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2015-04-11

会津・さざえ堂

テーマ:architectual design
裏磐梯在住の叔父が年初に骨折し、そのお見舞いを兼ねて遊びに行くという私の姪の企画があり、珍しいメンツだったので便乗してきました。私も叔父の所へ行くのは、おそらく14~15年ぶりくらい。

そして、せっかく行くのだからと、ずっと行ってみたかった会津若松にある「さざえ堂」まで、足を延ばしてきました。

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「さざえ堂」は、正宗寺の僧侶・郁堂が考案したとされる仏塔で、寛永8年(1796年)会津・飯盛山に建立されました。内部が2重螺旋のスロープになっていて、上りと下りが別の通路になっています。その通路に沿って西国三十三観音像が安置されていて、このお堂を参拝することで三十三観音参りが出来るということのようです。つまり、発想的にはものぐさ坊主だったという…

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プロポーションは綺麗

昭和28年に「本堂傾斜復旧工事完成」なる札も掛かっていたので、傾いたのを修復したこともあるのだろうけれど、ハッキリ言って傾いていても全くわからないと思うくらいな、外観。もちろん内部にいても。

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拝観料400円を払い、基壇部の階段を数段登った所の入口から、スロープが始まります。

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途中、中心部を通して上りと下りがお互いに見える場所があったり(行き来もしようと思えば出来る)、決して高くない天井高さの天板が逆方向の床板だったりと、何とも不思議な空間体験。

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芯柱と六角形の平面の角柱を梁で結んでいるシンプルな架構なのだけれど、レベルが常に変わり続けるために、その施工はかなり難儀であったと推測できます。ホント、よく造ったなーって感じ。

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最後は上り口と反対側へと戻り、基壇部を通って元の階段へと。

いやー楽しかったです。このワクワク感は何なんだろうと思ったのですが、これは「遊具」なのだなと。

「さざえ堂」は小さいながらにして空間を持つ「建築」なのだけれど、最初から最後まで機能としての「動線」しかない空間は、「遊具」と同じ構成であるがゆえに、ワクワクするのだなと思った次第です。
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2015-01-24

『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』

テーマ:cinema
izaihou
写真はアップリンクのサイトより拝借

昨年たまたま、比嘉康雄著『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』を読んでいたので、まさかその祭祀「イザイホウ」の映像が見られるとは!と思い、迷わず予約して観てきました。

「イザイホウ」とは、久高島で12年に一度行われてきた祭祀で、1978年を最後にもう行われていないとのこと。映像は1966年の時の祭祀でしたが、島の生活の過酷さや、島を守ってきた女たちの姿、そして祭祀の様子など、貴重すぎる映像でした。

興味のある方は、上記、比嘉氏の著書を合わせて読むのを絶賛オススメ中です~!

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2015-01-05

「精神修養」

テーマ:blog
nenga

謹賀新年
今年もよろしくお願いします!

もうこのブログのことを忘れていたわけではありませんw
身の回りに起こる状況に、記述が追いつかないというくらい、
いろいろありすぎていっぱいいっぱいだったわけで。
あらためて記述することを積極的にしていく年にしたいなと
思っております。

昨年の個人的なテーマとして、「感覚」というのがありました。
それを意識しながら身体を動かしていました。

その流れから、今年の(でも実は去年からダラダラ続く)テーマとしては、

「精神修養」

コレで行くことにしました。

何卒、ごひいきに。
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2014-10-04

新井淳夫「フランスの最も美しい村々」-第4章-

テーマ:art
arai02

フランスの美しい風景画の並ぶ展示です。
会場で「新井さんの眼は広角レンズですね」と言ったら、「みんなそう見えているんだけどね」と新井さん。そうそう確かに、時間と共にシークエンシャルな空間認識というのは歪んでいるし、それを2次元の絵にした時にはそうなるだろうなと。

いつも素晴らしいなと思うのが、グッと惹きつけられる鳥瞰図的な風景画。実際にその風景を見ている場所から50mくらい上方に、鳥のように飛んだらこう見えるのかな、という新井さんの「具体的な」心象風景。

ここでも空間は大いに歪む。けれど、むしろ我々は空間を歪んで認識しているのだけれど、常に自己補正していることにすら気づいていない、ということに気づきましたw
(酔うと自己補正も無くなるけどねw)

絵と共にあるテキストを読んでいくと、新井さんと一緒に旅している気分になれます。
タンバリンギャラリーにて、明日10/5(日)まで!

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2014-07-21

『岡本太郎とアール・ブリュット〜生の芸術の地平へ』展

テーマ:art
taro

アーティスト・画家である中津川浩章さんから『岡本太郎とアール・ブリュット』展のお知らせを聞いた時、その親和性を思えば、これは間違いなく良い展示になるだろうと確信しました。しかも、日本で障害のあるアーティストの作品の数々のディレクションをされてきた中津川さんが、今回はどのようにキュレートされるのか、本当に楽しみでした。

アール・ブリュット、アウトサイダー・アート、障害者アート、などいろんな呼び方(や厳密な定義?)があるようですが、もうそんな呼び方や境界さえどうでもいいじゃないか、同じ生命の根源という地平に並ぼうよ、というメッセージさえ聞こえてくるかのような展示でした。とても居心地が良く、2回、3回と繰り返し観てまわっていました。

中津川さんと岡本太郎美術館の仲野泰生さんが、20年くらい前から構想していた企画がようやく実現したとのことで、感慨深げに話すお二人の高揚した表情が印象的でした。そういう意味でも、この展示は本当に素晴らしい出来事(=事件)ではないかと。

10月5日までと会期も長いですが、長いと思っているとあっという間に見逃しますので(そういうもんですw)、生田緑地の中を散策しながら観に行くのを絶賛オススメ中。てか、必見!!

8月10日(日)14:00~ 中津川さんのライブ・ペインティングがあります~コレも楽しみ!
2014-06-17

『デザイン・ミーティング』開催のお知らせ

テーマ:architectual design
2014-06-02

ソックリ!ビックリ!

テーマ:blog
昨日までいさらアートスペースでやっていた赤佐ひかりさんの展示に来られた、作家さんの知り合い御夫妻。連れていたヘビーカーでスヤスヤ眠っていた1歳児の寝顔がウチの娘の同じ頃にソックリだね~と私とカミサンで懐かしがっていました。

まぁベイビーなんて寝顔はだいたいみんな似ていて、起きたら違うんだろうな、などと思っていたら、起きてもソックリ過ぎてビックリ。ソックリ!ビックリ!

娘のその頃の写真を御夫妻に見せたら、まるでウチの子の写真ですね、と。(笑
一卵性ではないかという程の似方に、その場に居合わせた人も皆、驚いていました。

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上が昨日のベイビー
下が7~8年前の娘

今日、別の所でその話をしたら「隠し子だったりして」などという冗談も飛び出しましたが、それだったらそれで面白いのですが(>ヲイ!)、それよりも、もっともっと面白い話だと思っているのです。

ウチの娘は母と父のどちらに似ているかと言えば、部分ではそれぞれの部分に似ているけれど、全くソックリなわけではないミックス。一方、御夫妻とベイビーも、ウチと似たような感じなワケです。部分的にはどちらかに似ているかもね~という感じ。

そして、私と御夫妻のダンナさんが似ているかと言えばそうでもないし、なんとなく似ているところもある感じもするし、カミサンと御夫妻の奥さんが似ているかと言えばそうでもないし、なんとなく似ているところも強いて挙げれば無くもない、くらいな…。

世界には自分とソックリな人が3人いる(だったっけ?)というようなことがよく言われますが、いわば「掛け合わせの妙」とでも言うべき現象によって、とてもよく似た造形が出来上がるという、人間という生物の、偶然にしてナンとも不思議な話だな~と感動していたのでした。

2014-05-06

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その4)

テーマ:blog
(その4)

(その3)で紹介させて頂いた『皮膚感覚と人間のこころ』によれば、「感覚」と「知覚」の違いは、環境因子による局所的な反応が「感覚」、脳が感覚器からの情報を認識することを「知覚」と定義されている(ニコラス・ハンフリー博士『喪失と獲得』)ようですが、猫を見ていると、殆ど感覚だけで生きているんじゃないかという気がしてきます。

猫を見て「あー私も猫になりたい」という方の発言は、「私は感覚的に生きたい」とついつい翻訳してしまうのですが(笑)、少し前に取り上げられていた猫の話を最後のオマケに。この猫は一体何を感じ取っているのだろうかと、不思議です。

人間の死期を予測する猫、「オスカー」についての考察


2014-05-05

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その3)

テーマ:blog
hifukankaku

(その3)

もう3月で修了しましたが、運営に関わっていた東京デザイン塾の講義の中で、今年の1月に工業デザイナーの秋岡芳夫さんと共に活躍されていた山口泰子さんを講師に招いた時の話。

秋岡さんは打合せ中も常にナイフを手にし、木片や竹を削ってかたちを作っていて「手で考える人」だと山口さんは思ったそうです。その講義の中で『皮膚感覚と人間のこころ』傳田光洋(新潮選書)という本を紹介して頂き、これを読んだら秋岡さんのことがとてもよく分かったと言われました。

環境の変化を受容するシステムとしての皮膚を考えた時に、単細胞から多細胞へと進化していく中で複雑化し、原生動物でさえも感覚器を身体の表面に備え始めます。やがて感覚器が神経になり、神経網の一部が脳になったと考えられることから、脳ができる前には生物は体表で音や光を感じていた(p.43-44抜粋)、とあります。

脳科学がもてはやされ、様々なことが脳に還元されてしまうかのような昨今ですが、皮膚で感じることの方が「先」であるというくだりには、思わずガッテン・ボタンを何度も押してしまいました。

他にも、皮膚とこころの関係や物理的な身体の表皮としての防衛機能、皮膚が聴覚や視覚さえも持ち得るという話(!)、皮膚装飾の文化論、果ては自己意識を形成するのも皮膚ではないかという、心身二元論を解体する(!)話まで、興味深い話が並びます。

「生理学的には、例えば感覚の固定化、つまり神経細胞のネットワークにおいて変化しないように処理された記憶が、自己意識の本質ではないでしょうか」(p.132)

ま、ここだけピンポイントで取り出しても…ですが、かんかくの話を逆にかがく的に捉えた本として非常に面白かったので、この流れで紹介したかったのです。

hifukankakiu

全身を使って絵を描く時の皮膚感覚!(撮れたて画像)



2014-05-04

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その2)

テーマ:blog
kanjiro

(その2)

昨秋、娘がクラスで「生き物係」になり「いきものがかり新聞」を毎月発行することになったと話してくれました。その新聞をパソコンで(Wordか何かで)つくると言い出したので、それはちょっとどうなんだろうと話し合いになりました。

ちょうど(その1)のように私自身、漢字をトリモロスために手書きを始めたこともあり、覚える段階にある君たちが何故進んで忘却しようとしているのだ!などとは言いませんでしたが(笑)、やはりクラス新聞は手書きの方がいいのではと。

パソコンの基本的な操作を覚えるとか、将来使えるようにWordやExcelなどに慣れておくというのはありますが、それはそれで覚えればいい。また、そもそも何故親が操作を教えてクラス新聞を手伝うのか、というのもありました。

さらに一番大事だと思うのが、Wordなどでつくった新聞が写真を貼ったりカラーを使ったりして一見キレイに見えるのですが、何だか画一的で面白くないのです。3Dレンダリングした建築のCGパースが、皆同じに見えてしまうように。

やはり手書きの方が絵も自由に描けるし、ちょっとした装飾なども出来るし、たとえ字がひん曲がっていようが、その子の個性が丸出しになる所が面白いワケです。個性なんて出そうとしなくても自然と出てしまうもの。

この冬の大雪の時に、小学校では雪合戦を「危ないから」やらせてもらえなかったらしく、そのことにも驚愕でしたが、マウスやキーボードやタッチパネルを介さず、アナログ的にリアルに世界を「体感」すること、それが小学校時代に一番やるべきことなのではないか、とさえ思うのです。

いや、大人も同様。ジョブズが残していったパソコンやスマホによって、確かに世界は変わったけれど、人間の感覚としてはこれでホントに良かったのだろうかと。「書を捨てよ、町へ出よう」ではないですが、「スマホを捨てよ、町へ出よう」的な、寺山修司な気分なのです。

kengo

願わくば、田んぼへダイブ!するくらいの世界を体感出来れば!(撮れたて画像)

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