京都大学の立て看板は条例違反なのか!?

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京都は、景観を守るために、

条例を定めて、看板等の設置について制限が行われています。

多くの企業は、条例を遵守し、

目立たない看板にしています。

 

ところで、京都大学の外周の壁の周りに、

昔から多数の立て看板が設置されています。

政治的主張やサークルの勧誘、

演奏会や講演会の告知などの看板です。

 

私自身も、学生時代、

へたくそだなとか、面白いなとか思いながら、

その横を歩いていました。

 

その立て看板が、市の条例に反するということで、

京都大学が行政指導を受けているということです。

 

この問題で、京大は設置場所を学内に限り、

設置基準を設けるとの報道があります。

 

この問題、

憲法の問題としてとらえると、

かなり面白そうです。

 

大学の自治、表現の自由などを

条例が制限していると考えられるからです。

 

また、条例において、

企業等の看板の設置が制限されている点は、

営業の自由への制限と考えられます。

 

ところで、市の担当者は、

「京大といえども、特別な存在と認識していない。」

と話したとの報道がなされています。

 

この発言は、

京大OBや現役の京大生の反骨心に油を注ぐようで、

まずいように思います。

 

現に、立て看板は、

「京大の文化だ」という主張が、

あちこちから上がっているようです。

 

かくいう私の反骨心にも少し油が注がれ、

このようなブログを書く動機づけになってしまっています。

 

事の是非はともかく、

いわなくてもよい発言で、

いらない反発を招くということもあるので、

私自身も気を付けようと思いました。

 

 

 

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NHK受信料訴訟最高裁判決の解説

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このほど、NHKの受信料に関して最高裁で判決が出されました。

いろいろネットニュースが出ていますが、

私なりに解説をさせていただきます。

 

最高裁判所の判決の骨子は、

かなりくだけていうと、

①テレビを持っている人は、NHKと契約しなければならない。

②拒否しても、裁判所の判決が下れば強制的に契約させられる。

③そうなったら、テレビを持った時点からの受信料をさかのぼって払わさせられる。

④時効だと反論してもだめよ。

ということです。

 

結局、NHK側の全面勝訴に見えますが、

NHK側にも苦労がありそうです。

 

「うちはテレビなんかないから契約しない。」との反論がなされたとき、

テレビを持っていることを立証する責任があるのは、NHK側と考えられます。

NHKは、裁判で勝訴しなければ、

拒否する人と強制的に契約をすることはできず、

受信料も請求できません。

 

そして、テレビがあることの立証は、

難しいように思えます。

ましてや、どの時点から持っていたかという立証はより困難でしょう。

この裁判の事案では、

テレビを持っていること、テレビを持ち始めた時期については、

争いがないようですから、認めていたのでしょう。

 

必然、「うちはテレビがない」という反論をしてきた人に対しては、

NHKは、よほどの証拠でもない限り、

裁判まではできないでしょうし、

結局、受信料も徴収できません。

 

他方、「うちは民放しか見ていませんから。」というのは、

もっともNHKが喜ぶ拒否の理由です。

なぜなら、NHKを見ていない人も、受信料の支払義務があると、

この最高裁判決はお墨付きを与えています。

そうして、もっとも難易度が高いと思われるテレビを持っていることの立証につき、

自認する発言になってしまっているからです。

 

ところで、この最高裁判決は、

NHKの存在意義について、

受信料を国民から徴収することによって

国や特定の団体からの影響を受けずに、

公平中立な放送が実現できる、

このことは、

国民の知る権利を充足させるために重要であるとの位置づけをしています。

 

昨今は、ケーブルテレビを含めると、

かなりのチャンネル数がありますし、

ネット配信も普及し、ありとあらゆる広がりがあります。

私の感覚でいえば、

すでにNHKはその役割を終えつつある、

という感じがします。

 

私自身は、NHKとの契約をしていますが、

正直、受信料高いなと思います。

私の知る権利を充足してくれるツールは、

ほぼネットですし、NHKはあまりみません。

もし、法律で強制されていなければ、

NHKとは契約しません。

 

こういった素朴な世代感覚からいえば、

「どのようなツールを使って情報を取得するかは、

その人それぞれの自由だ」

という意見にたどりつくでしょう。

 

いろんな意見があってもいいと思いますが、

インターネットの出現以降、

急速に情報化が進んでいる現代において、

将来的には、NHKは、その存在意義を果たして消滅するか、

時代に応じてもっと変わっていくしかないように思っています。

 

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たとえば、傷害事件が発生しました。

 

被害者はビール瓶で殴られたと被害届を出したとします。

加害者は、ビール瓶で殴ったかはともかく、

暴行行為を行ったことは認めています。

なお、ビール瓶では殴っていないという目撃証言があります。

 

まず、ビール瓶で殴ったかどうかは、

ことの悪質さを示す重要な事実ですが、

この点は、目撃証言の信用性や他の証拠との兼ね合いの問題になるので、

ひとまずおいておきます。

 

加害者は、被害者の先輩的立場にあり、

被害者の不遜な態度を咎め、

教育的立場で指導をしようとして行き過ぎた、

行き過ぎてしまったことについて、

謝罪の意を示しています。

 

加害者の親的立場にある人物は、

被害者の親的立場にある人物に謝罪を申し入れましたが、

受け入れられませんでした。

 

加害者としては、

謝罪の申し入れをするなど筋は通した、

教育的指導というきっかけがあったのだが、

結果的に行き過ぎてしまった、

という言い分を持っています。

 

さて、こういったことは、

実際の刑事弁護では、

よくあることです。

 

警察の捜査を受け、暴行行為を認めている以上、

謝罪の意思を伝えようとするのは、

最低限度の常識です。

 

ただし、もし、謝罪の意思を伝えることを拒否されても、

謝罪を受け取ってくれない被害者を批判してはいけませんし、

そのようなそぶりを示すこともだめです。

刑事事件の被害者は、

事件の被害で心身が疲弊し、

加害者やその関係者と面談すること自体が、

苦痛だから、

拒否するのは当たり前と考えなければなりません。

 

ですので、刑事弁護では、

謝罪の意を伝える努力はしたが、

結局受け取ってもらえなかった。

自分がしてしまったことを考えれば、

当然だと思います、

と述べるのが、当然の在り方ということになります。

 

また、犯罪行為は釈明の余地はないが、

そのことに至る経緯は、

斟酌してほしいというケースもよくあります。

 

たとえば、侮辱的言動を被害者から浴びせられて、

憤りのあまり手が出てしまった、

というケースでは、行為自体は犯罪であっても、

その経緯に酌むべき点があるといえるでしょう。

 

しかし、教育のつもりだったが、

行き過ぎたという言い分は、

あまり心に響きません。

 

もし、裁判になって、

教育的指導が行き過ぎたと弁明しても、

そのことを斟酌してくれる裁判官は、

極めて少数だと思います。

 

なぜなら、教育と暴力は、

全く結びつかないからです。

 

結局、

「教育的指導のつもりでやったが、

そのようなことは言い訳にならないことは、

今であればわかります。」

という風に述べるのが正しい在り方でしょう。

 

犯罪行為が行われた場合には、

被害者の心境をおもんばかるのを第一に考えるべきではないでしょうか。

沈黙して耐えている被害者に対しては、

そっとしておいてあげてほしいと思わざるを得ません。

 

 

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最高裁において、これまでの判例を変更する判断がありました。

これまでは、強制わいせつ罪の成立には、

行為者自身の性的意図あるいはわいせつな内心の傾向を必要とすると考えられており、

昭和45年の最高裁の判決でその旨が判示されていました。

たとえば、復讐目的で女性の裸の写真撮影をすることは、

強要罪の成否はともかくとして、

強制わいせつ罪には当たらないと考えられていました。

 

今回の事件では、

お金を借りる相手からの要求で女児の裸を撮影したという事案のようです。

つまり、お金を借りる目的で撮影したものであり、

性的意図はなかったという主張があったようですね。

 

そもそも、この事案において、

性的意図がなかったといえるとは思えませんが、

最高裁は、その手前でこの主張をシャットアウトしたということでしょう。

 

この昭和45年の最高裁の判例は、

けっこう有名で、どの刑法の教科書にも載っています。

勉強していた当時から違和感があったのですが、

今回、最高裁が判例変更をしてくれて、

実務家としてもすっきりしました。

 

正直、実務家として、

本当に性的意図がなく復讐等の他の目的だけのために、

このような行為をする人がいるのだろうか、

いるとしてもその区別は可能なのだろうか、

被告人に言い訳のような主張を許し、

いたずらに審理を遷延化させるだけなのではないか、

などと思っていたところです。

 

改めて学生時代の教科書をめくってみました。

私は、大谷實先生の教科書で勉強していたのですが、

大谷先生は、

①刑法の条文上そのような要件は規定されていないこと

②行為者の主観によって被害者の性的自由が保護されるか否かが左右されるべきではないこと

③そのような性的意図を無意識の世界まで立ち入って判断するのは不可能であること

から、判例の立場に異を唱えています。

なるほどなるほど。

 

たとえば、上記の例のように女性の裸の写真をむりやり撮影した人が、

わいせつな気持なんかなかったです、

芸術作品として撮影しましたと主張するならば、

これまでの弁護人は、上記の昭和45年の最高裁の判例に従って、

性的意図がないとして争うことになります。

 

しかし、現代の一般的な感覚に従えば、

無理やり裸を撮影された女性は保護されないのか、

と大きなクエスチョンをつけることになるでしょう。

 

今日を境に、弁護士がこのような主張をすることはなくなるでしょう。

匿名での証人尋問は可能か。

弁護士ドットコムに対して、民事訴訟において

「匿名での証人尋問は可能か」

というタイトルで寄稿しました。

ご関心があれば、閲覧ください。

https://www.bengo4.com/saiban/n_6843/

 

この件について、

私の見解は、「難しい」というものでした。

 

しかし、明文上、排斥されておらず、

証人には出頭義務があることを前提とすると、

できるのではないかという見解も十分理にかなっています。

 

現に、刑事事件では、

犯罪被害者や証人の匿名証人尋問が認められていますし、

被害者名を被告人にも匿名にする運用がなされた例があります。

 

私が、「難しい」という見解をとったのは、

あくまで、私が知る限り、実務上、

そのような例がないのではないかという一点です。

 

不貞行為の証人という点で考えたとき、

極めて私的要素の強い訴訟ということになります。

そうすると、刑事訴追ほどの公益性がないので、

なおさら、匿名証人を認める方向にはならないと思います。

 

なので、この記事にある例では、

まず、匿名証人が認められる可能性はない、

と考えています。

 

本当は、裁判官がやろうと思ったら、

できるかもしれないけれど、

この事例ではまず「難しい」

というのが私の正確な見解ということになります。

 

弁護士ドットコムの記事は、

字数制限があって、

なかなかすべてを書けないので、

このブログで、補足させていただきました。