第9回 二匹の駱駝
テーマ:ある職員の、相続体験記砂漠の乾いた砂は足の裏からでも体内の水分を絞りとろうとする。風にさえ慈悲はなく、熱気のうねりが体にまとわりつくだけだ。
東の絹と西の物資を運ぶ大陸を貫く交易路。
この公路の最難所と呼ばれた道をもう幾度となく往復している年老いた駱駝は、3つの大きな砂漠を超えようやくたどり着いた隊商都市で、膝を折り地面に腹をつけた。頭を垂れた姿は拝んでいるようにも見える。幾度も砂漠を越え人間に使役してきた。この旅で最後にしてほしい―
しかし駱駝の願いが人間の耳に届くことは決してない。アラム人の男は倒れこんだ駱駝をみるや、よく陽にやけたフェニキア系の男を呼んだ。強引に口をあけ歯を調べ、短い交渉の後銀貨数枚を受け取った。
買われていったのか。
来る日も来る日も交易の旅に駆り出され、生命を使いはたした駱駝にこれ以上一体何の価値があるのだろう。もうやめてくれ、いいかげん静かに暮らしたい。悲痛な叫びが聞こえてきそうだ。
フェニキア系の男は駱駝のそのような心の叫びを現実の叫びと変えた。
手始めに体毛を刈るやすぐに皮、血液、肉、骨へとばらしていった。生命という単位から素材と呼ぶべき単位への分解。
どこで事切れたのかもわからない。
駱駝の意識の底にあったのは絶望なのか安堵なのか。家畜として生きたなれの果てに、体をさし出して切り刻まれた「部品」から判断することはできない。
いずれ家族で遺産を分配するときが来るだろう、その時に備え分けるべきものに何があるか知ることが先決だと思え、簡単な表にしておこうと思った。
遺産目録の作成である。
これまで父の財産に何があるか知る機会はなかった。親子といえども財産関係はデリケートな問題だし、頭の片隅にあったとはいえど好奇心の触手が直接及んだことはない。
相続というのは故人の人生を垣間見ることになる。
戸籍や住民票を見れば本籍や住所はもちろんのこと、死亡日出生日、子供の人数、生家や婚姻日と、人生の足跡と呼ぶにふさわしい情報を手繰り寄せることができるのだ。
知りたくもないことを知らされることもある。
そして財産。人生の大半をつぎ込んだ労働への対価がここに集約されている。
僕は押入れから引っ張り出したカビ臭い不動産の権利書や生命保険の約款などの資料をダイニングテーブルに積み上げ、順に手にとっては中身を確認した。不動産には人生最大の買い物への決意を感じるし、生活の血脈たる預金通帳はその人の生活が透けて見える。入金日はそのまま給料日を示し、すこし豪華な食事が食卓に並ぶのだろう。日々の生活費と思しき定期的な出金の合間に動く多めの金額は何かの記念日なのだろう。
趣味だって遺産目録に反映される。
父は日本刀が好きだった。実物も3振り残っている。毎晩図入りの解説書を眺めていた父から、親孝行になるのではと解説を聞いているうちに僕まで「長曽禰虎徹入道興里」と憶えてしまったくらいだ。
下ろしたばかりの大学ノートに定規をあて線を引き、不動産の情報や、それ以降は余白になっている通帳の最後の数字を注意深く数え遺産目録に書き込んでいった。
次第に埋められていくノートを見ていると、火葬でも焼き尽くすことのできなかった父の一部をひとつひとつ清算をしているような気分になった。残されたものを見つけてきては使えそうな部分を拾う。そのような行為は人の死に付随した機械的なやり方で、感情が抜け落ちているように感じる。
一生涯を人間にゆだね、挙句骨も皮も五体くまなく利用され消えていく年老いた駱駝を彷彿とさせた。駱駝がその人生に何らかの価値を見出すはずもないのと同様、社会のうねりの中へ溶け込んでいく父の死に意味を見出すことはますます不毛で、僕は心を閉ざしもう一匹の駱駝と化した。砂漠へ赴く新たな駱駝のような愚直さで作業を続けた。
父の借金については、プラスの財産以上に不明だった。当然だ。契約書などが残っていないかぎり形として見てとれるわけではないし、家族に内緒の個人間の借金を知る手だては皆無に近い。しかし借金も相続の対象となるから無視するわけにもいかない。
あるかないか分からなければ、一つ線を引いて納得するしかない。
僕は「連帯保証人にはなるな」と幼いころから父に聞かされて育った。大学に進学する頃には消費者金融のカードについて苦言を呈されたりもした。父が若いころ痛い目をみたのか、息子に対する単なる通過儀礼のつもりだったのか今となっては知る由もないが、よく口にしていたのを覚えている。
僕はウィスキーを2本と数冊の文庫本があれば一カ月過ごせる省エネ体質である。今も昔も金を借りるなど考えたことがない。「白人と“遊んだ”ことのある」父がいくら助言をしたところで僕には全く響かなかったが、響かない僕の記憶に残るほど力のこもった自戒だったのだと踏んだ。
「親父がさ、誰かの保証人になっているとか聞いたことある?借金は?」
母にも聞いてみたが、借金はないという答えが返ってきた。
自作の遺産目録の「借金」と「保証人」の欄には大きくバツをつけた。
遺産には父のすべての財産が含まれるものの、目録に載せるべきでないものも多くある。
値段の付きにくいものがそれだ。その中で洋服は母が選別していった。残しておきたいものもあるだろうし、かといってすべて置いておけるわけでもない。
僕は本棚の整理を担当した。司馬遼太郎、藤沢周平、池波正太郎がずらりと並び、日本刀関連の本や雑誌が100をゆうに超えて並んでいる。さらにビジネス系の新書がいくつかおかれた隣、『息子に送る50の言葉』という文庫を見つけた。
僕はそれを手に取り、しばらくの間眺めていた。
<つづく>





