こんにちは、ダイスケです。
本当に久しぶりの更新ですね。

先日、といってもずいぶん前のことですが、とてもショックな出来事があって、それ以来ブログから遠ざかっていました。
事の詳細は書けませんが、これまでの自分が全否定されることがあって、もうこんな記事を書く資格はないと思い、筆を断っていました。

しかし最近になってようやく落ち着いてきたので、心の整理と、またこんな自分の体験も誰かの役に立てばと思い、再び記事を書いてみようと思います。



それまで、妻をサポートするときの心がけとして、とにかく愛情と優しさをもって接することを心がけてきました。それこそが大切なものだと、そう思い込んでいたからです。

うつ病は、その症状として、人から生きる気力を奪い、自分の存在意義をまったく無意味なものと思わせるところがあります。

やる気が起きず、起き上がれない。家にいるのにご飯を作れない、掃除もできない。子供といても、一緒に遊ぶ気力が起きない。あれもできない、これもできない。他の人は、みんな普通に仕事をして、家事をして、子供とも遊んで、ちょっと辛くてもがんばっているのに、自分には何もできない・・・。

私も、そんな妻の苦しみを知るからこそ、妻に負担をかけまいと人一倍仕事をして、家事もして、子供とも遊んで、妻が負担に思いそうなことをなるべく先回りして自分で引き受けて・・・、そうやって過ごしてきました。

私なりに、できることをして、妻の苦しみを軽くしてあげたかったのです。

しかし、私ががんばればがんばるほど、献身的に尽くせば尽くすほど、それは妻にとって大きな負担となり、同時に、妻の存在意義をより希薄なものとさせてしまっていたのです。

私はそんなことに全く気が付きませんでした。

妻はよく言いました。
「私がいなくても、誰も困らないよね・・・」

私は、その言葉の意味を、深く受け止めていませんでした。むしろ、今までのやり方ではまだ不十分だから、もっとがんばらなきゃいけないんじゃないか、そう思ってさえいました。

私がしていたことは、病状の改善を願う私の思いとは裏腹に、妻の心をますます傷付けていたのです。

私ががんばるということは、妻にしてみれば、自分を頼りにしていない、というメッセージになります。

私が料理をすると、妻には、「お前は料理ができない。人並み以下だ。」と言われているように受け止められるのです。

休日に、妻が休める時間を作ろうと思って子供と出かけると、妻には「お前は子供の世話ができない。母親失格だ。」と伝わるのです。

私が仕事をがんばれば、「お前は金を稼げない。誰のお陰で飯が食えると思っているんだ。」と伝わるのです。

妻を思ってすることの全てが、妻には自己否定のメッセージに置き代わっていたのです。

気付かないというのはおそろしいことです。

私は、妻がうつ病と診断されたとき、妻が頑張りすぎていることに気付かなかった自分を恥じました。

「もっと妻をよく見つめよう。他の人と比べるんじゃなく、妻自身をよく見よう。」そう思いました。

しかし、私は何も変わってはいなかったのです。

自分の気遣い、これを私は勝手に「優しさ」とか「愛情」とか、耳障りの良い言葉に置き換えて、それを妻は喜んで受け取ってくれていると思い込んでいただけなのです。

結局のところ、私は自分のフィルターを通してしか、妻を見ることができなかったのです。

私のインチキな「優しさ」や「愛情」とやらは、自分本位の、全くのエゴだったというわけです。

エゴは、人を傷つけます。与えているつもりが、奪っているのです。存在意義を、生きる気力を。



心を支えるというのは、本当に難しいですね・・・。

支える側に必要なのは、何なのでしょうか。

パートナーとの間で、コミュニケーションを深めることがそのカギなのかな、とも思います。

ただ、誰もが本音を語れるわけではありませんし、発せられる「言葉」が、常に本音を正しく表現しているとも限りません。

「言葉」は思いを伝える「手段」の一つにすぎないのです。

言葉にとらわれず、その人の全てを注意深く見る必要ことが大事なのかもしれません。

コミュニケーションを「言葉」という狭いレベルで捉えず、「人と人が接するときに伝わるものの全て」として考え、それを注意深く観察する必要があるのかもしれません。

もちろん、可能であればカウンセラーの手助けもあると良いのでしょうが、それもパートナーが拒むようであれば無理強いするわけにもいかないでしょう。

結局のところ、心も体も寄り添って、共に同じ方向を見て、同じ歩幅でゆっくり進んでくしかないのかもしれません。

私は今まで「向き合って」接してしまっていたのでしょう。

向き合う関係は、敵対の関係です。これでは安心するどことか、常に裁かれている気持ちになってしまうことでしょう。



こんなにまとまりのない文章を書いたのは、おそらくこれが初めてだと思います。

たぶん、言いたいことの1%も言えていない。そう思います。

それでも書きたかったんだなと、自分の中のエゴイスティックな部分を改めて感じるところです。
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