問題が問題を呼ぶ問題作「恋空」 平和の先に人は何を見る
テーマ:社会今話題のガッキー主演の映画をご存知ですか?
そう、「恋空」です。
残念ながら、この「恋空」が社会問題になりつつあると感じています。というかもうあるところではなっていますね。
そこで、今回ようやく核心である問題の言及、原因の究明をしていきたいと思います。なお、この記事を読んでいただくにあたって、但し書きを示しました。必要ないと感じた方は、3つの【】を飛ばし、その次からお読みください。
【前回までのあらすじ】*************************************************
ガッキーこと新垣結衣ちゃんに好印象を持っていた私が、インターネットを介して映画「恋空」に辿りついたのは自然の成り行きだった。そして映画だけでなくその原作やその内容、世間の評価などの現状など多くの情報を得ることになった。詳しくはこちら(※「恋空」を知ったきっかけと問題視の経緯
)をどうぞ。
【この記事について】**************************************************
この度の言及は、人格を否定するものではないことを理解してほしい。
決して原作者の人格を否定するためのものではないし、
恋空がいいと感じた人の人格を否定するわけでもない。
恋空を非難している人の人格を否定するつもりもない。
ケータイ小説サイトの運営者や、出版社、映画関係者、その他メディアの方々の人格を否定するものでもない。
また、作品の揚げ足を取るつもりもない。
ただ、作品から生じた問題点や原因はきちんと指摘し、正すために書くことを理解してほしい。
「恋空」が引き起こしたあらゆる悲劇に終止符を打ち、今回の過ちをいい意味で次の時代に繋げていけたらという想いで書いた。長文になるが最後まで読んでいただければ幸いだ。
【恋空が好きな方へ】*************************************************
「恋空を信じている」という人をよく見かける。私は信じるのはいいことだし、ものすごく素敵なことだと思う。もちろん感動することだっていいことだ。素直であることはすばらしい。しかし、広辞苑を引くと【信じる】とは【①まことと思う。正しいとして疑わない。②まちがいないものと認め、たよりにする。】とある。
極端な話だが、神さまという存在は、抽象的で確かめようもないので、確かな証拠を掲げて「信じることをやめろ」とは誰も言えない。一方、「恋空」は、一つの作品として具象化されているので、確かめられることがたくさんある。だからそれに気付いた人は、まだ気付かない人に「それはちがう」と呼びかけているのだ。
誰のために?
自分のために?
もしそうだとしたら、それは頭の中で自己完結させればいいことだ。
誰にも警告することなんかない。
じゃあ一体誰にために貴重な時間と労力を使って警告しているのか。
これから「恋空」が巻き起こしている一大旋風の原因を私になり書こうと思う。
現実を見つめる勇気があれば読んでほしい。
その勇気がなければ私に何かを言う筋合いはないということを理解してほしい。
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前述のとおり、私は「恋空」に関するさまざまな情報を得た。原作も読んだ。映画も観てきた。ようやく言及のためのパズルのピースが揃った。まず、原作も映画もひっくるめた「恋空」という作品に対する感想は、2つ。
● 「恋空」は問題が問題を呼ぶ問題作だということ。
● それゆえこの問題の言及は一筋縄ではいかないということ。
我ながら面倒くさい問題に首を突っ込んでしまったもんだ、と半ば苦笑い状態だ。
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さて、それでは早速本題に入る。問題の主要な原因は大きく分けて3つある。
1つ目は作品
2つ目はメディア
3つ目は大衆(受け手)
1つ目の「作品」に主軸を置いて言及し、さらに「メディア」、「大衆(受け手)」の問題やその責任の要点を簡単にではあるが追求し、最後にまとめとしてこの問題による教訓を述べたいと思う。また、「恋空」という作品は、原作と映画の2つあるが、ここではケータイ小説である原作をメインに言及する。
(※文章のだいたいの割合・・・【作品:メディア:大衆:教訓=5:1:1:3】)
1.作品
▼第一印象
この文章を初めて読んだとき、まるで絵のない少女漫画を読んでいるようだと感じた。しかも内容は「ティーンズラブ」などと表される卑猥なものだという印象を受けた。(現在ヤフーで検索すると「ヤングアダルト」に分類される。)この時点で、小中学生の目に触れるべきでないのは推測できる。
▼概略
「恋空」という作品は、基本的に主人公である美嘉の視点で綴られ、美嘉とその恋人ヒロの恋愛をベースに日常生活を織り交ぜながら進む。いわゆる周りに一目置かれている(というか一歩引かれている)不良気取りのグループのリーダー的存在のヒロが、大してかわいくもなく、そこまで目立つわけでもない美嘉(という設定)にアプローチしてくるというのが、物語の始まりだ。美嘉とヒロは恋をする。そしてさまざまな試練を乗り越える。しかしある日、ヒロは理由を告げることなく一方的に美嘉に別れを告げる。時が経ち、新しい恋人と幸せに過ごしていたある日、ヒロが癌を患っていることを知った美嘉は恋人に別れを告げ病床にあるヒロの元に戻る。美嘉の看病もむなしく、ヒロはこの世を去ってしまう。
このように、簡単に概要を表した。これを見る限り、よくある恋愛物の小説だと感じるかもしれない。しかし、この作品にはこの短い概要からは到底読み取ることのできない問題がおびただしくひしめいている。
▼杜撰な内容
杜撰(ずさん)という言葉は、まるでこの作品のためにあるかのようだ。これは皮肉でもなんでもない。【杜撰】とは、ことわざ辞典によると【仕事のやり方や書物の内容などが、ぞんざいなこと。】とある。ちなみに【ぞんざい】とは【物事を粗略にすること。なげやり。いいかげん。】(広辞苑より)ということだ。まさにぴたりと当てはまる。
ではこの作品がどのように杜撰なのか。①作品に対する姿勢、②起こりえいない状況設定(間違った情報の垂れ流し)、③作品全体にまたがるテーマ、を切り口としてそれぞれ見ていく。
①作品に対する姿勢
まず、この原作が真面目に書かれたとは到底思えない。なぜなら初歩的な誤字脱字、不適切な言葉の用い方に加え、現実では起こりえない状況設定がされているからだ。たった3つの問題に焦点当てただけでも、作者の創作に対する不真面目さが容易に窺える。真面目に書いていれば、誤字脱字にしても、言葉の用法、状況設定にしてもあらかじめきちんと調べて書くはずだ。(ただ、ここで難しいのがケータイ小説のあり方だ。遊び半分でお気楽に書いたものが読みやすいとされ喜ばれるのなら、創作態度は不真面目でもいいのかもしれない。しかしそれを読むことで倫理が犯されたり、間違った情報を植え付けられたりしてしまうのであれば、そのあり方に対して異議を唱えざるを得ない。)
②起こりえない状況設定
作品には現実には起こりえない事柄の記述が数多く見られるようだ。一つ例として、末期状態の癌患者であるヒロと美嘉のやり取りを挙げる。
本来、末期の癌患者は、指を少し動かすのも困難なほど、体の自由は奪われてしまい、また生殖機能もなくなってしまうそうだ。しかし、作中ではそのような末期癌を患っているはずのヒロは、驚いたことに、美嘉と病院を抜け出し、しかも屋外での性交にまで及ぶ。(そしてその後、美嘉はヒロとの子どもを身ごもることになるが、これも現実には起こりえない。例え性交ができたとしても、髪の毛が大量に抜けているヒロはその時点で抗癌剤が投与されていることが分かる。そうであればその副作用により精子細胞は全滅しまうそうだ)
これは現実にはありえない話だ。度々辞書からの引用で申し訳ないが、【フィクション】とは【虚構】である。【虚構】とは【事実でないことを事実らしく仕組むこと】とある。つまりこの作品は、この理屈でいうと、虚構すなわちフィクションにもなり得ていない。当の原作者はフィクションを何だと解釈しているのだろうか。「嘘」だと解釈しているのだろうか。もしそうだとしたら、「実話に基づくフィクション」は「実話に基づく嘘」と言い換え可能だ。実話に基づく嘘とは一体何だろうか。矛盾以外の何物でもない。フィクションだろうがなかろうが、どんな病気かを分かるように書いているのであれば、その様子や症状について正しく書かなければならないのは、当然のことだ。
また、重要なのはここからだ。実際に癌を患っている方やその身内や友人の方は、このような記述・描写を目にしたらどのように感じるだろうか。癌という常に死と隣り合わせである病気の軽率な描写に憤りを感じない人はいないだろう。そして、その話を信じてしまう人がたくさんいることを知って、悲しく感じない人はいないだろう。 私もこの度の情報収集をしていなければ恐らくこの間違った描写に疑いの目を向けることなく信じてしまっていたと思う。
原作者は知ったかぶりの心ない描写によって、この病気を患っている方やその身内やご友人の方の心の痛みをこの作品を世に書くこと、および広めることでえぐってしまった。その事実を真摯に受け止め、早急に何らかの措置をしてほしいと思う。
このように「恋空」は、嘘の描写が多くの人に正しい情報として垂れ流しされているのが現状だ。それらに関する経験や知識を持ち合わせていない人は知らずに真実だと信じ込んでしまう可能性が高い。間違った情報を正しいものだと解釈させる恐れがあるという意味で、これは詐欺行為と言っても過言ではない。
③テーマは「自分」
この作品は問題提起しているのではないか、という意見をよく見かける。しかしこれはそうではない。百歩譲って仮に問題提起を目的としているとしても、肝心の問題提起すべきところは何の言及もできていないまま、物語が展開されている。この作品には様々な人生を左右するような出来事が一挙に盛り込まれている。例えば、レイプ、いじめ、裏切り、妊娠、流産、自殺未遂、両親の離婚、癌、どれを一つとっても大きなテーマとなりうるだろう。本当に問題提起をしたいのなら、それらの出来事による激しい悲しみや苦しみなどの感情描写を丁寧に書き、警鐘を鳴らすような書き方をするはずだ。これを読む限り、残念なことにそれらは全くできていない。さらにそれ以前の問題として、既述したとおり基本的なミスが目立つし、現実に起こりえない記述が多く見られる。このような作品から、著者自身が「何かを訴えよう」という決意、例えばこれらの悲劇の「再発防止を訴えたい」という堅い決意や想いは一切窺えない。むしろこれほどにも適当さがにじみ出ている作品は他に見たことがない。そんな作品から一体どうして作中の出来事が実話だと信じることができ、またどうして問題提起していると感ずることができよう。いや、できない。
それでは、著者は一体何がしたかったのだろうか、この作品を書き上げるための原動力は一体何だったのか、テーマは一体何だろうか、ということを考えてみた。恐らく著者は、この作品にテーマなど設けていないと思うが、あえて言うとすれば、そのテーマは「自分」だ。さらに言わせていただくと「自分を見てほしい」という大きな欲求が今回の創作に結びつき、それが創作の原動力になったのではないかと思っている。それを思わせるエピソードを分かりやすい演出効果として2つの項目を掲げてそれに沿っていくつか取り上げる。
‹悲劇のヒロインになるための演出›
・ 恋人の元彼女にレイプを仕組まれた
・ いじめ
・ 自殺未遂
・ 元彼女のせいで流産
・ 恋人の病気、死
・ 両親の離婚危機
・ 自分の恋を応援してくれていた友人がその相手と付き合ってしまう
・ 自分の元恋人が主人公に告白したのを知った親友に一方的に無視される
‹男にも女にも人気があると感じさせる演出›
・ 話したこともないのに不良グループのリーダーとその仲間1人に好かれる
・ 同じクラスのさわやか系に好かれ、ヒロの理不尽な態度から守ってくれる
・ 登場するカッコイイ異性(いわゆるイケメン)はほとんどが美嘉を好き
・ 親友の恋人も美嘉が好き
・ 初対面の異性に好かれる(親友もその人を狙っていた)
・ 無視されている美嘉を案じて、一度も話したこともないクラスメイトが励ましてくれる
これらがエピソードの一部である。全部ではなくほんの一部だ。このような描写が物語のうちに、1つもしくは2つくらいしかないならば、主人公への同情の念は恐らく深まったかもしれない。それが一つの物語にこれでもかと言わんばかりに悲劇や、自分に人気があるように見せかけた描写を詰め込むのを何度も何度も目の当たりにすると、あきれるのを通り越して、笑いがこみ上げてくる。(皮肉ではなく本当に)
またこの作品には、主人公とその友人たちとのやり取りや友人に対する著者すなわち主人公の主観が多く載せられているが、こういった描写から読み取れるのは、友人に対する著者の思いやりのなさだ。
大絶賛している人は、自分が主人公の友人のアヤだと思って、アヤの気持ちになって読み進めてみると分かるかもしれない。ぼろくそに書かれている。本当にぼろくそに。自分の友人をぼろくそにこき下ろしている著者であり主人公は、そんなアヤを親友と認め、怒って当然のひどい仕打ちをされたにもかかわらず、少し躊躇するだけですぐに許してしまう。まるで私はこんな最低な友人を親友と認めて仲良くしてあげているのよと言わんばかりの描写だ。少なくとも私の目にはそう写った。
読んでいく中で、私はそういう描写を見ていつも胸がむかむかした。繰り返し言うが、親友と認めている子をぼろくそに言った上で、そんなひどくいやなやつであるアヤを許してあげる。なんて私はやさしい子、という感じだ。友人をひどくこき下ろした上に、それを利用して自分を良く見せようとしているのが、手に取るように分かる。
アヤが実在の人物だったならば、それを実話として世間に広められていい迷惑だろう。激しい精神的苦痛を味わっているかもしれない。恥を全国の不特定多数の読者に晒されたのだから。ケータイ小説だけに留まらず、書籍化、映画化とより多くの人目に触れる作品となってしまったのだから。親友の手によって。
きっと私がアヤだったら絶対に許せないし、想像を絶するようなすさまじく深い悲しみを味わうだろう。
たくさんの重大な悲劇に関してもそうだが、それ以前の問題として、私は大切にすべき友人をそのように書いてしまっているのを見て、憤りを感じた。いくらフィクションとはいえ実話を基にしているのではないか。少なくともそう謳っているではないか。その友人アヤが存在するかしないかは確かめようもないが、たとえ存在しないとしてもその表現、描写はあまりにもお粗末すぎるのではないか。
少し感情的になってしまったが、私はこの作品を読んで、作中の出来事も登場人物も全て、自分に注意を向けてもらうための、或いは自分をよく見せるための道具として使っているように感じた。
自分が悲劇のヒロインに見えるように。
自分がまるで人気者であるかのように。
そのように見せるためには、
本来愛すべき感謝すべき友だちさえも道具なのだ。
現実に人が苦しめられている残酷な悲劇でさえ道具なのだ。
愛する人の苦しみ、そして死さえ道具なのだ。
仮にそのような意図はないとしても、読み手にそう感じさせてしまうのは、この作品の罪な点である。このように著者は著者の極度の自己顕示欲を認められるという意味でこの作品のテーマは「自分」であると言えると思った。
それを認識しても「恋空」の好きな方は「恋空」を擁護するのだろうか。「恋空」はすばらしい作品だと叫ぶのだろうか。著者が自分自身の大切な親友を傷つけているのにも関わらず。自分がアヤだったらたまったもんじゃない。自分の友人をよくもそんなにひどく書けるなあ、と呆れてしまう。いくらフィクションであっても、「実話を基に」と謳っている限り、アヤが現実に存在するならば、著者は彼女にプライバシーの侵害か何かで訴えられても仕方ないだろう。
▼作品の位置付けについて
「実話を基にしたフィクション」と謳っているが、そもそもそれが厄介の一因である。この作品は「フィクション」だ。原作者は今からでも遅くないのでそのように訂正すべきだ(映画製作者にも言える)。でなければ、実話と想像の比率を示すか、どの箇所を想像で書いたのかを具体的に明示しなければならないだろう。
こうも状況設定に無理や間違いのある描写を並べられては、「実話を基に」としている限り、どのあたりが実話でどこが想像であるのか、気になってしまうのは仕方ない。間違いや矛盾に気付いた者ならば誰でも「嘘だ」といいたくなる。しかし「フィクション」としているということは「嘘です」と言っているようにも聞こえるのでそこまで強く言えないというのも現状だ。
大体、「実話を基にしたフィクション」という言い方がおかしい。実体験からインスピレーションを受けて書いたというのであれば問題ない。というか世に存在するフィクションは全てそういうものである。書き手が人である限り、多かれ少なかれ自分の体験にインスピレーションを受けているのは当然だ。そしてそれに基づいて想像し、書かれたのが「フィクション」なのだ。だから「フィクション」の前に「実話を基にした」という言葉を置いて表現するのは、極端な言い方をすれば、見た者の混乱を招くという意味で詐欺に近い言い回しだと思う。
本当に作者はフィクションを一体何だと思っているのだろう。出版社も出版社だ。フィクションとはなにか、それを理解する前に出版するのは間違いだったのだ。
▼その他の問題点
何度も繰り返すように、この作品から生じる問題は山済みだ。上記で指摘しきれなかった重大な問題点をいくつか箇条書きに表す。
・ 非行の助長・・・リンチ、未成年の飲酒喫煙、無免許運転、飲酒運転、ドラッグ、根性焼きetc
・ 性知識の誤認の影響・・・公共施設や屋外での性交渉、避妊なしでの性交渉
・ 命の扱いの軽さ・・・妊娠、流産、死
・ やさしさや愛の意味の取り違え
・ 感情移入よる評価基準の錯覚
これまでにたくさんの問題について少々触れたが、これらの問題に気付いているにも関わらず、「泣いた、感動したからこれは良い作品だ」と言う人がいる。これだけ悲しい出来事が一挙に盛り込まれているのだから、感情移入してしまうのも当然だ。実際に、私は箇所によっては自分の経験に重ねて、涙を流した。だが、それは決してこれを良い作品と評価するための判断材料とはならない。原作者は嘘をついているからだ。二重の嘘を。
著者は、作品を実話だと謳っては読者をだまし、作中で現実に起こりえない内容を描写しては読者をだましているのだ。その感動は嘘の上に成り立っているのだ。フィクションとは嘘ではない。だけど、この作品は嘘の塊だ。
また、それらの問題をすべて知った上で、「別にいいじゃないか」と許容してしまう人がいる。私は、そういった方たちに言いたい。「楽観的なのは結構だが、時と場合によってはきちんと考え、問題意識を持って対処しなければならない」と。厳しいことをいうようだが、この作品に対する楽観視は思考停止としか思えない。
2.メディア
この作品は書籍化すべきでなかった。映画化すべきでなかった。
これはそれぞれのメディアがもたらした罪だ。
非常に重い罪である。
「恋空」は数え切れないほど多くの問題が指摘される作品だが、その作品をメディアがこぞって公の場に引っ張ってきたことで問題はさらに事態を極める。
諸悪の根源は、ケータイ小説サイトだ。匿名で、誰でも倫理基準を無視した内容の作品を公開できるのは、今回の問題からも明らかなように、倫理の破壊を招きかねない。しかも、携帯電話からアクセスできるということは、小学生も中学生も簡単に閲覧できることを意味する。まだ、人生の半分も生きていない子どもがだ。「恋空」がそのような子どもに読ませていい作品ではないことは、火を見るよりも明らかだ。言い換えれば間違いなく「負の教育」の手助けをしている格好となっている。このサイトの運営者は、自社のメディア(媒体)が多くの閲覧者、特に思春期の子どもに多大な影響を与えているという認識が甘いのかもしれない。しかし、今回の問題は「認識が甘かった」だけでは済まされない。このような倫理的におかしい点が絶えない作品が人目に晒されないように、倫理規定をきちんと決めていかないと恐らくこの先、目には見えない最悪な事態が人々の知らぬ間に日本を蝕んでいくだろう。自分たちの責任でないという、知らぬ存ぜぬでは、後々痛い目を見ることになるだろう。
運営者は直ちにこの現実と向き合い、自らの悪業(あくごう)を認め、なんらかの措置を取らなければいずれ地に落ちることになるだろう。
出版社も、映画関連会社も同じことが言える。このような「負の教育」の手助けになりうる作品を一体どうして世に広めたのか、と理解に苦しむ。今回、これによって露呈したのが、企業のモラルの低下だ。利益を優先しすぎたゆえに重大な過ちを犯してしまった。企業は社会あっての企業ではないのか、過ちを犯した張本人たちはそれをもう一度良く考えねばならない。
さらに言うと、携帯小説サイトも出版社も映画関連会社も、目前の利益を追求しすぎて倫理を犯した。子どもの倫理を犯した。親が子のために莫大な投資をしている。未来への投資だ。その未来への投資を企業は妨害した。そう受け止めることができるかもしれない。企業はそれに気付いているだろうか。
企業は倫理破壊の対価として利益を得ていいのだろうか。
3.大衆(受け手)
①子どもへの悪影響の楽観視
受け手が、ある程度物心がついていたり、ある程度善悪や倫理、道徳について分別のついている人であれば、自分の倫理観が崩れることはないとした上で読むのはかまわないと思う。娯楽の一つとして、現実にはまずありえないこととして読めるのならばそこまで大きな影響はないだろう。
しかし、ここで問題なのはそのような人たちではなく、まだ物心のつかない年代の目にどのように写るかということであり、どのような影響が出るのかということである。
まだ人生経験の少ない純粋な子どもはこれが現実だと信じてしまう可能性が高い。しかも著者や映画制作側は、よりにもよって「実話に基づく」と念を押してある。
子どもは多感で、どんな小さいことでも成長の糧となる。どんなことでも目の前の知識を素直に受け入れてしまうのだ。誰だって、幼い頃からのさまざまな環境で、さまざまな経験をし、それらが土台となって、人格が形成されていく。さまざまな働きかけの一つ一つが、今の自分をつくっているのだ。この「恋空」だってその働きかけになりうる。だが、それがどういうことか今一度考えてみることが必要だ。
子どもは、その子に起こる全てを糧にして成長する。その働きかけが正しいかろうがそうじゃなかろうか関係なく糧となる。負の働きかけがその子に与える影響は、その子が幼ければ幼いほど絶大だ。そのことを子を育てる立場にある人はよく理解しなければならない。
②社会人の責任
前回の記事で、私のほんの少しの恋愛経験やそれによる悲しみや想いについて述べた。(詳しくは※溢れる涙
参照)。今の私には、この作品の部分で涙ながらに読み進める箇所がいくつもあった。それはその時の情景が経験によって鮮明に理解できるからだ。その時の胸が千切れそうな想いが思い出される。それによって涙が出るのだ。
だが、それは決してこの作品が良い作品かどうかについての判断とは関係ない。もちろん作品の評価というもの個人の自由だ。しかし、倫理を犯す箇所が認められた時点で、誰もこれを良い作品だと口にしてはいけない。
それは社会人としての責任だ。まだ善悪の判断、分別の付かない純粋な子どもに社会のルールを無視し破壊することを助長するような作品は、決して認めてはならない。
最後に
以上、3つの主要な原因について、それぞれ簡単ではあるが言及した。それぞれ考えれば考えるほど問題が広がっていくのがお分かりいただけただろうか。
この度言及した「恋空」という作品は、単なる倫理に反する問題作ではない。今まで我々が築きあげてきた倫理基準を大幅に犯し破壊してしまう一大問題作だ。その問題作が、ケータイ小説サイト閲覧者だけでなく、書籍化、映画化によって多くの国民に知れ渡ってしまった。書いてしまった著者と広めてしまったメディア、さらにこの問題を見て見ぬふりをしている2者の責任は重大だ。しかし、こうなった以上、この問題に気付いた人は即刻立ち上がって、犯され破壊された倫理観の修復、改善に努めなければいけない。
この作品の直接的な問題を深読みすると、次々に新たな問題が浮上する。親や成人の教育観、学校教育のあり方、親と子の接し方、企業のモラルの低下、企業目的の見直しの必要性、インターネットの弊害、有害サイトの基準の不明瞭さ、CGM(Consumer Generated Mediaの略。ユーザーが作っていくメディアのことで、mixiやYoutubeなどがその例。)の在り方、キャリア(携帯電話、PHSなど)の在り方、キャリア所持の低年齢化の弊害、映画の在り方(原作を映画化する基準・理由は人気度なのか良作なのか)、など今まで水面下だったさまざまな問題が連鎖的に思い浮かぶ。これらをいちいち指摘していたら一冊の本が書けそうだ。しかし、これ以上はさすがに読み手の方々が疲弊してしまうと思うし、正直私も限界だ。だからといってはなんだが、それぞれの問題について各自で考えてみてほしい。
今まで水面下だった問題が露呈したという意味でこの「恋空」は一つ役割を果たした。これを機会に、その露呈した様々な問題を、そのままにせず、多くの人が真剣に考えていければと思う。より良い社会を築くことは、社会人としての当然の責任だろう。
社会は、国が作るものじゃない。
企業が作るものじゃない。
そこに住む人が、我々全員が作るのだ。
国があって人があるのではない。
人があってこそ国が成り立つのだ。
会社があって人があるのではない。
人があってはじめて会社として成り立つのだ。
良い社会だろうが悪い社会だろうがそれを作るのは我々だ。
どちらの社会が好ましいのか、もう一度真剣に考えてみることが必要かもしれない。
今回のことは、恐らく我が国が戦争を放棄し平和を手に入れ、物質的な豊かさを手に入れた末の必然的な出来事だったのかもしれない。日本人の多くはいま、自己実現の欲求を満たすために、周囲よりも自分のことに気が向いているような気がしてならない。自己実現の欲求を満たすのもいいが、そのための前提について忘れてしまってはいけない。人は、社会の一員であるためには、その社会のルールの遵守の必要性をきちんと認識し、それに努めていくことが前提であり条件だ。これは生きることの前提であり条件だとも言い換えられるだろう。現代の日本人はその前提についての認識が薄らいでいるのではないかと、たまに思う。
平和の先に人は一体何を見ているのか。
この先ずっと、平和の先に平和を見たいのならば、私は人との関係に必須である「思いやりの心」を忘れないことが不可欠だと思う。賢い読者の方はそんなのは当たり前さ、と思うかもしれない。しかしその当たり前のことを忘れてしまっている人が多いように感じている。
平和と豊かさを勝ち取った現代の日本人はいま、自己にばかり気を取られてはいまいか。人にやさしくするよりも己の身のふり方ばかり気にしてはいまいか。それゆえに、周囲を思いやる心の大切さを忘れてはいまいか。
いま、改めて真剣に考える時がきた。







1 ■すごい!!!
何か、すごいですッ★
こんなに・・書けるだなんて。。。
ペタありがとーん(*´σー`)