通常のラーメン。
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麺がなかなかしっかりしている。スープはかなりこってりで、そのつもりで食べないとどっかりしすぎているように感じるか。個人的には好きだ。(ラーメンなんて好き嫌いで、評価などしてもあまり…という感じを改めて強くする。)

餃子もそこそこおいしい、と私は思った。

あまり普段熊本ラーメン食べつけないと、少しつらい感じかな、というものだった。繰り返すが私は好き。
もう一度、英語授業について見直しをする・・・。そんなのもう一度どころかやってる以上なんども繰り返すしかないのだろうが。

ここのところは、オーラル・イントロダクションによる導入から、本文の理解・音読、オーラル・イントロダクションで扱ったところを中心として英問英答等を 行い、各時間でのプレゼンテーション、という流れだった。(なかなかプレゼンテーションはうまくいかないが。)また、各課の終わりには、絵を見ながら一人 一人に内容を英語で言わせる(といっても要約文の再生・・・)ことをさせていた。

問題点は、自学自習への動機付けが少し甘いらしく十分に書くなどのトレーニングがなされていない、ということ。効果的な音読活動にまだまだ達していないこ と。各課終わりの英語での内容再生が「内在化」された言語使用でなく、ほとんど「暗記」になっていること。(暗記すらしないものももちろんいる が・・・。)

さて、どうするか。語意の定着も図らなければならないかもしれない。その上でしっかりと理解と音読を・・・。これは当然考えられる手立て。それから、プレゼンテーション用の英文と要約文は別にしたらどうか。あまり複雑になるのは良くないが、プレゼンはもっと有機的にしたいから量は減らして良い。そして、しかし十分な音読をしてほしいから、本文全体でもいいのだがなかなか総も行かないことを考えて、音読暗唱用の要約(少し長めなものとする・・・)を用意してみる。これを徹底してみるとしよう・・・。

定着・・・、トレーニング効果・・・、と考えると本当は毎時間ターゲットセンテンスの書き取りテストでもしたいところだ。しかし、そうするとプレゼンの練習ができない。それは痛い。(プレゼンだってうまくはいっていないが、だからこそ継続してみたいところである。)自由課題、という手もあるが・・・。あるいは全員対象の課題・・・。ま、その辺は適宜。

それから、内容説明を英語でさせるときには・・・、もっと自然なやりとりから・・・、こちらも英語で聞きだしてしまう。そうすると暗記にはならないかな。結果的に英問英答の応答の集合というかたちになるなら、暗記よりもそのほうがいいのかもしれない。

妥当なのは暗唱英文7文に対してプレゼンテーションは3-5文くらいに絞ってしまう・・・、とかかな。

ま、そんな感じでやってみよう。
思考方法、にルーティンなんて用意するのは、柔軟性をなくす一つの要因とはなるから、良くはない。しかし、型を学ぶことで自分で「考える」機会を増やすことにはなる。なかなか意識して「主体的に考える」ことが少ない状況なら、そういったことも仕方ないだろう。

瀧本哲史さんの「武器としての決断思考」という本に、自分で考えるための方法としてその「アイデア」の「メリット」「デメリット」について考えて行くための方法が挙げられていた。

「メリット」については・・・、
・「なんらかの問題が実際に存在すること」(内因性)
・「その問題が重要なことであること」(重要性)
・「その行動をとることでその問題が解決すること」(解決性)

「デメリット」については・・・・
・「その行動を取ることで新たな問題が発生する過程」(発生過程)
・「その新たな問題が深刻であること」(深刻性)
・「その問題が現段階では起こっていないこと」(固有性)

・・・ということを整理して考えて行くことで「意思決定」につなぐことができるというのだ。

あとは、胡散臭い意見に対するためにはどこが明確な「根拠」ではなくて「推論」であるのかをしっかり捉えること、だそうだ。言われてみればこれまた当たり前の話だが、読書等をするときにそういうことを・・・あまりにストイックにではなくても考えて行くことは、それなりのトレーニングになるだろう。

疑いながら新聞を読むのもいいかもしれない。
自分より格上の選手達とスポーツをやっていると、「なんでこんなに自分は体力がないのだろう」と感じることが多くあった。しかし、続けているうちに、別に周囲のプレーヤーが自分より体力的に優れているということよりも、メンタル面で「できる」という確信を「自然」に保てていることと、動作自体に無駄がないこと、がとても大きく影響しているのだと感じた。気持ち的に「硬い」状態のときは息もきれるし同じ動作をするにも消耗する。まして、「やられるかもしれない」という不安を勝負の場で出したら、空いてはそこにつけ込んでくる。

だからといって、現実には「劣っている」のに「自分は強い」と切迫した場面で唱えるだけでは、何も変わらない。薄っぺらいアファーメーションの信用出来ないところは、そういうところだろう。しかし、「確信」というもの、本来「自信」と言われるものは保っていなければならないはずのものである。

桜井章一さんは、

・物事には「流れ」があることを自然に理解すること
・大きな視野をし全体で保ちつつも小さなことにしっかりと取り組むこと
・「違和感」や本来「本物」がもつ「心地良さ」をしっかり感じて大切にすること

が大事だといっている。こういうレベルの人になると当然の話、安っぽい自己啓発本のようにして「どうすれば勝てるのか」と飛びついてみたところで何も得られない。しかし、理解し難いレベルで真実を伝えようとしているのは良くわかる。

いずれにせよ、勝負の場で「心地よく」「自然体」で「大きな視野」を保ちながら戦えるために、日常から小さなことをこれまた自然体で誠実にこなして行くことが重要だ、ということだろう。

うだうだ言ってないで、やるべきことやってかないとな。
最近、とにかく持久力だけはさげないよに・・・、と考えているが、どうもそれだけでは疲れやすい体になっている部分もあるようである。・・・、そこで今更Tarzanを買ってみた。

はじめの方に・・・、
・多くの関節を動かすトレーニングの(例えば腕立て伏せ)方が関節への負担も小さく初心者にはあっている(もはや衰えも激しいので、自分は初心者と考えて良いだろう)。
・10回しかできない最大限の負荷でトレーニングする単位の事を10RMというらしいが、それは実際には難しく、適当な負荷で10回・・・から始めるのでも十分・・・とのこと。目安としては12~15RMでよい、と。
・最適なフォームで3秒で挙げて3秒で戻すことを意識し、できたら2秒に短縮する。常にフォームを矯正。
・2セットから3セット行う・・・、2セット目以降は回数が減ってもいい。3セットとも楽なようであれば不可が少なすぎる。
・大きな筋肉をやって小さな筋肉をやる・・・というバランスの取り方を中長期的な視野からもコントロールする。
・記録を取る・・・。

と当たり前のことばかりなのだが、見直して行こう。筋トレノートなんてつけたくないので手帳を駆使したいところだが、小さい手帳なのでなかなか難しいところではある。携帯に記録するんでもいいかな。

あとは、具体的方法。
・隙間時間を使って行くこと
・月に数回からでも器具を使ったトレーニングの時間もとること
あたりが現実的な方法か。以前は飲み会の前は必ず30分でもジムに行って会では肉をガツガツ食ってたもんだが、なかなか最近は金銭的にも時間的にもそういう余裕がない。空いた時間を積極的に使うしかないな。

まあ少しずつでもやり直して行くことで多少なりともいくつかのことが改善して行くだろう。情報は取り入れ続けること・・・。それなりの分別を持って。
ちゃんと過ごそう、ちゃんとやろう、と思えば思うほど、例えば午前中なんの仕事も進まなかった・・・というときには午後もなんとなく「あーもーいーや、適当に・・・」てな気持ちになる。本当は「午前中さぼったからこそここで『やらなければならない』」と感じて必死でやらなけりゃならないんだろうが、そう思うだけで億劫になる・・・。

そんな状況になること自体がよろしくはないのかもしれないが、一生懸命物事に対応した結果そうなってる人だっているかもしれない。ともかくシンプルに考えてバリバリ動けることが望ましいのだと思う。

幸せであるために・・・という仏陀の教えの一つに「後悔は悪だ」という言葉がある。また、原始仏教においては「今自分が行っている動作、自分の視界に入っている事象そのものに集中をせよ」ということが重要な教えの一つだった。

これは非常に理にかなったことで、後悔することで幸せになれないというのをデカルトばりに明証的に明らかなこととして前提とすると、後悔しないためにはその瞬間に集中すべきだというのだ。全くその通りだ。

しかし、これは結構根性がいる。当たり前のことなのだが、根性がいる。ただ、「動きだしさせすれば」なんとなかることだ。本気で「今やるべき事に集中するぞ」ということを行動としてはじめさえすれば、なんてことはない。ただ、それでもなかなか億劫だったりするのだ。(いい加減にしろ、という感じかもしれないが。)

そこでだ。解釈の仕方の違い、
なのかもしれないが、おそらく仏陀も根底に「自分は幸せである」という「確信」があったのではないかと考えてみる。何故かって?自分に置き換えると、そういうなんらかの前向きな「確信」がなければ動き出せないのだ。

ただし、仏教では「妄想」はそれが前向きだろうが後ろ向きだろうが原則的に「悪」である。その中で・・・、原始仏教によれば仏陀が唯一許した「
願望」は「他人が幸せでありますように」と願うことだった。

考えてみればそれが結構重要なことなのだろう、と思い返す。完全に現在に集中してフラットな精神状態を作る・・・、それも重要なことなのだろうが、他人の幸せを願う・・・、これこそ明証的に明らかに「善いこと」であることにより自分の「生きる力」というか「推進力」とでもいうものを得る・・・。これは当たり前の話必要なことなのではないか。

それを、下世話に言ってしまえば「自分が幸せである」ことを願うこととなるのではないか。ブッダからすればそう言い切ってしまうことで「我欲」が大きくなりバランスを崩してしまうことを戒めるためにも「他者の幸せ」を願え、ということだったのかもしれないが、自分が幸せでない人は、
人も幸せに出来ない・・・、というのもある程度の真実を含んでいるだろう。

ま、だから、「自分は幸せだ」という確信を持つこと、そのためには「他者の幸せ」を真に願うこと、そして今の自分を受け入れ「後悔」などせずに今出来ることがあることを幸せと感じてさらに未来で他者を、自分を幸せにする為にこの瞬間に集中すること。それがいうまでもなく大事なのだろう。

いつだって、大事なことは「言うまでもない」ほどに当たり前のことだ。それを理解するのに随分時間がかかる。そしてそれは悪いことではない。
先日、NEWS ZEROで久保田利伸さんのことが特集されていた。「何故人気絶頂期にニューヨークへ渡ったのか。」というタイトル。

正直、アメリカで2枚目のアルバムを出した頃は、日本での知名度は若干下がっていたような印象を受けた。それでもしかし、彼はぶれなかったようだ。

ただ、確実に「頑張らなければ」という意識が強かったのだろうというのはわかる。音楽性にもそれは現れていたのだろう。(別に私はそれが好きで聞いていたが。)

NEWS ZERO で本人が語ったのは、自分の音楽を自然に気持ちよくやることの大切さにアメリカ行ってから随分経ってから気づいた、ということだった。

そういうのって、非常に大事なことなのだろう。自然に、確信を持って自分を表現出来ること。そういうのはすぐに出切ることではない。

全盛期の声量はないかもしれない。日本にR&Bなんて畑がないときに示して見せた強烈な存在感が、若い時と同様に現れるとも限らない。しかし、ぶれずに第一線でやってきた人物がそのような心境になって表現するものには、すごく期待をしてしまう。

とにかく、そのブレなさは、カッコ良かったし、今でもそうなのだ。音楽性がどうこう、ということ以上に、だ。

年を取るというのもいいものなのかもしれない。
リーダーシップやらなんやら

と考えていたつもりだったが、

結局は相手のことを

心から尊重する事、

こそ大事な事だったのだ、

と今更思い直す。



大体において

自分の行動は相手のそれ

に影響を及ぼし、

リスペクトする態度が

自分になければ、

相手も自分のことを尊重

した対応など

してくれなくなるもの。

つまりそういう扱われ方は

自分が導いている

結果の一という事。

自分はそういう風に

扱われるべきだ、と

無意識にそう信じて

現実化していっているわけで。



あたりまえにしっかり相手と

真摯に向き合うこと。

それからかな。
村上春樹さんが、スペイン、

カタルーニャで、原発にも

言及したスピーチを行った。

その中で彼はかなり辛辣に

原子力発電所の建設を政策

として推進して来た政府の

態度を批判している。



その中で彼は、それを容認

してきた自分たち国民にも

大きな責任があると述べて

いる。



では、そんな「取り返しの

付かないこと」をしてしま

った日本人はどう生きてい

くのか。



彼は、そんな自然の残酷さ

や人間の過ちの後にも日本

人にはそれを受け入れてま

た立ち上がって行く力があ

るし、今度もそれを「なん

か成し遂げるだろう」と言

っている。



これだけ聞くと、結構陳腐

だ。(それは確実に私の要

約技術の低さ、あるいは情

報提供のある程度恣意的な

コントロールによるものだ

が。)



しかし、彼の洞察の深さは

「物語」というものの捉え

方にあるのではないかと思

う。



スピーチの中で、復興に

向けた作業は「素朴で黙々

とした、忍耐を必要とする

手仕事になるはずです。」

と言っている。



ここでは何気なくそのよう

な言い方をしているが、本

当はそんな「黙々とした、

忍耐を必要とする」作業が

ある場合にはとても尊く、

ある場合にはとても醜く、

ある場合にはとても陳腐に

見えるものであることを当

人はきっと誰よりも承知し

ている。それこそがきっと

「物語」なのだ。



以下は作家当人が伝えたか

ったこととは大きくはずれ

ることかもしれない。しか

し、日本のリーダー達の

「醜い」争いも、一見容認

しがたいものであれ、「尊

い」営みの一つなのだ。



素直に感じたことを適切な

手段で伝えていくことは、

かけがえのないことだ。同

時に、そんな矮小で醜く見

えることも、当たり前で淡

々としたことも、人々に勇

気をあたえるような話も、

全て尊いことなのだ。



本当に尊いものは、割と陳

腐だ。アレントが言ったよ

うに「悪」も以外に「陳腐」

だったりする。逆もそうな

のかもしれない。



新たな命を大事に守り、淡

々と生を重ね、お互いの感

じたことを伝えていく・・

・。物語を止めないこと、

それが当たり前に何より大

事なことなのだろう。たと

えそれが時に美しく、時に

は醜くとも・・・。


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誰に対しても

ふさわしい処方箋

などない。

人には人それぞれの

物事の捉え方があり、

どんなアドバイスも

当人にとっては

「見当違い」である

可能性をはらむ。

それはしょうがないのだ。



誰かのせいにしてはいけない、

すべて自分の行動の結果なのだと

きちんと認め、

最大限努力せよ・・・

それはおそらく真実だ。

しかし、

普段その人物が

どういう物事の捉え方

をしているかなんて

わからないのだ。

極端に自虐的な捉え方

をしていては

そういう言葉は

危険なものでしかない。



周囲がどういう

言葉かけをするべきか

なんてことに

セオリーは簡単に

設けられない。



場合によっては、

オーバーポジティブであることすら

必要なこともある。

簡単に言うと、

「人や状況のせいにしろ、

自分のせいではないと

実感をもって思え。」

なんてことが

有効だったりもする。



個人個人は

余りに特徴的で

余りに多彩なパターンの

経験を経てきており、

ある事象に対して

どんな反応をするかなんて

砂利道に叩きつけられた

プラスチックボールなみに

その動きは予測不能だ。



アドバイスを

してもされても、

そのアドバイスなりなんなりに

頼りきって(頼らせきって)

その人物の行動を

完全に規定してしまう

ことほど怖いことはない。

次から自分で動けなくなるのだから。



だったら干渉しない方がいい?

そういうのは、

理屈で結論づけるもんではない。

自分にとって大事な人であれば

なんらかの働きかけをする。

それがどう転ぶかわからないが、

それ自体はすべきことだというのは

理屈以上のことだ。



いつでも、

理屈にできない

「大事なこと」というのは

忘れずにいたいものだ。



その「気持ち」の表出したものが

オーバーポジティブでありなさい、

あるいは、

謙虚でありなさい、

どんなアドバイス

であったとしても、

バランス感覚を

きちんと伴ったもの

でさえあれば、

良いのだろうと思う。


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