世相

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今日は、都知事選挙だという。


小池氏優勢は、マスコミが始めから打った。
情報、これを覆したいと、何故かみんなが感じないのか。

アナウンスですべてが決まる。
その結果通りになるというのか。
選挙報道操作に振り回される選挙はどうなのだろう。

小池氏は、橋元氏として第二与党をつくるとすれば、改憲勢力に加担する保管となるでしょうか。何がたくまれてるのか。だいたいみえてくる。
ただ、公明党は、面白くない自分たちの立ち位置存在感が弱くなるから。


よりによって、民進党の岡田氏が代表をやめるという、なぜ今、明日にしたらとおもう。


野党共闘の結末を、負けとみとめているようなものだ。



障害者殺害事件も、殺害者批判は当然だが、そういっものを作り出した、この世の中がもんだいなんであり、「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスをくずしてはならない。

過剰な個人批判は、何も世の中をかえない。

みなリベラルさにあこがれ、それを信じ世界全体額数十年進んできた。
自分さえ守ればいい。
ネオ右翼の世界が再びおとづれている。


いくところまでいかなければなあらないの。

イマジン♪がたらなすぎる。

ジョンレノンが泣いている。
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絶望のはじまり 祈り

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すべては絶望にみえる。
確かにその通りです。
崩れ落ちていく。

何一つ良い材料などない。

病気にかかれば、病に追い詰められるだけでなく。
経済的困窮がまっている。

医療費がどうのこうのという前に、稼ぎがともなわければ、
ストックは減る一方で、病気に困窮することは、病気だけでなく経済破綻をきたらし、
病気さえも治すこともままならい。

今私の取り巻いている環境は、ほぼ絶望にみちあふれている。
自分の病気に加えて、親の体調、経済的破綻?など。
なんで、こんなときにと。
本当におちこむばかりです。

しかし、きっと絶望はきっと希望への一歩と思えるようになってきた。
考えてもネガティブでもしかたない。

今は、現実に何もおこっていない。
来たるべき、恐ろしい事態も、やがて人間が病にかかり障害もともない、動けなく死んでいくというのは避けられないとすれば、はやめにある程度あきられたほうがいいい。

この年になると親のことも考える、何が何でも親より先には逝きたくない。
なんとしても、それは親が長く生きることもも確かに願うことではあるが、
しかし、それより自分が長くいきることである。

生き延びることこそが、最後の孝行でしょう。
そして共に過ごす時間を少しでも疎通をもって頑張りたい。

厭離穢土欣求浄土。

経済はあとづけで、やれることをというのが本音でしょうが、
それも長引けばそうとも、いえない。

辛いが笑うしかないのだろうか。

泣いても笑っても、怒っても何も現実はかわらないなら。

現実を受け入れて、祈るだけだろう。
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他人事

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この世には、同時に楽しいことも、悲しいことも、同時に起こっている。

自分が楽しい瞬間、最高潮とき、同時に誰かの絶望が、重なっている。

そして、お互いが、他人事です。

でもそのなかで、共感できるなにかが、あるならぱ、それを探したい。

それは、愛なのか。

神なのか?

幻なのか?
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運命

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7月19日。



忘れられない運命に出会す。

その瞬間は、妙に心はおだやかで。



でも、本当はあたまのどこかで、まだ、夢のように
幻の出来事のように、嘘だと叫んでいる。

現実におののいている自分がいる。


厭離穢土、欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)

徳川家康が、絶体絶命のときに、このように叫んだという!
ついこの言葉を、心に記し、さらに、この文字を写経した。
かなり、辛い厳しい出来事、そのものだった。
しかし、この言葉の意味など知るすべもない。
それでも、なんとなく。
この言葉の意味をわかろうとする自分がそこにいる。
浄土宗ではないが、私は危機のときこの言葉を心に記す。
なぜだか、家康の幸運にあやかりたいとでも、いうのか?


宣告は、つらいが、まだ、なにも起きてない。
予見的、運命の序章なのだろう。
かなり、遠くない時間(とき)のなかに、真実の運命が、
隠されている時限爆弾のように。
奥深く。

いづれの人間も、死は必ず避けれない。
しかし、それが漠然となるものであるなら、
皆、受け入れられている。
当たり前のように。
しかし、それが、年単位、
いや。月単位で、しかるべきときを、
受け入れなければならない。
とすれば、そう簡単な覚悟で、いられるはずもない。

そうして。
大概の大きな問題は、死は単独ではなくて。
死に至る過程や苦しみ、そして悲しみが、なく存在することは、ほとんど避けらない。
それを、どうむかいあうのか?
それは、今は到底見当もつかず難しい!
いまはまだ、閉口するだけだ。

考えれば、考えるほど。受け入れられずに。
ただ、ただ、怯え震えている自分。


諦めの向こうに、諦めこそが、希望であると。

そう信じたい。
そんな、まともなことが、言えてるようでは。
まだまだ、事実を受け入れてないのかな?

かくいう自分。
ただ、ただ、うろたえています。
震えてます。

しかし、それもどこかで
ただの現実の逃避にしかすぎない。

自分の人生、自戒の連続。
まさに、天罰かな?

絶体絶命は、きっとこれからなのだろうか?
まだ、本当は受け入れていなし、最後のときまで、
受け入れられずにいるのだろう。

参議院選挙~玉音放送

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10日の参議院選挙

みなさんは、どうとられたろうか?

私は、失望しました。

確かに、野党は不甲斐ない。
しかし、今回は、政権交代の選挙でない。

安倍内閣のこれまでの秘密保護法、安保関連法案など。
マスコミ統制、TVの放送制限、高市発言!



ある意味での、国民的裁判であったわけです。
福島もアンダーコントロールされてませんし、年金を株に投機にしたり、
様々な懸案が、国民に問われたわけです。

それが、参議院選挙、だとすれば。
もう少し辛口でよかったのではないかと、おもわれます。

安部政権を指示する人も、しない人も、ここは立ち止まるべきところでした。

そして、安部氏のテーゼであった、
北朝鮮の拉致問題は、とこかに、消えてしまった。

かつての、救う会の被害者の会、事務局長、蓮池透さんには、拉致を踏み台してなりあがった総理。
ブルーリボンをはすせ!とまて、いわしめた。

今回の参議院選挙では、拉致のはなしは、何処かにきえた。

それも、与野党のどちらも、問題棚上げだが、安部総理のルーツは、
拉致問題なのだから、罪は深い。


結論として、ここは2/3を野党に、与えるべきではない。

そして、戦争放棄。
70年の平和がくずれようとしてる。

そんなとき、天皇陛下の退位、御発言。

70年前の玉音放送のように感じた。

この国民は、自分で暴走を止められない。


同じ過ちをしないうちに?
昭和天皇の遅すぎたと言われた玉音放送。

平成天皇は、早目に問題ていきされた。
もちろん、安部総理だけでなく、むしろ、国民に問われている
のは。いうまでもない。

絶望から希望へ

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2016年(平成28年)4月14日 夜

また、大地震が起こった。
東北震災から5年、まさに地震大国の日本の脆弱さを目の当たりにした。
これでも、まだ原発をやり続けるというから狂気のさたといわれても
しかたない。

16日に更なる、連続地震があり、こちらが本震だという。
訳のわからない報道。

東北の震災の時に、「地震の予知は科学的にまだそれに至っていない」
と地震学会が自分たちの非力さを認めて、白旗をふったのも記憶に新しい。
といえ、それなそれで、もう少し予知する側ももっと謙虚な姿を国民に表さなければならいのではないだろうか。
占い程度のことであるなら、もう少し控えめな発表も必要ではないだろうか。

5年の間に、大きな震災が二度、更に原発の福島は、何の見通しもついていない。
もう、東京だけバブルに浮かれてる場合ではない。
東京オリンピックもすべてやめて、被災地を含めて地方再生。復興に力を注がなければなるまい。
オリンピックの公共事業が並行すれば、どうしたって、復興事業にも影響が出るのは明白であるということははっきりしている。
何を優先させるかは、誰が考えてもわかりきっていることではないだろうか。

もう、ゆめうつつでは、いけない、地に足をつけた日本再生がもとめられる。

今回の震災でも沢山の方がお亡くなりになり、そして、今もなお多くの方が被災しておられる。
被災された方に、心からお見舞いを申し上げます。

日本人同士手をとりあって、この難局を乗り切らなければならにとおもいます。
被災された方に、私のような病人、障害者も沢山おられるでしょう。
自分自身も自分の病の辛さに負けそうになりますが、被災者のことを考えれば
甘えてばかりはいられません。
あばら屋であっても、通常の生活を送れる幸せはこの上ないことです。

自分にも喝をを入れて、もう一度、少しでも明るい明日へと願っております。

このいまの状況を絶望から希望へと変える変革期ではないかと考えます。

遠くの春

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桜を遠くに感じながら、3月が終わり4月になった。


倒病生活がつづいている。

すべての価値観が崩壊するほど、病気とは人生にとって大きなものである。

それに寄り添う、医療は確立されているかといえば、そうともいえない。

受付や医師の対応は、それなりにかわっていても。
昔は雑でありながらも、もう少しアドリブが効く医療がであったような気がする。
それでも公平かつ、エビデンスに基づいた治療という点では、進んでいるのかもしれない。

最近、通院でお茶の水駅を使うことが多かったが、あそこにはエレベーターがないのです。
東京医科歯科に順天堂、日大、南雲堂、少し離れて、東大、日本医大、三井記念など数えたらきりないほど、なだたる病院街にもかかわらず、お茶の水駅にエレベーターがないとは、昔からの七不思議といえるだろうか。

やっと、エレベーター工事に着工しているらしいが、あまりにも遅すぎる。
東京駅にあれだけ金をかけているのだから、優先順位をもう少し考えてほしいものである。

とかく、儲かるものだけに金が費やされて、弱者は切り捨てられる。
東京は栄え、東北大震災・福島のことさえ置き去りにされているようにおもえる。
切り捨てられるのが当たり前のように、それが正義のようにこの世は進んでいるきがする。

入退院を繰り返した、3月が暮れていく。
4月という新しい季節にむかって、少しでも希望をとおもうのだが、まだ僕には
明日がみえない。

春だというのに

テーマ:
春だというのに
北風にあおられ
街の声にせきたれられ♪

思い起こせば、高校生のときから
いつも春のからっかぜに、追いたれられて
生きてきた気がする。

3月になって一気に春が来ている気がする。
しかし、失意の底に自分はいる、春はきらいだと叫んでみても、なにもすくわれないのだが。

蝋梅から梅、そして本格的な、桜の季節へ、人々は浮かれて狂い踊る。

自分は失意の底にいると、浮世の輝きを横目に絶望だけが前に塞がる。
まさに闘病ではなく倒病生活の自分には何も関係ない、まばゆいばかりで、こちらはふさぎこだけである。

確かに、辛いのは自分だけではない。
そのように何処かで、理解しなければならいとはわかっていなければ、と思うのだが。
そうはいっても病の中にあっては、自分しかいない。
苦しみは自分の中にしかない。
治りたい、というより、苦しみからとにかく離れたいと願うだけです。

善も悪もない、楽になることだけが正義なのです。

病気は人を卑屈にします。
こんなにも病気は、人をだめにするのでしょうか。
楽になりたい、かつて、日本AS友の会、田中健二氏が会報に名づけた「らくちん」
は病人の悲願であり、永年病気を患った田中氏の偉業の一つであるとおもいます。
「らくちん」こそが願望です。

度重なる、病魔というものが自分を身体だけでなく、自分の精神も朽ちさせていくのです。

好きな音楽、美しい自然、花鳥風月をながめても、何もみえない。
いつもときめく素敵な女の子さえも心は躍らなく。
もう人間でもなくなりつつあるのか、自分が誰なのか、どうなっているかさえ見当もつかない。
失意のどん底だ。

もう今はなにも、考えられずにいる。
自分が自分でなく、病気にしはいされ身体だけでなく精神も壊れていく。
病魔とはおそろしいものである。

バチがあたるというが、まさに、不運はなぜ自分にふりかかるのか。
自分だけが悲劇の主人公では、うかばれない。
もう一度、健全な精神に戻れるだろうか。
先がみえない、でも、生き地獄の中をさまよい。
いつか、どこかに抜けるのだろうか。

抜ける先が、何なのか、まだブラックホールの中にいる。



下流☆男子という生き方

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くしくも、時間は変わって、バレンタインデーは過ぎた。


僕が高校時代には、今もほどでないにせよ、バレンタインデーがもう結構巷でも出始めていた。

昔は義理チョコってやつはないから、結構ドキドキしたもんだ。



一度かぎりだが、モロゾフのチョコレートをもらって。

それまで、チョコレートなどくだらないとほざいて、いたにもかかわらず、

夏まで、もったいなくて食べられないでいた。ことを思い出す。


今も、モテ男子は、チョコレートを山ほど抱えて、ニンマリ。

僕は、毎年寂しい想いをしている。


義理はともかく本命をもらえれば、チョコ嫌いでもニンマリするだろうか。


元々、モテ上流男子は、スポーツマン、イケメンなら、なにもしなくても女子から手紙がとどいたり、いろいろとアクションはあるだろう。


どうにもこうにもならないって奴は、ギターを弾くしかなかった。

ギターを弾いたら、ちょっとは女にもてたから。

そんな、時代。


今じゃ、下流男子どころでなく、下流人間、そのうち下流老人、先はきびしいなあ。


楽しいこと探しに、街を徘徊する、更に下の下、外道の人生です。

堕ちる落ちていく、私の人生。


病気がわるいといえば、それまでの。

私の人生。どこまで生き延びられるか。

それは、神のみぞ知ることなのでしょうか。

置き去りにした悲しみ

テーマ:
遅ればせながら。
あけましておめでとうございます。
一月も終わろうとしていますが、この一月も疾駆八苦しながら生き延びている。
ちょっと、六本木の遊びもご無沙汰です。
辛いこと、悲しいこと、何で気晴らしするのか、僕の場合綺麗な女性かな。
くどくのが、嫌いとはいわないが、女性と食事はそれなりに、華があるからでしょうか。
とはいっても、なにも救われないことばかりがつづいている。

初恋のあの子に手紙をしたためても、心には届かなかったのでしょうか。
返事は来ません。むし、つらいなあ。

置き去りにした悲しみは、そのままで生き恥をかいている。

やらなければならないこと、置き去りにしてはいけないことばかり

目をそむけている

考えることから、逃げ出したくてしかたない

出来れば、誰にも会いたくないし、ひきこもっていたい。

ひきこもっても、メールやLINE facebook ツイッターじゃあ救われない。
すべてを捨てれば、もっと幸せになれるはず。

もっと電話で話したいし、会って話したい、そして、お茶を飲んではなしたい。
立ち話じゃあ、

電車にのれば、皆スマホ、僕は新聞、文庫本、雑誌をみていたい。

ブログはどうなのだろうか。
安易な発信者には、無責任という言葉しかない。

めまいなどに調剤される、メリスロンが効かないというエビデンスがでたという。始めから効かない薬なんてごまんとある。
害がなければいんじゃない。

世の中そんな薬が横行しているのもホント。

それでも、大方で医療はあっているのも、実は本当!!

このページも散々医療批判をしてきました。

無駄な医療は、横行しすぎています。

そして、治す医療、生きる医療だけが、もてはやされていることは問題です。
QOLを考えて、病気と共存し、そして死ぬ医療も必要なのではないのでしょうか。

何を置き去りにするか。
それは、医者が決めることではありません。
それは、患者自身のおもいと哲学です。

今日の代替医療の蔓延りすぎた拝啓は、医者の怠慢もそうですが、医療の方向性です。
所詮、何かを置き去りにしなければ生きられないのですから。