長い連休のなかにいると、これまで頭の中で組み立てていたものが、いつのまにかゆるんでいて、ガッチリ組まれた理屈の本からは逃げたくなる。この本もふたりの先生の対話なので柱は組まれているが、ふたりは幼馴染だった。45年も音信はなくそれぞれの道を歩いていた。ある日「もしかして、あの○○ちゃんかもしれない」と子どものころの愛称で思い出した。○○ちゃん時代に交わした声がよみがえってくる。わたしはそこへ引き込まれた。この本の茶の間である。「対話」となると会話とは違う。「死者との対話」といったように哲学的な要素もおもいうかべる。パブリックなことを話題にする部屋になる。ところが○○ちゃんたちは茶の間でしゃべっているので、肩の力をぬいている。時折、思い出したように肩をそろえているけれど。

 わたしたちはおしゃべりではない対話の基礎を○○ちゃん時代にやってきているかもしれない。相手を見て、受けた内容から考えてみる。これまでの体験で蓄積したものを組み立ててわかりやすく相手につたえる。そのころ野原にあったのは、子どもらしいがお互いのアイデンティテイの尊重。やがてニーチェやクラシック音楽に探検の道をさぐったとしても、これも対話にちがいない。対話には知識の貯えがいる。その前に自分を知る知恵がいる。先生たちはどういう時代に生き、なにを考えてきたのか。学生がポケットにいれて公園で読んでもいい本。