春だというのに
北風にあおられ
街の声にせきたれられ♪

思い起こせば、高校生のときから
いつも春のからっかぜに、追いたれられて
生きてきた気がする。

3月になって一気に春が来ている気がする。
しかし、失意の底に自分はいる、春はきらいだと叫んでみても、なにもすくわれないのだが。

蝋梅から梅、そして本格的な、桜の季節へ、人々は浮かれて狂い踊る。

自分は失意の底にいると、浮世の輝きを横目に絶望だけが前に塞がる。
まさに闘病ではなく倒病生活の自分には何も関係ない、まばゆいばかりで、こちらはふさぎこだけである。

確かに、辛いのは自分だけではない。
そのように何処かで、理解しなければならいとはわかっていなければ、と思うのだが。
そうはいっても病の中にあっては、自分しかいない。
苦しみは自分の中にしかない。
治りたい、というより、苦しみからとにかく離れたいと願うだけです。

善も悪もない、楽になることだけが正義なのです。

病気は人を卑屈にします。
こんなにも病気は、人をだめにするのでしょうか。
楽になりたい、かつて、日本AS友の会、田中健二氏が会報に名づけた「らくちん」
は病人の悲願であり、永年病気を患った田中氏の偉業の一つであるとおもいます。
「らくちん」こそが願望です。

度重なる、病魔というものが自分を身体だけでなく、自分の精神も朽ちさせていくのです。

好きな音楽、美しい自然、花鳥風月をながめても、何もみえない。
いつもときめく素敵な女の子さえも心は躍らなく。
もう人間でもなくなりつつあるのか、自分が誰なのか、どうなっているかさえ見当もつかない。
失意のどん底だ。

もう今はなにも、考えられずにいる。
自分が自分でなく、病気にしはいされ身体だけでなく精神も壊れていく。
病魔とはおそろしいものである。

バチがあたるというが、まさに、不運はなぜ自分にふりかかるのか。
自分だけが悲劇の主人公では、うかばれない。
もう一度、健全な精神に戻れるだろうか。
先がみえない、でも、生き地獄の中をさまよい。
いつか、どこかに抜けるのだろうか。

抜ける先が、何なのか、まだブラックホールの中にいる。