石山教会の公式ブログへようこそ!

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滋賀県大津市にある日本基督教団に所属するプロテスタント教会、石山教会の公式ブログです。

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2016年2月7日 礼拝予告

○教会学校 9時15分~
主題:「大祭司キリストの祈り」
聖書:ヨハネによる福音書17章1節~5節

*礼拝後、誕生者の祝福、そして、絵本の読み聞かせがあります。保護者の方々もどうぞお越し下さ
 い。

○主日礼拝 10時30分~
主題:「復活の力」須賀 工牧師
聖書:マタイによる福音書22章23節~33節

*礼拝後、五分の集い、信仰を学ぶ会が行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

2016年1月31日 主日礼拝説教

主題:「神のものは神に」須賀 工牧師
聖書:マタイによる福音書22章15節~22節

今朝、私達に与えられた御言葉は、マタイによる福音書22章15節から22節の御言葉であります。15節から17節の御言葉を改めてお読みします。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、教えてください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」。
 これまで主イエス・キリストは、イスラエルの指導者たちに向けて「三つの譬え話」を語ってこられました。何の為にでしょうか。それは、イスラエルの指導者たちが、主イエスを真の救い主と信じ、自らの立場を捨てて、神様の下に悔い改めるためであります。主イエス・キリストは、度重なる指導者たちの悪意に対しても、彼らが裁かれ、滅ぼされることではなく、彼らが正しく救われることを心から望んでおられるのであります。
 しかし、今朝の御言葉を読んでどうでしょうか。彼らには、主イエス・キリストの思いが通じなかったようであります。彼らは悔い改めるどころか、主イエス・キリストの「言葉じりをとらえて、罠にかけようとする」のであります。主イエス・キリストを何としてでも捕らえ、あわよくば殺してしまいたい。そのように思い巡らすのであります。ここに、イスラエルの指導者たちが、陥った頑なな罪がある。そして、自らの罪を認められなかったがために行き着いた悲惨な現実が描かれているのであります。
 さて、今朝の御言葉によれば、今回は、イスラエルの指導者たち、とりわけファリサイ派の人々が中心となって、主イエス・キリストに対して論争を挑んだようであります。また、聖書によれば、今回の論争は、計画的に十分練り上げられたものであったようでもあります。
 その特徴の一つは、彼らが自分たちの「弟子達を遣わした」ということでありましょう。なぜ、このようにしたのでしょうか。それは、彼らの悪意が悟られないためであります。彼らの顔は既に主イエス・キリストによって知られています。それゆえに、顔が知られていない弟子達を送ることによって、この論争の裏にある悪意と罠に気づかせないようにしたのであります。また、いかにも下の方から「弟子として先生に尋ねる」という形式を取ることによって、確実に、主イエス・キリストから回答を得ようと考えたのではないかと思います。
 もう一つの特徴は、この問いかけが、あまりにも「丁寧すぎる」ということです。弟子達は、次のように言いました。「先生、私達は、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であること知っています。人々を分け隔てなさらないからです」。
 「分け隔てをしない」という言葉は、「人の顔を見ない」という意味です。つまり、「人の顔色を見ずに、神様の真実を語る方。それがあなただ。」そのように褒め称えているのであります。このように、主イエス・キリストの姿、即ち、分け隔てをせず、人をはばからず、神の真理を語る姿。その姿について、丁寧に的確に言い表すことによって、主イエス・キリストが、次に来る質問に確実に答えなければいけない。そのような状況を作り出すことを目的としているのであります。丁寧な物腰で、知らない人から物を尋ねられたとするならば、答えなければいけないという雰囲気ができてしまうものです。しかし、この態度の背後には、主イエス・キリストを何としてでも捕らえてやろうとする悪意がある。良い言葉を並べていながらも、言葉じりをとらえ、罠にかけてやろう。恥をかかせてやろうという悪意がある。主イエスの言葉から言うならば、正に、表面的に良いことを利用して、自分たちが有利に立とうとする。偽善者の姿があるとも言えるかも知れません。主イエス・キリストもまた、その悪意に気づかれているのでありましょう。
 そして、最後に、この計画を完璧にするためのもう一つ大事なことがありました。それは、彼らが「ヘロデ党の人々」も一緒に遣わしたということであります。
 「ヘロデ党」とは何でしょうか。簡単に言うならば、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きであります。当時、ヘロデの地位は、ローマによって支えられていました。
それゆえに、彼らもまた、ローマの支配を受け入れることによって甘い汁を吸ってきた人々であります。言うならば、世俗主義的な人々でありましょう。ユダヤ人の信仰生活を誰よりも重んじ、ローマの支配を認めないファリサイ派にとっては、敵対関係にあった人々であります。
 しかし、その両派がここでは、共に行動をすることになる。言い方を変えるならば、利害関係が一致したのであります。では、どこで一致しているのか。主イエス・キリストを抹殺することにおいて一致しているのであります。ヘロデ党の人々は、自分たちの権威を守るためには、洗礼者ヨハネの殺害も認める人々であります。主イエス・キリストのような存在を認めるわけにはいきません。ファリサイ派もまた同じであります。自分たちの立場やプライドを汚されて黙っているわけにはいかない。
 要するに、彼らは主イエス・キリストを滅ぼし、抹殺することによってのみ、自分たちの立場や権威が、この世で守られると考えていたのかも知れません。そして、そのところで、お互いの利害を越えて一致することができた。少し、見方を変えるならば、神の御心よりも、自分たちの立場を守りたい、自分たちの正しさを守りたい、自分たちが主人になりたいという思いで一致することができた、ということなのであります。ファリサイ派にとっても、ヘロデ派の人にとっても、悔い改めて神を主とすることよりも、自分を愛し、自分が主人となり、自分が権力を持っていることの方が大切なのであります。
 さて、彼らの論争のテーマは何でしょうか。それは「納税について」であります。ローマ皇帝に税金を納めることが、律法に基づいて正しいのか正しくないのか。この問いかけもまた、決定的な問いかけでありましょう。
 ユダヤ人たちが当時、最も苦痛に感じていたのは、ローマ帝国が課している人頭税でありました。それは、自分たちがローマに征服され、支配されていることを思い知らされる屈辱的な制度であります。また、人頭税は、所得に関わらず、全てのユダヤ人に課せられていました。そのために、経済的な負担が相当あったとも言われています。更に言うならば、当時、ローマ皇帝は、自らを神であると称していました。その皇帝にお金を納めなければいけないということは、信仰的にも大きな侮辱であったことでしょう。それゆえに、パレスチナでは血を流すほどの暴動もありました。また、ユダヤ人が求めていた救い主が、具体的には、この税金の苦しみから解放する救い主であったとも言われています。
 どちらにせよ、ここでは、その税金を払うことが正しいか正しくないか。それが問われている。もし、主イエスが皇帝に税金を納めなくて良いと言うならば、そこはヘロデ党の出番です。彼らは直ぐにでも、ローマ総督に訴えでて、ローマへの反逆者として主イエスを捕らえることができます。もし、逆に主イエスが、「税金を納めなさい」と言うならば、即ち、ローマの支配を認めたのならば、主イエスはユダヤ人に対する反逆者となります。主イエスを救い主と信じた人々を裏切ることになります。つまり、どう答えても、主イエスにとっては不利になる質問なのであります。
 これに対して、主イエス・キリストは、どのようにお答えになったのでしょうか。「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に収めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。主イエス・キリストは銀貨に刻まれた「肖像と銘」を指して、そのように仰せになった。当時の感覚では、貨幣は、それを発行した支配者のものであると考えられていました。皇帝の肖像と銘のある銀貨は皇帝のものなのです。つまり、皇帝のものであるお金を皇帝に返すのだから、税金は納めるべきであると言われたことになります。つまり、このように仰せになることによってヘロデ党の思惑を打ち返すことができたのであります。
 そして、同時に、「神のものは神へ返しなさい」とも仰せになられた。つまり、神の民としての生き方をここで示されたことになります。このように答えることによって、ファリサイ派の思惑も打ち返すことになったのであります。このようにして、主イエス・キリストは、どちらの罠にもかからない見事な答えをされたことになるのです。それに対して、人々は、ただただ驚いて、立ち去ることしかできなかった。そのように、聖書には示されているのです。さて、この主イエスの御言葉をもう少し詳細に見ていきたいと思います。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。主イエス・キリストは、ここで「皇帝のもの」と「神のもの」を区別して考えているのでしょうか。少し言い方を変えるならは、「世俗的なこと」と「信仰的なこと」は区別されなければいけない。そのように教えているのでしょうか。言うならば、政教分離の原理がここで語られているのでしょうか。もし、そのように解釈されるならば、私達の生活は二つに分裂した二重生活になるのではないでしょうか。生活を二つに分断し、それを時によって、場合によって使い分けていく。そのような生き方を、主イエス・キリストは、ここで教えているのでしょうか。
 ここで、重要なことは、主イエスが「神のものは神に返しなさい」と言われていることであります。「神のもの」とは何でしょうか。詩編24篇には次のような言葉があります。1節と2節をだけをお読みします。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」。つまり、神が造られたもの全ては、神のもの。それが、信仰の価値観であります。神に返すべきものとは、私達の生活の限られた一部分なのではなく、むしろ、その全てなのであります。地上にあるもので、神のものでないものなどありません。この世において、あるいは私達の人生において、その全てが神に向けられていくこと。それをキリストは求めておられるのではないでしょうか。
 また、もう一つ大きな意味がここにはあります。主イエス・キリストは、デナリオン銀貨の「肖像と銘」を指して、これが「皇帝のもの」であると仰せになった。ここで言われる肖像とは「似姿」という意味も含まれています。そして、その言葉は、創世記のあの言葉を彷彿とさせるものではないでしょうか。創世記1章27節には次のように示されています。「神は御自分にかたどって人を創造された」。人間は、神にかたどられた存在。即ち、神の似姿を刻まれて生きているのです。「皇帝の肖像、似姿」が刻まれたデナリオン銀貨が、「皇帝のもの」であるならば、「神のもの」とは、「神の似姿が刻まれた人間」なのであります。つまり、人間もまた、神様のものに他ならない。神様のものとは、即ち、この世の全てのことだけではなく、そこに生きる全ての人間に当てはめられているということなのであります。
 つまり、主イエス・キリストは、ここで、この世にある全てのものと人間自身を神様のものへと帰するように求めておられることになるのです。最初にも申しましたが、指導者たちやヘロデ党の人たち、彼らは、自分たちが世界の中心でありたいと願い続けている。だから、主イエス・キリストを排斥しようとする。神の御心を排斥しようとしている。
 しかし、主イエス・キリストは、そんな彼らが、神様の正しい御支配へと立ち帰ることを望んでおられるということなのであります。この世界において、また、私達人間自身においても、真の支配者とは誰か。私達が帰るべき場所はどこか。それをお示しになっているのであります。
 つまり、今朝の御言葉は、私達信仰者が、世俗社会でどのように生きるのか、具体的には税金を納めるべきなのかどうか、ということが主題なのではなく、私達人間の存在が、まず、どこに属し、どこに立ち帰るべきなのか。言うならば、悔い改めを指し示す御言葉となっているのです。
 この社会に生きる人間である前に、私達が神様の恵の中で生きている。そのことに、共に立ち帰りたいと思います。自らを中心とする罪を深く顧み、悔い改めの心をもって、主のもとに立ち帰るものでありたい。そこに主イエス・キリストの大きな救いの光がある。その光の中で、日々新たにされる。造り替えられていく。そこで本当に自由にされていく。そこでこそ、この世にあってもなお真実に生きる道が切り開かれていくのです。
 主イエス・キリストは「皇帝のものは皇帝へ」と仰せになった。税金を納めることを否定はされていないのです。それは、信仰をもつ民衆に苦しみを背負わせることになるでありましょう。しかし、信仰の力とは、ただ、人々の生活が楽になることを実現させたり、生きやすい社会を実現させることではない。それは、この世にあって苦しみもある。軋轢や葛藤もあるのです。何よりも、主イエス・キリストこそが、この世にあって最大の苦しみを味あわれたのであります。しかし、十字架の死の先に復活があるように、神のものである私達は、この世にあって必ず立ち上げられていくのであります。キリストが立ち上げられたように、様々な社会との葛藤の中で教会が成長し、立ち続けたように、私達もまた、立ち上がることができる。日々、新たに歩み出すことが出来る。その意味で、皇帝も世俗社会も究極的に、私達を支配することはできないのです。私達人間はキリストにあって、新たに神様のものとされているからであります。その意味で私達を縛り付けるものは何もないのであります。
 今朝の御言葉。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この御言葉は、私達が、この世の権威に屈服しなさいということを教えているわけではありません。逆に言えば、この世に対して敵対しなさいとも言われていない。大事なことは何よりもまず、私達一人一人が神のものであること知り、立ち帰り、そして、キリストの贖いと犠牲によって新たにされ、新たな心で立ち上がるということ。その時、私達は神の御心の中にあって、この世に対しては自由に生きるものへと導かれているのです。この世のルールに従うのか従わないのか。それが罪や救いについて重要なのではなく、まず神の路線の上に乗って進むことから始まり、そこから、この世を新たに捉え直して行くものでありたいと思います。
2016年1月24日 主日礼拝説教

主題:「救いへの招き」須賀 工牧師
聖書:マタイによる福音書22章1節~14節

今朝、私達に与えられた御言葉は、マタイによる福音書22章1節から14節の御言葉であります。聖書の小見出しには「『婚宴』のたとえ」と記されています。
 旧約聖書によれば「婚宴」という言葉は、「神様の救い」を象徴していると言われています。恐らく、この譬え話もまた、そのことを踏まえて読むことが求められているのではないでしょうか。
 そして、何よりも、この譬え話は「王子の婚宴」について語られています。つまり、王の子ども、言い換えるならば、神の御子イエス・キリストが、ここで示唆されていることになるのです。その意味で、この譬え話は、神の御子イエス・キリストを中心とした、神の救いの物語とも言えるでありましょう。
 そして、もう一つ大切なことは、この譬え話が、当時のイスラエルの指導者たちに向けて語られたものであるということ。そのことを深く踏まえた上で、改めて、この譬え話に耳を傾けていきたいと思います。
 1節から5節をお読みします。「イエスは、また、たとえを用いて語られた。『天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。【招いておいて人々にこう言いなさい。[食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。]】しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。』」
 ここで重要なことは、何よりも先ず、王が人々を招き続けているということであります。ここで言われている「人々」とは、勿論、イスラエルの指導者たち、そしてイスラエルの人々のことを指しています。
 王である神様は、何よりもまず、イスラエルの人々を救いへと招いておられる。しかも、一度だけの招きではない。二度に亘って招き続けてくださる。それほどまでにイスラエルを愛し、救うことを御心に止めていてくださっている。イスラエルの人々が、御子イエス・キリストによって救われること。真の救い主によって救われることを強く願っておられる。それが神様の深い御心なのだということを、この譬えはまず指し示しているのであります。
 しかし、人々の現実はどうでしょうか。誰も集まることはなかった。そのように示されているのであります。王の息子の婚宴であります。本来ならば、国を挙げて喜ぶべき時であります。しかし、そこで喜びに与る者はいなかった。これは普通ならば考えられない光景でありましょう。
 しかし、正に、そのありえないこと。考えられない事が、イスラエルの中で起きている。彼らは、この神様の招きを無視している。いや、無視をするどころか、それを退けようとしている。神の御子による救いを破棄しようとしている。それが、あなたがたの現実だ。そのように、主イエス・キリストは、イスラエルの現実を厳しく問いただしておられるのであります。それでは、この招きを無視する、この人々の問題とは何でしょうか。イスラエルが抱えている根本的な問題とは何でしょうか。
 ここで言われている「無視する」とは「心を向けない」という意味であります。「心が違う方向に向かっている」ということであります。本来、向くべきところに、心が外れてしまっている。それがここでいう「無視をする」ということ。ここに人々の問題がある。
 本来ならば、神様の救いの御心、神様の救いの招きに自らの心を向けるべきでありましょう。それが、神によって選ばれた民の姿であります。しかし、彼らの心は神に向かっていない。真の王なる神に向かっていない。では、どこに向かっているか。自分自身の事柄に向かっている。譬え話の言葉を借りて言うならば、自分の畑や商売に心が奪われている。自分の事柄に心を奪われている。だから、神の御心を、そして神の招きを退けようとしている。それが、あなたたちの現実なのだ。そのように主イエス・キリストは、彼らに仰せになるのであります。
 そして、このような悲惨な現実の先には何があるのでしょうか。滅びしかないのです。神の怒りしかないのです。神の救いを受けるに相応しい存在から、神の裁きによって滅ぼされる存在へと蹴落とされてしまうしかない。その絶望しか残されていない。そのように強く厳しく、主イエス・キリストは、イスラエルの人々の現実を受け止めておられる。そして、それ以上に、キリストは、彼らに立ち帰ることを迫っているのではないでしょうか。これは、厳しい宣告であるかもしれない。だからこそ、ここにキリストのイスラエルに対する深い愛情がある。あなたがたが招かれていることに気づいて欲しい。この招きに答えてほしい。それが、この譬えの中で響く、キリストの思いなのではないでしょうか。
 さて、このような人々の悪態に対して、王はどうするのでしょうか。婚宴を取りやめるのでしょうか。言い方を変えるならば、イスラエルの人々の悪態に対して、神様は救いの歴史を止められるのでしょうか。そうではないのです。婚宴は進むのです。神様の救いは次に進んでいくのであります。8節から10節をお読みします。「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」。
 ここで王は、全ての人間を喜びの席へと招かれます。ここで言われている「町の大通り」という言葉は、「国と国の境界線」という意味も含まれています。つまり、本来ならば、招かれるべきではない無関係な国々の人間もまた、その喜びの席へと招かれているということなのであります。また、ここで特徴的なことは、善人も悪人も招かれているということ。本来ならば、王の婚宴には相応しくない悪人であったとしても、喜びの席へと招かれている。それが驚くべき新しい出来事であります。
 しかし、これと同じように、神の救いもまた進んでいくのであります。イスラエルに向けられた救いは、今や、御子イエス・キリストと共に、全ての人間へと向けられていくことになるのであります。言うならば神様の救いの歴史が更新されるのであります。
 そして、その救いへと招かれる人々は、善人も悪人も分け隔てなく招かれている。イスラエルの価値観で、本来ならば、救われる価値のないような人々も、その場へと招かれている。神の救いから遠く隔てられた人も、同じように神の救いを喜ぶ席へと招かれている。ここに新たな救いの御心-ご計画-があるのです。この大きな恵みは、時代を超えて、今、私達にも与えられているものであります。私達もまた、この新しい招きによって救いへと導かれている。その幸いが、ここでまず表されているのであります。
 しかし、そこで終わらないのが、この譬え話なのであります。つまり、ただ招かれて良かったね、では終わらないのであります。そこから新しい問題が生まれていくのであります。譬え話を読み進めてみましょう。「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を来ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。
 主イエス・キリストは、ここで仰せになるのであります。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と。ここで言われる「選ばれる人は少ない」という言葉。これは「相応しい人は少ない」という意味も含まれています。全ての者が、そこで招かれているのです。しかし、その招きに相応しく生きられない人もいる。それが人間の現実なのだと仰せになるのであります。招かれるだけが救いではないのです。招かれた者が、神の目に正しくなければいけない。王の目に相応しい姿でなければいけない。ありのままの姿で招かれていても、それが救いを得たことにはならないのであります。救いは、神の前で新しく、神に相応しく生きることによらずしては得られないのだ、ということ。それが、ここで指し示されることなのであります。言い方を変えるならば、招かれていても、ありのままの姿を貫き、礼服を着ないものに、救いは得られないということでありましょう。ありのままという言葉は、心地よい言葉ではありますが、実は、そこで究極の救いは得られないのだという現実を、ここから示されているのではないでしょうか。
 ただ、この言葉を聴いて、いよいよ、須賀牧師も律法主義者と同じになったのではないか。そう思われる方もいるかもしれない。こうしなければ救われない。これがなければ救いに相応しくない。これを言い出したならば、私も律法主義の仲間入りなのかもしれません。
 では、神様の救いを受けるに相応しい人間とは、どのような人間なのでしょうか。王の目に相応しい礼服を着るとは、どのような意味なのでしょうか。
 答えます。そもそも、相応しい人間などいないということです。片っ端から招かれた人に相応しい礼服などありません。それと同じように、初めから神の目に、王の目に相応しい姿をもって生きる人間などいない。それが答えであります。
 では、どのようにして人間は救われるのか。それを知るためには、当時のイスラエルの習わしを一つ覚えておかなければいけません。その習わしとは、当時、王によって招かれた人は、皆、王宮から服を支給されるのです。つまり、相応しい服装を準備するのは王の方なのです。招く側の王が服を準備する。言い方を変えるならば、王の前に立つのに相応しくない人間であっても、一度招かれたのであれば、相応しい者へと変えられていくということであります。例えば、出エジプト記のヨセフ物語などを読むと、そのような描写が描かれています。
 つまり、招かれた者を神の目に相応しくするのは、人間による業ではない。神の業なのだということなのであります。神は、招き入れたものを神に相応しい者へと造り替え、神の救いに与るものへと導かれる。全ては、神の業なのであります。私達人間を相応しくするのは、私達ではなく、神なのであります。それが、ここで非常に重要な事柄なのであります。
 私達人間が神様の救いに相応しく生きることが大事ではない。大切なことは、神の招きに答え、そこに委ねることであります。その時、私達は、神の前に相応しい服を着せられるのであります。あるがままの姿を貫いて生きるということは、神の目に相応しく新たにされることを拒むことでもありましょう。しかし、そこに救いの道はないのであります。むしろ、救いから遠く隔てられてしまう。大事なことは、招きに答えるだけではなく、神の目に相応しく変えられる自分。新しくされる自分を喜んで受け入れること。神にも救われたいが、自分の生き方も大事にしたい。それでは、滅ぼされた人々と同じ道を歩むだけなのであります。
 この言葉を聴いて、皆様も思い出す聖書箇所があるかもしれません。ガラテヤの信徒への手紙3章27節の御言葉です。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。私達に着せられる礼服は、キリスト御自身なのであります。そして、そのことによってのみ、私達は、神の前で相応しい存在へと造り替えられている。私達を神の前で相応しく生かすためにこそ、キリストは、御自身の命を賭けられた。そして、その御自身を、私達に着せてくださる。私達を包み込んで下さる。その時、私達は初めて神の前で新たにされ、義とされる。新しい存在として、神の救いに与ることができる。この大きな恵みをここから味わい知ることができるのであります。
 全てのものが神の前で招かれています。人の目から見て相応しくない人も招かれている。しかし、そこで全ては終わらない。それが救いの中心ではない。招かれて良かったねでは何も解決していない。その招かれた先にこそ、キリストが備えられている。キリストが手を広げて待ち続けて下さる。大切なことは、キリストの内に生きること。キリストを身に纏い、キリストに包まれて生きること。その時、初めて私達は神の民として新しく生かされる。救いの恵みに与る者とされるのであります。 
 私達は皆、神の前で相応しい存在ではありません。しかし、こうして、神によって招かれ、導かれ、そして、キリストを着せていただき、新たにされ、救いを得るものへと造り替えられた。私達を包み込むように、今、私達は、キリストの御手の内にあって、神の救いを喜ぶものとされている。その幸いを深く思い起こすものでありたい。そして、その恵みに深く心を馳せながら、ただ、神にのみ目を向けつつ、神の招きに常に立ち帰りつつ、与えられた信仰生活を感謝と喜び、そして、希望をもって歩み抜くものでありたいと思います。