Sat 130126 せんげん台の大健闘を讃える 数百年前の大ピンチと「いわたき」の記憶 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 130126 せんげん台の大健闘を讃える 数百年前の大ピンチと「いわたき」の記憶

 2月18日、埼玉県せんげん台で19時半から講演会。「そんなこと言ったって、『せんげん台』って、いったい何なんですか?」であって、例えば福岡や札幌のヒト、名古屋や京都や大阪のヒトからみて、大宮や川崎や藤沢ならまだしも、「せんげん台」と言われたって何が何だか分からない。
 それは、東京の人間がいきなり「鈴蘭台」とか「三田ウッディタウン」と言われてビックリするのと同じことである。「三田」と書いて「ミタ」じゃない、「サンダ」と発音することにもビックリであるが、その「サンダ」のアクセントが冒頭の「サ」に置かれているのだって、東京の人間には想像もつかない。
 それは「伊勢中川」でも同じである。「Nakagawa」のアクセントは、東京なら間違いなく前から2番目の母音「ka」に置かれるはずだが、地元では10人いたら9人まで、アクセントは一番前の母音「Na」である。
 「NA-kagawa」とデクレシェンドする感覚は、関西コトバの特徴。三重県伊勢は、地図上は何となく名古屋圏のように思うが、コトバの面では関西文化圏に属するようである。
看板1
(昭和なファミレス「いわたき」。まだ国道4号線沿いで営業していた)

 そこで「せんげん台」であるが、詳しく言えば「埼玉県越谷市千間台」。千間台と書いて「せんげん台」と発音する。「どうせ誰も読めないだろう」と判断した(おそらく東武鉄道の)人々が、「メンドーだから、駅名は平仮名で『せんげん台』ということにしちゃおう」と決めたわけだ。
 この近くに「千間堀」という小川が流れ、近世から近代にかけて、この小川を利用して水田開発が盛んに行なわれた。荒川と江戸川と利根川、荒れ狂う3つの大河が関東平野を滔々と流れくだり、水害の絶えない低湿地帯が果てしなく続くあたり。すぐ近くの松伏町は、今もホタルの名所である。
 つい半世紀前まで、東も西も地平線まで見渡す限りの水田だったはず。朝日は水田のモヤの中から上り、夕陽は水田の彼方に沈んだ。せんげん台付近が水田地帯から一気に宅地化したのは、昭和の高度成長期であって、今から25年ほど前、5階建ての駅ビルが完成した頃がこの町の絶頂期である。
せんげん台1
(せんげん台での講演会 1)

 「千住といふところにて」舟をあがった松尾芭蕉一行は、千住から草加→粕壁→栗橋と旅を続けていく。江戸時代には春日部は「粕壁」と呼ばれ、奥州街道/日光街道の大きな宿場町であった。
 その粕壁の宿に着く前、「大袋」という小さな町があって、「もうまもなく粕壁の宿でごぜえやすね」と皆で慰めあいながら、お茶にダンゴ、我慢できないヤツはお銚子1本で盛り上がった。そのチョイと先の田んぼの真ん中が、今や東武線の急行停車駅として繁栄する「せんげん台」である。
 今井君なんかは、この「大袋」とう地名にもたいへん大きな興味があって、池袋、沼袋、大袋など、首都圏に少なくない「袋」つきのカンガルーみたいな地名の暗示するものがいったい何なのか、若い諸君が卒論なり修士論文のテーマなりにしてくれることを期待している。
 ついでに、江戸時代に流行した寄生虫に起因する病気で「大袋」というのがあったはずだが(東京目黒の寄生虫博物館に行って調べてみたまえ)、「その大袋と、地名に残った大袋の関係やいかに?」で、ますます今井君の好奇心は盛り上がっていくわけである。
せんげん台2
(せんげん台での講演会 2)

 さてと、せんげん台での講演会であるが、19時半スタート、21時10分終了、出席者100名。諸君、こんな小さい町で、よく100名もの出席者を集めてくれた。せんげん台校スタッフ諸君の大健闘を、今井君は絶賛したい。人口構成の面ではすでに縮小方向に向かいつつあるこの町で、ホントによく努力していただいた。
 この町の最盛期は、いまから30年前。1970年から1980年代、高度成長期のことである。まず、駅至近に広大な「武里団地」が完成。高度成長期を象徴するような、2DKないし2LDKの典型的「団地」であった。
 鉄筋コンクリート5階建ての団地群に、当時30歳代40歳代の若いサラリーマン家族が我れ先に移り住んだ。殺人的に混雑した昭和の東武鉄道「準急・浅草行」で、北千住まで30分。北千住で日比谷線に乗り換えて、都心まで1時間以上。行き帰り3時間近くの通勤に、あの時代のサラリーマンは決してメゲることがなかった。
せんげん台3
(せんげん台での講演会 3)

 いや、むしろあの激しい通勤電車を、まるでラグビーの試合のようにエンジョイしていたのかもしれない。北千住での乗り換えの整然とした集団行動は、欧米人が見たら感激の涙を流すであろうオドロキの光景。共産党独裁国家のマスゲームを眺めるようでさえあった。
 しかし、彼ら彼女らも、もうすっかり老いた。30歳代でここに移り住んだ若々しい人々は、あれから40年経過して、すでに70歳代から80歳代の高齢である。コドモの世代が40歳代後半に至り、いま今井君の前に集まった受験生たちは、もう孫の世代である。
 現在40歳代の人々は、だからこの町の第2世代なのだが、この第2世代こそ、せんげん台の黄金時代であった。武里団地にも、その近くに東急をはじめ大手不動産業者が開発した新興住宅地にも、1980年代には優秀なコドモたちが溢れていた。
 春日部市武里や大場、越谷市平方あたりからは、東武電車を乗り継いでたくさんのコドモたちが開成中/麻布中/桜蔭中に通い、東京の私立国立では東武線沿線のコドモたちが高い比率を占めた。地域の高校も大盛況で、越谷北高、越ケ谷高、独協大埼玉高は、春日部市周辺のコドモたちの憧れとして、一気にステータスをあげていった。
せんげん台4
(せんげん台での講演会 4)

 電通を発作的にイキナリ退職して行き場をなくした短気な今井サトイモ里之丞が、生活の糧を求めてこの辺りに出没しだしたのは、まさにこの頃である。「アルバイトでもしなきゃ、缶ビールも買えなくなっちゃう」というところまで追いつめられ、アルバイト気分で勤めはじめた塾で「春日部校をお願いします」「せんげん台校を任せます」ということになった。
 あくまで「缶ビール代になればいい」と思った塾で、いきなり「せんげん台を任せます」と言われても、困るじゃないか。当時は高度成長曲線の傾きが一気に垂直に近いところまで昇りつめるバブル期の始まり。ましてや春日部やせんげん台は高度成長の象徴のような地域である。
 たとえば、ライバルだった「E光ゼミナールせんげん台校」は、350坪の5階建て駅前校舎が完全にパンパンの満員。急遽、すぐお隣の空き地に7階建ての新校舎を建てたが、それでも押し寄せる生徒に対応できないアリサマだった。今となっては、夢のような話である。
看板2
(せんげん台「いわたき」。4号線沿いの黄色い看板も健在だ)

 その状況なら、どこの塾だろうが、誰が校舎責任者をやろうが、生徒はいくらでも次から次へと押し寄せる。あっという間に300名を超え、400名を超え、「もうこれ以上は、物理的に入りません」という500名に近づいた。アルバイト気分の校舎責任者に、何とか運営できる生徒数ではない。
 しかも諸君、今井君はせんげん台で孤立無援の状況。会社側は「任せました」と言うだけで、校舎責任者=今井君を補佐する人材を1人たりともつけてくれない。受付も、模試も、面接も、個別指導も、保護者対応も、全て今井君一人でやらなきゃイケナイ。
 あえて相棒と言えば、大学学部1年生のK君一人だけ。しかし、押し寄せる500人の生徒を相手に、「こんなはずじゃなかった」と息絶えかけているクマ蔵を、当時まだ18歳のK君はよく支えてくれた。大学の仲間を何人も講師として紹介してくれたし、武里団地に一緒にチラシ配りにも行った。
食べかけ
(せんげん台「いわたき」、USヒレステーキ定食)

 K君と深夜1時2時まで、校舎事務所で懸命に事務を続けたのも、今では楽しい思い出である。そのまま朝まで駅前の「つぼ八」で過ごすことはしょっちゅうだったし、カレンダーを丸めたバットと、紙くずを丸めたボールで、深夜に野球ゴッコを楽しんだりした。
 そのK君と、「昼飯、行くか?」と連日のように訪れていたのが、国道4号線のファミレス「いわたき」である。国道4号は松尾芭蕉も歩いた道。「もう大袋は過ぎました」「あと少しで粕壁でございます」と、弟子の曽良とともに励まし励まされ、芭蕉が歩いたまさにその道筋に、懐かしい「いわたき」は今も営業を続けていた。
 あの頃はクマの人生最大のピンチである。「電通をいきなりヤメた」だけで十分に大ピンチであるが、缶ビール代を稼ぐためだけにバイトしているはずの塾で、500名の生徒を1人で引き受け、毎朝毎晩夜が明けるまでヒクヒクしていたクマ蔵も、やっぱり人生最大のピンチだったと言っていい。
店内風景1
(いわたき、店内風景。あの頃と少しも変わらない)

 だからこそ、「せめてメシだけは腹いっぱい」と考えた。受験した大学に次々と落とされようが、シューカツでいくらエントリーしても相手にされない状況だろうが、彼氏や彼女に2マタ3マタかけられようが、どんな悔しいピンチになったって、「せめてメシだけは腹いっぱい」さえ心がけていれば、必ず道は開けてくるものである。
 K君と一緒に毎日のように「いわたき」を訪れ、店で一番安いハンバーグ定食を注文し、あとは「サラダバー」を2人で襲撃する。まず、何と言ってもポテトサラダ。目一杯のポテトサラダでお腹を落ち着け、大好きなヤングコーン、あんまり好きじゃないけど山盛りのオニオンスライス。定食900円分で何としても2000円分は平らげようと、クダランことに夢中になった。
店内風景2
(懐かしのサラダバー)

 「いわたき」はスープもオカワリ自由、何故かサラダバーの脇にカレーの鍋も置かれていて、「カレーもオカワリ自由」である。メインのハンバーグや定食なんかどうでもよくて、ひたすらサラダバー荒らしに必死。店のヒトも、クマ蔵の状況を肉体的にも精神的にもよく理解していらっしゃって、冷酷に叱責されたことは1度もなかった。
 中でもK君とよく食べたのが、サラダバーのパイナップル。「いわたき、行く?」ではなくて、「パイナップル、食いにいく?」と言ったぐらいである。しまいにパイナップルは「パイナ」と短縮され、「いわたきにメシ食いにいこうぜ」は「パイナ、行く?」という隠語に変わった。
パイナ
(パイナ1回分。これを9回でも10回でも喰らい尽くした)

 こういうふうで、数百年ぶりにせんげん台駅で降りるとなれば、意地でも「いわたき」にパイナを食いに行かなきゃならない。それはこの町への礼儀であり、大学生時代を過ごした私鉄沿線の街で、懐かしいナジミの食堂のオジサマ&オバサマに「お久しぶりです」「あの頃はお世話になりました」と挨拶するのと同じことである。
 2013年2月18日、なつかしの4号線「いわたき」は、ヨレヨレになりながらもまだ元気に営業を続けていた。オカワリ自由のスープも健在だったし、サラダバーも、その中のパイナも、昔のままの姿で並んでいた。
 講演が始まる1時間前まで、サトイモ君は人生のピンチの感覚を思い出しながら、「いわたき」に座っていた。相棒のK君がその後どうなったのか、連絡は途絶えているけれども、あれほど元気にパイナをむさぼっていた男のことだ。心配する必要はないだろう。何しろ、クマ蔵と2人で、サラダバーのパイナを2度も3度もカラッポにしていた男である。
看板3
(看板はすっかり古びていた)

 100名も出席して、教室は破裂寸前、爆笑の連続に生徒たちは酸欠寸前。せんげん台講演会の大成功については、文句なしに特筆に値する。これからも毎年必ずこの校舎を訪れて、せんげん台の人々を心から応援したい。何しろここは、人生最大のピンチを2度も乗り越えた町なのだ。
 講演会が終了して駅に向かう今井君を、「いま受験生なんです」という男女の高校生カップルが呼び止めてくれた。おお、素晴らしい。「受験真っ最中のカップル」などという経験は、なかなかできることではない。2人とも、大いに頑張ってくれたまえ。
 地下鉄千代田線の中でも、「今井先生ですか?」という男子に遭遇。「今井先生の『自由英作文』の講座、面白かったです」「たった今、青山学院大学を受験してきました」「ウマく行きました」とのこと。これまた「よかった&よかった」でござる。
 しかも諸君、この夜の話はまだ続く。今井ブログのあまりの豊穣に♡「よくそんなに書くことがありますね」と驚くヒトがアトをたたないが、諸君、今井君はむしろそのオドロキにオドロクのである。「よくもそんなに書くことがありませんね」「書くことが次から次へと湧きだしてこないスカスカな人生なんて、ツマらなくありませんか?」。サトイモ里之丞は、真顔でそう尋ねてみたいのだ。

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