ホッブズ、ロックと続けば次はルソー。
ルソーの「社会契約論」はあまりにも有名で
フランス革命の原理になったと言われてる。
ロックは人間の自然状態を
「人の食糧を奪うより、人間は作物を育てるものだ」と、
平和的なものとして考えた。
ホッブズとロックの一番の違いは、この自然状態の定義だと思う。
ルソーはもう一度ホッブズの定義に戻る。
「万人の万人に対する闘争」
人間の自然状態は、やはり相争うものだろうと。
そして、人間が相争う状態で最も強く願うものは
生命の安全だろうと。
生命・財産の安全は契約によって守る。
その辺りはホッブズと同じなんだと思う。
ホッブズとの違いは、その先
契約のあり方で
ホッブズは絶対的な主権者をつくり、
その主権者に暴力を含めた生き長らえる様々な手段、自然権を一元化する。
だけども、国家と市民・主権者と市民という二つの概念の対立が問題になった。
主権者に一元化した暴力を含めたさまざまな手段が市民に向いてしまうことで、
支配者と被支配者の一方的な関係をつくりだしてしまう怖れがあった。
そこでルソーはその問題を克服するために
自然権を一元化せずに社会契約を行う方法を考えた。
それは、人々すべてが主権者になること。
これはものすごくダイナミックな論理だと思う
たとえば、右手という言葉は、左手があってはじめて必要になる。
もし左手がなければ、それはただの「手」でいい。
主権者も同様で、非主権者、主権者に従属する存在がいなければ
主権者という概念は存在できない。当然、言葉も存在しない。
なのにルソーは「人々すべてが主権者」と言う。
なら、どう主権者という概念、言葉を成立させているのかというと
徹底して克服する方法と同じ
人々すべてが主権者なら、人々すべては非主権者になる。
そう、主権者と非主権者を固定する必要などなかった。
本来、人間は人間でしかなく、主権者・従属者の区別は後付けの
現状の区別でしかなかった。
たしかに、その区別は国家を成立させるためには必要不可欠だけれども
自然状態から国家までの流れを徹底して考えれば
人間を区別する方がずっと異常なことなんだ。
この発想はとても明確で明瞭で本質的だと思う。
ところが、明瞭で本質的なものほど不明瞭で複雑に見えてしまう。
「すべての人が主権者であり、すべての人が非主権者」
言語上、これは矛盾してように見えてしまう。
まったく不明瞭な、曖昧な、どこか適当な、繕いのように思える。
だけど、僕は思う。
この一見、矛盾したようなものが
人間の本質なんじゃないだろうかと。
真実というものを求めるのなら、どうしても避けられない人間の本質的不明瞭さだと思う。
話はそれるけれども、もっと言えば
真実は限定することで明瞭・明確になる。
厳密に言えば、限定された真実は真実と呼べず、「正しさ」が精々だと思うけれども
まず、この世界に真実と呼べるものはまだ見つかっていない。
たとえば、宗教
キリスト教にはキリスト教の真実があり、イスラム教にはイスラム教の真実がある。
世界を宗教で区別・限定したとき、その限定されたところに「正しさ」「真実」は存在している。
同じように、国家・組織・集団に限定していくことで、正しさ、真実は明確になる。
もっと厳密に言えば
目的のあるところには必ず「正しさ」はある。
目的がないという目的を含めて「正しさ」はある。
ものごとは限定していくことで明確になる。
そして、人間は明確なものを好む。合理的であるものを好む。
だから、この限定して明確にしていく方法は、さまざまなところで取られる手段なんだけれども
限定された「真実」「正しさ」は、その限定された世界でこそ「真実」「正しさ」であり得る。
もちろん、限定された真実や正しさの中には、普遍的なものも含まれていて
応用することは可能だし、仮にこの世界に真実があるとすれば
間違いなく、限定された真実の中に、それは含まれていると思う。
だから、限定された世界から大きな世界を見ていく方法も、
ひとつの手段として成立すると思う。
話はどんどんそれてしまうけれど
この限定して探していく作業を徹底して、ある個人、僕自身まで掘り下げてしまうと
限定化が克服されて、また、あらゆる世界というとてつもなく大きな世界に放り出されてしまう。
自分を徹底することで他者に向かわざるを得ない状態になることと同じように
自分の真実・正しさを徹底して掘り下げれば、この世界の真実に向かわざるを得ない。
逆もまた同じことだと思う。
僕の経験的、個人的見解だから信用できないけれども。
なにしろ、ルソーは
「すべての人が主権者で、すべての人が非主権者」と、考えることで
ホッブズの市民と国家という二つの概念の対立を克服しようとした。
具体的にどういうことかと言えば
まず、自然状態で願う、生命・財産の安全を
すべての人々が、すべての人々のために共同して保護する仕組みをつくる。
これが社会契約の目的としてある。
ここまではホッブズと同じだと思う。
大事なのはその「仕組み」で
その仕組みづくりには「一般意思」というものが必要だと言う。
「一般意思」とは、人々が共通して保有する意思のことで
そう。限定することで正しさ・真実は明確になるんだ。
この仕組みの目的は、「生命・財産の安全」だから
その目的が「正しさ」「真実」になる。
要は、共有する目的を軸にした社会の形成。
その軸を根本にした社会。
ある軸を共有することができれば
人々の利害・欲望・関心もある程度共有できるものになるはずだ。
たとえば、恋人同士関係は
二人が愛し合っていることが前提にある。
その前提を軸にして、相手を思い遣る。
彼を、彼女を愛している。これからも愛し続けたいと思う。
そういう前提があれば、ある程度、思い遣りは適切に働く。
たとえ、多少の誤差があっても、理解し許し合うこともできる。
正誤の判断も容易になる。
「愛し合っていること」「愛し続けたいと願ってること」
それに反することが「誤」であり、「罪」になる。
人々が共有する意思を、ルソーは「一般意識」と呼んだ。
その一般意識に、人々は委ねる。従属するのではなく委ねる。
「一般意識」によって形成された社会に、人々は身を委ねることで
自分の意思・利益・欲望を実現していく。
この「委ねる」ということが重要なんだと思う。
ここでも徹底することで克服することが行われていて
ホッブズの場合は自然権という、本来人間が保有している自由を一元化することで
主権者をつくり社会を形成したけれども
自然権が人間の本来保有するものであれ、人間のすべてではない。
ルソーの場合は、自然権という限定されたものを預けるのではなく
その身のすべてを、社会に委ねてしまう。
生命も財産もその身のすべてを社会に委ねてしまう。
徹底して委ねることで、保有しないことで
委ねた社会の力を自分のものとして得ることが出来る。
生命や財産の安全を守るために、逆にそれらを委ねてしまう。
欲望や夢や希望を実現させるために、逆にそれらを委ねてしまう。
これは、「一般意思」があってはじめて成り立つ。
一般意思が、それらを実現しようという方向に動いていく。
これが、「すべての人々が主権者で、非主権者」を成立さている。
だけども、これは概念上の問題だと思う。
実際、人々が自らの意思ですべてを委ねることは大変なことだ。
なぜなら、主権がある以上、責任と義務を負う必要に迫られるからで
人々が主権者であるなら、主権としての責任・義務を分担して負う必要がある
これまでは、主権者に担保することができた責任や義務を
非主権者・従属することで逃れてきた、責任や義務を
人々自らが引き受けなければならない。