忘れがたい絵画があります。

美術館で足を止め、その絵を見ていると、金縛りにあったようにどうしてもその場を立ち去りがたい、そんな絵画です。



スペインの首都マドリードには多くの美術館があります。

誰もが思い浮かべるのは「プラド美術館」で、スペインの誇る宮廷画家3大巨匠、エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの名作が展示され、「裸のマハ・着衣のマハ」や「ラス・メニーナス」の前にはいつも多くの人だかりができています。



しかしながら、このプラドを見終わって外に出てくると、ちょうどイタリア、フィレンツェの「ウフィツィ美術館」を見学し終わったときと同じような疲労感を覚えます。


美術の教科書でしか見たことがなかった絵画がすぐ目の前に、手の届きそうなところにあることの感動はあるものの、あまりにも多くの宗教画や肖像画を前にしていると、いささか食傷気味になってくるのも事実です。

宗教画を見るときに、キリスト教はもちろん、ギリシアやローマ神話、その絵が誕生した中世ヨーロッパの背景を知っているといないとでは、その絵画の理解度が変わってしまう、そんな難しさが中世の絵画にはあります。



その点、印象派の画家達の絵は、その美しさを素直に受け入れれば良いので、世界中で人気があり、これは日本人に限らず絵画におけるグローバルスタンダードだそうです。

私は中世の宗教画が決して嫌いではないのですが、プラドは私のあまり好きな美術館ではありません。

この美術館には晩年のゴヤが「聾者の家」に引き篭もり描いた14枚の「黒い絵」の連作を展示した一室があり、この部屋の絵画たちが発する邪悪なオーラに私の「か弱い精神」は、耐えることができないのです。



マドリードには私のお気に入りの美術館があります。

ソフィア王妃芸術センター、こちらもあまりにも有名な美術館ですが、ここの目玉はピカソの「ゲルニカ」です。

金縛りにあったようにどうしてもその場を離れがたい絵画のひとつがこのゲルニカです。

この絵は1937年、当時のスペインはフランコ独裁政権がナチスの手を借りて、フランコ政権に対峙していたバスク地方の主要都市ゲルニカに大空爆を行い、多くの罪のない市民が殺された事件を題材としています。

ゲルニカをご覧になった方はご存知だと思いますが、この絵はその大きさに驚かされます。

ピカソはこの大作を一ヶ月で完成させます。寝食を忘れ、鬼神がごとく描いたであろう事は想像に難くありません。白、グレー、黒の三色のモノトーンにより描かれ、祖国スペインの罪の無い人々が惨殺された、ピカソの怒り、苦しみ、悲しみが、痛いほど伝わってくる絵画です。



私はこの絵を前にして時間を忘れずっと立ち尽くしていました。

ソフィア王妃芸術センターには、ピカソの名品「青衣の婦人像」や他にもミロやダリの名品、珠玉の作品が多く展示されているのですが、どの展示室にいても磁石に吸い付けられるように再び足はゲルニカに向かってしまいます。

ひとつの絵画を見たときにその背景が個人的な体験に重なることがあります。ゲルニカを見たときその原風景がいったい何であったのか、記憶をたどり、まるで細い小路に入るように記憶を紡いでいくと、それは高校生のころに読んだヘミングウェイの小説にたどり着き、高校時代の夏休み、蝉の声、母が作ってくれたカルピス、カーテンを揺らしながら吹き抜ける風、終わらない宿題、漆黒の夜空に打ち上げられた花火の光に照らされたガールフレンドの横顔、そして寝転びながら読んだ「誰がために鐘は鳴る」、まだ見ぬスペインへの憧れ、そんな憧憬に行き着くのです。

そんな「誰がために鐘は鳴る」に行き着く個人的心象風景が当時のピカソの思いと共鳴して、その場を去りがたくさせていたのでしょうか。

私にとってピカソにはもうひとつ、その場を離れがたい絵画があります。

それは何かの特別展だったと思いますが、東急文化村で見たビカソ13歳の作といわれている「年老いた漁師」のデッサンです。




さて、先般あるアジア投資セミナーの勉強会に出席したときのことです。

その日のテーマはカンボジアへの投資、企業進出でした。

いまや、中小企業といえども海外、特にアジアのマーケットを無視して仕事をすべきでないことはよく理解しているのですが、人・物・情報・金、で大企業に到底及ばない中小企業にとって大企業と同じ土俵、方法でアジアに進出することはできません。

ある種ベンチャー企業のような発想と視点、大企業が相手にしないニッチなマーケットを見つける嗅覚が必要とされます。

そんなことを意識しながら仕事に取り組んでいると、案外人的ネットワークができてくるものです。

今年になっていくつかの商材をテーマとして、中国や韓国の方々とコンタクトを取るようになりました。

そんな流れの中で、アジア投資セミナーの勉強会に出席したのでした。

発表者、パネラーの皆さんがアジア、カンボジアに関しての投資情報を説明してくれたのですが、パネラーの中のおひとりの方が10年ほど前に初めてカンボジアに企業視察に行ったときのことを話してくれました。

その話を聞いて、私は胸が押しつぶれそうな思いに駆られたのです。


カンボジアはご存知のとおり1970年以降、かの悪名高いポル・ポト政権下で大虐殺が行われ、その死者数はナチのホロコーストに匹敵するのではないかとまで言われています。

その内戦時に多くの地雷と不発弾が国土に埋められ、現在でも多くの国々が国家プロジェクトとして、また、ボランティアの方々が地雷の撤去に尽力されていますが、1993年以降国連監視の下で民主政選挙が実施され、特に2000年以降は比較的順調に経済発展を遂げ、日本からの投資、企業誘致も進むようになって来ました。



パネラーの方の話は次のようなものでした。 ・・・ 

「今から10年ほど前(2000年位)投資環境調査でカンボジアへ行きました。

団体で行ったので工業団地になりそうな所をバスで回りましたが、バスが止まるとバスの周りに物乞いが集まってきました。

その中の一人の母親がまだ小さな子供を抱きかかえながら、物乞いをするのですが、よく見るとその子供の手首がありません。

地雷で失ったと思ったのですが、10年位前ですから、カンボジアの地雷撤去もかなり進んでいて、少なくとも居住範囲での地雷はもう無くなっているはずなのに、おかしいなと思い、現地のガイドに聞くと、それは物乞いにも親分のような人がいて、より多くのお金をもらうために、まだ小さい子供の手首をわざと切って、同情をひいてより多くお金をもらうようにするためです、だから、その子供は実の子供ではなく、身売りされたような子供が多いのですよと答えたのでした。


それを聞いたとき、私は何とかしてこの国を豊かにしなければと思ったのです」・・・



2000年、日本は確かに経済的に困難な時期を迎えていました、しかしながら国民の多くは十分な安全が保障され、少なくとも明日の食事に困るというような状況ではなかったはずです、そのとき日本から飛行機で数時間しか離れていない国で、このような残忍なことが行われていたことに、私は深い憤りと自分の無知を恥じたのでした。



「マズローの欲求五段階論」というあまりにも有名な動機付け(モチベーション・アップ)理論があります。

どんな人間の心にも、五つの欲求段階が存在するというもので。

1. 生理的欲求  空腹・渇き・セックスなど肉体的欲求

2. 安全的欲求  物理的・精神的な障害からの保護と安全を求める欲求

3. 社会的欲求  愛情、帰属意識、受容、友情などを求める欲求

4. 自尊的欲求  自尊心・自立性・達成感などの内的要因の欲求と地位・表彰・注目など外的要因による欲求

5. 自己実現欲求 自分の成長、自己の潜在能力の達成(他人の評価ではない)の欲求


この欲求の段階は、人間は「1の生理的欲求」が満たされると、上のステージへ行く、そしてそれが満たされるとその上というように移っていくため、人間が行動する欲求の動機付けとしては低位のものから順番に満たされることが必要だというものです。

学問的にはマズローの理論を支持するエビデンスがないのでこの理論の正統性の証明はなされていませんが、日常のビジネスの場面ではマズローを引用させていただくことが多々あります。



現在の日本社会をマズロー的に当てはめるならば、3段階「社会的欲求」である帰属欲求が満たされなくなっているのが社会問題になっています。

派遣切りや非正規切り、学生の就職氷河期の問題です。

非正規雇用は全労働者の三分の一まで広がって、その非正規雇用者はいつ職を失うか分からないという不安な状態におかれています。

なぜこのような問題が起こってきたのか、根本原因は日本経済の凋落で、少なくともバブル期の頃は選別さえしなければ学生が就職に困るというようなことはありませんでしたし、企業側はどれだけ多くの働き手が確保ができるかということを競っていました。

正規・非正規問題は実は日本の雇用形態そのものに問題があるのですが、少なくとも経済が伸張しているときにはこのような問題はなかったのです。




さて、カンボジアの子供はなぜ手首を切られなければならなかったのでしょう。

それは手首を切った側の人間がお金が欲しかったからです。

幸福や豊かさを議論すると、経済発展は関係ない、所得が増えることと豊かな人生を送ることは関係ない、世の中にはGNPでなく、GNH(国民総幸福度)という考え方もあるという反論をする方がいます。

所得と幸福度の因果関係は一定レベルで頭打ちになるという統計もあります。

しかしながら、カンボジアの子供の例を出すまでもなく、世の中は最低限のレベルのお金がないと人として幸福な人生を送ることができないことも事実なのです。

経済は世の中を豊かにするためにあるはずです。

そのための経済発展なのです。



現在の日本では多くの「社会的欲求」を満たすことの出来ない労働者がいます。

これは社会として極めて不幸なことなのですが、世界レベルで見ればマズローの第一段階の欲求も満たされない多くの人々が、その次のステージ「安全の欲求」が満たされない多くの人々がいます。

そんな多くの人々のことを考えたら、私たちは、現在の日本を悲観することなく、決してうつむき加減にならず、前向きに現在自分にできる仕事と向き合うことが大切なのではないでしょうか。

一人ひとりのできる仕事の積み重ねがいつかまた、再び日本を経済的「日出ずる国」に押し上げていくのではないでしょうか。

私自身は経済の発展などとそんな大それた事を掲げなくとも、大事なことは今、自分ができることをする、そんな気持ちで日々の仕事と向き合っています。

その小さな積み重ねが少しでも世の中の役に立てば、カンボジアの子供のような不幸な子供を作り出さないことになっていくのです。




プラド美術館のゴヤの「聾者の家」には「わが子を食らうサトゥルヌス」という絵があります。(生涯で二度と目にしたくない絵です)

自己の破滅に対する恐怖から狂気に取り憑かれ、自分の子供を頭からかじっていくサトゥルヌスの絵です。

そんな人間の狂気や醜い欲望に対する怒りからピカソは「ゲルニカ」を描きました。



中小企業の経営者にとってまずできることは、私の周りのステークホルダーたちがマズローの欲求のステージをひとつでも高く上がることができるよう努力することで、自分自身も含め、世界中の経済困窮によっておこる人間の狂気や醜い欲望の芽を摘み取ろうとする志を持ったメンバー(社員)、マズローの5段階、さらにその上の上位概念である、自己超越の概念まで行き着くようなメンバー(社員)を一人でも多く増やしたいと願っております。

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日本経済新聞の朝刊はほぼ毎日目を通しますが、夕刊は週の内半分程度、時間に余裕のある時しか見ていません。

しかし、夕刊を読む時は一面の「明日への話題」は必ず読むことにしています。

ここには各ジャンルの一流の方々が珠玉のエッセイを書いています。

先般も洋画家の入江 観 氏が「希望」というテーマでエッセイを書いていました。

この文章は、「何のコマーシャルかは記憶に無いのだが、昔、バレリーナであったらしい美しい老婦人が樹にもたれながら、未来の話、この私がしたら可笑しいかしら?と微笑むTVコマーシャルが印象に残っている。その例に倣って、世間の仕分けに従えば、後期高齢者の私が、「希望」を口にするのは可笑しいだろうか?」

という書き出しで始まっています。

このコマーシャルの老婦人(というには少し失礼なのですが)は、ピナ・パウシュという演劇・舞踏・バレーを融合した「タンツ・テアター」と彼女が呼ぶ新しい舞踏芸術の創造者でした。





多くの旅人はアドリア海の女王ヴェネツィアに足を踏み入れるたび、タイムスリップしたような感覚に襲われます。

何度来てもヴェネツィアの小路で私は迷い、心地よく彷徨います。

観光客の波を避けながら小路を進んでいくと、女王の魔法にかかったように、目的地に辿り着けないことがあります。いつまでも、同じところを歩いているような感覚です。突然に少し視界の開けた広場に出ると、そこには建物によって四角に区切られた、アドリア海のブルーを溶かしたような青空が覗いています。

ラ・フェニーチエ劇場はそんな小さな広場に面して、決して豪華とはいえない外観でひっそりと佇んでいます。

その質素な佇まいからは、アドリア海の女王都市ヴェネツィアの、さらにそのヴェネッイアの女王と称される建物とはちょっと信じられませんが、建物の両端からわたされたチェーンにぶら下がっている、不死鳥(火の鳥)の紋章(イタリア語でラ・フェニーチエ)によって、ここがラ・フェニーチエ劇場だということを知らされます。

ラ・フェニーチエは、その名の通り三度の火災から甦ったオペラハウスです。

当然オペラが上演されますが、他の多くのオペラハウスと同様に、バレーやコンサートにも利用されます。

私がここを訪れた時の演目がピナ・バウシュの「アグア」(ポルトガル語の水)でした。





オペラファンの私としては日程の関係上、ラ・フェニーチエでオペラが観賞できないことに失望していました。そもそもピナ・バウシュという名前も知らず、舞踏という芸術にも興味が持てなかったからです。

ラ・フェニーチエが女王といわれる訳は、その劇場に一歩足を踏み入れるとよく分かります。誰もがその内部の美しさには驚かされます。私にとってはラ・フェニーチエに行く事が大事で、ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踏団はいわばオマケのようなものでした。


劇場に入りその美しさに魅了された私は、その三時間後幕が下り、ラ・フェニーチエ劇場を後にする時に、ビナ・バウシュにすっかり魅了されていたことに興奮すら覚えていました。



この旅で得た最大の収穫は、ピナ・バウシュ、ヴッパタール舞踏団を知ったことでした。



ピナ・バウシュは日本版ノーベル賞とも言うべき、稲盛財団の京都賞を2007年に受賞しています。

稲盛財団は京セラの創業者 稲盛和夫氏が私財を投入し設立したもので、対象となる人は稲盛氏の人生哲学を反映し、「謙虚にして人一倍の努力を払い、道を究める努力をし、己を知り、そのため偉大なものに対して敬虔なる心を持ちあわせる人でなければなりません。さらにその人は自分の努力をしたその結果が真に人類を幸せにすることを願っていた人でなければなりません」としています。

ピナ・バウシュの受賞理由は「舞踏と演劇の境界線を打破し、舞台芸術の新たな方向を示した振付家・人の動き根源的な動機を追及した独自の振り付け法で、演者と観客双方の感性に肉薄する独創的な作風を確立すると同時に、舞踏と演劇の境界線を打破し、舞台芸術に新たな方向性を与えた」というものでした。





残念なことにピナ・バウシュは2009年に68歳で他界されました。

日本での最後の公演は2008年3月、私はその最後の公演を見ることができた、ラッキーな日本人の一人でした。

ピナ・バウシュに興味のある方はぜひ楠田枝里子さんの「ピナ・バウシュ中毒」という本をお読みになることをお勧めします。

楠田さんのピナ・バウシュに対する愛情溢れる美しい文章で書かれた名著です。



さて、冒頭の日経新聞、画家の入江氏の書かれた「明日への話題」を読んだ数日後に、劇作家・演出家の つかこうへい さんが死去されたことを知りました。

「口立て」という演出法だそうですが、稽古場で台本のセリフがころころ変わる、その演出法は「芝居はF1レース。0.01秒間違えると死ぬという真剣勝負を観に客は来る」という持論に基づいてのものでした。

私個人としては蜷川行雄の演出のような比較的重厚な、終演後胸になんともいえない重みの残る芝居を好むほうですが、つかこうへいさん演出の舞台も二本ほど観ています。

残念ながら劇や演劇について語れるほどの経験や知識を持ち合わせていないので恐縮ですが、つかさんの劇・小説・エッセイ・戯曲を読むと弱者に対する限りない愛おしさを感じていました。

それはもしかしたらつかさんの出自と関係があるのかもしれません。



ピナ・バウシュもつかこうへいも旧来のやり方、観念に風穴を開け、ピナ・バウシュは新しい舞台芸術を創造し、つかこうへいは演劇の新しいスタイルを創造した、イノベーター(変革者)でした。



経営にもイノベーション(経営革新)が必須であるといわれています。

世の中がめまぐるしいスピードで変化しているのに対して、旧来の価値観をもって旧来のスタイルで仕事をするという事は、いつの間にか周りが先に進み自社だけが取り残されてしまうからです。

経営学ではイノベーションのジレンマという言葉が使われますが、新しい技術革新が起きると、旧来の自社商品が過去のものになってしまう恐れがある、企業は顧客のニーズに応えて従来製品の改良を進め、ニーズの無いアイディアは切り捨てる、ところが破壊的イノベーションが市場で受け入れられれば、従来商品の価値がなくなり、その企業は自社の地位を失うというものです。





このようにイノベーションという言葉には全く別の次元の違う価値が市場で創造されるような響きがあります。

しかし、私はイノベーションには二つのイノベーションがあると思っています。

一つは、ピナ・バウシュやつかこうへいのような創造的イノベーション。

もう一つは、私の造語ですが、静かなるイノベーション(Silent Innovation)です。

創造的イノベーションは創造的イノベーターによって喚起されます。

しかし、誰もが創造的イノベーターになれるわけではありません。

ある種特殊の能力と磨きぬかれた感性と探究心、不断の努力を続けることを厭わない人が創造的イノベーターとなる資格を持っています。

多くの科学の進歩や芸術の進化は創造的イノベーター達によってもたらされます。

私のようなごく普通の人間が創造的イノベーターになることは不可能ですが、静かなるイノベーターになることは自分の考え方次第で可能だと思っています。



経営学大学院生となって多少の疑問を感ずるのは、イノベーションの概念が、全く新しい技術やサービス、市場をもたらすものこそが真のイノベーションでその発想やアイディアを出すための学びだという考え方です。

イノベーションで大事な考え方、つまり従来の発想ではなく異なった視点、考えから、物事を捉えることの重要性は全くその通りですが、化学反応のようにAとBという物質を反応させ、全く新しい物質を作ることが私はイノベーションだとは思っていません。

現実の中小企業の経営を考えると、簡単に創造的イノベーションを作り出すことは容易ではありません。

しかし、静かなるイノベーションは経営者の意思によって行うことが可能です。

経営者に課せられた使命は劇的変化ではなくとも、少しずつでも、時代にマッチした企業経営ができるように、自分自身がアンテナを高くして世の中の動きに取り残されないような観察者である事、自分の経験だけでなく特に新しい価値観がどうなっているかの探求者である事、必要であればいつでも古いやり方を変えられるという意味での変革者である事、を常に意識しているかどうかだと思います。

そして大きな変化でなくとも、少しずつの努力を手を抜かずに諦めずにやり遂げることによって、一年を経て、二年を経て、振り返れば企業が変わっていたという結果がもたらされるのが経営革新だと思っています。

これが私の静かなるイノベーションという考え方です。

その意味で私は常に「静かなるイノベーター」でありたいと思っています。





創造的イノベーター達は新しい技術や文化をもたらし生活スタイルを変えていきます。

しかし、重要なのはそのイノベーションによって生み出されたものを引き継ぐ多くの人材が残されたという事です。

ピナ・バウシュは「タンツ・テアター」の継承者達を、つかこうへいは日本のみならず韓国でも多くの名優達を残しました。



名もない静かなるイノベーターはひとりでも多く、世の中の役に立つ人材を足跡として残したいと願っています。



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このブログでも「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来だ」

という事を書いたと思います。

その通りなのですが、実際は未来もなかなか変えられません。




なぜなら人間の脳は過去の延長線上に未来を作る仕組みになっているからです。

だから「昨日までの自分」も容易に変わりません。

・・・実はこの部分は西田文郎先生の「かもの法則」のP2をそのまま転記させていただいたものです。



西田先生との出会いもインパクトのあるものでした。偶然に立ち寄った書店のビジネス書のコーナーにあった「成功力」という本に目が留まり、何となく内容を見ていたら面白そうなので購入しました。

一気に最後まで読み、最後のページを見たら本の問い合わせ先に 株式会社サンリ とあり、住所が島田市になっていました。

私どもの会社は同じ静岡県の富士市です。

どのような会社か興味がありホームページを見たら、偶然にも一ヶ月ぐらい先に西田先生のセミナーがあり参加者を募集しているという知らせがありました。

人との出会いはたまたまの偶然が左右します。

セミナーの日は土曜日だったのですが、私はその日予定が何も入っていませんでした。

通常いくら面白い本でも、一度読んだくらいでは、セミナー慣れしてしまった私は重い腰を上げないのですが、その時は予定も無いことだし、島田はさほど遠くないので軽い気持ちで申し込みをしました。

実は西田先生のセミナーは大人気で、私は最後の滑り込みで参加できたようです、これも偶然です。



西田文郎はご存知の方も多いかもしれませんが、北京オリンピックで日本の女子ソフトボールチームを金メダルに導いた、メンタルトレーナーとして有名で、昔はマスコミにほとんど出なかったのですが、最近はある使命感をもって活動をしているので皆さんも前より名前を耳にすることが多くなったかもしれません。

メンタルトレーナーという言い方は一般的ですが、簡単に言うといかにポジティブシンキングになるように自分の脳をコントロールするか、という事を伝えてくれます。

従って、西田先生の下には、スポーツ選手、経営者をはじめ、信じられないほどのポジティブシンキングのメンバーが集まってきます。




私は西田先生の主催する西田塾で学びの場を得ると同時に、社内のメンバーにも3木勉強会や社長塾で西田先生の教えを伝えていきます。

3木勉強会で取り上げたのは先生の著書「かもの法則」です。

幸せになるための心のあり様の追求というテーマで書き始めたブログですが、西田流に言うならば幸せになるための脳の変え方、それが「かもの法則」です。

社長塾では「10人の法則」をテキストとして使いました。このテキストには実際に人生で出会った10人の恩人の名前を挙げ、その恩返しを考え、行動に移そうということが書かれています。

これらの事を会社のメンバーに繰り返し、繰り返し、伝え続けることによって、徐々に西田流の考えが社内に浸透していきます。

従って、社内には私以外にも多くの西田ファンがいて、ポジティブに生きることへの共感が浸透していきました。




私自身の10人の恩がえしは、前のブログでも書いたとおり、感謝の心は波紋のように内から外に広がっていく法則どおり、一番身近な人から恩返しをすべきで、私は10人の恩人の中の一人として妻の両親を上げました。

妻の両親は九州の小倉に住んでいます。

私の会社は地域密着・内需型な会社ですので仕事で静岡以西に行くがことがほとんどなく、出張のついでに妻の実家に立ち寄るということも無いので、ついつい足が遠のきがちで、先回行ったときから一年以上の間隔が空いてしまいました。

10人の法則の中の恩人→妻の両親、恩返し→会いに行く、という行動計画書を作ったものの、日々の多忙と生来の怠け癖でなかなか行動に移せませんでした。

そんな時、西田塾で同期のYさんが全くの思いつきで西田先生が会長の「アホ会」を九州で初めて自主開催すると言い出しました。

アホ会は500人程度の人を集めるイベントです。

Yさんはその情熱だけを武器に、まったくの徒手空拳で開催に向けて奔走し始めて、10月10日という日程まで決めてしまいました。

同期のよしみで(偶然ですが、Yさんの奥さんは「よしみ」さんと言います)九州アホ会には何とか出席しようと思い、その日程に合わせて妻の両親の実家を訪れることにしました。



静岡空港を朝一番の飛行機で博多まで行き、小倉に寄るスケジュールを組みました。

空港では毎朝、目を通す日経新聞を購入し、ロビーで読み始めたところ、地方経済の紙面で慣れ親しんだ会社の名前が目に留まりました。

それは一ヶ月ほど前に弊社が政府系のベンチャーキャピタル(投資育成会社)から出資を得て資本を増強したという記事でした。

基本的に優良企業への出資をする投資育成会社ですので、これは良いニュースなのですが、投資が完了されて一ヶ月も時間が経っていたし、九州に行くその日に日経の記事になるということは全く知らされていなかったので、日経はそんな瑣末なニュースは取り上ないのだろうなと思っていたところでした。

私はその新聞を持って妻の実家に行き、記事を見せたところ、妻の父親は小さいながらも、前は自分で会社を経営していたので、その記事を読んでたいそう喜んでくれました。






それが私の最後にした親孝行となりました。



2ヵ月後、妻の父親は永眠したのです。







これは偶然なのでしょうか?

もし、本屋に行って「成功力」が目に入らなかったら、西田先生を知らなかったら、10人の法則に従わなかったら、西田塾に行ってYさんがいなかったら、実家を訪ねる日に会社の記事が新聞に掲載されなかったら、私は妻の父親に大きな恩返しをするチャンスを失ってしまったのでした。




偶然の出会いが人の運命を変えます。

逆に言えば人が幸せになるためには、どのような良い出会いをするかで決定されているといっても過言ではありません。

良い出会いをするためには、自分自身がいかに良い生き方を身につけ、偶然を見逃さないキャッチ・アップ可能なアンテナを高くしておくことが必要です。



「日本で一番大切にしたい会社」の著者でもある法政大学・大学院の坂本光司先生との出会いが無ければ、私はこの歳で大学院生になることなど思いもしませんでした。

そして、出会いは始まったばかりです。







全く違った世界の人々との多くの出会いが待っています。

生活の機軸は会社の経営におきながら、まるでタイムスリップして、青年に戻ったような気持ちで大学院生としての未来が始まります。





立原道造は先の書簡を次のように続けています。(旧仮名遣いは変えています)




「僕の分身は、こうして日夜、ひとりの僕が文学の道に生きているとき、おなじ情熱で、建築の道に生きています。熱情だけはあるが、怠惰がすきなので、寝そべりながら建築の幻想ばかりして、紙の上にする建築も、少ない作品しか持っていません。


その二つの分身のすべてを合わせても、もう一つの大きな分身には及ばない、それは、青年である身分です。

・・・中略・・・

そして人生にさえ僕は憧憬によってしか触れていなかったにちがいありません。

人生は遠くにしかないものだと!

事実、これが人生だと知ったのは、つい近頃でした。

人生は遠くにはない、いつも僕といっしょにしかいないのだと!」

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