中学で卓球部に入った息子が「夏休みの練習にもなれてきた」というので一安心している。夏休みさえ乗り越えれば、きっと卒業まで続けられるだろう。
部活のある日は、疲れて帰ってきて、ばったりと寝てしまったりしていたが、最近では、宿題を済ますほどの余裕ができてきた。体力がついたということか。
「練習はきついの?」と聞くと「暑いから結構大変だけど、きつくはない。楽しい」という。毎日、楽しく部活に行けるんだから、息子は幸せものだ。
私の中学、高校時代は、部活というのは苦しいものだった。毎日、「休みたい、休みたい」と思っていた。夏休みは「雨が降らないか」と思ったし、学校のある日は、最後の授業のあたりになると、窓から空を見て「雨雲がこないかなあ」と念じていたものだ。
そんなに嫌ならやめればいいのに、と普通の人なら思うのだろうが、なぜだか、私の考えの中には、「中学、高校では野球部に所属する」というのが当然のこととしてインプットされ、動かせないものになっていた。
勉強にしろ、趣味にしろ、「部活をやった上でやるもの」という認識があったのだ。
実際、部活の憂鬱さに比べれば、勉強というのは楽しいものだった。やればやるだけ結果が出たし、長時間やってもそれほど疲れない。さらに、やっていると、母親がお菓子や飲み物を差し入れてくる。部活をして帰ってくると「遊んで来たんだから、勉強しろ」などというのだ。
部活は、「憂鬱のタネ」でありながら親からは「遊び」ととられていた。それでも続けていたのはどうしてだろう。
多分、私の野球部の同期たちはきっと同じような感じで野球をしていたのではないかと思う。
想像するに、自分自身の中に、「部活を続けていることが、将来、きっとプラスになる」という動物的な、直感的な何かがあったのではないかと思う。
実際、自分の心の中をかえりみると、それがわかるのは、「中学、高校で部活をしていなかった」という人と出会った時だ。
そういう人と出会うと、「この人とつきあっていて、大丈夫だろうか」と思ってしまう。
部活をしてなくても大人にはなれる。だけど、部活をしていないと、先輩、後輩とあまりつきあわなくてもいられるし、(好むと好まざるとにかかわらず)同級生と競争関係に置かれるという経験もしなくてすむ。
競争関係なんてものは誰でもいやなのだが、それでもそういう位置に置かれる。それによって、経験すること、学ぶことがあるような気がする。
中学、高校と部活を通して、「試合に出られていい気になっている自分」も「試合で失敗した自分」も、「試合に出られなかった自分」も、「ケガをしてチームの輪の中にさえ入れなかった自分」も、「現役を終えて、後輩達に夢をたくす自分」も経験した。いい思い出も、つらい思い出も、すべて自分を成長させるいい肥やしになっているような気がするのだ。
息子が部活を通してそういう様々な経験をしてくれれば、親としてはうれしい。