こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break 別邸 ~ essence of essay ~

2000年、40歳を機にエッセイを書き始めました。2001年からは、北日本石油㈱のHPの片隅 Coffee Break Essay のコーナーで、順次発表させてもらっています。そんなエッセイが200作を超えました。そこで、時系列に並んでいる作品の中からランダムにチョイスし、改めてここに転載することにしました。題して「Coffee Break 別邸」。時間の堆積の中に紛れ込んでしまった作品をつまみ出し、虫干しをかねて少し新しい風を入れてやろうと思います。たあなたの琴線に触れる作品が見つかれば幸いです。

なお、加筆している作品もありますが、本文の内容は基本的に初出の時点です。また、文中の数詞は、縦書き仕様のままとなっています。

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 眠れなくて困っている、といえば少し大げさになるか。

 ストーンと眠りにつけたためしがない。そしてまた、爽やかな目覚めを感じたこともない。ストーンと落ちてスカッと起きる、もう何十年もそんな感覚を味わっていない。

 エッセイを書き始めたのは四十歳からなので、十六年になる。夢中になってキーボードを叩いて、寝る直前までパソコンに向かう。そもそも、それがよくないのだ。だが、やめられない。今、書くことを止めたら、私には何も残らない。そんなたいしたものは書いていないのだが。

 興に乗って気づいたら午前一時を回っている、そんなことがかつてはよくあった。今、そんなことをしたら、翌日の仕事に支障をきたす。いや、ほとんど仕事にならない。だから、時計を気にしながら午後十一時前には、強めの酒を口にする。あまり酔い過ぎても書けなくなる。午前零時前、あきらめて布団に入ると、それこそストーンと眠れるのだ。だが、翌朝の目覚めがよろしくない。

 ナイトキャップを始めたのは、文章を書くようになってからだ。眠りにつくためだけに酒を飲みだした。

「晩酌はされるんですか」

 と訊かれ、

「ハイ、ほぼ毎日です」

「何を飲まれるんですか」

 といった会話はよくする。だが、いわゆる酒を楽しむための晩酌ではない。だから寝る直前まで飲まない。酒があまり好きではない、という裏返しにもなるのだが。

 最初は日本酒一辺倒だったが、身体に悪いと考え焼酎に切り替えた。飲みすぎないように麦ではなく、癖の強い芋焼酎を飲んでいる。そもそも日本酒を飲みだしたのも、私にとって苦手な酒だったからだ。だが、いつの間にか日本酒が好きになっていた。だから、焼酎に変えたのだ。身体には気を遣っている。

 若いころはさほど目覚めの悪さを意識しなかったが、最近ではまるでダメだ。朝起きた瞬間から、タールでも飲み込んだように意識が澱んでいる。眠りにつく前よりも疲労感を覚えるのだから、どうしようもない。

 しかも私は、元来胃腸が弱い。胃の重苦しさで午前四時前後にいったん目覚めてしまう。アルコールの利尿作用で、尿意もある。その後は、寝たのかどうかわからぬうちに起床の時間を迎える。眠りの浅さは天下一品だ。ちょっとした物音で目を覚ます。そんなこともあって、一日中、カフェインの力を借りて意識を保っている。だから飲み会では、酔いつぶれる前に寝てしまう。東京にいたころは、どれだけ地下鉄を乗り過ごしてきたことか。オーバーランの常習者で、社内で私の右に出る者はいなかった。飲み会の翌日は決まって訊かれた。

「昨日は、どこまで行った?」

 

 パソコンに向かう。眠れない。酒を飲む。胃が重苦しくて目覚める。朝が辛い。日中が眠い。カフェインを摂取。胃薬を飲む……断ち切れない悪循環が、延々と続く。最近は、市販の胃薬で誤魔化しているが、何年もの間、病院で薬をもらっていた。その方が安上がりだからだ。医者に正直にいうと怒られる。だら、仕事のストレスだと言っていた。あながち間違いでもない。

 医者は簡単に、睡眠導入剤を処方してくれる。だが私は、この睡眠導入剤が体質に合わない。翌日に眠気が持ち越すのだ。昼間、得もいえぬ嫌な眠気が、脳ミソの底にこびりついているのだ。医者は決してそんなことはないと首をかしげるが、眠いものは眠い。だからついつい酒に頼る。

 運動してクタクタに疲れればいいじゃないかと思い、夜のジョギングに出かける。帰ってきてシャワーを浴びると、眠気が吹き飛ぶ。気分がさらに高揚する。そしてパソコンに向かう。正直、走る時間がもったいないとも思う。早朝のジョギングなど、もちろん考えられない。

 アルコール中毒になるほど酒には強くはない。だが、習慣化していることは、事実である。まれにアルコールなしで眠ることがあるが、翌朝の目覚めは衝撃的だ。脳が冷水を浴びたようにシャキッとしている。採りたてのレタスをバリッと噛んだような、そんな爽快感がある。採りたてのレタスを噛んだことはないのだが。

 昨年の夏、原因不明の「尿閉」で夜中に緊急搬送された。初めての入院だった。近所で酒を飲んで、帰宅してからのことである。小便がまったく出なくなったのだ。原因は、前立腺の炎症である。真夜中の搬送で、四泊四日の入院となった。

 この入院で、酒なしで眠る快感を覚えた。看護師からは睡眠導入剤をもらって飲んでいたが、酒がなくても眠れるという、いい意味での自信がついた。しかし、「だがな……」という思いがある。

 パソコンのディスプレイに向かい、緩やかな酒の酩酊を借りて非日常に入っていく。それがたまらないひと時なのだ。ほのかな酔いの作用は、忘れていた記憶を呼び覚ます。だから、酒と文章は切り離せない。

 かつてタバコを吸っていたときも、同じようなことを言っていた記憶がある。タバコがあるからこそ文章が書けるのだ、と。当時はそれを信じて疑わなかった。あるエッセイの授賞式の休憩時間に、

「タバコがなきゃ、文章、書けないよな」

 と話している作家の一団の会話を耳にしたことがある。会場の隅に追いやられた狭い喫煙室でのことだった。だが、五十歳を機に、私はタバコを止めた。今、文章を書くのにタバコはいらない。そういう意味では、酒も同じだろうか。

 良質の睡眠は、良質な目覚めをもたらすのは明白だ。そんなことが可能になる日は、私に訪れるのだろうか。どこで折り合いをつけるか、そこが問題だ。

 

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2016.06.03

 今の時代、ニュース速報が瞬時に大多数の人々にいきわたる。スマホのなせるワザだ。仕事中は誰もがバイブにしているので、ブルブルという振動音があちらこちらから聞こえて来る。錦織圭がテニスで負けた。舛添要一に新たな疑惑が見つかった、など。誰もが同時に、いや応なく速報を受け取る。

 そんなバイブが今朝も鳴った。「見つかった、子供! 生きてる!」という声が遠くで上がった。北海道の山中で不明になっていた子供が見つかったのだ。えッ! と思いスマホを見た途端、ワッと涙が溢れてきた。困ったことに、断続的に涙が出てくる。「よく生き抜いた」という思いが、涙と共にこみ上げる。

 男の子は地獄を見ただろうが、親もまた想像を絶する地獄の淵でもがいていた。そして、誰もが諦めかけていた。いや、ほとんど諦めていた。ここ数日の北海道の寒さは、尋常ではなかった。峠では降雪もあり、強い雨も降った。これじゃ、ムリだ、と誰もが思っていた。そんな中、飛び出してきたニュースだった。

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浩一ッあんは、大学時代の親友である。アパートが同じだった。

浩一ッあんが死んでしまってから、この秋で7年になる。平成19年、浩一ッあんが東京郊外にガラス工房を開いて間もなく作ってもらったのが、写真のマグカップだ。だが、使っているうちに落として割ってしまった。現在のは、二代目である。それも割ってしまったのだが、浩一ッあんが死んでしまったので、ボンドでくっつけて現在も使っている。

 

正面には、

  Coffee Break Essay

  小山次男&近藤健

  Since Jun.25th in 2000

裏には、

  I have a dream that one day ……

と刻んでもらっている。

 

正面は、2000625日から会社のHPで小山次男名でエッセイを書き始めたのを記念した文字。裏は、キング牧師のスピーチ「I have a dream」から「私には夢がある、いつの日か……」という文字を刻んでもらった。


このたびの熊本地震で、津々堂殿に進呈したマグカップが奇跡的に割れずに残ったことを知った。嬉しくなって、自分のもアップしてみた。

http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/b04ca1c34c10aecd6f061de352e67882

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運命に翻弄された吉良上野介の子 ~

 

 組織のトップが激情にまかせ日本刀を振りかざし、傷害事件を引き起こしてしまった。お上の命により、ボスはその日のうちに粛清、すなわち切腹させられ、組織は解体を命ぜられた。一方、ボスが激昂した相手方は、一切の罪に問われなかった。ボスの名は浅野内匠頭長矩(たくみのかみ・ながのり)、三十五歳。相手は吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)、六十一歳である。事件は元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の大廊下でのことだった。

 組織の構成員たちは、ボスの身勝手な行動により一瞬にして失職。それは同時に、それぞれの住居まで奪われることを意味していた。一家全員が寒空の下に投げ出されたのだから、たまったものではない。だが、メンバーも家族も、そんなボスを恨むことはなかった。そういう時代だった。

 一方、喧嘩両成敗が「天下の大法」となっていた当時、お咎(とが)めのなかった上野介がのうのうと生きていることは、彼らにとって看過(かんか)すべからざることだった。武士としての面目が立たないのである。武士にはその誇りが傷つけられたとき、どうしても譲れない一線がある。その「武士の一分(いちぶん)」のために、彼らは立ち上がった。吉良上野介暗殺プロジェクトが、極秘裏に企てられたのである。

 元禄十五年十二月十四日、四十七人の刺客は隠密裏にアジトに集結。日付が変わった夜明け前の午前四時過ぎ、集団で吉良の自宅に乗り込み、抵抗する間もないターゲットをまんまと惨殺することに成功した。襲われた方にしてみれば、眠っているところをたたき起こされ、ウォーミングアップなしでいきなり一〇〇メートル走をさせられたに等しい。乗り込んだ側は、殿の仇討ちとあって前夜からアドレナリン全開の大放出状態である。勝てるわけがない。この寝込みを襲うという奇襲攻撃が、圧倒的勝利の要因だった。

 現代感覚ではとんでもない事件なのだが、当時は大きな快哉(かいさい)をもって受け入れられた。庶民はもとより、お上の側からも少なからず称賛の声が上がった。亡き主君の無念をはらすため、愛する妻子を捨てて大義をとったのだ。自らの死を顧みなかった彼らは「義士」と称され、「忠義の士」ともてはやされた。

 

 この一連の赤穂事件での被害者は、浅野内匠頭か、それとも吉良上野介か。はたまた、路頭に迷った赤穂藩士とその家族だろうか。実は表舞台には出て来てはいないが、とんでもないとばっちりを食らった者がいた。この事件最大の被害者といってもいいかもしれない人物、それは吉良上野介の子、左兵衛義周(さひょうえ・よしまさ)だった。彼は、幼少より数奇な運命をたどっている。

 吉良上野介の妻富子は、米沢藩主上杉綱勝の妹だった。その綱勝が、子のないままに急死した。本来ならば上杉家はお家断絶となるところだが、妹富子の子綱憲を緊急的に養子とし、急場をしのいだ。つまり、上野介の嫡男(ちゃくなん)が末期(まつご)養子として上杉家を継いだのである。

 その後吉良家では、上野介の次男三郎が嫡男となっていたが、今度はこの三郎が夭折(ようせつ)した。そこでやむなく綱憲は、その後生まれていた次男左兵衛を実家である吉良家の養子として差し出した。ややこしい話だが、上野介は実子である上杉綱憲の次男、つまり孫の左兵衛を養子として迎え入れたのである。元禄三年四月、左兵衛五歳のことであった。

 元禄十四年三月、江戸城松の廊下にて浅野内匠頭から刃傷(にんじょう)を受けた上野介は、その年の十二月に隠居し、左兵衛が吉良家の家督を継いだ。赤穂の義士たちから襲撃を受けたのは、その一年後のことである。左兵衛は十八歳になっていた。

 左兵衛には上杉家からの付き人が三名いた。新貝弥七郎、山吉新八、村山甚五左衛門である。討ち入りのとき、村山は両刀を寝所に捨てて逐電(ちくでん)。新貝は討ち死にし、山吉は須藤与一右衛門と共に左兵衛の前に立ち塞(ふさ)がって戦い、重傷を負った。左兵衛自身も長刀を持って奮戦した。

 左兵衛は額と背中から腰にかけて重傷を負っている。左兵衛と戦ったのは武林唯七とも不破数衛門とも言われている。いずれも剣客である。左兵衛は前後左右を義士に取り囲まれていた。だが、ちょうどそのとき、上野介を討ち取った勝ち鬨(かちどき)があがった。左兵衛は捨て置かれたことにより、からくも斬首を免れた。

 一説によると、左兵衛は背中の傷が深くて気絶し、気づいて上野介の安否を確認するため寝間にいったところ、もう討たれているようだったので力を落とし、その場に倒れたともいわれている。いずれにせよ左兵衛の働きは、武士にふさわしい奮戦だった。相手が強すぎた。それこそ鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で吹っ飛んでいたのだ。

 元禄十六年二月四日、赤穂義士預りの諸邸に切腹言い渡しの上使が向かうのに先立ち、吉良左兵衛は評定所に呼び出されている。

 左兵衛は、討ち入りを防げなかったことが「不届き」とされ、改易のうえ、高島藩諏訪家へのお預けを言い渡されている。家臣たちでさえ戦いに参加した者はわずかであったなか、長刀で戦い、負傷して倒れたのであるから、できる限りのことはしている。しかし幕府は、父親の首を取られたというだけで「不届き」とした。異例ともいえる厳しい処分だった。討ち入りした者全員が切腹だったから、それと釣り合いを取ったのだろう。世論もまた、討ち入りした側に同情的だった。

 左兵衛の身柄は、評定所でただちに諏訪家側に引き渡された。そもそもこの時代、大名家の国許にお預けになるということは、代用監獄に幽閉(ゆうへい)されるに等しかった。左兵衛への随行を許された家臣は、左右田孫兵衛と山吉新八のわずかに二人だけだった。また、討ち入りのときの左兵衛の傷が深く、道中は外科医も同行している。

 高島城南丸の施設に収容された左兵衛は、外部との連絡を絶たれた。髭を剃るときも剃刀は許されず、鋏(はさみ)が用いられたという。

 宝永元年(一七〇四)六月二日、左兵衛の実父上杉綱憲が没し、続いて八月八日には、吉良上野介の妻で左兵衛の祖母富子が亡くなっている。

 このような境遇の中にあって、左兵衛自身、長生きはできなかった。宝永三年、左兵衛は以前からしばしばあった発熱と身体の震えの症状が悪化し、やがて尿が出なくなり、ついに一月二十日に死亡した。二十二歳だった。遺骸は幕府から検死が来るまでの間、塩漬けにされた。

 二月三日、検分が済んでも断絶した吉良家からの引き取り手はなかった。左兵衛の亡骸は、法華寺に土葬された。遺臣の孫兵衛と新八は、左兵衛の石塔を自然石で立てて欲しいと法華寺に金子(きんす)三両を納めている

 左兵衛は、悶々たる失意のうちに世を去ったのだろう。それを陰ながら支えていた二人の遺臣のその後は、どのようなものだったか。なんとも哀れな最期である。 了

 

 追記

 遺臣の山吉新八は、その後米沢に戻り上杉家に仕えている。上杉家の「家中諸士略系譜」には家譜の掲載があり、幕末まで米沢藩士だったことが窺える。また、ご子孫の存在が斎藤茂著『赤穂義士実纂』によって示唆されている。

 また、左右田孫兵衛は吉良に帰り、そこで死去している。墓碑も現存しているという。以上、赤穂義士研究家・佐藤誠氏からご教示をいただいた。

  

参考文献

山本博文著「これが本当の『忠臣蔵』―赤穂浪士討ち入り事件の真相」〔二〇一二年 小学館新書〕

 

   平成二十八年五月 

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<熊本 米良家の墓 震災後>

 熊本の便利屋さん新町ジェット便の川良さんが、震災後の米良家の墓の写真を届けてくださった。新町ジェット便さんは、今年2月に米良家の墓の掃除をしてくださった方である。ご自身も被災されているなかでの心遣い、ありがたい限りである。

 4基の墓碑のうち、10代米良亀雄とその弟毎雄の2墓碑が倒れている。砕けていないことが不幸中の幸いである。この2墓碑は、明治22年の地震でも倒れた形跡があり、後年どなたかがセメントで固定してくれた跡が残っていた。

 2月に新町ジェット便さんが完璧に清掃してくださったにも関わらず、わずか2ヵ月あまりでかなり草が繁茂している。GWに雪が降った北海道からすると、南国の威力の凄まじさを垣間見た思いがした。

 周囲の新しい墓の破損が著しいのが、写真から見てとれる。余震が落ち着いたら、墓を直してもらおうと思っている。


 米良家の墓については、2016327日のブログを参照されたい。

 写真は、震災前後を撮ったもの。雑草が繁茂しているのが震災後。




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 平成28年熊本地震の被害に遭われたみな様に、心からお見舞い申し上げます。そして亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 

 このたび、熊本でM6.5、最大震度7というとんでもない大きな地震が発生した。数人いる知り合いとは連絡がとれたが、いずれの方も家の中はメチャクチャだということだった。怪我がなかったのが唯一の救いである。

「これまでに大きな地震の経験がない」、TVに映し出された被災者が口をそろえる。

 今回の地震で真っ先に頭に浮かんだのは、明治22728日の熊本大地震だった。127年も前のことになる。

 私の曾祖父が屯田兵を志願し、墳墓の地熊本を発って海路小樽の手宮埠頭に第一歩を印したのが、明治22714日のことだった。地震はその2週間後に発生している。M6.3の地震で、20人の死者が出た。そのときは野宿する人が数多くいたと記されている。

 私は平成17年から8年にわたり祖母(母方)の家系米良家の調査を行ったことがある。その過程で、熊本にて米良家の墓を5基、発見することができた。平成22年には実際に熊本へ赴き、墓に対面してきた。

 墓はかなり急勾配の霊園の端に位置し、長年竹藪に埋もれていたものが、墓苑の整備で出てきたところを運よく見つけられたのである。その5基のうち、真ん中の1基が礎石だけ残し、墓碑がなくなっていた。さらに右端の墓碑が、大石を受け止める形で立っていた。周りを見回すと、大小の大石がいくつか目に入った。

 この墓碑を測量調査してくれた地元の史家S氏が、明治22年に熊本に大きな地震があったことを突き止め、破損墓碑のナゾが氷解した。それ以来、熊本に大きな地震がなかったのだ。

 地震直後、なんとかS氏への電話が通じた。絶え間なく押し寄せてくる余震に、緊迫の中でのS氏の鼓動の高鳴りが聞こえてくるような、そんな会話に終始した。

 眠れぬ一夜を過ごしたS氏のブログは「人生74年、こんな事は経験しなくて良かったのですが……」と結ばれていた。

 早く平常に戻ってくれることを願ってやまない。

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 人が死ぬ。やがて周りの人々から忘れ去られていく。これは自然の成り行きなのだろうが、無性に悲しいことである。二十三歳で父を亡くしたとき、真っ先に頭に浮かんだことだった。

 矛盾した言い方かもしれないが、人は死んでも、人々の記憶の中で生き続けることができる。周囲の人々に記憶された死者は、時に思い出され、口に上(のぼ)される。故人を知る友人・知人がやがて物故者となった後、その記憶が最後まで引き継がれるのは、子や孫、または兄弟姉妹やその子である甥姪といった親族である。死後も二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌といった年忌法要によって死者の記憶が呼び起こされる。もっとも、現代においては、三十三回忌も覚束ないだろうが。

 やがて、死者を知る者がこの世からまったくいなくなる。そのとき、本当の意味での死が訪れる。「死」が完結するのだ。このような死を、「完全死」とか「絶対死」と呼ぶことができるのではないだろうか。

 私は平成十七年から八年がかりで、祖母(母方)の家系を調べていたことがある。祖母の弟、つまり大叔父のことをエッセイに書いてネットで発表していたのだが、それを目に留めた赤穂義士研究家の佐藤誠氏との知遇を得た。それが家系調査の始まりだった。

 祖母の家系は、熊本藩の下級士族で、姓を米良といった。二代米良市右衛門のとき、元禄赤穂事件に遭遇している。四十七士による吉良邸討ち入りの後、熊本藩にお預けとなっていた堀部弥兵衛の切腹に際し、介錯を仰せつかっている。大叔父はその直系の子孫に当たる。

 だが、米良家の出自については、まったくといっていいほど何も伝わっていなかった。熊本藩士であったこと。介錯をした者がいたこと。曾祖父米良四郎次(しろうじ)が熊本から屯田兵として札幌に入植したことなどで、それ以上のことは誰にもわからなかった。曾祖父が多くを語らなかったのだ。

 曾祖父は、明治二十二年に熊本より屯田兵として札幌の篠路兵村に入植している。曾祖父の兄亀雄が、明治九年に熊本で勃発した神風連(しんぷうれん)の乱で自刃している。翌十年には叔父左七郎が西南戦争で西郷軍に付き、政府軍との銃撃戦に倒れている。いずれも新政府に対する反乱であったため、本人はもとよりその家族は逆賊の汚名を着せられた。曾祖父が多くを語らなかったゆえんも、その辺にあるのではないかと思われる。

 赤穂事件とのかかわりも、昭和八年の曾祖父亡き後、昭和三十八年に米良家の神棚から古文書が発見されるまで、詳(つまび)らかではなかった。その古文書の中に、曾祖父が熊本を後にする際に、菩提寺(ぼだいじ)の過去帳を写し取ってきたものがあった。そこには、五十一名の名が記されていた。その後、熊本での墓碑の発見や除籍謄本の調査により、物故者は総勢八十五名になった。現時点での米良家の系譜は、現存者を含め一二一名が名を連ねている(この五月にさらに一名加わる予定)

 熊本藩主である細川家所蔵の古文書から、断片的ではあるが初祖、そして初代から十代までの事跡をたどることができた。熊本在住の史家眞藤國雄氏から送られてくる史料が、佐藤誠氏により翻刻された。それらの集大成は、全三六四ページにわたる『肥後藩参百石 米良家』として、平成二十五年六月に発刊することができた。

 複数の史家の協力により、四百年にわたる家系を掘り起こすことができた。下級士族の家系では、稀有なことである。私は、この家系調査によって、それまでまったく知られていなかったご先祖様を呼び覚ますことができた。まさに芋づる式にズラリと連なって出てきたのである。平成二十二年に佐藤誠氏と熊本を訪ねた際には、初めて米良家の墓を訪ね、その墓地を管理するお寺にて永代供養を執り行った。それが家系調査の一つの到達点であった。ご先祖様のご指名により、墳墓の地熊本に呼び寄せられた、そんな感慨を持った。曾祖父が熊本を離れて、すでに一二〇年が経過していた。

 

 実は、この家系調査を開始してほどないころ、奇妙なことが起こっている。私は平成二十三年二月まで東京にいた。その時点で、私が家系を調べていることは、親類縁者の誰にも話していなかった。ある日、ふるさと北海道の様似(さまに)で一人暮らしていた母のもとを、見知らぬ男が訪ねてきた。坊さんでもない、占い師風でもない不思議な男だったという。

 家の表札を見ながら占いのような話をしていったという。そんな玄関先での話の中、

「お宅の家系にご先祖様のことを調べている方がいますね。そのことをご先祖様がたいそう喜んでいらっしゃいます」

 というようなことを言って立ち去ったという。母には何のことか見当もつかなかった。私がそんなことをしているとは、夢にも思っていなかったのだ。後日、母との電話で、

「……変な男が訪ねて来て、そんなことを言ってたんだけど、どういうことだろう。気持ちが悪いね」

 という話を聞き、背筋が凍った。中途半端な気持ちでやってはいけないことなのだと思った。そんなこともあって、史料の調査に一段と拍車がかかった。憑()かれたように夢中になり、気づいたら八年が経過していた。八十五名の死者のうち、系譜の中での関係性を見出せなかったのは、わずかに四名である。やがて出版の話がもちあがり、前述の書の完成を見た。収録した系譜の脇に、不詳者四人の名も書き連ねた。

 人間は死んでしまったらどうなるのだろう。こればかりは誰にもわからない。死後の世界、つまり次のステージがあるのだろうか。曖昧模糊(あいまいもこ)とした感情に近いが、ご先祖様を掘り起こす作業の中で、「漠然とした確信」を得たような気がした。だがそれは、軽々しく声高に吹聴してはいけないことのように感じられた。

    平成二十八年四月 初出


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 曾祖父米良四郎次(しろうじ)が屯田兵として熊本から北海道に渡ったのは、明治227月のことである。それから120年を経た平成209月、当時熊本にいたT氏により、米良家の墓が5基、発見された。

 私がネットで公開している『米良亀雄と神風連』を読んだT氏から、「ぜひ、墓を探させてください」とのメールが。T氏は、エリート自衛官である。これまでにも墓探しをしてくださった方が何人かいたのだが、いずれもダメ。しかし、T氏はあっという間に見つけてしまった。

 平成2211月、私は赤穂義士研究家の佐藤誠氏とともに熊本を訪ね、永代供養を執り行った。曾祖父の子、つまり私の祖母の弟妹2名が、90歳を超えて存命である。見い出された墓は、曾祖父の父母、祖父母、兄、弟、叔父の墓だった。

 曾祖父が熊本を発った一週間後、大地震が熊本を襲った。この地震により、父母の墓は巨石の直撃を受け、大破したものと思われる。土台しか残っていない。叔父の墓に大石がぶつかって留まっているのが写真でも確認できる。前面にも丸い石が写っている。墓は傾斜地にある。

 この2月、現在東京にいるT氏がたまたま熊本を訪ね、荒れ果てた米良家の墓を目の当たりにした。「米良家の墓が森に還ろうとしています」というメールをもらった。T氏はその場から業者に墓掃除を依頼した。後に、それを知らされた。

 懇請したのだが、T氏はとうとう掃除の代金を受け取ってくれなかった。

 これからは、年に一度、この業者に掃除を依頼しようと思っている。

(最初の4枚の写真、ビフォー・アフターになっている)


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 就職したら生命保険に入る、そういうものだと思っていた。だから、なんの抵抗もなく、また、よくわからないまま終身保障の生命保険に加入した。

 会社の独身寮の先輩が、入社早々に自分が加入している保険のオバちゃんを紹介してくれたのだ。というか、新入員の入社を誰よりも楽しみに、首を長くして、いや、手ぐすねを引いて待っているのが、保険のオバちゃんたちである。

「今年は、何人、入ってくるの」

「また、お願いね」

 保険のオバちゃんたちによる新入社員の争奪戦はすさまじい。池に餌(えさ)を投げ入れたときのコイだ。

 私の会社は石油製品販売会社で、最初の一年はガソリンスタンドでの勤務だった。当時、東京の小金井にあった独身寮から、片道一時間五十分の通勤で、埼玉県川越市まで通っていた。そこに車で現れたのが、息を呑むほどの美貌を持った保険のオバちゃんだった。いや、オバちゃんではない。当時の高尾さんは、三十代に届くかどうかの年齢だったはずだ。わざわざ東京の自由が丘からやってきたのだ。

 私は仕事を抜け出し、高尾さんの運転する車に乗って近所のファミレスで保険の説明を受けた。高尾さんは黄緑を基調とし、そこに薄ピンクや赤や青の大きな水玉が配されたスーツを着ていた。それがスーツだったかどうか、三十年以上も前の記憶は分厚いベールに包まれていて、判然としない。だが、その色彩と高尾さんの肌の白さと口紅の赤が、色褪せずに脳裏に焼き付いている。

 ファミレスに向う車の助手席で、私は香水の妖艶な香りに酩酊(めいてい)を覚えていた。だから、その後に受けた説明も、魔法にかけられたような状態であり、幻惑の中で仮契約を結んでいた。

 死んだら二五〇〇万円、不慮の事故死だと倍の五〇〇〇万円もらえる。そんなにたくさんかと一瞬思ったが、死んでしまってはどうにもならない。死んだ直後に十億円の宝くじが当たったのと同じだ。将来の結婚を見据えての保険加入である。残される妻子のことを考え、まだ彼女すらいない独身のころから保険に加入する。若いうちに入ると、月々の掛け金が安くなる。潤沢なお金があるならば、生命保険に加入する必要などない。保険会社は、貧乏人の命を手玉に、人間の弱みにグイグイとつけ込んでくる。しかも疾病特約を抱き合わせ、「病気になったらお金が出る」と耳元で囁(ささや)く。

 その後三カ月で、私は事務職に配置転換となった。配属されたガソリンスタンドが、老朽化と不採算のため閉鎖されたのだ。新しい事務所は東京の日本橋だった。

 個人情報保護法などない一九八三年当時、昼休みを告げるチャイムとともに、保険のオバちゃんたちが事務所にドッとなだれ込んでくる。こちらが食事をしていようがいまいが関係ない。アンケート地獄が待っていた。そんな中にときおり高尾さんの姿もあった。そのころ高尾さんはすでに離婚していて、娘さんを一人養育していた。ずっと後になってから知ったことである。別に、そんなことを事前に知っていたとしても、どうにかなったわけではないのだが。

 やがて高尾さんの姿を見ることがなくなった。高尾さんの営業所が遠かったのと、それとは別な大人の事情があったようだ。

 やがて私は結婚し、私の保険に妻を入れた。父がすでに亡くなっていたので、死亡保険金の受取人を母から妻へ変更した。「愛妻型」というその保険の特約名称に、若い妻は喜色を浮かべた。間もなくその保険に娘も加わった。

 結婚八年目、妻が精神疾患に陥った。それから妻が家を出て行くまでの十二年半の間に、妻は七回の入退院を繰り返した。三ヵ月の入院や半年を超える入院もあったので、入院保障の恩恵は十分に受けた。生命保険に助けられた。

 保険金の請求で対応してくれたのは、いつも高尾さんだった。懐かしい声を聞きながら、まだいたのか、ということに驚いた。七回の入退院の全てにかかわってくれながら、彼女自身、私の境遇に言葉をなくしていた。

 妻と離婚した翌二〇一一年、私は北海道に転勤になった。引っ越す前に住所変更の手続きで、高尾さんに連絡をした。すると書類を持ってわざわざ会社を訪ねて来てくれた。二十五年ぶりの再会だった。

 高尾さんも六十歳を過ぎ、若いころのような美しさは失せていた。だが、それなりの美貌を保っていた。高尾さん自身がんを患い、保険に助けられたという話を聞いた。久闊(きゅうかつ)を除すというと大袈裟かも知れないが、そんな懐かしい思いに包まれていた。会社の応接室でお互いをまじまじと見合いながら、二人の間に流れた歳月を思っていた。

 妻が家を出て行き離婚したことで、保険の受取人は娘に変わった。その娘が昨年結婚したのを機に、大幅な保険の見直しを行った。もう高額な死亡保険金がいらなくなったのだ。というか、私の定年が見えてきたのだ。定年退職は六十四歳なのだが、その前に役職定年を迎える。月々の無駄な保険料を削らなければならない。

 死亡時の受取保険金をゼロにして、入院初日から保険金が出る医療保険に切り替えてもらった。葬式代も不要と断った。これまでの配当金も含めた解約金を取り崩すことで、月々の保険料を安くした。それでも月額一万円弱である。

 古いパンフレットを見ると、保険加入当時の八十歳での返戻想定額は一七五〇万円とある。しかし、今回五十五歳での解約金は二百万円弱だった。高金利時代の想定である。時代が変わった。私が新たに転換した保険は、「八十歳払い込み済み」である。つまり、八十歳まで保険料を払い続けることになる。だが、私が八十歳まで生きるとは到底考えられない。だから私は、生涯保険料を払い続けるに等しいことになる。

 これまで私は保険会社に七百万円近いお金を払い込んできた。そしてこれからさらに二六〇万円ほど支払う。解約分の取り崩し金を含めたら、軽く一千万円を超える。八十歳で私が保険会社から受け取る保険金はゼロだ。私は二十三歳から五十七年かけて総額九六〇万円を支払い、安心を買ったのだ。いや、まだまだ買い続けるのだ。それが「保険」だ。死ぬまでまとわりついてくる。「たちの悪いストーカー」という言葉が頭をかすめる。そしてときおり耳元でささやく、「これだけ入っていれば、安心なんだから」と。

 私が加入している保険は生命保険だけではない。がん保険や損害保険にも入っている。もちろん自動車保険にも。子供が生まれてからは学資保険にも入っていた。給与明細を眺めながら、オレは保険料を払うために働いているのではないか、そんな疑念が脳裏を横切り、何度、大きな溜息をついてきたことか。

 どこの保険会社も立派な本社ビルを持っている。そびえ立つ高層ビルを眺めながら、「このビルを建てるために、カネ払ってたのかよ」と、ついそんな悪態をついてしまう。そんなこともあって、保険の呪縛から少しでも解き放たれたくて、今回、思い切って保険を見直した。

 はたして今回の保険の転換も、正しい判断だったのかと問われると、どことなく心もとない。そんな話を友人にすると、

「お前、再婚したらどうすんの。嫁さん、保険金もらえないんだ」

 虚を衝かれ、思わず天を仰いだ。

 平成二十八年三月 初出

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  昨年、「戦後七十年の節目」という言葉をよく耳にした。戦争ははるか遠い昔のこと、歴史のエピソードの一つといった感が否めない。お隣の国との軋轢(あつれき)になっている従軍慰安婦問題にしても、「戦争のときのことでしょ。なんで今さら……」という気持ちもどこかにあるのは事実だ。だが、この問題もまた、戦後処理がきちんと終わっていないことを示唆する一つの事例なのだろう。

 就職活動のことを「就活」というが、そんなノリりで、人生の終わりの活動を「終活」という。ここ数年、やたらとこの言葉が幅を利かせている。これも団塊の世代の影響だろうということは、容易に想像できる。

 団塊の世代とは、終戦直後の昭和二十二年(一九四七)から二十四年までのわずか三年という短い期間に生まれた人々である。戦争という極限状況から解放された男たちが、待ちわびる妻のもとへ帰った。そして涙を流ししっかりと抱き合った。結果、空前のべビーブームが巻き起こった。待っていたのは妻ばかりではない。多くの未婚女性も、男たちの復員を待っていた。もちろん、未亡人女性も数多くいた。

 この時に生まれた子、彼らはまさに「戦争を知らない子供たち」であり、日本初の「戦後生まれ」なのである。彼らの両親の大半は大正世代であり、つまり彼らは名実ともに新しい時代を担う子供たちであった。

 団塊の世代という言葉は、堺屋太一の小説「団塊の世代」に由来する。彼らは今年(平成二十八年)、六十九歳から六十七歳になる。この世代が通り過ぎた後には、学校などがその典型なのだが、過剰設備が取り残される。社会的な影響は計り知れない。現在、街に接骨院・整骨院の類が溢れるのも彼らの影響だろうし、デイサービスなどの介護施設や有料老人ホームも彼らの到来を待ちわびている。

 総務省の見立てでは、二十年後、三人に一人が六十五歳以上となり、五人に一人が七十五歳以上だという。昭和三十五年(一九六〇)生まれの私は、七十六歳だ。その中に自分がいることを知り、改めて愕然とする。ちなみに今は、八人に一人が七十五歳以上だ。

 医療費の増大、膨らみ続ける社会保障費は……と将来が心配になる。この流れの中で消費増税に行きつくのは、受け入れなければならない必然なのだろか。そして最後の最後に笑うのは、葬儀屋なのだろう。介護ビジネスの延長線上に、空前の葬式ラッシュが想定できる。葬儀屋の背後には、墓石屋と仏壇屋が見え隠れしている。

 だが、その葬儀屋のさらに後ろに君臨するのが、坊さんだ。団塊の世代がこの世からいなくなってもなお、その影響力が三十年以上にわたって及ぶ。三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌……年忌法要が目白押しに待ち構えている。もっともそのころにはライフスタイルもガラリと変わり、三十三回忌や五十回忌などはできなくなっているだろう。

 現在ゼロ歳の赤ん坊が何歳まで生きるのかを示す物差しが「平均寿命」である。これに対し、ある年齢の人がそこからさらに何歳まで生きるのかは、「平均余命」という尺度が現実的である。

 この物差しを使うと、現在六十五歳の女性の四人に一人が九十五歳まで生き、男性は同じ割合で九十歳まで存命する。つまり、すでに「人生九十年」に達しているのだ。二十一年後、団塊の世代の先頭は九十歳に到達する。団塊の世代の大方がいなくなるのは、これからおおよそ三十年後ということになる。先に挙げた年忌法要は、そこからスタートする。つまり、先の大戦から七十年を経た今、さらに今後八十年近くは戦争の影響が続くことを意味する。

 ただ、団塊の世代の影響は、これで終わったわけではない。彼らの子供たちもまた大きな塊として存在する。昭和四十六年(一九七一)から四十九年にかけて第二次ベビーブームが巻き起こり、彼らは「団塊ジュニア」と呼ばれている。

 本来なら人口構成図はピラミッド型になるのだが、戦争がそれをいびつな形にした。その代償は、重い負担として今後も百年以上にわたってのしかかってくる。

 それにして気の毒なのは、「団塊の世代」とレッテルを貼られてしまった人々である。戦争を知らない彼らもまた、立派な戦争の犠牲者である。


   平成二十八年一月 初出


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