

 

 三十代のころの話である。東京・杉並の明大前から、練馬の社宅に引っ越したことがあった。引っ越しは土曜日で、一日休んで月曜日には会社で大きな会議があった。会議の後には会食があり、それが二次会に及んだ。
 駅から自宅までは十二、三分の距離である。酔いと引っ越しの疲れが混然一体となり、通い慣れた住宅街の道を、重い足取りでトボトボと歩いていた。ふと顔を上げると、遠くに見える自宅の窓に明かりが灯っていない。いつもならカーテン越しに明かりが漏れているのである。起き出した娘を妻が寝かせつけているのだろうか、と怪訝(けげん)に思いながらアパートの前に立って、愕然(がくぜん)とした。その場にへたり込むほどの衝撃だった。暗い窓にカーテンがなかったのだ。私は前日に引っ越した杉並のアパートの前に立っていた。
 会社から練馬の社宅に帰るには、それまでと同じ都営新宿線に乗るのだが、途中で丸ノ内線に乗り換えなければならなかった。それがいつもの調子で、乗り換えずにそのまま行ってしまったのだ。というか、電車に乗ったとたんに寝てしまい、目が覚めたら偶然にも明大前駅だった。慌てて下車し、ホッと安堵していたのだ。それどころか、どうだ、オレもたいしたものだと、キッチリと下車駅で目覚めたことに、少し得意な気分になっていた。
 携帯電話のない時代である。そこから一時間かけ、さらに重い足取りで帰ったのだった。

 

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9月1日に更新したエッセイ「母子手帳」に重大な誤りがあることが判明した。以下を追記として記しておく。

追記

 産科では、暦日の一ヵ月が三十日~三十一日と考えるのとは異なり、四週=二十八日を「一ヵ月」と扱うというご教示をいただいた。

 調べてみると、従来用いられてきた妊娠月数の数え方も日本独特なもので、「数え月」という数え方をするようだ。つまり、「妊娠○ヵ月」と表現する場合、ゼロからではなく一から始まる。そうなると、「妊娠三ヵ月」の場合、性交渉から一ヵ月半に満たないうちにその時期に入ることになる。だが、順調に生理がある人の月経周期(生理が始まってから次の生理が始まるまでの期間)の平均値は、二十八日間であるので、妊娠期間は、ちょうど十周期分に相当することになる。つまり、妊娠十ヵ月の満了時が、分娩予定日というわけだ。理に適っているといえばそう思えなくもない。

 これらのことから、私の両親は「できちゃった婚」ではなかったのだ。現皇太子殿下もハネムーンベイビーではなかったことになる。ただ、そのように文章を直してしまうと、まったくつまらない作品になってしまう。こういう間違いも往々にしてあるということで、とりあえずはこのまま残すことにした。

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 先日、妹から「こんなものが出てきたんだけど」と、古ぼけた手帳を手渡された。それは、私の母子手帳だった。期限の切れた保険証券などが入った書類入れの中に紛れ込んでいたという。母が保管していたものだった。

 幼いころ、タンスの引き出しに、へその緒を見つけたことがある。マッチ箱ほどの小さな桐の箱に、干からびたスルメの切れ端のようなものが入っていた。不思議な気持ちで眺めた記憶がある。母子手帳もそれに匹敵する発見だが、五十六年を経て初めて目にするものだった。重要書類とともに、人目につかないところで大切に保管されていたことがわかる。

 母は現在、八十一歳である。平成二十年に脳梗塞を発症し、以来、ふるさと北海道・様似(さまに)を引き払って札幌の妹のもとで暮らしている。母子手帳は、戸籍謄本よりも臨場感あふれる存在証明であり、母を通過して出てきたといういわば通行認定証、パスポートのようなものだ。

 私は母の実家が営む銭湯の二階で生まれている。母子手帳の「分娩介助者」欄に「小野ヨシ」と記されている。私は昭和三十五年生まれだが、当時の様似生まれの者はこの小野ヨシさんに取り上げてもらった者が多い。私がもの心ついたころには、もう結構なお婆さんだった。とても小柄な人だったが、道端で会うたびに「あれー、大きくなったね」と声高に相好を崩されるのが、恥ずかしくてたまらなかった。

 私の両親は、今上陛下のご成婚と同じ日、昭和三十四年四月十日に結婚している。そのため、宮内庁から役場を通じて菊のご紋入りの黒塗りのオルゴール大小二つをいただいていた。それらは私が幼いころに二つとも壊してしまい、残念ながら今は残っていない。

 私はこれまで、母から生まれたときの様子を次のように聞かされていた。町に公営住宅のなかった当時、両親は母の実家である銭湯の二階に間借りしていた。妊娠九ヵ月目の一月十五日に私が生まれている。出勤する父にハンカチを持たせるのを忘れたことに気づいた母が慌てて取りにいき、階段を降りる際に足を踏み外して尻もちをついた。そのはずみで産気づき、あっという間に生まれたという。二八〇〇グラムと小さかったこともあり、安産だった、と。確かに母子手帳の「産後の母の健康状態」欄には「極軽産」と記されている。この話は、これまでに何度も聞かされてきた。

 現皇太子殿下徳仁親王は、昭和三十五年二月二十三日生まれである。私も同じハネムーンベイビーになるはずだった。だが、階段落ちの一件で、一ヵ月早く生まれてしまった。ずっとそう思っていた。この母子手帳を見るまでは。

 母子手帳には、生まれたときの体重が二八〇〇グラム、身長五〇センチ、頭囲三三・三センチ、胸囲三二・五センチと記されている。昭和三十四年九月発行のこの手帳には、父二十七歳、母二十四歳とある。家族の状況を記す欄は黒の万年筆で書かれており、それは紛れもなく懐かしい父の筆跡だった。丁寧に書かれたその文字からは、初めての子を授かった緊張感が読み取れる。

 その母子手帳をしばらく眺めていて、ある記述に目が留まった。「在胎月数」欄に「十箇月」とある。(在胎月数十箇月……)つまり、母の腹の中に十ヵ月いたということだ。私は予定通り十ヵ月で生まれていた。「出産予定日」欄には、しっかりと「三十五年一月」と記されていた。母の話に齟齬(そご)がある。

 母は、結婚する一ヵ月前に妊娠していたのだ。結果的に「できちゃった婚」なのだろうが、妊娠が判明したのは結婚後のはずだ。そもそも一月十五日は、「成人の日」で祝日だった。当時の成人の日は「十五日」で固定されていた。祝日に会社へ行くか? 父は漁業組合に勤めており、そのころは日直や宿直があった。つまり、休日出勤があった。だから、この点はよしとしよう。

 さらによく見ると、出生時間が「午後五時五十四分」記されている。朝の出勤時間に尻もちをつき、あっという間に生まれたのではなかったか。母子手帳の記載からすると、出勤時間からおおよそ九時間後に生まれている。「あっという間」ではない。もっとも「極軽産」ゆえ、陣痛が始まって「あっという間」に生まれたのだろう。母はそれを言っていたのか。しかたない、これも大目にみるとしよう。

 だが、「在胎月数」と「出産予定日」は、鋼鉄のように固く揺るぎない。誰がどう斟酌(しんしゃく)しても、母の供述は「黒」だ。

 戦前生まれの当時の男女にとって、「婚前交渉」は禁忌である。「婚前交渉」とは、男女が結婚前に肉体関係をもつことである。当時の貞操観念では許されない。ましてや「できちゃった婚」は、もってのほか。わが両親は、それを犯した。我慢できなかったのだ。

 二十七歳と二十四歳。父も若かったし、母も若かった。それで十分ではないか。今さら「できちゃった婚」という事実がわかっても、どうということはない。母にそれを質(ただ)すような無粋なことをする気はない。母の意志を継ぎ、今後も素知らぬ顔を通すつもりだ。ただ、両親の「馴れ初め」には、若干の興味がある。どのような恋愛時代を送ったのか。

 父のふるさとは松前町である。様似から松前までの距離は、三本の汽車を乗り継いで十二時間を要していた。父は札幌の漁業組合学校を卒業後、様似の小島さんという漁師の家で下宿生活をしていた。母の実家の銭湯も近かったし、職場もほどない場所にあった。

 父が様似に赴任したのは十代の後半のことだろう。それから結婚までのおおよそ十年近くは、下宿から銭湯に通っていたはずだ。母も若いころから番台に上がっており、高校時代の勉強などは、いつも番台でやっていたと聞いている。男には絶対にマネできない芸当だ。顔を上げると目の前に全裸の女がワンサカいて、そんな中で勉強が頭に入るか。高名な修行僧でも、無理だろう。

 父と母はそんな中で出会っている。その馴れ初めを聞いたことがない。照れくさくて聞けるはずもない。脳梗塞に続いて大腿骨を骨折して入院した母は、若干の認知症も入り込み、今ではすっかり枯淡の境地にいる。

 私も私の一人娘も「できちゃった婚」である。妻の妊娠が判明し、東京から母に電話したとき、「あんた、男としてきちんと責任取りなさい」といつになくビシッと言われたことを覚えている。娘が妊娠して結婚するという電話をもらったときも「私のときもそうだったんでしょ」と娘に先手を打たれ、二の句が継げなかった。娘には直接、明かしていなかったのだが、バレていた。

 私の父方、母方それぞれの祖父たちも、祖母と結婚する前に別の女性に子を産ませている。そんなDNAは、脈々と引き継がれているようだ。

 

 追記

 産科では、暦日の一ヵ月が三十日~三十一日と考えるのとは異なり、四週=二十八日を「一ヵ月」と扱うというご教示をいただいた。

 調べてみると、従来用いられてきた妊娠月数の数え方も日本独特なもので、「数え月」という数え方をするようだ。つまり、「妊娠○ヵ月」と表現する場合、ゼロからではなく一から始まる。そうなると、「妊娠三ヵ月」の場合、性交渉から一ヵ月半に満たないうちにその時期に入ることになる。だが、順調に生理がある人の月経周期(生理が始まってから次の生理が始まるまでの期間)の平均値は、二十八日間であるので、妊娠期間は、ちょうど十周期分に相当することになる。つまり、妊娠十ヵ月の満了時が、分娩予定日というわけだ。理に適っているといえばそう思えなくもない。

 これらのことから、私の両親は「できちゃった婚」ではなかったのだ。現皇太子殿下もハネムーンベイビーではなかったことになる。ただ、そのように文章を直してしまうと、まったくつまらない作品になってしまう。こういう間違いも往々にしてあるということで、とりあえずはこのまま残すことにした。

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 眠れなくて困っている、といえば少し大げさになるか。

 ストーンと眠りにつけたためしがない。そしてまた、爽やかな目覚めを感じたこともない。ストーンと落ちてスカッと起きる、もう何十年もそんな感覚を味わっていない。

 エッセイを書き始めたのは四十歳からなので、十六年になる。夢中になってキーボードを叩いて、寝る直前までパソコンに向かう。そもそも、それがよくないのだ。だが、やめられない。今、書くことを止めたら、私には何も残らない。そんなたいしたものは書いていないのだが。

 興に乗って気づいたら午前一時を回っている、そんなことがかつてはよくあった。今、そんなことをしたら、翌日の仕事に支障をきたす。いや、ほとんど仕事にならない。だから、時計を気にしながら午後十一時前には、強めの酒を口にする。あまり酔い過ぎても書けなくなる。午前零時前、あきらめて布団に入ると、それこそストーンと眠れるのだ。だが、翌朝の目覚めがよろしくない。

 ナイトキャップを始めたのは、文章を書くようになってからだ。眠りにつくためだけに酒を飲みだした。

「晩酌はされるんですか」

 と訊かれ、

「ハイ、ほぼ毎日です」

「何を飲まれるんですか」

 といった会話はよくする。だが、いわゆる酒を楽しむための晩酌ではない。だから寝る直前まで飲まない。酒があまり好きではない、という裏返しにもなるのだが。

 最初は日本酒一辺倒だったが、身体に悪いと考え焼酎に切り替えた。飲みすぎないように麦ではなく、癖の強い芋焼酎を飲んでいる。そもそも日本酒を飲みだしたのも、私にとって苦手な酒だったからだ。だが、いつの間にか日本酒が好きになっていた。だから、焼酎に変えたのだ。身体には気を遣っている。

 若いころはさほど目覚めの悪さを意識しなかったが、最近ではまるでダメだ。朝起きた瞬間から、タールでも飲み込んだように意識が澱んでいる。眠りにつく前よりも疲労感を覚えるのだから、どうしようもない。

 しかも私は、元来胃腸が弱い。胃の重苦しさで午前四時前後にいったん目覚めてしまう。アルコールの利尿作用で、尿意もある。その後は、寝たのかどうかわからぬうちに起床の時間を迎える。眠りの浅さは天下一品だ。ちょっとした物音で目を覚ます。そんなこともあって、一日中、カフェインの力を借りて意識を保っている。だから飲み会では、酔いつぶれる前に寝てしまう。東京にいたころは、どれだけ地下鉄を乗り過ごしてきたことか。オーバーランの常習者で、社内で私の右に出る者はいなかった。飲み会の翌日は決まって訊かれた。

「昨日は、どこまで行った?」

 

 パソコンに向かう。眠れない。酒を飲む。胃が重苦しくて目覚める。朝が辛い。日中が眠い。カフェインを摂取。胃薬を飲む……断ち切れない悪循環が、延々と続く。最近は、市販の胃薬で誤魔化しているが、何年もの間、病院で薬をもらっていた。その方が安上がりだからだ。医者に正直にいうと怒られる。だら、仕事のストレスだと言っていた。あながち間違いでもない。

 医者は簡単に、睡眠導入剤を処方してくれる。だが私は、この睡眠導入剤が体質に合わない。翌日に眠気が持ち越すのだ。昼間、得もいえぬ嫌な眠気が、脳ミソの底にこびりついているのだ。医者は決してそんなことはないと首をかしげるが、眠いものは眠い。だからついつい酒に頼る。

 運動してクタクタに疲れればいいじゃないかと思い、夜のジョギングに出かける。帰ってきてシャワーを浴びると、眠気が吹き飛ぶ。気分がさらに高揚する。そしてパソコンに向かう。正直、走る時間がもったいないとも思う。早朝のジョギングなど、もちろん考えられない。

 アルコール中毒になるほど酒には強くはない。だが、習慣化していることは、事実である。まれにアルコールなしで眠ることがあるが、翌朝の目覚めは衝撃的だ。脳が冷水を浴びたようにシャキッとしている。採りたてのレタスをバリッと噛んだような、そんな爽快感がある。採りたてのレタスを噛んだことはないのだが。

 昨年の夏、原因不明の「尿閉」で夜中に緊急搬送された。初めての入院だった。近所で酒を飲んで、帰宅してからのことである。小便がまったく出なくなったのだ。原因は、前立腺の炎症である。真夜中の搬送で、四泊四日の入院となった。

 この入院で、酒なしで眠る快感を覚えた。看護師からは睡眠導入剤をもらって飲んでいたが、酒がなくても眠れるという、いい意味での自信がついた。しかし、「だがな……」という思いがある。

 パソコンのディスプレイに向かい、緩やかな酒の酩酊を借りて非日常に入っていく。それがたまらないひと時なのだ。ほのかな酔いの作用は、忘れていた記憶を呼び覚ます。だから、酒と文章は切り離せない。

 かつてタバコを吸っていたときも、同じようなことを言っていた記憶がある。タバコがあるからこそ文章が書けるのだ、と。当時はそれを信じて疑わなかった。あるエッセイの授賞式の休憩時間に、

「タバコがなきゃ、文章、書けないよな」

 と話している作家の一団の会話を耳にしたことがある。会場の隅に追いやられた狭い喫煙室でのことだった。だが、五十歳を機に、私はタバコを止めた。今、文章を書くのにタバコはいらない。そういう意味では、酒も同じだろうか。

 良質の睡眠は、良質な目覚めをもたらすのは明白だ。そんなことが可能になる日は、私に訪れるのだろうか。どこで折り合いをつけるか、そこが問題だ。

 

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2016.06.03

 今の時代、ニュース速報が瞬時に大多数の人々にいきわたる。スマホのなせるワザだ。仕事中は誰もがバイブにしているので、ブルブルという振動音があちらこちらから聞こえて来る。錦織圭がテニスで負けた。舛添要一に新たな疑惑が見つかった、など。誰もが同時に、いや応なく速報を受け取る。

 そんなバイブが今朝も鳴った。「見つかった、子供! 生きてる!」という声が遠くで上がった。北海道の山中で不明になっていた子供が見つかったのだ。えッ! と思いスマホを見た途端、ワッと涙が溢れてきた。困ったことに、断続的に涙が出てくる。「よく生き抜いた」という思いが、涙と共にこみ上げる。

 男の子は地獄を見ただろうが、親もまた想像を絶する地獄の淵でもがいていた。そして、誰もが諦めかけていた。いや、ほとんど諦めていた。ここ数日の北海道の寒さは、尋常ではなかった。峠では降雪もあり、強い雨も降った。これじゃ、ムリだ、と誰もが思っていた。そんな中、飛び出してきたニュースだった。

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浩一ッあんは、大学時代の親友である。アパートが同じだった。

浩一ッあんが死んでしまってから、この秋で7年になる。平成19年、浩一ッあんが東京郊外にガラス工房を開いて間もなく作ってもらったのが、写真のマグカップだ。だが、使っているうちに落として割ってしまった。現在のは、二代目である。それも割ってしまったのだが、浩一ッあんが死んでしまったので、ボンドでくっつけて現在も使っている。

 

正面には、

  Coffee Break Essay

  小山次男&近藤健

  Since Jun.25th in 2000

裏には、

  I have a dream that one day ……

と刻んでもらっている。

 

正面は、2000625日から会社のHPで小山次男名でエッセイを書き始めたのを記念した文字。裏は、キング牧師のスピーチ「I have a dream」から「私には夢がある、いつの日か……」という文字を刻んでもらった。


このたびの熊本地震で、津々堂殿に進呈したマグカップが奇跡的に割れずに残ったことを知った。嬉しくなって、自分のもアップしてみた。

http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/b04ca1c34c10aecd6f061de352e67882

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運命に翻弄された吉良上野介の子 ~

 

 組織のトップが激情にまかせ日本刀を振りかざし、傷害事件を引き起こしてしまった。お上の命により、ボスはその日のうちに粛清、すなわち切腹させられ、組織は解体を命ぜられた。一方、ボスが激昂した相手方は、一切の罪に問われなかった。ボスの名は浅野内匠頭長矩(たくみのかみ・ながのり)、三十五歳。相手は吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)、六十一歳である。事件は元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の大廊下でのことだった。

 組織の構成員たちは、ボスの身勝手な行動により一瞬にして失職。それは同時に、それぞれの住居まで奪われることを意味していた。一家全員が寒空の下に投げ出されたのだから、たまったものではない。だが、メンバーも家族も、そんなボスを恨むことはなかった。そういう時代だった。

 一方、喧嘩両成敗が「天下の大法」となっていた当時、お咎(とが)めのなかった上野介がのうのうと生きていることは、彼らにとって看過(かんか)すべからざることだった。武士としての面目が立たないのである。武士にはその誇りが傷つけられたとき、どうしても譲れない一線がある。その「武士の一分(いちぶん)」のために、彼らは立ち上がった。吉良上野介暗殺プロジェクトが、極秘裏に企てられたのである。

 元禄十五年十二月十四日、四十七人の刺客は隠密裏にアジトに集結。日付が変わった夜明け前の午前四時過ぎ、集団で吉良の自宅に乗り込み、抵抗する間もないターゲットをまんまと惨殺することに成功した。襲われた方にしてみれば、眠っているところをたたき起こされ、ウォーミングアップなしでいきなり一〇〇メートル走をさせられたに等しい。乗り込んだ側は、殿の仇討ちとあって前夜からアドレナリン全開の大放出状態である。勝てるわけがない。この寝込みを襲うという奇襲攻撃が、圧倒的勝利の要因だった。

 現代感覚ではとんでもない事件なのだが、当時は大きな快哉(かいさい)をもって受け入れられた。庶民はもとより、お上の側からも少なからず称賛の声が上がった。亡き主君の無念をはらすため、愛する妻子を捨てて大義をとったのだ。自らの死を顧みなかった彼らは「義士」と称され、「忠義の士」ともてはやされた。

 

 この一連の赤穂事件での被害者は、浅野内匠頭か、それとも吉良上野介か。はたまた、路頭に迷った赤穂藩士とその家族だろうか。実は表舞台には出て来てはいないが、とんでもないとばっちりを食らった者がいた。この事件最大の被害者といってもいいかもしれない人物、それは吉良上野介の子、左兵衛義周(さひょうえ・よしまさ)だった。彼は、幼少より数奇な運命をたどっている。

 吉良上野介の妻富子は、米沢藩主上杉綱勝の妹だった。その綱勝が、子のないままに急死した。本来ならば上杉家はお家断絶となるところだが、妹富子の子綱憲を緊急的に養子とし、急場をしのいだ。つまり、上野介の嫡男(ちゃくなん)が末期(まつご)養子として上杉家を継いだのである。

 その後吉良家では、上野介の次男三郎が嫡男となっていたが、今度はこの三郎が夭折(ようせつ)した。そこでやむなく綱憲は、その後生まれていた次男左兵衛を実家である吉良家の養子として差し出した。ややこしい話だが、上野介は実子である上杉綱憲の次男、つまり孫の左兵衛を養子として迎え入れたのである。元禄三年四月、左兵衛五歳のことであった。

 元禄十四年三月、江戸城松の廊下にて浅野内匠頭から刃傷(にんじょう)を受けた上野介は、その年の十二月に隠居し、左兵衛が吉良家の家督を継いだ。赤穂の義士たちから襲撃を受けたのは、その一年後のことである。左兵衛は十八歳になっていた。

 左兵衛には上杉家からの付き人が三名いた。新貝弥七郎、山吉新八、村山甚五左衛門である。討ち入りのとき、村山は両刀を寝所に捨てて逐電(ちくでん)。新貝は討ち死にし、山吉は須藤与一右衛門と共に左兵衛の前に立ち塞(ふさ)がって戦い、重傷を負った。左兵衛自身も長刀を持って奮戦した。

 左兵衛は額と背中から腰にかけて重傷を負っている。左兵衛と戦ったのは武林唯七とも不破数衛門とも言われている。いずれも剣客である。左兵衛は前後左右を義士に取り囲まれていた。だが、ちょうどそのとき、上野介を討ち取った勝ち鬨(かちどき)があがった。左兵衛は捨て置かれたことにより、からくも斬首を免れた。

 一説によると、左兵衛は背中の傷が深くて気絶し、気づいて上野介の安否を確認するため寝間にいったところ、もう討たれているようだったので力を落とし、その場に倒れたともいわれている。いずれにせよ左兵衛の働きは、武士にふさわしい奮戦だった。相手が強すぎた。それこそ鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で吹っ飛んでいたのだ。

 元禄十六年二月四日、赤穂義士預りの諸邸に切腹言い渡しの上使が向かうのに先立ち、吉良左兵衛は評定所に呼び出されている。

 左兵衛は、討ち入りを防げなかったことが「不届き」とされ、改易のうえ、高島藩諏訪家へのお預けを言い渡されている。家臣たちでさえ戦いに参加した者はわずかであったなか、長刀で戦い、負傷して倒れたのであるから、できる限りのことはしている。しかし幕府は、父親の首を取られたというだけで「不届き」とした。異例ともいえる厳しい処分だった。討ち入りした者全員が切腹だったから、それと釣り合いを取ったのだろう。世論もまた、討ち入りした側に同情的だった。

 左兵衛の身柄は、評定所でただちに諏訪家側に引き渡された。そもそもこの時代、大名家の国許にお預けになるということは、代用監獄に幽閉(ゆうへい)されるに等しかった。左兵衛への随行を許された家臣は、左右田孫兵衛と山吉新八のわずかに二人だけだった。また、討ち入りのときの左兵衛の傷が深く、道中は外科医も同行している。

 高島城南丸の施設に収容された左兵衛は、外部との連絡を絶たれた。髭を剃るときも剃刀は許されず、鋏(はさみ)が用いられたという。

 宝永元年(一七〇四)六月二日、左兵衛の実父上杉綱憲が没し、続いて八月八日には、吉良上野介の妻で左兵衛の祖母富子が亡くなっている。

 このような境遇の中にあって、左兵衛自身、長生きはできなかった。宝永三年、左兵衛は以前からしばしばあった発熱と身体の震えの症状が悪化し、やがて尿が出なくなり、ついに一月二十日に死亡した。二十二歳だった。遺骸は幕府から検死が来るまでの間、塩漬けにされた。

 二月三日、検分が済んでも断絶した吉良家からの引き取り手はなかった。左兵衛の亡骸は、法華寺に土葬された。遺臣の孫兵衛と新八は、左兵衛の石塔を自然石で立てて欲しいと法華寺に金子(きんす)三両を納めている

 左兵衛は、悶々たる失意のうちに世を去ったのだろう。それを陰ながら支えていた二人の遺臣のその後は、どのようなものだったか。なんとも哀れな最期である。 了

 

 追記

 遺臣の山吉新八は、その後米沢に戻り上杉家に仕えている。上杉家の「家中諸士略系譜」には家譜の掲載があり、幕末まで米沢藩士だったことが窺える。また、ご子孫の存在が斎藤茂著『赤穂義士実纂』によって示唆されている。

 また、左右田孫兵衛は吉良に帰り、そこで死去している。墓碑も現存しているという。以上、赤穂義士研究家・佐藤誠氏からご教示をいただいた。

  

参考文献

山本博文著「これが本当の『忠臣蔵』―赤穂浪士討ち入り事件の真相」〔二〇一二年 小学館新書〕

 

   平成二十八年五月 

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<熊本 米良家の墓 震災後>

 熊本の便利屋さん新町ジェット便の川良さんが、震災後の米良家の墓の写真を届けてくださった。新町ジェット便さんは、今年2月に米良家の墓の掃除をしてくださった方である。ご自身も被災されているなかでの心遣い、ありがたい限りである。

 4基の墓碑のうち、10代米良亀雄とその弟毎雄の2墓碑が倒れている。砕けていないことが不幸中の幸いである。この2墓碑は、明治22年の地震でも倒れた形跡があり、後年どなたかがセメントで固定してくれた跡が残っていた。

 2月に新町ジェット便さんが完璧に清掃してくださったにも関わらず、わずか2ヵ月あまりでかなり草が繁茂している。GWに雪が降った北海道からすると、南国の威力の凄まじさを垣間見た思いがした。

 周囲の新しい墓の破損が著しいのが、写真から見てとれる。余震が落ち着いたら、墓を直してもらおうと思っている。


 米良家の墓については、2016327日のブログを参照されたい。

 写真は、震災前後を撮ったもの。雑草が繁茂しているのが震災後。




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 平成28年熊本地震の被害に遭われたみな様に、心からお見舞い申し上げます。そして亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 

 このたび、熊本でM6.5、最大震度7というとんでもない大きな地震が発生した。数人いる知り合いとは連絡がとれたが、いずれの方も家の中はメチャクチャだということだった。怪我がなかったのが唯一の救いである。

「これまでに大きな地震の経験がない」、TVに映し出された被災者が口をそろえる。

 今回の地震で真っ先に頭に浮かんだのは、明治22728日の熊本大地震だった。127年も前のことになる。

 私の曾祖父が屯田兵を志願し、墳墓の地熊本を発って海路小樽の手宮埠頭に第一歩を印したのが、明治22714日のことだった。地震はその2週間後に発生している。M6.3の地震で、20人の死者が出た。そのときは野宿する人が数多くいたと記されている。

 私は平成17年から8年にわたり祖母(母方)の家系米良家の調査を行ったことがある。その過程で、熊本にて米良家の墓を5基、発見することができた。平成22年には実際に熊本へ赴き、墓に対面してきた。

 墓はかなり急勾配の霊園の端に位置し、長年竹藪に埋もれていたものが、墓苑の整備で出てきたところを運よく見つけられたのである。その5基のうち、真ん中の1基が礎石だけ残し、墓碑がなくなっていた。さらに右端の墓碑が、大石を受け止める形で立っていた。周りを見回すと、大小の大石がいくつか目に入った。

 この墓碑を測量調査してくれた地元の史家S氏が、明治22年に熊本に大きな地震があったことを突き止め、破損墓碑のナゾが氷解した。それ以来、熊本に大きな地震がなかったのだ。

 地震直後、なんとかS氏への電話が通じた。絶え間なく押し寄せてくる余震に、緊迫の中でのS氏の鼓動の高鳴りが聞こえてくるような、そんな会話に終始した。

 眠れぬ一夜を過ごしたS氏のブログは「人生74年、こんな事は経験しなくて良かったのですが……」と結ばれていた。

 早く平常に戻ってくれることを願ってやまない。

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