億万長者になるために~新興市場の注目株~

主に新興市場の中小型株を投資対象として企業ホームページ及びIRセミナー、IR担当者への質問、四季報を利用したボトムアップアプローチによる分析(素人なのでアバウトですが)で投資活動しています。みんなで良い銘柄の発掘に努めましょう!!


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イーアセット投資法人の運用を行っている㈱アセット・リアルティ・

マジャーズの株式がイーバンクからアセット・マネージャーズに

9月6日に2,200株譲渡されるIRがイーアセットより発表されました。


イーバンクは、イーアセットの株式譲渡で利益が出るのでしょうかね!?


イーバンクは業績下方修正していますから、この譲渡で利益が出れば、

多少の利益の補填になると思うのですが・・・。


イーバンクは業績下方修正していますが、予定通り今年に上場出来るの

ですかね!?




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ビジネスパーソン半世紀

第4回「目指すは世界トップ10」


近年、多くの人にその存在が認知されるようになった投資銀行。

一般に「インベストメントバンク」と呼ぶが、古川令治は好んで

「マーチャントバンク」という。会社設立時、社名を

「マーチャント・バンカーズ」にしようかと迷ったほどだ。

米国系の投資銀行を指すインベストメントバンクは、資金力で

相手を押さえつける印象を与えるが、マーチャントバンクには

欧州系でアイデアや工夫で勝負する「優しい投資銀行」という

イメージがある。


 アセット・マネジャーズが、2002年にナスダック・ジャパン

(現ヘラクレス)に上場した当初、同社は不動産ファンド運営

会社の色彩が強かったが、上場以降、すかさず軸足をM&A

や企業再生ビジネスに移し急成長を続けている。

 ただ、その手法は「カネの力でテレビ局を買うような」もの

ではない。企業再生に名乗りを上げたディスカウントショップ

「キムラヤ」の件では、半年間で10億円の経常赤字が出る

会社を、わずか半年、リストラゼロで黒字転換させた。接客

対応などの基本を見直しながら、新規出店を行い、制服も

グレードアップしている。過去を全否定するかのように人を

切り、拠点を閉鎖する「引き算」ではなく、過去の良さを強化

しつつ改める「足し算」の手法が古川流である。自分がリストラ

経験者だから、相手の気持ちもよく分かるのだろう。

  古川を含む日本長期信用銀行マーチャントバンキング

グループ出身者が多数在籍するアセット・マネジャーズは、

長銀が自主的に策定した経営再建計画で定めた「投資銀行

部門で経常利益200億円」という目標をあと数年でクリア

しようとしている。

 そして次なる目標も長銀の悲願だった「グローバル10」

入りだ。世界トップ10の投資銀行に名を連ねるには、経常

利益1000億円以上が必須条件。その達成には日本国内

だけではなく、海外に打って出る必要がある。

 2004年12月、海外事業を推進するアセット・チャイナを

設立、香港のバンク・オブ・アメリカ・タワーにオフィスを

構えた。開業約1年2カ月で約17億円投資し、すでに

含み益約86億円を稼ぎ出した。2006年2月期の経常利益が

84億円のアセット・マネジャーズにとって決して少なくない額だ。

 2006年5月から古川は国内事業を後進に委ね、海外事業

アセット・チャイナの経営に専念している。「これまで海外事業

は国内の仕事を兼務しながらだったが、これからは(海外

に)集中してもっとやる」と血気盛んだ。

 もちろん勝算はある。中国政府首脳にも通じる人脈と、

「国内上場企業の日本人社長で中国語で交渉できるのは

私だけ」と言い切る語学力。ライバルはゴールドマンサックス

などの米国系投資銀行だが、米国本社のトップが自らアジア

を訪れることはない。トップセールスを重視するアジアで、

古川は大暴れする日を思い描いている(文中敬称略)

(経済ジャーナリスト 角田 正隆)


日経Biz記事:

http://bizcareer.nikkei.co.jp/contents/bizperson/0606bpn_furukawa/p_004.asp

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ベストブライダル(東M2418)が

株式の立会外分売を行いましたね。


分売実施株数:1,000株


既に今年5月29日に立会外分売にて

1,000株を843,900円で分売して

いる点からも、どうやら個人株主を増やして

東証1部又は2部に近々くら替えするのでは

ないかと思います。


東証1部又は2部に行っても株価が上昇するとは

限りませんがね~。

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ビジネスパーソン半世紀

第3回「深夜1時の会議」より



出身母体である日本長期信用銀行の経営破たんを受けて、

出向先の加ト吉に移籍した古川令治だが、そこに長居する

わけにはいかなかった。新たな道を模索する中で出会った

のが、世界中で不動産ソリューション事業を展開する米国

コリアーズグループ。その日本進出に伴い加ト吉と提携、

1999年8月、古川は日本法人の非常勤取締役に就任した。

 古川は直接現場にタッチしなかったが、2人の実務担当者

の話によると、かなり苦戦を強いられている様子だった。

日本での知名度がないコリアーズは、韓国の金融機関だと

勘違いされることもあった。華々しく日本に上陸したものの、

半年間売り上げが立たない。フルコミッションで働いていた

2人の担当者も青息吐息だった。

 ついに1人が腹膜炎で倒れ、米国本社は撤退を検討し始めた。

古川は担当者を見舞い、転職を勧めたが、「2度とサラリーマン

に戻る気はない」と言う。その覚悟に心動かされた古川は日本

法人を買い取り、自ら先頭に立って金融ビジネスに参画する

決意を固めた。

 米国本社は早々に見切りを付けたが、現場には「日本企業の

海外撤退は近い。我慢すれば勝てる」という目算があった。

とはいえ創業当初は売り上げもなく、マンションの一室を

オフィスとして使い、事務員以外は全員収入ゼロ。それでも

毎月の賃料などで現金が目減りしてゆく。古川は毎日胃が

痛む思いをしていた。

 しかし小規模案件で日銭を稼ごうとはしなかった。投資銀行の

世界に身を置いた古川にはビジネスモデルが見えていた。

大きな案件で実績を残し、その評判で新たな案件を引き

寄せる。これが成功の法則である。

 古川が狙いを定めていたのは、旧セゾングループ企業の海外

撤退案件。そのルート確保のために西武百貨店を訪ねた。

そのとき偶然、担当者から「西武百貨店池袋店の担保評価が

低く、500億円程度しか銀行借入ができない」という話を耳にする。

「おかしい」と直感した古川は、「路線価などではなくDCF法

(ディスカウントキャッシュフロー、収益還元法の1つ)で評価

すれば、資産価値は最大2000億円になり1000億円の借り入れ

も可能」と答えた。担当者は驚き、証券化の検討が始まった。

 この案件が成立すれば、当時日本最大の証券化案件になる。

実績も手数料もほしかったアセット・マネジャーズとしては絶対

に外せない案件となった。しかし交渉は難航。深夜1時からの

会議でスキームを根本から覆されたこともある。深夜3時に

会議は終わり、古川はコーヒーを飲みながら、かつて腹膜炎

で倒れた仲間と語り合った。「ヤマは越えた。まさか取れるとは

思わないが、もしかしたら来るかもしれない」。店を出たのは

朝5時。朝日が目に染みた。

 この大一番でも古川の集中力がいかんなく発揮された。

大きな鞄にパソコン、プリンター、無線LANカード、紙、製本

セットを持ち歩き、会議の内容をその場ですべてパソコンに

入力。プリントアウトしてすぐに相手の確認を取った。提案書

もその場で修正、速攻で受注をもぎ取った。

 2000年、この成功でアセット・マネジャーズの名は業界中に

知れ渡ることになる。その勢いに乗って、不動産ファンド運営

などの新規ビジネスを次々と立ち上げ、設立2年でナスダック・

ジャパン(現ヘラクレス)上場を果たす。新たな資金調達手段を

獲得した同社は、すかさずM&Aや企業再生ビジネスに注力。

上場直後に大阪2部上場の新日本紡績を傘下に収め、投資会社

アセット・インベスターズに生まれ変わらせ世間を驚かせた。だが

古川にとって、これは通過点でしかない。(文中敬称略)

(経済ジャーナリスト 角田 正隆)



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アセットMはセゾングループの大型案件受注で古川さんの

想定通りに展開していきました。その道のりまでの苦難の

日々が綴られてますね。
この2000年における成功が快進撃を続けるアセットM社の

第1歩となり、今の原動力となったのですね。

2000年にスタートを切り


快進撃を続ける


アセット・マネージャーズ


21世紀を突き抜けて下さい!



日経Biz記事:

http://bizcareer.nikkei.co.jp/contents/bizperson/0606bpn_furukawa/p_003.asp

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第2回「願により解職する」



古川令治は約2年間の日本長期信用銀行広州事務所駐在で、

中国政府機関によるユーロ債発行の主幹事などの実績を残し、

花形部門マーチャントバンキンググループに異動する。

旧セゾングループが2500億円投じたインターコンチネンタル

ホテル買収など、中国から一転、欧米のビッグビジネス相手に

丁々発止の交渉を繰り広げることになった。古川は多くの海外

企業のM&A、ホテル・ゴルフ場の買収などを手掛け、投資

銀行家の名誉「ツームストーン」※を次々と獲得していく。


※ツームストーン:M&Aの成立などに貢献した投資銀行家

            に贈られる記念の置物


 長銀時代、約30個の「ツームストーン」を得た古川は、決裂

しかかった交渉を何度もまとめ上げてきた。ギリギリの局面で

発揮されたのは、重量挙部時代に鍛えた集中力。「交渉には

大きなヤマが3つあります。例えば条件提示の場面。両者の

希望に大きな隔たりが生じ、交渉が決裂しそうになります。

そこであらゆるパターンを想定し、両者の間に入って交渉

します。説得に最大48時間かかったケースもありましたが、

『ここがヤマ』だと思って全力で切り抜けました」

 バブル期に日本企業が競って買収した海外企業や不動産

は、その後値下がりし多額の含み損を抱えた案件が多い。

一方、古川は厳密な価格査定と価格交渉を行い、「苦しい

時期に売却益が出たと感謝された」

 厳しい交渉は中国で経験していた。鉄則は「最初から結論を

言わない」ことである。安易に妥協せず3段構えで交渉に臨む。

相手が「ディールブレイク(交渉決裂)!」を叫んでも、慌てず

「ちょっと待て」と半日ほど相手に冷静に考える時間を与える。

その後用意していた小幅な譲歩案を提示。「再び『ディール

ブレイク』されても、相手が本気で売る気なら決まる」

 そのころ、古川は2度目の中国赴任を内示された。だが

古川はそれを断る。人事が宙に浮いていたとき、加ト吉の

加藤義和社長が長銀に乗り込み、海外事業の担当者として

古川の出向を指名してきた。加ト吉は取引先の1社。ほかの

行員は個性的な創業経営者に手を焼いていたが、誕生日が

同じ古川とは波長が合った。渡りに船。加ト吉への出向を選ぶ。

 加ト吉では海外事業やIT事業を担当。翌年、取締役に就任し、

順調な出向生活を過ごす。ところが出向期限が近づいていた

1998年10月13日、会議室で見たテレビニュースで長銀

破たんを知る。


「足がガクガク震えた。あのときのことは一生忘れない」。


突如、大企業の傘から放り出されてしまう。


 破たん直後、古川は今後の身の振り方を人事部まで相談に

行った。彼らの回答は「自分で生きる道を探したほうがいい」。

古川は銀行を退職し、加ト吉への転籍を願い出る。パート勤務

の妻には正社員として働くよう頼んだ。「住宅ローンも、子供の

教育も、すべて長銀で定年まで働くことが前提でした」

 長銀は人事異動の際、書面で辞令を交付する慣行がなかった

が、約22年間勤務した古川は初めて書面を受け取る。「人事

グループ付参事役、古川令治、願により解職する」。

解職通知だった。(文中敬称略)

(経済ジャーナリスト 角田 正隆)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


約2年間の広州事務所駐在後にマーチャントバンキング

グループに移動となり、現在のアセットM社のM&A事業を

立ち上げるきっかけとなる経歴を得たわけですね。

長銀破綻の話しは非常に生々しく描かれ、古川さんのリアルな

状況が伝わってきますね。この様に、まず破綻なんて全く想像

出来ない企業が破綻し、ドン底を経験された方が企業を経営

しているので、緊張感を持って企業経営に望まれているのでは

と推測します。



日経Biz記事:

http://bizcareer.nikkei.co.jp/contents/bizperson/0606bpn_furukawa/p_002.asp


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アセット・マネージャーズ社の古川令治氏の

過去の経歴について詳細の記事がありましたので

取り上げたいと思います!


日経BizキャリアHP

ビジネスパーソン半世紀

第1回「マオタイ酒の洗礼」より


1998年10月13日。

古川令治は出向先の会議室でテレビニュースを見ながら、

足元を震わせ悔し涙を流していた。長銀※破たん―――。

安定を求めて入行した名門金融機関の崩壊は、まさに

青天の霹靂(へきれき)だった。その後古川は投資銀行

アセット・マネジャーズを設立、同社をナスダック・ジャパン

(現ヘラクレス)上場へと導く。長銀破たんの悔しさをバネ

に、不動産ファンドを立ち上げ、大型M&A案件などで

見事リベンジを果たした。「リストラ組」から一転、

「勝ち組」として復活を遂げた古川令治の半生を振り返る。

※長銀 日本長期信用銀行(現新生銀行)

 慶応大学時代、古川は体育会の重量挙部の選手として、

神奈川県大会を2年連続で制覇している。地味なトレーニング

の積み重ねから、「重量挙げは火事場のバカ力を出す

スポーツ」だということを知る。ここ一番で限界以上のパワー

を引き出すべく、集中力を研ぎ澄ます精神鍛錬を繰り返した。

自己最高記録140キロ(種目ジャーク)を上げたのはただ一度、

晴れの舞台、インカレでのこと。


この経験が古川を土壇場に強い男にした。


 大学を卒業した1976年はオイルショック後の混乱期。

古川は安定を求め銀行を就職先に選び、人気の日本長期

信用銀行に入行する。当時の夢は「支店長になって黒塗りの

車に乗り、その後は関係会社役員として悠々(ゆうゆう)自適の

生活を過ごす」というもの。銀行に就職した者の多くが思い

描いたライフプランだった。

 新人時代は金融債の担当や流通業向け融資業務に従事

していた。顧客の財務担当者への営業を通じて、企業財務と

人付き合いの機微を学ぶ。その後、香港支店支店長に就任

した先輩に、「留学させてやるから、香港支店が設置した

広州事務所に来ないか」と誘われた。まったく中国に興味が

なかった古川がアジアに目を向ける大きな転機だった。

 台湾師範大学に1年間留学し、主席代表として1人で

広州事務所に送り込まれた古川は、当時完全な“共産圏”

だった中国ビジネスに苦戦する。個人的なつながりがない

と仕事が取れませんでした。中国では『仕事の話は3回

食事をしてから』。倒れるまで飲みました(笑)」。連日の

接待で強固な人間関係を築き、「人民大会堂」で大臣

クラスと会食するほど中枢に食い込む。

 古川の尽力で長銀は中国政府機関によるユーロ債発行

の主幹事を獲得する。広州事務所の仕事は順調に立ち

上がっていったが、50度を超すマオタイ酒の乾杯を繰り返す

宴席が続き、古川の肝臓は悲鳴を上げていた。医師の

診断は肝臓硬化。GPTなどの数値は平常の5倍。危険水域

に達していた。それでも接待を止めるわけにはいかない。

 そこで現地スタッフに紹介されたのが、中国古来の養生法

である気功や風水。それらは驚くほど効果があり、接待を

続けながら数値を平常値に戻した。以来、古川は現地の大家

に師事し、風水のホームページを主宰するほどの知識を得る。

だが、その風水が暗示していた「破壊の潮流の中心にいた

人物は、再生のチャンスを与えられる」という予測を、身を

もって体験するとは予想すらしていなかった。(文中敬称略)

(経済ジャーナリスト 角田 正隆)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 古川さんが以外にも体育会系(重量挙部)で地道な練習活動

から神奈川県大会を2期連続で制覇している点が古川さんの

努力家としての側面が見れて面白い話しですね。

 ”まったく興味の無い中国への留学の話し”を先輩から受けた

ことが、その後において古川さんの大きな転機になっている

んですよね~。中国においては個人的なつながり(人脈)が

ないと仕事が取れないという点は、以前、食品商社で中国と

仕事をしていた私には良く理解出来ます!ほんと人脈が

モノを言う国なんです。しかも、中国の大臣クラスの人と会食

出来たり、中国政府機関によるユーロ債発行の主幹事を

獲得したりしている点からも相当広く、太いパイプを持って

いるのでしょうね。きっと現在のアジアエリアにおける投資

にもフル活用しているものと思われます。

日本の株式市場に上場している企業のトップが直接、中国に

広く、太いコネクションを持っているなんて素晴らしいですね。

中国の成長性に期待をしているならば、その中国に広く、

太いパイプを持ったアセット社に期待して投資するというのも

非常に妙味があるのでは!?と思います。

ただ古川さんがコネクションを持っているので、古川さんに

万が一のことがあれば、リスク要因にも成り得るのでしょう

が・・・。きっと、古川さんの後継者を育成すべく他の

スタッフも活動しているとは思いますけど。これからも

積極的に人脈を広げて中国の成長機会をフルに享受

して欲しいものですね!

あと、お酒の飲み過ぎで体調を壊して、気孔と風水を

始めるきっかけとなったのですね。意外でした。



日経Biz記事:

http://bizcareer.nikkei.co.jp/contents/bizperson/0606bpn_furukawa/index.asp


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ゴールドマン・サックスがDAオフィスを

「買い」推奨でカバレッジを開始しました晴れ


目標株価は59万1千円アップ


賃料上昇が期待される東京主要5区への

投資比率がオフィス・セクターJ-REITの

中で最も高いため、今後収益の増加が

期待出来るとのことビックリマーク

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大証ヘラクレスのHPではヘラクレスに上場している

企業の社長にインタビューする「ヘラクレスが行く!」

というコーナーがあり、アセット・マネージャーズの

古川社長(当時)のインタビュー記事(2003年8月25日)

がありましたので掲載致します。


「ヘラクレスが行く!」アセット・マネージャーズ編:

http://hercules.ose.or.jp/club/interview/cl-in-2337.html


どのような学生時代をすごされたのですか?


私は,1954年1月7日大阪市福島区に生まれました。

この福島区というのは,福沢諭吉生地であったり,

松下幸之助の事業スタート地であったりと有名な人が

出る地でもあります。中学卒業までは地元の学校に

通い,高校は大阪教育大学付属池田高校にすすみ

ました。高校時代は,学園紛争で授業が1年間もない,

大変な時代でした。後の「赤軍よど号事件」のメンバー

がいたり,友人が自殺したりと,それは荒れた環境で,

高校時代をすごしました。ちなみに,民主党幹事長の

岡田克也さんも同級生でした。
 その後,慶応大学法学部法律学科に進学しました。

ゼミでは刑法を専攻し,体育会陸上部で重量挙げを

やっていました。

重量挙げですか,珍しいですね?


高校時代は5種競技の選手だったのですが,全国は

程遠いレベルでした。ところが練習であげたバーベル

の記録をみると,インターハイ出場レベルだったんですよ。


そして,就職,社会人のスタートですね。


就職する時はオイルショック後だったので非常に就職難

の時代でした。こういう時には銀行が一番いい。安定

してて,つぶれないと考えて,就職活動をしました。

面接では「なぜ刑法専攻で銀行ですか?」とよく聞かれた

のですが,「私は体育会で受けにきました。地方でも

海外でもどこでも行きます!」と答えてました。(笑)

結果,長期信用銀行と都市銀行の2社から内定をいただき,

長銀は国立出身だし,一生安泰と思って入行しました。

最初の配属先は大阪梅田支店で外回り。体育会で入社

しましたからもちろんエリートコースではなく地べたから

いくという感じでした。



安定の為,銀行という選択をされたということですが,

「社長になってやる」という考えはなかったのですか?


はい。銀行員で夢は支店長,「黒塗り車にのれて

かっこいい!」,50代は関係会社にいって,重役で

安定なんて思っていましたから,今の姿は想像だに

しなかったです。



その後ご留学された?


梅田の後は東京でしばらく融資の仕事をしていたのですが,

31歳の時に,融資時代の上司が香港支店長になり,

引っ張ってくれたのです。当時の長銀は,同期55名中,

10年経って辞めた人間が1名。55名中10名程度は留学が

できたので,少し頑張れば留学ができました。それで

台湾師範大学中国語コースへ1年間通いました。


 

勉強は大変だったのではないですか?


自然と話せるようになりましたよ。仕事の会話もOKでした。
 1クラス4名のカリキュラムに加えて,補助の学校ではマンツー

マンで勉強というかたちで勉強はしていましたが。ちなみに,

留学でも指名留学でしたから,100%給料保障! 1日4時間

学校に通い,夏休み・冬休みあり!と恵まれた環境でした。



留学後は香港支店勤務だったのですか?


留学後は本土勤務。広東省広州事務所,いわゆる駐在員

事務所でした。当時のクライアントは広東省,福建省に

1社づつでした。


 

長銀というと国策融資というイメージですが?


はい。ただし,国策融資といってもほとんどの案件は北京でした。

だから北京事務所がやる。広州事務所は当時の銀行横並びで,

他行にならんで店を出しただけでした。



融資業務や,店舗採算は求められていなかった?


下手に当時の中国南部の会社に融資しても,回収できないのは

目に見えていましたから。それに事務所なので採算は関係

ありません。いわゆる情報収集拠点です。2社の企業を香港

支店と一緒に担当していましたので,ほとんど香港と仕事を

していました。福建省には月3回は行っていましたが,これが

リスク高かった。飛行機がよく落ちた。そして落ちた飛行機が

そのまま置いてある状況。中国といっても今のイメージとは

違い当時はそんな時代でした。


 

(現在の)不動産・金融という仕事とは接点が

なかったのでは?


不動産はなかったですが,社債はありました。中国政府機関の

ユーロ社債の主幹事を長銀が行ったのですが,ロンドンに中国

政府担当者を連れて行って,ユーロ債調印式からなにから私が

担当しました。当時,33歳。社債の業務はその頃身に付けた

ものです。社債発行は通常,証券会社の仕事でした。銀行で,

とくにアジアでユーロ債の発行の仕事が取れることはあり

ませんでした。私の仕事が,長銀のアジア・オセアニア地区

での社債発行の1号案件でした。


 

社債発行は狙っていたのですか?


はい。狙いは最初から社債でした。取引先も作っては

いけなかったので・・・。そして,この仕事を取ったことで,

マーチャントバンキンググループ(MBG)という当時の花形

セクションに移動になりました。
 マーチャントバンキンググループでは,セゾングループ

による2,500億円でのインターコンチネンタルホテル買収の

最中でした。突然,中国語の世界から英語の世界へ移動

ですよ。チンプンカンプンのまま,出張に出かける日々が

半年ぐらいは続きました。(笑)それでも,私も含めて所属

チームが1年半で30億円の手数料を稼ぎました。


銀行がつぶれるなんて思ってもいなかったですか?


いい時代でした。案件は取れるし,銀行・会社が元気でした

ところが,イ・ア・イの事件が起こった時からおかしくなって

いきました。
 長銀は助けると宣言し貸し増しをしていったので,当時

300億円程度だった融資額があっというまに1000億円を

超えたんです。あの時,撤退していたら悪くならなかった

でしょう。私のチームで,イ・ア・イの物件(ハイアットサイパン)

を神戸ポートピアホテルさんに売却しました。ポートピアホテル

さんは,今も喜んでくれています。震災で具合悪くなった時

にも,サイパンが助けてくれたそうです。

つぶれる予感を持たれていた?


ええ。その後,40歳の頃,「北京に転勤しろ」といわれました。

私は「行かない」と拒否しましたが,個人的にはまずいと

思っていました。万が一,北京にいる間に銀行が倒れたら

就職先がなくなってしまうと思っていました。そんな時,

株式会社加ト吉の加藤さん(社長)から来てくれというお声がけ

をいただきました。その以前,加ト吉さんが,ハワイのウェア

ハウス買収を行った際に知り合ったのです。それで,加ト吉さん

に出向し中国進出のお手伝いをしました。中国子会社の管理

体制整備や在庫管理システムや早期決算システムを作る

仕事でした。

そして・・・破綻ですね。


1998年10月,長銀が破綻しました。44歳でした。長銀では人事

異動の発令書がなかったので,入行して初めてもらった発令書

が,解職書でした。98年12月のことでした。出向者を戻す余力

ないというのが当時の長銀の考え方でした。

かなりピンチですよね?


はい,家内に,アルバイトを止めてきちんと働いてくれと頼み

ました。子供二人・私学,住宅ローンあり。退職金ではローン

完済できない!2,200万円残りました。加ト吉さんが,面倒を

見てくれると仰っていただいたのですが,出向者なので

いつまでも置いてもらう訳にはいかないという状況でした。

幸い,家内は看護婦だったのですが,99年年初から正社員

で働いてくれることになりました。



気持ち的にはおちつきました?


いくつかの外資系金融からお誘いがありました。その中の

1社に,全世界250箇所で,不動産のソリューション事業を

手がける米コリアーズグループがあり,日本に拠点をつくる

から手伝ってくれということで,非常勤の取締役になり,

お手伝いをしました。(加ト吉グループと業務提携。稼いだら

加ト吉グループに支払うという形で加ト吉社員のままで

お手伝いをしました。)「日本の企業の海外撤退の案件が

ないか?」ということで,営業を開始したのですが,あまり

名前が売れていないこともあり,スタートは99年8月から

12月までで,案件 0件でした。その時のメンバーは,

当社特別顧問の山内さん,林さん,という商社出身の

お二人と私。そして,12月に林さんが,病気で倒れまして。

100%歩合で働いていたこともあって,時間がなくて病院

にも行けなかったんです。このタイミングでコリアーズは

撤退することになりました。それで,撤退準備の中,

自分でやると決心したんです。

ついに独立ですね!


コリアーズは撤退するとのことだったのですが,私としては

半年間やってきて,これは案件がとれると確信が出てきて

いたところでしたので。といっても,確信していたのは私だけ

だったようですが。そして,株を引き取り,加ト吉を退社して,

2000年4月に,資本金1,000万円でスタートしました。

どのような気持ちでスタートしたのですか?


駄目なら,プータローになろうと思っていましたが,他の外資が,

この会社を子会社化もしくは吸収したいというオファーもあった

ので,そんなに心配はしていませんでした。なんとかなる。

マーチャントバンクでのトラックレコード(実績)とネットワークで

なんとかやっていけると思っていました。

大手金融機関では,看板もあり,環境もいい。そこから

ベンチャー企業設立に転じられた戸惑いはありましたか?


ないけど,大変ですよ。1,000万円で買ったはいいが,

キャッシュとしては600万円。 12万5,000円 築地の一部屋

のマンションを借りて,家庭用設備でスタート。プレゼン資料

すら作れない状態でした。格付け機関さんが来社して,

びっくりしてました。「ほんとに格付け社債アドバイザー

やろうとおもってんの?」と。
 設立当初,助けてくれたのは,ミレニアム企画さんでした。

ミレニアム・リテーリングさんの前身です。流通業の開発型

の証券化のコンサルティング案件をいただけたのです。

つまり小売店の開発案件は,コーポレートファイナンス

でなくて,ノンリコースでできますという調査を手伝いました。

月20-30万円。それでも本当にありがたかったですよ。

銀行時代の仕事の縁ですか?


そうです。次に仕事が取れたのが,2000年5月中旬,西武

百貨店池袋店証券化の案件でした。政策投資銀行が大変な

判断の末,動き出しました。8月末にクローズできたのですが

調達額が1,081億円(300億円が政策投資銀行,663億円が

AA+以上の日本国債より信用力の高い社債,118億円が

政策投資銀行についたBB債)でした。
「ジャンク債ボリューム」ならびに,「日本国債より信用力の

高い社債ボリューム」,「全体のボリューム(不動産の流動

商品として)」で日本新記録!

日本新記録づくしだった訳ですか!!


それが実現したので,当社は一気に表舞台へ出れたんです。

外資系ならびに日系の金融機関がみんなびっくりしたんです,

「築地の名もない会社がなぜアレンジできるんだ?」とね。

どこでこのノウハウは養われたのですか?


社債のノウハウは中国時代です。不動産の流動化のノウハウ

マーチャントバンキンググループでした。その時の考え方が

「DCF(ディスカウントキャッシュフロー)」。キャッシュフロー

ベースで資産価値を算定する方法でした。バブルでしたが,

アメリカで私が携わった案件でも,ニューバレーショッピング

センターは,バブル絶頂で買った物件が,バブル崩壊後に

同じ値段で売れているんです。さらに,ニュージャージーの

クランベリーゴルフコースは,850万ドルで買って,バブル

崩壊後に1,100万ドルで売れているんです。ですから,バブル

期でもDCFで算定したものは,損得ありますがきちっとした

値段で売れるているんです。逆に,イ・ア・イのようにDCF

関係なしに買ったものは全滅したわけです。

これらの経験から,DCFによる不動産の評価が最優先である

というノウハウがありました。当時まだ日本では積算価格

(路線化や再調達原価等)がメインで,DCFによる不動産

の評価という考え方がありませんでした。

それで,金融機関も驚いたわけですね!


有名な鑑定会社が3年前に算定した価格よりも,地価全体は

下がっているにも関わらず,DCFではあがったという現象が

おきたんですよ。さらに,ムーディーズでもDCFで評価して

いただいた。結果「AA+」の社債が600億円も出た。
日本の銀行は自分たちが貸せるお金よりも沢山のお金が

集まったことでビックリしたわけです。そういう意味では,

「日本の不動産金融のコンセプトを変える」案件だったと

思います。金融庁も竹中プランが,銀行査定をDCFに

変えましたが,そのきっかけの案件だったと思います。

一番大変だったのは?


政策投資銀行が手を挙げてくれてから時間がなかったのが

大変でした。兎に角,ドキュメンテーションが大変で,ハードル

がいくつもありました。

その後は?


この案件をやったことで,案件が集まるようになりました。

その後,携わった案件としては,コリアーズ時代に

チャレンジしていた,大手の鉄道会社の海外からの撤退

や,米国の案件アレンジ,大手量販店の証券化等です。

いつ頃株式公開を視野にいれられたのですか?


2001年4月に株式公開を目指そうと考えました。当時は

社員5名。証券会社に相談したところ,組織をつくりなさい

という話になり,アーバンコーポレーションをご紹介いただき

ました。同社子会社のPIテクノロジーと合併し,15名体制

となりました。9月1日に合併をして,6ヶ月決算で公開申請。

NASDAQジャパンに2002年の11月に最後の銘柄で公開が

できました。

すごい展開の速さですが,イメージどおりだった

のでしょうか?



西武百貨店の案件後はイメージどおりです。インベストメント

バンキングの世界で日本新記録というトラックレコードを作れ

ましたから。その後2年で公開をと考えました。例えば,

モルガンスタンレー社もブティックでしたが,大きなトラック

レコードつくって大きくなっていった。実績が全ての世界

なので,大きな案件を取ることで,さらに大きな案件を取れる

ようになるのです。

経営者,企業としての考え方,心情は?


生き方としてですが,中国時代の気孔・風水の考え方が

あります。「自然の流れに身を任せる」が大前提です。

「くよくよせずに環境の変化に対応していきましょう」会社が

つぶれましたといってもくよくよするなと。
「自分は空気であり,光であり,水であるときは川の流れに

身を任せましょう」と,苦しくなるとこの言葉を思い出して

落ち着きます。

今後の目指すポジションは?


マーチャントバンクを趣向していきます。当社は不動産だけでは

ありませんから。不動産ファンドを立ち上げて,次に企業のMA

ファンドを立ち上げ,稼動し始めています。今後はローン債権の

流動化ファンドも画策しています。あらゆるアセットのファンドを

立ち上げて行きたいです。
 マーチャントバンクというのは,商材・業務・資産・企業

この4つの斡旋業務を行うものです。これはヨーロッパ流

の資本力のない企業の投資業務です。米国流の資本力

のある企業の投資業務はインベストメントバンクといって,

自分でお金をだす,場合によっては自分で買って,流動化

するという手法です。
 当社はまだ,自社に資金調達力はありませんが,将来は

マーチャントバンクからさらにインベストメントバンクになる

タイミングがあると思っています。その時は,日本の大手

インベストメントバンクと戦いたいですね。

最後に世の中の若者,企業家予備軍へメッセージを

お願いします。


なにをおいても,経験とネットワークが大事です。
 当社も,中国,香港,アメリカの友達が助けてくれています。

自分から積極的に表に出て,色々な人と出会い,幅広い仕事

を学び研究すること,こういう人が出てこないと,日本は駄目!

がんばってくだい!!


感想


古川さんは大阪出身だったんですね。話す言葉の

イントネーションが関東の人とは若干違う気がしていました。

バーベルをされていたのは私のイメージとはだいぶ

かけ離れたものでしたが、スーツを脱ぐとすごい肉体

なのでしょうかね(笑)!?


長銀時代は


融資業務→中国へ留学→広州事務所勤務

→マーチャントバンキンググループ→加ト吉へ出向


といった経歴をされていて、現在のM&A事業を

手掛るきっかけとなられている様子ですね。

アセット・マネージャーズに興味がある方は

楽しんで読むことの出来る記事だと思いますビックリマーク







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