2008年12月15日

続き

テーマ:一目山人

押し目買い、戻り売り、高値更新、安値更新も売買ポイントの基本は値動きに対する順であります。

要するにその動きを相場の方向性と見なせるか否かが決定的に大事なものなのであり、均衡表では図表のあり方、時間関係、値段のとり方によってその判断を下していくことになります。


無論これは一度に全てが理解できるものではありませんが最も重要な判断はどこが基本波動であるかということに尽きるのであります。

上げ相場でも下げ相場でも結局は三波動に過ぎないということが一目均衡表の基本的な捉え方となりますが、三波動とは上げて、押しを入れて、高値を更新していく形、下げて、戻りを入れて、安値を更新していく形であります。


三波動形成は基本数値、対等数値に律せられやすいこと、時に計算値を上げどまり、下げ止まりとしやすい傾向があることを整理して均衡表図表と併せて活用しますが何よりも注目すべきは押し、戻りのポイントを相場水準と見なせば上げ相場は相場水準の上昇する相場、下げ相場は相場水準の下落する相場ということになるでしょう。


計算値を出しておき、時間内での達成如何を推し量るのはモミアイの範疇であるか否かを測る意味もあるのでありまして、これらを併せて基本数値の特徴を生かせば少なくとも絶対にこうだというポイント0は見出せるものです。


勉強会では三波動構成のあり方及び相場水準からの放れのみを活用して日経平均株価月足変遷を説明しますが、次の二つのみ勉強会前に徹底してください。


①上げ相場も下げ相場も三波動の変遷として捉えられる

 これはただの波形ではなく基本数値、対等数値の関係で成される三波動構成である。

②モミアイ相場の起点からの基本数値では高値、安値、あるいは同水準となりやすい



具体的には中国講演用資料http://ichimokusanjin.ameblo.jp/ichimokusanjin/theme-10000974944.html をご覧下さい。





勉強会のお申し込みはメールにて受け付けます。


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2008年05月22日

雑文

テーマ:一目山人

 「本屋の子供は勉強が出来る」というのが山人の持論でありました。

本の並べ方にはルールがあるそうであります。

書籍にうるさい古老から10年ほど前に「○善は最近並べ方が下手になった」等と聞きましたから、図書館とは違いさほど厳密なジャンル分けはなされていないのでしょうが、多くの言葉(書名)がグループごとに分けられている様に幼年から触れることは大事なことである、と考えていたようです。


従って例え自分が読まなくとも子供の教育のために本を大量に並べておけ、と父は薫陶を受けたようであります。

もっとも祖父も父も大変な読書家でしたから読んだことの無い本を並べることはありませんでした。

祖父の書籍は仏教哲学か歴史関係が多く、作家志望だった父は小説と数学関係の書籍が多かった記憶があります。

祖父の狙いは機能せず、私は勉強の出来ない子供でしたが、多くの本に囲まれたおかげで色々と役に立ったことがあります。


続きは改めて。


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2007年04月14日

「昭和51年度株式評論家番付」

テーマ:一目山人

 一目均衡表第4巻「わが最上の型譜」に山人がうれしかったと述べている雑誌を国会図書館で調べてきたことがあります。

「創」http://www.tsukuru.co.jp/ という雑誌の「昭和51年度株式評論家番付」という記事で記者名は「穴見久」という匿名記事であります。

一目山人について次のように書かれていますのでご紹介を。


 株式評論 相場変動論の草分けは、なんといっても細田悟一で、東京新聞の前身である国民新聞、みやこ新聞を通じ、市場部長、経済部長として一世を風靡した相模太郎だが、戦後は一目山人なるペンネームで日本証券新聞の「プロスペクト」「観自在」を書き、多くのファンがある。現在も「一目均衡表の急所」を時折発表しているが、事実上引退した永世横綱格であろう。

 細田には3人の弟子があった。東京新聞の露崎寿郎、藤本行雄、中外商業新報の小針寛司である。



とした上で記者、証券会社、信託、フリーの評論家を取り上げて52年度の番付を決めるという記事でありますが、東の横綱に石井久、柿原春一、大関は松本了、町田恒男、西の横綱には岡庭博、岡部寛之、大関に藤本行雄、児玉富士夫となっています。

この当時のそうそうたる面々のはじめに山人のことを永世横綱格、と好意的に紹介した穴見久氏がどなたかは私も結局判りませんでしたが、この記事の中で「日経筋をはじめ一般紙に相場通は皆無となった。」という一文から穴見氏の求める相場評論家像が伺えて興味深く感じました。


ちなみに藤本行雄氏は昭和51年当時、大阪新聞市場部長であります。

ネットで山人のことをさも知ったように書いている人がいて、大阪新聞を東京新聞と似ている新聞と書いていましたが、似ているのは当然のことでしょう。大阪新聞の前身は大阪都新聞だったかとおもいます。藤本氏が山人の弟子であればなお更でありまして、認識低き人の山人評は私には耐えられません。


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2007年03月21日

松山茂助氏のこと

テーマ:一目山人

サッポロビールの社長を勤められていた松山氏http://www5e.biglobe.ne.jp/~hodou/bukkomatuyama.html も一目山人の友人の一人です。 歌人でもあり画家でもあった松山氏から贈られた「滞欧35日」という画集が山人の書斎に眠っておりますが、少なくともこの時代のビール会社社長は定期的に席を共にしていたようです。


同じ時期アサヒビールの社長であった山本為三郎氏は大阪の実業家でありまして、技術者出身の松山氏とは随分異なります。異なる人たちがビール業の発展について共に切磋琢磨するというのは古きよき時代ならではのことでありますが、彼らが理想を語ることが出来たのは押さえるべきを押さえていたこともあるでしょう。

当時の上場企業の経営者は少なくとも会社経営と株式相場との関わりについてはその人なりの押さえ方をしているのでありまして、株式市場を甘く見たり、おもちゃにしたりということはありませんでした。


サッポロビールのホームページを見ると、松山氏の名前のみ確認できますが、立派な経営者に恥じぬようがんばってほしいと思う次第です。




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2006年12月02日

板子一枚

テーマ:一目山人

山人の話と言えば、このブログで何度かご紹介したHさんからお聞きした話が一番多いのであります。

竹内先生とこのHさんは同人会の中でも、特に売買回数といいますか勝負の好きなお二人でありまして、竹内先生など「随分乱暴な売買をした」と今でも笑っておっしゃるのですが、二人そろって山人に「君達は野放図だね」とあきれたように指摘されたとのことです。

続けて「君達の売買は上空一万メートルの板一枚に立って、勝負しているようなものだ、僕のは板子一枚でもちゃんと地べたに張り付いているから少しばかり風が吹いても死ぬような事はないよ。」


Hさんは同時に「心根が大事だ」と良く叱られたそうであります。「君には儲けるには充分なテクニックは教えてあるけれど、そんな心構えなら、仮に10億、20億持っていても、必ず失敗するよ。」と。

結局その通りになった。とHさんは笑いますが、それも現在充実しているからで、損失の可能性にさらされている当事者にとっては笑い話ではすまされません。


このような事をふと書いたのは、今年頂いた不愉快なお便りを一つ思い出したからでありまして、私の「警戒を要す」という表現に対し「我々投資家にとっては警戒を要すポジションというものは無い、上げ下げを常に明確に出来ぬなら、あなたのコメント等役に立たないから止めてしまえ」といった内容でありまして、原著もお読みになり、イッパシの学門を修め、罫線のことも色々と知識を得ていても判らぬ人には判らない、その理由を探っているからであります。


儲ける事よりも生き残る事が難しい、という認識は一昔前までは普通にあったように感じますが、今現在はどうなのでしょう。

失敗を直視し、失敗を語る、私としてはそういう人の相場認識を信用します。

私と同世代か、それより上の証券のディーラーの方々は大抵は営業を出発点としておりまして、営業、お客の売買を通して失敗を学んだ人が大抵生き残っているような気がします。




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2006年05月22日

一目山人のこと

テーマ:一目山人

 佐藤千秋氏とお会いして当時の山一證券のお話を伺った時、佐藤氏から「山人先生はビール業界と何か関わりがあったのですか」と逆に質問されました。

佐藤氏がまだ20代の頃、山人はよく尾上氏(株式市場新聞社長尾上洋一氏のお父様かと思います)とともに山一に顔を出し、雑談した後、若い社員を捕まえてビール券をあげていた、との事であります。


ビール業界との関わりがどのような形であったかは良くわかりませんが、山一破綻以前に行われた叔母の結婚式では、アサヒ、キリン、サッポロビールの各社長が出席されているので、懇意であった事は確かでしょう。


戦前の日本経済は今と比較すれば極端に規模が小さいのでありまして、その中で企業として体を整えている数少ない業界の一つがビール業界なのでありました。恐らくは、株式発行に関わる縁でのお付き合いが続いたのでありましょう。

特に山人はアサヒの山本為三郎氏と懇意でしたけれど、当時の社史を読めば企業人として、社会的責任をよく自覚し、対処している事がよくわかるのであります。


山人は独善的な経営者はあまり好きではなかったように思います。

私が小学生の頃、とある鉄道会社が良くテレビで取り上げられていましたが、一緒にテレビを見ていた祖父は苦虫を噛み潰したような顔でありました。

近年、その会社は問題を起こして大きく取り上げられておりますが、山人が生きていればなんと言うでしょうか。


創業者、特長のある経営者を知れば、その後の会社の経緯もうなずける事は多いのであります。


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2006年05月11日

「私の相場観」

テーマ:一目山人

珍しく、東京新聞を駅で買って読みました。相場欄は少ないものの「私の相場観」というコーナーがまだある事に驚きました。

東京新聞は現在中日新聞が親会社でありますが、戦前、東京市民の新聞として親しまれていた頃からこの「私の相場観」というタイトルは存在しています。大正時代の頃から既にこのコーナーで地場の証券会社社長や相場評論家の相場観を載せているのでありますが、日経新聞の「大機小機」とどちらが古いでしょうか。

それはともかく、一目山人が去ってからの都新聞は東京新聞となり、経営者が変わり、東京市民の在り方が変化しても尚、その雰囲気が変わっていない点非常に興味深いものがあります。


久しぶりに新聞記事を全部読みました。やはり見出し以下の記事しか書かかれていないものでは読者数の維持は難しいでありましょう。不愉快にならずにすむ新聞でありました。

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2006年02月07日

武勇伝

テーマ:一目山人

 祖父から良く聞いた話で、印象に残っているのは私服の刑事とトラブルがあって、その態度に大いに怒り、腕をねじ上げて桜田門に怒鳴り込んでいった、という武勇伝があります。


トラブルというのは書店街で万引き犯と決め付けられ、刑事に窃盗犯扱いされたと言う事ですが、祖父がイワンとすることは次のような事だったと思います。

刑事が自分を窃盗犯と決めつけたのは、年齢、身なりと否相応な高価な書籍を持っていたから。自分は当時から相場儲けていたから本も買う事が出来たが、当時書籍は単なる書生が買う事は出来なかった。今は簡単に手に入るのだから多くの本を読んで勉強しなさいよ。ということが一つ。

もう一つは恐らく怒るべき時、場所、について言いたかったのだろうと思いますが、今となっては良く判りません。


 この逸話は恐らく関東大震災以前の20代前半の話だと思いますが、祖父の若い頃の顔は童顔でありますし、身なりに無頓着な人でしょうから、お金を持っているようには見えなかったでしょう。

嘘か本当か判らぬ口伝でありまして、私はこのような祖父の話は大好きでした。



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2006年01月12日

藤田家のこと

テーマ:一目山人

 一目山人が藤田家の出である事は以前ご紹介しました。

現在の藤田家本家の当主は宝塚で病院経営をされておりまして、毎年ご自身の日記を送って頂いています。

私は物事を単純化する割に、容易に物事を信用しませんので、随分長い間、自分自身の「一目山人像」がはっきりとしませんでした。


 マックス・ウェーバーは父親から、人として正しく生きられないのならば死ね、と言われて、そうあるべく生きたことが、伝記を読めば判るのでありますが、果たして理想的な侍のように自己を規定しつつ、生き抜くことがかのうであるだろうか、という疑問をどうしても拭えなかったからでありまして、

原著から受ける一目山人のような生き方に対して実感が持てなかったのであります。


 藤田先生とお会いして、実に一瞬にして一目山人の生が実感として生まれたのでありますが、以来、先生からのお便りを、毎年楽しみにしています。先生は知識と実践の人でありまして、世の中には表にあまり出てこない本物は他にもたくさんおられるのでしょう。

今年も日記を送っていただきありがとうございました。先生がこのブログを見ていないことは承知ですが、感謝しております。


さて、藤田家のことですが、当然私が語るべきことではありません。

語るとすれば祖父との関わりにおいてのことでありまして、祖父が口伝として、藤田家の没落について見聞きしていた事は山人の人生に決定的影響を与えた事を書いておきます。


 藤田家からは久原房之介、藤田伝三郎が出ていることは以前書きましたが、藤田本家は、何代か当主が早死にしたと言う事もあり没落を余儀なくされました。藤田先生の御尊父は耕三という名前でありますが、祖父が聞いていたところでは三町歩を耕せば良い、との命名であったようです。

古い中国教養人の精神的伝統として、宰相になれなければ、自分の土地で耕して生活する方がいさぎよい、という命名でありまして、祖父が長く、一目山人として浪人生活を送り続けた理由も判るような気がするのであります。

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2005年12月20日

叱り方

テーマ:一目山人

 その時代の大人の責務として、一目山人は何人かの縁者の東京生活を世話しておりました。

東京での親代わりということでありますが、そのうちの一人に医学生がおりまして、医者の資格をとって田舎に帰るその時の挨拶で山人が烈火のごとく怒った(あるいは怒ったふりかもしれませんが)という話を父から聞いた事があります。


 その医学生は山人にいい医者になるよう励まされた際に「医者なんて何人か死なせて一人前ですから」と答えて大目玉を食らったのでありますが、祖父にしてみれば若い配慮の足りない軽口として許す事が出来なかったのでありましょう。

経験を積まねば良き職業人になれないという意味で上の言葉がもっともらしく語られているという事は想像がつきますが、山人は何よりも出発点、その意欲の現れ方として、例え照れ隠しであったとしても上の言葉は許せなかったのだと思います。


 一目山人は面白い人でありまして、人の才能、能力をほとんど評価の対象としない人でありました。

それは自分の能力と比較してしまえばという事があるかもしれませんが、意欲と、行動力をより評価する人でした。例え幼稚であっても高い理想とそのためのビジョンを出発点と持たぬ人は、結果的に自己の責任を曖昧にしがちでありまして、その狭い島内での常識だけを自己保身の為にだけ利用しがちであります。


 晩年の山人のもとを尋ねた何人かの人はものの5分で追い返されて不愉快な思いをしたようですが、その人達は山人の悪口を言う前に、叱られもしなかった意味をよく反省される事が大事です。


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