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2005年10月31日

雑文

テーマ:ブログ

 次男が生まれて一月少したちます。自宅で家族4人の生活をはじめてから二週間となりますが、思った以上に大変です。特に子供達は二人同時に大騒ぎをはじめるので、一人では対処できない事も多く、先週は妻へのお詫びも兼ねて3日間休みました。

明日はお宮参りに行きますので仕事を休みますが、明後日からは通常通り仕事を始めます。


このところ過去のテキスト掲載文を載せておりますが、これは年4回の勉強会でコメントしたものですから大体、3ヶ月おきに暖めていた事柄について、新たに調べなおして書いたものです。従って、書いた本人の認識もその都度変化しているものですから、読んだ方の読後感はそれこそ人それぞれでありましょう。


いくつか、しっかりした問題意識を持ちつつ経験を積んでおられる読者の方から、読後感を頂き、大変うれしく、今後の意欲を掻き立てられました。

このブログの目的の第一は極めて個人的な理由でありまして、ここ数年均衡表原著に対する認識が極めて甘いものになってきた事、そして原著読者ですら山人の思考を整理し考えるよりも、安易に相場解説者の均衡表解説を受け入れる人が増えてきた事に対する危機感からであります。


 一目均衡表に対する正しい理解を求める、と言いつつも、多くの方が私の能力について疑問があれば、やはり、有名と言われる人の話を信用するでしょうから、私の現時点での能力については明らかにしておく必要がある、という事が、このブログの出発点だったのであります。


 その意味で多くの原著読者の方々からのご質問やお便りは、大変ありがたく、自分の書いたコメントに対する評価を感じ、満足しております。

しかしながらこれは個人的な満足でありまして、本来の山人の意思である一般投資家のためにいかに役立つべきかという目的のために精進せねばなりません。

そのためには多くの方々からのご批判や、ご質問は大いに役立つのでありまして、多くの方々からのお叱りをお待ちします。

とは言え、私も叱るべき人達に対してはこのブログ上で批判しますのでその点ご了承ください。

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2005年10月31日

玉の処理

テーマ:質問事項

 原著読者の方からご質問を頂いています。一目山人の商いの仕方についてであります。

原著には商いの仕方について、詳しい説明はあまり無いのでありますが、今日はその理由について私なりのコメントを述べておきます。


 商いの仕方、つまり玉の建て方と、処理については、これを徹底させる事の意味は次の二点でありましょう。

1、リスク管理、マネージメントが資金保全にとって重要である事

2、相場で儲けるとは値幅を取ることであるから、最大値幅の変動時、最大の資金が投入されている事が望ましい事


つまり損失を最小限に押さえ、利益を最大化させるための工夫でありまして、極端にはこれだけを徹底させれば良いと主張する専門かも多く、玄人好みのテーマであります。


 しかしながら、一般的には相場の方向性(どれだけ上げるべきか、下げるべきか)との関わりにおいて、商いについて論ずるものは少ないのでありまして、実際には玉を立てること自体が、狙うべき相場の方向を限定してしまう事、あるいは相場の変動そのものによって商いの仕方自体が限定されてしまう事、について丁寧に論ずる事は難しいのであります。


原著では、相場をわかりきる事が大事、と簡単に述べておりますが、これは「今はわからない状態だ」と知る事も含めての事でありまして、山人の場合自分の判断について徹底的な整理がついていましたから、これに応じた玉の処理をした事でしょう。


一目山人は相場評論家としての誇りが非常に強い人でしたから、自分の売買やコメントで相場の方向性が変わってしまうような事態を嫌いました。晩年の山人の売買は10万株、20万株買いを入れようとも大勢観上影響が出ないよう心がけていた事が「最上の型譜」を読めば判ります。

商いの仕方は、当然オーソドックスがあるにせよ、結果的には個人で掴むべきと私は考えておりまして、なかなか的確なお答えが出来ず申し訳ありません。


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2005年10月29日

カントについて

テーマ:過去のテキスト

 二律背反については相場方向性を問題にする場合肝に銘じておかねばならないと考えます。

基本的には将来の方向、等というものは上げるとも下げるとも、また動かないとも判断しうるものでありまして、多くのテクニカル分析信奉者のように直感的判断で起点を変え、判断方法すら変化させているようでは、結果的に自分の望む(期待する)想定をしがちなのであります。


 そもそも上げる、下げる、という概念そのものに問題があるわけでありまして、一目山人が相場研究の出発点でこれをきちんと整理している点は良くご理解いただきたいと思います。


 それは別として一目山人の哲学への興味は、そもそも仏教に対する興味から始まっているのであります。

明治の日本の仏教界はその存在意義を問われる時代でもありましたから、積極的に西洋哲学を取り入れます。現代では日本仏教学とも言うべき研究成果をほこるものでありますが、山人の若かりし頃はまだなお実験的、その認識が浸透するまでには到っていない気がします。

例えば金子大栄師の大正時代の講演禄などを読みますと一般向けになされているはずの話の中に、いたるところで哲学用語が出て来ます。

何も相場を判りきる為に哲学を勉強せねばならぬという主張が私のエッセイの中にあるわけではなく、人それぞれ思考の流れによって出会うべき思考がありますので、これをきっかけに、先人の優れた思考に触れて頂ければ良いと思います。



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2005年10月28日

テキスト「認識について」

テーマ:過去のテキスト
カント

 へーゲル流に言えばカントは哲学の変革者であります。「神は存在するか否か」を問題にしてきた近代哲学を「人間理性の限界に関する学」として再構築したからです。
 当時のヨーロッパでは産業革命、フランス革命等、次々と起こった激動の時代で、現代に通じる「市民社会」が成立しはじめた時期にあたります。この市民社会が成り立つ為には、自分で考え、判断し、責任を負う、という自己責任が共通認識として存在せねばなりません。
 カントの哲学は時代の要請に応えるものでした。それは、人間は何を知りうるか、何をなすべきか、何を希望してよいか、という問題を通して「人間とは何か」に答える人間学としての哲学です。

 今回はカントの哲学を借りて、一目均衡表の原点を語りたいと思います。現在品切れになっている総合編において、山人は「カント哲学を相場研究のための第一の学とした」と述べておりまして、以前コメントしたヘーゲルやベルクソン以上に示唆してくれるものが多い、と考えるからです。


二律背反

 1766年のカントの著作「視霊者の夢」は超常現象をテーマにしています。超常現象を扱う書物は現在も数多く出版されていますが、論を展開した上で肯定か否定の結論をだすものがほとんどです。しかしながらカントのこのエッセイは超常現象についてどう認識すべきかという認識論に重点を置いていて大変興味深いものであります。

 当時スウェーデンボルグ(1688~1772)という視霊者が千里眼、その他の超能力を発揮したということで、ヨーロッパ中の話題となりました。
 スウェーデンボルグの能力を信じて、その根底にある神秘主義を確信する者と、イカサマと判断して相手にしない者の対立を反映してか、カント自身はキリスト教徒として心惹かれる部分と、学者としてうさんくささを感じる部分の相反する印象を持っていたようです。
 カントはスウェーデンボルグの超常現象について二つの論を展開させていきます。一つはスウェーデンボルグ自身の主張する説明論理を用いた、「超常現象は現実で、スウェーデンボルグは視霊者である」というもの。もう一つはデカルトの仮説を基にした当時としては科学的な説明理論を用いた「スウェーデンボルグは精神障害を起こしていて、幻覚を見ているにすぎない」というものです。

 カントはこれら相反する二つの論を提示した上で、どちらを真実とみなすべきか判断出来ない事を告白します。どちらも経験概念の限界を大きく超えているから、論理的な正しさは理解出来ても認識はできないものである。すなわち「視霊者の夢」にすぎないというのであります。
 このエッセイは後に二律背反論へと発展していきます。
 人間は、その認識能力を超えて思考したときに、必ず同様に確からしい、相反する、二つの命題にぶつかる。というものです。

a 世界は時間および空間に関して始まり、限界をもつ
b 世界は時間および空間に関して無限である

 これはカントが挙げた二律背反の一例ですが、彼に言わせればa、bは同様に、納得のいく、明白で反抗しがたい証明をすることができるのです。
 具体的には測りようのない、経験しようのない概念を論理として組み立てたところで、その論が論理学的に正しいものであっても判断しようがない。その事をカントは明らかにした訳です。

 これは裏返せば客観的な正しさを私たちは認識出来ない。ということになり兼ねません。なぜならば私たちの経験と、その知識には限界があるからです。それではカントは認識の過程と客観性についてどの様に考えたのでしょうか。(以前コメントしたヘーゲル、ベルクソンの哲学も二律背反に対する彼らなりの解答と見なすことが出来ますのでテキストを読み返してみてください。)


認識論

 カントは人間の認識過程を
1、ある現象を、五感を通じて直観として受け入れる
2、受け入れたものを思考(整理、法則化)して判断を下す
という直観と思考の形として捉えます。共に経験が大きく作用する事はいうまでもありません。

 この経験の作用を限りなく削ぎ落としていった後に共有される直観、思考をカントはア、プリオリ(先験)と呼び、ア、プリオリなものだけで打ち立てられた論理学によって、私たちは客観性を共有できる、と考えたのです。
 例えば犬が走ってくるという現象について考えますと、犬の飼主とそうでない人、犬に詳しい人と犬を見たことすらない人では、直観そのものも異なることが判ります。しかし「何かが近づいて来る」という事はどんな人でも感じ取ることは出来るでしょう。
 感じ取るという感性自体は主観的なものですが、この場合の「何かが近づいて来る」という直観そのものは、知識と経験に作用されることなく共有されるでしょうから、客観性を有していると言えます。
 さらに「何かが近づいて来る」を単純にすると、「何かが位置(空間)を変化(時間)させている。」という空間と時間の形式である事が判ります。

 空間と時間という内なる直観形式こそア、プリオリな直観であり、同様に思考に対してもア、プリオリなものを抽出することで、客観的な正しさを知ることが出来る。という事がカントの認識論の骨子となるのです。


罫線

 相場変動という現象を認識する場合のア、プリオリなモノが何であるかを考えれば、一目山人がカントに惹かれた理由がわかります。
 空間(値段)と時間の形式で直観したものを思考、判断する。というのであれば罫線ほどア、プリオリな直観形式にうったえるものはありません。罫線において、経験的な知識を排除してもはっきり言える(認識出来る)事は波動論であります。次回のテキストで論じるつもりですが、皆さんご自身でも考えてみてください。

2002年3月     細田 哲生


・二律背反からヘーゲルの弁証法は生まれたといっていい。カントが「認識の限界を超えた場合、二律背反に陥る」としたのに対し、ヘーゲルは「全てのものがもともと相反する性質を持っている、だから認識能力を弁証法的に高めていけば正しい判断が出来る」とした。

・ベルクソンはカントの言う直観そのものに批判を加えている。時間を空間と同様に扱うべきではない、として独自の直観を提示した。

・私たちが相場を認識し、売買する上で(客観的な)確からしさを判断出来ない。という場面は多々ある。一目均衡表は論理自体が単純であるだけに、上げと下げ、買いと売り、どちらの説明も可能な場合がある。工夫しながらこの門題はクリアして頂きたい。
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2005年10月27日

相場コメントについて

テーマ:相場コメント

 昨日予定通り、フォーチュンレポートhttp://www.fortune-capital.co.jp/index.php?pageId=36 が掲載されています。少し少なめの文章にまとめました。

本日ドル円は高値を更新し尚もたついている状態でありますが、18日の115.5乗せから8日目、また明日から転換線が下値を圧迫してくる事を考えれば、明日以降の変動には一応注意する必要はあります。

転換線を割るようであれば、10月18日を起点として115.5円を相場水準としたモミアイの離れを見るか、あるいは10月3日起点、114円を相場水準と見なしたモミアイの離れに注意しつつ、調整の入れ方をチェックします。当然下げ方によっては下げ相場を強く意識せねばならない局面があるかと思いますが、原則的には上げ相場の認識でおります。


 一方ユーロドル相場も煮詰まりつつあります。今日僅かに上げておりますが、7月5日安値から今日は83日目でありまして、基本数値であると同時に、3月11日高値から7月5日の下落時間に対応する対等数値でもありまして、中間波動終了の節目として重要であります。


 日経平均株価については特にコメントもありませんが、来週から週足転換線が下値を圧迫してくる点については良く考えたいところです。



 このブログの新たな読者の方々に改めて私の相場評論についての考えを述べておきます。

私の理想とする相場評論は、

1、相場の方向性を述べることで、読者に思考の再確認と新たな直観を促すものである事。

2、その上で大体の方向性を見誤らず、その瞬間のみならず、時間が経過した後にも価値を失わないもの

一目山人の相場評論は正に上の二点を満たすものでありましたが、本来相場評論には上の二点以上の意味を求めるべきではないと考えます。

私の相場コメントもそうありたいと願いつつ書いているものでありまして、出来れば一読して終わり、ということで無く、読み返して「あの時細田はこう言っている、自分ならばどう考える」という事を整理しながら読み返していただきたいと思います。

私は今年4月の時点で日経平均株価について大きな下げ、または長期低迷を強く想定し、時には強調するようなコメントもしておりますが、あの時、あの時点の判断としては決して間違いではない事を自覚しております。

罫線では騙しという言葉が良く使われますが、想定の見誤りもまた騙しということになるでしょう。しかし想定の誤りが何を意味するかについいて良く知っておけば、次の一手は確信のつくものとなるはずです。

機械的売買を行う人にとって騙しはいやなものであるのは当然ですが、全ての相場変動にタッチする事の出来ない一般投資家にとっては、想定外の変動を大いに喜ぶべきであります。勿論、玉を持った状態での想定外の変動は決してあるべきではありません。

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2005年10月26日

お知らせ

テーマ:お知らせ

フォーチュンレポート本日更新予定です。


また勉強会のお知らせです。

一目均衡表勉強会

日時 11月18日(金)夜7時より9時

場所 貸会議室内海(水道橋駅側)

会費 5000円

講師 細田哲生


前回為替に時間を取られすぎて日経平均株価についてコメントが不十分でした。

反省を踏まえてやりたいと思います。お申し込みはメールにてお願いします。講義内容は追って告知しますが、その時々の相場の軽重、私の意識の持ち方で変わるものであります。


ちょうど12月発売の株価予報「一目均衡表講座」執筆時期に重なりますので、テーマは方、転換サインの意味について、という事になると思います。

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2005年10月26日

補足

テーマ:過去のテキスト

 何回かブログ上で載せたテキストのコメントは2000年から二年間ほど定期的に書いていったものであり、当時の日経平均株価は2万円を超えたものの、結局は戻り相場に過ぎなかった事を明らかにしつつ変動している時期でもありました。


当時私にとって大変ショックだった事は、既に89年までのバブルを経験しているはずの私以上の世代の人たちが、IT相場を全く違うものとして捉えていた事であります。

およそ人の認識ほど当てにならない事はない、と痛感しつつ、もしかしたら一般者は一目山人の時代と現代とでは相場変動のメカニズムは全く異なるものと考えて、その為に山人の思考法について思いを馳せる事無く手前味噌な独自の解釈をして均衡表を理解しているつもりになっているのではなかろうか。と考えて書き綴ったものでもあります。


 相場変動を考える上で一番重要なポイントは何か、私は瞬間ごとに決済(の約束)が成される事である、と考えます。A社の株価500円はその瞬間の売り手と買い手の一致点に過ぎず、その会社の本質的な価値を意味するものではありません。しかし決済が連続的に継続して成されつづける事によって、その会社(価値)に対する認識は変化する訳でありまして、株価の上昇がその会社にとって益するのは、その実質的価値を高める為の時間的猶予を与えられる点に過ぎないと私は考えます。


 その意味において、ネット取引、デイトレードが主になろうがなるまいが、本質的に相場変動が変わるという事は無いのでありまして、このテキストを書きながら私の均衡表に対する胎も決まってきた、という思い入れの深いエッセイであります。 

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2005年10月25日

日経平均株価のこと

テーマ:相場コメント

 今日の上昇があろうと、なかろうと、安値を更新しない限り基準線と転換線は交わる可能性が大きかった事はあらかじめわかる事ですので、充分注意ください。また遅行スパンも実線に近づいている訳でありまして、相場の再出発のポイントを探る、大事な時期である訳です。


 ここからの反発が均衡表を超えてくる場合と、超えられない場合には注意点が変わるのでありますが、出来れば早めの再出発が望ましいとの考えでありまして。深い押しは8月安値からの相場の独立性を危うくするばかりでなく、上昇相場であれは当然達成すべき月足先行スパン上限に未だ達成していない事から、場合によってはこの上昇が下げの準備構成に成りかねないということであります。


私としては未だ上げるべき相場とのイメージは変わりませんが、注意事項としてコメントしておきます。



 さて昨日、一昨日のブログも過去に経済変動総研のテキストでコメントしたものでありまして、文章の幼稚さ、認識の甘さは致し方ないものであります。

多分に私なりのデフォルメが成されておりまして、専門家からはお叱りを受けるかもしれません。

これらの事、相場とは関係が無い、と思われる方もおられるかとは思いますが、私は私なりに必然性を感じて述べたものであります。


 今週も時間が取れずあまりブログの充実が図れませんが、ご了承ください。


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2005年10月24日

テキスト「商いについて」

テーマ:過去のテキスト
都新聞のこと

 新聞業界では昔から政治部、社会部が力を持ち、その他の部署は現在でも軽視されがちだそうです。一目山人が商況部長を務めていた都新聞(現東京新聞)は大新聞と呼ばれる一般紙とは性格が違い、政治、社会面よりも文芸面、商況面を柱とする特殊な新聞社でありました。
 「瞼の母」を書いた長谷川伸、「大菩薩峠」で著名な中里介山等の人気作家が数多く生まれた文芸部は、新しい大衆芸術である映画や演劇を広く紹介し、文芸批評のパイオニア的役割を果たしました。その為に「都新聞=文芸面」という語られ方が一般的になされていて、商況面についてはあまり知る事は出来ません。
 都新聞商況部出身者は山人の他に元大阪新聞市場部長の藤本行雄や、兜クラブのキャップを務めていた露崎寿朗等がいます。戦後は日経新聞を中心に証券ジャーナリズムが形成されていきましたが、戦前においては都と中外商業新報(現日経)であった事が想像出来ると思います。

 兜町において都新聞が読まれた。そして都新聞において商況面が充実していた。という事実は、戦前の兜町が江戸時代からの商人文化を強く残していた事を示しています。

 山人が入社(大正12年)する以前の兜町は依然として個人営業の相場師的業者がほとんどでした。店の主人が仲買人として立会売買し、番頭、奉公人が店で働き客の注文を受けるという江戸期からの商店の形をとっていました。奉公人は売買の仕方、相場の見方等を、主人を真似ながら学んでいき、時期が来たら独り立ちします。
 明治11年に証券取引所が開設されてから証券業者に成ったものは、通貨が統一されるまであった商替商、米穀問屋、横浜組と呼ばれたドル屋等元々相場と関わりの深い人達ですが、丁稚から出発した商人であるには違いなく、江戸商人の伝統を引き継いでいることは容易に理解できます。
 これが決定的に変化するのは兜町が資金調達機能を持ち始めてからの事で、証券会社が現在のような形になるのは大正の半ばをすぎてから、ということになります。一目山人が記者として活躍するのは兜町が大きく変化する過渡期であります。恐らく古い兜町を知る最後の世代でしょう。

 一方、都新聞の前身は「今日新聞」で、益田克徳(三井合名専務理事 益田孝の実弟)らが小西義敬のためにつくった毎夕社が明治17年から発行しています。小西は失敗が続いていた実業家でしたが、通と呼ばれる趣味人でした。友人達は小西の才能が生かせるように考えて新聞社を設立した訳です。明治の新聞業には江戸時代の戯作者が記者として入って来ます。明治の中頃には大新聞からは姿を消していきますが都新聞の伝統はこの戯作者の流れを持つ人達がつくりました。その為に歌舞伎などの古典芸能や花柳界との関わりが強く、文芸面発展の土壌となります。
 一目山人というペンネームは現代人の感覚からすれば理解しにくいものですが、江戸文化を共有する人達からは自然に受け入れられる名前であったと思います。一種の言葉遊びで、都新聞には理屈散人(りくつさんじん)、やの字、等のペンネームを持つ記者達がおりました。一目山人は中外商業新報の小針寛司に素人というあだ名を付け、小針はペンネーム素人としました。他にも随分あだ名の名付け親になっています。戦後山人と知り合った人のなかには「一目山人はあだなをつけるのが好きだった」と評する人もおりますが、山人が記者として育った土壌ではごく自然な敬愛の表現であることがわかります。都新聞は山人が入社した大正12年の翌年、13年から入社試験で新卒者を採用しはじめます。社員数も極端に増え始めこの感覚を理解出来る人は減って行ったことが想像されます。

 自然に受け継がれてきた感覚がある世代で共有出来なくなってしまうのは、時代の変化を考えれば当然の事です。あだ名云々は実質的な問題ではありませんが、相場の見方売買において、共有されるべきものが忘れられてられているとすれば問題であります。相場の言葉は江戸、明治から残っている言葉が現在でも随分ありますが、語る側も聞く側も、昔と今では認識の度合いが違う様に思います。
 例えば都新聞の商況部で山人以前に部長を務めていた山浦喜平は兜町で自分の店を構えていた仲買人で、相場で店を潰して新聞記者になった人ですし、山人を入社させた福田英助社長は生糸相場で産を成した相場師でした。語る側も、聞く側も、相場の難しさと売買の難しさを体験的に理解している。そういう状態で証券記事が成り立っていた時代と現在の証券記事は本質的に異なります。
 私は古い時代の「商い」の意味合いが極めて重要だと感じていますので今回は「商い」について抽象的に論じたいと思います。


相場師

 成金と呼ばれた銀行家鈴木久五郎は紙幣に火をつけて明かりにした逸話で有名です。明治39年6月中旬に東京電気鉄道の運賃値上げのうわさが流れると、久五郎は直ちに1万3000株の買い注文を出します。7月に運賃値上げが発表されると株価は急騰しこの売買によって約23万円の利益を得ました。久五郎はこれを元手に日本郵船、鐘紡株を次々買い占めて、この年400万以上の利益をあげたと言われています。
 明治39年の日雇い労働者の平均日給42銭、第一銀行の大卒初任給35円と比較すると大変な利益ですが、明治40年の6月には全てを失い、兜町を去らねばなりませんでした。当時の代表的な銘柄東株は39年6月170円、40年1月760円、6月124円という値を付けていますが、一月からの大暴落は凄まじく久五郎のように大量の買いを一度に行う人は逃げようがなかった事でしょう。
 久五郎は当時28歳ですから一目山人より20歳ほど年上ですが相場師としては新しいタイプで、いわば直観重視、一発勝負の売買です。

 「商い」である以上一回限りの事ではなく、継続して売買が出来なければなりません。ですから一回でも失敗すれば全てを失ってしまうような売買の仕方は古い相場師はしません。例えば上げ相場であれば、ごくわずかな売買によって相場の反応を見定めた上で徐々に買いを増やしていき、利が乗って来たところで徐々に玉を減らしていくやり方です。買いという入り口が何カ所かある。売りという出口が何カ所かある。そういう中で勝負所を見極めて大きく売買をする訳で、売買の出発点と終着点をしっかりと意識しています。
 江戸時代の相場師本間宗久は酒田の問屋、新潟屋の五男、大地主本間家の基礎を築いた一人でもあります。酒田五法で有名ですが、この人が最も重視しているのは相場の入り方で、色々なケースに分けて入るべき場所を解説しています。宗久は罫線だけでなく、天候と作柄の関係、十二支と作柄の関係(当時年回りと天候は関係あるものと考えられていた)について実に丁寧に分析していまして、罫線を「直観を維持するための道具」「直観を得る為の道具」として活用しているように思われます。
 売買において入り口、出口があるということは、彼ら自身が見る相場変動にも老若、寿命があるということです。米相場からは優れた相場師が数多く出ていますが、一年草の相場は年一度の収穫期に対して常に時間を意識せねばならないので、当然のことでしょう。
 一目山人の父は米穀商ではありませんが、岡村商店を経営し商品作物を大阪の市場につなぐ準相場師で、山人自身12歳には相場を始めています。時間論を生み出した人の目標が鈴木久五郎タイプであったとは考えにくく、宗久の様な古い相場師に共感を覚えていた事が想像されます。

 一目山人と同郷の相場師で村岡金一という人がいます。彼は米穀商の奉公人時代、次のような訓話を受けました。「お前は今家賃も米代も要らぬ身で月給は丸残りだ。十円の月給を三円なり四円なり貯蓄すれば十枚の米は楽に張れる。当たれば良し。外れれば又、三、四ヶ月辛抱してから張るのだ、そうすれば誰にも迷惑をかける事無く一生懸命に相場の研究が出来る訳だ、一度思惑が的中すれば利食いは遅き程良く、損切りは早き程楽だよ。」当時の相場師が何を大切にしていたかが良くわかります。


時間

 時間論については過去に唯識論、道元の仏教思想とベルクソンの時間論を解説しましたが、一目山人にとって時間に眼を向けねばならぬ実際的な理由がやっと見えてきます。
 相場の時間が株式と米、生糸、それぞれ異なるという事実です。相場が違えば体験的に知っている時間の感覚が当てはまらなくなるという問題は商況部長を務める者にとって重大であります。商況部が扱うのは株式だけではありません。生糸も米も小豆も相場変動で投機の対象であれば全て、専門の記者達が記事を書きますから、これらを具体的に把握する方法がどうしても必要でした。
 一方で情報を活用する側からの要求もあります。兜町では大正時代に業者向けの罫線レポートが急激に増えていまして、それまで兜町で行商をしていた山口鶴次郎が千代田書店を開くきっかけになっています。千代田書店は日本で唯一の相場専門書店でありますが、創業当時の大正4年は書籍よりも相場レポートが主な商品でした。

 いずれにせよ相場変動を具体的に把握する道具として、一目山人が選んだのは時間でありました。高値から次の高値、安値から安値、安値から高値、あらゆる日数を調べた上で、仮説と検証が繰り返され、基本数値や、対等数値の概念がうみだされました。
 一目均衡表の事は原著を学べば判る事なのでここでは申しませんが、一つだけ注意していただきたい事があります。売買には入り口と出口がある。その売買を成功させるために相場の出発点と終点を把握する。と論じましたが、後から把握する相場から私たちが得る時間の感覚と、今現在把握しようとしている相場から直接体感しうる時間では性格が異なるという事です。
 原則的に一目均衡表では相場を受動面と能動面に分けて説明しています。しかし相場を後から把握した場合、どうしても受動面としてしか認識する事が出来ません。受動面が、何日上げた、幾日下げた、その結果何日後に転換した、という様に数で把握出来るのに対し、能動面は日数のみによって把握が難しい概念だからです。相場の能動面が判らなければどこが基本波動であるのか、出発点なのかを、検証無しに設定する事になります。検証作業が無いというのは均衡表の精神からすれば、これは最も逸脱する事で、本質的に前述の鈴木久五郎と変わりません。
 もちろん相場の受動面についての十分な理解無しに、能動面を把握する事は不可能です。完結編において平均株価が先、鐘化が後に説明してあるのもその為であります。
 変化日を迎えた地点での相場の現れ方、を体験的に理解する以外、能動面の把握は難しい。この事が同じ均衡表読者でも相場観が違ってくる最大の理由だと私は思います。

 各人、それぞれ違いが出てくるのは仕方ない事ですので、皆さん御自身が把握し得る相場を先ずはっきりと自覚していただきたいのです。3年も勉強を積まれれば「この相場は少なくとも幾日までは転換しない」とはっきりわかる場所が何カ所かは出てくるはずですので、そういう場所を大切にしながら、そのわかる相場に適した売買をして下さい。

2001年9月   細田哲生

(注)
 この文章に出てくる人達はほとんど故人となられている、一般常識に従い敬称は略させていただいた。

 都新聞の藤本氏、露崎氏、中外の小針氏が一目山人の弟子であった事が古い月刊誌に記述されている。それぞれ相場通の記者として名をはせた。

 江戸文化が明治生まれの新聞記者にいかに伝わっているかを知るにあたっては、岩波書店から出版されている「明治のおもかげ」がわかりやすい。また都新聞については日本図書センター刊「都新聞史」を参考にした。この本は書店で手に入りにくいが、東京都の図書館であれば、東京都の歴史資料として置いてある。 

 この本に細田悟一の名は二カ所しかなく具体的な記述は無い。福田英助社長は大正時代の中頃都新聞を買い取って、これを株式会社に改組した。新聞業は門外漢であった為、記事と人事に口をはさまない方針であったが、商況部だけは違った。他の社員から天領と呼ばれた商況部についてくわしい記録が無いのは当然であるように思われる。福田氏は後に横浜生糸取引所に理事として迎えられた。

 鈴木久五郎については講談社刊「日録20世紀1906」を参考にした。本間宗久については多くの本が相場関係者によって書かれているが、私はこの人達の認識をあまり信用していないので、相場部外者佐藤三郎氏の「酒田の本間家」中央書院刊を参考にした。本間家では手紙その他書き付けをほとんど残しており、江戸時代の商人のモラルを伺い知る事ができる。

 商人といえば、千代田書店の現社長、山口氏は三代目であるが、「商い」は「飽きない」だ。面倒な事こそこまめにやるように。との教育を受けたそうである。
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2005年10月23日

テキスト「弁証法について」

テーマ:過去のテキスト
はじめに

 一目山人は直観と論理の人であります。
 本質を直観力によって探り出し、それを論理的に組み立て検証する作業を山人は生涯怠りませんでした。

 以前、コメントした藤田家の久原房之助(一目山人にとっては祖母の従兄弟にあたる)が一目山人と大変似た直観力をもっていますが、これを良くあらわす二つの例を紹介します。

1.鉱山経営において探鉱に初めて機械力を活用し飛躍的な増産に成功したこと
2.株式市場を資金調達の場として捉え、積極的に活用した初めての実業家であること

 藤田組は藤田鹿太郎、久原庄三郎、藤田伝三郎、の兄弟で明治6年に始められたパートナーシップ制の会社で、この時期に成長していった三菱や、大倉のように権力が一人に集中する体制ではなく、業種も土木、鉱山業に固執した経営を行います。
 しかし小坂銀山の赤字が経営を圧迫し、出資者に対する責任から閉鎖を決定、その閉鎖処理を房之助に命じました。現地に赴いた房之助はここで銅が採れることを知ると直ちに銅山として再出発をさせ、閉鎖処理に与えられた期間に経営を好転させました。同じ労力で銀よりも銅のほうがはるかに産出出来たからですが、この事が房之助に極めて単純な図式をイメージさせることになります。それは出費よりも多くの入費があれば良い。コストが同じならばより効率的な方法で行う。というもので房之助の直観はこの図式にあてはまるルートを見つけだすものでした。
 後に独立して日立銅山を経営するとき、可能なかぎりの機械化を行いますが、目的は産出量をいかに増やすかという一点にあり、機械も外国から取り寄せたものを活用しました。あまりに過酷な増産のため機械の修理部門がフル稼働の状態になり、日立製作所として独立することになりますが、これは房之助の意図とは無関係です。

 房之助の目的は自分の会社を三井や三菱のように巨大で影響力のある財閥にすることでした。藤田が発展しない理由を鉱山に固執しすぎている形態に見いだします。これは権力が自分に集中すれば財閥として発展していくと思っている伝三郎と対立するものであったために、両者は別れ、房之助は一企業家として出発することになりました。多くの企業を擁するには、今ある企業を買い取れば良く、房之助にとっては買収資金だけが問題でした。
 彼はこの問題の解決を株式市場の中に見いだします。それは自分の手持ちの会社を上場公開して、株価のプレミアによって企業買収を行うというもので、買収した企業をさらに上場し、買収を繰り返す、という相場の上昇期には機能する方法です。
 この方法は昭和初期の新興財閥、日産や昭和電工等によって受け継がれましたし、さらに新興財閥の発展を見た旧財閥の三井、三菱等が株式市場の資金調達機能に眼を向けるようになった、という点で興味深いものがあります。
 このように房之助の行動は合目的で、目的達成に至る最短距離を直感的に組み立てる資質を持っていましたが、その理屈は三段論法的で平面的なものでした。株価の上昇が企業活動の命綱でありながら、相場の下落に対して何も注意を払わなかった事で経営は悪化し、企業家生命を絶たれる結果になりました。

 一目山人もまた同様の資質を持っていた事は以前述べ、両者の違いを、瞬間しか認識できない者と、継続した時間において瞬間を認識する者の違いとして説明しました。
 両者の違いをその目的の違いとして見るならば、一目山人にはあらゆる目的よりも優先されるものがあったということかも知れません。それは「生きる」事であり、山人にとって「生きる」とは日々の生活を死の瞬間まで「運ぶ」事でした。ですから運んで行くためには何が必要か、運べなくならないためには何が大切か、という問いがあらゆる思考の根本にあります。このことは均衡表を理解する上で極めて重要ですから9月のテキストで述べますが、山人には物事に肯定と否定の両方の要素を見いだす弁証法的思考がありました。

 それは、物事の是も否も、将来においては生かされていなければならないというものですが、この思考法に最も影響をあたえたのが浄土真宗であると思います。ですから今回は弁証法を説明するためにヘーゲルを、さらに真宗独特の弁証法を説明することで一目山人の思考について理解を深めて頂きたいと思います。


ヘーゲルの哲学

 弁証法という言葉を辞書で調べると「物の考え方の一つの型。形式論理学がAはAであるという同一律を基本に置き、AでありかつAでないという矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だと決めつけず、物の対立、矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動、発展の姿において考える見方」(岩波国語辞典)と説明されています。

 ヘーゲル(1770年生~1831年没)の時代には幾つかの歴史的大事件があります。特にフランス革命とその後のヨーロッパの激変を肌で感じた事は大きいでしょう。ヘーゲルはこの変化を「自由と理性の胎動」であると見ました。歴史を支配するのは理性であり、歴史の流れは自由の発展過程である、というのがヘーゲルの歴史観です。 世界史は、非自由、反理性的なものと自由、理性的なものが対立し、闘争し、統合する繰り返しに過ぎないが、これによって常に前よりも自由で理性的な社会になっているとヘーゲルは考えました。

20051023弁証法
   
 ヘーゲルのおもしろさは非自由、反理性的な要素を無意味な物として捉えない点にあります。なぜならば図のように対立と統合がなければ、次のより良い自由の段階は訪れないからです。いったんは矛盾、否定として存在した要素がつぎの段階では矛盾ではないもの、否定的ではないものとして新たに存在する、というものの見方はヨーロッパにとっては新しいことでした。なぜならヨーロッパの論理学が2000年にわたってアリストテレスの古典論理学を標準としていたからです。ですからヘーゲルは古典論理学の批判者でもあります。

 例えば
1)一目均衡表は全ての相場変動に対応出来る(大前提)
2)為替変動は相場変動である(小前提)
3)ゆえに一目均衡表は為替変動に対応出来る(結論)
という三段論法は、AはAである、Aは非Aではない、という論理的同一性を前提にします。ヘーゲルの批判は人間の思考、認識はこのように静的なものではないという批判でした。

1)正:肯定の判断、内省してみると矛盾を孕むことがわかる
2)反:1を否定して一歩前進するがこれも不十分であることがわかる
3)合(アウフヘーベン):そこで2も否定された新しい判断が生まれる
人間の思考、認識はこの繰り返しであると、ヘーゲルは考えます。古典論理学では否定の否定は元の肯定に戻るだけですが、この場合戻りません。

 このようにヘーゲルは社会と人間の認識の変化を弁証法によって説明しようとしました。ヘーゲルの哲学はマルクスに影響を与えたといわれますが、明治の浄土真宗にも大変な影響を与えます。


浄土真宗

 明治期、浄土真宗は積極的に西洋哲学を取り入れました。特にヘーゲルの哲学で真宗の教えを組み立て直します。色々な宗派がある中で浄土真宗が最もうまく弁証法を取り入れますが、これは浄土信仰が弁証法的変化を辿ってきた、というだけではないでしょう。
 日本の宗教家で親鸞ほど壁にぶち当たり、挫折の度に信仰が発展した人はなく、真宗自身弁証法を取り入れる下地を持っていました。

 浄土教は「阿弥陀仏の誓願を信ずることで浄土への生まれ変わりを期待する」仏教で無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の大乗仏典をそのよりどころとしています。
この中でも特に重要な無量寿経は
1)弥陀成仏の因果
2)衆生救済の因果
3)釈尊の戒め
という構成になっています。

 先ず釈尊が生まれるはるか昔に、次々と53の仏(悟った人)が現れます。53番目の世自在王仏の説教によって、ある国王が出家を決意し法蔵と名乗ります。この法蔵の衆生を救いたいという決意に打たれて、世自在王仏はこれまで現れた仏のそれぞれの浄土を現出して見せました。法蔵はこれら浄土を見て、良い物を採り、悪い物を除きながら、浄土の理想像を描きます。そして人々をそこに生まれさせたいと願いを建て、その願いを具現化するためについに48の願を建てます。その後、法蔵は浄土を建立し、悟りを開いて阿弥陀仏となりました。
 法蔵の48願は大きく3種に分けられます。
1)自分の理想とする仏身に関する願い
2)自分の理想とする浄土に関する願い
3)衆生を救済することに関する願い
 この48の誓願は「もし~でなければ、私は仏にならない」という誓いですが、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったということは、これらの願がことごとく成就したことを意味します。そこで1)「もし光明無量、寿命無量の仏となることができなければ、決して悟りを開かない」の誓願の成就はそのまま阿弥陀仏の力が無限の空間、無限の時間に及ぶ事を意味します。同様に2)、3)もすでに達成していますから、基本的には阿弥陀仏によって浄土が約束された世界観と言って良いでしょう。

 大乗仏教は生きる者全ての救済を目指すものですから浄土信仰においても特に3)衆生を救済する事に関する願い、が重要視されてきましたが、この中に往生の手段が語られているのは第18,19,20願の3つだけです。法然はこの中でも第18願を最も重要視して、それまでの伝統的な修行を否定しました。親鸞はさらにこれを徹底させた人であります。

 ところで日本における阿弥陀仏信仰は呪術的な要素が強いものでした。死者が浄土へ導かれる、ということは死者の怨念もこの世界には残らないはずだという連想から多くの阿弥陀仏が建立され信仰が広がる下地となります。平安時代には源信が貴族の間に浄土信仰を広めますがこの時代の阿弥陀仏も死のイメージを切り離すことは出来ません。阿弥陀仏が生きている人にとってありがたい仏になるのは法然以後の事です。

 法然は持戒堅固、学識豊かな賢人でありながら、外にはあえて愚者の姿を示し、愚か者こそが救済の対象であると優しく説いた人です。そして次の3つのなかで18願こそ弥陀の本願であると説きました。

第18願:もし私が仏になるとき、あらゆる人々が至心から信じ喜び往生安堵の想いより、ただ念仏して、そして私の国に生まれることが出来ぬようなら、私は決して悟りを開きません。
第19願:もし私が仏になるとき、あらゆる人々が菩提心を起こしてもろもろの功徳を修め、心を励まして、私の国に生まれたいと願うなら、臨終に私が多くの聖者と共にその人の前に現れましょう。そうでなければ私は決して悟りません。
第20願:もし私が仏になるとき、あらゆる人々が私の名を聞いて、この国に念をかけ念仏の功を積んで、心を励ましそれをもって私の国に生まれたいと願うならば、その願いをきっと果し遂げさせましょう。そうでなければ、私は決して悟りません。

簡単に言えば18:念仏する、19:もろもろの功徳を修める、20:念仏の功を積む、ならば浄土へ行ける、ということです。
 それまでの浄土教では、功徳を修めるには念仏の功を積まねばならず、念仏の功を積むには念仏を唱えるのだ、という理屈で、最終的には徳を積み、徳の基を備えた念仏でなければ意味がないとする解釈が一般的でした。ですから法然は大胆に18願を中心にしたものの、自身は、20願にも帰依する形をとりました。このことは、念仏さえすれば救われると考える者と、徳を積まねばならぬと考える者の対立を生みます。
 この三願をどう解釈するかが、浄土宗と浄土真宗の決定的な違いですが、親鸞は19願と20願は、阿弥陀仏が私たちを正しく第18願に入信させるために設けた方便の、仮の誓願であったとして、18願こそ本願という教えを徹底させます。

 浄土教の世界観は、「真実は既に阿弥陀仏の本願として全ての人間に働きかけている」というものです。私たちは煩悩のせいで、光明無量、寿命無量の仏の働きかけに気づくことが出来ません。暗闇で声をたよりに人の位置を知るように、仏の名を呼び、仏の名を聞く事で仏と共にあることを知ることが出来ます。比叡山の修行に失敗し、自身の煩悩に絶望していた親鸞にとって法然の教えは眼の覚めるものでした。
 自我の執われを離れて、大いなるものにはからわれて生きていく生き方、順境も逆境も「ご恩であった」と受け取ることの出来る世界が親鸞に開けてきます。

 この信仰の行き着く先は、煩悩を知り、執われている自分を知ることも、結局は阿弥陀仏のはからいであった、ということになり、ますます阿弥陀仏の慈悲を確認し、やがては執着から解き放たれることになります。
 親鸞は第19願を「仏の名を称えることこそ浄土に生まれる因である」として除き、次に第20願を「仏の名号はいかに尊くとも、それを称えねば救われぬと力んで称えているのは、やはり人間のはからいがまじっていることであって自己の力をたのんでいることである」として除き、第18願のみに帰依していきますが、この事も親鸞にとっては阿弥陀仏の働きかけでありました。

 親鸞は「浄土に行くために」というよりも「日々、阿弥陀仏のはからいに感謝し、喜ぶ」という性格を浄土信仰に与えました。明治の浄土真宗は弁証法によって親鸞を再確認しますが、弁証法を知ったからこそ改めて想像できることも多かったことでしょう。


一目山人

 一目山人は20代の半ばに曹洞宗から浄土真宗に改宗しました。
 きっかけは金子大栄との出会いによりますが、この人は山人にとって生涯特別な存在であり続けました。金子大栄は真宗の学者で当時から京都では評価の高かった人です。その語り口は極めて弁証法的なものでした。弁証法は正、反、合の繰り返しであることは既に述べました。金子大栄は常に合を語るのですが、合を直接語ることはありません。聞く者が合に自分でたどれるように正と反を語る、という語り方でした。
 一目山人は極めて能動的な人ですから、何事も自分で気付く人でありました。金子大栄との出会いによって、一目山人は初めて「そうだったのか」と気付かされたのではないかと思います。

 自分が今まで気がついていたはずなのに、何かによって気付かされる。という経験は多くの均衡表読者が体験されていることでしょう。均衡表の知識を知ることと、実際に活用出来ることは違います。現実の相場によって気付かされたものだけが活用可能な知識となります。現実によって気付かされる、という体験は新たな出発を生むものです。

 久原房之助は革新的な事を次々と行いましたが、その精神、思考において新たな出発があったかどうかは疑問です。一目山人が相場において大きな失敗もなく仕事をやり遂げる事が出来たのは、新たな出発が破綻への道筋を常に閉ざす結果となったからではないかと思います。具体的には以後機会があれば述べますが、皆さんご自身で想像してみて下さい。

2001年3月24日    細田哲生

・ 藤田家のことについては本家の藤田忠義氏から多くを教えていただいた。久原房之助は結果的に失敗したひとであるから実業界でも評価が低いが、その才能と、仕事の歴史的意義は評価すべきだと私は思っている。この人に関する本は現在ほとんど手に入らない。

・ ヘーゲルについては「歴史哲学講義」(長谷川宏訳、岩波文庫)、「この一冊で哲学がわかる」(白鳥春彦著、三笠書房)、「現代思想入門」(宝島社文庫)を参考にした。長谷川宏は近年次々とヘーゲルを訳し、訳文のわかりやすさが評価されている。本格的に勉強するならば読むべき本がたくさんあるが、一般者にとっては白鳥春彦の本がいい。わかりやすさを第一に書かれているし、一冊の本としての完成度も高い。もし歴史を弁証法的に理解したいのであれば「歴史哲学講義」よりはマックス・ウェーバーをお薦めする。ヘーゲルの著作にはキリスト教の価値観が多分に含まれていている。弁証法によって人間は神に近づいていく、というヘーゲルの価値観は簡単に理解できるものではない。

・ 浄土真宗については「親鸞教義とその背景」(村上速水著、永田文昌堂)、「浄土真宗」(真継伸彦著、小学館)を特に参考にした。私は真宗の信者ではないし理解も浅いので、本来仏教について語る資格は無い。哲学についても同様であるから私の理解には誤りがある可能性がある。その点をご理解頂いた上で興味のある方には大いに勉強してほしい。
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