砂漠の乾いた砂は足の裏からでも体内の水分を絞りとろうとする。風にさえ慈悲はなく、熱気のうねりが体にまとわりつくだけだ。

東の絹と西の物資を運ぶ大陸を貫く交易路。

この公路の最難所と呼ばれた道をもう幾度となく往復している年老いた駱駝は、3つの大きな砂漠を超えようやくたどり着いた隊商都市で、膝を折り地面に腹をつけた。頭を垂れた姿は拝んでいるようにも見える。幾度も砂漠を越え人間に使役してきた。この旅で最後にしてほしい―


しかし駱駝の願いが人間の耳に届くことは決してない。アラム人の男は倒れこんだ駱駝をみるや、よく陽にやけたフェニキア系の男を呼んだ。強引に口をあけ歯を調べ、短い交渉の後銀貨数枚を受け取った。

買われていったのか。

来る日も来る日も交易の旅に駆り出され、生命を使いはたした駱駝にこれ以上一体何の価値があるのだろう。もうやめてくれ、いいかげん静かに暮らしたい。悲痛な叫びが聞こえてきそうだ。

フェニキア系の男は駱駝のそのような心の叫びを現実の叫びと変えた。

手始めに体毛を刈るやすぐに皮、血液、肉、骨へとばらしていった。生命という単位から素材と呼ぶべき単位への分解。

どこで事切れたのかもわからない。

駱駝の意識の底にあったのは絶望なのか安堵なのか。家畜として生きたなれの果てに、体をさし出して切り刻まれた「部品」から判断することはできない。







いずれ家族で遺産を分配するときが来るだろう、その時に備え分けるべきものに何があるか知ることが先決だと思え、簡単な表にしておこうと思った。

遺産目録の作成である。

これまで父の財産に何があるか知る機会はなかった。親子といえども財産関係はデリケートな問題だし、頭の片隅にあったとはいえど好奇心の触手が直接及んだことはない。

相続というのは故人の人生を垣間見ることになる。

戸籍や住民票を見れば本籍や住所はもちろんのこと、死亡日出生日、子供の人数、生家や婚姻日と、人生の足跡と呼ぶにふさわしい情報を手繰り寄せることができるのだ。

知りたくもないことを知らされることもある。

そして財産。人生の大半をつぎ込んだ労働への対価がここに集約されている。

僕は押入れから引っ張り出したカビ臭い不動産の権利書や生命保険の約款などの資料をダイニングテーブルに積み上げ、順に手にとっては中身を確認した。不動産には人生最大の買い物への決意を感じるし、生活の血脈たる預金通帳はその人の生活が透けて見える。入金日はそのまま給料日を示し、すこし豪華な食事が食卓に並ぶのだろう。日々の生活費と思しき定期的な出金の合間に動く多めの金額は何かの記念日なのだろう。

趣味だって遺産目録に反映される。

父は日本刀が好きだった。実物も3振り残っている。毎晩図入りの解説書を眺めていた父から、親孝行になるのではと解説を聞いているうちに僕まで「長曽禰虎徹入道興里」と憶えてしまったくらいだ。

下ろしたばかりの大学ノートに定規をあて線を引き、不動産の情報や、それ以降は余白になっている通帳の最後の数字を注意深く数え遺産目録に書き込んでいった。



次第に埋められていくノートを見ていると、火葬でも焼き尽くすことのできなかった父の一部をひとつひとつ清算をしているような気分になった。残されたものを見つけてきては使えそうな部分を拾う。そのような行為は人の死に付随した機械的なやり方で、感情が抜け落ちているように感じる。

一生涯を人間にゆだね、挙句骨も皮も五体くまなく利用され消えていく年老いた駱駝を彷彿とさせた。駱駝がその人生に何らかの価値を見出すはずもないのと同様、社会のうねりの中へ溶け込んでいく父の死に意味を見出すことはますます不毛で、僕は心を閉ざしもう一匹の駱駝と化した。砂漠へ赴く新たな駱駝のような愚直さで作業を続けた。





父の借金については、プラスの財産以上に不明だった。当然だ。契約書などが残っていないかぎり形として見てとれるわけではないし、家族に内緒の個人間の借金を知る手だては皆無に近い。しかし借金も相続の対象となるから無視するわけにもいかない。

あるかないか分からなければ、一つ線を引いて納得するしかない。

僕は「連帯保証人にはなるな」と幼いころから父に聞かされて育った。大学に進学する頃には消費者金融のカードについて苦言を呈されたりもした。父が若いころ痛い目をみたのか、息子に対する単なる通過儀礼のつもりだったのか今となっては知る由もないが、よく口にしていたのを覚えている。

僕はウィスキーを2本と数冊の文庫本があれば一カ月過ごせる省エネ体質である。今も昔も金を借りるなど考えたことがない。「白人と“遊んだ”ことのある」父がいくら助言をしたところで僕には全く響かなかったが、響かない僕の記憶に残るほど力のこもった自戒だったのだと踏んだ。

「親父がさ、誰かの保証人になっているとか聞いたことある?借金は?」

母にも聞いてみたが、借金はないという答えが返ってきた。

自作の遺産目録の「借金」と「保証人」の欄には大きくバツをつけた。

遺産には父のすべての財産が含まれるものの、目録に載せるべきでないものも多くある。

値段の付きにくいものがそれだ。その中で洋服は母が選別していった。残しておきたいものもあるだろうし、かといってすべて置いておけるわけでもない。

僕は本棚の整理を担当した。司馬遼太郎、藤沢周平、池波正太郎がずらりと並び、日本刀関連の本や雑誌が100をゆうに超えて並んでいる。さらにビジネス系の新書がいくつかおかれた隣、『息子に送る50の言葉』という文庫を見つけた。

僕はそれを手に取り、しばらくの間眺めていた。



<つづく>












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手術室の前では夏子がひとり立ちつくしていた。薄暗い廊下に沈む彼女の白衣は輪郭をなくして背景に溶け込み、幽遠とした雰囲気を漂わせていた。

僕らの足音に顔をあげはしたが、表情と呼べそうなものが一切そぎ落とされ、見たこともない形相に、僕は思わず肩を揺さぶった。するとようやく「先生を呼んでくる」といって手術室の扉を開けた。

出てきた執刀医は坂本という名で、初めて見る顔だった。幾分白髪の混じった風貌は経験を物語っており、それ自体には安心をおぼえたが、顔に疲労の色が見られないことに恨めしささえ感じた。

「腹膜への転移が見られました。リンパ節転移もあります。こうなると全身に回っている可能性が高く、とても手術で取りきれません。」

覚悟はしていたものの、転移という言葉をはっきりと医師から聞かされると、それはやはり特別な響きであった。

「あとどれくらい生きられるのですか」と僕が聞いた。

「医学的には3カ月。急死する可能性もあります。」うつむき加減ながらもはっきりとした死の宣告を下した。

医学的というのは、それよりも短い余命宣告は医学という学問上存在しないのだな、と僕は勝手に断定した。寿命というものはすでに存在しておらず、いつ死んでもおかしくない状態なのだ。

坂本医師と何人かの看護婦に手術台車を押され、父が部屋から運びだされてきた。

力なく横たわる父は、薄く目を開けており、茫洋たる視線を虚空にさまよわせていた。

「全身麻酔のせいで朦朧としていますけど、声をかけてあげて結構ですからね。」と別の看護婦が並んだ僕たち家族に言った。

「パパ、がんばったね、えらかったね。」と母は子をあやすようにベッドにすがりついた。父はああ、とか、うんとか消え入りそうな相槌をうっていたがやがて「今、何時だ?」とかすれた声を絞り出した。

父の問いに母も妹も苦悶の表情をうかべ、しかし誰にも救いをもとめることはかなわず、傍らにいた看護婦たちもこの小さな家族に対して、最早いかなる施しもできないという具合にただ押し黙ったままだった。「何時だ?」という至極日常的な疑問符が今最悪の凶器となって父のまわりにたゆたっていた。

僕は家族から伝えるのが一番いいと思った。家族のほかに一体誰が伝えるというのだろう。おまえはもうすぐ死ぬと、どうして他人が伝えられよう。黙っていたところですぐにわかってしまうのだ。

「11時15分だよ」と僕が言うと父は「そうか」と言って、いまだ焦点が定まらない目から涙をこぼした。

入院費の清算をすませ、ナースステーションに向かった。

ここへ来るのも死亡日以来だ。もうこれが最後になるだろう。

数名の看護婦が待機しており、談笑まじりにも絶えず体をうごかし業務に励んでいた。その中に辰巳さんの姿をみつけた。

今思うと父はとても手術などできる状態ではなかったのだろう。しかしなんとか手術させてやりたいと看護婦や医師の意気込みがあったからこそ、どうにか試みることができたのではないか。働いている辰巳さんを客観的にみているとそんな気がしてならなかった。

辰巳さんが僕を認め「あら」という具合に顔をあげた。

「葬儀もおわり、下で入院費の清算をしてきました。ひと段落というところです。お世話になりました。」

「そう、大変だったわね。」

「入院から2ヵ月もかからなかったから、大変だということもなかったですよ。」

「そうね、残念ね……ごめんなさいね、力足らずで。」

「いいえ、皆さんには感謝しかありません。」

それから二言三言交わすうち、辰巳さんは僕の揺れる視線を感じ取り

「ああ夏子ね。早番でもうあがったわよ。ついさっき。行き違いかしらね。」と言った。

そのやりとりを聞いてか、別の看護婦がせわしなく近づいてきた。

「田岡先生と一緒だったわよ」と言った声色にはあきらかに下卑た好奇心がにじんでいたが、僕は虚を突かれた形になり

「田岡?」思わず聞き返してしまった。

「消化器系の内科の男の先生。つい先日赴任してきたばかりなの。」39歳で独身、と聞きもしないのに付け足した。

辰巳さんは

「何あんた、あんなのが好みなの。この間なんて車か何かのカギを人差し指にさしてくるくるまわしながら歩いていたわよ。」と言い放った。「大丈夫よ、私あんたの顔の方がタイプだから」と僕に鷹揚に笑いかけ、爪楊枝に突き刺した梨をくれた。

病棟から外に出ると、駐車場の真ん中にはかわらず真っ赤なベンツが周囲の温度を一身に集めているよう止まっているのが見えた。近づくだけで暑さが増す気がして、なるべく距離を取り、弧を描くように敷地の隅を歩いた。

視界の端に気配を感じ、反射的に目を向けると助手席に人影があることに気づいた。座った顔に惹かれるもの感じ注視すると、それは夏子であった。顔の左半分に影がおちかかり、八月の光に照らされたもう片側との対照が、はっきりとした顔立ちをいっそう強くうつしとっていた。

男が車に近づき、慣れた手つきで運転席のドアを開けた。

瞬間、腕から背中へ、そして首筋へ抜ける肌のざわめきが僕を襲った。ざわめきはすぐに顔から頭へも波打つように伝わり、その場から動けなくさせた。

おそらく、せわしない看護婦の言っていた田岡とかいう医師だろう。嫌味なくらい健康的に焼けた肌をさらし、したり顔で「趣味はテニス」と言い放ちそうな男だった。医師という地位が生んだゆがんだ優越感は、彼の軽薄な風体に良く似合いっていた。まったく王道の悪趣味さだ。

やがて大きな排気音を立てて発進した暑苦しい真っ赤なベンツを、信号の向こう、おおきくカーブする道路の先に消えるまで見つめていた。

消え去ってから暑さがようやく戻ってきて、額に玉を結んだ汗をぬぐった。

歯に挟まった梨をしゃりと噛んで、15分の道のりをまた歩き始めた。

<つづく>
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忌引き休暇の最終日は入院費の支払いに病院まで行った。

横浜駅までのJRも乗り換えた私鉄も、通勤ラッシュを超えた時間帯でとても快適な車内であったが、駅に降り立つと、朝日とよべる状態から脱しつつある太陽が徐々に真夏の強烈さを増していった。

国道をはしる乗用車やバスの排気音にすら熱気を孕んでいる気がする。焦げ付くような足取りで勾配の急な坂道を15分かけてのぼり、ようやく病院の敷地へたどり着いた。

駐車場には真っ赤なベンツが停めてあり、病院の白い壁面を背景に一層暑さをたぎらせて、僕の体中の水分を絞りだすようであった。あと10分もここにいると自分の汗で水たまりがつくれそうだ。

ガン病棟では多くの患者が足をひきずるように歩いていた。

細長いステンドグラスから差し込んだ日差しが患者の足を照らしており、そこだけ浄化するような美しさがあった。しかしそういった感傷は所詮脆弱な願望にすぎないと、今では僕も知っている。夏も冬も朝も夜も一切を飲み込んで、腫瘍は絶えず大きくなり人の命を蝕む。患者はなすすべもなくベッドの上で過ごすことを余儀なくされる。ものすごいスピードで転げ落ちた父の最期に考を及ぼすと、いつ起こってもおかしくない卑近な現実として、自分に重ね合わせてしまった。

胆のうガン。

これが父の病名である。

転移によって手術はできなく、モルヒネの量を増加させながら命をすり減らすようにして死んでいった。

父の死にはちょっとした経緯がある。

亡くなったのは2007年の7月28日。実はその前年の9月に検査に引っかかっていた。

普通ならすぐに精密検査に行くのだが、勤務先の会社での出来事がそれを邪魔した。

部下が営業車で死亡事故を起こし、その対応に追われていたらしい。

後に母が語ったことだ。真実はわからない。その気なら検査にいく時間くらいつくれたはずだ。

「臆病なお父さんが検査しないわけないもの」と母がいくら後悔したとしても、結局は自覚症状のなさが寿命を縮めたのだと僕は解釈した。

ようやく精密検査に行ったのが5月になってから。腹水の痛みが出はじめたあとだ。

「ちょっと厄介な病気になってな。」

父はうつむき加減に話しはじめた。隣で母が震えていた。

夏子にその話をしたとき、当時検査をした相模原の病院でカルテの写しをもらいにいこうとなった。もし昨年の9月に撮ったレントゲンではっきりとガンの影を見てとれるなら誤診になるかもしれないと言うのだ。夏子の熱のこもった言葉を聞いているうちに、僕はこれは遺族の責任というべき問題じゃないのかと考えるようになっていった。本当にどうしようもなかったのか。何か術がのこされていたのではないか。誤診だとか損害賠償だとかはともかく、知るということが遺族に残された最後の抗いであり、生産的ではないにしてもそのつとめは果たしてやろうという気持ちになった。

入院した時点で父のガン進行度合いはステージ4だった。しかし父も家族も根治を目指し手術の道を選んだ。年齢的なものもあったのだろう。抗がん剤治療をしながら死に追い立てられるように生きながらえることは55歳の父には耐えられなかったように思う。

手術できるかどうかは開腹しないとわからない、手術できないときはすぐに閉じることになり、体力の低下から命を縮めることになるかも知れない。何度も念を押されながら同意書にサインした。

手術日、僕たちは朝早くから父の入っている共同の病室にいた。

いったいどんな言葉をかければいいのだろう。僕には全くわからなかった。つとめて明るく振る舞うのも気がひけたし、かといって黙りこくっているのも滅入ってしまう。薄いカーテンで仕切られた周りのベッドから聞こえてくる苦しそうな呼吸音を聞いているのがつらく、結局はいつもと変わらない話をした。

父は8時30分に手術着に着替え、夏子に連れられて病室をでた。

「じゃあ行ってくる。」

飾り気のないエレベーターの扉が音もなく閉じた。

僕たちは辰巳さんという年配の看護婦から手術について説明を受けた。

「手術時間はこのあと午前9時から早くても17時までかかります。場合によっては翌日までかかることもあります。長丁場ですから、無理をなさらないでください。手術終了時などにはがPHSが鳴りますから、その時は手術室までお越しください。」こういう時だけ使われる院内使用可だという白いPHSを渡された。幾組もの家族の手を渡り歩いたのだろう、黒ずみがところどころ怨念のようにこびりついていた。

「終了時ということはつまり……」

「はい。手術できなかったときも鳴ります。」

仕事だと割り切った淡々とした話し方でもなかったし、無責任に励ますのでもない。声は冷たくも熱くもない。達観と諦観の中間点をうまくとらえて、微笑の雰囲気だけを口元にわずかに漂わせた顔つきは、僕をとてもおちつかせた。

患者や見舞客が集うロビーに僕たちは移動した。中央にある背の低いサイドボードを挟んで長いソファが2つあり、隅にはテレビが備え付けられている。すでに3,4人の人が破れたソファにすわり、勝手知ったる他人の家という具合に新聞を読んだり、テレビのチャンネルを変えたりしていた。

僕たち家族は電話が鳴るのを“待たない”一日をここで過ごすのだ。

15分くらいたつと幾分気持ちが落ち着いてき、さっき手術室で父になんて声をかけるのべきだったのかを考えた。

辰巳さんもそうだが、結局は日常に張り巡らされるべき真剣さが、いざという時に役立ち、人生を分かつ重大な局面においてもかわらず力を発揮するのであろう。口をついてでた言葉は、自分の真剣さを形にしたもので、そうであればたとえ拙いものだとしても、必ずやある波紋となって相手に伝わるはずである。すくなくともそう信じるべきだ。何も言えなければ所詮それほどにしか考えていないということではないのか。

そのような考えを巡らせているうちに、ロビーにいる人は入れ替わっていく。

喉の渇きを覚え、自販機で飲み物を購入した。ロビーにもどってテレビのチャンネルをまわしていると、メジャーリーグのオールスター戦が行われていた。日本人選手が出るたび、ロビーにいる患者やその家族と思しき人たちからささやかな歓声が上がった。

場合によっては日付がかわるまで手術が行われるかもしれないという。こちらも体力勝負になる。今のうちにリラックスする必要もあるだろう。しばらくは野球でも見ていようと思った。

11時をいくらか過ぎた頃、PHSは鳴った。

それは悲痛な叫びだった。館内の空気を震わせ、天井や壁を打ちつけた。その場に居合わせた僕たち家族の自由を奪い、狂おしく鳴った。

PHSを持っていた母は音とバイブレータの振動と直に怖気にさらされたというように、全身に強張りをみせていた。

いつまでも電話に出られないでいたため、ひったくるようにしてPHSを取り上げ、通話ボタンを押した。

「手術室まで来て下さい。」

「わかりました。」

それですべてを語っていた。

<つづく>

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葬儀が終わった。幾度となく『千の風になって』を聞かされた3日間だった。

遺骨と仮位牌を届いたばかりの仏壇に置き、線香の煙の立ち昇る姿を見ると、とりあえずひと段落という気がした。

何もかもが新しい。

鈴を鳴らす力の加減が分からないのも。白檀の香りが場違いに思えたのも。仏壇も。骨も。



そして手続きのことを考えた。

そうだ、これから事務手続きをしなければならない。

単純に考えて、父名義のものを家族名義に変更する必要があるはずだ。父という人間が存在しないのに、名義だけそのままでいいはずがない。不自然というものだ。

脳裏に浮かんでは消える父の財産の数々を並べると、10や20では足りないことが分かった。

そこで僕は手続き終了までを大きく2つに区切り、前半をさらに2つに分けた。

忌引き休暇が活用できる一週間と四十九日までの2つ。それから四十九日以降の計3つだ。



最初の一週間は平日の日中にしかできないことを行うことにした。

忌引き休暇という治外法権を利用できるこの期間にしかできないことは沢山あるだろう。

まずは隣町にある区役所まで戸籍や住民票を取りに行った。

あれが足りない、これは別の場所、と8月の暑い陽炎の中を自転車で何度も行きするうちに、もっと計画的に行えばよかったと後悔した。シャツから覗いた腕が面白いほど焼けていった。

ようやくとれた何枚かの戸籍は複写防止の技巧が施されている色のついた立派な紙だった。

めくるようにみていくと自分の名前を見つけた。

罫線の数にくらべて少ない文字をみていると、空虚な人生を映し取ったかのように感じる。いや、記載ない無垢なままの戸籍は清廉潔白な家族の証明でもあると理解すべきであろうか。

そんな中で父の事項欄はやはり目立った。住民票の父の名前の上に大きくバツ印があり、一方の戸籍には「除籍」と冠書きされている。

それを見た母はおおきくうなだれた。



次に資産税課に行き、固定資産税の納税者変更を申し出た。

1階の戸籍課にくらべて人の数はずっと少なく、職員の方がはるかに多かった。

対応した壮年の男は、白いカウンターに肘をつきながら「登記簿出して」と言った。その言葉には感情らしいものは何もない。単なる記号にすぎなかった。僕の提出したものが一部不足している。不足しているから「足りない」と言う。喜怒哀楽のないとても機械的な語り口だった。

「そんなもの必要ないでしょう。」男は椅子に座ったままだったので僕は見下ろす形になって言った。

「登記名義人をそれで確認するんだ。駅の反対側に法務局があるから、そこで取ってきてからもう一度おいで。」少しも僕の目を見ようとしなかった。だけど今度はすこし人間らしい熱を持った言葉だった。それは“いらつき”という種類のものだったのだが。

「もう一度って、簡単に言うけど、それって必須の書類なんですか。」

「そうだよ、みんなそうするんだ。」

「登記なんてまだやっていませんよ。」

「それじゃあ駄目だね、手続きできない。」

僕は気を落ち着かせるため大きく深呼吸した。吐いた息がため息に聞こえたのか、男は初めて顔をあげた。そして僕は一気に言った。

「いいですか。登記法では権利登記を強制していません。相続はもとより贈与や売買を原因とする所有権移転だって、物権変動は民法176条による意思主義を貫いているんです。あなた表示登記と勘違いしていませんか。まして今回物件は共有です。納税通知をもう一人の共有者に変更するだけで、そもそも物権変動とは関係ないといえる。存在しない人間に対して課税通知を出し続ける方がおかしくないですか。」

男は席を離れ、線虫のようにのそのそと柱の影まで移動し、上司と思しき人間にひそひそと話をした。

戻ってきた男は紙をもっており、か細い声で「ここに必要事項記入してください」と言った。

僕は立ち去る前「冷房が効いていて、お客さんは少なくて、とても良い職場環境ですね。」と言った。



残るは印鑑登録だ。

家の近くで購入した100円の印鑑をそのまま実印として活用した。

印鑑は風に飛ばされそうなほど軽く、小さくて貧弱なものだったが、それで十分だった。立派なものはいらない。

「この印鑑を使うんですか?」

窓口で100円の印鑑を手にとり怪訝な顔をする役人に「そうです。ところであなたは象牙海岸って知っていますか?コートジボワールには気の毒な象が沢山いるみたいですよ。」と言った。

今度は言ってから少し後悔した。戸籍課の男に心乱されているな、と反省した。



区役所を出ると再び熱気が包んだ。敷地内は整備された草木が生い茂り、それを自然のものと勘違いしたのか、何匹ものミミズが迷い込み帰り道をなくしていた。曲りくねって干からびた姿は赤黒く光り、呪いの言葉を書きなぐったような不吉さがあった。



<つづく>












実家に帰り着くと母はすでに眠っていた。

僕は部屋の電気はつけず、冷蔵庫の明かりをたよりにミネラルウォーターをひっぱり出した。病院から数時間なにも口につけておらずそのままらっぱ飲みをすると、食道から胃袋へかけて清涼感が這うように染みわたり、足の先まで蘇るようだった。

父の書斎の扉をあけると湿気に蒸されたスーツのにおいがした。

この部屋はなにも変わっていない。子供の頃から一向に変わる気がしない。いつみてもおんなじだ。

その矢先、僕は唯一の変化を認めた。

文庫本やら雑誌やらが乱雑に積み上げられた机の片隅、とても綺麗に片づけられている一角があった。そこには僕が初任給で買った「響」がいまだ手つかずでおかれていた。

飾られていたと言った方が的確なのかもしれない。

箱に積もったうっすらした埃を払い、瓶を取り出した。やっぱりそうだ。波紋模様が美しい光沢のあるラベルはギフト用のものだった。

これこそが相続だと僕は思った。父のものは死の瞬間から相続人の共有財産になる。民法的にはそういうことになっている。かつて父に送ったこの響はもう僕のものなのだ。

栓を抜くと甘い葡萄と麦の香りがした。



2日後のお通夜は沢山の友人が顔をみせてくれた。

経文も終わり来客への振る舞いも終盤を迎えたのを確認すると、僕は久しぶりに会う友人たちとくだらない冗談を言い合った。余った寿司を選り分けて、ビールを飲んだ。彼らに対してできることはそれ以外に思いつかなかった。普段と違う環境下にある時こそいつも通りに接するのがいい。お互いに気を使わないで済む距離感というものが、長い友人付き合いでわかっていた。金子、安斉、貝谷のゼミ仲間3人はそろってきてくれた。一人一人と話す時間は決して長いものではなかったが、この数日で一番心休まるひと時だった。とてもじゃないが10年ぶりの親戚になんて興味は抱けなかった。型どおりの挨拶、返事、これで十分だろう。



看護婦の子も来てくれた。彼女は名前を夏子といった。

視界の端に捕らえた時、この思ううがままに振る舞おうという気持ちは一層強くなった。当然喪服であったのだが、いつも目にしていた白衣ではないだけで新鮮な感じがした。

僕は彼女を少し離れたところに座らせ、葬儀場の事務の方に氷をもらい、家から持ってきた響をついだ。グラスを合わせた音は、僕たち以外の一切を置き去りにするような静かな確かさで満ちていた。

「お父さん、言っていたわ。もうやり残したことはないって。」

と夏子は言った。「息子のことが心配なのね、いろいろ教えてくれたのよ。あなたのことも。」

「好き放題の人生だったんじゃないかな、多分、最期まで。」彼女が父の個人的な領域に踏み込んでいたのを知って驚いた。

「それは分からないけど……、結婚もしたし、子供にも恵まれたし、仕事も楽しかったって。息子はうまくはならなかったけど、一緒にキャッチボールもしたんだって。自分が息子とキャッチボールするなんて考えもしなかったと言っていたわ。」

「僕だけが下手なんじゃない。お互い様だったと思うけど。二人とも後ろにそらして、ボールを追いかけてたな。そうだ、そのとき、家の近くに小さな川が流れていてさ、土手なんかないコンクリートで固められ用水路みたいなやつなんだけど、そこにボールを何度も落としそうになって。」

聞いた話と少し違うのね、と言って夏子は笑った。

「あと海。砂浜をよく散歩したんだって。夕立ちにあったことも言っていたわ。あなたはおぼえているの?」

「憶えてる。だけど、ねえ、なんで親父はそんなこと語ったんだろう?」

不思議だった。ただの患者と、看護婦だ。その彼女が一患者のことを覚えていることも腑に落ちない。

「だから、息子が心配だからよ」



彼女の声を聞いていると「やり残したこと」という言葉が急に戻って来、脳の襞にひっかかるような記憶を呼び覚ました。

父にはやり残したことがあった。それは息子の妻にお酌をしてもらうことだ。

僕が酒をたしなみ始めた頃、確かにそんなことを漏らしていた。

「美味しい。もう少し注いでくれる?」と言われ顔をあげると、アルコールで上気した彼女の顔があった。



<つづく>








病院はすでに照明が落とされ静まり返っていた。

暗い廊下、硬いソファ、緑色の不気味な非常口灯。父は無言で霊柩車を待つ。

眠りにつく病人たちは毎日こんな夜を過ごすのだろうか。

隣にすわった看護婦さんとなんとなく話しを始めた。

会話とよべるほどのものはない。すぐに消え失せてしまう言葉自体が二人をそこに留まらせていた。

彼女は辛抱強くその場にいた。遺族は話を聞いてもらいたいわけではないことを知っていたのだろう。

霊柩車が到着すると看護婦さんから死亡診断書を渡された。

「葬儀場の人にわたして。それまでは棺の上に置いておくのよ。よくなくす人がいるから」

僕は霊柩車に乗り込み、彼女をみた。

紙に残った彼女の温度があたたかく、頼もしかった。



鎌倉の葬儀場で遺体を安置し終え、僕は鎌倉駅で帰りの電車を待っていた。

深夜のため、駅に人の影はない。電灯に群がった虫の羽音が聞こえそうなくらいだった。

次の電車を待つ20分の間、親しい友人に連絡をした。

「そうか、大変だな、できることがあったら言ってくれ」と誰もがありがたい言葉をかけてくれた。

関内を一緒に歩いていた女の子は父の病気の進行具合を知りたがった。

僕は彼女にメールをしていたが、それもたった3回で終わってしまった。

告知と入院について、痛みがひどくなったとき、開腹したが手術できずすぐに閉じたと。これだけだ。

そして告別式の日付は教えなかった。それきり彼女と会うことはなかった。

<つづく>



葬儀場は父が亡くなる数日前に見つけていた。

家から近いところ、綺麗なところ、それから比較的予約日程に幅をもたせてくれるところが条件だった。葬儀と言うのは僧侶の都合に左右される。葬儀場がいくつもあるのに対し、坊主は選べない。

それで医者に「いつ亡くなってもおかしくない」と言われたときに探しはじめていた。僕は特定の信仰があるわけではなく、仏教だってひとつの宗教だとの認識がある。正直お経なんてなくたっていい。しかし葬儀は家族の問題といえた。

全てを考慮し、ここなら父のことを任せられるところに「予約」した。まさしく死の予約だ。何せこの時点で父はまだ生きている。


いったいこれは何なのだろう。父の死を冷静に予約する。帰りに母と入った店でそんなことを考えていた。

母がしょうゆラーメンを頼んだとき、僕は母とラーメン屋に入ったことなどなかったと知らされた。

少しずつ生活が変わり始めているのだろう。

父はまだ生きている。しかし家族は死ぬことを前提に準備を始めている。

事務処理はしずかに確実に僕らの生活の一部になりつつあった。今後、父のことを考える時間と事務処理の時間は逆転していくのだろう。

必要になる書類やら現金のことやらを考えているうちに、これでいいと思うようになっていた。

死に直面したときは、また大きく揺さぶられることになるのだろうから。

<つづく>


病気は6月のはじめに発覚した。胆のうガンである。

すぐに二俣川にある国立ガンセンターに入院し、僕も毎週病室にかよった。

そこでの父は元気に見えた。入院という非日常に辟易しているようではあったが、死との距離はかたくなに保っている。一日中ベッドに横たわっていても、趣味である日本刀関連の本を読んでいる姿はいつもとかわらない。

元気になって会社に行く姿を、家族みんなが思いえがくことができた。

霊安室に入ったとき、今まで父の担当だった看護婦さんが手を合わせてくれているところだった。父に対しても僕たち家族にたいしてもいつもにこやかに励ましてくれた人だ。

「このたびは……」

というところで僕は遮り、父の遺体に歩み寄った。冷房は効いているはずなのだが妙な熱が首筋からこめかみにのぼった。

飾り気のない部屋の、蛍光灯の人工的な明かりは、一歩一歩足の感覚を奪っていった。

そのような肉体的な変化は、僕自身、父の死をうまくとらえられなかったせいかもしれない。

かろうじて父の頬に手のひらを当てた。

僕は温度によって現実に引き戻された気がした。これは現実であり、どう足掻こうとも元通りにはならない。

よく「眠るように死んだ」などと言うがそれは嘘だ。

父は死人の顔をしていた。すでに血の通った人ではない。昨日までとは違う。無理に閉じさせたせいか口がいびつに曲がっており、やすらかな死を演出している気がした。

相続の始まりは死である。

これは避けられないことであり、見つめなければならない。

人が一人死ぬことは大変だ。事務手続き、あいさつ回り、生活だって変わるかもしれない。

気持ちの整理も必要だろう。

だから僕もここから語り始めようと思う。

病院に向かう電車の中で思い出していた。

小学生の頃、父とよく散歩した。当時海まで歩いて十五分ほどのところに住んでおり、休日を利用して赴いた。台風の後や引き潮のときなど海の様相に変化があることもこのとき学んだ。道すがら「お母さんには内緒な」といいながらジュースを買ってくれたものだ。

ある時にわか雨にあった。

江の島から伊豆半島を見渡せる海岸に人の姿はほとんどなく、普段ならサーフィンを楽しむ人々でさえもまばらだった。

雷を孕んだ黒くもが空を覆うとすぐに最初の一粒がきた。瞬く間に砂浜を黒くしていった。

追われるように松林に逃げ込む。

雨は松の葉をすり抜けたが、どうにかしのげそうな場所はここしかなかった。

雨にぬれることなどどうってことはない。ただあたると痛いほどの勢いと大きさの雨が、地鳴りのような波音とともに大きな不吉な響きとなって腹をふるわせた。

空を見上げる僕に父は「この雨はすぐにやむよ」と教えてくれた。

<つづく>






















雨粒が地面にぶつかり花が咲くように飛沫する。

横殴りの風はビルの外壁を濡らした。

運河に落ちたものは、川面の水と弾け合った。

ひとつ、またひとつ。

次第に激しさを増す雨粒は、そんな具合にいたるところを染めていった。

2007年7月28日。

日中、容赦なく熱を発した太陽は、薄い雨雲にさえぎられながらも、街路樹の影をいっそう長くして、今ようやく沈もうとしていた。そしてこの日最後の陽光が、地面に、運河に、また人々の傘の上に打ちつけられて砕かれた雨しぶきを反射させ、関内の町を白く浮かび上がらせた。


人々は、天候の急激な変化など週末を彩る素材の一つと言いたげに、誰しも楽しそうに関内の町を行きかっていた。

雨の激しさにもかかわらず、空は依然として明るいままという不自然さが、気分の高揚をさそうのかもしれない。


僕は運河沿いを女の子と並んで歩いていた。

彼女のサンダルからのぞいた足が雨に濡れ汗と混じり、その生々しさがかえって健康的な印象だったのをよく覚えている。

一時、女の子の声どころか高架を走る電車の音をかき消すほどの激しさをみせたが、一本しかない傘の中、顔を寄せて話さなくてはならない不都合を楽しめたりした。

蒸れたアスファルトのにおいを浴びながら、夕食は魚じゃない方がいいな、などと考えていた。


母からメールが入った。

「お父さん、亡くなったよ」とただ一言だった。

父は2カ月で死んだ。


<つづく>




僕は父をなくしています。

それから4年たちました。

残された人間がどういう気持ちになり、そんな中で何をしなければならないのか、今振り返り書き残そうと思います。

相続を間近に控えている方、悲しくも迎えてしまった方にとって、何かのプラスになればいいと思います。