<最終決着!「田布施システム論」のデマと「長州南朝システム論」の真実>

「明治天皇が長州藩の大室寅之祐だ」という説があります。これにかこつけ鬼塚英昭というノンフィクション作家が、よく調べもせず「日本は天皇も含め"~部落"である田布施出身者によって支配されている」等というデマを拡散し、我が國體のイメージダウンに躍起です。

そこで、ベールに包まれている明治天皇の実像に迫るとともに、「田布施システム」等というデマ話を完全論破し、真相を明らかにします。

まず、月読歴(真の皇統譜)に基づく京都皇統情報部・加勢舎人からの仄聞によると、後醍醐天皇の第一子・護良(もりなが)親王の子・興良(おきなが)親王の末裔である「大室家」というのが山口県熊毛郡田布施村にあって、長門の国の国主だった長尾氏、次いで大内氏、さらに毛利氏の各時代を

領主が天下を取った時の”南朝系隠し種”として守られてきました。一方、同じ田布施にある南朝系鷹司家が代々住職を努める円光寺住職の娘スエが幕末に生まれ、隣家の地家作蔵に嫁ぎ寅之祐が生誕。その後、スエは離縁し大室家に嫁ぎ、子息を正式に「大室寅之祐」とします。

ところで、時代は前後しますが、室町時代に日明貿易で財を成した大内氏(百済系?)に明国や高麗の背景のもと、分離独立を画策する動きが噂されました。これを牽制するため、南朝皇統は古代ユダヤ十支族物部(出雲族)系の護良親王の末裔・興良親王を、

また足利幕府も、”西行”こと佐藤義清の末裔・佐藤甚兵衛を、古代ユダヤ十支族秦氏体制に不満を持って諸国に散らばった物部氏の隠れ里「田布施」に派遣、大内氏の野望画策を監視したということです。この謎の「田布施」は鹿児島県や佐賀県にもあり、”タブセ”はヘブライ語と言われています。

また田布施より西に”宇部”がありますがこれも物部から由来する名で、毛利氏(物部モリヤの末裔)の出身地と言われています。なお、そもそも古代ユダヤ人は元々日本人から分かれた"出戻り日本人"であることは、竹内文書、九鬼文書、宮下文書等の古事記、日本書紀以前の古文書から明らかです。

このように、田布施が"特別の地"として言い伝えられてきた理由は、数字の「四」が忌み嫌われるいきさつと共通してます。つまり、数字の「四」は皇室しか遣ってはならない数字であり、田布施は皇統の争いにまつわる物部氏の隠れ里であるため、触れて欲しくないからなのです。

ところで、この佐藤義清の末裔は、佐藤市郎海軍中将、佐藤(岸)信介、佐藤栄作の三兄弟となります。佐藤栄作の話では「私達三兄弟は、頭の良さは上からだよ」と言わせたほどの秀才だった佐藤市郎は海軍兵学校、海軍大学校ともに首席で卒業しましたが、

同じ首席でも過去に例を見ない高得点であったという言い伝えがあります。佐藤中将と海軍兵学校36期の同期生には沢本 頼雄、塚原二四三、南雲忠一の三人の海軍大将がいましたが、頭の良さは佐藤中将が抜きん出ていたことは衆目の認めるところだったといわれています。

また、安倍晋三総理の出自についても、一部に田布施出身だというデマがあるので説明しますと、物部系加茂氏(南朝系)の流れを汲む安倍晴明の子孫・季任が、天智系天皇(後の北朝)呪詛の罪で肥前国(現在の佐賀県)に流罪となり、後に元寇の際にも活躍した「松浦党」頭の娘婿

・松浦三郎大夫実任として平家水軍で活躍。その娘も平知貞に嫁いだため平家滅亡後、"天下人"源頼朝の迫害を免れる為に安倍姓を名乗り長門国、すなわち、現在の山口県長門市油谷町(山陽側の周防国田布施とは反対側の山陰側)に落ち、家業の醤油屋を営み、現在に至ったのが真相です。

さて、話を大室寅之祐にもどすと、実際、大室寅之祐が護良親王の末裔である話は吉田松陰も書き残しており、幕末には松蔭が天皇としての英才教育をしていたと言われています。

また、この他の重要な証言としては、梨本宮守正の娘で朝鮮王朝に嫁いだ李方子は、「明治帝は南朝の人だ」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の妹の息子・興光も、「北朝の睦仁親王と明治帝は別人だ」との証言があります。

また、愛知県の熊沢宏道は熊沢家が後醍醐天皇六代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝が正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されました。が、その後具体的は進展は見られず崩御されたと。

さらに、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。

これを受け、明治44年2月4日、第二次桂内閣は帝国議会において「皇統は南朝をもって正統と為す」との決議を行い、これにより20年にわたる皇統正統論争が決着を見たのでした。
以上の背景には、南北朝時代以降も長い間の懸案事項として、皇統における南北朝の争いや南朝の復興運動というものがあり、国学者の本居宣長、平田篤胤、水戸光圀、吉田松陰らによって教導されてきました。

その結果、南朝系”隠し玉”はこの他にも全国にいることが判明し、南朝復興論を主張する雄藩が、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを匿っていたのです(いわゆる"後南朝七家")。

時の覇者に大政を委任する天皇は、現実には生身の存在であるため覇者がその即位、譲位を左右した例は歴史上、枚挙に遑がありません。藤原氏の百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と後光厳天皇などです。

ちなみに、日本史上最初の皇位継承問題として誤解が多いのが「継体天皇」です。確かに、継体天皇(彦太尊)と百済の武寧王は同一人物(「国境味」)です。が、応神天皇の五世孫だった彦太尊は、かつて海を渡って百済王となり、その後日本の天皇を兼任したのが真相です(「三国史紀・百済本紀」)。

これらから見ても、公武法制の存在を知った雄藩は、「いつかは幕府に代わり、この手で天下を掌握せん」との思惑から、密かに”自前の天皇”を準備したと推測されます。

ところで、明治天皇と睦仁親王の交代の背景には、単に我が国古来の"南朝皇統の復権"というだけでなく、「堀川政略(落合莞爾)」という明治維新全体を支配する大きなシナリオも描かれていました。

それは、幕末における欧米列強からの開国要求という国際情勢の変化を背景にした秘策でした。ウィーン体制の結果成立した欧州王室連合は、縄文、弥生時代以前の古代に分離した同族(海部氏、物部氏、秦氏ら)のY(-)ハプロD系遺伝子が入った日本の皇室にも参加を求める方針を立てました。

これを受け日本皇室は、国際環境の変化への対応とともに、万世一系(血脈又は霊脈としての)と國體(国家としての霊脈)を維持するため、孝明天皇が義兄・朝彦親王および岩倉具視らと謀って、孝明天皇崩御を装い、睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠れ、

以降はシャーマンとして国家安泰を祈りながら外交、国際金融などを担当する”国体天皇(裏天皇)”になり(京都皇統)、一方では大室寅之祐が明治天皇として即位、政府と軍を統帥する”政体天皇(表天皇)”となり(東京皇統)、”表裏の皇統二元体制”を敷くことを決めたといわれています。

この背景には、開国により日本皇室が世界王室連合に参加するとなると、欧州王室の慣行である王室間通婚を避けて通れず、その結果、皇統に外国王室の血脈が入り、白山王朝以来三万年以上続く世界で最も古い皇統と、我が国固有の国体概念が破壊されるのを防止する深慮がありました。

また、皇統を維持するためのいわば"後継候補バンク"の設立という目的、さらには、大政奉還の結果、政権が京都に戻ることになれば、長年政体(幕府)の本拠だった江戸(東京)は荒んだ武蔵野に戻ってしまうことも懸念されたようです。

なお、仙台藩に匿われていた小野寺天皇は、幕末の戊辰戦争の際、西軍側に対抗するため"東部皇帝"として「奥羽列藩同盟」に担がれました。その背景には東北地方で産出された豊かな金塊があります。東軍側はこれを元に、欧米列強から銃器を購入しますが、

西軍有利とみた欧米は、あえて射程の短い旧式の銃を売りつけ、しかも代金だけ受け取ってまともに納品することもなかったため、東軍側は無念にも敗退したと言われています。

ともあれ、結論は、明治維新の真の目的は、途中の一時期を除いて鎌倉幕府以来江戸末期まで続いた、半島など大陸経由の"後期出戻り日本人"である北朝勢力(秦・藤原体制=騎馬民族)主導の体制を覆し、"先住居残り日本人"である南朝勢力(縄文海洋民族+物部氏)を復活させることだったのです。


なお、以上は「南北朝こそ日本の機密(落合莞爾)」「明治維新の極秘計画(落合莞爾)」「奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新(落合莞爾)」「天皇とワンワールド(落合莞爾)」「月刊ムー(中矢伸一)」「もう一人の天皇(小野寺直)」、「裏皇室情報部"八咫烏"証言」等を基に、独自の解釈を加味した私の見解です。

AD