「囲碁史会会報」第37号(平成25年5月)に掲載されたので、載せておきます。印刷では、格付けがうまく表示できていなかったので、このブログでは修正しましたが、うまく表示できているでしょうか。



御城碁の対戦組合せに関する研究(一)算知時代・道策時代

一、はじめに
江戸期の囲碁史の中心となるのは、御城碁での対局を公的舞台とした家元四家による争いであることはいうまでもない。しかしながら、そうした御城碁、四家体制、家制度などが一朝一夕でできたわけでなく、むしろいくつかの段階を経て発展していったものであり、確立するまでには一定の期間を要したと考えるべきである。
そうした視点に立ち、従来の囲碁史研究の成果を見直してゆくと、制度が確立された状態となった江戸後期の論理で論評されていることも少なくない。
そこで本論文では、御城碁の対戦組み合わせを分析することにより、その発展段階を把握したいと思っている。

ニ、算知時代
(1)御城碁での対戦
第1期
1664 ◯道悦・×算哲(先)戦
1665 ×道悦・◯算哲(先)戦
1666 △道悦・△算哲(先)戦
1667 ◯道悦・×算哲(先)戦、◯道策・×知哲(先)戦

第2期
1668 △算知・△道悦(先)戦、×算哲・◯道策(先)戦
1669 ◯算知・×道悦(先)戦、×算哲・◯道策(先)戦、×知哲・◯門入(先)戦
1670 ×算哲(先)・◯道策戦、×知哲・◯門入(先)戦
1671 ×算知・◯道悦(先)戦、?算哲(先)・?道策戦
1672 ×算知・◯道悦(先)戦、×算哲(先)・◯道策戦
1673 ◯算知(先)・×道悦戦、×算哲(先)・◯道策戦
1674 ×算哲(先)・◯道策戦、◯道砂因碩(先)・×春知戦
1675 ×算知・◯道悦(先)戦、×算哲(先)・◯道策戦
1676 ×算哲(先)・◯道策戦、◯知哲・×道砂因碩(先)戦

(2)考察
最初の御城碁をどの年の対局とするかはさまざまな議論があるところだろう。当然、非常に興味深いテーマではあるが、本論文ではそのことには深く立ち入らず、便宜上、1664年の道悦・算哲戦を、本論文における御城碁の開始として進めてゆくこととする。この年を便宜上の開始の年とした理由としては、この年以降の対局では原則的に毎年の対局となっていること、この年以前の対局は4年間のブランクがあることなどによる。
1664年~1666年の道悦・算哲戦は、以前打たれた算砂・利玄戦、道碩・算哲戦、算悦・算知戦の延長戦上に位置づけられる対局と筆者は考えている。ライバル関係にあると思われる碁打ち同士が呼ばれて対局する形であり、ほぼ対局相手は固定化されているのに近い状態である。このような対局を「同格対局」と便宜的に名付けることにする。必ずしも段位や手合が同じである必要はないが、
そうした点において、1667年の御城碁で従来の道悦・算哲戦だけでなく、道策・知哲戦が打たれていることは画期的なことであるといえる。御城碁において複数局打たれたことは注目に値することで、この年以降の御城碁において、基本的には複数局打たれることになっている。
さらに1668年に算知・道悦戦、算哲・道策戦という組合せに替わっていることが重要である。道悦の異議申立てによる算知との争碁となるが、御城碁での対局でいうと、その次の格の対局にも影響を及ぼしていることが分かる。
翌年門入が御城碁に初出仕しているが、道悦による異議申し立てを逆手に取った形で、結果的に手空き状態となった知哲の対戦相手として、門入の名跡を継承する形で算知門人の中から出仕するようになったのではないかと推察される。
さらにその後1674年の御城碁では、道砂因碩と春知が同時に初出場している。
1667年、1668年、1669年、1674年の対戦組合せで想定される格付けを図示すると下記のようなものになる。

1667年
( ) 道悦 道策
算知 算哲 知哲
1668年
道悦 道策 ( )
算知 算哲 知哲
1669年
道悦 道策 ( )
算知 算哲 知哲
( ) ( ) 門入
1674年
道悦 道策 ( )
( ) ( ) 道砂因碩
算知 算哲 知哲
( ) ( ) 春知
( ) ( ) 門入




三、道策時代
(1)御城碁の対戦
第1期
1677 ◯道策・×知哲(先)戦、◯道砂因碩・×門入(先)戦
1678 (対局なし)
1679 ×算哲(先)・◯道策戦、◯道砂因碩(先)・×春知戦
1680 (対局なし)
1681 ◯道策・×知哲(先)戦、×門入(先)・◯道砂因碩戦
1682 ◯道策・×算哲(先)戦、×道砂因碩・◯春知(先)戦、×門入・◯八碩(先)戦

第2期
1683 ×道策・◯春知(二子)戦、×算哲・◯道砂因碩(先)戦、×門入(先)・◯八碩戦
1684 ◯門入(先)・×道砂因碩戦、×春知・◯道的(先)戦、×知哲・◯八碩(先)戦
1685 ×春知(先)・◯道的戦、×門入・◯八碩(先)戦
1686 ◯春知(先)・×道的戦

第3期
1687 ×道砂因碩・◯八碩(先)戦、×知哲・◯道的(先)戦
1688 ◯道砂因碩(先)・×八碩戦、×知哲・◯道的(先)戦
1689 ×道砂因碩・◯八碩(先)戦、×知哲(先)・◯道的戦

第4期
1690 ×知哲・◯道節(先)戦
1691 ×知哲・◯道節(先)戦
1692 ×知哲・◯策元(先)戦、×道砂因碩・◯仙角(先)戦
1693 ◯知哲(先)・×道節戦、◯策元(先)・×仙角戦
1694 ×知哲・◯道節(先)戦、×策元・◯仙角(先)戦
1695 ×道砂因碩・◯知哲(先)戦、◯策元(先)・×仙角戦、◯玄悦門入(三子)・×道節戦
1696 ×道策・◯仙角(二子)戦、◯策元(先)・×道節戦、×知哲・◯玄悦門入(三子)戦

第5期
1697 ×知哲(先)・◯道節因碩戦、◯策元・×仙角(先)戦
1698 ×知哲・◯策元(先)戦、△道節因碩・△仙角(先)戦
1699 ×知哲・◯道節因碩(先)戦、△玄悦門入(二子)・△仙角戦
1700 ◯仙角・×玄悦門入(二子)戦
1701 ×仙角(先)・◯道節因碩戦

(2)考察
1677年からは算知、道悦が御城碁を事実上引退状態になったことがまず大きな変化として指摘できる。その後も算知、道悦ともに生存し、それなりの影響力は保持しているが、御城碁での対局はなく、プレイヤーとしては引退状態になったといっていいだろう。
またそれまで道策と同格とされていたのは算哲のみだったが、知哲を格上げして同格にしていることを指摘することができる。御城碁ではしばらく、道策の対戦相手には算哲と知哲が交互に登場している形となっている。この期間を道策時代第1期とした。
1682年に道策門の八碩が御城碁に出仕しているが、これは知哲が格上げになって以降生じている手空きを解消する目的で八碩が加えられたと考えられる。道策側からみると、本因坊派対安井派の対決の中で、道砂因碩のみであった人数的劣勢を挽回することがむしろ本当の目的だったかもしれない。
1684年には算哲が天文方へ転出するのだが、それに先立っての1683年の御城碁が注目される。先に示した「同格対局」ではない、いわば「格違い対局」が打たれていることである。道策・春知戦と算哲・道砂因碩戦がそれにあたる。後の時代では「格違い対局」が主流となるが、この時代としては例外というべき「格違い対局」が打たれたことにどのような意味があるのかは、今の時点では適当な答えを持っていないが、何らかの意味を持つものだと思われる。
これ以降、算哲が碁界を去ったこと、道策が御城碁での対局を退いたこと(例外的に1696年に対局しているが、これは翌年死去する道砂因碩が本来打つことになっていたものを代わったのではないかと類推している)も指摘しておく。
先の「格違い対局」から、春知が御城碁で安井家の中心であるかのような時代を道策時代第2期とした。春知の御城碁出場は通算7回であるが、算哲の碁界引退までの4回の御城碁出場の際にはすべて算哲とともに出場している。このあたりも何かを示唆しているのだろう。
算哲が1684年に天文方へ転出し、道的が出仕したことにより、本因坊派対安井派の対決の構図が、それまでの安井派の人数的優勢から逆転した形となったことも指摘しておく。
これがさらに門入の死去(1685年が御城碁最終局)、春知の死去(1687年が御城碁最終局)と続き、知哲のみに安井派は一気に追い込まれてしまった。ここにこれまで続いてきた本因坊派対安井派の対決の構図は決着したことになる。道砂因碩・八碩戦、知哲・道的戦の対局に固定化されたかのような期間を道策時代第3期とした。
しかし道的の死去(1689年が御城碁最終局)、八碩の死去(1689年が御城碁最終局)と続き、本因坊派も弱体化した中で、まず道節が出仕したことが注目される。道砂因碩の後継の井上家跡目としての出仕となるが、42歳の道砂因碩の跡目として45歳の道節が迎えられることは本来はかなり不自然な形である。道砂因碩の健康状態にも不安があったのかもしれない。
このあたりから四家体制の整備がなされた形で、1692年に策元と仙角が、1695年に玄悦門入が初出仕している。これまでは極力そうした表現を避けてきたのだが、これらについては本因坊家と安井家の跡目や林家の当主が初出仕したといってもいいのかもしれない。囲碁における家制度や四家体制の確立をどのように捉えてゆくかはいろいろと議論のあるところだろうが、現時点では筆者はこの時代あたりを想定している。
本因坊家や安井家は当然存在していた(後の家制度とは異なる面もあるが)のだが、少なくとも、因碩や門入が師弟関係が直接はないにも関わらず、その名跡を継承した時点ではおそらく井上家や林家というものはなかったのではないかと考えている。それぞれ当時の本因坊派対安井派の対決構図の中での勢力拡大が本来の目的だったと思われ、あくまで個人として出仕したものだっただろう。それが玄悦門入への相続、道節の出仕という中で、家という形に変化していったと考えている。こうした期間を道策時代第4期とした。
1697年は算知が正式に退隠し、道砂因碩の死去、道節の因碩襲名といったことを重要視してこの年から、策元の死去(1698年が御城碁最終局)、知哲の死去(1699年が御城碁最終局)に続き、道策も1702年に死去するまでを道策時代第5期とした。
1677年、1682年、1684年、1686年、1687年、1690年の対戦組合せで想定される格付けを図示すると下記のようなものになる。また1695年については四家体制が一定の形で整ったということで、隠居、当主、跡目という形で並べたものを示している。


1677年
(道悦) 道策 (  )
(  ) (  ) 道砂因碩
(算知) 知哲  (  )
(  ) 算哲  春知
(  ) (  ) 門入

1682年
(道悦) 道策 (  )
(  ) (  ) 道砂因碩
(  ) (  ) 八碩
(算知) 知哲 (  )
(  ) 算哲 春知
(  ) (  ) 門入


1684年
(道悦) 道策 道的
(  ) (  ) 道砂因碩
(  ) (  ) 八碩
(算知) 知哲 (  )
(  ) (  ) 春知
(  ) (  ) 門入

1686年
(道悦) 道策 道的
(  ) (  ) 道砂因碩
(  ) (  ) 八碩
(算知) 知哲
(  ) (  ) 春知

1687年
(道悦) 道策 道的
(  ) (  ) 道砂因碩
(  ) (  ) 八碩
(算知) 知哲 (  )

1690年
(道悦) 道策  (  )
(  ) (  ) 道砂因碩
(算知) 知哲  (  )

1695年
隠居 当主 跡目
(道悦) 道策 策元
(  ) 道砂因碩 道節
(算知) 知哲 仙角
(  ) 玄悦門入 (  )


四、まとめ
従来から囲碁四家がどのように成り立ち、推移していったのか興味を持っていた。江戸時代における囲碁四家は御城碁が中心であるため、その御城碁の分析をしてゆく必要性を感じていた。このたび本論文で、「同格対局」というやや大胆な新しい仮説を提唱した。この仮説により、一定の期間まで(少なくとも1683年の「格違い対局」まで)は対戦組合せが説明がつくのではないかと思っている。
元々は道策・知哲戦が、御城碁では1667年の対局以降1677年までブランクのあること、道策・算哲戦の対局数の方が多いことに個人的に疑問を持っていた。こうした疑問に合理的な説明がつくのが、「同格対局」の概念である。
当初は家という概念はなく、個人の資格で出仕していたものと考えられるが、本因坊派と安井派の対決の構図の中で本因坊家や安井家ができてきて、本来は両派の補完的位置づけとして師弟関係に関わりのない名跡継承された門入、因碩も、道策時代第4期くらいから、それぞれ林家、井上家に整備されていったものだと考えられる。
また名跡継承については、従来言われているよりも重要なものだと筆者は考えており、本因坊家についても本因坊家の継承というよりも「本因坊」という名跡継承が本来だったのではないかと考えている。先に指摘した門入、因碩については、名跡復活という要素が、出仕に際して円滑に受け入れられた可能性があるように思われる。また春知についても、その前の時代に存在した別人の春知の名跡継承という可能性もあるのではないだろうか。算哲が父の名跡を継承したことも何の疑問の余地もなく受け止められていたが、時代背景からすると早い時期の名跡継承であり、意味のあることなのかもしれない。少なくとも家制度の確立と名跡継承とを分けて整理して捉えてゆく必要があるように思われる。
今回、本論文で算知時代、道策時代の御城碁の対戦組合せに関する分析を行った。今後もこうした形での分析を進めてゆきたいと思っている。本研究では、あえて同時代の他の文献などをほとんど盛り込まなかった。本研究が叩き台として議論するきっかけとなれば幸いである。

参考文献
御城碁譜整理配布委員会『御城碁譜』1951年
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ゴールデンウィークの連休中に、本業の研修のついでに囲碁サミット加盟自治体の一つである広島県尾道市因島を訪ねてきました。尾道駅前でレンタサイクルで自転車を借り、渡し船で向島に渡り、海沿いの道をめぐり、因島大橋を渡って因島に入りました。




本因坊秀策の生誕地である因島には、本因坊秀策囲碁記念館があり、その裏に生家が復元されています。




記念館の手前隣にある石切風切神社の境内には「本因坊秀策碑」(本因坊秀哉の揮毫)があり、記念館の向かいの道をまっすぐに山手の方に進むとある地蔵院には本因坊秀策の墓碑がありました。




昨年の囲碁サミットの際に、『碁聖本因坊秀策』を購入していたので、今回は『本因坊秀策囲碁記念館~郷土に息づく囲碁文化~』(記念館展示資料展示図録)と『能美島の棋家・棋伯石谷翁廣策―資料でたどる生涯―』を購入しました。




個人的には、秀策個人に関する研究は、地元尾道市の方々をはじめとした他の研究者の方にお任せして、私はその周辺にいる棋士の研究を進めてゆきたいと思っています。


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ゴールデンウィークの連休中に、本業の研修のついでに囲碁サミット加盟自治体の一つである佐賀県鹿島市を訪ねてきました。




「囲碁式」をまとめたことで知られる寛蓮の生誕地とされており、祐徳稲荷神社の向かいの駐車場奥に顕彰碑が建立されています。はじめは祐徳稲荷神社の境内周辺を探していたので、顕彰碑がなかなか見つかりませんでした。奥の院まで登ってみたり、参道の商店街をめぐってみたりしました。




寛蓮の顕彰碑は、瀬越憲作名誉九段の揮毫によるもので、下の台座に九州アマ碁界のトップを競う「祐徳本因坊戦」の歴代優勝者の名が刻まれています。なかなか大きくて立派なものでした。




今後、「囲碁式」の中身、寛蓮の生涯など平安期の囲碁についても研究を深めてゆく必要がありますね。


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囲碁史会会報第36号(平成25年3月)に掲載された「棟方志功の「棊聖道策」について」を載せておきます。

棟方志功の「棊聖道策」について

一、はじめに
島根県浜田市で発行されていた新聞『石見タイムズ』に「棊聖道策」という連載があり、その挿絵を棟方志功が担当したという情報を受けて、この連載の調査するとともに、概要を簡単にまとめたのでここに報告する。

二、『石見タイムズ』の「棊聖道策」の予備情報
(1)『石見タイムズ』について
『石見タイムズ』は、島根県浜田市で1946年7月1日創刊の旬刊紙『・田新聞』を前身に、1947年7月1日に週刊紙となったことにともなって改題された地方新聞で、1972年まで続いた。
満州日々新聞で活躍していた小島清友が社長、息子の小島清文が主筆として、地域に根づいた話題やニュースを報じるとともに、地域文化の興隆のためにさまざまな連載やイベントを積極的に企画した地方新聞だった。
なお、『石見タイムズ』に関する研究として、吉田豊明氏の一連の研究があり、これを全面的に参考にさせていただいたことを付記しておく。

(2)「新撰石見風土記」について
『石見タイムズ』1956年11月3日号より「棊聖道策」の連載が開始されている。この詳細については後述するが、「新撰石見風土記」と銘打った企画の一環であり、当初の企画段階では、「歌聖人丸」、「画聖雪舟」、「文聖?外」、「石見銀山」、「津和野半紙」、「喜阿弥窯」、「石見温泉」、「石見人物略誌」、「石見風土記集成」なども順次予定だったようだ。『石見タイムズ』によると、棟方志功の腎盂炎の発症により、第二弾の「画聖雪舟」では此木喬の文のみとなり、棟方志功の挿絵はなくなっている。

(3)此木喬について
「棊聖道策」の作者は此木喬とあるが、これは筆名で、元商工省の水谷良一のことである。
水谷は1901年に愛知県西枇杷町に生まれ、一高、東大法学部を卒業後、1924年に内閣統計局に入局、1938年に商工省に転じ、1943年に東京鉱山監督局長就任、1944年に退官後は日本時計協会理事長など通商産業省の外郭団体の役員を歴任し、1959年4月に58歳で死去したとある。
一般的には水谷良一は、棟方志功の理解者として知られており、棟方志功が文化的、宗教的な関心を持ち、作品制作に深みを増してゆく背景に大きな影響を及ぼした人物である。この連載も、小島清友と縁のある水谷良一が、棟方志功を誘って実現した企画だろう。


三、『石見タイムス』の「棊聖道策」の概要
此木喬(水谷良一)の連載内容の簡単な概要および棟方志功の挿絵について一話ごと記しておく。棟方志功の挿絵については、タイトルのような形で示してみたが、実際にそのようなタイトルが付けられているわけではない。挿絵中にある文字、描かれている絵などから筆者が勝手に名付けてみたものであることをご了解いただきたい。

(1)此木喬(水谷良一)による連載
第一話(1956年11月3日号)道策の最期に、道知を跡目に指名するとともに、道節因碩の八段昇段、道知後見、碁所放棄を伝える場面を描いている。
第二話(1956年11月10日号)欠号(本能寺の変の際の算砂・利玄戦を描いたか?)
第三話(1956年11月17日号)信長による名人称号の創始と秀吉による碁所制創設を描いている。
第四話(1956年11月24日号)家康時代の碁界が描かれている。
第五話(1956年12月1日号)算砂と本阿弥光悦が、独裁者との関係について類似していると見られる点を描いている。
第六話(1956年12月8日号)算砂戯歌二十首を中心に書かれており、門人宗算についても触れられている。
第七話(1956年12月15日号)道碩と利玄の略歴が書かれている。
第八話(1956年12月22日号)道碩の技術的評価と本因坊家再興の働きかけについて描かれている。
第九話(1956年12月29日号)古算哲の隠退と算知への継承が描かれている。
第十話(1957年1月5日号)算知・算悦の争碁が描かれている。
第十一話(1957年1月12日号)算知の碁所補任について書かれている。
第十二話(1957年1月19日号)本因坊家側から見た安井家との攻防が描かれている。
第十三話(1957年1月26日号)道悦の算知との争碁願い提出について描かれている。
第十四話(1957年2月2日号)算知・道悦の争碁の経過が描かれている。
第十五話(1957年2月9日号)算知・道悦二十番碁の結果が書かれている。
第十六話(1957年2月16日号)欠号
第十七話(1957年2月23日号)算知の碁所返上と道策の碁所就任が描かれている。
第十八話(1957年3月2日号)道策の御城碁での戦績が書かれている。(算哲、知哲を古算哲の実子、春知を算知の実子としている。)
第十九話(1957年3月9日号)道策の碁所就任と将軍家綱の親臨について描かれている。
第二十話(1957年3月16日号)御城碁での手合割に関する論争が描かれている。
第二十一話(1957年3月23日号)道策の抜きん出た実力を歴代名人と比較して描かれている。
第二十二話(1957年3月30日号)道悦の生涯と道的、道知の成長が描かれている。
第二十三話(1957年4月6日号)道悦の功績として、門弟の育成と碁盤の寸法の制定について描かれている。
第二十四話(1957年4月13日号)作者が棟方志功、小島社長とともに、道策の生誕地である馬路と琴ヶ浜に訪れたときの印象が描かれている。
第二十五話(1957年4月20日号)馬路の山崎家と石見銀山の結びつきについて描かれている。
第二十六話(1957年4月27日号)石見銀山と江戸との結びつき、石州白、道策の本因坊家への入門について描かれている。
第二十七話(1957年5月4日号)道悦の道策に対する指導について描かれている。
第二十八話(1957年5月11日号)道策と坊門高手との対戦成績について描かれている。
第二十九話(1957年5月18日号)道策と算哲、知哲との対戦成績について描かれている。
第三十話(1957年5月25日号)算哲の天元局と天文方への転出について描かれている。
第三十一話(1957年6月1日号)該当欄のみ欠損(秀甫、俊節による天元碁が描かれているか?)
第三十二話(1957年6月8日号)梶川、呉、久保松による天元碁が描かれている。
第三十三話(1957年6月15日号)道策による全局的布石と部分的定石の統合と手割理論の創設が描かれている。
第三十四話(1957年6月22日号)道策と親雲上浜比賀の四子局について描かれている。
第三十五話(1957年6月29日号)道策・親雲上浜比賀戦後の琉球碁界の状況と屋良里之子の江戸上来について描かれている。
第三十六話(1957年7月6日号)道知・屋良里之子戦と可碩・屋良里之子戦について描かれている。
第三十七話(1957年7月13日号)道節因碩の碁所就任と屋良里之子への免状下付について描かれている。
第三十八話(1957年7月20日号)道策・春知戦を道策生涯の傑作とすることについて描かれている。
第三十九話(1957年7月27日号)道策流石立による道策六天王の活躍が描かれている。
第四十話(1957年8月3日号)算哲の天文方転出と道策の御城碁不出場について描かれている。
第四十一話(1957年8月10日号)跡目道的の夭折と道節の井上家跡目就任について描かれている。
第四十二話(1957年8月19日号)跡目策元の夭折と道知の入門について描かれている。
第四十三話(1957年8月26日号)元禄十四年における道策の憂いについて描かれている。
第四十四話(1957年9月2日号)棋聖道策に対する古今の識者による評価が書かれてある。
第四十五話(1957年9月9日号)道策の思いやり、歴代高手、道策の碑文について書かれてある。


(2)棟方志功による挿絵
第一話(1956年11月3日号)横たわる道策の枕頭にいる道節因碩
第二話(1956年11月10日号)欠号
第三話(1956年11月17日号)「呉州赤繪天下一」
第四話(1956年11月24日号)「乾坤窟」李シャク史
第五話(1956年12月1日号)「本阿弥光悦像」
第六話(1956年12月8日号)「寂光寺想図」志功
第七話(1956年12月15日号)秀忠御前の道碩・算哲戦
第八話(1956年12月22日号)遺言により道碩の位牌を守る丈和未亡人
第九話(1956年12月29日号)(内容不詳)
第十話(1957年1月5日号)保科正之の対局中の失言に対する算悦の対応
第十一話(1957年1月12日号)算知の道悦宅への訪問
第十二話(1957年1月19日号)「青天ヒキレキ」棟志功
第十三話(1957年1月26日号)「道策生家梅樹」
第十四話(1957年2月2日号)「道策肖像」
第十五話(1957年2月9日号)「御城棊烈しくつづく」
第十六話(1957年2月16日号)欠号
第十七話(1957年2月23日号)「徳壽院算知大徳、寂光寺」志功の
第十八話(1957年3月2日号)「破竹進撃」
第十九話(1957年3月9日号)将軍家綱の親臨
第二十話(1957年3月16日号)「道策棊聖御生家にある棊器之図」
第二十一話(1957年3月23日号)「後の二十一世秀哉」
第二十二話(1957年3月30日号)「出藍秘譜」
第二十三話(1957年4月6日号)「道悦□□樂」
第二十四話(1957年4月13日号)「道策聖御生家□庭」
第二十五話(1957年4月20日号)「馬路山崎家門構図」
第二十六話(1957年4月27日号)「大森町」
第二十七話(1957年5月4日号)「山崎三次郎少年まなぶ」
第二十八話(1957年5月11日号)群峯を抜いて雲表の彼方に
第二十九話(1957年5月18日号)「天玄巾石」
第三十話(1957年5月25日号)「菜虫化蝶、蚕起食桑、山沢浮雲、山茶始開」
第三十一話(1957年6月1日号)該当欄のみ欠損
第三十二話(1957年6月8日号)「梶川・山崎、呉清源・木谷、久保」
第三十三話(1957年6月15日号)「一脉の光明」
第三十四話(1957年6月22日号)「扶桑に在りては対するにあたり上手の位の者に二棊子に過ぐべからざるを以てす」
第三十五話(1957年6月29日号)「鳥獣相まみえる」
第三十六話(1957年7月6日号)道知・屋良里之子戦
第三十七話(1957年7月13日号)「日本国大国手井上因碩」
第三十八話(1957年7月20日号)「相手に打ち損じあれば勝にあらず」、「至極の地に至れる人は言々皆妙とこそ覚ゆれ」
第三十九話(1957年7月27日号)「龍と鳳凰」
第四十話(1957年8月3日号)「花盛り」
第四十一話(1957年8月10日号)「流水への落葉」
第四十二話(1957年8月19日号)「神谷道知」
第四十三話(1957年8月26日号)「秋の暮」
第四十四話(1957年9月2日号)「棊聖道策像」
第四十五話(1957年9月9日号)「馬地山崎裏山真□」

四、考察
地方新聞とはいえ、囲碁が題材の連載小説に、著名な棟方志功が挿絵を担当したということは、従来あまり知られていなかった。作品そのものも現在現存しているものなのかは定かでない。また棟方志功にとっても、それほど大きな意味を持つ仕事ではなかったためか、こうした仕事をしたことの記述は見られない。棟方志功の芸術家人生の中でどのような位置づけられるのか、またどのような背景があるのかも今後の課題と言える。
もっと大きな視点でいえば、一般紙などでの囲碁を題材とした連載が取り上げられたことがあるのか、また美術作品の中で囲碁が描かれているものがどのくらいあるのか、といったこともテーマとしてありうるだろう。
今まであまり積極的に取り上げられてこなかったこうしたテーマが、今後掘り起こされてゆくきっかけとなれば幸いである。


五、結語
本論文作成に際しては、大田市在住の藤間元康氏、浜田市立図書館にご協力をいただいた。ご協力に感謝いたします。


参考文献
『石見タイムズ』1956年11月3日号~1957年9月9日
吉田豊明「父子鷹、小島清友・清文の「石見タイムズ」(一)」(『郷土石見』61号、2002年12月)
吉田豊明「父子鷹、小島清友・清文の「石見タイムズ」(二)」(『郷土石見』62号、2003年4月)
吉田豊明「父子鷹、小島清友・清文の「石見タイムズ」(三)」(『郷土石見』63号、2003年8月)
吉田豊明「父子鷹、小島清友・清文の「石見タイムズ」(四)」(『郷土石見』65号、2004年4月)
11月‎17日(土)の囲碁サミット2012と11月18日(日)の益田市ふ
れあい囲碁フェスタを無事に終えることができました。ご参加いた
だきました皆様に御礼申し上げます。自治体としては秋田県大仙市、新潟県聖籠町、埼玉県北本市、神奈川県平塚市、山梨県北杜市、長野県大町市、広島県尾道市、島根県大田市、佐賀県鹿島市、宮崎県日向市の10市町に、島根県益田市に集まっていただきました。兵頭俊夫東京大学名誉教授にご講演をいただき、プロ棋士の大竹英雄名誉碁聖(日本棋院顧問)、平野則一五段(日本棋院常務理事)、神田英九段(益田市出身)、桑本晋平六段(出雲市出身)、新海洋子五段(岩本薫九段門下)に来ていただきました。

特に囲碁サミットでは、パネ
ルディスカッションのコーディネーターの大役を仰せつかり、ギリ
ギリまで準備に奔走しましたが、何とかそれなりの形にまとめるこ
とができ、ほっとしております。

岩本先生のパネル展示や漫画「天
地明察」原画展をはじめ、いくつかの試みを、市役所の担当者とと
もに仕掛けてみました。少しでも囲碁に興味を持っていただければ
、幸いです。

また囲碁史会としても、初めてオブザーバー参加しま
した。来年以降、さらなるコラボレーションの展開が進展すること
を願っています。

また改めて囲碁サミットの詳細については書き込みたいと思います。