① このブログは管理人の独断と個人的意見で書かれていますので、
  間違った事実の指摘以外の、「それは違う」等の突っ込みは結構です(^ω^;)

② 尚、このブログの主な読者を「中学生・高校生」に設定しておりますので、なるべく柔らかい表現

  で記述する様心がけています。

2006-07-14

第13回 ビル・ゲイツ

テーマ:実業家

ビル・ゲイツは、1955年生まれの、アメリカ合衆国出身の実業家で、マイクロソフト社の会長です。



ビルゲイツはアメリカ合衆国のシアトルに、法律家の父と銀行秘書の母の長男として、

裕福な家庭に生まれました。小学校時代から成績は優秀で、

特に算数(数学)と理科ではずば抜けた知能を持っていたようです。


中学・高校時代にはシアトルの名門私立中学・高校で学生時代を過ごし、そこでコンピュータと出会い、

興味を持つようになりました。また、後にマイクロソフト社を共同立ち上げする、親友のポール・アレン

とも高校時代に出会っています。


高校時代のゲイツは、学業を優先したと言うよりは、コンピュータの魅力に取り付かれてしまい、

毎日の様にコンピュータをいじっています。これは、ゲイツの所属していた高校が、裕福な家庭向けの

特殊な高校だった事もあり、当時は(今以上に)高価だったコンピュータを使える環境を生徒たちに

提供していたせいもあります。


現在パソコンと言えば、『アイコンをクリック』しながら先に進んでいく為、比較的誰にも出来る物と

なっていますが、当時は『BASIC』という特殊なプログラミング言語を習得していなければコンピュータ

をいじる事は出来ませんでした。


ゲイツはコンピュータで何が出来るのかを探す為に、

学校に行っていたと言っても過言ではありませんでした。


高校生のアルバイトと言えば、ファストフードやファミレスの店員さん、等が思い浮かびますが、

ゲイツの高校時代のアルバイトは並みの人間では考えられない物でした。

それは、『発電所の保安システムをコンピュータでプログラムする事』であり、放課後は親友の

ポール・アレンと一緒に「システム開発」に勤しんでいたと言います。


「どちらが早く開発出来るのか」を競い合っていたわけです。


高校の学業の方はまあまあと言った所ですが、放課後の『特殊なアルバイト』では何日も休む事

なく、働き続けたと言います。ゲイツとアレンは、仕事の報酬を受け取る以外に、将来に繋がる為

の技術を多く吸収していたわけです。


高校卒業後、アレンは地元シアトルの大学に進学し、ゲイツはボストンにある名門ハーバード大学

進学しました。ただし、ハーバード進学後は、まじめに学校に行くどころか、大学に行くと講義には

出席せず、付属のコンピュータセンターに入り浸っていたそうです。

結果的にゲイツはハーバードを中退する事になります。


1974年、ゲイツはアレンから電話を貰います。

アレンは、あるコンピュータ専門雑誌に『アルテア8800』と言うコンピュータの広告が載っていたのを

発見しました。


ここで、『コンピュータ』について、ごく簡単な説明をします。

皆さんの家にもパソコンがあるかも知れませんが、それは本体(箱)だけでは何も出来ません

その中にOS(オペレーションシステム)が搭載されていなけでばただの箱に過ぎません。

現在では、Microsoft Windowsや、Mac OSなどがOSとして使用されています。

つまり、パソコン本体(身体)だけを買ってきても、OS(頭脳)が無ければ全く動かないわけです。


話を戻しますが、アルテア8800は、『本体(身体)だけで400ドル』という大変安価な物でした。

今のお金に換算すれば、約50,000円。今でこそ5万円台のパソコンはありますが、時代が違います。

ただし、「安い!」と言って飛びつくようなものではありませんでした。

何故ならば、頭脳(OS)が搭載されていないわけですから、これだけでは全く動きません


ゲイツとアレンは、この小型で安価なコンピュータの開発者に電話をかけました。


『そのコンピュータに載せるOS(BASICインタプリタ)を既に開発してある。

これを載せてくれないか?一緒に売り出そう!』


と。つまり、ゲイツとアレンは、自分たちが作ったOSを搭載したパソコンを売り出して、

名前を売ってもらおうと考えたわけです。この様にして、アルテア8800の開発者と直接会って、

自分たちのOSを売り込む約束を取り付けました。

ゲイツ19歳、アレン21歳の時の事です。


問題は、ゲイツとアレンは、『嘘をついていた事』です。

実は、ゲイツ達が言ったOSは、電話をした時点では影も形も無いものでした。


約束を取り付けた事で、『自分たちの言っているOSに興味を示した』と判断し、

そこから開発を始めました。

約束までたったの8週間。二人は寝る間も、ご飯を食べる間も惜しんで、プログラムを続けました。


こうして二人の嘘つきを本当にする為に突貫工事で始まったプログラミングは成功し、

約束の為にニューメキシコのアルバカーキに運ぶ事になります。

※ 実はこの移動中、「プログラムし忘れた」事を思い出したアレンが、飛行機の中で続きを作り、

到着するまでに完成させたと言われています。


つまり、自分たちの作ったシステムが「本当に正しく作動するのか」がわからないまま、

アルテアの開発者と会い、目の前で作動させる事になってしまいました。

いちかばちかの大勝負。


彼らの作ったシステムは、正しく作動したのです!


こうしてゲイツの「億万長者伝説」は始まったわけです。


ここでゲイツは大学を中退する事を決意し、アレンと一緒にマイクロソフト社を立ち上げました。


現在ビルゲイツは「マイクロソフト社」の会長として、個人資産6兆円を数える、

個人としては世界最高の大金持ちとして君臨しています。

高校時代の親友だったアレン(実際はアレンの方が年上だったのですが)は、2000年まで

マイクロソフト社の取締役を務め、退職後は資産運用投資を行う会社を運営しています。


ただ、2006年6月15日に、2008年でマイクロソフトの会長を退き、運営から一切の手を引く事を発表

しました。奥さんのメリンダと共に作った、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での「福祉活動」に専念

するそうです。尚、ゲイツは今でも毎年多額の寄付をしています。

2005年には7億5000万ドル(約800億円)の寄付を、ワクチンと予防接種の為に行っています。


多くのアメリカ大富豪たちが取ってきた「隠居生活」を送る事にしたわけです。


ちなみに第4回に登場した、孫正義とは現在も仲の良い友達だそうです。

一流は一流を認め合うと言う事でしょうか。



【私にとっての"ビル・ゲイツ"】


 まずはお詫び。やっと更新できる時間が確保出来るようになりました。本日からはしばらくの間、

休まずに更新を続けます。


 さて、『ビル・ゲイツ伝説』の中で学べる事。


① エジソンやアインシュタインと同様の「奇才」タイプだった。

  →小学校時代から成績は優秀でしたから、小学校中退のエジソンとは違うかも知れませんが、

  少なくともガリガリ勉強するタイプでなかった事は確かなようです。それで上級学校に進学する

  際に、考えられる最高の選択肢を選んできた所も素晴らしいと思います。


② 努力も集中力も凄いが、それ以上の「強運」に恵まれていた。

  →努力しない人に「運」はめぐってきません。ただし、努力しても運が無い人はいくらでもいます。

  ゲイツ(とアレン)のサクセスストーリーの第1話が「ハッタリ」だった事は今では有名な話ですが、

  ただの「嘘つき」ではここまで成功出来なかったわけです。「神様が見ていてくれた」なんて、

  そんな話ではありません。ゲイツには並々ならぬ努力と才能が備わっていた事は確かですが、

  その才能を「上手に活かす」方法を知りながら生きてきたわけです。時には「名誉や地位」等の

  おまけも捨てながら。また、ぶっちゃけて言えば、現行型の「Microsoft Windows XP」は未完成

  品です。「フリーズの回数が、今までの半分以下になりました!」で売ってしまう面の皮の厚さ。

  もしこれが車で「ブレーキミスの回数が、今までの半分以下になりました!」だったら、そんな

  物が売れるわけがありません。


  そして、現在の「パソコン」と言えば、「アイコンクリック」が普通です。これはWindowsではなく、

  最初はAppleのコンピュータに搭載されたシステムだったわけです。Windows3.1からこのシステム

  をマネしはじめ、Windows95ブームで、これを「Microsoftのモノ」にしてしまったわけです。


  そのやり方から、ビルゲイツを批判する人は絶えませんが、間違いなく彼は「成功する為の道」

  を通ってきた、真の成功者なわけです。本当に「良い人」が成功者になる事は少ない、

  その代表格の様な人物だと思います。


  ゲイツの強運は、「寝ていて転がっていたモノ」ではありません。努力をした人の上に降り注ぐ、

  「成功の為の最後の一押し」が欲しい場合、(当たり前ですが)努力を辞めない事です。


③ 高校時代に知り合った、ポール・アレンとの関係

  →これは高校生・中学生に覚えておいて欲しい事。

  自分の能力を高めるのは何か?自分で努力する事?まあ、確かにそれもあります。

  ただ、「良きライバルがいる事」が、その効果を何倍にも何百倍にもしてくれる訳です。

  

  ビル・ゲイツは、高校時代のアレンや、大学時代のスティーブ・バルマー(現マイクロソフトCEO)

  と出会っていますが、彼らの存在が無ければ現在のビル・ゲイツは無かったと言っても

  過言ではありません。

  それは別に「友達がいて助けてくれた」からではありません。友達がいた事によって、

  「負けたくない!」という気持ちが芽生えて、自分を高めてくれたからなのです。


  「親友」とは?

  毎日毎日一緒に過ごし、学校帰りに遊び、おしゃべりし、メールをして、電話で話して、

  そんな時間を共有していると、「私たちって親友!」なんて勘違いする事もあるかも知れません。

  しかし、それは「暇な時間を一緒に埋めている」だけなのです。

  一緒に共有した時間の「中身」が無ければ、後に何も残りません。


  一緒に戦った、努力した、しのぎを削った、けんかした、負けたくないと思った、

  これらの経験が無い「仲のよい友達」は、大学進学後、または就職後には関係は無くなります。

  アレンがゲイツに電話をしたのも、「一緒に戦った仲間」であり、ゲイツの能力を充分に知って

  いたからですよね?


  もし、放課後の時間をただ何となく過ごしているだけの、どうでも良い関係だったとしたら、

  アレンはゲイツを「チャンスを手にする為の共同開発者」としてゲイツの事を思い出さなかったと

  思います。隣の家に住んでいたならまだしも、この当時でアレンはシアトル、ゲイツはボストン、

  と、アメリカ合衆国の中で一番遠い場所に住んでいたわけですから。


  皆さんも、今一緒に過ごしている友達の事を考えてみてください。

  10年後、または30年後、一緒にいると思いますか?

  それだけの「何か」を時間として共有していると考えられますか?


  一生の友達とは、その様にしてしか出来ないものです。

  その一生の友達は、あなたに何か素晴らしい思い出やチャンスを与えてくれるかも知れません。



さて、私の事を多少なりとも知っている人は、私がビル・ゲイツの信仰者である事をご存知だと思います。


盲目ではありません。

ゲイツの欠点や、ゲイツ伝説の中での許せない点なども充分認識しています。


ただ、上に書いたように、ビジネスマンとしては、どんなに批判を浴びたとしても、成功者ですし、

(批判されるのは、人から羨ましがられている証拠ですよ!友達があなたの悪口を言っているのを

聞いたら、『自分は人から羨ましいと思われている』と考えても構いません。)

その為の努力もしましたし、そして才能もありました。


「こうしたい!」と思う夢を思い描き、人に話す事によって実現せざるを得ない状況を生み出す所

にも、大変共感が持てます(実現出来なければただの嘘つきになってしまいますが)。


私が欲しいのは、ビル・ゲイツの「強運」です。


現在私は「成功」の為に、出来る限りの努力を続けているつもりです。

強運は「寝て転がってくるもの」だとは思いません。自分でアンテナを高くして、

どんなチャンスにも飛び込んで行く気持ちと行動力、これである程度の強運はつかめる、

と信じています。


ちょっと違う例えかも知れませんが、


『宝くじは買わないと当たらない』

そして、

『運は運が転がっている場所に飛び込まないと掴めない』


日夜、この様に考えて行動しています。


みなさんも「あーあ、何か良い事ねえかなぁ、つまんねえなぁ」なんて言いながら、

ダラダラと時間を食いつぶす、どうしょうも無い人間にだけはならないでください。


自分で探しに行きましょう。

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2006-07-03

第12回 ジム・アボット

テーマ:野球

ジム・アボットは、1967年生まれの、アメリカ合衆国出身のメジャーリーガーです。


アボット


アボットはカリフォルニア・エンゼルスやニューヨーク・ヤンキースなどで活躍し、

メジャー通算で87勝をあげた左腕ピッチャーです。


87勝。

ロジャー・クレメンスが340勝をあげているのに比べれば、確かに大した事の無い数字です。

日本人を代表するメジャーリーガー、野茂英雄でさえ120勝以上。

なんでこの「偉人・鉄人・有名人」に彼が選ばれたか。


彼には生まれつき右腕(右手)が無いのです。


この様に、片手が無い事を隻腕(せきわん)と言います。

ジム・アボットは幼い頃から右手が無い、というハンディキャップを乗り越え、ピッチャーとして

メジャーリーグで大活躍した名選手だったのです。


(言葉で説明出来るかわかりませんが)アボットはどの様にして隻腕で投げたのでしょうか。


アボットは投球の時、右手にグローブを引っ掛ける形で乗せ、左腕で投球をします。

投げ終わった後、すぐに左手でグローブをはめ、ゴロが転がってきた場合はそのボールを

キャッチします。すぐさま右手のわきでグローブをはさみ、左手でボールを掴むと、

それをファーストベースに投げます。


これを「グラブスイッチ」と言います。


以上の動作を、物凄い速さで行いますので、普通のピッチャーがゴロを処理する時間と

全く変わらなかった、どころか、平均以上の守備能力を持っていたと言います。


アボットの高校時代に、心無い対戦相手が「全てピッチャー前のバント攻撃」でアボットの

弱点を突こうとしましたが、これらのゴロを全て処理してアウトにしてしまった事もあるそうです。


小さい頃から右手が無かったアボットに対し、両親は「好きな事をしなさい」とアドバイス。

それで選んだのが「野球」だったのです。


高校時代のアボットは、ピッチャーとしてだけでなく、バッターとしても優秀な成績を残しています。

ホームランも7本打ったそうです。アボット自体も打撃は大好き、と語っています。


この後、メジャーリーグのトロント・ブルージェイズからドラフト36位で指名されますが、

アボットはこれを断り、ミシガン大学に進学する事を決めます。

この理由は、この指名が明らかに「興味本位、客寄せが目的」だったからです。


大学時代のアボットは全米チームにも選ばれ、日本や、世界最強と言われるキューバ相手にも

投げています。ソウルオリンピック代表として決勝戦で日本相手に投げ、後のチームメイトと

なる、野茂英雄と投げあった末、アボットの大活躍のおかげで金メダルを獲得します。


その年のドラフト(正確にはその年の6月)では、カリフォルニア・エンゼルスからドラフト1位

指名され、メジャーリーガーとしての第一歩を歩み始めます。


メジャーリーグでは当たり前の事なのですが、どんなに期待されて入団した選手でも、

実力的にプロに追いついていなければ、キャンプ等で結果が残せなければ、

メジャーリーグの下のマイナーリーグで訓練を積んでからメジャー昇格、が当たり前です。

しかし、アボットは実力を見せつけ、入団以来一度もマイナーを経験せずにメジャーに定着

しています。


1年目のアボットは12勝を上げ、実力を見せ付けます。

ただの話題集めだけでは無かったのです。


2年目に10勝、3年目に18勝をあげると、カリフォルニアのファンたちはアボットをエースとして

心より応援する様になります。


ヤンキースに移籍した1994年には、なんとノーヒットノーランを達成しています。

1本もヒットを打たれずに完封したのです。これはやろうと思っても中々出来ない大記録です。


結局アボットは、1998年に引退するまでに87勝まで勝ち星を延ばし、

惜しまれながらメジャーリーグを去っていきました。


人は彼の事を、「奇跡の隻腕」と呼びます。



【私にとっての"ジム・アボット"】


ジム・アボットの存在を知ったのは、私が中学生の時でした。

どんなに私が格好を付けても、

『ハンディなんて関係無い!腕が無い事なんて気にしない!』

なんて青臭い言葉は言えません。

彼に右手が無いのは事実なのですから、

そこから目を背けて話すわけには行かないのです。


『腕が無くたって、足が無くたって同じ人間なんだから、気にしちゃいけない!』


なんて事を平気で言えるエセ教育者が良くいますが、賛同出来ませんね。

第一、ハンデを持ちながら努力をして生きているその人に失礼です。

どう見たって同じじゃないです。同じじゃないのに、五体満足な人に比べて、

全く遜色が無い程に『何かが出来る』人が、

五体満足な人と『同じ』わけがないじゃないですか

ハンデを抱えた人に対し、大変失礼な言い回しです。


教育者(両親も含めてですが)は、ハンデを抱えてがんばっている人には、

素直に「あの人は凄いんだ」と教えてあげる事が必要だと思います。


ソウルオリンピックで見た彼は、私に強烈なインパクトを与えました。

上に説明した「グラブスイッチ」の素早さに驚愕しました。


当然、学校ではアボットのマネをしました。

野球部の左利きの同級生にグローブを借りて、グラブスイッチの練習をしました。

先に説明した様に私はサッカー部でしたが、野球部とは練習場が隣りなので、

良く野球部の人たちとも遊びました。


私は両利きです。

ご飯を食べる、字を書く、ボールを投げる、ボールを打つ、ボールを蹴る、受け取る、

等を全て両方で出来ます。

小さい頃に「石原慎太郎が両手で字を書いた」という話を聞いたのと、

左右均等に腕を使うと、脳味噌のバランスが良くなる、とどこかで聞いたからなのですが。


よって、私にとって左で投げる事は「不自然」な事でも何でも無かったわけです。

それを理解して頂いた上で、当時「許せない出来事」をお話します。


私は素直に「ピッチャーとしのアボット」に感動し、当然ハンデがある事を乗り越えている

そんな素晴らしさにも感動し、グラブスイッチを使いながら、サッカー部の練習が始まる

前の時間を、野球部の人たちと一緒に遊んでいました。


私が「健常者」であるのにも関わらず、「アボットのマネ」をしている事が許せなかったの

でしょうか、傍を通りかかった数学の先生(野球部・サッカー部どちらの顧問でもない)が、


「お前はハンデがある人を馬鹿にしているのか?」


と言いながら私を殴りました。


納得の行かなかった私は、

「何故ですか?単純にアボットが凄いと思ったから、アボットのファンになったから真似を

しているだけですよ?江川のファンなら江川のマネをするし、掛布のファンなら掛布の真似をする。」

と答えました。


するとその先生は、

「アボットはハンデがあるんだ。お前なんかにマネされたいとは思わない。きっとそれを知ったら

アボットは悲しむはずだ!大体お前は右利きだろ?右利きのお前が左で投げている時点で

不自然だ。馬鹿にしているからそうするんだろ!」

等と全くわけの分からない説明をします。


「アボットは自分の真似をする人間がいると知ったら、喜ぶと思います。

ピッチャーとしての本当の実力に目を向けないで、右手が無い事だけに拘っているのは、

つまりハンデがある人を馬鹿にしているのは先生じゃないですか?」


私がそういった瞬間、私はもう一度殴られました。


恐らくこの様な人は、乙武さんを見ても、『五体不満足』である事以外に何の取り得も無い

人だ、という感想を持ったんだろうな、と思います。


ちなみに私の奥さんの友人で、「義足のボクサー」がいるのですが、

最近フィリピンでデビュー戦を行い、勝利しました。彼は明るいですよ。

何でフィリピン?それは日本では義足では試合に出られないからですって。

この勝利の後、日本のボクシング協会が「レギュレーションの見直しをする」と

発表したそうですが、彼は、

「ああそう。だったら日本に戻ります!なんて言わないよ!ここで戦えるのが幸せ」

ですって。カッコいいですよね。

名前を土山直純と言います。みなさん、応援してあげてください。



最後に言います。

ハンデがある人は、自動的に「可哀想な人」では無いと思います。

自分で可哀想だと思う人は、「ハンデがある事」だけを武器に生きていくしかありませんね。

私だったらそんな人にはなりたいと思いませんし、

人から可哀想な人だとも思われたくありませんが。


なんていうか、何だか「思い出し怒り」をしてしまって、巧くまとまりませんでしたが、

右眼が殆ど見えない私だったら言う権利があるかな?と思って言ってみました。

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2006-07-01

第11回 ヨハン・クライフ

テーマ:サッカー

ヨハン・クライフは、1947年生まれ、オランダ出身のサッカー選手です。


クライフ


ペレ・ジーコ・ベッケンバウアー・マラドーナと共に、スターサッカープレイヤーの中でも

別格の存在として語られるクライフは、決して「優しい人」「良い人」と言われるような、

万人に好かれるタイプの性格の持ち主ではありませんでした。

しかし、強烈なカリスマ性で周囲の人間を納得させてしまうタイプの選手だったのです。


サッカーには当然ポジションという物があります。

11人中唯一手を使ってゴールを守るゴールキーパー(GK)。

ゴール前で敵からの攻撃を交わし、前線へボールを送るディフェンダー(DF)。

守備と攻撃を繋ぎ、戦略的な司令塔となるミッドフィルダー(MF)。

前線でボールを貰い、数多くの得点をあげるフォワード(FW)。


野球ほどの厳密なポジション性がサッカーにあるわけではありませんが、

ある程度の「役割」が決まっているわけです。


しかし、オランダ代表のミケルス監督は、あえてこの「ポジション」の枠に拘らない、

「トータルフットボール」を提唱しました。

トータルフットボールは、状況に応じて選手たちが何度もポジションチェンジを繰り返し、

時にはMFがゴール前のボールを守り、時にはDFが攻撃する場合もあり、と

野球等では出来ないサッカーならではの理想を掲げました。

(別に試合中にポジションチェンジを審判に告げるわけではありません)


ただし、トータルフットボールは、戦術的に理想ではありますが、

これを実現するためには、フィールド上の全ての選手が全ポジションをこなせる

体力と技術が必要とされる為、簡単に実現出来る物ではありません。


ヨハン・クライフはこれを体現化した、初めての選手だと言われています。


フィールド上を縦横無尽に走り回り、時にはボールをカット、時には自分でゴールを決め、

同時に味方チーム全員に攻撃・守備の指令を送ったのです。


走り回り、と書きましたが、実際にはクライフは走る事の少なかった選手です。

状況に応じてダッシュをする事はありますが、無意味に走り回って体力を消耗する様な

タイプではありません。「有効に走る」事がクライフの信条だったのです。


実際にクライフは、

「サッカーでは、ダメな奴ほど走り回る。走る量が多いなんて自慢している奴は、

ヘタクソの証拠だ。だから相手を走り回らせて体力を消耗させろ」

と公言した事もあります。


このクライフのプレースタイルから、時には「わがままな男」と言われた事もありますが、

身長175センチ、体重70キロの華奢な体でこれを体現化できる強い精神力もクライフには

ありました。


この様に書くと、まるでクライフが一度ボールを持ったら離さない選手の様に見えるかも

知れませんが、そうではありません。

試合中のクライフのボール支配時間は非常に短く、状況を判断して的確に味方に

ワンタッチパスを送るプレーがクライフの特徴でした。


せっかくチャンスでボールを掴んでも、ぐずぐずしているうちに敵の布陣は整ってしまうかも

しれませんし、そうなる前に「チャンスをチャンスとして継続させる」判断能力があったのです。


クライフには様々なニックネームがついています。


まず、「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」。

ワールドカップ西ドイツ大会のブラジル戦で、ゴール前で空中に飛んだボールに対して、

後ろから猛ダッシュで駆け寄って来たクライフが、ジャンピングボレーシュートを決めました。

ここからこの名はついています。


そして、「ジーザス」。

ジーザスとは、イエス・キリストの英語読みの事です。ヨハン・クライフ(Johan Cruijff)の

頭文字がJesus Christと同じ「J.C」である為につきました。

当時公演されていた「ジーザス・クライスト・スーパースター」という演劇から、

「ヨハン・クライフ・スーパースター」と呼ばれる事もありました。


そして、サッカー経験者であれば、習い始めた頃に必ず教わるテクニックがあります。


ドリブルをしながら相手の方向に走り、ストップしながら足の裏でボールを止め、

軸足(右利きの人ならば左足です)の後方から通すように、斜め前方にインサイドステップで

キックをして、味方にボールを送る。


言葉だと中々表現し難いですが、サッカー選手であれば必ず出来る(出来ないとならない)

テクニックのひとつです(私ももちろん出来ます)。


この技を「クライフ・ターン」と言います。

クライフが発明したこのテクニックが、後世のサッカー選手の「基本技」となってしまったわけです。

フランス代表のジダンが見せる「マルセイユ・ルーレット」と混同されがちですが、

こちらが先であり、そしてどのサッカーの教本にも載っているテクニックなのです。


ジーコと言えば背番号10番。ロナウドなら9番。カフーは2番。


サッカーは11人ですから、1番から11番までが「レギュラー」の番号です。

現在では12番以上の選手がレギュラーである事など全く珍しくないですが、

(例えば日本代表の中沢は22番、川口は23番、柳沢は13番ですよね)

これはクライフが最初に「14」を好んでつけた為だと言われています。


クライフは、「14」を付けているのにレギュラーと言われる選手はまだいないので、

「14=クライフ」として、自分の番号にする為にあえて「補欠の番号」を選んだと言います。

『どうして14番なの?』と聞かれた時、クライフは、

「10番はペレの番号だから。僕が10番をつけたら紛らわしい。僕の番号が14なんじゃなくて、

14は僕なんだ。」

と答えています。


サッカー界に数々の業績を残したクライフは、指導者となっても後のオランダを代表する

ファン・バステンやライカールトといった名選手たちを育て上げました。


まるで理想のサッカー選手を書いた様に思えるかも知れませんが、クライフは実在したのです。


【私にとっての"ヨハン・クライフ"】

私は小学校・中学校時代にサッカーをやっていました。

と言っても、小学校時代はクラブ活動でサッカーをしていただけで、本気でやっていたわけでは

ありませんし、どちらかと言えば野球が好きでした。


中学校に入ってから、何故かサッカー部に入部し、「何のテクニックも無い」まま、サッカー選手として

のキャリアをスタートしました。


周りの友達はみんな小学校時代からサッカーをしていた人ばかりですから、

自分のヘタクソさが際立ち、大変恥ずかしい思いをした事を覚えています。

当時の私は(今では見る影も無いですが)、短距離走は得意でも、長距離は苦手なタイプだったのです。

つまり持久力が無く、長い間走っていると息切れをしてしまう、情けない選手でした。

理由は、心臓があまり強くなかったからなのですが。

(キャプテン翼の『ガラスの貴公子 三杉淳』のモデルはクライフだと言われています。)


私の中学校の公式ユニフォームは青でした。

これともう一つ、サブユニフォームを各学年毎に相談して決めて良い、と言われ、

私たちの学年が選んだのはオレンジ色のユニフォームでした。


オランダ代表のユニフォームを模倣したオレンジに決定した理由は、

サッカー部の同学年の中で一番リーダー性があった人間(後にキャプテンになりました)が、

クライフの大ファンだったのです。


まだまだ「なんちゃってサッカー選手」だった私は、彼とサッカーの話をする時に、

「クライフ」について多くの逸話を聞き出しました。

こうして、「短距離ダッシュ」を有効に活かしたサッカープレーを確立しようと考えたのです。

私のポジションはフォワードだったのですが、状況によってはフィールド上で歩いている事も

ありました。顧問の先生(サッカー未経験者)は「走れ!走れ!」と何度も私を注意しましたが、

キャプテンである彼が「○○(私の名です)はそのプレーで良いんです」と庇ってくれました。


彼がボールをキープして前線の私にパスする時に、私はダッシュをする、

こんなプレースタイルを貫きました。


公式ユニフォームでは私が背番号9番、彼が7番。

私は7番が好きで、彼が好きだったのは14番。

(今では出来るかどうかわかりませんが)サブユニフォームでは背番号をチェンジし、

私が彼の7番をつけ、彼は14番を付けました。


オレンジ色の14番。

彼がサッカーをやる切欠にもなった憧れのゼッケンだったのです。


クライフのプレーを考えると、ワールドカップで惨敗をした日本代表チームへの強烈な

皮肉にも聞こえてくるように思えます。


「1試合で12キロ走っちゃう」人は、クライフから見ればダメな奴。

パスされたボールをキープして、誰にパスをしようかウロウロと迷ってしまう帰化ブラジル人も、

クライフから見ればダメな奴。

せっかくのチャンスに前線でボールを貰って、フォワード同士でパスをし合う2トップも、

クライフから見ればダメな奴。


クライフが日本代表監督になったら、頭を抱えてすぐにオランダに帰ってしまうかも知れません。

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2006-06-29

第10回 手塚治虫

テーマ:文化人

手塚治虫(手塚治 てづかおさむ)は、1928年生まれの、漫画家・アニメーション作家です。


手塚


兵庫県宝塚市(宝塚歌劇のお膝元)に生まれた手塚は、『漫画の神様』と呼ばれ、

藤子不二雄や石ノ森章太郎など、後の漫画家達に大きな影響を与えました。


大阪大学医学部を卒業し、博士課程まで修了している手塚は、医師免許を同時に持っています。

漫画家の社会的地位が低い時代に生まれましたので

(当たり前です。手塚が漫画の地位を上げたのですから)、

医師と漫画家の掛け持ちも考えましたが、結局漫画家のみで生計を立てる事を

決めました。


手塚治虫は、日本で始めて「漫画プロダクション」を設立し、絵を描く漫画家以外に、

ベタを塗る、トーンを貼る、背景を描く、等を行うアシスタントを採用した初めての人です。

これにより、全盛期の手塚は漫画を100ページ以上描く月もあったと言われています。


また、日本で初めて「アニメーション」を作成し、後の日本アニメ界に大きな影響を与えました。

それまでは、テレビアニメを毎週放送するとなると、作画や色塗りの作業が間に合わず、

よって不可能だと言われていましたが、こちらも作業を分担する事によって実現しています。

尚、手塚最初のアニメーションは、かの有名な鉄腕アトムです。


手塚の曽祖父は緒方洪庵の適塾に学んだ医師、祖父は関西大学創設者のメンバーとなった

一人です。家系として、学問が大好きな家柄に生まれたと言えます。


その出生地の関係で、幼少の頃から宝塚歌劇に親しみ、

その思い入れは「リボンの騎士」のモデルが、タカラジェンヌの淡島千影である事からもわかります。

小さい頃は体も小さく、男の子よりも女の子と遊ぶ事が多かった様で、それ以外は昆虫を写実的

に模写したり、4コマ漫画を描いては友達に見せたり、とインドアな生活を送っていました。

尚、手塚治虫の死後、宝塚歌劇では「火の鳥」の公演が行われています。


ペンネームの『治虫』は、小学校の頃に思いついたと言われています。

昆虫が大好きだった手塚治少年は、自分の名前に、昆虫の「オサムシ」からヒントをもらって、

虫の一字を付け足しました。


手塚の漫画家としての人生は、戦後間もない頃に「マアチャンの日記帳」を新聞連載した所から

始まっています。


のち、奈良県立医科大学で医学博士号を取得しながら、数多くの漫画連載を続け、

有名な「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」を世に送り出して一躍人気漫画家となります。


ウォルト・ディズニーのアニメーションに感動し、『いつかは国産のアニメ映画を作りたい!』

と思い続けた手塚は、夢の実現の為に、忙しい毎日を過ごしながらも準備を始めます。


手塚は自分の漫画プロダクションである、『虫プロダクション』を設立し、自分が社長として指揮し、

数々のテレビアニメやアニメ映画を世に送り出しましたが、1973年、設立から10年で倒産し、

世の中では「手塚の漫画の時代は終わった」と言われるようになりました。


実際に世間では、手塚が書くようなファンタジー的な漫画ではなく、「巨人の星」や「あしたのジョー」

の様な熱血スポーツマンガが流行していました。手塚治虫の漫画は次第に求められなくなりました。

尚、手塚治虫はその様な「熱血スポーツマンガ」に対して、「どこが面白いのかわからない」

公言した事もあります。と言うよりは、自分以外で世の中から受けている物を見ると、嫉妬して

しまう、そんな人間らしい一面もあったようです。


そこで、『手塚治虫に最後の花道を作ってやろう』と考えたのが、

『週刊少年チャンピオン』を発行している、秋田書店でした。

秋田書店の担当者は、手塚治虫の好きなテーマで描いて欲しい、とお願いし、

そのテーマとして選ばれたのが『医学』だったのです。


※ 尚、手塚が医学を目指した理由の一つに、『医師であれば(戦争の)徴兵から免除される』

あったそうです。


こうして連載を開始した「ブラックジャック」は、瞬く間に大ヒットし、これが手塚の代表作とまで

言われるようになりました。「最後の花道」のつもりが、後世、「マンガの神様」とまで呼ばれるように

なった手塚治虫を作り上げてしまったのです。


これ以降、手塚治虫は子供向けのマンガではなく、「火の鳥」「アドルフに告ぐ」「ブッダ」等の

大長編ヒューマニズム作品を描く様になり、作品の質に変化が見られるようになりました。


手塚の超人的な「マンガの神様」ぶりには以下の様な物があります。


① カラー原稿の色塗りをアシスタントに電話で指示した。手塚の手元に原稿が無い状態で、

  「1コマ目の左上のビルは・・・」「4ページの6コマ目の女の子の洋服のリボンは・・・」など。

  見なくとも、自分が描いた原稿は全て覚えていたそうです。

② 札幌行きの飛行機の中で原稿を描いて、到着地から東京に完成原稿を送った。

③ 自分の会社である「虫プロダクション」の設立準備をしながら、月100ページ近い連載

  こなし、その上医学博士号を獲得した。


まだまだあると思います。


余談ですが、『マンガを読むと頭が悪くなる』と言って子供にマンガを読ませなかった

世の親たちは、手塚治虫が医学博士号を獲得すると、何も言えなくなってしまった

というエピソードもあります。「でも、手塚先生はお医者さんだよ?」とお母さんに反論する子供たち

の顔が目に浮かびます。


死後20年近くが経ちますが、手塚治虫は「マンガの神様」として神格化されています。


【私にとっての"手塚治虫"】

手塚治虫のマンガに始めて触れたのは、ブラックジャックでした。

厳密に言えば、鉄腕アトムやジャングル大帝、マグマ大使などの「絵」には触れていました。


うちには8歳離れた兄がいましたので(いや、まだ生きてますけど)、その兄が買ったと思われる

漫画が転がっていたのです。


しかし、「読む」というつもりで読んだのはブラックジャック。最初の頃はコミックスの表紙に

「恐怖コミックス」等と書いてあり、楳図かずおなんかが書く漫画と同じ扱いだったわけです。

確かに、人間の内臓なんかが出てくる漫画は珍しかったですからね。


のち、「ヒューマンコミックス」と名前が変わり、ブラックジャックはヒューマニズムを題材とした

漫画に変わって行ったわけです。


手塚治虫の絵は巧いか否か。

人それぞれ、でしょうか。

私はフリーハンドで正確な曲線や直線が描ける手塚の画力は素晴らしいと思いますが、

人によっては「書き込んである絵」を巧い絵と評価する人もいるわけで、そういう意味では

手塚の絵は「簡単な曲線と直線の集まり」にしか過ぎないわけです。


しかし、手塚を擁護させてもらえれば、手塚の画力こそ、「本当の巧い絵」だと考えています。


なんでもそうですが、「多くを伝えようと思って多くを書けば(描けば)伝わる情報量も増える」

わけです。逆に、あまりにゴチャゴチャし過ぎると、かえってわからなくなる場合もあります。


手塚治虫は小さい頃に、「昆虫の絵」を正確に、リアルに、描写する事が大好きで、

その画力は「写真か?」と見紛う程の正確さです。


ピカソなどもそうですが、描いて描いて描きまくって、あの絵の境地に達したのだと思います。

手塚治虫の絵を模倣しようとしても、どうしても模倣は模倣にしかならない。

ですから、「あんな簡単な線の集合体は誰にでも描ける」等と考えるのは大間違いです。


手塚治虫は劇画が嫌いだったようです。

ゴルゴ13のさいとうたかをや、巨人の星の川崎のぼるの絵を名指しで批判した事もあります。


訓練を何度も重ねた上での手塚の絵。

女性の絵を例に取れば、描き込みが激しい劇画よりも、

単純な線で描かれた手塚の絵の女性の方が数倍魅力的に見えます。

これを「デフォルメ」というのです。リアルに描くよりも、何倍も難しいのです。


これを読んでいる(お父様・お母様世代ではなく)中学生・高校生世代で、

「手塚治虫の絵は簡単だ。手塚治虫は言われる程大した事は無い」と仰っていた人がいました。

本気で悲しくなってしまいました。本当にそうでしょうか?


もう一度手塚治虫の絵(漫画)を見てください。

その絵を、あなたは線引き定規や、コンパスなしで描けますか?

そして、鉛筆の下描きなしで、いきなりインクでペン入れできますか?

そして、その絵を、週に100枚描けますか?


それが出来るからこそ、手塚は「漫画の神様」なのです。


ちなみに私が一番好きな手塚作品は、「七色いんこ」です。

どの様な話かは詳しく書きませんので、もし時間があったら読んでみてください。

そして、全巻(最終回まで)読んで見てください。

手塚治虫の「構成力」に驚くはずです。


(あまり名指しで批判はしたくないのですが)

最近の漫画は、興行収入を優先し、編集者の一存で「行き当たりばったり」な展開になる

漫画が少なくありません。おそらく、この漫画の10回先の連載の内容を言え、といわれても、

「まだ考えていません」としか答えられないだろう、と思われるような漫画です。


その様な漫画を読んで慣れてしまっている人ならば、

手塚治虫の長編漫画を読むと、素直に彼の構成力と、アイディアの壮大さに驚くと思います。


いや、読んで、気がついてくれれば良いのですが。

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2006-06-28

第9回 アイルトン・セナ

テーマ:F1パイロット

アイルトン・セナ(アイルトン・セナ・ダ・シルバ)は、1960年生まれの、

ブラジル出身のレーシングドライバー(F1パイロット)です。



ブラジルの富豪の息子として生まれ、1994年サンマリノGPでクラッシュ事故を起こして

この世を 去った、天才ドライバーです。(現在は引退してしまいましたが)F1中継の実況として

有名だった、 古館伊知郎は、彼のテクニックや風貌から『音速の貴公子』と名づけました。


小さい頃から豊かな環境の中で育ったセナは、幼少の頃からカートで遊ぶようになり、

13歳でレース に初参戦17歳で初めてレースで優勝しました(南米カート選手権)。

翌年、日本カート選手権に参戦するため、初来日を行っています。


その後、フォーミュラ・フォード1600、フォーミュラ・フォード2000とステップアップし、

1983年にイギリスF3でチャンピオンを獲得すると、F1への参戦を表明しました。

最初のシーズンである1984年は最高2位で結果未勝利に終わりましたが、年々徐々に

ランキングを 上げ、1988年に初のチャンピオンを獲得すると、引退(死亡)するまでに

合わせて3回のチャンピオンに輝きました。


1987年に所属していたロータスチームにホンダがエンジンを供給すると、

移籍したマクラーレンにも ホンダエンジンが使用され、その後もセナはホンダと密接な関係

を結ぶようになります。

例えばホンダがNSX(国産では珍しいスーパーカー)を開発する際、

セナをテストドライバーに選んだり、 その他ホンダの車やバイクの広告などにも

多く出演しました。


なぜここまでセナがホンダに拘ったか。それは本田宗一郎がセナを気に入っていた事もあり、

『君の為にこの世で最高のエンジンを作るからね』と言われて、感動したからだと言います。

この本田の言葉や、日本でのファンの多さもあり、セナは「日本は第二の故郷」と公言するように

なります。 1991年、本田宗一郎の死を聞いたセナは、ガックリと肩を落として号泣したと言います。


近年までF1でチャンピオンに君臨し続けたシューマッハと比べると、優勝回数やチャンピオン

の回数が少ないのは、若くして(と言っても34歳ですが)この世を去ってしまった以外に、

強力なライバルたちの存在もあります。


マクラーレンでチームメイトだった事もあるアラン・プロストとは、ライバルという言葉だけでは

片付けられない程の憎しみに近い確執があったと言われますし、プロスト引退後は

ナイジェル・マンセルと激しいデッドヒートを繰り返しました。

また、(セナにとっての)晩年は、台頭してきた若手のミヒャエル・シューマッハや

デーモン・ヒルも、大きく壁として立ちはだかりました。


プロスト・マンセル・セナ、このスーパースターが同時に君臨した1980年代後半のF1は、

史上空前の ブームを迎え、日本でも大人気となりましたが、

この日本人のF1人気を背負っていたのは、他ならぬアイルトン・セナだったのです。

優しくて甘いマスクで、落ち着いた中に時折見せるやんちゃな態度

男女問わずに 多くのファンが虜になりました。


1994年。セナは名門ウィリアムズ・ルノーに移籍しました。

この頃には、マシンの性能の向上や、機体の材質の変化などで、

『F1では事故が起こっても死亡事故につながる事はない』

とまで言われる様になっていました。

その油断や甘えが、この年の開幕から大きなクラッシュ事故を多発させていました。


同年の第3戦(F1は16戦で戦います)サンマリノGP

予選の4月30日に、オーストリア出身のローランド・ラッツェンバーガーが事故死

他にルーベンス・バリチェロも事故で大怪我を負うなど、この年のサンマリノは大荒れでした。


5月1日本戦でポール・ポジション(先頭)スタートを決めたセナでしたが、

開幕から2戦連勝と 波に乗る若手のシューマッハの猛追を受け、

タンブレロ・高速コーナーでコースアウトし、 コンクリート製の壁に激突し、

マシンは大破、セナはヘリコプターで病院に搬送されました。


数時間後、アイルトン・セナの死が世界に向けて発表されました


※ ヘルメットの頭部を何かの破片が撃ち抜いている事から、本当は即死だったようです。

発表を数時間遅らせたのは、関係者への影響と、レース終了を待ったからだと言われています。

ブラジルでは、セナの死を聞き、喪章をつけてプレーするサッカー選手や、

年内を喪服で過ごした人もいたそうです。

セナ死亡のニュースが流れた瞬間、プレー中のサッカーの試合が中断された事は有名です。


大破したマシンの中から、前日に事故死したラッツェンバーガーの母国である

オーストリアの国旗 が発見されています。

彼の母国の国旗を背負ったレース終了後、勝利の報告をラッツェンバーガーに

届けるつもりがあった、との事です。


セナが「天才ドライバー」と言われる一つの理由に

『どんな状況でも無線を使える』事がありました。


マシンのパイロットとピットは無線で結ばれ、例えばタイヤ交換や燃料補給の打ち合わせ等を

行うのですが、カーブでは微妙なハンドル操作が必要となるので、

普通のドライバーは直線、 特に「バックストレート」と呼ばれるメインスタンド前の直線道路

『無線のやりとり』をします。

しかし、セナはカーブでハンドル操作をしながらでも無線連絡をする事が出来たそうです。


ただ、実際にはこの事が事故に関係していると言う事実はありません。

何故ならば、セナはタンブレロコーナーで全くハンドルを切らずに真っ直ぐに壁に激突

しているので、ハンドル操作ミスではない、何か別の理由が議論されました。


考えられるマシンの設計ミスや、その他色々な条件を考慮しながら、

この「セナ激突事故死事件」イタリアの裁判所で刑事裁判が行われるまでの大問題に

発展しましたが、結果的に関係者は 無罪となっています。


スーパースターを失ったF1は、急遽レギュレーション(規則)の改定などを行い、

より安全にレースが行える為に様々な改革が行われる事となりました。


セナが残した資産は計り知れません。住んでいた母国ブラジルの自宅は30階建てのビル

移動の為のジャンボジェット機など富と名声を手にしたセナが、

この世に残してくれた最大の遺産は、安全運転や車の設計など全てを含めた、

『交通安全の気持ち』だったのではないでしょうか。


セナほどの天才ドライバーでも、事故で命を奪われてしまうのだ、と言う事実です。


尚、母国ブラジルでは、セナが死亡した5月1日を、『交通安全の日』と定めています。


ブラジルは優秀なサッカー選手が『国民的英雄』として奉られる事が多いですが、

アイルトン・セナはそのサッカー選手達でさえ尊敬の念を置く、祖国最高の英雄だったのです。



【私にとっての"アイルトン・セナ"】


個人的な思い入れが多すぎる人ですから、短く書ける自信が全くありません。

『大好きだった』人です。なんとかまとめてみたいと思います。


セナは私の中学・高校生時代に日本にやってきたF1ブームの担い手でした。

週間少年ジャンプ(集英社)が、セナの所属するマクラーレンホンダのマシンに『広告を載せた』

と聞き、その広告料が、ほんの小さなステッカー分ぐらいのスペースに過ぎないのにン千万とか

ン億とかを聞き、『F1は金の掛かる世界で、金の儲かる世界なんだ』と中学生の私は思いました。


F1には、以前ジル・ビルヌーブというスター選手がいました。彼もレース中の事故で死亡していますが、

「ビルヌーブがF1最後のスーパースターで、彼ほどの人は現れない」と言われていた所に、

アイルトン・セナは現れました。


セナが事故死した日、私はその様子をテレビで観ていました。

大学1年生の時でした。

自分とは全く縁の無い赤の他人の為に、『祈った』最初で最後の経験だと思います。


その後の追悼番組で、『ニッポンノミナサン、マタアイマショウ。バイバイ!』とニッコリ微笑む

セナの姿を見て、不覚にも泣いてしまった記憶もあります。


通常の「追悼番組」と言うと、関係者が登場し、これ見よがしな暗い顔で、

わざとらしく泣くマネをするそんな『儀式』にしか思えませんが、セナの追悼番組は異様でした。

列席者が全員号泣し、思い出を語ろうとしても声に出せない。

本当に惜しい人を亡くした時、「あの人はこんな良い人でねぇ・・・」なんて発言出来る方が

おかしいですよね。『番組』としては成り立っていませんでしたが、セナの偉大さと人気が

良くわかった瞬間でした。


道路交通法の改正で、携帯電話の使用等に関する規則が強化されました。

しかし、現状では運転しながら携帯電話を使用している人が全滅していないのが事実です。


携帯電話で話しながら平気で車を運転するドライバーは、何の自信があってそうするのでしょうか。


話に夢中でウィンカーを付けずに交差点を曲がる、画面に目を取られて後ろから玉突き、

またはその未遂。話に夢中で信号が青に変わっているのに発進しない。その他いろいろ。

本気でイライラする瞬間です。


「自分だけは事故に遭わない」とでも思っているのでしょうか。

「自分の運転テクニックは最高だから、携帯で話すくらい何ともない」とでも言うのでしょうか。

そんな人にはこう言いたい。

「セナの100倍運転テクニックがある自信があるのなら、そうしてくれ」と。


いやいや、そうではありません。

運転テクニックがあったとしても、車のトラブル等で事故に繋がる場合もあるわけです。

セナの事故がまさにそうだったわけですから。


別に交通安全布教に努めているわけではありません。

ただ、『携帯で喋りながら運転するドライバー』を見る度に、セナの事を思い出すだけです。


F1(セナ)が大好きだった私は、あの年の5月以来、F1に興味がなくなりました。

そんな人、私以外にもまだまだいるはずです。


誰からも愛され、誰からも文句を言われない実力を持ち、

死んだ時に本気で泣いてくれる人が何万人もいる、そんな人になれたら良いな、

とは思いますが、私を含めて、普通の人にはそんな事は無理でしょう。

ただ有名になっただけでは、死んだ時に人は泣いてくれません。

でも、少しぐらいは頑張ってみたいと思います。

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2006-06-26

第8回 福澤諭吉

テーマ:文化人

福澤諭吉は、1835年生まれ、明治時代に活躍した思想家・教育者です。



今回は『皆さんの知ってる顔』ではない、若い頃の肖像画です。

福澤諭吉は慶応義塾大学の創設者である事や、『学問ノスゝメ』の著者

そして一万円札の肖像画で知られる人物で、

大阪堂島中津藩(大分県)蔵屋敷下級藩士の子として生まれました。


福澤は大阪から一度大分へ帰りますが、1854年、日米和親条約が結ばれた年、

オランダ語を学ぶ為に長崎へ出ます。この当時の『外国語』と言えばオランダ語だったのです。


後、大阪に戻り、緒方洪庵の適塾で学びます。適塾は本来医学の為の学校でしたが、

福澤は血を見るのが嫌いなため、医学よりもオランダ語を学ぶつもりで在籍しました。

後に緒方の後を継いで適塾の塾長となっています。


1858年、日米修好通商条約を含む、安政の五カ国条約が結ばれた年、福澤は江戸に出ます。

ここで自ら蘭学を教える塾を開きます。これが現在の慶応疑義塾の始まりだと言われています。


1860年、勝海舟を指揮官とする、アメリカ行きの軍艦咸臨丸に同乗し、アメリカ合衆国の文化や

習慣等を吸収します。(当たり前ですが)日本との文化の違い・そしてアメリカ合衆国の勢いの良さ

に驚いた福澤は、心の中で「これからはオランダ語よりも英語」と密かに思い始めます。


例えば議会や大統領制度、学校制度や病院、銀行、保険制度など、日本には無く、

そして手本と出来る物がアメリカ合衆国には沢山ある事に気が付いたわけです。

福澤は、『日本人で初めてアメリカにかぶれた人』と言っても良いと思います。


帰国後の1868年、蘭学塾を『慶応義塾』と改め、オランダ語を捨て、英語教育をはじめとした様々な

教育活動に専念するようになりました。勿論名称は当時の元号から付いたのですが、

現在では「1858年=蘭学塾創設の年」が慶応創設の年とされています。


福澤諭吉は下級藩士の息子ですから、江戸時代までは武士だったわけです。

しかし、「物を書く人・考える人」で剣など扱えないイメージがありますが、それは間違いです。

普段から剣道の鍛錬をしていた為、1対1で戦えば史上最強、とまで言われた事もあります。


早稲田と言えば『慶応のライバル』のイメージがあり、『早慶』は今でも『仲の悪いものの代名詞』

になっていますが、創設者の大隈重信と福澤諭吉はとても仲が良かったと言います。

ちなみに福澤と仲が悪かった人として有名なのが勝海舟です。


「天ハ人ノ上ニ人ヲ作ラズ」で有名な『學問ノスゝメ』の著者でもありますが、福澤にはその他にも

数多くの著書があります。


『西洋事情』『文明論ノ概略』などがそれです。


また、時事新報という新聞に載せた論文は、

「日本がアジアの一国を脱し、西洋に倣うべきである」という内容の物で、

のちに、『脱亜論』と言われるようになりました。

長い間中国の思想や文明に頼ってきた時代を脱し、日本がアジアのリーダーとなるべきである、

と書かれた論文に対し、「侵略思想がある」と非難された事もありましたが、

現在の日本を状況を見れば、福澤の考え方は先見の明があったとも言えます。


福澤諭吉の屋敷は現在の慶応義塾大学三田キャンパスの中にありました。

また、現在ではキャンパスの中に「終焉の石碑」が建っています。

【私にとっての"福澤諭吉"】

福澤諭吉を語る場合、私が慶応義塾出身者である事はどうしても外して話すわけには行きません。

高校時代、イメージのみで慶応を志望した私には、詳しく福澤がどんな人物かはわかりませんでした。

福澤の思想も考え方も人物も、慶応義塾の歴史も詳しく分からずに志望した事を覚えています。


高校時代劣等生だった私は、諸事情により高校の担任教師と話す機会が多くなり、高校3年の夏、

志望校を慶応を決めた後、『学問ノスゝメ』や『福翁自伝』を読めと担任に薦められ、本を渡されました。


担任の担当教科は現代文だったのですが(何故か空手部の顧問をしていました)、


自分の思いを届けたい、その相手の事を良くも知らずに告白するのは相手に失礼だ


と言われた事から、福澤や慶応の事を一生懸命勉強した事を覚えています。


実際に慶応の入試では、英語や日本史で慶応や福澤の歴史が出題される事も多かったため、

これも入試対策となっていた、と後々に気が付きました。


現在予備校の講師として高校生を大学に導く立場として、私が高校生時代に受けたアドバイスを

そっくりそのまま伝えています。確かにその通り。好きな人に対して、自分がいかに好きなのかを

判って貰うためには、相手の事を全く知らないのでは伝わるはずもありません。

(これは抽象的な言い方ですが、具体的に言えば『問題の傾向を知り、対策を立てる事』も

『相手の事を良く知ろうと努力する事』ですよね。)


私の慶応の入試会場は、経済・法が日吉キャンパス、商・文が三田キャンパスだったのですが、

奇しくも日吉キャンパス受験の学部は二つとも落ちてしまいました(ただの偶然ですが)。

しかし、偶然では片付けられないひとつの『合格の』根拠もあったにはあったのです。


劣等生だった私が慶応特攻受験をすると聞き、担任はいくつかのアドバイスをくれました。

見た目に合わず胃腸が弱く、プレッシャーにも弱かった私は、極度に緊張すると下痢する癖が

あったのです(汚いですが)。この慶応4学部の受験でも例外なく下痢になった私ですが、

三田キャンパスではトイレに行った後、『福澤終焉の石碑』に御参りし、胸像を触って神頼みならぬ、

『福翁頼み』をしました。この「福澤参り」は気休め程度ですが担任のアドバイスだったのです。

ちなみに担任の先生は、慶応義塾出身者でした。


気持ち悪い話に聞こえるかも知れませんが、三田の胸像の前で、

「先生の下で学ばせてください。その為の準備はそれなりにしてきました。どうかお腹が痛くならない様に」

と願った事を今でも覚えています。


精神論だけでは勿論大学入試は通りませんが、学力を上昇させる努力を最後までしたのならば、

最後は気休め程度でも神頼みをしても良いから、と言われて大変気が楽になりました。


無事合格、入学後、噂に聞いていた

「慶応では福澤以外は全員弟子。先生は福澤だけ」

を、掲示板で「教授・助教授・講師先生の名前の下に君付け」の張り紙を見て実感した時、

改めて志望校に合格出来た喜びが湧き上がってきたのを覚えています。


大学受験をする高校生たちは、是非、自分の志望校を愛して、良く相手の事を知ってから受験して

欲しいと思います。その願いが届いた時、皆さんの人生の中でこれ以上に無いくらいの喜びに

出会える事は間違いありませんから。

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2006-06-25

第7回 セルゲイ・ブブカ

テーマ:陸上

セルゲイ・ブブカは、1963年生まれ、ウクライナ出身の陸上(棒高跳び)選手です。



6m14cmの屋外棒高跳びの世界記録保持者(屋内6m15cm)であり、

10年以上誰も破る者が現れない、『鳥人』と呼ばれた陸上選手です。


旧ソ連時代から国の保護を受けながら棒高跳びの訓練をし、ソ連崩壊後はウクライナの代表選手

として世界陸上やオリンピックに出ました。


世界陸上6連覇など、数々の偉業を持っているブブカは、大会に出ては自分で世界記録を更新

と、まさに独壇場を過ごしてきました。ちなみに彼が世界記録を更新した回数は、35回です。

当時の陸上界では、オリンピックや世界陸上等のイベントがあっても、『棒高跳び』に関しては

『誰が勝つか』ではなく、『ブブカは何mを飛ぶのか』しか注目されないくらい、難攻不落の王者でした。


6mと言う高さが一体どれだけの物なのか。(名前を失念してしまったのですが)世界陸上の中継中、

あるテレビ局のアナウンサーはこう言いました。


「6m13cm。

それは歩道橋と同じ高さです。

鳥人ブブカは、一本の棒を持って歩道橋に飛び乗る事が出来るのです。」


素直に「凄い」と思わせるフレーズでした。


ブブカが凄いのは、単に棒高跳びだけに特化した事ではありません。

100mを10秒2で走ります。

幅跳びを8m20cm飛びます。


まさに、「スーパーアスリート」と呼ぶに相応しい身体能力の持ち主でした。


2000年のシドニーでは、かつての雄姿が見られる事はなく、引退しました。

現在では国際オリンピック委員会のメンバーを務める他、孤児施設に通う等の慈善活動を

行っている様です。


その偉業を讃え、母国ウクライナには銅像も建っています。


【私にとっての"セルゲイ・ブブカ"】

  1991年の夏、超大国ソビエト連邦は崩壊しました。私が高校1年生の時の事です。

丁度この夏、世界陸上東京大会が開かれていたのを覚えています。16歳の私には恥ずかしながら、

「ソ連崩壊」が意味する事の大きさを完全に理解出来ずにいました。


  また私はこの年の春、中型二輪免許を取得、夏休みにアルバイトをして貯めたお金でオートバイ(HONDA CBR 400F)を購入し、糸の切れた凧の様に走り回っていました。


  だからどうした、と言われそうですが、私にとってのセルゲイ・ブブカは、

「早くも学校に通うのに嫌気がさした高校1年の夏、いろいろなアルバイトして貯めた金でバイクを

購入し、引き渡されたバイクショップから雨の中を走って帰ってくると、テレビで世界陸上をやっていて、

丁度ブブカの跳躍の瞬間だった」事と、「ソビエト連邦が崩壊した事」をリンクさせた、『あの夏』なのです。


  世界陸上、オリンピック、上にも書きましたが、『棒高跳び』では「ブブカが勝つのは良いとして、

後は世界記録を更新するか」にしか興味が湧かないほどの鉄壁の王者だったのですが、その王座

にも終わりがやってくる事を実感したのは、シドニーオリンピックでした。


  最後の大会として望んだブブカは嘗ての跳躍力も無く、大会後引退を宣言。その瞬間、


「あれから10年も経ったんだ。あの頃自分は高校を辞めようと思っていた。何だかんだで高校は卒業し、

無事大学にも行き、その後何となくこうして働いている。ブブカはあの時から10年間も飛び続けていたんだ。

自分が10年間続けていた事などあるだろうか。このままだと何もしないまま死んでいってしまうかも知れない・・・」


と妙に不安になり、人生を模索するきっかけとなりました。その秋から、私は新しい人生を歩む事を決め、

真剣に生き方を考えるようになったのです。

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2006-06-25

第6回 アレックス・ロドリゲス

テーマ:野球

アレックス・ロドリゲスは、1975年生まれの、大リーグニューヨークヤンキースの三塁手です。



通称A-RODと言われるアレックス・ロドリゲスは、メジャーリーグ最高である、

年俸29億3000万円を手にしているスーパースターです。

A-RODの成績は確かに「メジャー最高」の年俸をもらうに相応しい事は間違いないのですが、

あまりにも高すぎる、と非難の声もあり、"Money Madness(金の亡者)"と呼ぶ人さえいます。


高校時代のA-RODは、野球選手だけでなく、バスケットボール・アメリカンフットボールでも

優秀な選手でした。

特にアメフトでは数多くの大学からスカウトされるほどの優秀なクォーターバックだったのです。

つまり、野球に限らず、卓越した運動神経とセンスの持ち主だったという事です。

(米国では、この様な掛け持ちは珍しくありません。)


1994年にシアトル・マリナーズにドラフト1位で指名され、18歳でメジャーリーグデビュー。

21歳の若さで首位打者を獲得します。尚、この年の記録は打率.358 本塁打36本 打点123点。


シアトル・マリナーズからテキサス・レンジャーズ「10年280億円」で長期契約し、

数多くのファンやマスコミから非難を受けるような事もありました。


テキサス・レンジャーズ時代は3年連続で本塁打王を獲得しましたが、チームは最下位

2003年には、史上二人目である「最下位チームからのMVP(最優秀選手)」に選ばれました。


2004年にはその契約を引き継いだまま、ニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。

これは、A-RODの年俸があまりにも高すぎたからであり、最下位チームのレンジャーズには

かなりの負担となっていたからです。

A-RODがプロ入り以来つけてきた背番号は「3」でしたが、ヤンキースではベーブ・ルースの永久欠番

だったため、すんなりと「13」を選んでいます。

また、彼の凄いところは「遊撃手」という守備的負担が非常に大きいポジションで、

毎年安定した好成績を残す事でした。

ヤンキース移籍後、同じ遊撃手のポジションを守るデレック・ジーター選手との位置争いが注目

されましたが、A-RODはあっさりとジーターに譲り、自分は三塁手となっています。

尚彼が長年遊撃手に拘ってきたのは、憧れの選手が連続試合出場世界記録を持つカル・リプケンJr

遊撃手だったからです。

代理人交渉を使った高年俸取りである事から、「気の強いわがまま男」のイメージがありますが、

実はフレキシブルな考え方が出来る人間である事もわかります。


また、ヤンキースに入団する以前は、優勝争いに関わらないチームで孤軍奮闘する事が多かったの

ですが、毎年チャンピオンシップに関わるヤンキースに移籍した1年目のプレーオフで、思わぬ精神力

の弱さを露呈してしまう事もありました(プレーオフの成績は15打数2安打)。


2005年は移籍二年目で落ち着きを取り戻したのか、6月に「史上初」の「20代で400本塁打」を記録。

4度目の本塁打王も獲得し、名門ヤンキースの不動の4番の座を守り続けています。

現在、バリー・ボンズ(SFジャイアンツ)のベーブルースの記録越えが話題となりましたが、

ハンク・アーロンの755本に届くには年齢的に厳しいのでは?と言われています。

A-RODはまだ30歳。この調子で行けば、ハンク・アーロン越えは間違いありません。



【私にとっての"A-ROD"】

  アレックス・ロドリゲスと私は同い年の同学年です。私が大学なんぞに行きながら、

世間も知らずにのんびりしていた時期に、既に彼はマリナーズの主軸を打ち、

メジャーリーグで首位打者を獲得していたわけです。


  10年2.5億ドルという破格の契約がテキサス・レンジャーズとの間で行われたのは、2000年オフ。

「金の亡者」と呼ばれるのに相応しい額でした。それを「貧乏人のやっかみだ」と言われれば返す

言葉もありませんが、(今はそう思いませんけど)2000年の時点では、A-RODはそこまでの破格

の契約を行ってまで獲得するほどの選手では無い、が正直な感想だったのです。


  いや、勿論すばらしい成績を残してきた事も、40-40(40本塁打、40盗塁)を達成した事も知って

います。ただし、自分の目には「最高年俸額を取る選手」ではありませんでした。


  移籍後はそれに相応しい成績を残し、その契約が正しかった事が証明されたと素直に

考える事が出来ますが、その当時は殆どの人間と同じように、私も「取り過ぎ」だと思っていましたから。


  この大型契約が行われたそのニュースを、私は病院のベッドの中で知りました。


  体調不良により約1ヶ月半の入院をしていた時期であり、(わからないように抜け出して)

母親の病院に見舞いに行く、というアクロバティックな事をしていたので覚えています。


  当時の私の年俸は、確か400万円程度だったと思います。ただのサラリーマンでしたから。


  2億5000万ドルは、当時のレートで280億円。年俸28億。28億円、何に使うのか、さっぱり見当も

付きませんでした(今ならばある程度わかります)。全く別次元の話で、やっかむ様な気持ちさえ

生まれませんでした。


  ただ、「この先自分がどうなるのかわからない」と言う不安の中で、ベッドに寝ている自分と、

280億円を手にした同い年のA-RODを比べて、ほんの少しだけ寂しくなった思い出があります。


  上の記事にもありますが、『名門』ヤンキースに移籍後、プレッシャーの呪縛にかかった様に

不調になり、(SBホークスの)松中の様にプレーオフで絶不調を極めたA-RODを見て、

「ああ、コイツも人間だなぁ」と妙に安心した覚えがあります。ジアンビ・松井も含めて、移籍1年目

からヤンキースで実力を発揮できる肝っ玉の持ち主はいない、と言われていた為、A-RODなら

どうだろう?と興味を持っていました。成績を著しく落とした彼を見て、「ガッカリした」よりも

「ホッとした」方が正直な感想だったわけです。


  テキサス・レンジャース。チームは弱いけど、『先見の明』があったと言う事でしょうか。

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2006-06-25

第5回 小林一三

テーマ:実業家

小林一三(こばやし いちぞう)は、1873年生まれの、阪急グループの総裁を務めた実業家です。



小林一三は、阪急電鉄の礎を作っただけでなく、阪急ブレーブス宝塚歌劇団などの娯楽事業を

興し、また現在では当たり前だと思われている「駅ビル」の概念を作った人です。


「電車は人が住んでいる所に通す」のが当然だと思われていた時代に、何も無い山林や原野を

買占め、鉄道を敷設し、「鉄道が乗客を集めてくる」という信念の元に様々な開発事業を行いました。

つまり、何も無い場所に「人を運んでしまった」人なのです。


彼の「鉄道事業」に関する考え方は、以下の通りです。

① 鉄道が街を作る。何も無い場所に鉄道を敷いた方が、街が作りやすい

② 住む場所を作る。何も無ければ、その鉄道の沿線に住宅地を作り、人を住まわせれば良い

  その人たちが乗客になってくれる

③ 目的地を作る。その鉄道に乗ってどこに行くのか?その目的地も作れば良い。こうして宝塚歌劇団の

  宝塚劇場や、阪急ブレーブスの本拠地である阪急西宮球場は作られました。実は小林の考えと

  して、有馬温泉まで延伸させるつもりがあった様なのですが、「宿泊客がいなくなると困る」と反対を

  受け、断念しています。

④ 買い物をさせる。鉄道に乗った客や、沿線の住民が買い物をする場所を作れば、儲かるに違いない。

  この様にして阪急梅田駅ビルや、阪急百貨店が作られました。


つまり、「鉄道を作り、沿線に街を作り、その住民を乗客にし、娯楽施設も作ってそこに運び、

買い物もさせてしまう」と言う考え方を持っていたのです。

「乗客を作ってしまう」と言う考え方は、並みの人間では思いつきませんでしたし、

世界を見ても例の無い事です。

(ですから、当時はかなり批判されたようです。小林は慶応を卒業後34歳まで銀行マンでしたから、

「所詮素人のやる事は・・・。」の様に言う人が多かったのですが、

「素人だからこそ玄人にはわからない事がわかるんだ!」と信念を曲げる事はありませんでした。)


現在では「鉄道会社がデパートを経営する」事など、当たり前の事の様に思われています。

(例として、百貨店を持つ鉄道会社は、

西武・東武・京成・南海・近鉄・京阪・西鉄など)

しかし、鉄道会社経営の百貨店は、紛れも無く阪急百貨店が「世界初」です。


阪急鉄道の沿線に、阪急グループが販売する住宅地を作り上げてしまいました。

この人達は電車の乗客になってくれます。

また、当時は例の無かった「月賦販売=ローン」での販売を行い、サラリーマン達でも

家を持つ事が出来る様に考えたといわれています。


鉄道が運ぶ目的地として、宝塚に歌劇場を設置しました。有名な「タカラヅカ」です。宝塚の女優達は、

とっくに亡くなってしまった小林の事を、今でも「小林先生」と呼んで崇めています

現在のJR大阪駅周辺は、実は阪急電鉄梅田駅から先に発展しました。「駅ビル」と言うコンセプトも

今までには無かった物です。


東急電鉄の五島慶太は、小林にアドバイスを受けて田園調布の住宅地を作ったといわれています。

東急と阪急は、スタイルが似ている事からよく比較されますが、東急は小林のアドバイスによって

発展したと言っても言い過ぎではないでしょう。

また、小林は「天下り=役人から役員を迎え入れる」を好まず、民間主体の会社運営を心がけました。


とにかく、鉄道の世界に関しては、何もかもが新しい考え方に基づいて阪急電鉄は運営されました。


尚、小林は近衛文麿内閣で商工大臣幣原喜重郎内閣で国務大臣を務めました。

他に美術コレクターとしても有名な、「文化人」だったのです。

東宝映画も阪急グループの一つです。

余談ですが、テニスプレイヤーの松岡修造は、東宝映画の社長の息子であり、

小林一三の曾孫にあたります。


「新しい世界を作り上げたい」。実業家であれば誰もが描く夢です。

文字通り、新世界を作り上げた偉大な「開発家」だったわけです。


【私にとっての"小林一三"】

 私が『小林一三』という人物の存在と、功績の凄さを知ったのは、小学校4年生の時でした。私は大阪

出身ですから、阪急電鉄は通常の足として使うことが多く、大阪梅田などにも頻繁に足を運んでいました。


 ある日西宮球場で阪急ブレーブス戦を見ているとき、私の父が言いました。

「誰かが通った道を通るのは誰にでも出来るし、楽な事だ。だが、あえて道の無い所に道を作り、そこに

人を歩かせる、そんな人生を選ぶ事も出来る。お前にはそうなって欲しい。お前が作った道の後ろに、

誰かが倣って歩き始める、そんな道を作ってみろ」と。

私は何の事なのか、イマイチ良くわからなかったのですが、何故か今でも記憶に残っています。


「さっきはどうしてあんな事を言ったの?」と帰りの車の中で聞くと、


「今日行った西宮球場や持ち主の阪急の創始者がまさにそんな人だったからだ。

プロ野球は巨人から始まったと思っているだろう?実は巨人の前に阪急がプロ球団を作った事

があったんだ。世界恐慌で消えてしまったが。」


 そんな、小学生に話すには少し難しい話でも、私の父は平気で話しました。今の「父親」としての私にも

かなりの影響を与えているのですが、私の父は「子供だから」「言ってもわからないから」等の理屈が

大嫌いな人間でした。たとえばレストランで「お子様ランチ」を頼む事は許されませんでしたし、ありがちな

「小さいから大人が注文した料理から、少し小皿に分けてやる」等の考え方も嫌いでした。ですから、

「残しても良いから、自分が食べたいものをひとつ注文しろ」が私の父の考えだったのです。


 私の父は(も)、会社の経営者でしたが、独立するまではマスコミ関連の人間でした。その意味では

私と似たような人生を送っていたのかも知れません。宝塚歌劇もブレーブスも、その関係者は父に

とって「友達」の様な物でしたから、特に小林一三の経営理念には感化されていたのだと思います。


 その父の教えを受けたから、ではないのですが、私も小林一三の様な「荒れ野に道を作る」考え方が

大好きです。誰かが作ったマニュアルに沿って生きるよりも、自分がマニュアルを作りたいと思うタイプ

である事は間違いありません(別に反抗ばっかりしている、とかそういうのではありません)。

 

 常に「誰も考えなかった事」で世の中に貢献したいと考えているのは、小さい頃の父の言葉と、

小林一三の存在があるからなのかも知れません。

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2006-06-24

第4回 孫正義

テーマ:実業家

孫正義(そん まさよし)は、1957年生まれ、日本の実業家でソフトバンクグループの創始者で、代表取締役社長です。



佐賀県鳥栖市に在日韓国人3世として生まれ、久留米大学付設高校からカリフォルニア大学に進みます。


現在、ソフトバンク株式会社代表取締役社長であると同時に、福岡ソフトバンクホークスの持ち主

でもあり、2006年3月にはボーダフォンを買収し、CEOとなっています。


音声付翻訳装置」を自分で考案し、シャープに売り込み、1億円を手にして日本ソフトバンクを創設

しました。途中、病気で療養中に、別の人間(休職中に孫が任せた)によって会社を乗っ取られる

騒ぎもありましたが、社員の懇願によって社長職に復帰しました。

つまり彼の人生の栄光の陰には、しっかりと挫折もついています。


米国のインターネット検索サイトであった、Yahoo!に目をつけ、自ら米国に乗り込み、創設者であった

デビッド・ファイロとジェリー・ヤンを説得し、Yahoo!JAPANを創設します。

インターネットプロバイダのYahoo!BBは、「接続モデムを街頭で無料配布」し、一時期はNTTのフレッツ

に迫る勢いで契約数を伸ばしました。


「ITバブル」と言われた時代も終わり、M&A(企業買収)の動きも沈静化していく中、ソフトバンクは

M&Aの手を緩めず、日本テレコムやボーダフォン社(英ボーダフォンの日本法人)を買収しました。


携帯電話事業に乗り出す為、総務省に新規参入を申し出ましたが却下されました。

孫はこれで諦める事なく、規制緩和を訴えていましたが、総務省に1.7Ghz帯での新規参入を申請、

これを認められました。

しかし、後にボーダフォンを買収してしまいましたので、この申し出を取り下げました。


孫正義は在日韓国人である事を隠していた時期があります。

何がそうさせたのかは、後ほど述べます。

彼の20歳の時の目標、「50歳になるまでに1000億円を貯める」事だったそうです。

彼はこれを簡単に達成してしまいました。

「口だけ」ではなく、実現する為に、彼がこの30年間行ってきた事は、何だったのでしょうか?



【私にとっての"孫正義"】

 私もベンチャー企業家のハシクレですから、孫正義の「有言実行」には尊敬の念を抱きます。


 数年前に「1円株式会社」の設立がブームになりました。通常株式会社登録する場合は、1000万円

の準備金が必要なわけですが、ベンチャー企業に門戸を開く為、「1円」で設立できてしまう。

(勿論、リミット内に残り999万9999円を納めないと、自動的に倒産なわけですが。また、その1円会社

は新会社法の施行により無かった事になってしまいましたが。)


 殆どの「夢見るベンチャー企業家」は、「東証1部上場が目標だ!」等と夢の無い事を言う。上場して

どうするの?(その後どうするの?、の意味です)と私は考えてしまうのです。


 ロクに運営の為の知識(法律やノウハウ)を勉強せず、「とりあえず何とかなるんじゃないの?」位の

気持ちで会社を興し、そして実現出来そうもない馬鹿馬鹿しい夢のような事を言う。いや、別に夢を

語るのが悪いのでは無く、ロクに準備もせずに夢を語るのは誰にでも出来る、という事なわけです。


 孫正義は、上記の様に「20歳の時の人生の目標が、50歳までに1000億円貯める事」だったわけです

が、彼はそれを「ただの戯言」にせずに、実現に向けた「中継地点」を頭の中に描き続けた訳です。


 勿論計画は計画ですから、途中で挫折もありましたし、軌道修正が必要だった事も何度もあったと

思います。彼の成功の理由は、「その軌道修正の上手さ」もあるのではないかと考えます。


 挫折をした場合、「もうイヤになった」等と、全てを捨ててしまいたい、と考える事もあるわけです。

しかし、大きな夢を常に頭の中に描き続け、諦めない(当たり前ですが、当たり前の事は難しいです)

で邁進しようと『思い続けた』精神力は素晴らしいと思います。見習いたくても完璧に実行出来ません。


 彼を語る場合、「在日韓国人である」事は外せません。


 孫正義は自身の事を「在日韓国人ではなく、「華僑である」と言っていた時期があるようです。

国籍が日本で無い場合、例えば各種登録に関して制限が発生する等、ハンデがある事は否めません。

パチンコ・サウナ・ラブホテルの経営者に在日韓国人の方が多いのは、この「制限」の為です。

あまり言いたくないのですが、やはりその辺のハンデが在る故の反骨心も関係するかも知れません。

(日本における「在日韓国人差別」の件に関しては、今回は多くは触れないでおきますが、その件は

孫の「世界進出」に大きく関与している事は間違いありません。)


 補足ですが、孫は1991年に日本国籍を取得しています。


 現代日本の経済界で、「一番恐ろしい男」である孫正義は、私の尊敬する実業家の一人です。

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