編者の窓

左翼運動研究が一段落してしまった現在、ごく普通の人々までもが、反国家体制犯として検挙され、治安維持法違反ということで、実刑を受けていた事実を重く受け止めて欲しい。『治安維持法検挙者の記録』の編者、西田義信が文献から抽出した事例を公開する。


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 一昨年の暮れだったか、本書(治安維持法犠牲者の記録)の原稿を整理し始めた時に、もっとも気になったのは、氏名の読み方であった。

 もっとも情報量が多く、信頼もできるものは、『近代日本社旗運動史人物大事典』であろう、と考えて、苦しい中で12万円を投じて、これを購入した。

 全5冊、3500ページになる内容を見て、新しい作業をすることになった。

 この事典の全内容をチェックし、本書の内容と照合する。読み仮名については、私が特別の情報を持つ数例を除いて、この事典の内容に従う、ということである。

ついでに、本書に記載のない人物で、この事典で、検挙されている、とわかるものは、私のデータベースに追加することにした。

 作業では、この事典をくまなく読むことになるが、これがとてつもなく面白い。検挙されていない人に関する例を一つ紹介する。以下は、項目「黒澤明」の抜粋である。

 

 黒澤明は、1928年、豊島区長崎にあった「プロレタリア美研究所」に通い始める。1929年、世の激動をよそに静物や風景を描いているのにあきたらなくなり「プロレタリア美術同盟」に加入した。

 1928年、1929年の2回にわたって「二科展」に入選し、1929年12月には、「プロレタリア大美術展」に油絵「帝国主義戦争反対」「農民組合へ」、ポスター「労働組合へ」などを出展している。

 黒澤明は、本来は画家だったのだ。絵コンテがうまいのは当たり前なのだ。では、画家が、どのようなわけで映画監督になったのであろうか。以下は、事典の内容を含めて、私の言葉で、書き進める。

 

 単なる美術運動に飽き足りなくなった黒澤は、当時非合法であった政治活動に参加するようになる。「無産者新聞」(1929年8月発禁)の地下活動に参加、編集手伝いもするようになった。本書(治安維持法検挙者の記録)を、少しひも解いていただけば明らかになるが、「無産者新聞」を配布しただけで検挙される時代であったのだから、黒澤がつかまらなかったことは、映画界にとって、本当に幸せなことであった。

 非合法生活で体調を崩した黒澤は、当時一流の弁士であった、兄須田貞明(丙午)のところに転がり込んだ。これによって、黒澤はかくまわれることになり、体力も回復したのではないだろうか。

 トーキーの出現で、弁士の待遇は低くなり、弁士のストライキが起きた。兄須田貞明は、組合の委員長として、この争議を指導したが、失敗に終わった。1933年7月、兄は27歳で自殺してしまった。

 事典では、このショックから、黒澤が、どのようにして映画界に入ろうとしたかは、記述がない。

 

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