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2014-07-21

『岡本太郎とアール・ブリュット〜生の芸術の地平へ』展

テーマ:art
taro

アーティスト・画家である中津川浩章さんから『岡本太郎とアール・ブリュット』展のお知らせを聞いた時、その親和性を思えば、これは間違いなく良い展示になるだろうと確信しました。しかも、日本で障害のあるアーティストの作品の数々のディレクションをされてきた中津川さんが、今回はどのようにキュレートされるのか、本当に楽しみでした。

アール・ブリュット、アウトサイダー・アート、障害者アート、などいろんな呼び方(や厳密な定義?)があるようですが、もうそんな呼び方や境界さえどうでもいいじゃないか、同じ生命の根源という地平に並ぼうよ、というメッセージさえ聞こえてくるかのような展示でした。とても居心地が良く、2回、3回と繰り返し観てまわっていました。

中津川さんと岡本太郎美術館の仲野泰生さんが、20年くらい前から構想していた企画がようやく実現したとのことで、感慨深げに話すお二人の高揚した表情が印象的でした。そういう意味でも、この展示は本当に素晴らしい出来事(=事件)ではないかと。

10月5日までと会期も長いですが、長いと思っているとあっという間に見逃しますので(そういうもんですw)、生田緑地の中を散策しながら観に行くのを絶賛オススメ中。てか、必見!!

8月10日(日)14:00~ 中津川さんのライブ・ペインティングがあります~コレも楽しみ!
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2014-06-17

『デザイン・ミーティング』開催のお知らせ

テーマ:architectual design
designmeeting
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2014-06-02

ソックリ!ビックリ!

テーマ:blog
昨日までいさらアートスペースでやっていた赤佐ひかりさんの展示に来られた、作家さんの知り合い御夫妻。連れていたヘビーカーでスヤスヤ眠っていた1歳児の寝顔がウチの娘の同じ頃にソックリだね~と私とカミサンで懐かしがっていました。

まぁベイビーなんて寝顔はだいたいみんな似ていて、起きたら違うんだろうな、などと思っていたら、起きてもソックリ過ぎてビックリ。ソックリ!ビックリ!

娘のその頃の写真を御夫妻に見せたら、まるでウチの子の写真ですね、と。(笑
一卵性ではないかという程の似方に、その場に居合わせた人も皆、驚いていました。

akari_baby
上が昨日のベイビー
下が7~8年前の娘

今日、別の所でその話をしたら「隠し子だったりして」などという冗談も飛び出しましたが、それだったらそれで面白いのですが(>ヲイ!)、それよりも、もっともっと面白い話だと思っているのです。

ウチの娘は母と父のどちらに似ているかと言えば、部分ではそれぞれの部分に似ているけれど、全くソックリなわけではないミックス。一方、御夫妻とベイビーも、ウチと似たような感じなワケです。部分的にはどちらかに似ているかもね~という感じ。

そして、私と御夫妻のダンナさんが似ているかと言えばそうでもないし、なんとなく似ているところもある感じもするし、カミサンと御夫妻の奥さんが似ているかと言えばそうでもないし、なんとなく似ているところも強いて挙げれば無くもない、くらいな…。

世界には自分とソックリな人が3人いる(だったっけ?)というようなことがよく言われますが、いわば「掛け合わせの妙」とでも言うべき現象によって、とてもよく似た造形が出来上がるという、人間という生物の、偶然にしてナンとも不思議な話だな~と感動していたのでした。

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2014-05-06

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その4)

テーマ:blog
(その4)

(その3)で紹介させて頂いた『皮膚感覚と人間のこころ』によれば、「感覚」と「知覚」の違いは、環境因子による局所的な反応が「感覚」、脳が感覚器からの情報を認識することを「知覚」と定義されている(ニコラス・ハンフリー博士『喪失と獲得』)ようですが、猫を見ていると、殆ど感覚だけで生きているんじゃないかという気がしてきます。

猫を見て「あー私も猫になりたい」という方の発言は、「私は感覚的に生きたい」とついつい翻訳してしまうのですが(笑)、少し前に取り上げられていた猫の話を最後のオマケに。この猫は一体何を感じ取っているのだろうかと、不思議です。

人間の死期を予測する猫、「オスカー」についての考察


2014-05-05

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その3)

テーマ:blog
hifukankaku

(その3)

もう3月で修了しましたが、運営に関わっていた東京デザイン塾の講義の中で、今年の1月に工業デザイナーの秋岡芳夫さんと共に活躍されていた山口泰子さんを講師に招いた時の話。

秋岡さんは打合せ中も常にナイフを手にし、木片や竹を削ってかたちを作っていて「手で考える人」だと山口さんは思ったそうです。その講義の中で『皮膚感覚と人間のこころ』傳田光洋(新潮選書)という本を紹介して頂き、これを読んだら秋岡さんのことがとてもよく分かったと言われました。

環境の変化を受容するシステムとしての皮膚を考えた時に、単細胞から多細胞へと進化していく中で複雑化し、原生動物でさえも感覚器を身体の表面に備え始めます。やがて感覚器が神経になり、神経網の一部が脳になったと考えられることから、脳ができる前には生物は体表で音や光を感じていた(p.43-44抜粋)、とあります。

脳科学がもてはやされ、様々なことが脳に還元されてしまうかのような昨今ですが、皮膚で感じることの方が「先」であるというくだりには、思わずガッテン・ボタンを何度も押してしまいました。

他にも、皮膚とこころの関係や物理的な身体の表皮としての防衛機能、皮膚が聴覚や視覚さえも持ち得るという話(!)、皮膚装飾の文化論、果ては自己意識を形成するのも皮膚ではないかという、心身二元論を解体する(!)話まで、興味深い話が並びます。

「生理学的には、例えば感覚の固定化、つまり神経細胞のネットワークにおいて変化しないように処理された記憶が、自己意識の本質ではないでしょうか」(p.132)

ま、ここだけピンポイントで取り出しても…ですが、かんかくの話を逆にかがく的に捉えた本として非常に面白かったので、この流れで紹介したかったのです。

hifukankakiu

全身を使って絵を描く時の皮膚感覚!(撮れたて画像)



2014-05-04

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その2)

テーマ:blog
kanjiro

(その2)

昨秋、娘がクラスで「生き物係」になり「いきものがかり新聞」を毎月発行することになったと話してくれました。その新聞をパソコンで(Wordか何かで)つくると言い出したので、それはちょっとどうなんだろうと話し合いになりました。

ちょうど(その1)のように私自身、漢字をトリモロスために手書きを始めたこともあり、覚える段階にある君たちが何故進んで忘却しようとしているのだ!などとは言いませんでしたが(笑)、やはりクラス新聞は手書きの方がいいのではと。

パソコンの基本的な操作を覚えるとか、将来使えるようにWordやExcelなどに慣れておくというのはありますが、それはそれで覚えればいい。また、そもそも何故親が操作を教えてクラス新聞を手伝うのか、というのもありました。

さらに一番大事だと思うのが、Wordなどでつくった新聞が写真を貼ったりカラーを使ったりして一見キレイに見えるのですが、何だか画一的で面白くないのです。3Dレンダリングした建築のCGパースが、皆同じに見えてしまうように。

やはり手書きの方が絵も自由に描けるし、ちょっとした装飾なども出来るし、たとえ字がひん曲がっていようが、その子の個性が丸出しになる所が面白いワケです。個性なんて出そうとしなくても自然と出てしまうもの。

この冬の大雪の時に、小学校では雪合戦を「危ないから」やらせてもらえなかったらしく、そのことにも驚愕でしたが、マウスやキーボードやタッチパネルを介さず、アナログ的にリアルに世界を「体感」すること、それが小学校時代に一番やるべきことなのではないか、とさえ思うのです。

いや、大人も同様。ジョブズが残していったパソコンやスマホによって、確かに世界は変わったけれど、人間の感覚としてはこれでホントに良かったのだろうかと。「書を捨てよ、町へ出よう」ではないですが、「スマホを捨てよ、町へ出よう」的な、寺山修司な気分なのです。

kengo

願わくば、田んぼへダイブ!するくらいの世界を体感出来れば!(撮れたて画像)

2014-05-03

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その1)

テーマ:blog
昨年末最後に、来年(つまり今年)のテーマは「かがく、じゃなくて、かんかく」とつぶやいたんですが、そのことに関連した話についてモロモロと、ダラダラと。

kankaku

(その1)

昨秋逝去した父。その介護をしながら父の身体に触れた時、そういえば握手や髭剃りはしていましたが身体に触れることはなかなか無かったなと。そして、もうたぶんこれが父に触れる最期になるであろうことへの予感を孕みながら、そのリアルな感覚を大事にしようと思いました。その時の感覚や出来事を備忘録として、亡くなる3ヶ月前くらいから「父との時間」としてメモしていました。

最近ひどく漢字を思い出せなくなってきていて、年のせいにしたり、スマホやパソコンのせいにしたり。そこで、漢字を体感的に取り戻すために、9月の初め頃から「父との時間」をノートに手書きし始めました。さすがにメール等はダイレクトに打込みますが、業務日報やちょっとしたメモやスタディなどを全て手書きにしたところ、ズルズルと言葉が引き出されてくるような感覚になることもしばしば。(evernoteで検索することは出来ないけれど・笑)

未だに思い出せない時は辞書やパソコンで探したりして、娘の漢字の書き取り同様、ノートにあらためて書き直すようなことを続けています。もう忘却との戦いです。(おおげさ)

小学校3年生くらいから学校で習う漢字の数がグンと増え、書き取りの宿題に「ひーひー」言っていた娘を見ていて、小3から小4、小5くらいまでが身体の成長と共に脳もすごく発達するのだろうなと思いました。その時期に基礎学力としての漢字や九九といったものを「詰め込む」ことを文科省は義務化しているワケですね。

自分の小学校時代を思い返してみても、相当漢字練習を(上手く乗せられて)やらされていたなと思います。その頃覚えたことって、山手線一周の駅名とか、手旗信号とか、ルービックキューブとか(笑)いまだに忘れないですもんね。ま、それはいいとして。

要は、漢字というのは体感的に覚えてきたのだろうから、体感的に手書きすることで思い出すのではないかと思い至ったのです。(実際は果てしなき戦いですが…)
2014-05-01

『里山資本主義』→田植えへGO!(無理矢理)

テーマ:book
里山を「手入れ」することで、川下→海への循環が良くなるという話は小学校の教科書にも載っていますが、数年前に奥多摩へ東京の林業の実態を見学に行った時には、現実的な問題が山積みでした。

人件費の高騰や安い洋材の普及に伴いますます林業が衰退し、山が荒れてきているという話を聞く一方で、その林業を建て直そうと山に入る人や流通の末端から東京の木を使って住宅を造ろうという頑張っている人達もいるということに、微かながらも希望を感じたりしていました。

satoyama

先日、叔母が「読んでみれば」と置いていった『里山資本主義』という本をパラパラとめくってみてました。

『里山資本主義』では、3年前の震災以降のエネルギー問題に絡めて、バイオマス産業の創出によって林業を立て直し経済的自立を進めている地方都市(岡山県真庭市)や、オーストリアにおける先端事例などを紹介したり、過疎であること・何もないことを逆手に取った地方独自のアイデアで都市部の人々を惹きつけ、里山の活性化をしている事例などが紹介されていて、まだまだ発想の転換をしていく余地があるんだなぁと思わされたり。

特に森を資源とするからには、乱伐御法度、50年~100年先を見越して管理していくことが必要で、オーストリアではその「持続可能性」にも対応できていることが印象的でした。

最近よく話に聞くCLT(Cross Laminated Timber)という集成材を使った木造の高層建築化についても紹介されていたけれど、うーむ、あまり触手が伸びません。鉄筋コンクリートに変わる素材として集成材に置き換えられても…。木という素材の特性を突き詰め、温熱環境を含めた木造ならではの空間のあり方を探るという方がむしろ、興味ありですね。

また、ゼネコンや電機メーカーなど蒼々たる企業の参加している「スマートシティ」構想が「企業版・里山資本主義」であり、21世紀は「里山資本主義」と「スマートシティ」の両輪で現代日本の様々な問題を解決していく、という話は、先の見えない現在において一つのビジョンを示してはいるものの、かなり楽観的過ぎるのではないだろうかと。

でもこれくらいのビジョンがないと世の中つまらないので、多少なりともバランスの取れた(裏を返せば当たり障りのない)希望を提供してくれるという点で、良いのでしょうね。(本として売れるのでしょうね>辛口)

それでも、全体的に読んでいて林業や地方活性化において元気の出る事例が多かったので、自分も動かなきゃーと思わされる本でした。

なので、今週末5/4、千葉鴨川の里山で田植えをしてきます。(>全く関係ないけどw)
8年目に入りますが、まだまだ。今年はもっと突っ込んで、地元の人から教わりたいと思っています。

田植え→稲刈り体験したい方、いつでもウェルカムですので御連絡下さい!
気持ち良いですよ~

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2014-04-07

「自己表現」なく、「表現」あるのみ

テーマ:art
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先週の土曜日、中野のテルプシコールで行われた加藤啓×千野秀一《人形サーカス》を観て来ましたが、これはやばかったです。何がやばかったって、もうやばいのなんのって>お前はボキャブラリーの乏しい若いヤツラか?

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流木などから創られた、大・小の人・動物など様々な表情を持った人形たちを、加藤さんが順番に生命を吹き込むかのように登場させ、そこに千野さんのオルガン、ピアノなどが被さってきます。

ningyo_circus03

パントマイムのように言葉はなく、その繊細な動きで見る側にストーリーを想像させるという即興パフォーマンス。創造された人や動物が観客を果てしない想像へと巻き込み、音と共に空間全体で創造へと好循環していくかのようなステージは、素晴らしかったです。

ningyo_circus04

吹き込まれた生命が宿るその人形たちの姿・動きが何とも言えない哀愁さえ漂うほどで、自分の感情の奥底にいつしか沈んでしまっていたスイッチを押され、揺さぶられるようでした。

加藤さんが生命を吹き込むことによって、彼の表現になる。
至極あたりまえのことだけれど、「表現」とはその人そのものに他ならない。つまり「自己表現」という言葉はdouble meaningであり、馬から落馬するようなものだ(ホントか?)、ただただ「表現」があるのみだ、ということに思い至った、美しい夜でした。

2014-04-02

子供にお金の使い方を教えるのは結構難儀だ

テーマ:blog
そのうちいつかは来るとは思っていたが、今度小学校4年になる娘が「3DS欲しい、買っちゃダメ?」と聞いてきたので、妻も私も「宿題から生活まで、自分のことがチャンと出来るようになってからだね」とまずは賛成しなかった。

とりあえず頭ごなしに反対するのもナンなので「なぜ欲しいの?何がやりたいの?」と聞くと、友達がみんな持っているし、「どうぶつの森」や「コナン」をCMでやっていて欲しくなったからだという。まぁ、CMというのはそういうもので、繰り返し見せて感覚を麻痺させ「欲しく」させておいて、君たちから金をふんだくろうとしているんだよ、君はそのワナにまんまと嵌ろうとしているのだよ、ハッハッハッ!と説明してみたものの、あまり納得していない様子。

じゃあ3DSやっている子の生活がどうなってるか知ってるでしょ?夜遅くまでゲームしていて朝起きられない、授業にも身が入らない、何も良いことがない、というより学校で問題にさえなっているのは知ってるでしょ?あなただって、一緒に遊んでいる友達が3DSばっかりやっていて面白くないと言ってたんじゃなかったっけ?と言うと、頭では理解出来ていても、まだ「欲しい」に傾いていて、自分のお金、お年玉で買うから、という。

それに対し、妻が援護射撃で「ソフトも買わなければならないし、オンラインで課金されたりして知らない間にどんどんハマっていくのよ」と脅しにかかった。ゲームには中毒性があるということを理解してやっているのと、それが分からないでハマっていくのとでは、雲泥の差、あなたはそれさえも分かっていないからまだ早い。

まぁ父と母による総攻撃を受け、自分の提案が受け入れられなかったことに、娘は納得がいかずにご立腹の様子。その場はひとまず時間切れ。私はシャワーを浴びに行き、3DSの否定よりもお金の使い方の話をした方がいいかもしれないと思い立ち、自分がお金を使う時のことを検証してみる。シャワーから出てきて娘に、私が普段お金を何のために使っているかを話す。

一番目には生きるためや生活するために必要なものに使う。食べることや電気ガス水道や家賃、保険、税金など。
二番目には感性を高めるために使う。アートや音楽、ライブ、映画、舞台など。あなたの音楽の習い事にも、それが感性を高めるならば、喜んで使う。

この前ライブに行った帰りに、みんなで立ち寄った雑貨屋さんで、私が買ってあげたバードコール。あれは、鳥好きで鳴き真似が得意なあなたの感性にとって、とても良いモノじゃないかと思ったから買ったの。自然の木を使っていたし、鳴らしたらとても綺麗な音がしたからね。

あなたもこの前自分のお年玉で動物造形作家さんの作品を迷い無く買った時に、私は素晴らしい使い方をした!と褒めたよね。そういう使い方の方が3DSを買うよりも良いと思うなぁ。

お金の方も、気持ちの良い使い方をされれば、またこの人の所に戻って来ようと思うんだよ。汚い使い方をすると、なかなか戻って来ない。そうやって血が身体を巡るように、お金はこの世の中をまわっているのね。

さて、ここまで言って娘は納得したのか煙に巻かれたのかは分からないが、話は一応終わった。

その後も、お金の使い方について考えていて、そういえば三番目に「嗜好のために使う」というのもあるなとも思ったけれど、そしたら「3DSも私の嗜好である」と言われたらおしまいなので、黙っておくことにした。

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