2013年02月15日(金)

Tue 130122 福永武彦「廃市」とローデンバック「死都ブリュージュ」(ベルギー冬物語19)

テーマ:ブログ
 福永武彦の小説「廃市」が新潮社から刊行されたのは、昭和35年ごろである。時代は戦後文学の全盛期。三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳、中村真一郎。大江健三郎、倉橋由美子、吉行淳之介。石原慎太郎、開高健、安岡章太郎。日本文学は敗戦の鬱屈を一気に吹き飛ばすような花盛りであった。
 2013年、文庫本のコーナーをブラブラしてみると、当時の花盛りがウソのようである。安岡章太郎「サーカスの馬」を中学教科書で読んで感動しちゃった今井君としては、彼ら彼女らの作品の多くがとっくに絶版になっているのが、とても信じがたい思いだ。
死都ブルージュ
(1月19日、「死都」と呼ばれるブリュージュに向かう)

 「廃市」は、運河が縦横に張り巡らされた「ある古い町」が舞台。1980年代になって、大林宣彦が映画化している。主演;小林聡美、根岸季衣、山下規介。DVDは今でも手に入るから、4000円が惜しくなければ今すぐAmazonをクリックすべし。ネットを駆使してもっと安く見ることも出来るし、もちろんTSUTAYAに走ってもいい。
 映画作品は、全編を福岡県柳川で撮影している。今はなき国鉄佐賀線や筑後柳河駅も登場して、ノスタルジックな雰囲気を盛りあげる。冒頭、若き日の小林聡美が演ずる「安子」が、手漕ぎの船に乗って運河を行く。季節は夏、確か白いパラソルを手にしていた記憶がある(間違いだったら、スミマセン)。
ブリュージュ行
(KNOKKE行きとBLANKENBERGE行きが、ブリュージュまで連結して走る。この日は雪の影響か6分遅れていた)

 柳川は、北原白秋の町。福永武彦が表題にした「廃市」も、白秋「おもひで」に登場するコトバである。もっと遡れば、イタリアの詩人ダヌンツィオの劇「死都」を森鴎外が翻訳したとき「廃市」と訳したのが始まり。福永の小説では「ある古い町」と言っているが、読めば誰だって「これはおそらく柳川のことだろう」と、容易に推測できるはずである。
 映画の冒頭で、この町は「さながら水に浮いた灰色の棺である」と描写される。これも北原白秋「おもひで」の一節。水をかく櫂の音は、「町が死んでいく音」。運河に囲まれた水郷の町、土蔵の並ぶ老いた町は、水に浮いた棺の中で、死に向かって静かに朽ちていくのである。
車内風景1
(ブリュッセル北駅から南駅まで、電車は地下を走る)

 福永武彦は、北原白秋と同じ福岡県出身。一高→東大→英語教師を経て、ボードレールを中心にフランス文学を研究。大学教授でもあった。東大在学中には、加藤周一・中村真一郎とともに文学同人マチネ・ポエティクを結成。マコトに羨ましい秀才だ。作家・池澤夏樹の父でもある。
 ボードレール、北原白秋と並べられると、小説「廃市」のテーマも自ずと明らかになる。何しろ柳川は「東洋のヴェネツィア」でもあるのだから、トマス・マン「ヴェニスに死す」や、ルキノ・ヴィスコンティによるその映画化作品とも、関連を論じる価値がある。
チケット
(ブリュッセル⇔ブリュージュ往復チケット)

 縦横に運河の走る町。過去の栄光の夢がゼラチン状に澱んで、水の流れとともに時間が停止した町。現実には笑顔と活気に満ちた町ではあっても、芸術家の夢の中では、柳川もヴェニスもブリュージュも、水に浮かんだ棺の中で静かに朽ちていくのである。
 運河でも堀でも、水の流れは停止して重く澱み、澱んだまま数百年が経過する。清々しい水の流れの響きは、はるか昔の思い出に変わる。水が澱めば、時間が澱むのも当然の成り行き。澱んだ水は腐敗した原形質にかわり、舟の櫂で水をかく音さえも「町が死んでいく音」のように重く響くのである。
車内風景2
(まもなくブリュージュ到着。オランダ語って、ドイツ語と英語のチャンポンみたいだ)

 ブリュッセルの北西、北海に近いブリュージュは、そういう町である。この町がフランドル地方の中心として繁栄したのは14世紀のこと。リスボンやコンスタンチノープルからも、アマルフィやアレクサンドリアからも、次々に大規模な貿易船団が寄港して、ブリュージュの町には世界中の物資が溢れた。
 14世紀のブリュージュの繁栄は、その後のヴェネツィアやジェノバに勝るとも劣らないものであって、この町こそ北方ルネサンスの旗手だったと言っていい。「へェ、知らなんだ」というヒトは、中公新書「ブリュージュ」(河原温)を手に取ってみたまえ(河原温という同じ名前で、今井君の大好きな画家がいるが、この著者は全くの別人である)。
2冊
(河原温著「ブルージュ」。「フランドルの輝ける宝石」のサブタイトルがある)

 ブリュージュの夢のような繁栄は、15世紀まで。町の運河と北海をつなぐ河が、泥と砂の沈殿で浅くなり、貿易船団の通航が不可能になって、町は急速に廃れていく。まさに「廃市」。柳川から海への通路を有明海の泥が塞いでいるのと、事情は同じことである。
 かつて世界中からブリュージュに集結していた貿易船は、北方のアントワープを目指す。繁栄はやがて、さらに北方のアムステルダムへ。ブリュージュの存在は、あっという間に忘れられ、華麗をきわめた過去の栄光さえ、記憶の片隅にさえ残らない。残ったのは、死んでいく町を弔うように運河の両側に立ち並ぶ教会と修道院だけである。
ブリュージュ1
(美しい建物が並ぶ)

 重苦しい白日夢のような空気の中では、「あそこでああしていたら」「あの時こうしておけば」という仮定法の思考が支配的になる。「ああもなっていただろう」「こうもなれたはずなのに」「しかしそうしなかった」「だからこうなってしまった」と、後悔の苦い汁が古い心の傷の奥から永遠に滴りつづけるのである。ブリュージュの時間や水が澱んでいるのも、そこいら中から滴りつづける後悔の濃密な苦汁のせいかもしれない。
ブリュージュ2
(ミンネワーテル(愛の湖)。かつてブリュージュの内港だった)

 マコトに陳腐なことを言うようだが、ヒトというものは生きていく瞬間瞬間に、無限の選択肢の中から1個だけを選択しながら前進する。言わば無限の可能性を切り捨てて、わずか1つの選択肢を選びつづけるのが人の一生なのである。
 すると、1つを選択した人間の背後で、たったいま切り捨てられた無数の選択肢一つ一つが、傷口から悲嘆の苦汁を滴らせながら息絶える。たった1日、たった1週のうちに、どれほど多くの選択肢を無惨に切り捨てているか。その総量を思うとメマイがするほどだが、そういう人間が数千人も数万人も集合して「町」を形成すれば、無惨に息絶えた選択肢の総量は、そのままその町を押しつぶしかねない。
ブリュージュ3
(ミンネワーテル 2)

 運河に囲まれた水郷の町、時の停止した白日夢の町で、「ああしなかった」「もしあの時そうしていれば」という仮定法の後悔の濃度が高まるのは必然的である。苦い水は流れていく先もなく、トロトロと人々の白昼夢を誘いながら、生温く、生臭く、着実に腐っていくばかりだ。
 もちろん、現実のヴェネツィアや柳川やブリュージュがそうであるというのではない。21世紀に残った現実の町は、たくましく生命を保ちつづけていて、そこで生活するヒトビトは笑顔と活力に溢れている。あくまで詩人や芸術家の繊細なイマジネーションの中で、町は「廃市」となっていくわけだ。
ブリュージュ4
(修道院脇の運河に、たくさんの水鳥がいた 1)

 ブリュージュについては、19世紀ベルギーの詩人ローデンバックが、短い小説を書いている。タイトルは「死都ブリュージュ」。今井君は岩波文庫で手に入れたが、諸君もAmazonをクリックしてみたまえ。3時間もあれば通読できる。
 「廃市」でも「死都」でも、描かれるのは深い沈黙と憂愁であるが、ブリュージュは柳川みたいに温暖な町ではないから、沈黙と憂愁に海からの冷たい霧がフタをする。だからもっと憂愁の密度が高い。小説では、愛した女性が死に、詩人は悲嘆に暮れる。しかしその詩人の前に、かつて愛した女性と瓜2つの若い女性が現れる。
 うにゃにゃ、こりゃチョイと恥ずかしい。でもまあいいじゃないか。19世紀の小説に21世紀の読者の審美眼を持ち込んで、恥ずかしさにブルブル震えてみせるのはフェアではない。
 死んでいく運河の町の憂愁と悲嘆、その美しさと懐かしさを味わえればそれでいい。いかにも白秋の描きそうな彩り鮮やかな憂愁は、ブリュージュにも共通するものであるらしい。永井荷風も、この小説のファン。なるほど、そうに違いない。
ブリュージュ5
(修道院脇の運河に、たくさんの水鳥がいた 2)

 1月19日のサトイモ男爵は、以上のようなことをフガフガ考えつつ、ブリュッセル北駅からブリュージュに向かった。この日から寒波がますますつのって、最高気温でも氷点下5度。夏には観光客が押し寄せて、沈黙の運河を観光船が賑やかにクルーズしたりするが、さすがにこの厳冬期に訪れるヒトは少ない。
 もちろん、このほうがいいのだ。運河の水はゼラチン状のまま凍りついて、「廃市」であり「死都」であるブリュージュの美しさはますます際立つはず。その美しさを強烈に実感させてくれたのが、偶然入った教会で行なわれていた聖歌の合唱だったのであるが、今日もまた長く書きすぎた。この辺で「また明日」ということにしたい。

1E(Cd) Eschenbach:MOZART/DIE KLAVIERSONATEN 5/5
2E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 1/10
3E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 2/10
4E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 3/10
5E(Cd) Böhm & Berliner:MOZART 46 SYMPHONIEN 4/10
total m111 y111 d10306
最近の画像つき記事
 もっと見る >>

Ameba芸能人・有名人ブログ

芸能ブログニュース

    ブログをはじめる

    たくさんの芸能人・有名人が
    書いているAmebaブログを
    無料で簡単にはじめることができます。

    公式トップブロガーへ応募

    多くの方にご紹介したいブログを
    執筆する方を「公式トップブロガー」
    として認定しております。

    芸能人・有名人ブログを開設

    Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
    ご希望される著名人の方/事務所様を
    随時募集しております。

    Ameba芸能人・有名人ブログ 健全運営のための取り組み
    芸能ブログニュース