またどこかで戦争が始まった。
空気がぴりりと悲しく震える。
きな臭い空気が僕の鼻まで届いてくる。
空の高いところにいる僕には、どんなに遠くで起こった出来事だって見ることができる。
僕の暮らしは風任せだ。
自分の力ではどこにもいけない。流され行き着いた先で雨粒を落とす、小さな灰色雨雲でしかない。
「ねえ」
僕は、風に話しかけてみる。
姿がないから、そこに本当にいるのかどうかも分からない。
でもいい。いなくたって構わない。僕は続ける。
「ねえ風。僕を、戦争しているあの国まで連れて行ってよ。そうしたら僕は、そこで思い切り雨粒を降らすよ。燃えている屋根は沈火するだろうし、誰かの渇いた喉を潤すこともできる。それに、酷く酷く強い雨が降り続けたら、戦争をしている人たちだってしばらくは休息を取るかもしれない。戦争を終わらせることなんか僕にはできないけど、休息がずっとずっと続いたら、それは戦争をしていないこととおんなじだろ?」
風は何も答えない。
やっぱりここにはいないのかな? 不安になるけど、僕には話しかけること以外何もできない。
僕には何もできない。
でも、だからこそできることを一生懸命やりたいよ。
僕はいつか、子供たちに教えてあげたいんだ。
ここで吹いた小さな風が、遠くで竜巻を起こすっていう外国の諺を。
今自分のいる場所で起こる何かが、世界のどこかに影響をもたらすってこと。
世界はつながってるってこと。僕らひとりひとりの手によって。
柔らかな風が、ふわりと僕の頬を撫でた。
体が、ゆっくりと流れ始める。
僕の体も、風に乗り動き始める。
僕の声が届いたのかな。
相変わらず風の姿は見えない。
僕は自分にできることをしよう。
馬鹿らしいと誰かに笑われても。
手を離さない努力をすること。それを愛って呼ぶんだよ。
僕は世界を愛してる。
そうだよ。
僕は世界を愛してる。
おしまい
「思うんだ。
たとえば、世界の平和を祈るのってけっこうむずかしいでしょ?
けど、たった一人の大切な人の幸せなら簡単に祈れる。
たとえば僕が君の幸福を願う。君が君のお母さんの幸福を願う。君のお母さんが君のお父さんの幸福を願う。君のお父さんが彼の友人の幸福を願う。お父さんの友人は自分の息子の幸福を願う。息子は姉の幸福を願う。姉は自分の恋人の幸福を願う。
そうやって、ひとりがひとりの幸福を願えばいいんだ。
自分にとって大切な人のいる場所が、少しでも平和で平穏で暖かい日が差していることを願うのは、当たり前のことでしょう?
せめてその場所に憎しみや戦争がなかったらいいと思うでしょう?
ひとりがひとりの幸福を祈る。
それが、結局は世界の平和を祈ることになるんだよ。
だから、僕は君の幸福を願う。君が幸せであるように。君の、とりあえず半径一メートルの世界が幸せでありますように。
心のそこから、全身全霊で祈るよ」
そんなことを言っていた人間がいた。
僕に言ったわけじゃない。
僕はたまたまその家の窓辺に落ちたんだ。
僕は雨粒だ。そうしてその言葉を体にしみこませて、土の中にしみこんだんだ。
君にはもう会えない。僕は土の中。君は、空の上だ。雲、君は今日も青の中を自由に流れているのだろう。
僕は君にはもう会えない。
だから僕は君の幸福を祈るよ。
ありがとう。
まさかこんなところで会うなんて思わなかったから、あたしはびっくりして思わず逆毛を立ててしまった。
「どうした、なぜこんなところに?」
と、野良猫は言ったので、彼も驚いているのだと言うことが分かった。
目の前の野良猫は、あたしが知っているときよか余計に薄汚れ、余計に痩せこけていた。もうほとんど皮と骨だ。
あたしはあたしの丸々とした体を少し呪った。
「あんたこそ、どうして」
あたしは、あなたに会おうと思って、とは言わなかった。そんなの言いたくなかった。
「俺は、お前のとこに行こうとしていたんだ」
野良猫は言った。
「かりかりが食べたくなったの?」
「いや、まあかりかりも食いたいが」
そこまで言って野良猫は一度言葉を区切る。
「俺の余命を、お前と過ごそうかと思ってな」
馬鹿じゃないの、とあたしは思った。
死ぬまであたしと過ごしたいなんて、ロマンチックにも程がある。けど。一緒に生きることや、一緒に死ぬこと。それってただ愛さえあれば簡単なことだ。
けれど、死を看取ることには、それ以上に何かが必要な気がする。
愛以上のもの。それってなんだか分からないけど。
たぶんきっと、野良猫はもうすぐ死ぬ。
そしてあたしは、まだ随分と若い。
「そうね、そういうのもいいかもね」
あたしは答えた。
野良猫は少しだけ口の端っこを上げて笑った。
ふわりふわり、俺は風に乗り遠くへゆく。
白くて美しいものを作るから蜘蛛なんだ、飼い猫が前にそう言ったが、それはちょっと違う。
蜘蛛と雲の共通点は、風に乗って旅するところだ。気ままに。自由に。
俺は蜘蛛で良かった。あんまり他の生き物に好かれない見た目のせいでときどき嫌な目にも合うが、そんなもん、たいしたことじゃあない。
ふわふわと風に白い糸をはためかせる。自由という幸福。
と、俺は、眼下になんだか小汚いものを見つける。
じっと動かない。薄汚れていて、あまり良くないにおいがする。
下りていってよく見ると、それは行き倒れた野良猫だった。
しっぽが折れ曲がり、短い毛がべっとりと体に張り付いている。
死んでるのか?
そう思ったら、その小汚い野良猫が、のっそり顔を上げた。
「大丈夫か、お前死にそうだぞ」
俺が声をかけると、野良猫は俺のほうにゆっくりと目をやった。
「死なないよ、まだな」
野良猫は、よぼよぼのくせににやりとニヒルに笑った。
「会いたいやつがいるんだ。それまでは死なない」
勝手にしろ、そう思いながら俺はまた風に乗る。猫って生き物は、どうも自意識が強すぎる。
でも、あいつらのそういうとこ、ちょっと好きだな。
風に乗りながらちらりと後ろを振り返る。
野良猫は、ゆっくりとだが少しづつ、前へ前へと進んでいた。
蜘蛛は、もうどっか行ってしまった。
どっか行くって、あたしが考えているより、もっと簡単なことなのかもしれない。
ご主人とご主人の恋人が、ほうきを手にしたままじっと何か話してる。
彼らに向かって、あたしは「にゃあ」と小さく二回鳴いた。
これは、さよなら、の「にゃあ」。
そして、ありがとうの「にゃあ」。
あたしも、どっか行ってみることにしようと思うんだ。だってご主人には恋人がいるから、あたしがいなくたって淋しくないでしょう?
あたしは猫の出口を通って、庭に降り立った。冷たい土と冷たい空気に、ぶるりと震える。そしてこれから始まる冒険にも、ぶるり。
さよなら、ご主人とご主人の恋人。
さよなら、ベタのお墓。それと花のお墓。
さよなら、かりかりしたごはん。大好きなツナ缶。
あたしも、会いたいものに会いに行くことにする。
会いに行く、の「会い」と、愛するの「愛」が同じ読み方なのは、きっと偶然じゃないわ、とあたしは思った。
何か長いものを、そう言われてようやく探し出したベランダ掃除用のほうきを掴み、わたしと彼は勇んで部屋に飛び込んでゆく。
けれど、窓の脇の壁の上にある蜘蛛の巣に、さっきまでいたはずの蜘蛛はもういない。
「どこいっちゃったんだろう」
そう言いながら、彼は部屋の中を見渡す。
わたしは、蜘蛛のいない蜘蛛の巣に、ほんの少し見惚れる。さっきまで身震いするほど嫌だったのに。蜘蛛の作ったものじゃなかったら、きっとあたしこれのこと好きなのに。
「蜘蛛、いないね」
「うん」
「部屋のどこかに隠れてるのかな」
そういう彼の言葉に、わたしは再びぶるりと震える。隠れるって、この部屋のどこかに?
だったら、またいつわたしの目の前に現れるか分からない。そう考えるだけで、嫌な気分。
「蜘蛛なんかいない世界に住みたい」
呟くわたしを見ながら彼が、唐突に、言った。
「結婚しよう」
さらりとした風みたいな音色。
え? 意味が理解できず、わたしはしばらく彼の顔を見つめぼんやりとする。
彼はまた、さらりと風の音色を口にした。
「そうして、いつも一緒にいるんだ。そうすればいつ蜘蛛が出てきたって僕が追っ払う。そのために、僕はいつも君の傍にいる」
彼の声は真剣で、ふざけているようには見えなかった。
「そうして子供を作ろう。子供を育てて、そしてまたその子供が結婚して子供を産んで育てて。そうやって世界は続いていくんだ。僕たちの子供が新しい世界を作るんだ」
わたしはしばらく呆気に取られ、風の音色に身を浸した。
そして、ようやくわたしは口を開く。出てきた言葉は酷く冴えないものだった。
「その新しい世界に、蜘蛛はいない?」
すると、彼はにっこり笑った。
「いても良いんだよ。大切なのは、いつでも君を守る僕が傍にいるってことだ」
馬鹿みたい、そう思いながらも、わたしはもうすでに新しい世界を好きになれる気がしていた。
チャイムが鳴る。ご主人がばたばたと音を立てて玄関まで走る。
人間の走り方って本当にエレガントじゃないわ、なんてあたしは思う。あたしたち猫の歩き方はとても綺麗だもの。
部屋に入ってきたのは、ご主人の恋人だった。
さっき帰ったと思ったのにまたご主人に会いたくなったのね。
好きなんだもん、当たり前のこと。彼もばたばたと部屋の中へ入ってくると、壁に作られた白い糸の家を見上げる。
ご主人と恋人は「何か長いもの」「長いもの?」「ホウキない?」とか言い合いながら、ばたばたと部屋を出て行った。二人は、走り方がとても似ている。
「俺の家、壊す気だ、あいつら」
蜘蛛がぼそりと言う。
「どうして? 綺麗なのに」
「人間には分かんないんだ、この芸術がさ」
「酷い。あたし、止めさせるよ」
わたしがしっぽを立て毛を逆立てながら言うと、
「いいよ。家なんかまた作ればいい。それに俺は、運命には従うたちなんだよ」
と、蜘蛛は何てことないふうに言った。
「随分昔に会った雲が、そんなようなことを言ってた」
「蜘蛛が?」
「雲が。ま、どっちでも良いがな。とにかく俺は出てくよ。殺されるのは真っ平だからな」
蜘蛛はお尻から白い糸をひゅるりと出すと、ふんわり吹く風に乗り、部屋の隙間へと隠れた。
「どこへ行くの?」
「どっかへ。隅っこで窓が開くのを待つよ。じゃあな」
そうして、蜘蛛は黙った。
暗闇に隠れた小さな蜘蛛を、あたしはもう見つけることが出来ない。