ついでに裁判の膨張をしてきました。
医事紛争のようで被告は大阪大学付属病院の脳外科のようでした。
聞いているうちにDr.の大変さを奈良医大口腔外科にいた頃を思い出し改めて感じました。
帰り際に羽曳野に喫茶店(プラスワン)を経営している従妹に初めて行った。
サンドイッチの旨かったこと・・・・
今度、近くに行くとき又、寄ろう・・・・
母の葬儀に関して
先ずをもって今回の母の教会葬には皆さんには連日、本当にお世話になりました。本当にありがとうございました。改めて感謝を申し上げます。
今、思い出すことは母が私の手を引いて足げく本部、明和、大正、正年に参拝、道の先輩たちの話を聞き入る姿です。正家分教会の信者さんにも常に日参の重要性を説き、自らも何かあれば参拝を主としておりました。
入り込み人の多い時は、勇んで大きな鍋にカレーや焚き物をつくり、量を重要視して漬物と米は絶やす事の無いように心がけておりました。
食料の自給率を上げる為か、モンペ姿で畑に肥え桶を担ぎ、夜遅くまで親神、教祖の思いを説き聞かし青年が問題をしでかした時、直に行動して飛び込み自分より大きな男のほっぺたを殴っていた姿が今も目に浮かびます。
子供は私一人しかいませんでしたが、実の子供以上に親孝行な理の子供をたくさん持てたのが最も幸せなことであったと思います。
正家から結婚して出て行く人たちの荷物の整理を嬉しそうにしていましたし、そこの家庭が次第に結構になることを本当に喜んでいました。
私には父と母が心から共通して喜んでいたのは孫の話意外に、このことしか記憶にありません。
自他とともに常に向上を目指す刃自の思いは強いあまり自分の体の衰えや世上の個人主義の感覚にはついていけなかったようです。
しかし、私の天理教に対しての親神、教祖の考えを納めるため原典を中心に元の理を通して行動しなければならない思いは母からの影響であることは間違いありません。
人に飲み食いしてもらうことを喜んでいた母を偲んで50日祭は大いに
騒いでほしいと思います。
特に母は酒飲みの絡み、ケンカ、泣き上戸、大騒ぎには寛容でした。
むしろ喜んでいたほどです。飲酒運転は困りますが当日は盛り上がってもらうのが供養になるでしょう。
私は何に於いても感謝でいっぱいです。
入院中はもちろんの事、自宅において。それ以外にでも世話になりました。
お道が無ければ、教会が無ければこのような葬式もしてもらえず、又寂しい人生を送っていたでしょう。
出直しのさい、苦しそうにしていたのは半日ほどでした。
宗平の最初の「おさづけ」と私のが母の最後をさせて貰って前日まで、辛そうでしたが家にいて家族と食事をできたのが慰めです
多くの人の世話と死に目を送ってきた母の最期は、私とだけでしたが浅い息でしたが眠ったまま逝きました。
最後の言葉は「私のこの布団、ソファーに持って行って被って寝ろ!」
でした。
お節介やきの母らしい最期でした。