2012年03月02日(金)

Tue 120130 私のカンタベリー物語 それを書こうと思ったが♨(ロンドン滞在記7)

テーマ:ブログ
 12月20日、いよいよ冬至が近づいてロンドンの日は短く、そのぶんイルミネーションの輝きが増して、街のクリスマスムードは高まるばかりである。ロンドン滞在5日目の今井君はそういう花やぎにあえて背を向けて電車で東に向かい、カンタベリーの町と大聖堂を眺めてくることにした。
 今日の記事に「私のカンタベリー物語」とタイトルをつけたのは、もちろんチョーサー「カンタベリー物語」が念頭にあるからである。東京大学に入学を拒否された18歳の今井君が、神田神保町を歩き回って失意の春をやり過ごし、貧しい財布をはたいて猛然と買いまくった古書の中に「カンタベリー物語」があった。
大聖堂
(カンタベリー大聖堂 1)

 久しぶりに「私」という一人称をつかってみて、書いた本人の顔が赤らむほどの違和感を感じる。今井君が「私」をつかわなくなってどのぐらい経つだろう。このブログの初期からの読者ならば、昔の今井君の一人称が「私」一辺倒だったことを覚えているだろう。
 もしアナタがつい最近からの読者だったり、つい1~2年前から読みはじめたヒトだったりするなら、ぜひ一番右のアーカイブ欄をクリックして、2008年の記事をいくつか拾い読みしてみたまえ。一人称は圧倒的に「私」。段落分けは10行に1回あるかないか。まるで19世紀の文学全集を広げたみたいなカビ臭さが、アナタの鼻腔いっぱいに広がるはずだ。
大聖堂に接近
(カンタベリー大聖堂 2)

 文章を書くとき「一人称をどうするか」は、モノを書くヒトビトの永遠の問題である。小説なら、「私」や「僕」などアカラサマな一人称を使った瞬間、主人公は物語の中で命を失うことはありえないことになる。
 主人公の死の可能性が消滅した物語ほど気の抜けたものはないから、19世紀20世紀の小説家は懸命に工夫を凝らし、たとえ「私」や「僕」をつかっても主人公が命を落とす可能性を確保しようとした。
 例えば、瀕死の英雄なりヒロインなりが一人称で自らの冒険を語り、英雄の看護に当たった老婦人やヒロインの治療に当たる若き医師が、聞き書きの形式で遠い昔話として物語る。ついでだから、ヒロインに対する医師の仄かな恋心ぐらいくっつければ、涙を流して感動してくれる素直な読者だっているだろう。
 そういう工夫のせいで物語の構造がやたらに複雑になり、慣れない読者には構造が把握しにくくなりだしたのがE.ブロンテ「嵐が丘」あたりから。紙芝居のワクの外に、もう一つ別のワクがあって、「アレレ、そうだったの?」と驚いていると、さらにもう一つ外側にワクが仕掛けてあったりする。
 そういう複雑で分かりにくい物語構造を賛美するヒトもいる。「夢と現実がナイマゼになり、一気に物語は奔流となって読む者をも押し流す」とか、よく小説本のオビに印刷されているコピーがそれである。
大聖堂正面図
(カンタベリー大聖堂 3)

 しかしそういうのを書くのはメンドイし、いつかはネタ切れや工夫切れを起こすから、アカラサマに一人称をあきらめてしまう作家も現れる。そもそも、同じ工夫をどこかで誰か知らない作家が試みていて、「マネした」「パクった」「剽窃だ」などと言われたら、オリジナリティが命の作家としては命取りになりかねない。
 そこで読者も作者も了解の上で、本来「私」であるべき一人称に、三人称を装った名前をくっつけてしまう方法が生まれる。誰のどの作品がそうだと、今井君クンダリが断言するわけにはいかないが、20世紀初頭からこの手法が大流行したことは確かである。「疑似一人称方式」と名付けてもいい。
 中でも、アルファベット1文字の名前を主人公にくっつけて、実は自分の悪夢を告白するスタイルは、プラハの作家から派生して世界中に多くの剽窃を生んだ。多くの作家があんまり露骨に同じことをやり続けたから、このスタイルも20世紀半ばにはすっかり飽きられてしまった。
聖堂内部1
(大聖堂内部 1)

 今井君のこのブログなんかも、アルファベットではないにせよ、このスタイルの残りカスなのである。初期には「私」が大活躍していたのに、約4年が経過して、気がつくともう「私」の「わ」の字もない。
 市川海老蔵事件をうけて、「今井カニ蔵」が登場したのは2010年春。しかしその半年後、ジャニーズ系のテレビ番組に「市川カニ蔵」が登場して、カニ蔵の使用を断念した。コピーライターや放送作家の頭をよぎるアイディアなど、そもそも似通ったものであるのは当然なのだ。
 そこから先はもう一気呵成。読者の迷惑なんか一切考えずに、思いつく限りの疑似一人称を続々と登場させた。ツキノワくん、ウワバミどん、クマ蔵、クマ左衛門、今蔵、今右衛門、今小路今麻呂、今井君、わろし君。いやはや、いくらでも出てきて、自分でも全部を思い出すことが出来ない。
聖堂内部2
(大聖堂内部 2)

 変幻自在と言えばその通りだが、要するに超本格派の「私」が文章の中にドッカと腰を据え、マジメな顔でマジメなことを語りだすのが、何となく気恥ずかしいというだけのことである。
 「オレ」でもいいが、今井君はもともと臆病で恥ずかしがり屋。「オレ」で語ったりしたら、あっという間に「オレについてこい!!」「オレを信じるんだ!!」という熱血青春ドラマの主人公になったみたいで、夕陽に向かって駆け出していきそうだ。やっぱりどうも恥ずかしい。というか、クマには似合わない。
 「僕」とか「ぼく」という手もある。今の世の中に、ホンキで「僕」や「ぼく」で語るヒトは多くないと思うが、「ぼく」には馥郁たる昭和の香りがあって、カンタンには捨てがたい。
町の様子1
(町も賑わっていた 1)

 2012年3月、どういう風の吹き回しか、新潮文庫の新刊に庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」が入っている。昭和40年代、「ズバリ!当てましょう」でナショナル白物家電100万円相当が当たっていた頃の芥川賞受賞作。昭和を代表する人気作家であった。4部作構成の4作とも新潮文庫で順次刊行されるとのことなので、庄司薫を知らない若い諸君はぜひ読んでみてほしい。
 以前にも1度書いたことがあるが、昭和の文学少年はほぼ例外なく庄司薫のマネが大好き。「ぼく」で語り、「ぼく」は純喫茶で何時間も粘り、「ぼく」は美人じゃないけど知的で純粋な女の子を全力で守りつづけようと心に誓い、しかしそれを口には出さず、既成の価値観を打ち破ろうとしたりしなかったり、世の中にウンザリしたりしなかったり、「ぼく」独特の恥ずかしい冒険を空想して自らウットリしたものであった。
 しかしどんなにバカバカしい世代だったにしても、「一人称単数」というワクの中には辛うじて踏みとどまった。だから、その次の世代が「一人称複数」で語りだしたときには、看過できない苛立ちを覚えた。男子が「オレら」、女子が「ウチら」で語り、「では、複数で自らを表現するからには、仲間はどこにいるの?」と探しても、彼または彼女の周囲に仲間などどこにもいなかったのだ。
町の様子2
(町も賑わっていた 2)

 さて、タイトルを「私のカンタベリー物語」とした以上、申し訳程度にでもカンタベリーの説明をしておかなければならないような気もするが、いまさらどうしたものだろう。今日もすでに長く書きすぎていて、これ以上文章を書き連ねることはどうしても気が引ける。
 そうだ。タイトルを書き換えればいいのだ。「書き換える」では改竄みたいだから、「書き加える」ということにしよう。「それを書こうと思ったが♨」をタイトルに付け加えれば、羊頭狗肉の謗りは受けずに済むだろう。
 なお、明日の記事のタイトルは「今度こそ、私のカンタベリー物語」。無駄話に終始した今日の失地回復をはかるためには、記事冒頭から一気に本題のカンタベリー中心部に突き進んでいく決意。今からすでに頭から湯気が上がりはじめた。見よ、この闘志。「やれば出来るじゃん」と、どうしても言わせてくれんず。

1E(Cd) Ralph Towner:ANA
2E(Cd) Stan Getz & Joao Gilberto:GETZ/GILBERTO
3E(Cd) Keith Jarrett & Charlie Haden:JASMINE
4E(Cd) Ann Burton:BLUE BURTON
5E(Cd) Isao Tomita:Shin Nihon Kikou
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