ゲットバック、ゲットバック・・・。
僕みたいなゆとりの脳たりんには
歌うべき昨日はありません。
だから僕は「帰るべき場所」を明日に見ます。
昨今の「空気を読め」という言葉は、
「空気を読んで、それに逆らわずに没入しろ」と
いうところまで含んでいます。
人々は「空気が読めない」と言われ排除されることを
恐れて自ら深く考えることもなく、「空気を読んで、
それに逆らわずに没入」してしまうのです。
このような、無自覚にして悪意無き人々の
「抗わずの姿勢」は無限に集まることによって
動機をもたないコンプレックスの虚像を作り上げます。
そして、それは悪意と権力をもった者にとって
非常に都合のいい世界だといえます。
もちろん、コントロールが容易いからです。
だから僕は「空気を読め」とは言いません。
僕は「空気を作る」ことを提案します。
僕は、ギリシア悲劇、ロック、グランド・ナラティブに
魅力を感じながらも、そこにうまく溶け込むことが
できませんでした。
これらはやはり、既存の世界との物語なのです。
「消費の物語」、と言い換えても良いでしょう。
オイディプス王においては主人公の美徳によって、
かえってより深くて大きな悲劇の渦に呑まれていきます。
ロックはごく平易に言えば、「インチキな社会をぶっ壊そう」
というメッセージに集約できます。
体制を、ギター片手に打ち壊して自由を手に入れよう。
世界は一つだ、NO BORDER, ANTI WAR
PEACE!LOVE!FREEDOM!
(たしかに、僕も好きです。)
グランド・ナラティブも、まあロックの精神にまとめて
いいんじゃないかな。
いずれにしろ、これらは前もってあったものを
どうにかする物語です。
僕は、インチキは許したくないし、認める心算もありません。
だけど、運命に振り回されたり、ただ壊すところで
終ろうとも思わない。
確かに何も考えずにコンプレックスに没入するよりは
体制をぶっ壊した方が千倍マシだとは思う。
でも、
みんながそう言うから、ロックが流行ってるから、
イケメンだから、自分もそこに加わりたい。
名前だけでもいいから入れてほしい。
仲間はずれにしないでほしい。
そんなのでは、君に動機があるとはいえないはずだ。
ゴーストの維持には、他者からの承認、帰属する組織なり
集団は必要かもしれない。
でも何も考えずに「なんとなく居心地がいい空間」に
安住するのは、インチキがはびこる一番大きな原因に
なっている。
『ぼくらの経済民主主義』
三ツ谷誠 NHK出版
第一章 商品に囲まれた世界 1モナド資本主義
僕は資本主義の可能性に期待しながらも、
この中にひとつだけ、絶対的な不快感を覚えた記述が
ありました。
『あらゆる「欲求」を「消費」可能な都市では、このように
人は「完全に独り」で生きていくことができる。自分自身を
「商品」として提供できさえすれば、その「価値」に応じて
「貨幣」を与えられ、その「貨幣」で「欲求」を「市場」を通じて
「消費」することができる。』
究極的な資本主義においては、人々はその欲求を最大限に
解放されて、人々のニーズに応えるあらゆるサービスが
提供されていきます。
ここで、人々は一見、どこまでも自由に見えます。
でも考えてみてください。「自由」とは、「与えられた選択肢から
自由に選ぶ」ことだったでしょうか。
仮に、究極的な資本主義が成立した社会があったとしたら、
そこでは結果的に人々が自由であるように思えるでしょう。
政治家や評論家もそう主張するでしょうし、
人々は欲求の消費に忙しくて見向きもしないかもしれません。
しかし、僕にはそれが、「真の自由」だとは思えないんです。
もし、人々がカラフルで安全で無害で安価な、まるで自分の欲求に
ぴったりあったような「商品」を目にする前に、彼/彼女が
「自分で作る」「自分で考える」時間をとったら結果は違ったものに
なるはずです。
僕達の欲求にまるで合うような商品を見た瞬間に
その姿がはっきりしたものになっているはずだ。
「自分の考え」、「自分の言葉」が不安定で無定形な
「変化するモノ」だったように僕達の「欲求」もまた、
コロコロ変化するものであるのではないでしょうか。
究極的な資本主義社会とは、体制が崩壊した世界です。
人々はモナドまで細分化されています。
社会の意思決定も大衆に任されている。
個人の美徳も正しく(あるいは機械的に)評価され、
それに応じた報酬が支払われます。
NO BORDER, NO WAR, FREEDOM・・・
全てが実現された世界、といってもいいと思います。
しかし、そこにもまだ、真の自由はない、のです。
近代において、人間は破壊する動物でした。
無機的で無感動な人工物。
人間は人間らしさを求めて体制を組み上げ、
戦争を引き起こし、豊かでスマートな
大量生産大量消費社会を築きました。
そして揺り返しとして、反省もあった。
そこで人々は体制を批判し、今度はそれを
破壊しました。
僕は差別化、細分化は「刃」だと思います。
もちろん、社会システムの維持には不可欠ですが。
資本主義において、「他者からの承認」は
株式会社を通したモナドによる意思決定という
市場的アルゴリズムによって機械化されています。
しかし僕はそんなのは暴力以外の何者でもないと思います。
気持ち悪いし、全然嬉しくない。
前近代的な、かつて「村」の間に存在していた
「失われたぬくもり」を人々は渇望しているんだと
思います。
それを成していたのもまた人の暴力です。
人間は破壊も生産も同じ動力を使ってやってのけます。
言葉を変えた方が良いでしょうか。
エネルギー、マグマ、リビドー、ベクトル、エゴイズム、
もしかしたら、「愛」、かもしれません。
人間がつくったものは全部、ソレでできています。
みんながそれを「破壊」に使うか、「創造」に使うか、
あるいは自分のものを直接使わずに、人に預ける代わりに
用意された魅力的な選択肢を選ぶ権利を得るか。
それはみなさんの自由です。
でも、これだけは一度考えてほしい。
帰属空間、居心地のいい空間を自分だけで
見つけるのは大変だし時間がかかる。
しかし自由を捨てて無個性なコンプレックスに
没入することで、安易に「帰るべき場所」、「欲求」を消費する
手段を与えられても、「明日」はない。
「真の自由」、「帰るべき場所」、「明日」は与えられるものでは
ありません。
自分で考え、自分でつくる他にないのです。