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2009-10-07 18:44:58

モラトリアム法案のこと

テーマ:政治関係

八ッ場ダムの問題と

亀井さんのモラトリアム法案。

賛否両論の難しい選択だと思います。

だけど、これがまさに選択なんだなぁ‥と、

感じ入ったりもしています。


なにが正しいのか、なにが間違っているのか

どれがより正しいのか

政治に限らず、僕たちはそういう選択を毎日のように繰り返してる。

まるでこの世界に真実というものが敢然と輝いてるかのような錯覚を持って。


これは僕の持論でしかないのだけれど

選択とは、なにが正しくて、なにを間違っているか考えることではなく

なにを前提にするべきかを考えることなんだと思うんです。

要するに、なにを守るべきなのか。ではないかと。

そして、それを見つけたときに選択は自ずと決まっています。


そうなると八ッ場ダムは簡単で、建設中止だと思います。

これは民主党の政治姿勢の象徴的存在になってしまいましたから

その政治姿勢を貫くために、心を鬼にしてでもやらなければならないことです。

住民はまたしても政治に翻弄されるわけで、

もし自分だったら‥と、思うと遣る瀬無いですけど

既にことここにいたってしまったのなら選択の余地は残されていないと思います。


もし、誤りがあるとするなら

この問題を象徴化してしまったことで、

もっと無難な公共事業、誰もが無駄だと言えるようなものを最初に扱えば

中止、続行の選択は残されていたように思います。




亀井さんのモラトリアム法案は

八ッ場ダムよりずっと難しい問題です。

まだ、どこを前提にしてもかまわない。選択の余地が広々と残されています。

そして、必ず、その選択の弊害が訪れます。

何かを選ぶということは、それ以外を捨てるということでもあるのです。


弊害の1つとしてあげられるのが株価の問題。

藤井財務大臣の発言がどうとか、いろいろ言われてますけど

民主党ははじめから内需路線ですから

円高になるのも、株価が下がるのも当然だろうと思います。

グローバル化した経済での外需軽視は、株価に当然響きます。


もう1つが、銀行の貸し渋りの問題。銀行の経営の問題。

これも当然、株価に影響します。

アメリカを見てもわかるとおり、いまだトレンドは金融です。

グローバル経済の核はこの金融で、その他外需は後追いに過ぎないと考えます。


そして、モラルハザードの問題

街の意見でも、「借りたものは返すのが当然」とか、よく聞こえてきます。




だけども、僕はこの亀井さんのモラトリアム法案には賛成です。


これまでも何回か書きましたけど

自民党的な、大企業減税などによる上からの景気回復は

いざなぎ景気越えの好景気ですら、国内に利益が循環しなかったように

うまくはいかなかったわけです。


それで鳩山さんは、下からの景気回復

子ども手当てなどで個人を潤わせ、上に循環させていく

そういう方向を示しましたけど、僕はそれもうまくはいかないと思うのです。


理由として、僕は公共心、共存共栄という考え方を失ったからだと考えました。


「家族間の殺人が増えたのは経団連の責任」と、亀井さんは言いましたけど

実際、どうこう別にしてその気分はとても理解できます。

リストラを敢行するということは、満足な消費者を減らすということです。

たしかに、大企業はコスト削減のほとんどを人件費に求めているように思えますし

当然、身を削ってまでも社員を守ろうなんて考えもしないでしょう。

経団連は派遣の解禁を求めていたし、今なお労働市場の開放を求めています。

要するに、日本国内の消費など眼中にない。

そういうことなんだろうと思います。

もちろん、それはこのグローバル経済というものの中で生き残るために

しかたないことなんだろうと思いますが。


また、個人も同様だろうと思うのです。

潤った財布が、良いもののために開かれるとは思えないのです。

これだけ消費者意識の強い状況で

だれが、生産者と消費者は1つであると考えることができるでしょう?


以前に書いたとおり、僕は自立した個人というものを信用しません。

あらゆるものは関係性によって存在できる。

人と人との関係性によって、ようやく人間は私欲を抑え

公共心を発揮できるのだと僕は思うのです。


亀井さんのモラトリアム法案は

中小零細企業と住宅ローンを三年の期限付きで返済を猶予しようとするものです。

もちろん、中小零細企業にも家族にも

共存共栄や公共心を失っているものもあるでしょうけれど

関係性によって自立させられるのが人間だとするのなら

顔と顔を付き合わせる小さな会社には、ずっと公共心が生まれやすくなります。

社員を家族同然のように守ろうとする

僕もいくつかの小さな会社に勤めましたけど、たしかにそういう気分がありました。

横のつながりについても、

ひどく儲かるわけではありませんし、いつ不況で潰れてしまうかわからない。

そういう不安の中では、昔の長屋住人的な気分が残っているように思えます。


いや、そんなことはどうでもいいのです。

神様と一対一で契約を結ぶこともない、多神教の文明で

自立した個人というものを信じることは難しい。

恥の文化と呼ばれるようなこの国では

人と人との関係によって公共性は担保される。そう考えた方が正しいと僕は思うのです。


そして、経済は貨幣の循環である以上、

資金は循環するところに落とすことが大事で、

その循環が社会のありようを決めるのだとするなら

より公共性のある場所に落とすべきなのだろうと思うのです。

その場所として中傷零細は、個人よりも大企業よりも適切だろうと考えます。




だけども、亀井さんの言うとおり

本来なら、その中傷零細を守るために大企業が犠牲を払うべきで

リストラによるたくさんの人間の血であげた利益なのだから

より多くの公共心を発揮しなければならないはずです。


銀行にしても同様で、これからの貸し渋りや貸しはがしを指摘するなら

これまでの貸し渋りや貸しはがしの責任を取るべきなんだと思います。

たくさんの血が流れたことはたしかなんですから。



そしてモラルハザードだと言うのなら

経済で使われる意味と少し変わってしまいますけど

循環の構造の破綻を公共心の欠如だと言うくらいなのですから

既にモラルなんて壊れている。と、僕は思います。


借りたお金を返済しないわけじゃなく、三年猶予することと

企業が社員を守らないこと、責任を持たないこと。

これだけ雇用の不足がありながら、経団連が外国から安い労働者を入れようとしてること。

社会の一員であるという意識もなく、自分たちが永遠の消費者だと思い込んで

安く大量生産されたものばかり手にしようとすること。


モラトリアム法案がモラルハザードを招くと言うのなら

今あるモラルハザードはどう考えるべきなのでしょう。



もちろん、それをすることで株価が大幅に下落するかもしれないし

世界での競争力を失うかもしれません。

何かを得るにしても、ずいぶんと大きなものを捨てることになります。

僕はそれでも、既存の成長思考を変えるべき時期なんじゃないかと思うのです。



環境を考えれば、当然、経済は停滞します。

25%の二酸化炭素削減を、排出権の購入など数値上で誤魔化すような手段を取らずに

努力と技術力で乗り越えることができれば

大きな利益に繋がるのだろうし、そうじゃなくても新しい価値観をもたらし

尊敬と誇りを勝ち取ることもできます。


この問題もまた同じで

価値観の転換とともに、内需拡大と、公共心の生きた社会ができるかもしれません。


今を犠牲にすることで、未来を生きる人の幸福になるのなら

それは正しいことなんじゃないでしょうか?

もちろん、実際にそうなるとは誰にもわかりませんが。









2009-09-26 10:07:12

友愛外交と覚悟のこと。

テーマ:政治関係

ニュースは連日

鳩山総理のはじめての外交の話題です。

各首脳との会談は、顔見せ程度だったみたいですけど

国連でのスピーチは、好評だったみたいですね。報道によると。

特に、二酸化炭素の25%削減。


あとは、国民一人一人に行き渡るような経済対策

子供手当てとか、高校の無償化とか。

核軍縮についてもありました。非核三原則のこととか。

アフガニスタンでの職業訓練とか、ちょっと鼻で笑われそうなのもありました。

あとは、東アジア共同体ですか。


テレビを見てると、コメンテーターや評論家には

好意的に受け止められてるみたいで

国民の支持?

そんなのはわかりません。

なにがよくてなにが悪いかなんて国民なんかにわかりゃしません。



たしかに、友愛外交なんだなぁ‥とは思います。

これまでの価値観外交とは違って

主義なんか関係なく、自立した国がお互いの異質性を認め合って共存していく

まぁ、それも1つの方法で、本来、あるべき姿なのかもしれません。


なんにせよ、最初にあるのは自立した個

自立した個人であり、自立した国であるわけです。


だから、経済対策も個人を潤す方向になりますし、

外交政策としては、異質性を認め合うわけですから

その国の取る主義や、抱える内外の対立

そういったもの認めながらも、どちらに味方するということはせず

友好関係を築いて、ときに対立の架け橋になっていこうと、そういうことなんだと思います。




まず、内政、経済対策ですけど

周知のとおり、これまでのような大企業への減税等

公共事業は既に減らされてますから、微妙なところですが

川が上流から下流に流れるような仕組は壊れてしまっています。

ですから、下から上に、個人を潤わせる政策は考えとしてわかります。


だけども、一体どうして昔の構造が壊れてしまったのか?

なにを得、なにを失ったからその流れが起きないのか?

そこがはっきりしていません。


僕は原因として、1つに公共性というものがあると思います。

企業は利益をあげることで、社員の生活を守る。

利益をあげていくことで国を富ませていく

談合にも見えるように、昔の長屋の住人的な

利益を独占せず配分することで、自分たちが悪くなったとき配分してもらえる

そこには、貧しさへの怖れもあったでしょうし、社員を守るという責任感もあったのでしょう。


ところが、そうは言ってられなくなってしまった。

実際に国が富んだことで、貧しさへの怖れが消えてしまった。

共存共栄という素晴らしい価値観が膿んでしまって、

既得権益と過度な安定、過度な平等、新規参入を許さない排他性。慣習化。


企業だけでなく、官僚や政治家を含めて

あるべき公共心や、共存共栄の思想が、そういったものに成り下がってしまった。

たぶん、そういうことだと思うのです。

もちろん、国内の問題だけじゃなく、グローバル的な問題

他にも原因はあるのだと思いますが。



では、問題は

個人の側に、そういった公共性や共存共栄という美徳が

備わっているのかどうかです。

利益を独占せず、私欲に走らず

潤った財布が、良いもののために開かれるのでしょうか?

個人の価値観の問題もあるでしょう。

ただ、ひたすら安いものを求め、消費し尽くすような価値観では

結局は、コスト削減で人件費は抑えられたまま

消費者と生産者が同一のものであるという意識もなく分断されたまま

もし仮に景気が回復したにせよ、

その国がそこに住むたくさんの人々を満足させるようなものになるのかどうか

はたして疑問です。

たしかに、人間はパンだけで生きてはいけないと思うのです。




外交、国際関係の問題になると

より友愛は困難になると思います。


まず、単純に

この日本が自立した国であるのかどうか?です。


軍事をアメリカに預けている時点で、自前の憲法の制定もできぬままで

どこの誰が自立した国だと思ってくれるのでしょう?そして、思えるのでしょう?

自立した国が互いに異質性を認め合う。既に破綻しているように思えます。


もし、日本が自立していると認められているとするならば

次の問題は異質性を認め合うことです。


とりあえず、日本という国がどれだけ異質性を帯びているのか

はっきりさる必要があります。自分を知らずして相手の異質性など理解できませんから。


具体的なところを考えれば

人権の問題です。

相手の国に著しい人権侵害、虐殺等が起きている場合

それを異質性としてしまっていいのでしょうか?

たとえば、中国ですけど

もし、そうではないのなら、異質性を認め合う以前の問題として処理しなければなりません。

友愛の外交ができる状態まで、その国をどうするのでしょう?まったく無視するのか

人権侵害などをやめさせるための何か方策を取るのか

もしそれをするなら、相当な犠牲と覚悟を持たなきゃなりません。


友愛外交は、自立した国がお互いに異質性を認め合うわけですから

どちらかが自立していなければ話になりません。

ですが、自立していようがいまいが、経済的なつながりを放置するわけにもいかず

環境問題や安全保障の問題も放置できません。


そうなると、片方が一方的に相手側を認めて、

片方はまったく認めない、国益だけを重視する。そういうことも有り得ます。

ひたすら奪われる覚悟を持つか、自立した国になるまで待つか、

前言を撤回して、自国の利益を第一に、ときにしたたかに交渉していくのか

どれかを選ぶしかありません。


そして、友愛という理念を掲げる以上、できることは放置、待つことだけです。


仮に奪われる覚悟をするなら

国民の生命と安全を守るという、国としての大前提を崩さなければならず

それをしてでも得られる輝かしい未来があるとするなら、

奪われる国民を納得させ、是認を得なければなりません。


また、たいがいの国の外交方針と同様に

国益を第一に、是々非々でするのなら

友愛という理念は死にます。



理念というものは、一度曲げてしまえば死ぬものです。

一度でも理念と違う選択をしてしまえば、

すべての選択の説得力を失い、ゴミと同様になります。


思想は一貫してはじめて思想と呼べます。

理念も

きれいごとと呼ばれるものも同様です。

言い続けることで力を持っていられる。

理念を掲げた以上、泳ぎ続けなければならないのです。



実際、先日、防衛大臣は鳩山さんの足を引っ張りました。

しかも、友愛という言葉を捻じ曲げて。

沖縄県与那国島への陸自の配備を、

「アジアと連携をしていく情勢で、いたずらに隣国を刺激する政策はどうかと思う」と発言しています。

はたして、こういう態度が、自立した国のすることなのか、

また、自立した隣国に対して、するようなことなのか

これでは、理念として掲げた友愛は

フランス革命がどうのというものではなく、鳩山さんが否定した

あの甘っちょろいと言われた、ただの感情に成り下がってしまいます。

これは友愛という言葉を使う以上、もっとも怖れなきゃならないことです。




理念や思想、理想とかきれいごと。

一度、掲げてしまえば

掲げた自身が、そのとおりに生きなければなりません。

人生を費やしてでも、その信じるものに従順に生きなければなりません。

どうしたって、掲げてしまえば言行一致が原則です。


これはとても大変なことなんです。

日々、目先の利益に惑わされず、自分の弱さを受け止めつつ打ち勝ち

すべては遠い未来の理想のために。


もし、仮に曲げるとするなら

それなりの理由が、周囲を納得させる理由が必要になります。

どうしても実行できない理由、

自殺すらそこには含まれるくらいの大事です。


最近、言われてるマニフェストの問題

あれはどうでもいいのです。

理念にさえ忠実であれば、一貫さえしていれば

選ぶ手段がマニフェストですから、道は1つでは決してありません。

だから、そこまで捉われる必要はないと思うのです。

ただ、理念を曲げてしまったという印象をどうにかしなきゃいけません。



なんであれ、友愛はうまくいかないと僕は思いますけど。





2009-09-04 11:28:11

鳩山論文を批判してみる

テーマ:政治関係
次の総理大臣になる人の論文を

こんな僕がどうこう言うのもあれなんですけど

やっぱり、僕は鳩山さんの理念が正しいものだとは思えません。


それと、論文に対する様々な批判

それも真っ当だとは思えません。

反米的であるとか、ないとか、そういう表面的なことしか見えない。

僕は、鳩山さんよりずっとそういう人たちのほうが愚かだと思えます。




僕の疑問は大きく1つです。

鳩山さんの理念の基盤になっている「友愛」そのものです。

結局、僕が民主党を支持できないのは

「友愛」が、この日本という国で、

鳩山さんの望むような効果をもたらすことはないだろうと考えるからです。



まず、鳩山さんは、友愛を

アメリカ主導のグローバル経済の行き過ぎを正すものだと言います。


それは、自由にしろ平等にしろ、どんなに素晴らしい価値であれ

その位置に留まり続けることはできない。価値は固定化されない。

そう考えるからだと思います。

もし、価値の変動がまったくない、自由は素晴らしいままの自由であり続けられるとするなら

「自由の行き過ぎ」なんていう発想は生まれません。


これを考えを進めていけば、

「このあるがままの世界に、その価値がその価値のまま自立することはない」ということになります。

あるがままの世界で価値を語ることはできないのです。

ある前提を持ち、はじめて正は正、悪は悪と呼ばれるのだと。


もちろんそれが真実かどうかはわかりません。

だけども、その考えを進めていけば、そうなるように僕は思います。


そして、僕はその考えに同意します。

あらゆる価値は関係性によって成り立ち、独立して存在することはできない。

自由にしろ平等にしろ、さまざまな関係性によって成立する価値です。

ですから、関係性によって変化し、ときには行き過ぎ、ときには不足するわけです。


しかし、それでは人間が社会を形成することはできません。

ある一定の不動な価値があることを信じ、共有することで成り立つのですから。


もちろん、不動な価値と言っても、変動するのですが

社会形成に必要なのは真実よりも事実です。

社会における事実とは、その社会を形成する人々の是認だと考えます。

要するに、たくさんの人々が信じているものが、ようやく前提となり得るわけです。



そこで、鳩山さんの「友愛」ですけれども

はたして、その「友愛」が、前提となり得るのかどうか?です。


鳩山さんの言う「友愛」とは

フランス革命のスローガンになった「自由・平等・友愛」の「友愛」です。


それは

「人間は多様な個性を持ったかけがえのない存在で、自ら決定権を持ち、その責任を負う義務がある」

という、「個の原理」と

「自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、

 なおかつ共感しあい一致点を求めて協働する」

という、「他との共生の原理」のことだと言います。



ここで思うのは

はたして、この日本という国に

「自立した個人」というものが存在するのか?

それが在るという是認を得ているのか?です。


もしその事実が日本の社会に存在しなければ、「友愛」は前提となり得ません。



まず、僕は

あらゆるものは関係性によって成り立つという考えを真実だと考えていますから

自立した個人なんていうものが実際に存在するとは思いません。

だけども、これはあくまで僕の世界観であって、

そこを問えば宗教論争になります。


大事なことは、日本人が、自立した個人というものが在ると信じているのかどうか?です。

でも、僕はそれさえも無いと思うのです。



まず、鳩山さんが友愛を持ち出したフランス革命ですが

その近代市民主義の原理は、のちに民主主義や市民社会の基盤になったと言われています。


以前、近代国家とは何だろう?と、考えたとき

そのはじまりはアテネのポリスにあり、ユダヤ教の影響を受け

キリスト教や王政との協調や確執を経て

ホッブス・ルソー・ロックなどの偉大な思想家の出現で

社会契約という新しい国家像を生み出し

それが近代国家へと繋がっていく経緯を学びました。


大事なことは、西欧文明の進歩は

何千年という、そこに生きた人々の

たくさんの痛みや苦しみや喜びや願いと共にあるということです。

彼らは自らの血を流し、自らのためにその進歩を遂げてきたわけです。


その経緯が、歴史があってはじめて

彼らは「自立した個」の存在を信じているわけです。


もちろん、「個」を基盤としている背景にキリスト教の力があります。

唯一の絶対的な神を信仰する一神教の世界ですから

揺るぎない絶対的価値が当然あるとされます。


ある定まった揺るぎないルールを持つということは

逆に、それにさえ抵触しなければ自由であるという考え方にもなります。

偉大で唯一の絶対的神の下では、多少の能力差は無意味に等しく

人は神の下で平等なのだという考え方も生まれます。


その発想は、現代の法治国家に繋がっているとも言えますし

西欧文明で契約というものがとても大事にされている理由でもあります。

その考えを進めていけば、いずれ新自由主義的なものに繋がるのも想像できます。


日本は、西欧と同様に長い歴史を持ち

また違う文明を形成してきました。


日本土着の神様も、絶対神ではなく

八百万の神で、後に伝来した仏教も

お釈迦様が言うように、「あらゆるものは関係性によって存在できる」という考え方です。


社会の構造を見ても、絶対的なものを好まず

合議制を好みます。

それは、飛鳥時代、聖徳太子の「和をもって貴しとす」でも明らかです。


現代を見ても、

表面上は価値観をしっかり共有できているように思えますが

日本の特異性もよく語られます。

到達点は同じでも、そこに至る経緯が違う。僕はそれをよく感じます。


たとえ、現状、近代国家の形を成していても

それに至る経緯がまるで違うと思うのです。


そこへ、西欧的「友愛」

「自立した個」を基盤にしようというのは無理があると考えるし

是認を得て、それが在るという事実を得ることも難しいだろうと考えます。



もし、鳩山さんがそれをするなら

日本の歴史を、継承されてきた伝統、価値基準をいったん崩壊させ

西欧的に作り変えなければなりません。


それは、アメリカ主導のグローバル経済が

独自の伝統や文化に基づいた国民経済を崩壊させたという

鳩山さんが批判したものと、同じことではないでしょうか?



要するに、鳩山さんの「友愛」は

それぞれの国の伝統や文明を再興するものではなく

異質性を尊重しあい共生するものでもないと思うのです。




鳩山さんはとても安易すぎると思います。

出発点を、経緯の違う他国の

それもたいして遡ることも必要のないフランス革命に置いてしまったこと。

哲学としては矛盾していて成立してないないし

理念としても甘い気がします。


 
ぼくの考えですから、正しい批判かどうか微妙ですけども。

2009-09-03 20:16:01

鳩山さんの論文について

テーマ:政治関係

「すべての偉大な歴史的出来事は、ユートピアとしてはじまり、現実として終わった」

そして、

「1つの考えがユートピアに留まるか、現実となるかは、それを信じる人間の数と実行力にかかっている」


次の総理大臣になる鳩山さんの論文がいろいろ物議を呼んでるので

とりあえず、ざっと読んでみました。


はじめの言葉は、鳩山さんの祖父の一郎さんが翻訳した

カレルギーという人の「汎ヨーロッパ」という著書にあるものだそうです。



ざっと読んだ感想としては

当たり前なんだけど、鳩山さんもいろいろ考えてるんだな‥でした。



この論文は、鳩山さんの「友愛」という言葉から発展していきます。

ですから、まず、その友愛とは何だろう?というところから考えなければいけません。


最初に、フランス革命の「自由・平等・友愛」その「友愛」であると言っています。

そして、その友愛は

自由の行き過ぎ、平等の行き過ぎを抑えるもので

友愛を基盤にすることで、健全な自由や平等の社会を作ろうと。そういうことだと思います。


僕もフランス革命については、ちょっと考えましたけど

友愛の役割を同じように思います。


あらゆるものは関係性によって存在できますから

それは自由という素晴らしいものも、同じように平等も

固定された価値ではあり得ません。

時と場合、場所によって、どの程度が健全であるかは違ってきます。

そして、不足があるように過剰もあります。


ですから、そのとても価値のある自由や平等を

健全な状態に保つために、何らかの力が必要で

それが「友愛」だということです。


そして、「友愛」の概念ですけれども

鳩山さんは 武者小路実篤の

「君は君、我は我也、されど仲良き」という言葉を

まさに友愛の姿勢である。と、しています。


この言葉から見えるのは

「確固たる個人」です。

自ら決断する権利と、責任を持った個人が

異質性を認め合い共生する。そんなことが書かれています。


自立した個人、あるところでは市民と呼ばれるものだと思います。

たぶん、基盤を自立した個人、市民に置くところで

菅直人のような市民グループあがりの人々と共闘できるのかもしれません。



鳩山さんの言う、友愛とは、自立した個人の共生ということでしょうか?





そして、今、盛んに取り上げられてる米国批判に向かいます。

要するに、今の資本主義経済は

自由が行過ぎた状態にあるということのようです。



この新自由主義批判は、目新しいものじゃありませんけど

僕はそのたいはんに同意できます。


そして思うのですが、なぜ反米的であることが問題になるのでしょう?

ある論に対する反論は

論の正当、不当を問うものではないのでしょうか。

反米的だとか親米的だとか、そんなことは結果に過ぎません。

問題は、鳩山さんの指摘するアメリカ主導のグローバル経済の罪が

正当であるか不当であるかで

そこを問わずに、反米的だからダメだとか、新米的だから安心だとか

まったく意味のないことだと思うのです。



そして、鳩山さんは

どういった構造こそが健全な社会であるかを簡単に

個人でできるものは個人で、できないものは家庭で、家庭でできないものは地域社会で

できないものは行政が‥ と

個人から徐々に枠組みを広げて補っていく

それがあるべき姿だと考えているようです。



それは、民主党の景気対策に表れていて

子供手当てのような政策で、まず個人や家庭を豊かにし

それを地域に、国に、と、拡大していく。

そういう発想につながっていると思います。


これまで自民党は、企業の事業税を減額したり

お金持ち優遇ともとれる景気対策をすることで

あるところのお金をまわして景気を回復させていこうという方向でした。

高いところから低いところへ、

たしかにそれは効率的で、好循環が生まれれば景気は回復するように思えます。


だけども、このあいだの「いざなぎ景気越え」と言われた好景気のとき

外需企業が過去最高の利益をあげても

内需企業は沈んだまま

ある一部の人間を除いて、給与はあがらず

もちろん地域の商店街のシャッターもあがることはありませんでした。

既に、構造が変わってしまっていた。変えられてしまっていた。

そういうことなんだと思います。


まさしく、その名のとおり構造改革が行われていました。

そして、その構造のまま不景気に襲われ

まともに打撃を受けたのは、構造の変化で恩恵に与れなかった一般庶民だったわけです。



もちろん、原因はそれだけじゃないと思います。

ですが、既に水は高いところから低いところに流れない。

その考えは正しいように思えます。



要するに、鳩山さんの論文は

新自由主義の、日本でいうところの構造改革の行き過ぎを

友愛によって是正していこう。そういうことなんだと思います。

友愛を基盤にした社会で、

手段化された人間を、決定権と責任のある個人として生きられるようにしよう。

そして、その個人が異質性を乗り越え共生していく。

その先の理想として東アジア共同体がある。

そういうことだと思います。



僕個人としては、この論文に問題があるとは思えません。

もちろんいくつか疑問もあり、矛盾するようなところも見受けられますけど

たぶん、これは1つの理念なんだろうと思えます。


これを読んで、僕はわりと鳩山さんを見なおしたというか

いくつか聞こえる、鳩山さん批判の方が

見当違いなんじゃないかと思えました。


ただ、最初の言葉を投げ掛けられたら

「だけど、その理念を僕は信じられない」と、答えます。


2009-06-14 20:28:01

鳩山さんの辞任について

テーマ:政治関係

日本郵政の問題で

鳩山さんが辞任して、一応は決着みたいだけど

どうなんだろうね?


僕はきっと両成敗的に

鳩山さんも辞任して、西川社長も辞任して

それで決着だと思ってた。


そのあとの人事で、郵政改革に対する麻生さん

今の自民党の姿勢が見えるんだろうと考えてたよ。


鳩山さんは言ってたからね

郵政改革に反対するわけじゃないってさ。

かんぽの宿の件やダイレクトメールの責任の問題だってさ。


だったらさ、西川社長を辞任させて

また郵政改革推進派の人に社長を任せればよかったわけじゃない?

なのに、そうしないのはさ

どうしても西川社長じゃなきゃいけない理由があったんだろうね。


なんていうの?疑獄事件?

民営化ってのには利権が付き物らしくてさ

黒田清隆と五代才助の北海道開拓史の事件が思い浮かぶけど。




ただね、

僕はこの問題の処理のしかた

麻生さんのやり方は大失敗だと思うな。

次の選挙を戦うって意味ではね。


特にいけないのは、西川社長に土下座させて鳩山さん留任ってやつね

これは最悪だよ。

鳩山さんが怒るのも無理はない。


どこに根ざすものであれ、鳩山さんは信念の問題だと言ってたよ。

正義って言葉は、薄ら寒く聴こえるけど

信念ってのはさ、そんなことで収めちゃいけないものだからさ

そんなんで逆に留任しようもんなら

鳩山さんの政治生命は終わりだよ。


と、ほんとうはなるはずなんだけどね。

ここが日本の政治の変なところ、というか

日本社会のおかしなところでさ

政治信念を曲げてまで守らなきゃならないものがあると考えられてる。


それは組織への忠誠だったり

よく言うじゃない?失言で辞任する人はさ

「国会運営の妨げになるため辞任します」みたいなね。

政治信念よりも国会をすみやかに進めるほうが優先される。

ときには、それが国民の意思だと言ってね

政治信念を評価されて国会に選ばれてるはずなのにさ。


そういう場合はさ、罷免されなきゃダメなんだよ。

更迭されなきゃダメなんだ。


今回の鳩山さんの場合は、一応は辞任だけども

実際は更迭だよね。

更迭にまでもっていかなかったのは

仮にも盟友と言われた麻生さんの立場を考えてなのかな。

逆じゃないよ。

鳩山さん的には更迭されたほうがよかったんだよ。



まぁ、これも信念なら

構造改革を未だに推進しようとする人も信念なんだろうな。


アメリカもオバマさんにかわって

方針転換をして

それでもまだ新自由主義に期待するってのは、

もし、それが本当にこの国を導くものだと考えてるなら

それもそれで信念なんだろう。


だけど、それも次の選挙を考えるとどうなんだろうね?

国民の支持はもう小泉構造改革にはないと思うよ。

前の選挙が郵政選挙って呼ばれて

たしかに今の議席があるわけだから

構造改革の肝だとされた郵政改革を阻もうとすることは

国民への背信行為だって意見も、一応は理屈だけれど

そこに問題があったから、今の状況があるわけで

もし、選挙に勝つつもりだったら

鳩山さんの方に乗っかって

たとえ、自民党が分裂しようとも

覚悟を持って突っ走った方がよかったと思うけどね。

もう厳しいところまで追い込まれてるんだからさ。










2009-04-04 19:04:55

コミュニタリアイズムという希望

テーマ:政治関係
最近、身近なことや気持ちのことばかりだったから

少し大きなことを書きたいと思います。

少しどころじゃないな‥ すごく大きなこと。


僕が想像する、この世界の現実的?な未来について。




もう既に大勢は決していると思う。

サブプライムローンの破綻。

それは体制の、システムの、思想の破綻だと思う。

そしてアメリカの経済政策の変換。

新自由主義・ネオリベラリズム

名前はどうあれ、1つのイデオロギーが終わったんだと思う。



オバマ大統領の選出が、それを裏付けるものかどうかはわからない。

どのような思想を掲げ、オバマ大統領がアメリカを動かしていくのか

僕にはよくわからない。

だけど、あの大統領選の熱狂は

黒人初の大統領ってだけじゃないと思う。


アメリカ人が何かを変えたいと願っていた。

今のままではいけないと思っていた。

たしかにチェンジを望んでいたんじゃないかな?



だけど、アメリカの動向は世界を変える。

サッチャー・レーガンから続いた新自由主義の流れも

ブッシュ政権のネオコンと呼ばれる人たちが

急速に舵を切った。僕はそう思う。

そして、それが世界を変えていった。

日本も変わった。

今になれば、嫌というほどわかるはずだよ。


僕は新自由主義を保守的な立場から批判してきたつもりだけど

いちいち、その功罪を並べることはしないよ。

それはもうしてきたことだし、もう終わったことさ。



なにしろ、アメリカの動向には注目せざるを得ない。

オバマ大統領がなにをしようとしてるのかをね。


その辺についてはいろいろ聞くこともある。

「共感」という言葉を用いて

相対主義的な立場で取るとかね

だけど、僕にはわからない。

相対主義は価値相対主義のことで

価値を相対化することでどのように人々を束ねていくのだろう?

もし、人々を束ねないやり方があるとするなら

僕には未知の世界だよ。

僕の考える政治とは、結局、人を何でどう束ねるのか?ということだと思うから。

束ねないことで束ねる。徹底して克服する?

徹底するということはある価値に徹底することだから

相対化という価値があるということになるのだろうか?

やっぱり僕には難し過ぎる。



僕はやっぱり新しい価値で束ねるべきだと思う。

新自由主義によって生まれた問題を克服するための

新しい主義、イデオロギーを探すべきだと思う。


もちろん、僕にはそれが何であるか確信を持って言えない。

ただ、なんとなく流れを感じてる。

すごく感覚的で、多少願望も含まれてるけど

それは、コミュニタリズムじゃないかと思う。



コミュニタリズムは、保守主義者からは進歩的だと批判され

進歩主義者からは保守的だと批判され

とても微妙な位置にある立場だけど

僕の認識では、人々の共有する「善」を基盤にした共同体による運営とでもいうのかな。

正直、すごく複雑でうまく理解できてないんだ。

その共有する「善」による社会こそが人をより生きやすくできる。

共有する価値観、その「善」は、まさに伝統によって齎されるものだと僕は思うし

その先はもっと勉強が必要だから、論理的に説明することはその後にするけど

その「善」を基盤に一貫させて様々な問題に向き合えば

克服できると思えるんだ。



とりあえず僕はこのコミュニタリズムというものを勉強してみるよ。

さらっと見ただけだけど

なんとなく現実と理想がうまく結びついた世界ができるような気がするんだ。


僕は思うよ。

今必要なものは、現状を変えるための政策ではなく

希望じゃないかな。

まず目的地を見つけるべきで、そこへ向かうための手段を考える。

そこにさまざまな政策が生まれる。

まずは希望、目的地だよ。

政治とは、希望の下に人々を束ねることだと思う。














2009-01-23 12:30:34

派遣の問題

テーマ:政治関係

派遣社員の経験がないから

派遣会社と社員の関係、契約がどういうものだかわからない。


だけど、まるで難民キャンプみたいな派遣村を見てると

いったい、この人たちの所属していた派遣会社は

どうなってるのだろう?と、思う。


契約していた企業を擁護したいわけじゃなく

経営不振が直ちにリストラに繋がるような考え方、経営方針に

ひどく疑問を持つけれど

これ自体は、一応、派遣契約に沿ったものだと思うし

そういう利点を買って派遣社員を雇用したのだろうし。


今回の件でよく取り上げられる

2004年の派遣法改正

製造業の派遣解禁ね。

これが悪かったって話。


たしかにさ、製造業への派遣が禁止されたままだったら

こんな問題にはならなかったと思う。

だけども製造業って

もともと外部社員だらけで、彼らなしには成り立たない状態だったよ。

2004年の解禁後に変わったのは、請負から派遣へのシフトでさ

請負と派遣の違いは管理責任の所在の違いで

このシフトもまた問題解決の手段として取られたものなんだと思う。


その問題ってのは

偽装請負や請負で働く人の労働環境の問題で

請負ってのはさ、要するに

自動車会社が使われるネジまでつくるのは大変だからね

ネジを専門につくる会社に頼むのさ

アウトソーシング、外部委託ってやつなのかな。

請負会社は頼まれたネジを完成させて納入することで品代を貰う。

よくある企業と町工場の関係だよね。

だから、そこで請負会社で働く労働者は、請負会社の社員で

指示や命令は請負会社がする。

労働環境は請負会社が整える。当然でしょ?


本来そうある請負なんだけど

でも、企業が直接、請負会社の労働者に指示命令を下して

労働させる状態が起きたんだ。



たぶん、こういうことなんだと思う。

ネジならネジで完成させれば終わりだけど

企業側が「この過程からこの過程まで完成させてくれ!」と、請負会社と契約する。

そうすると、請負会社の社員は

企業の工場に働きに行って、作業をはじめるんだけど

企業側が、「こうしろ、ああしろ、いつまで働け、いつ休め」と、

まるで企業に雇われた労働者みたいに扱われてしまう。


彼らの安全管理や労働環境は、請負会社の社員なんだから

当然、請負会社が整えるものなんだけど

だけど、労働現場は企業の工場で指示命令も企業が出して

管理するのも企業がするわけ。だけど、そこに責任がない。

そんな状態だからひどく曖昧になっちゃうんだ。





これだとさ、企業側はすごくやりやすい。

雇用契約は請負会社がしてるから、

首にしたければ

請負会社に「あいつはもうこさせるな!」と、言えば済むわけで

解雇で発生する様々な責任から解放される。

安全管理や福利厚生、労働条件の問題なんかも

請負会社と請負社員の関係で話し合われるべきものだから

企業側はなにひとつ手を打たなくても平気。


しかもね、請負会社と企業との力関係から

「せざるを得ない事情」という形じゃなく

それを目的にした偽造請負会社も出てきた。

当然、違法だよ。

請負会社の社員に企業側が命令や指示を出した時点で違法。

でも、製造業と労働者の関係って、こういうことがずっと続いてきてたんだ。


こんなの変でしょ?酷い話だよ。


そこで派遣の解禁になったわけだ。

派遣社員の管理責任は、派遣先の企業と派遣会社の両方が持つ。

そのかわり、命令や支持は派遣先の企業が出す。

ただ、派遣契約は一年だったのね。

一年で自動的に解約。

これじゃ業務に支障が出るよ。派遣社員もせっかく慣れた仕事だから困る。

なにせ一年で終わりだからね。

だから、両方からの要請で3年に引き伸ばされた。

偽装請負が社会問題化して、企業はたくさんの批判を受けたこともあったし

請負から派遣へのシフトが進んだんだ。


たしかにね、これは請負の問題を解決するための手段だった。

でも、明らかにとるべき手段を誤ったと思うね。

はっきり言えば、偽装請負の合法化だよ、これは。


それを決定的に知らしめたのが派遣村のような気がする。


僕はね、たとえ派遣先の企業に契約を切られても

当然、派遣会社が面倒を見るものだと思ってた。

次の仕事の斡旋も、決まるまでの保障や、技術の向上とか、新しい技術の獲得も

派遣会社がやるのだと思ってた。


もし、健全な請負契約をしてる会社だったら

ネジをつくる町工場だったりしたら

違う仕事を必死で取りにいくだろうし

ネジの改良や、コスト削減や、新技術の開発なんかに取り組むだろう。

それでもしダメなら倒産だけど。

なにしろ、社長から社員まで一丸となって自分たちの生活を守るために努力するよ。


派遣会社はさまざまな人が契約してるわけだから

力をあわせて危機に対応することはできない。

できないからこそ、仕事の斡旋や保障や技術の獲得に力を入れるべきだと思う。


派遣会社は昨年度、過去最高の利益をあげたんだそうな。

なのに、派遣村のようなことになってる。

今年は2009年で

派遣期間の見直し、1年から3年に引き伸ばされた改正で

ちょうど派遣期間の満了の年になる。

約9万人が期間満了で仕事がなくなるそうだ。



一応、派遣は3年満了で、それ以上は働けない。

それでもその仕事場で働きたいなら

3ヶ月の空白期間の後、再契約することになるらしい。


これは、正社員として雇用させることを目的にした制限で

3ヶ月の空白は企業にとっても支障になるから

一部では、直接雇用に切り替えるところもあったらしい。

だけど、それでも正社員というかたちではなく

契約社員、期間工扱いの場合が多く

好景気を前提にすれば、その制限も生きたかもしれないけど

この不況下では逆にリストラの名目になる。



ほんとにこれは大変な問題だよ。

失業者が増えるってことは、満足な消費者が減るってことだよ。

そうすれば、全体の消費が減る。消費が減れば商品は売れない。

商品が売れなければ、働く人の給料が減り、

生き残りのためにリストラもある。下手をすると倒産してしまう。失業者が増える。

負の連鎖が続くんだ。しかも雪だるまのように

まわるたびに大きくなる。

春先程度の陽射しじゃ溶けないくらい大きくなっちゃう。


誰かがこの負の連鎖を止めなきゃならない。

でも、大企業は率先して雪だるまを転がしてるよ。


特に外需企業、自動車関連や、電気機器

トヨタやソニーやキャノンなんかだよ。

もう国内消費なんか無視しちゃってる。

国内がどうなろうと関係ないんだね。

数年前、あれだけ利益をあげといて、今度の不況で耐えることもしない。

あっさりリストラだよ。



僕はこれもしかたないと思う。

企業倫理が変わったんだ。既に変わってしまっているんだよ。

それも企業の生存をかけた変革だったんだ。


最近じゃ、ようやく小泉構造改革が批判されはじめて

たしかに、それも原因だろうと僕も思う。

派遣法改正など、法制度改革を原因にあげるのも正しいと思う。

でも、問題は法制度を改革することで

その法制度の内に側で生きる人間、企業の倫理観が改革、変化してしまったこと。

これも気にしなきゃいけないことだと思う。


グローバル化した世界で生き残るには

企業理念や企業倫理を改革する必要があった。

必要があるというより、そこで生き残るためには

そうしなきゃならなかったんだと思う。


そうすれば、そこで働く人たちも生き残りをかけて

意識改革しなきゃならない。

価値観の変換に迫られる。


人間の意識改革は、社内だけで留まるわけにはいかない。

家庭内でもその価値観が持ち出され

教育にも生き残るための意識改革が必要になる。



今はまだ、意識改革は企業内で留まっているように見える。

だけども、この不況での首切りで

たくさんの人が怖れ、たくさんの人が不満を抱いた。



これを機に、企業理念に沿う人間になることで

生活を守り、生き残ろうと考えるのか

こんな企業理念は間違いだと

自分ではなく企業を、世の中を変えるほうに動くのか。



ただ、企業を世の中を変えようとするなら

一体、何が原因になっているのか知る必要がある。

最善の選択の繰り返しが、最善の未来に結びつくわけじゃない。

根本的なところを変えるしかないよ。


要するに

新自由主義を捨てることなんだけど

すると、他に代わるものが必要になるよ。

なにしろ、その前にさ

様々な変革や、考案される法や制度は

主義・思想が基になってることを理解しなきゃならない。

でも、それは無理な話なんだと思う。

そんなことできる土壌がないもの。
































2008-12-27 13:07:21

制度と同意・一般意思について。

テーマ:政治関係

ホッブズ、ロックと続けば次はルソー。

ルソーの「社会契約論」はあまりにも有名で

フランス革命の原理になったと言われてる。



ロックは人間の自然状態を

「人の食糧を奪うより、人間は作物を育てるものだ」と、

平和的なものとして考えた。

ホッブズとロックの一番の違いは、この自然状態の定義だと思う。



ルソーはもう一度ホッブズの定義に戻る。

「万人の万人に対する闘争」

人間の自然状態は、やはり相争うものだろうと。

そして、人間が相争う状態で最も強く願うものは

生命の安全だろうと。

生命・財産の安全は契約によって守る。

その辺りはホッブズと同じなんだと思う。


ホッブズとの違いは、その先

契約のあり方で

ホッブズは絶対的な主権者をつくり、

その主権者に暴力を含めた生き長らえる様々な手段、自然権を一元化する。

だけども、国家と市民・主権者と市民という二つの概念の対立が問題になった。

主権者に一元化した暴力を含めたさまざまな手段が市民に向いてしまうことで、

支配者と被支配者の一方的な関係をつくりだしてしまう怖れがあった。



そこでルソーはその問題を克服するために

自然権を一元化せずに社会契約を行う方法を考えた。


それは、人々すべてが主権者になること。

これはものすごくダイナミックな論理だと思う



たとえば、右手という言葉は、左手があってはじめて必要になる。

もし左手がなければ、それはただの「手」でいい。

主権者も同様で、非主権者、主権者に従属する存在がいなければ

主権者という概念は存在できない。当然、言葉も存在しない。



なのにルソーは「人々すべてが主権者」と言う。

なら、どう主権者という概念、言葉を成立させているのかというと

徹底して克服する方法と同じ

人々すべてが主権者なら、人々すべては非主権者になる。

そう、主権者と非主権者を固定する必要などなかった。



本来、人間は人間でしかなく、主権者・従属者の区別は後付けの

現状の区別でしかなかった。

たしかに、その区別は国家を成立させるためには必要不可欠だけれども

自然状態から国家までの流れを徹底して考えれば

人間を区別する方がずっと異常なことなんだ。

この発想はとても明確で明瞭で本質的だと思う。



ところが、明瞭で本質的なものほど不明瞭で複雑に見えてしまう。

「すべての人が主権者であり、すべての人が非主権者」

言語上、これは矛盾してように見えてしまう。

まったく不明瞭な、曖昧な、どこか適当な、繕いのように思える。



だけど、僕は思う。

この一見、矛盾したようなものが

人間の本質なんじゃないだろうかと。



真実というものを求めるのなら、どうしても避けられない人間の本質的不明瞭さだと思う。

話はそれるけれども、もっと言えば



真実は限定することで明瞭・明確になる。

厳密に言えば、限定された真実は真実と呼べず、「正しさ」が精々だと思うけれども



まず、この世界に真実と呼べるものはまだ見つかっていない。

たとえば、宗教

キリスト教にはキリスト教の真実があり、イスラム教にはイスラム教の真実がある。

世界を宗教で区別・限定したとき、その限定されたところに「正しさ」「真実」は存在している。

同じように、国家・組織・集団に限定していくことで、正しさ、真実は明確になる。



もっと厳密に言えば

目的のあるところには必ず「正しさ」はある。

目的がないという目的を含めて「正しさ」はある。

ものごとは限定していくことで明確になる。

そして、人間は明確なものを好む。合理的であるものを好む。

だから、この限定して明確にしていく方法は、さまざまなところで取られる手段なんだけれども

限定された「真実」「正しさ」は、その限定された世界でこそ「真実」「正しさ」であり得る。


もちろん、限定された真実や正しさの中には、普遍的なものも含まれていて

応用することは可能だし、仮にこの世界に真実があるとすれば

間違いなく、限定された真実の中に、それは含まれていると思う。

だから、限定された世界から大きな世界を見ていく方法も、

ひとつの手段として成立すると思う。



話はどんどんそれてしまうけれど

この限定して探していく作業を徹底して、ある個人、僕自身まで掘り下げてしまうと

限定化が克服されて、また、あらゆる世界というとてつもなく大きな世界に放り出されてしまう。

自分を徹底することで他者に向かわざるを得ない状態になることと同じように

自分の真実・正しさを徹底して掘り下げれば、この世界の真実に向かわざるを得ない。

逆もまた同じことだと思う。

僕の経験的、個人的見解だから信用できないけれども。





なにしろ、ルソーは

「すべての人が主権者で、すべての人が非主権者」と、考えることで

ホッブズの市民と国家という二つの概念の対立を克服しようとした。



具体的にどういうことかと言えば

まず、自然状態で願う、生命・財産の安全を

すべての人々が、すべての人々のために共同して保護する仕組みをつくる。

これが社会契約の目的としてある。

ここまではホッブズと同じだと思う。

大事なのはその「仕組み」で

その仕組みづくりには「一般意思」というものが必要だと言う。



「一般意思」とは、人々が共通して保有する意思のことで

そう。限定することで正しさ・真実は明確になるんだ。

この仕組みの目的は、「生命・財産の安全」だから

その目的が「正しさ」「真実」になる。

要は、共有する目的を軸にした社会の形成。

その軸を根本にした社会。

ある軸を共有することができれば

人々の利害・欲望・関心もある程度共有できるものになるはずだ。



たとえば、恋人同士関係は

二人が愛し合っていることが前提にある。

その前提を軸にして、相手を思い遣る。

彼を、彼女を愛している。これからも愛し続けたいと思う。

そういう前提があれば、ある程度、思い遣りは適切に働く。

たとえ、多少の誤差があっても、理解し許し合うこともできる。

正誤の判断も容易になる。

「愛し合っていること」「愛し続けたいと願ってること」

それに反することが「誤」であり、「罪」になる。




人々が共有する意思を、ルソーは「一般意識」と呼んだ。

その一般意識に、人々は委ねる。従属するのではなく委ねる。

「一般意識」によって形成された社会に、人々は身を委ねることで

自分の意思・利益・欲望を実現していく。



この「委ねる」ということが重要なんだと思う。

ここでも徹底することで克服することが行われていて

ホッブズの場合は自然権という、本来人間が保有している自由を一元化することで

主権者をつくり社会を形成したけれども

自然権が人間の本来保有するものであれ、人間のすべてではない。



ルソーの場合は、自然権という限定されたものを預けるのではなく

その身のすべてを、社会に委ねてしまう。

生命も財産もその身のすべてを社会に委ねてしまう。

徹底して委ねることで、保有しないことで

委ねた社会の力を自分のものとして得ることが出来る。

生命や財産の安全を守るために、逆にそれらを委ねてしまう。

欲望や夢や希望を実現させるために、逆にそれらを委ねてしまう。

これは、「一般意思」があってはじめて成り立つ。

一般意思が、それらを実現しようという方向に動いていく。


これが、「すべての人々が主権者で、非主権者」を成立さている。

だけども、これは概念上の問題だと思う。



実際、人々が自らの意思ですべてを委ねることは大変なことだ。

なぜなら、主権がある以上、責任と義務を負う必要に迫られるからで

人々が主権者であるなら、主権としての責任・義務を分担して負う必要がある

これまでは、主権者に担保することができた責任や義務を

非主権者・従属することで逃れてきた、責任や義務を

人々自らが引き受けなければならない。
2008-12-17 22:33:31

制度と同意・自然権について

テーマ:政治関係
近代民主主義を考えれば

ホッブズの次はロックになる。


ジョン・ロックは経験論者だと言われてる。

それは、赤ちゃんを「何も書かれてない白紙」だとして

知識は生まれ持ったものじゃなく、経験的な感性と理性的な反省によって得られるもの。

そういう信念があるのだから

当然、ホッブズの人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」とは相反する。

ロックは人間の自然状態を

牧歌的で平和的なものだとした。

「人の食糧を奪うより、人間は作物を育てるものだ。」そういうことらしい。


だから、労働と生産で獲得した財産

財産の所有権が、人間が本来持つ「自然権」になる。

そして、その「自然権」を

主権者でさえ侵害できない絶対の権利とした。


ホッブズの場合は、人々は自然権を放棄する必要がある。

放棄した自然権を一元化することで絶対的主権者をつくる。

そうすることで、国家と市民という本来同じものでありながら

二つの概念が生まれてしまった。

国家と市民の対立

だけども、市民は既に自然権を放棄しているから

国家に反逆することができない。

もちろん、実際はできる。武器を持って立ち上がればいいのだから。

だけども、武器を持って立ち上がる権利がない。

「してはならないこと」になる。


ロックの場合は、自然権を絶対的にする。

自然権の方が主権よりも絶対的なので、仮に国家に財産を侵害された場合

抵抗する権利がある。

権利があるのだから、それは「してもいいこと」になる。



財産は労働と生産によって貯蓄されていくもの

だから当然、それをするための命の安全も含まれる。

生き長らえることが保障されてなくては、労働と生産

経済活動は活発にならない。



このロックの思想で、労働や生産、財産の価値が飛躍的に上がったと思う。

一連の経済活動が、人間本来の権利にまで押し上げられた。

他にも、モンテスキューの三権分立に繋がる、立法権と執行権の分離がある。



人々の契約によって主権・統治機関の国家をつくるところはホッブズと同じだと思う。

ただ、ホッブズによって生まれた国家と市民という二つの概念の対立の抑止に

立法と執行を分けて権力の集中を避けることを考え、

自然権を侵害された場合に抵抗する権利、抵抗権があるとした。



これはたしかにわかりやすいと思う。

財産を国に侵害されたら抵抗できる。

ただ、ロックの自然権は、ホッブズと違い

人間の自然状態を、「人から食糧を奪うより、人は作物を育てる」を前提にしている。

なら、暴力の抵抗は認められていないのだろうか?


仮にホッブズの「万人の万人に対する闘争」なら

人間の自然状態は、生き長らえるために、暴力を含めてあらゆる手段を用いる。

その「自然権」が主権より上位にあり抵抗権を持てば

当然、その抵抗は暴力を含めたあらゆる手段のことになる。



それともロックの自然権にも

暴力が含まれているのだろうか?


こうも考えられる。

人間本来の自然状態が平和的で牧歌的なら

主権者も同様になるはずだ。

そうなると、主権はどう守られるのだろう?

他国の侵攻にどう対処するのだろう?

治安維持はどうするんだ。

もし、仮に主権者が暴力を保有してるなら

それはどこから与えられたものなのか?

ちょっと、僕にはわからない。













2008-12-15 22:53:23

制度と合意・市民社会について

テーマ:政治関係
詳しく勉強したわけじゃないし、

僕の頭では正しく理解できていないかもしれない。




ホッブズが考えたように

人間がまったく利己的な存在で、欲望の赴くままが本性なのかどうかは判断がつかない。

僕自身は、ホッブスの言う自然状態に置かれたとしてもそうはならないと思う。

僕には名誉も誇りもあるし、命よりも大切だと考えるものもある。

もしかすると、やっぱり死の恐怖に脅えて、その大切なものを失くしてしまうかもしれないけれど

そのとき、きっと悔やむことくらいはできるだろう。

だけども、まったく違うとも言い切れない。

たしかに人間は欲望の塊だとも言える。

夢や希望や愛や、言葉をいくら繕っても、それは欲望なのだとも言える。



ただ、ホッブズの生きた時代は、それまであった権威が弱体化して

人々が迷走した時代

それを考えると、この世界の自然な状態が、「万人の万人に対する闘争」と捉えることも頷けるし

なにより人間の自然状態を、このように想定することで

とても明確な論理展開ができると思う。

僕がはじめてホッブズを知ったとき、それはそれは驚いた。

まったくすごい人だと思う。



問題は克服される。だけども、克服する手段がまた問題を生む。

歴史はいつも問題と克服の繰り返しだと思う。

それは仕方のないことなんだ。

あらゆる価値は絶対じゃない。あらゆる思想も絶対じゃない。

もちろん真実を求めて人はさまざまなことを考え行動する。

でも、問題と克服を繰り返す歴史に結末はまだない。


ホッブズは国家の正統性を宗教から切り離すことに成功したと思う。

それに変わる正統性を担保するもの、1つの価値を打ち立てたと思う。

そこの生きる人々の契約によって生まれる権力、主権。

支配される側の同意が正統性の強さ、権力の強さなら

失墜した王や宗教よりもずっと大きな正統性を与えることができる。

絶対的な主権者を問う余地は残り

ただちに民主制へ向かったわけではないけれども

国民主権という概念に繋がったことは間違いないと思う。

「自然権」も、批判や継承の末、基本的人権という概念に繋がる。

そして、このホッブズの思想が、当時のさまざまな問題の克服に役立ったのだと思う。

また、こうして新たな問題が生まれることにもなった。



その問題は大きく二つあると思う。

1つは主権者・国家と市民という二つの概念が生まれ、対立すること。

もう1つは、人々の道徳の転換だと思う。



人々は生き長らえるための、暴力を含めたさまざまな手段を放棄する。

自然権の放棄とは、

「なぜ人を殺してはいけないの?」という疑問に

「人を殺すことを認めれば、人に殺されることも認めなきゃならない」という

ある意味、消極的な、ある意味身の丈に合った解答と同じだと思う。

それは、ある個人ではなく、人々を想定したとき、たしかに正しいと思える。


そして、その放棄した自然権、生き長らえるための暴力を含めたさまざまな手段を

主権者、個人なら絶対君主制になるし、人々の代表なら民主制になるけれども

どうあれその主権者に預け、絶対的な主権者をつくる。

人々は、その絶対的な主権者と統治契約をする。

生命の安全を保障する約束をする。


人々との契約によって生まれた国家なのだから

当然、それは人々と同一のものであり、人々と国家は対立しない。

それがホッブズの答えだと思うけれども

実際は対立が生まれた。

国家は人々を強制的に屈服させる力がある。

その力を行使する可能性は打ち消せないし、事実、そういう例はいくらでもある。


だけども、事実として

市民という概念は国家があってはじめて成立する概念でもある。

なにせ、ホッブズは自然権を放棄して統治契約を交わすまで

人々は「万人の万人に対する闘争」という自然状態に生きていると言うのだから。

民主制であれ貴族制であれ絶対君主制であれ

国家という絶対的主権は人々の契約で生まれるものだけれど

市民という概念、市民社会は国家が人々との契約を、

生命の安全を保障することではじめて成立するもの。


これが新たに生まれた問題のひとつだと思う。



そして、もう1つの「人々の道徳の転換」


ルール・法律・契約

そういった、決まり・取り決めは

僕たちを守り、ときに縛る。

また、その取り決めの下で、取り決めを守ることは「正しいこと」になり

取り決めの下で、取り決めを破れば「間違っていること」になる。

だから、取り決めを守ることに全力を挙げることになる。

すると、取り決めにないことは無視される。価値を失う。


具体的に言えば

このときの主権者は、契約上、市民の安全を保障する決まりがある。

市民の安全保障だけが取り決め、契約ならば

それ以外のことはしなくてよいことになる。


もちろん、市民の保護という観点から見れば

様々な分野に波及する問題だし

ただ、暴力から市民を守るという単純なことじゃない。

市民がもっと生きやすくするため、市民の要請で仕事を増やすこともあれば

大きな市民社会を維持するための財を蓄える必要もでてくる。

そのためには経済規模を大きくしなければならないし

他国との軍事力競争もある。


そして、それまで一体だった政治と宗教の宗教が負担していた部分や

古代ギリシャから続く

プラトンやアリストテレスの国家観にあった、国家の目的

人々が集まり、社会正義、よい方向へ進むための装置としての国家像が

市民の安全保障という、極めて現実的な目的だけを背負った国家に変わったこと。

共同体の価値観が変わってしまったこと。


ホッブズの言う、「万人の万人に対する闘争」の世界、自然状態では

たしかに、人々が最も恐れる「死」に遭遇する機会が多く

奪い、奪われる緊張感が人々を苦しめたのだろうけれども

「人はただ生きるために、生きているわけではない」という価値観もあった。

それは、プラトンの真・善・美であったり、

アリストテレスの、「よき生」であったり

そして、善いもの悪いものという価値観は、たった一人の個人が生きるだけならば

必要のない価値観だから、

間違いなく、共同体、集団生活がそこにはある。

善いもの悪いものという概念が生まれるということは、そこに共同体や集団があるということになる。

集団・社会・共同体というものは、

「なにか善いものを実現させるためのもの」という役割がある。

古代ギリシャのポリスには、そういう共通の目的があって

どうあれ、その価値観、目的意識は継承されてきたはず。


このような「なにか善いものを実現させる」という目的を持った国家では

「美徳」や「公共心」という価値観を人々が保有する必要がある。

価値の順位として、「自分が生きること・生き長らえること」よりも上に

「公共心」や「美徳」がなければならない。



ホッブズの国家では、その必要がなくなる。

国家は「なにか善いものを実現させる」目的は持たず

基本的には、「人々の安全保障」だけなのだから

同様に、国家によって生まれた市民社会が、

その市民社会を形成する市民が

「美徳」や「公共心」は、社会を維持する程度の最低限のものでよくなる。

むしろ、まったく持ち得なくても構わない。

逆に、必要以上に持てば市民でいられなくなってしまう。


なぜなら、前提としてホッブズは

人は死を最も恐れ、最も嫌悪するもので、

生き長らえることが最優先で、生き長らえるために暴力等の様々な手段を用いるのだから。


仮に、人が「生き長らえる」よりも、「美徳」や「公共心」を上の価値に置いてしまえば

前提にある「万人の万人に対する闘争」という自然状態が崩れてしまう。

そうすれば、絶対的主権者を契約によってつくる理由もなくなる。


ホッブズの理想的市民像・市民社会は

国家により保障された安全の下で

制定された市民法を従順に守り

ひたすら秩序を好み、私益をとことん追求し

仮に他国が攻めてきても、自ら武器を取るような勇気を持たず

非常に平和的で臆病で欲望に憑かれた、

優しく、ある意味愛に満ちた人々を指すのだろう。


戦士も騎士も武士もいらない社会。

正義も公共心も美徳もいらない社会。

すべては、ルール・法律で制限される、たしかに秩序ある社会。


こうして道徳は変わってしまう。


もちろんこれが人間にとって最も好ましい社会であるなら問題にはならない。

人間の本質が、このようなものなら

実際、国家と市民が対立しようが、意思が乖離しようが

そう問題にはならない。


でも、そうはならなかった。

人々は美徳を継承し続けたし、正義という価値観を大事にしている。

正誤は置いておいても、義憤で武器を取る人もいた。

実際、舞台になっている西ヨーロッパに、美徳や公共心は生きている。



ホッブズに影響を受けたネオコンは

たしかに世界を1つのルールの下に置こうとしたかもしれないけれど

この世界同時不況・金融システムの崩壊で挫折したとも言える。


それを進めたアメリカでさえ、社会正義はあるし

法律の内外を理由に、すべてのものごとを善悪で分けてしまうことはしないだろう。




むしろ、舞台になった西欧諸国よりも

現在の日本のほうが、ずっとホッブズ的な市民社会にあると思える。

特に、ネオコンの影響を受けて

小泉政権の頃、グローバル化・構造改革で

国民の熱狂的な支持の下

日本はホッブズ的な市民社会化が進んだと思う。


当時、喝采されたホリエモンは

「法に触れなければなにをしてもいい」と、言った。

法整備の遅れをつくことで、時代の先を生きる人間として

格好よく映ったのかもしれないし、

既存の権力との衝突に、爽快感を感じたのかもしれない。

メディアもその構図を作り喝采を贈った。

ところが、逮捕されたことでメディアの扱いは一変したし

ホリエモン支持者は消えていった。


ここで露呈したのは、喝采と批判の線引きが

逮捕されたかされないかの問題で

法律の内側か外側かの問題で行われていたこと。


熱狂した人々や、メディアは

社会正義や公共性や美徳よりも

法律に身を置いて物事を思考している。善悪を打ち立てていること。

このホリエモンの場合、法律のみが基準だったことを露呈したと思う。


そして、もう1つ

ホリエモンは「人の心はお金で買える」と、言った。

僕はここに、当時の、今もまだ一定の支持を受けている

「本音主義」のようなものがあると思う。


「みんな自分がかわいい」

「死ぬのは怖い」


もし、「自分よりも人を優先する」や

「死ぬことは怖くない」などと言えば

まるで意地を張った子供を見るような目で

「本当?」と、嘲笑されたりもした。


たしかに、本音も必要だ。

でも、本音が正しいとは言い切れない。

弱さに依存しているだけのように取ることもできる。

どうあれ、ここに戦士や騎士や武士のような

英雄的美徳は一切ない。



保障された安全の下で

私欲を追求し、秩序をひたすら好み

法律に従順で、自ら武器を取る勇気はない。

臆病で、優しく、愛に満ち溢れた市民。



すべてが間違いじゃない。

これもまた美徳だと思う。

英雄的美徳に対しての市民的美徳だと思う。



だけども、もう少し前になってしまったけれども

元厚生事務次官襲撃事件に対する国民の反響は

法律に従順では決してなかったし

消極的であれ、暴力を肯定することは

秩序をひたすら好むことにも反する。

なにしろ、市民的美徳を超えたものだったと思う。




自然権が基本的人権へ

聖俗分離が政教分離へ

人々の契約で生まれる主権が、近代民主主義へ

ホッブズの思想は、当時の問題を克服したのだと思うし

現代まで続く、新しい価値を生み出したと思う。


その克服した思想・手段が

また新たな問題を生んだ。


その問題は、大きくこの二つじゃないかと僕は思う。

そして、問題の原因になっているのが

「万人の万人に対する闘争」だと思う。


当時の混乱を、「善いものを実現させる」ための国家、君臨する王の権威が揺らぎ

分裂による相対化で権威が揺らいだ、教会・宗教

なにしろ、権威の揺らぎを原因とするなら

同時に揺らいだのは、人々の公共心や美徳や社会正義だった。


揺らいだ美徳等の代わりに

世界を秩序立てるものとして、

ホッブズは絶対的主権や、契約や市民法を持ち出した。

ところが、プラトンの言うとおり

人間の本来は、真・善・美を求めることが証明されたのか

宗教も国家も揺らいだだけで、その完全に権威を失ったわけではなく

同様、人々の美徳等も揺らいだだけで、失ったわけではなかったからか

どうあれ、英雄的美徳や社会正義や公共心を人々は継承していた。


だけども、それを認めてしまえば

自然権を放棄して、契約によって絶対的主権者をつくり

市民社会を形成するという手順の辻褄が合わなくなる。


だけど、問題と克服を繰り返すのが歴史。

この問題を克服しようとする思想が当然生まれる。




















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