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昨日の続きです。

御妣神社と四条畷神社にお参りしたところからです。

 

左が楠木正行の母を祀る御妣神社拝殿で、中央が楠木正行を祀る

四条畷神社の拝殿でした。

 

御妣神社拝殿から、中の四条畷神社の本殿を見たところです。

 

四条畷神社拝殿から中の本殿を見たところです。

賽銭を入れてねんごろにお参りしました。

 

境内には、右翼団体「日本会議」北河内支部による記念植樹がありました。

 

神社が高台にあるので、四条畷市内を見渡せます。

 

次に、楠木正行が戦死した四条畷の戦いです。

 

1336年(延元元年/建武3年)、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、

楠木氏はしばらく活動休止状態でした。正成の子楠木正行が成長すると、

本拠地である河内国南部で次第に力をつけ、摂津国南部の住吉・天王寺

周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになります。1347年9月

に楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、その11月には住吉付近で山名

時氏を破ります。足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1

月に、高師直を大将とする、各地から集めた6万の大軍を編成して、北上

する楠木軍と四條畷で対峙します。

四条畷の戦は1月5日にありました。この日の戦闘を『太平記』より書くと、

先ず足利軍大将の高師直は、約6万の軍勢の本営を野崎附近に置き、そ

の周囲には兵二万、射手五百人を以て固めていました。

 

飯盛山周辺の地図です。四条繩合戦で高師直軍5千が飯盛山城に攻め登りました。

また、南朝方楠木家臣の恩地左近太郎が飯盛山城に籠って細川頼之軍に防戦しました。


その第二隊は生駒山の南嶺に駐屯し、大和にある南朝軍に備えています。

高師泰の遊軍二万は和泉堺を占領し、楠木軍出動の要地である東条を、側

面から衝かんとして集結中でした。北朝軍の配備は消極的で、東条を包囲

して徐々に半円径を縮めようとしています。南朝軍本営が東条城(嶽山城)

にありました。南朝軍は三軍を編成し、正行は弟の正時と共に第一軍を率

い、三男の弟次郎正儀は東条に留守軍となりました。吉野朝廷からは北畠

親房が老躯を提げ、和泉に出馬し、堺にある高師泰に対抗していました。

また南朝方の四条隆資は、河内等の野伏の混成隊を以て、生駒山方面の

敵を牽制していました。
 正行直属の兵は凡そ一千人位で、当時大和川附近(河内国府辺り?)の

沼沢地に陣していました。師直の本営を掩撃すべく突撃隊を組織します。
 五日早旦、恐らく午前六時頃に、正行は自ら突撃隊五百騎を提げて、

一直線に北に強行突破を企てています。敵の前哨は全く蹂躙されて、約

半里も北に圧迫されています。この時四条隆資軍に牽制されて居た生駒山

方面の敵は、この有様を俯瞰して、四条軍を見捨ててどっと山を下り、楠軍

の後続部隊に躍りかかります。つまり思わぬ新手の出現で、楠軍の突進隊

は後方から切断されました。
 この時正行の手兵僅かに三百。なおも果敢な突撃戦を続けて行きます、

高師直の本陣も見えて。踴躍して飛び込むと、早くも高師直は本営を捨て、

北方の北条村に退ぞこうとします。この辺は沼沢地のため走るには不便

でした。追うこと暫くして、その間半町、ついに高師直を討たんとした時に、

上山六郎左衛門が高師直の身代りになって討死します。
 その為に大分暇をとります。それでも執拗に追撃の手をゆるめなかった

が、突然敵方に強弓の一壮漢が現れました。九州の住人、須々木四郎と

名乗って雨の如く射かけられます。射手五百人も射撃しました。

 


四条畷の戦い(歌川国芳画)  想像画です。

 

弟正時は眉間をやられ、正行も左右の膝口三ヶ所、左の眼尻を深く射抜

かれました。

 午後四時頃には、野崎・四条畷には三十余騎の姿が、敵軍に遠く囲ま

れながら茫然として立ちすくんでいました。勝利を逸した気落ちが、激戦

で疲労し切った身体から、総ての気力を奪い去っていました。
正行は、「嗟、我事終れり」と嘆じて、弟正時と相刺し違えて死にます。相

従う十三余士、皆切腹して殉じました。

 

当初の飯盛山城は楠木方の城でした。

 

以前、大阪歴史博物館の地図より、河内湾は土砂で

埋まって草香江になっています。最新の2006年の

論文で公表されました。当時の大和川は草香江に流

れていました。

 

現在の大阪地図です。この上に上の日下氏地図を重ねて

縮小し、大和側と淀川と大阪城の位置を合わせました。

すると

このような地図になります。楠木正行は父の正成が河内守であった

事から、河内国府の再建をしていました。(以前UPしました)

当時、大和川は草香江に流れていたため、正行は河内国府辺りの

大和川付近に居て、北の野崎へ突撃したと考えられます。

草香江はもう少し小さくなっていたと考えられますが、四条畷の辺

りは湿地帯であったでしょう。

この戦いは真田幸村が家康本陣に突撃した戦いと似ています。

 

昨日UPした御祭神の説明板にも、いろいろと書いてありますので

拡大すると

 

四条畷の戦いの前年に、渡辺橋から落ちた敵兵を助けたことが

赤十字精神として書いてあります。

 

四条畷の戦いに出る前に、吉野の後醍醐天皇に会いに行きました。

吉野の如意輪堂では一族143名の名を板壁に書いて、辞世の詩

「帰らじと かねて思えば 梓弓 亡き数に入る 名をぞ留むる」

多勢に無勢のため、正行は大東市字ハラキリで討死しました。首の

ない遺体が四条畷神社近くで、楠の木を墓石代わりにして埋葬されました。

 

正行の首は京都嵐山の釈迦堂左隣の宝筐院にあり、

敵なのに足利義詮は楠木正行を尊敬して、遺言により

彼の墓は、首塚の横に造られました。

 

今日はここまでです。明日からは飯盛山城の紹介です。

 

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