平成21年12月中旬、突然母が危篤になりました。
 
原因は敗血症…。
 
病原菌が足の傷口から血液中に入り込んだ事が原因で高熱を出し、突然意識を失くして部屋の中で倒れたそうです。
 
救急車で国際医療研究センター病院に運ばれ、すぐに治療は開始されましたが、残念ながら、しばらく母の意識が戻る事はありませんでした。
 
主治医から、「とても危険な状態」「助かったとしても、両足を切断する可能性がある」との説明を受け、私は「いよいよこの時が来たか」と、覚悟を決めねばならなくなりました。
 
それから約2週間が経過した頃、母の意識レベルは低下したままでしたが、身体面では少しずつ回復の兆しが見られ、命の危険は徐々に遠ざかって行きました。
 
そして、その年の大晦日の23時45分。
 
佐賀から東京の自宅に来ていた長女Jが、父、次女H、そして私をリビングに呼び、「これから母をどうするのか」と、唐突に意見を求めて来ました。
 
父は「退院したら、ここに戻るべきだろ」と言い、すぐに隣の部屋へ行ってしまいました。
 
長女Jと次女Hの意見は以下の通りでした。
 
「(退院後は)施設に入れるべき」
「私達(長女と次女)は仕事があるので、母の面倒を看る事は出来ない」
「自宅に戻るなら、家はバリアフリーではないので、庭にプレハブ小屋を建てて、そこで生活してもらう」
 
それに対して私は、「麻痺はなく、単なる筋力の低下が原因なので、まだ回復する見込みはある」「その時の本人の意見を聞いてから判断しても遅くはない」と、彼女達の意見に真っ向から反対したところ、「じゃあ、お母さんの面倒を看てもいい人は手を挙げて!」と、突然小学生の様に挙手を求めて来ました。
 
結局、手を挙げたのは私1人…。
 
私は姉達の言動に心底失望し、「今後は父と彼女(現在の妻)と3人で母を守って行く」と、心に決めた瞬間でした。
 
その出来事から1ヶ月が過ぎた頃、主治医の口からも退院に向けた話が出る様になりました。
 
本来ならば、以前の様に「リハビリ専門の病院」へ転院してから自宅に戻したかったのですが、「初台リハビリテーション病院」への転院は断られてしまったので、仕方なく、そのまま自宅への退院を考えざるおえませんでした。
 
そして、母には「これからの人生をどこで過ごしたいか」と確認し、「もちろん自宅で過ごしたい」「施設に入るのはイヤ」との答えが返って来たので、私は母を自宅に連れて戻る準備を始めたのです。
 
ケアマネージャーとも相談し、「24時間介護」を始め、「皮膚科Drの往診」「訪問看護」「訪問リハビリ」「食事(弁当)の手配」等々、自宅での生活環境を病院同様に設定しました。
 
そして、救急搬送されてから約2ヶ月半後、母は何とか生きて東京の自宅に戻って来ました。
 
その時の母は、まだ長女Jと次女Hからのサポートを期待していたので、私は正直に年末の出来事を伝えました。
 
一瞬悲しそうな顔はしましたが、「これからはあなたかケアマネージャーに相談する」と、母も「その時」は理解を示してくれました。
 
それと時期を同じくして、母の入院費等の支払いをするために、母から通帳を預かっていた次女Hが、私的にお金を使っていた事が発覚しました。
 
また、長女Jも「佐賀←→東京の飛行機代」を、その通帳から引き出していたため、母は怒り、次女Hから通帳を取り上げたのです。
 
この出来事をきっかけに、母と姉達、私と姉達の関係に軋轢が生じ始めました。
 
その後、姉弟間の関係を危惧した両親は、信託銀行に依頼をして、父、母それぞれが「公正証書遺言」を作成しました。
 
しかし数年後、この「遺言者」が新たな火種となって、長女Jと次女Hの「暴走」が始まって行くのです。
 
(最後に・・・)
今から最高裁の判決が出ます。
結果がどのようなものになるとしても、私は長女Jと次女Hの「犯罪行為」を許すつもりはありません。