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2009-09-29 23:09:31

夢がないこと

テーマ:ブログ

誰かを好きになったときのあの気持ち。

そういうことがあった後の一週間くらいかなぁ‥

切なさというか、ドキドキの余韻というか

言い切れないんだけど、焦燥感にすごく近い、あの感じ。


まぁ、たしかに焦りは焦りなんだろうなぁ

僕をもっと知って欲しい。その人をもっと知りたい。

それも直ちに、今すぐに。

誰かに取られてしまう?

どうなんだろう、そういうこともあるんだろうか

だけど、その感じは

大人になるにつれ向き合い方は変わるけど

初恋のときとほとんど同じだと思うんだ。


掘り下げれば、もっと知りたい。知ってほしい。

要するに、好きになってもらいたい。なんだろうけど

表面的には

「僕には何かできることがある」って気持ち。

その人のために、僕は何かができるはずだ。って。



だけど、よくよく考えて思い出してみると

その焦燥感のようなものって

たとえば、仕事で失敗をして

それがまだ解決されてはいなくて

家に帰って、そのことを思い浮かべたりするとき

そんなときの胸の痛みと、ほとんど変わらないような気もする。


なんか、誰かを好きになったときの胸の痛みって

特別なもののような気がしてるけど

もしかすると、よくある痛みなのかもしれない。

それだと夢がないけど。








2009-09-26 10:07:12

友愛外交と覚悟のこと。

テーマ:政治関係

ニュースは連日

鳩山総理のはじめての外交の話題です。

各首脳との会談は、顔見せ程度だったみたいですけど

国連でのスピーチは、好評だったみたいですね。報道によると。

特に、二酸化炭素の25%削減。


あとは、国民一人一人に行き渡るような経済対策

子供手当てとか、高校の無償化とか。

核軍縮についてもありました。非核三原則のこととか。

アフガニスタンでの職業訓練とか、ちょっと鼻で笑われそうなのもありました。

あとは、東アジア共同体ですか。


テレビを見てると、コメンテーターや評論家には

好意的に受け止められてるみたいで

国民の支持?

そんなのはわかりません。

なにがよくてなにが悪いかなんて国民なんかにわかりゃしません。



たしかに、友愛外交なんだなぁ‥とは思います。

これまでの価値観外交とは違って

主義なんか関係なく、自立した国がお互いの異質性を認め合って共存していく

まぁ、それも1つの方法で、本来、あるべき姿なのかもしれません。


なんにせよ、最初にあるのは自立した個

自立した個人であり、自立した国であるわけです。


だから、経済対策も個人を潤す方向になりますし、

外交政策としては、異質性を認め合うわけですから

その国の取る主義や、抱える内外の対立

そういったもの認めながらも、どちらに味方するということはせず

友好関係を築いて、ときに対立の架け橋になっていこうと、そういうことなんだと思います。




まず、内政、経済対策ですけど

周知のとおり、これまでのような大企業への減税等

公共事業は既に減らされてますから、微妙なところですが

川が上流から下流に流れるような仕組は壊れてしまっています。

ですから、下から上に、個人を潤わせる政策は考えとしてわかります。


だけども、一体どうして昔の構造が壊れてしまったのか?

なにを得、なにを失ったからその流れが起きないのか?

そこがはっきりしていません。


僕は原因として、1つに公共性というものがあると思います。

企業は利益をあげることで、社員の生活を守る。

利益をあげていくことで国を富ませていく

談合にも見えるように、昔の長屋の住人的な

利益を独占せず配分することで、自分たちが悪くなったとき配分してもらえる

そこには、貧しさへの怖れもあったでしょうし、社員を守るという責任感もあったのでしょう。


ところが、そうは言ってられなくなってしまった。

実際に国が富んだことで、貧しさへの怖れが消えてしまった。

共存共栄という素晴らしい価値観が膿んでしまって、

既得権益と過度な安定、過度な平等、新規参入を許さない排他性。慣習化。


企業だけでなく、官僚や政治家を含めて

あるべき公共心や、共存共栄の思想が、そういったものに成り下がってしまった。

たぶん、そういうことだと思うのです。

もちろん、国内の問題だけじゃなく、グローバル的な問題

他にも原因はあるのだと思いますが。



では、問題は

個人の側に、そういった公共性や共存共栄という美徳が

備わっているのかどうかです。

利益を独占せず、私欲に走らず

潤った財布が、良いもののために開かれるのでしょうか?

個人の価値観の問題もあるでしょう。

ただ、ひたすら安いものを求め、消費し尽くすような価値観では

結局は、コスト削減で人件費は抑えられたまま

消費者と生産者が同一のものであるという意識もなく分断されたまま

もし仮に景気が回復したにせよ、

その国がそこに住むたくさんの人々を満足させるようなものになるのかどうか

はたして疑問です。

たしかに、人間はパンだけで生きてはいけないと思うのです。




外交、国際関係の問題になると

より友愛は困難になると思います。


まず、単純に

この日本が自立した国であるのかどうか?です。


軍事をアメリカに預けている時点で、自前の憲法の制定もできぬままで

どこの誰が自立した国だと思ってくれるのでしょう?そして、思えるのでしょう?

自立した国が互いに異質性を認め合う。既に破綻しているように思えます。


もし、日本が自立していると認められているとするならば

次の問題は異質性を認め合うことです。


とりあえず、日本という国がどれだけ異質性を帯びているのか

はっきりさる必要があります。自分を知らずして相手の異質性など理解できませんから。


具体的なところを考えれば

人権の問題です。

相手の国に著しい人権侵害、虐殺等が起きている場合

それを異質性としてしまっていいのでしょうか?

たとえば、中国ですけど

もし、そうではないのなら、異質性を認め合う以前の問題として処理しなければなりません。

友愛の外交ができる状態まで、その国をどうするのでしょう?まったく無視するのか

人権侵害などをやめさせるための何か方策を取るのか

もしそれをするなら、相当な犠牲と覚悟を持たなきゃなりません。


友愛外交は、自立した国がお互いに異質性を認め合うわけですから

どちらかが自立していなければ話になりません。

ですが、自立していようがいまいが、経済的なつながりを放置するわけにもいかず

環境問題や安全保障の問題も放置できません。


そうなると、片方が一方的に相手側を認めて、

片方はまったく認めない、国益だけを重視する。そういうことも有り得ます。

ひたすら奪われる覚悟を持つか、自立した国になるまで待つか、

前言を撤回して、自国の利益を第一に、ときにしたたかに交渉していくのか

どれかを選ぶしかありません。


そして、友愛という理念を掲げる以上、できることは放置、待つことだけです。


仮に奪われる覚悟をするなら

国民の生命と安全を守るという、国としての大前提を崩さなければならず

それをしてでも得られる輝かしい未来があるとするなら、

奪われる国民を納得させ、是認を得なければなりません。


また、たいがいの国の外交方針と同様に

国益を第一に、是々非々でするのなら

友愛という理念は死にます。



理念というものは、一度曲げてしまえば死ぬものです。

一度でも理念と違う選択をしてしまえば、

すべての選択の説得力を失い、ゴミと同様になります。


思想は一貫してはじめて思想と呼べます。

理念も

きれいごとと呼ばれるものも同様です。

言い続けることで力を持っていられる。

理念を掲げた以上、泳ぎ続けなければならないのです。



実際、先日、防衛大臣は鳩山さんの足を引っ張りました。

しかも、友愛という言葉を捻じ曲げて。

沖縄県与那国島への陸自の配備を、

「アジアと連携をしていく情勢で、いたずらに隣国を刺激する政策はどうかと思う」と発言しています。

はたして、こういう態度が、自立した国のすることなのか、

また、自立した隣国に対して、するようなことなのか

これでは、理念として掲げた友愛は

フランス革命がどうのというものではなく、鳩山さんが否定した

あの甘っちょろいと言われた、ただの感情に成り下がってしまいます。

これは友愛という言葉を使う以上、もっとも怖れなきゃならないことです。




理念や思想、理想とかきれいごと。

一度、掲げてしまえば

掲げた自身が、そのとおりに生きなければなりません。

人生を費やしてでも、その信じるものに従順に生きなければなりません。

どうしたって、掲げてしまえば言行一致が原則です。


これはとても大変なことなんです。

日々、目先の利益に惑わされず、自分の弱さを受け止めつつ打ち勝ち

すべては遠い未来の理想のために。


もし、仮に曲げるとするなら

それなりの理由が、周囲を納得させる理由が必要になります。

どうしても実行できない理由、

自殺すらそこには含まれるくらいの大事です。


最近、言われてるマニフェストの問題

あれはどうでもいいのです。

理念にさえ忠実であれば、一貫さえしていれば

選ぶ手段がマニフェストですから、道は1つでは決してありません。

だから、そこまで捉われる必要はないと思うのです。

ただ、理念を曲げてしまったという印象をどうにかしなきゃいけません。



なんであれ、友愛はうまくいかないと僕は思いますけど。





2009-09-25 21:24:34

叫ぶということ

テーマ:ブログ

人と人との距離のことです。

何メートルとか、そういう実際の距離じゃなくて

たぶん、心の距離。



はじめて会った人同士がする会話

どちらも相手を傷つけたり、怒らせたりしないように、嫌われないように。

人によっては、馬鹿にされないように

きっと誰もが笑い出すようなお話をして、どのあたりを喜ぶのか探って。

わりあい他人に無頓着な人や、無関心というか

優先順位が低い人の、会社での会話。

上辺の会話っていうのかな? 悪く言えば。


決して悪いことじゃないと思うんです。

上辺だけだな‥って思われちゃ失敗だろうけど

そのへんうまくやれる人もいます。

社会性があるってことですもの、悪いことじゃないと思います。


だから、本音と上辺とか、本音と建前とか

そういう話じゃないんです。どっちがいいとか悪いとか。

大事なのは、目的と状況に適切かどうかで、一概には言えないし

そういう対立じたい、馬鹿げてると思います。



だけど、僕がこういう人との関係において

もっとも楽しく、もっとも嬉しく感じるのは

そういう社会性という堅い扉を開いて、心に直接言葉を届かせることができたとき。

僕の心に、直接言葉を投げ掛けてくれたとき

そういうときです。


なんていうか、恥ずかしくて

すぐに閉じてしまったりもするけど、気持ちがふわふわします。

温かくなります。




よく、テレビドラマなんかを見てると

やたらと、登場人物が叫びます。


もちろん、ドラマですから

よいことであれ、悪いことであれ、ドラマチックなことが起こります。

ですから、当然、叫ぶ機会も多いわけです。


どうしようもない悲しみとか、喜びとか、怒りとか、嘆きとか、

誰かにその感情を、気持ちをどうしても伝えたい。

だから叫ぶんです。


そう思って、振り返れば

僕はずいぶん叫んでいません。


今、僕は叫ぶということが、どうしても羨ましく思えます。

そんなふうに、叫ばざるを得ない、どうしようもない想いを抱えてみたい。

そして、それを本当に誰かに叫んでみたいです。


でも、きっとそういうことは、これから先の人生でも多くて数回

もしかしたら、一度もないかもしれません。




ただ、僕は

ありきたりの言葉にすれば、心を開くということ。

心を開いてもらうことの嬉しさを知ってますから

そうしてもらえる努力を続けていくのだと思います。


恥ずかしがらず、素直に誰かに何かを伝えること。

ときには、怒り、ときには悲しみ 率先してそれを見せることで

相手も釣られて、心の内を見せてくれないかなぁ‥なんて。


なにしろまずは、その相手に関心を持ってもらえるような

自分にならなきゃいけません。

誰が関心のない人に、興味を持てない人に

心を開きましょうか?


だから、まぁ、悲しくなりますね

どうしても開いてもらえないとき。

僕という人間自身が、その相手には届かない。そういうことですから。


わかっています。開いたことでまた壊れるものもあるんだっていうこと。

そこにあるのが決裂だったり、穏やかじゃないものだってありますね。

辛いことや悲しいことや苦しいこと。

障害を乗り越えた先は、全部がハッピーエンドだったらいいのに。

でも、それにしたって、気づかないよりかはいいはずです。

きっといいはずだと信じます。




2009-09-23 22:43:33

素敵なドラマを見た

テーマ:ブログ

テレビで「おくりびと」を見ました。

なんか、すごく評判だったし、とりあえず。


まるで茶道のような

納棺の儀式みたいなものに

外国人が感動するのはなんとなくわかります。

お話も変に過剰じゃなくて

だけど、評判ほどにはわからなかったです。

僕、あんまり映画とか見ないから

なんとも言えないんですけど。


広末涼子はやっぱりきれいだと思います。たぶん、とても。




さいきん見たものでは

NHKの「お買い物」という、1時間位のドラマがよかったです。

田舎に暮らす老夫婦が東京へ行くって話なんですけど

なにしろ、老夫婦の会話や仕草や、呼吸が

「あぁ‥たしかに、こんなだ‥」って思いました。

僕も祖父母と暮らしてきたので、すごく懐かしい気持ちになりました。


なにがよかったって、どのシーンもよかったです。

いちいちあげたらきりがないくらい。

おじいさんは少年のように可愛らしくて

歳をとることの切なさとか、老人がその大半を過去に生きてることとか

二人が、ちゃんと同じものを見て、同じように感じていて

同じように大事な思い出にしてる。


ずっと昔、二人で東京に出たとき

東京駅を見ながら、愕然としたんだと言うんです。

よくわからないけど、東京駅を見ながら

子供を産んで育てたことが、とても大それたことのように思えて、愕然としたんだって。

東京駅を見ながら二人で愕然としたんだって。


正直、僕にはその気持ちがまったく想像つきません。

欠片ほどもわからない。なぜ、そんなふうに思うのか

その台詞をきいても、なにひとつわかりませんでした。


もしかすると、結婚して子供を産んで、育てれば

そんな気持ちがわかるようになるのかもしれません。

そういう簡単なことなのかもしれないです。


だけど、驚いたんです。

僕がこのドラマに惹かれたのは、そこなんだと思います。

まだ僕には想像もできない、まったく切欠さえも掴めない

そういう想いがこの世界にはある。

想像すらできない‥ 欠片さえ見つけ出せない‥

僕が経験したもの、見たもの感じたもの

そこから想像したもの、想像できるもの。

そのどれを探しても、どれを捻じ曲げても、どれをくっつきあわせても、どれを削ぎ落としても

まったくわからない気持ちでした。

傲慢かもしれないけど、そういうものがまだあったなんて驚きでした。


これまで、「気づかない」ってことはたくさんあったと思います。

ありすぎるほどあったんだと。

だけど、わからないっていうのは初めてなんです。

わかるけど、わかりたくない。わからないことにしておきたい。

絶対、そんなふうにしたりしないけど、そうなる理由はなんとなくわかる。

まぁ、そういった可能性もあるんだろう。

こういうことがあるんだから、逆に、こういうこともあるんだろう。

むしろ、こうしてしまえばいいのか‥

などなど、たとえ微かにでも、そこにある想いは僕と繋がってはいたんです。


ところが、この老夫婦の気持ちだけは

よくわかりません。



この世界には、僕が決してわからないことが、たしかにあるんだ。

そんなことは百も承知だったんですけど

現実に突きつけられると、戸惑うものです。





2009-09-20 20:35:07

渋滞に思うこと

テーマ:ブログ

朝っぱらから渋滞30キロとか、

もう、むしろ感心してしまいます。

中央道が渋滞してるから、下の甲州街道も大渋滞。

どんな顔して運転してるんだろう?と、

覗き見ちゃいました。



いろいろ考えたところ

きっとこれは苦行なんです。

自分たちを痛めつけて痛めつけて悟りを開こうとしているに違いない。

それ以外、ちょっと考えられません。


なんていうか、穴を掘って、掘った穴をすぐ埋めて‥みたいな拷問を思い出します。


でも、これは新しいタイプの苦行です。

出家しないで在家のまま

しかも家族ぐるみで苦行です。

なにも捨てないことはすべてを捨てること。

もう既にある境地に達しています。



いや、正直

発想力とか企画力が著しく欠如してるんじゃないかと思うんです。

どこかへ行かなきゃ楽しめない人は

どこへ行っても楽しめない。


おもしろきこともなき世をおもしろく

この気分がまるで無い。


しかも、そんなパブロフの犬みたいな状態が

長い長い行列をつくってるわけで

ある意味、怖ろしい光景です。


その理由が

高速道路1000円っていうから悲しすぎる。

きっとみんな名古屋くらいまで行くんだろうと思ってたら

山梨あたりで帰ってきたりするわけで

山梨程度じゃたいした得にもならないだろうに‥と、思ったりもします。


いや、人それぞれ理由があるのだろうし

こんなこと言うのはどうかと思うんですけど

そういう人たちが

やたら真剣な顔をして、これは危機だ!みたいな顔をして

投票所にも並んじゃうわけですから

どう考えたってよくなるわけがない。


それとも渋滞50キロとか、楽しいのかな。

なんかお祝いで、イルカが飛び跳ねたりクジラが塩をふいたり

クマが相撲をとってくれたり

そういうのがあるのかもしれない。

紅白饅頭配られるくらいじゃ行かないです。



でも、思うんですよ。

リニアモーターカーとかいるんですかね?

東京ー大阪間が5分縮みました!とか、ありますけど

50キロの渋滞がアリなら、5分程度速くなろうがどうだっていいじゃないですか。

なんか変な気分なんですよね。


大事なのは、時間が縮むことよりも、縮んだ時間で何をするのか?じゃないですか。

それが車3台分前に行く。みたいなことだったら

その辺の技術革新なんて意味ないような気がするんです。


30分で簡単に作れる晩ご飯のおかず。とか

50キロの渋滞がアリなら、晩ご飯に1時間使ったっていいじゃないですか。


いや、たぶん、全然話が違うとか言われそうですけど。



2009-09-19 22:38:43

ヘルパーさんをどうにかならないかと思う

テーマ:ブログ

ずっと思ってたんですけど

介護士を公務員にできないもんなんですかね。


僕、すごく覚えてます。

2000年の介護保険制度の導入で

テレビや雑誌は盛んに介護ビジネスでした。

コムスンがものすごい数の人を雇って

僕の周りでも、2級の資格をとって、介護に行こうかな‥なんて話もよく聞いたし。


でも、ふたをあけてみれば、全然ダメだったですね。

もう、びっくりするくらいダメだった。

大手は撤退するし、グッドウィルは悪いことするし

それに、仕事も思った以上にきつかったんでしょうね。

きついうえに給料が安い。これもびっくりするくらい安い。

この失業率が5%超えてる時代に人手不足。信じられないことです。


僕が見る限りでも、月給20万程度じゃやってられない。

あんな大変な仕事、20万程度でやってられるかって思いますもの。


それも、いつ首を切れれるかもわからない。

だって、儲からないんだもの。どこの施設も。


今の時代、すごく大切な仕事だと思うんですけど

なんでこういう状態で放置されてるんでしょうか?すごく疑問。


どうあれ、最初の頃、あんだけ期待されて

たくさんの人が資格とってました。

仕事の内容と給与のバランスさえとれれば

きっと戻ってくると思うんですけどね。





この介護問題にせよ、少子高齢化の問題にせよ

核家族化って大きいと思うんですよ。


どうして核家族化していったかって考えれば

思想的な部分では、なんていうか、自由とか?

たしかに、大事なことで、ある面では正しいのだろうと思うんですけどね

それも自立した個人、みたいな話だと思うんです。

共同体の解体、家族の解体

ジェンダーとかよくわからないやつ。


そりゃね、不自由です。

二世帯、三世帯で

昔ながらの家ってやつは不便でしかたないです。

いちいちしがらみが多いし、本当に面倒です。

でも、しがらみって、見方を変えれば自分を囲ってくれる柵でもあるわけで

そういう部分、一切語られずにきちゃったわけで。


なにしろ夫婦別姓とかとなえてる、そのへんの旗頭みたいな人が

少子化の担当大臣とかありえないと思うんです。



2009-09-13 19:07:21

老人について

テーマ:ブログ


「老害」という言葉が大嫌いです。

若い人から聞くたびに、とても嫌な気持ちになります。


たしかに、人は歳を重ねていけば頑固にもなります。

だけど、自分自身の生きてきた経緯を肯定したがるのは

老人だけじゃなく、若い人でも同じです。


ただ、老人が生き過ぎている。そういうことなのかもしれません。


僕には、特養老人ホームに入居している痴呆症の祖父と

ボケてるのかボケてないのか、90歳になっていまだに欲望を抑えられない祖母がいます。


もちろん、僕の祖父や祖母ですから

決して憎いわけではありません。

憎いわけではないのですが、正直、精神的にも体力的にも負担を感じています。


特にうちの場合は、父親を亡くしていますから

それなりに家族で分担しなければなりません。


老人特有の細かさや煩さは、僕のようなズボラな人間には

身を置くだけで堪えます。

もちろん、老人も様々ですから

ある一部の、あるタイプの老人になりますが

なにか問題が起こるたびに、狼狽する姿は

足をもがれた昆虫のように醜いものです。


特に、排泄や食事に介護が必要になると

臭気や汚れ方も酷くなり、表情も色を失い

まるで違う生物になったかのように、

見る影もないくらい変わることもあります。


痴呆になれば、表情は完全に統制を失って

行動も言動も、すべてがグロテスクになります。

それはまるでドブネズミのようなグロテスクさです。



もちろん、それはある一部の老人の話で

すべてがそうなるとは言えませんけれども、

介護施設や精神病院通いを続けていると

そんなふうに思わざるを得ない経験を、何度かすることになります。


僕は一般的に老人が好きだし

たぶん、同年代の人と比べても、多くの尊敬と敬意を抱いていると思いますが

それとは別に、そういうことがあるのです。



実際、その負担や想いは

核家族の人にはわからないものだとも思います。

老人と離れて暮らす人には、きっとわからないものだと思います。


単純に憎むこともできない。冷たくすれば自分の心も痛みます。

だけど、どうしても納得できないことが起きます。

痴呆になろうがなるまいが、向き合い方に悩むのです。

人間は、憎もうが愛そうが

向き合う相手の気持ちを、どうしても考えてしまうもので

死を間近に背負った老人の焦りも、肉体が思うように動かない苛立ちも

重ね続けてきたたくさんの過去も

明日の希望と、来週の不安と、来年の苦しみと

捨てられるかもしれないという恐怖と

なんにせよ、生活するということはとても生々しいものなのです。


そして、介護する側にとって

最も苦しいのは、病気とちがい、その先にあるのが死でしかないことです。

たしかに、介護する側にとって、

老人の死は、不幸ではありません。

希望でさえあるのです。

だけど、誰にとっても別れとは重たいものなのです。


ただ、それらをすべて含めても

人としてなにより大切で、切実なものを考えさせてくれます。

生きることと、死ぬこと

それは、それらの苦労をすべてひっくるめても

お釣がくるような、貴重な経験になります。

だけど、それを利益と呼ぶことはできません。

僕には、それさえも見送る人間の義務のように思えてならないのです。

そうでなければ、どうして人は死に、生きるのか

わからなくなってしまいますから。







2009-09-12 23:42:06

季節のはじまりと、僕たちの最初

テーマ:ブログ

朝早く、窓をあけて吹き込む風に秋を感じました。

もしかすると、季節をこれまで何度も繰り返しながら

秋の最初を意識したのは、はじめてかもしれません。

きっと、秋は朝にやってきます。

夏は夜にやってきて

春は午前中の10時くらいにやってきます。

冬だけはよく覚えていません。

たぶん、うまく思い出せないだけで、

冬も一日のうちのどこかの時間にやってくるのだと思います。



最近は、地球温暖化の影響とかあるみたいで

昔ながらの季節とは、違った気候を感じますけど

どうして去年の季節をうまく思い出せないのか

ときどき疑問です。


暑かったとか、寒かったとか

そのくらいは覚えているのですが

雲のかたちや、湿度や、風の角度や軽さ、重さ

同じ日なんてあるわけもないのに

秋は秋、春は春

せいぜい、初秋とか晩秋とか、そのくらいの違いはわかりませすけど

その季節の大まかを指す言葉に、唯一無二の一日が埋没してしまいます。

象徴の季節に溶けてしまう。そんなふうに思えるのです。


だから、去年の冬をうまく思い出せずに

浮かぶのは、ある日の象徴化された冬の一日で

雪をいじりすぎて、びしょびしょになった手袋の感覚や

石油ストーブの暖かさ、匂い。

なかなか乾かない洗濯物が部屋干しされていて

その湿気が乾燥しきった部屋を少しだけ潤わせてる。


僕の場合、どうやら冬はわりあい個人的です。


秋は少し違います。

浮かぶのは、オレンジ色の夕陽に染まった商店街です。

だらりと垂れた電線と、買い物袋を下げて行き交う人々

鼻で大きく息を吸い込むと、少しだけ痛みがあって

もうすぐ冬なんだなぁ‥と、感じる。


夏はずっと象徴的で、共有されているもののように思えます。

実際に、見たことも感じたこともない景色ですから。

この日本の津々浦々を探し回っても

それがあるのかどうかもわかりません。

ある田舎のあぜ道の、青い空と田んぼと巨大な入道雲

少年を主人公にした、家族と友達と、ちょっとの恋心と

そんな物語に出てきそうな夏です。




季節にかぎらず、僕はこういう

共有化とまではいかなくても、共感しあえる

象徴的な季節、想像、感情

そういったものをとても大切に思います。


その共感、共有が

誰かを思い遣る、はじまりなんじゃないかと思うのです。


もし、たくさんの人を救ったり、喜びを与えたりしたいのなら

この共感や、共有されるものを探し当てて

なにゆえ僕たちは、それを共感するのか?

そこを紐解くことが大事なんじゃないかと思います。


この社会の事実とは、この社会に住む人々の是認でしかありません。

その非本質的だとも思える是認というものが、

むしろ社会の本質なんだろうと思うのです。



もし、そうであるのなら

わざわざその共感しあった纏まりを

バラバラにする必要があるのでしょうか?


たしかに、一人一人

僕たちはさまざまな思いを抱えます。

ある哲学者のように、個人の欲望を基盤に形成していくこともできます。

個人の良心、公共心に委ねたユートピアを想像することもできます。

欲望を上手に隠した良心や公共心もあります。

逆に、独りよがりな行動に、優しさや自己犠牲が隠れてることもあります。

そしてまた、その優しさ、自己犠牲、義侠心、夢、愛、誠実さ

そういった素晴らしい価値を指す言葉が

実際に、この社会に素晴らしさを齎すか、それもまたわからないのです。


どこまでも社会を解体していけば

いきつくところが個人だとは到底思えないのです。

すべてのはじまりと終わりが、個人であるとは。


僕と誰か、僕と物、僕と時間

空、宇宙、星、月、焼きそば

あるいは、僕と焼きそばとドブネズミと工藤静香

まぁ、なんでもよいのですが

そういった関係性のなかに、はじめて正誤が生まれる。

そう思うのです。

孔子のいうところの「仁」も。


自立とは、自分の1人の力でこの世界に立つことじゃなく

たくさんの人に引き立たされた状態のことではないでしょうか?

愛や優しさや教訓的な意味でなく

人は1人では決して生きられない。

僕はそんなふうに思います。







2009-09-08 00:05:44

「~だぜ」の「ぜ」について思う。

テーマ:ブログ

「~だぜ」の「ぜ」

この「ぜ」 たぶん「ぜ!」 「!」が相応しい「ぜ」

これに僕は憧れてる。


さいごに「ぜ!」を付けるだけ

誰だって使おうと思えば使える。

僕だって、子供の頃、なんどか使ったことがある。たぶん。記憶にないけど。


まぁ、僕の場合、この歳になっても「僕」だから

いちおう、それにも理由があるのだけど

ここ10年は、冗談以外で使ったことがない。



男性ならわりと使う。一般的に。

僕はこれまでたくさんの「ぜ!」を聞いてきた。

たぶん、生まれてから今まで飲んできた缶コーヒーの数以上に

いろんな人の「ぜ!」を聞いてきたと思う。

だけど、これは!と、思う「ぜ!」に出会ったことは数回しかない。


まさしく「ぜ!」 これ以外ない! と、思わせる「ぜ!」は、なかなか出会えない。



僕は思う。

「ぜ!」を使いこなすには、それなりの資格が要る。


この、とても男性的で、野心的で

自信を通り越して、どこか傲慢でもあり

蛮勇とも思える勇気で

安心感。信頼を高める。

マッチョ

男根主義


この、どうも中性的な男性が溢れる社会では

こんな人を魅力的に感じる女性も多いと思うし

逆に、嫌悪する人も多いだろう。

たぶん、市民グループとかに属してる人は嫌いそうだ。



だけど、どうあれ、それなりの男性が使わないと

変に白々しくなり、寒々しくもなる。

馬鹿っぽい印象を与えるかもしれない。


そして、男っぽさに潜む滑稽さ

格好よいのだけど可笑しい。北方謙三的世界。

このへんをしっかり心得てないと使い切れない。


心が、中身がついてこなければ、白々しくなり

格好よさと滑稽さの割合が逆転すれば、寒々しくなる。


また、一度でも敵に背を向ければ

その「ぜ!」は死んでしまう。


「ぜ!」を使いこなせる人間は相当なてだれなのだ。



現実の世界で聞いたものとして、

思い出されるのは、石原慎太郎都知事の初当選のとき。

「都庁で会おうぜ!」

あれは、たしかに「ぜ!」だった。

可笑しさギリギリ。ここを突ける人間はそうはいない。

思えば、これも時勢というやつなのか。

たぶん、今、都知事が同じことを言っても、

その「ぜ!」は当時の足元にも及ばない「ぜ!」

または、白々しく、寒々しいものになってる気がする。



そして、ハナレグミの光と影という曲

この曲の「ぜ!」は

これまでのとはまったく、まったく違う。

男根主義的な気配はまったくなく、滑稽さもない。

僕は驚いた。世の中にはこんな「ぜ!」があったんだ‥と。


この「ぜ」は心に届く。

なにか、僕の心の中にあるなにかを、ぐっと引っ張り出してくる。

たしかにこれは勇気だと思う。

絶望の先にある勇気にも思えるし、今在る場所から抜け出そうとする希望のようなものかもしれない。


なんていうのか、歌詞なんか関係ないんだ。

ずっと心の奥に仕舞いこんでいた。置き忘れていた何かを

引き上げられるような気分。


僕は少し涙もろいから、そういうことなのかもしれないけど

気づいたら涙が出てきた。


そして僕は途方に暮れる のカバーも素敵だけれど

あの一番の歌詞は好き。

あれはたしかに「途方に暮れる」だよ。

あの一番の歌詞のあとに、そして僕は‥は、すごいと思う。

その最後の一言で、そこにある気持ちが手に取るようにわかる。伝わってくる。





これまでも、なんともいえない声で気になってはいたけど

ハナレグミは何かある。

音とかメロディとか歌詞とか、そういうこととは別の何かがあるような気がする。


もし、どちらか使えるようになるとしたら

もちろん僕は滑稽な「ぜ!」を選びたい。

ハナレグミの「ぜ」を日常的に使ってたら

たぶん、擦り切れてしまいそうだ。




2009-09-04 11:28:11

鳩山論文を批判してみる

テーマ:政治関係
次の総理大臣になる人の論文を

こんな僕がどうこう言うのもあれなんですけど

やっぱり、僕は鳩山さんの理念が正しいものだとは思えません。


それと、論文に対する様々な批判

それも真っ当だとは思えません。

反米的であるとか、ないとか、そういう表面的なことしか見えない。

僕は、鳩山さんよりずっとそういう人たちのほうが愚かだと思えます。




僕の疑問は大きく1つです。

鳩山さんの理念の基盤になっている「友愛」そのものです。

結局、僕が民主党を支持できないのは

「友愛」が、この日本という国で、

鳩山さんの望むような効果をもたらすことはないだろうと考えるからです。



まず、鳩山さんは、友愛を

アメリカ主導のグローバル経済の行き過ぎを正すものだと言います。


それは、自由にしろ平等にしろ、どんなに素晴らしい価値であれ

その位置に留まり続けることはできない。価値は固定化されない。

そう考えるからだと思います。

もし、価値の変動がまったくない、自由は素晴らしいままの自由であり続けられるとするなら

「自由の行き過ぎ」なんていう発想は生まれません。


これを考えを進めていけば、

「このあるがままの世界に、その価値がその価値のまま自立することはない」ということになります。

あるがままの世界で価値を語ることはできないのです。

ある前提を持ち、はじめて正は正、悪は悪と呼ばれるのだと。


もちろんそれが真実かどうかはわかりません。

だけども、その考えを進めていけば、そうなるように僕は思います。


そして、僕はその考えに同意します。

あらゆる価値は関係性によって成り立ち、独立して存在することはできない。

自由にしろ平等にしろ、さまざまな関係性によって成立する価値です。

ですから、関係性によって変化し、ときには行き過ぎ、ときには不足するわけです。


しかし、それでは人間が社会を形成することはできません。

ある一定の不動な価値があることを信じ、共有することで成り立つのですから。


もちろん、不動な価値と言っても、変動するのですが

社会形成に必要なのは真実よりも事実です。

社会における事実とは、その社会を形成する人々の是認だと考えます。

要するに、たくさんの人々が信じているものが、ようやく前提となり得るわけです。



そこで、鳩山さんの「友愛」ですけれども

はたして、その「友愛」が、前提となり得るのかどうか?です。


鳩山さんの言う「友愛」とは

フランス革命のスローガンになった「自由・平等・友愛」の「友愛」です。


それは

「人間は多様な個性を持ったかけがえのない存在で、自ら決定権を持ち、その責任を負う義務がある」

という、「個の原理」と

「自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、

 なおかつ共感しあい一致点を求めて協働する」

という、「他との共生の原理」のことだと言います。



ここで思うのは

はたして、この日本という国に

「自立した個人」というものが存在するのか?

それが在るという是認を得ているのか?です。


もしその事実が日本の社会に存在しなければ、「友愛」は前提となり得ません。



まず、僕は

あらゆるものは関係性によって成り立つという考えを真実だと考えていますから

自立した個人なんていうものが実際に存在するとは思いません。

だけども、これはあくまで僕の世界観であって、

そこを問えば宗教論争になります。


大事なことは、日本人が、自立した個人というものが在ると信じているのかどうか?です。

でも、僕はそれさえも無いと思うのです。



まず、鳩山さんが友愛を持ち出したフランス革命ですが

その近代市民主義の原理は、のちに民主主義や市民社会の基盤になったと言われています。


以前、近代国家とは何だろう?と、考えたとき

そのはじまりはアテネのポリスにあり、ユダヤ教の影響を受け

キリスト教や王政との協調や確執を経て

ホッブス・ルソー・ロックなどの偉大な思想家の出現で

社会契約という新しい国家像を生み出し

それが近代国家へと繋がっていく経緯を学びました。


大事なことは、西欧文明の進歩は

何千年という、そこに生きた人々の

たくさんの痛みや苦しみや喜びや願いと共にあるということです。

彼らは自らの血を流し、自らのためにその進歩を遂げてきたわけです。


その経緯が、歴史があってはじめて

彼らは「自立した個」の存在を信じているわけです。


もちろん、「個」を基盤としている背景にキリスト教の力があります。

唯一の絶対的な神を信仰する一神教の世界ですから

揺るぎない絶対的価値が当然あるとされます。


ある定まった揺るぎないルールを持つということは

逆に、それにさえ抵触しなければ自由であるという考え方にもなります。

偉大で唯一の絶対的神の下では、多少の能力差は無意味に等しく

人は神の下で平等なのだという考え方も生まれます。


その発想は、現代の法治国家に繋がっているとも言えますし

西欧文明で契約というものがとても大事にされている理由でもあります。

その考えを進めていけば、いずれ新自由主義的なものに繋がるのも想像できます。


日本は、西欧と同様に長い歴史を持ち

また違う文明を形成してきました。


日本土着の神様も、絶対神ではなく

八百万の神で、後に伝来した仏教も

お釈迦様が言うように、「あらゆるものは関係性によって存在できる」という考え方です。


社会の構造を見ても、絶対的なものを好まず

合議制を好みます。

それは、飛鳥時代、聖徳太子の「和をもって貴しとす」でも明らかです。


現代を見ても、

表面上は価値観をしっかり共有できているように思えますが

日本の特異性もよく語られます。

到達点は同じでも、そこに至る経緯が違う。僕はそれをよく感じます。


たとえ、現状、近代国家の形を成していても

それに至る経緯がまるで違うと思うのです。


そこへ、西欧的「友愛」

「自立した個」を基盤にしようというのは無理があると考えるし

是認を得て、それが在るという事実を得ることも難しいだろうと考えます。



もし、鳩山さんがそれをするなら

日本の歴史を、継承されてきた伝統、価値基準をいったん崩壊させ

西欧的に作り変えなければなりません。


それは、アメリカ主導のグローバル経済が

独自の伝統や文化に基づいた国民経済を崩壊させたという

鳩山さんが批判したものと、同じことではないでしょうか?



要するに、鳩山さんの「友愛」は

それぞれの国の伝統や文明を再興するものではなく

異質性を尊重しあい共生するものでもないと思うのです。




鳩山さんはとても安易すぎると思います。

出発点を、経緯の違う他国の

それもたいして遡ることも必要のないフランス革命に置いてしまったこと。

哲学としては矛盾していて成立してないないし

理念としても甘い気がします。


 
ぼくの考えですから、正しい批判かどうか微妙ですけども。

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