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2008-01-28 21:37:59

今になってアイデンティティークライシスを考える。その3

テーマ:考えたこと
僕は思うんだ。

アイデンティティーなどはじめから無かったんだと。

無かったんじゃない、無視し続けてきたんだと。

経済的裕福さへの願望で、誤魔化し続けてきたんだよ。


経済の凋落で、それが表面化してきた。

普通に学び、働き、育てる人たちが自分探しの旅をはじめるのは当たり前さ。

自分で考えることをしなかった人たちが

幸福神話を失って迷走した。

ところがその変わりがなかなか見つからない。

本来なら知識人という人たちが提示するべきものなのに

ほとんどの人が誤魔化しに加担してたんだから、どうにもならない。


多少、思想的なものが見えてきたら

靖国参拝や対アジア外交で小泉さんにうまく動かされ

ナショナリズムの表層だけがひとり歩きして行ってしまった。

まさしく偏狭のナショナリズムだよ。


どうしてなんだろうね、イデオロギーの対立の時代は終わったと言われ

だけど、日本は冷戦後にイデオロギーの対立がはじまった。

しかもかなり矮小的というか、本筋を外れたところで。

主義は一貫するから主義になり得るのに

片方は冷戦崩壊で思想自体が疑問視され

最善の繰り返し、場当たり的対応で未来を曇らせるし

片方はその反作用に留まって、衝動的になってる。



僕はね、自己認識の危機に対するものとして

ナショナリズムを持ち込むのは当然の流れだと思うし

他者との関係性に生きる人間だから、横軸の関係だけでなく縦軸の関係も認識できる

ナショナリズムは当然あるべきものとして考えるよ。

だってさ、自己なんて言っても、どうしたって周囲からも歴史からも切り離せないものだもの。

そしてもちろん未来からもね。

ただ、ナショナリズムと聞いて、すぐに自尊心に繋がっちゃうのはどうかと思うよ。

まず、思うのは「ごめんなさい‥」じゃないの?

「こんなにしてしまって、こんな自分でごめんなさい‥」だろうよ。

そして感謝じゃないのかな?

繋がっていることに感謝して、そこではじめて誇りだろうさ。


そしてね、誇りや自尊心を抱くなら、その背後にあるものも背負うべきだよ。

未来に継承する責任を持とうよ。

日本人はさ、たしかに誇れるものをたくさん持ってるよ。

比類がないくらい持ってると思うよ。

世界中がみんな日本人だったら良かったのに‥って思うくらいにさ。

だからさ、誇れる分だけ重い、重い、背負いきれないくらい重い責任があるんだよ。

その重いものを背負える人間だけが扱える代物なんだよ。

あっちこっちに、自分の立ち位置も考えず

まるで合コンの盛り上げ役みたいな生き方をしてる奴が触れていいものじゃないんだよ。



なにしろさ、どんな立場でもいいよ。

だけど、いい加減一貫しようよ。

現実は大事だよ、だけどね、現実を免罪符にしてたら進まないよ。

自己認識の危機ならまだいいよ。

自己を自己たらしめるものが危機に陥ってるんだよ。

克服して市民ならず、克服して国民になるべきだよ。





自分をすごい高いところの棚にあげちゃって

今日は社会批判をしてみた。
2008-01-28 19:45:48

今になってアイデンティティークライシスを考える。その2

テーマ:考えたこと
問題は政治だよ。

彼らがなぜアイデンティティーを警戒したのかと言えば

それは間違いなく、アイデンティティーの源泉であるナショナリズムを恐れたからだと思う。

もちろん彼らはナショナリズムがアイデンティティーの源泉であることに気がつかせないように

「若者の右傾化は日本経済の凋落が原因」とした意見が出回った。


そこで若者を右傾化させた極悪人として小林よしのり批判が起こった。


若者の凶悪犯罪の原因にゲームや漫画、インターネットをことさら語るのは

小林よしのりの漫画が影響しているような気がしないでもない。




喪失感があったのか無かったのか

僕は別に喪失感など抱いたことがないのでわからないけれども

彼らの言い分では、

経済の凋落によって生まれた喪失感に、特に漫画という本気なのか冗談なのかよくわからない

対立する人間を恣意的に醜い顔に描き、印象操作を行える媒体を利用し

ナショナリズムという危険なものを、未熟な若者に向けて発信し、植え付けた。と言う。



僕は、むしろ経済の凋落が生み出したものはニートじゃないかと思う。

ニートはある意味、幸福神話を失った親の迷走の被害者で

神話を失っても、凋落したとしても依然として日本は裕福であり続たこと。

仮に喪失感があったとして、それを埋めることなく

それをそのまま受け入れる方向、それを埋めると言うのならニヒリズムじゃないだろうか?


もし、本当にナショナリズムが経済の凋落で生み出されたものなら

もう一度再興しようという方向や、違う価値観に生きることを選択するのではないか?

違う価値観がニートだという話もあるけど。





そして彼らが首を傾げ、様々な理由をつくりどうにか説明しようとする

ニートやフリーターなどの、彼らが経済的弱者と呼ぶ層の右傾化。


損よりも得を優先するのが普通の人だから

貧しい層は、自分の利になる左翼的な方向に進むのが常道と言われてる。

だけども、彼らは真逆の方向に進んだ。



僕はその理由の1つに間違いなく、左翼的なものに対する不信感があって

彼らが右傾化する若者に疑問を投げかけるよりも、まず不信感の克服をするべきだと思うけれども

そして、彼らはニートやフリーターを経済的弱者と位置づけてるけれども

その認識も誤りではないかと思う。

まず、ニートは親の経済援助があるにしろニート生活ができる経済力があるのだし

自ら進んでフリーターを選んでいる人が多い。

仮に彼らを1つに括るのなら、経済的弱者という認識ではなく、未来的弱者ではないだろうか?

彼らの不安は現状の経済状況ではなく、自身の未来像にあるのだと思う。

もちろん現状の経済状況が、未来図に影響することは間違いない。

だけども、最重要課題として未来の不安がり、

その正しい解答として正社員化があるとは思えない。



ただし、左翼の人たちが恐れた

「偏狭なナショナリズム」は、たしかに芽吹いていると思う。


イラク戦争のときだろうか?

それまで対左翼として団結していた人たちが、アメリカを前に分裂し

聞かれた言葉は「現実を見ろ」だった。

その言葉は、1つに親米を選択せざるを得ない現実

1つに、崩壊直前の左翼を前にして、「今はそのときではない」という現実。


その保守対立が、国益という言葉の解釈にあらわれ

ときに、経済的利益を優先する者と、理念や誇りを優先する者の対立になった。


経済的利益を優先する者の多くが、

左翼の人の言う、経済の凋落で生まれた喪失感をナショナリズムで埋めた人たちなのかもしれない。

そして「現実を見ろ」と、そのナショナリズムに思想的一貫性を持ち込まない人たちなのかもしれない。


僕としては、保守を国民利益を守るものと解釈せず

結果的にそれが国民の利益だと思う、国柄や国民性を守る立場に好感を持っていて

俗に言う保守左派、伝統の保守こそ真の保守だと考えるけれども

それを現実と理想の対立と解釈すれば、個人的には首を傾げてしまうけれども

ある意味健全な対立だと思う。

国民利益を優先する立場は、世界と関わりあう開いた国で偏狭なナショナリズムは持ち得ないし

伝統保守は、自国の伝統を深く理解する者であるから

偏狭なナショナリズムに陥るようなことはない。



問題は、保守なきナショナリズムだと思う。

保守なきナショナリズムは、国民利益が目的でなく、伝統が目的でもなく

保守すべきもの、最上の価値を創造しない。

彼らは他国との対比にのみ国民利益に同調し、伝統に同調する。


たしかに横暴で独善的な思考をする国はある。

不快感を共有することはできる。

だけども、それを目的にすることは誤りだと思う。

伝統を保守する過程にそれはあり、国民利益を保守する過程にそれはあるはずだ。

他国批判、他文明批判、他文化批判は過程に仕方なくあるもので

ましてや自尊心を満たすためにそれをするなど、伝統的立場で言えば美しくない。


しかも、彼らの自尊心は「日本に生まれた」ということに留まる。

ただ、弁護するとすれば

十数年前、「日本に生まれたことを誇りに思う」と言えば、経済的理由でしか認めてもらえず

「誇り」という言葉自体嫌悪され

その経済的理由も、世界と対比してではなく、

国民の努力、もしくは施し的な、内に向かうものでしかなかった。

内に向かうのは国民性でもあるから、悪いとは言えない。むしろ長所だと思う。

ただ、世界と対比することを阻む力があり、それが健全な分析を許さず

結果、異文化の理解、他国から見る日本像の認識を誤った。


たとえば、摸倣国家という認識

これを言うのは実は韓国だけだったりする。

その他、大半の国は、日本と聞いて浮かぶものに

たくさんの人が独創性と答える。



ならば、偏狭なナショナリズムを生んだのは

喪失感でも漫画でもなく

思想のため現実を塗り替えてしまう、本末転倒した左翼だろうと思う。

これは教育格差の問題を構造改革による経済格差に擦り付けてしまう方法と同じで

信頼回復に最も遠い認識になると思う。


ただ、僕は自分では何もせず

過去の日本人の功績や努力に乗っかり、他国を批判し自尊心を満たすような輩に

保守を自称させるのは、まったく不愉快。


どこか欠けてしまうのは仕方がない。それが勤労意欲でも仕方ないと思う。

だからニートをことさら嫌悪することもないし

たしかに色々な問題があるにせよ、親が許すならそれでいいとも思う。

ただ、それを棚上げにしても、どこかで美しくあるべきだと思う。

経済的な貢献ができないにしても、他に貢献できることはある。

ゴミ拾いをしろとか、実質的な貢献ではなく

自身を精神的な高みに昇らせる努力でも貢献だと思う。

生活のしがらみが無いからこそ、考えられることもある。

どうにか偏狭が偏狂にならなきゃいいけど。
































2008-01-28 18:10:23

今になってアイデンティティークライシスを考える。その1

テーマ:考えたこと
世の中には悲しい人がいるよ。

「アイデンティティークライシス」

10年くらい前かな、もう少しあと?

なにしろ、よく聞いた言葉。


当時を振り返ると、

どうも「アイデンティティー」自体を否定したかったのかな?

俗に言う左翼の人たちは

その喪失感の理由に、日本経済の低迷を持ち込んだ。


たぶん彼らはこう考えていたんじゃないかな?

前提として日本人は誇れるような民族じゃない。

いや、民族としての誇りなんかフィクションだと。

ただ、現実に日本の経済は世界を震撼させるほど急激に成長し

世界第二位の経済大国として地位を得ていた。


だから、若者に限らず日本人の喪失感の原因は

唯一の拠り所だった経済、その低迷にあると。



僕は経済が唯一の誇りだったなんて思わないけど

実際、その左翼の人の言うとおり、唯一の誇りにしていた人もいると思う。

現実問題として、高学歴→大企業→幸福

経済的裕福さこそ幸福であり、その他のものは経済的裕福さに付き従っていくもの

その神話が崩れ、特に子供を教育する大人、その教育方針の混乱があった。



そして彼らは、その批判を基に

戦前よりあった管理教育批判、その幸福神話によってもたらされた受験戦争批判

いじめ、落ちこぼれの問題を含め、

画一化教育を批判しながら、過剰な平等主義を保留

平等主義を保留しながら、個性・自由を重視する

なんとも矛盾した、ゆとり教育を導入した。


こんなものうまくいくわけがない。

善意に考えたとしても、

問題化した事象に対し、そのときの最善の手をうち続けただけだ。

1つの問題に対して取られる最善の繰り返しが、

総じて教育問題に取られる最善にはならない。

これはどんな問題でも言えること、それが見えない目は節穴以外の何者でもない。


現実として、ゆとり教育は学力の低下を招いたと言われる。

道徳の欠如も招いたと言われているけど、その大半は親の問題で

幸福神話を失った親の迷走が原因だと思う。

僕はそれらの問題よりも、教育格差だろうと思う。

塾通いの有無が学力差に現れ、

学校に任せっきりの家庭や、経済的に塾通いさせられない家庭と

学力向上に熱心で、経済的に裕福な家庭の差


今は構造改革で生まれた経済格差が教育格差の原因のように扱われ

たしかに、学力向上に熱心でありながら塾通いのできない家庭は増えたかもしれないが

教育格差の最初はゆとり教育にあると僕は思う。



現在、あらゆるところから学力低下を理由に批判され

ゆとり教育は廃止された。

ただ、ある一定の期間ではあったものの、

教育については、幸福神話の喪失感を左翼的解釈で埋める方向に進んだことは確かだと思う。




2007-11-09 15:35:39

商売の基本理念として。

テーマ:考えたこと

「あらゆる存在・現象は孤立して存在できず、相互の関係性によってのみ存在する。
 
 いっさいは無我であり、価値や存在性は縁起・因果の関係によって獲得される」


お釈迦様の言葉に僕は納得している。




社会の基本的なかたちは交換であり

それは交換のための交換。

価値あるものだから交換されるのではなく

交換されるものに価値がある。

交換は何かを得るための手段ではなく

それ自体が目的としてある。

現在、通常に行われる利害動機の交換は

「交換のための交換」が変化しただけに過ぎない。


文化人類学者で構造主義の生みの親

レヴィ・ストロースは「親族の基本構造」で

僕の解釈が正しければ

「交換のための交換」という、社会の基本構造を解明した。



お釈迦様は「関係性によって価値は獲得されていく」と言い

レヴィ・ストロースは「交換されるものに価値がある」と言う。

僕は二つの言葉をほとんど同じ意味で捉えている。

「実は、世界にそれ自体が価値を持つものなど無い」

もしかすると、それが真理なのかも知れない。


たとえ構造主義が数学的な裏づけを得ているとしても

世界各地で普段繰り返されている

人間の生活上で

それを認識することは難しい。


僕たちは当然のように、利害動機によって交換をする。

まさか、交換のための交換という

無意味な行為を理性的な人間が行うとは思えない。

そして、それ自体に価値のあるものをたくさん知っている。


たとえば、それは人間だ。

たしかに巨視的に人間個人を考えれば

取るに足らないものなのかもしれない。

だけども、大切な人のために命を捨てる人もいる。

命の交換が、交換のための交換だとは思えない。

間違いなく、交換相手の命を、価値あるものと認めているからできる。



僕たちと、レヴィ・ストロースやお釈迦様との違いは

人間の主観を通した世界像と

客観的な世界像の違いだと思う。

僕たちが人間の主観を通さない世界像と向き合うことなど

それこそ利害動機がなく、交換のための交換なんだ。

利害動機のない交換など

人間の主観を通した世界に存在するだろうか?

僕はやはり世界は欲望で形成されていると思う。

そして、その世界に生きている以上

嫌悪し、それらしく振舞ったとしても

いったんは肯定せざるを得ないのだと思うんだ。



だから僕の考えるべきものは利害動機の交換だ。


まず、それ自体に価値のあるものが交換される。

駅で電車に乗る人同士が、石ころを交換することは無いように

それ自体に価値があるとされるもののみが交換されるはずだ。


ところが、客観的な世界の影響なのか

肥大化した欲望のためなのか

「交換されやすいものが価値を得る」という状況が生まれた。

それは利便性、機能主義的な発想では当然とされる。

たとえそれ自体にいくら価値があったとしても

交換相手がいなければ、交換すること自体できない。


たとえば、土地なんかだと

30坪より60坪の方が価値がある。

同じ場所、同じ環境であれば

土地は広い方が利益を生む。

当然、価格も高くなる。


ところが交換される貨幣の保有量が問題になる。

5000万円より一億円を保有する方が困難だから

価値が高かろうと、交換相手が減る。

需要と供給の関係から、30坪の土地の1坪単位の価格の方が

60坪より高くなる。

「交換されるものに価値がある」の、1つの例だと思う。

それが「価値は交換によって付加されていく」という原理になる。

流動性、それ自体が価値になるんだ。


僕はその流動的価値を否定するつもりはない。

欲望の主観的世界では

当然、そうなるものだから。



だけども、その流動性に保障する安心感。

その「安心感」に不安定さを感じる。


もちろん、「安心感」という

個人差のある不確定な概念が危険だと言いたいわけではなく

売り手と買い手の合意、その数が流動性であるから

不特定多数へのメッセージが必要になる。

売り手と買い手の間、仲介的役割の影響力が強まる。

交換の容易さ、頻度が仲介者の労働により差が生まれるのは正当だと思う。

だけど、そうではなく

コマーシャル・宣伝・プロパガンダ

そういったものの影響力が強まること、それが不安定感を生む。


宣伝は同価値にあるものに順序を付けてしまう。

本来、同価値であるのに価値に順序が付くとすれば

一方の価値を虚構で高めるか

一方の価値を中傷し下げしかない。

どちらにせよ、本来ある価値が捏造される。


流動性によって生まれる虚構・演出

交換によって付加する価値とは

この虚構の価値・演出の価値だろうと思う。


虚構と演出の世界と言えば芸能界だけれども

ある女優、それ自体の価値ではなく

映像を通した女優の価値だけが貨幣と交換されている。

それを当然だと言い切ることは怖ろしい。

芸能界に限定されれば、それはそれで構わないのかもしれないが。



ただ、それ自体に価値のあるものと虚構とを明確にすることは難しい。

どこまでが彼自身で、どこからが虚構なのか?

自分自身さえ正しく把握できない人間が

それを判断することは不可能に近い。



明らかなのは、それ自体に価値のある存在が前提なのだと言うこと。

人間の主観を通した世界において

「たしかなもの」は間違いなく存在する。

そして、「ふたしかなもの」は交換しやすいがために価値を持つこと。


この「たしかなもの」と「ふたしかなもの」の中庸こそ

商いの基本理念になるべきだと僕は考えた。

だけども、人間としては

「たしかなもの」に縛られて生きたいと思う。






2007-10-10 23:22:39

「うん。」の効用

テーマ:考えたこと
最近は目上の人や上司

お客さんにまで「うん」と返事をする人がいるらしい。


僕が子供の頃も

「うん。じゃなくて、はい。でしょう?」と、先生はよく怒ってたしね


いや、僕はわりと律儀でね

違うな、常時緊張状態だったからさ

無意識に「うん。」に代表されるような友達言葉が出てしまうこともなく

もちろん陰で先生を呼び捨てにするようなこともなく。


人を馬鹿にするほどの知恵がない

ちょっとした痴呆の幼少期だからね

まぁ、それを素直だと喜んでくれるんだけど

思春期も過ぎればある程度の知恵は付いて

馬鹿にして面白がることで暮らしていた時期もある。


それでも目上の人に「うん。」とは言えなかったな。

規範が僕をずいぶん支配しているし

無意識に出てしまうほどの穏やかな日々を過ごしたこともない。




ただ、最近では「うん。」と「はい。」を使い分けてるよ。

敬語と普段の言葉とを適切に配置していくことを心がけてる。


僕はね、前提として目上の人への気遣いがあれば

「うん」や、友達言葉は信頼関係の構築に効果的であるとさえ思えるのね。


「はい」に対して「うん」は愚鈍な印象を与えるんだ。

僕はその愚鈍さを利用したいわけ。




安心できる人間関係は、対等の立場に限定するものじゃないでしょ?

上司と部下の関係だって安心できる状態はある。

先生と生徒の関係でも安心できる状態はある。


だけど、その安心できる状態がね

「馴れ合い」のような目的上、構造上、不適切な状態を生むこともある。

人はどうしても楽な方へ、安らぐ方へと向かうものだからね

立場の違いを明確にすることは組織維持と目的のためには大切なんだ。

仮に相手がお客さんなら大きな不利益を生むことになるかもしれない。

だから、立場を明確にする言葉遣いの問題は大事。


この「立場を明確にする」が、敬語の目的になる。

ただ、言葉遣いはあくまで礼儀に留まってしまうからね

本心を伝え難くする問題を抱えてしまう。

本心で尊敬していようが、馬鹿にしていようが

言葉遣いは変わらないからさ。

しかもこの礼儀は慣習化してしまって

そうであることが当然で、そうでないことが異常という状態にある。



そこで「うん」の出番なんだよ。

「うん」は愚鈍さを抱えるからね

適切に利用できれば、謙譲語と同じ状態をつくれる。


相手はどうでもいいんだ。

自分が愚かであることを示す。

要は子供が見せる可愛らしさを演出するんだ。

そうして、愚かな自分と、愚かではない相手と立場を明確にする。



愚鈍はただの愚鈍であってはいけない。

愚は嫌悪の対象になり易いものだからね。

そこに実直さ、努力する姿勢、必死さ、等のスパイスを加える。


徒競走で足の遅い子供が一生懸命走ると父母の間から拍手がおこるじゃない?

あの状況を作りだす。


で、その実直さ、必死さは礼儀ではないからね

本心として伝わりやすい。

伝わりやすい分だけ、本心の隠蔽に利用することもできる。


普通に考えて、どっちが本心のように思えるか?と問えば

愚鈍さの方だと思うでしょ?


どういうわけか、世の中の人は

自分を愚かさを隠したがるしね

希少性で価値は付加されるんだよ。

だから、相手に示す愚かさは信用されやすい。

実直さ等のスパイスはもう一段階信用度を上げる。

この二段方式で相手を安心させるんだ。



また、「うん」は「はい」に対して

相手の言葉を心の内側に入れる態度を演出しやすいんだよ。


まず語感ね

語尾の「い」と「ん」の違い。


そして、言葉の依存する方向の度合い。

「はい」は相手があってはじめて「はい」で

「うん」は1人でも「うん」なんだ。


相手に理解を伝える意味では「はい」の方が語感的にも合うんだけど

言葉を噛み締めたり、納得を印象付けるには「うん」の方が語感的にも合う。


まだまだ「うん」の効用はあるけどさ

この辺でいいかな。



大事なのは相手を見定めることだよ。

相手がね、言葉の内容で説得させるタイプなら「うん」は効果的。

相手自身、立場、肩書きを含めて存在で説得させるタイプなら「はい」が効果的。


要は相手と自分の関係が不動であることを示して安心させることなんだ。

言葉の内容で説得する人間は、その言葉に従属させることで安心する。

それが不動の上下関係になると考えてる。


存在で説得する人間は、言葉でなく実績や行動、存在価値に従属させることで安心する。

それが不動の上下関係になると考えてる。


実践的には、「うん」の場合は相手の目を見ず、下を向いてうなずく。

「はい」は相手の目を見ることだね。

逆をすると全部台無しだよ。



この「うん」の効用は

同等の立場ではほとんど無力なんだ。

まず、同等の立場での「うん」に希少性が無い。

上下関係が存在していない場所での愚鈍は

付け込む隙として相手に捉えられる。

関係が定まっていないからね、油断も隙もあったもんじゃない。

安心する関係を築くためには、もっと複雑な方法を選ばなきゃならない。



なにしろね、人間関係の良と不は

安心できる関係を築けるかどうかなんだ。

相手の立場を侵害しない、自分の立場を侵害されない

上下関係は二国間の不戦条約みたいなものさ。

同等関係では周辺地域を含めた安全保障体制の構築

上司という敵を定めて、団結するのが手っ取り早い。

それが無理なら仮想敵国だよ。

それがイジメの発端にもなるんだけどさ。





















2007-10-09 22:54:21

良し悪しを取得すること

テーマ:考えたこと
好きや嫌いは簡単だ。

誰だって好きなものと嫌いなものくらいある。


僕は人間の個人性、主体性、自我

なんでもいいけどね

はたして、そんなものがあるのかな?と

あるにしても確固たる個人とは言いきれないんじゃないかな?と

まぁ、疑問に思ってるわけだけど


でも、たとえナニモノかの指示

操り人形的な自己決定だったとしても

僕はそれが彼・彼女であると受け取るよ。


なにせ、好き・嫌いは主観だからね

たいがい人は、主観であることを利用して

「人に褒められたい」という願望を満たすために

客観を含めること、ときに主観を押し通すこと

様々な条件と理想の自分との間で試行錯誤するわけだけど

最近では、割合そのあたりに無頓着というか

客観をまるで問題にしない人も増えてきた。


ただ、なんであれ好きや嫌いは主観だという前提がある。



その好きや嫌いと、本来別な意味である「良い・悪い」がある。

性質的に、人の目を気にする人と、気にしない人といるけれども

それを客観を意識する人と、しない人と言い換えても構わないのかもしれない。

また、客観を意識できる量も人によって違う。


ものすごく人の目を気にするけれども

想像する客観の範囲が狭すぎて、あまり意味を成してない人もいるわけだ。


だからときどき、好きが良いと、嫌いが悪いと混同されてしまう。


好きと良いの違いは

主観を前提にするか、客観を前提にするかの違いで

良い・悪いには客観的に共感を得られるだろう理由が必要になる。


ただ、客観は共感を必要とするけれども

共感の数が良し悪しを決定するわけでもない。

「共感されるべき」根拠の正当性が良し悪しを決定するのだと思う。


だけども、巷にある良し悪しの多くは

正当性の根拠、論理を軽々と飛び越える感性でつくられ

しかも、つくられたモノは主観を前提にした創作者の好き・嫌いが

結果的に共感を呼び、良し悪しの領域に踏み込む順序になる。


「良い」に共感は必要だから

共感ある創作者の「好き」は、「良い」ものである可能性は高いけれども

共感の数が「良い」を決定せず、決定権は正当性にあるとすれば

段階的には「準・良いもの」になる。


ところが、正当性の根拠に感性は無力で

評論家は、そこに目をつけて

創作者の感性を理解して言葉にかえる作業で商売するわけだけど

感性の理解でなく、共感を理解して根拠を後付することもできる。


評論家でなくても、

共感した人の根拠をエサに飛び回る親鳥のように

作品が創作者へ加えた根拠を運ぶ。

共感者は商売でないから根拠の共感を無視することもできる。

情報の量、視野の広さ、そういう個人差も無視される。

「なんとなく」という好き・嫌いでしか通用しない根拠ですら通用してしまうんだ。

もちろん、そうする意図なく結果的に。






要は、作品が親鳥のように根拠を求めて飛び回ることで

交換による価値の付加がおこる。

虚と実の乖離が起こる。

しかも、その実は感性という曖昧なものだから

どこまでも乖離する。

本人の手から離れて、完全に他者のものになる。


そうなると、もう良し悪しも好き嫌いも

どっちだってよくなる。

最初から混同されていても、ほとんど問題にならない。


僕たちは根拠なき共感と

付加され続けて肥大化した作品を前にして

結局は、希少性と交換性が全てだと諦めるしかない。



これは僕にとって非常に不快な状態なんだ。

いや、他の人はどうだっていい。

たしかに、そういう世の中を嫌悪したこともあるけど

僕が本当に不快なのは

自分自身が根拠なき共感者になることだなんだ。



相対化して傍観者を気取り

共感を排除してしまう方法もあるだろうけど

僕はそれも好まない。

公平であることを、透明であることをいつも願うのだけれど

突き詰めてみれば

公平は公平でなく公平で、公平であり公平でない。

透明は透明でなく透明で、透明であり透明でない。

よくわかんないけどさ

たくさんの価値観があり、見方があるなかで

1つの方向からモノを取得すること

実を疑いながらも、実を打ち立てること。

足りない頭で大それた野望だけどさ。
2007-09-20 02:31:38

潜在するもの

テーマ:考えたこと
「宿題をしなさい」と、親が怒鳴る。

それは子供が宿題をしていないからだ。


「ポイ捨て禁止」の看板があるのは

ポイ捨てをする人がいるからだ。


同じように、

「愛してる?」と、彼に聞くことは

愛に疑いの余地があるからで

「正直でありたい」と願うのは

自分が正直でないことを認識してるからだ。



言葉は本当に不思議なものだ。

世界から言葉によって切り取られた事象は

切り取られた瞬間に、「切り取られたものでないもの」を生む。

「これが愛だ!」と、世界から愛を切り取ると

後ろから「愛ではないもの」が追いかけてくる。

「あなたを愛している」という言葉には

「あなたを愛していない」という意味が潜在している。



どうして人はニュートラルでいられないんだろうね。

もう、こんなものは常識なんだよ。

誰だって気がついてる。

なのにうまく働かないんだ。


理由は簡単だよ。

思考や想像の言語世界が現実世界に下りてくる間に

たくさんの障害があるんだ。

僕たちは頭の中で、なにが正しいかくらいはちゃんと理解してる。

だけど、それをそのまま現実世界に下ろせない。

他者との摩擦、損得勘定、不安

自己保存が働くからなんだろうね。



その自己保存もさ、自己犠牲が潜在していて

ときどき他者を想う、という

とても美しい衣装で僕たちの目を奪ってしまったりもするんだ。


それはきっとね

「彼の幸せのためならば自分は不幸になっても構わない」

本心からそう思える、愛らしい愛を持っているからなんだろうけど

かなり一方的な感情なんだよね。


でも、それは仕方ないんだ。

彼の幸せが何であるかなんて、自分の幸せが何であるかなんて

そんな確認を日常にすることなんてないでしょ?


たとえば彼の夢が画家で、そのために愛を諦めたとしても

彼の夢は彼女を描く画家なのかもしれないし

キャンバスに向かう彼の横に彼女がいて、その両方があっての夢かもしれない。



たしかに人の気持ちは変わるものだから

彼女が違う人になることがあってもおかしくないけど

画家という職業がクリーニング屋さんに変わってもおかしくないんだ。



相手の心にある自分の位置まで、的確に捉えるなんてできやしない。

そこに感情の強い部類に含まれる愛が絡めば

正確に量るなんて不可能だよ。



過ちを永遠に永遠に繰り返していく。

どうしてだろうね、僕はそういうことに無頓着でいられないんだ。

それは同時に、そんな繰り返しを無視してでも

愛情に目を奪われることができる自分を意味してるんだろうね。







2007-09-15 22:31:23

僕流

テーマ:考えたこと
未来という言葉は

ずっと先の時間、少し先の時間、次の瞬間

今の先を表すだけではない。

期待と不安の入り混じった

観念的で主観的なものを含むんだ。


不安も期待も欲望だ。

欲望は必ず未来にある。

解放されたいのなら、期待と不安を排除した

平面的で無機質な5分後の世界を淡々と受け入れる姿勢が必要になるんだろう。

だけど、僕はどうしても未来を見てしまうんだ。


それはまるで毎朝トイレに行くようにね

習慣とか癖とか、そういう類でない

人間という生き物である以上、どうしても避けて通れないもののように感じる。



欲望をなくすなんて無理だ。

だけど、欲望のままに生きたくもない。


僕は割合求道的な生き方を好むのかもしれないね。

それほどひどく悩んだりはしないけど

結局、僕は公平さで落着したんだ。

僕がいつも公平でありたいと願うのは、そういうことなんだ。



公平であることも

聞けばなかなか難しいことらしいけど

僕にとってはそうでもないんだ。

もともと臆病な人間だからね

公平さは処世術だったからさ。



僕だってね、そりゃ絶対に確かなものがあると信じたいよ。

だけど、どれほど探しても見当たらないし

ひとつひとつ検証していけばさ

この世のあらゆるものは是認なんだよ。


僕は処世術として公平さを利用していたからね

欲望を満たすために公平さを利用してたんだ。

だから、公平とは自分で決めるもではないことくらい

学生の頃だって考えることはできたよ。



大切なのは是認なんだ。

周囲が公平だと認めてくれること。

ただしね、是認が真実であるとは限らないんだ。

だから、是認ばかりを追ってしまうと

周囲への媚になってしまう。

媚は公平と対極にあるものだからね

バランス感覚が大事になる。

そう、公平にも前提が必要なんだ。


それは民主主義の多数決のようにね

大多数が認めたからって

いわれのない差別が正当化されることはないでしょ?

民主主義の前提に人権があるんだ。

それと同じこと。



公平さの前提とは何か?

人権のように明確に言語化されたものはないよ。

漠然としたものになるんだけどさ

僕は1つに正当な理由だと思う。

その決断にちゃんと説明できる理由が必要で

だけど合理的なだけじゃダメなんだ。

もう1つ必要なのは思いやりさ。

感覚的に正しいと感じさせるものが必要なんだ。


この辺りが漠然としてるんだ。

まずマクロとミクロの問題がある。

クラスの是認と、社会の是認が同じものであるとは限らないからね。


たとえば、最近の公務員の不祥事なんかを見ればね

社会の是認と、所属する会社の是認が違うことがわかるでしょ?

永田町の論理って奴も同じだよ。

もしかすると、この前の農水大臣の自殺も同じじゃないのかな。

僕たちからは保身に見えることも

所属する共同体から見れば献身的だったりするんだ。

だから彼らは悪びれた様子もないでしょ。

むしろ英雄のような意識を持ってる。



なにしろ社会的な大規模な是認と

所属する共同体の是認と、二つの是認があって

処世術としての公平さは

この二つを上手に使い分けるんだ。


周囲は二つの是認があることを知らないからね

都合が悪ければ、社会の是認を持ち出して言い包めることもできる。

だってどっちも是認であることは違いないのだから

気がつかない人は気軽に説得に応じてくれるものさ。



だから二つの是認を嗅ぎ分ける鼻が必要になる。

これはもう鼻が利くかどうかなんだ。


どうして感覚的なものになってしまうのかと言えば

論理的であると同時に、思いやりが必要になるからさ。


思いやりだって様々なかたちがある。

人によって感じ方も違うでしょ?

まず、相手が何者であるか嗅ぎ分ける鼻が必要になる。


でも最も大切なのはさ

周囲が共感しあえる思いやりなんだ。

是認だからね、一対一の関係じゃないからさ。


要するに、その共同体に共通する価値観を掴むことなんだ。

国単位で考えれば、国民性という奴だね

そう、それは伝統・文化のことだよ。


二つの是認を求めるなら

社会の共感、共通する価値観と、

共同体の共感、共通する価値観

それを捉えなきゃならない。



伝統や文化を理解するには

頭よりも感覚さ。

だって、僕もその伝統や文化の中で育ってきたんだから

それは僕の中にあるものなんだ。


もちろん丹念に紐解いていけば

論理的な説明が可能かもしれない。

僕はそれを試みたよ。

体内に意識せざるを得ないほどの国民性、伝統・文化を感じたからね

僕がそこに向かうのは簡単だった。


ただ、とても言葉にすることは難しい。

日本人の意識構造を紐解くなんて

悲しいけど、脳みそが足りないんだよ。




なにしろさ、公平さを求めた僕は

処世術としての公平さからの脱皮が必要になった。

得るための公平を、失うための公平にしなきゃならない。

大好きな彼女もハマチも鯖寿司も空も渡哲也も

僕という自分自身も含めての公平さだよ。

胸が躍るような喜びも、一日中引き篭もっていたくなるほどの悲しみもね

公平さでどうにかしなきゃならない。


別にそれは無感動になることじゃないんだ。

普通に心は動かされるのだけども

同時に沈静させるものを用意しておくだけ。

花火をするとき、横に水の入ったバケツを用意しておくのと同じさ。


お釈迦様と比べたら、だいぶ堕落してるけどね

僕はこの伝統的公平さでモノを見たり聞いたりしてるよ。




























2007-09-01 20:50:53

メモ1

テーマ:考えたこと

「この世界は欲望でできている」

僕はこれを前提にする。


まず、言語世界と現実世界を区別する。

言語世界は用いる言語によって思考・想像が行われる。

これは目に見えない世界だ。


そして、僕たちは思考に決定を下し、行為する。

行為された世界が、現実世界であり

僕たちの目に見える世界だ。


花や雲や海、人間以外の動物が言語世界を持つのかどうかはわからない。

だけど、僕たちの目に見える世界は、行為の世界でしかない。


もちろん、言語世界で行われる思考の決定が、

異なることなく現実世界に現せるかどうかはわからない。

想定外の現実など、どこにでもあるだろう。

むしろ僕は言語世界と現実世界の一致はほぼ不可能だと考える。


これは世界にある様々な問題と同質だ。

言語世界と現実世界

苦と煩悩

自身と他者

内政問題と外交問題

選挙権と被選挙権

マクロとミクロ

道徳と経済

国内経済と国外経済


もちろん、一対一の関係だけを考えるのは誤りだ。

道徳ならば経済と対立し、科学とも対立する

パターンは様々ある。

しかし、巨視的に考えれば「人間」の問題だ。

対立する双方を生み出したのは人間なのだから。

人間が必要としたから生み出されたのだから。


思考・想像した意見を調整し、それを行為する。

自然は思考するだろうか?

津波や地震や噴火は、思考の末の行為だろうか?

自然は自然であるから自然なのだろう。

だから、行為が世界を変えてしまうほどの力を持つのは

人間だけだと考える。

あらゆる対立は人間の外側に存在しないんだ。

人間の内側に存在する。


しかし、微視的に考えれば

あらゆる対立は内と外の対立だ。

支持する側を内と考え、支持しない側を外と考える。




どちらにせよ、人間とは何であるか?だ。

僕は欲望であると考える。

思考・想像は未来に向かう。

未来にしか向くことができないんだ。


なぜなら、現実は行為だからだ。

現在は行為という現実の世界にしか存在しない。

現在が過去になり、未来が現在になる。

その繰り返しである時間軸のパターンに

言語世界を表すことはできない。


言語世界は現在の後ろにあるもの。

現在のを経ることのない過去。


現実世界は言語世界に従う。

しかし、言語世界は現在に従う。

転倒することは絶対に有り得ない。


言語世界が未来に向かう以外の性質をもたないのだから

思考・想像は願望であり希望である。

ならばそれは欲望だと言えるだろう。


だから、世界は欲望でできている。

僕はそう考える。

ただし、これは結論じゃない。

まだメモ書きの段階だ。












2007-08-31 22:28:53

欲望の循環社会

テーマ:考えたこと
「今日は8月31日金曜日」

ニュースの冒頭で言われるたびにため息が出る。

もう、ずっと関係のない生活をしてるのに

なんでだろうね

寂しくて切なくて、電車に飛び込んでしまいたくなるよ。

いや、ならないな。うん。ならない。



はやいとこ終わらせたいからさ

とりあえず続きをね。



なにしろさ、煩悩をなくすことなんだよ。

苦をなくすには、相対する関係にある煩悩をなくすこと。

お釈迦様曰く、あらゆる事象は孤立して存在できないからね。

憎をなくすには愛を

虚をなくすには実を

この考え方は納得できるんだ。

僕は全面的に支持するよ。



ただ、この世界は欲望で動いてる。

僕はそう思うんだ。

希望でも夢でも願望でも

満たされることを期待するなら、それは欲望さ。


僕たちは人を憎まないために、人を愛さないことができるかな。

夢や希望に頼らない生き方ができるかな。


「生きることは苦である」

だから、生きることは欲を満たし続けることなんだ。


人は満たされると幸福を感じる。幸福はすぐに日常化して消える。

幸福は忘れるということで消滅する。

消滅すれば、また心が渇いて幸福を求める。


人は満たされないと不幸だと感じる。不幸はすぐに日常化するけど容易に消えない。

様々なところで不幸の再確認が行われるからだ。

心は渇き続け、鬱憤は蓄積され、より貪欲に満たされることを望む。

希望は奇跡に変わり奇跡は塵になるが、絶望するまで希望は繰り返される。


誰かを幸せにしようとすることが、悪のはじまりであるのなら

あらゆるものが孤立して存在できず、無我であるのなら

僕たちは正しい価値を見つけることが出来ない。

満たされたいと願うこと以外のエネルギーで世界を動かすことはできない。


既に僕たちは

欲望の連鎖、夢や希望の連鎖の中に生きていて

これからも生きていかなきゃならない。

どんなにそれを嫌悪しても生きなきゃならない。


だから、僕はお釈迦様の境地を真理だと思うけど

欲望は雁字搦めに僕たちを縛って放さないんだ。

放すことが許されない世界で生きているんだ。


大乗仏教は堕落だと思う。

だけど、そうせざるを得なかったのだとも思う。

お釈迦様と僕たちを繋げるためには仕方なかったんだと思う。

それに周りを見てみなよ。

お釈迦様からずっと堕落した大乗仏教の道徳も

どこかに忘れてしまってるよ。


社会の問題の大半を占める経済は

これでもかと僕たちの欲望を煽ってる。

煩悩をどこまでも肯定し、夢という心地よい言葉で道徳を押さえ込む。

幸福をニンジンのようにぶら下げて

苦から目を背けさせるために必死さ。

よだれを垂らして追いかけてる醜い輩が一番幸福でいられるんだ。

最も醜いといわれる戦争の方がずっと美しく僕には見えるよ。



なんだか、思いっきり脱線したなぁ。

疲れちゃったからさ

要はね、

僕は欲望を肯定しながら、お釈迦様が真理であると前提にして

神さまや仏さまに力を与えずに

距離を縮める努力が必要なんだと思う。


そしてこの問題は経済・社会・人間・言語・文化

あらゆるものを一貫して解決する技術の話になるんだと思うの。


格好をつけて言っちゃえば

これが僕の哲学・思想というやつになるんだと思うの。

かなり無茶なことに挑むんだ。

それを最後にやって終わりたいんだ。






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