本コンテンツをご覧になるには、Flash Playerプラグインが必要です。FlashのWebサイトよりインストールしてください。



bloglank


手のひらの中のアジア
QRコード
BLOG QR
December 13, 2007

侵 犯

テーマ:(13)ネパール

ネパール イラムの少女


ある日、イラムの山奥へ足を踏み入れた時のこと。



茶畑の小道を抜け、大小様々な丘を上っては下り、右に左に曲がりくねった道をひたすら進む。時に林の中の道なき道を分け入り、新たな道を見つけては、またさらに奥地へと歩を進めていく。



明確な目的地があるわけではなかった。



あるのは「この先に何かがありそうだ」という根拠のない好奇心、ただそれだけ。



山道を歩き続けること約3時間。



山の斜面に沿ってきれいに区画された段々畑が現れ、山の中腹あたりに一軒の木造小屋を発見した。さらに下方には、頑張れば歩いて渡れそうなくらいの幅、比較的緩やかな流れの川がS字を成して流れている。



家の敷地内、家畜小屋の軒下で、土まみれ、糞まみれもおかまいなしではしゃぐ4人の子供たちの姿があった。4、5歳の男の子が2人と、やはり同じ年頃の女の子が2人。兄弟姉妹のようだ。



指を使って地面にお絵書きしていた彼らに近づくと、警戒して急に黙りこんでしまった。しかし僕がそこらに落ちていた棒を拾って一緒に絵を書き始めると、すぐに彼らは笑顔を見せてくれるようになった。



何枚か子供たちや周辺の風景写真を撮ったりしながら、僕はここまではるばる歩いてきた甲斐を感じていた。



そこへ家の中から子供たちのお母さんと思われる、見た目40歳前後の女性が姿を現した。



ネパールの女性はいつも実年齢より上に見えることが多いから、彼女も実際にはもう5歳くらいは若いのかもしれない。少し前にシャワー代わりの水浴びを終えたばかりの様子で、結ばずに腰のあたりまで垂らした髪はまだかすかな水気を帯びている。



あらためて挨拶しようと、僕はその場に立ち上がった。



しかし、この時すでに彼女の表情ににこやかさのかけらもないことに気づいて、僕はとても嫌な予感がした。それはすぐに次の行動で明確になった。



彼女はこちらにやってくるや否や、まず一番手前にいた男の子の背中に思いっきり握りこぶしを叩き下ろした。



「見知らぬ人間と気安く話すんじゃないと言っただろう!!」



はっきりと意味がわかったわけではないが、大声で怒鳴った彼女はまるでそう言っているかのようだった。



ドゴンッと重々しく、痛々しい音が響き、小さな男の子の細く弱々しい背骨が悲鳴をあげた。



彼は数秒間、苦しそうに息を詰まらせた後、背中を反らせたまま、まもなくその場で吐き出すようにして大泣きし始めた。彼女は間髪入れず、他の子供たちのことも次々と容赦なく平手でひっぱたいていった。



激昂するお母さんをなだめようと僕が話しかけるよりも先に、怒りの矛先は今度、僕の方へ向けられた。金切り声を立てて喚き始めた彼女をなだめすかす余裕などなかった。



彼女は僕の持っているカメラに向かって人差し指を突きたてながら、しきりに「アメリカ」という言葉を口にした。「アーミー(軍隊)」という言葉も頻繁に発した。彼女の言葉をまったく理解できない僕には、はっきりと聞こえるその2つの単語だけがとりわけ象徴的に耳についた。



彼女は僕に言葉を挟む隙を与えないほど一方的にまくしたてた後、しばらく大きく肩で息をしながら仁王立ちし、じっと僕を睨みつけていた。間を見計らい、僕が日本人であることや何も悪意はないことをネパール語とジェスチャーを交えて伝えたのだが、「そんなことは関係ない!!」という感じで激しく言葉を吐き捨てた。



一瞬の沈黙があり、子供たちの泣き声がその沈黙を埋めるようにして再び耳に飛びこんできた。彼女もそれに気づいたのか、ふと思い出したように子供たちの方を振り返った。それから2人の息子の頭をそれぞれひっぱたき、家の中へ戻るよう怒鳴りつけた。2人の娘に対しては、すでに泣き喚いている彼女たちの尻を尚も数回叩いた後、自分の両腕に抱きかかえて家に連れ戻した。



木造扉が勢いよく閉められ、一瞬大地が揺れたのではないかと思うほどの衝撃と共に、埃や藁くずが舞い上がった。それらが音もなくひらひらと宙を漂う中、僕はその場に独りぽつんと取り残された。



しばらく呆然と立ち尽くしていた僕の頭の中に、やがていろんなことが思い浮かび始めた。



いったいなぜあんなにも彼女の口からは「アメリカ」という言葉が出てきたのだろうか。アーミーとは「アメリカのアーミー」なのだろうか、それとも「ネパールのアーミー」なのだろうか。



外界から隔離されたような山奥でひっそりと生活している状況を考えると、「アメリカ」とは「外国人」一般のことを指している可能性もある。外国人がすべてアメリカ人(イギリス人やドイツ人なども)だと思っている人は、稀だがいるにはいるのだ。またネパールの昨今の情勢を考えると、「アーミー」とは「マオイスト」のことを指していると考えられなくもない。



へたに2つの単語だけが聞き取れてしまったことによって、僕の頭はよけいに混乱していた。しかし、いずれであるにせよ、それと僕自身、あるいは僕のカメラとがどう関係あるというのだろうか。



彼女の様子は尋常ではなかった。単に写真を撮られることが嫌いという範疇を越えていた。



小さな体で肩を怒らせ、僕を睨みつけていた彼女。



僕にはそんな彼女の目に、僕に対してとは別に、「何者か」に対する怖れと怒りがあるように思えてならなかった。彼女たちの穏やかな生活が、何者かの手によって脅かされたという過去があったのではないだろうか、と。



そう思うと同時に、人質、奴隷、略奪、強制連行、人身売買・・・・・・嫌なイメージの言葉ばかりが次々と頭に浮かんでくる。これまでにも、訪れた国の影の部分でこうした関連の話が実際に存在することを知った。絵に書いたような景色の広がる一見平和そうな場所とはいえ、ネパールの山奥で何かあってもけっして不思議なことではない。



もしかすると彼女は、僕が写真を「何者か」に売り渡すと思ったのではないだろうか。だとすればそれは、僕が子供たちそのものを売り飛ばす行為に等しい。そして僕がカメラのシャッターをきってしまった瞬間、彼女にとって「僕」と「何者か」は同じ存在で、僕は彼女たちの生活を脅かす存在でしかなかったことになる。



―違う!


僕はそんなんじゃない。敵意なんてないし、僕はただあなたたちと仲良くなりたかった、あなたたちのことを少しでも知りたかっただけ。日本からやってきた一旅行者として、一個人として、あなたたちと向き合いたかっただけなんだ。



気がつくと僕は家の前に立ち、激しく扉を叩いていた。



それから何度も、何度も、扉を打ち鳴らし続けた。



でも反応はなかった。



よけいに激怒して飛び出してくるならまだしも、まるで息を殺しているかのように物音一つしない。あれだけ泣き喚いていた子供たちの泣き声さえ、塞ぎ込まれてしまったかのように少しも聞こえてこない。



僕は愕然としながら、やがて諦めて、扉を叩いていた拳をゆっくりと下ろした。



―すべては言い訳にしかならない・・・。



そう思うと、言い様のない苦しさで胸が押しつぶされそうになった。



実際には、事実は何も明らかになっていない。言葉の壁がある以上、正確なことは何一つわからない。僕の考えたことだって、ただの妄想に過ぎないかもしれない。



しかし、例えば何者かの存在があったにせよ、なかったにせよ、はっきりしていることが一つ。



「僕はこの場所に住む人々の領域を侵してしまった」 



それだけは疑いようのない事実だった。



結局、和解の機会を持つこともできずに、僕はこの場所を去るしかなかった。



踏み込んではいけない領域というものがある。



そんなことを、恥ずかしながら旅に出て1年と数ヶ月が経って初めて、自らの体験をもって知った出来事だった。



この場所で撮った写真は一枚も残っていない。


子供たちはもちろん、家とその周辺を含む、あの絵に書いたような風景の写真も。


どれも撮った時にはお気に入りの写真だった。


どこか未練を残しつつも、僕はそれらをすべて削除した。撮られることを望まれなかった、許可されなかった写真である以上、それらを残しておくわけにはいかなかったから。


ただ皮肉なことに、その子供たちとお母さんである彼女の姿は、写真で残す以上に、今でも鮮明に、色濃く、自分自身の心に焼き付いている。




※写真の子は、本文とは関係ありません。。

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)
November 25, 2007

紅茶の里 イラムにて

テーマ:(13)ネパール

ネパール イラム


カカルビッタを出発後、東西を貫く幹線道路のマヘンドラ・ハイウェイを西へ10キロほど走り、そこから進路を北に変え、標高約1,300メートルにあるイラムという町を訪れる。


「ネパールのダージリン」と称されるこの町は、ダージリンティーならぬイラムティーの生産地としても有名な紅茶の里。その上質な味と香りは、ネパール国内外問わず、広く人々に親しまれているという。


山あいを抜けてくる高地ならではの澄んだ空気と一面の茶畑、山の斜面に沿って建つ民家。


メインストリートの両脇には、サモサや揚げ菓子を店頭に出す小さな食堂、駄菓子やジュース、文房具、生活用品などを扱う商店、色鮮やかな衣装・織物を商う呉服屋、靴屋に鞄屋、薬局、写真屋、といった様々な店が並ぶ。


ダージリンはもちろん、カルシャンやミリクの町並みにもよく似た趣きがある。


ネパール イラム

勾配のさほどきつくない坂道を、ゆっくりとした足取りで歩く。


ふと聞き覚えのある音が聞こえてきて、足を止める。


カタカタカタカタ・・・。


カルシャンの路地裏でお婆さんが奏でていた寂れたミシンの機械音―。


あれよりもう少し歯切れは良く、仕事のはかどりそうな音だ。正面には壁もドアもない開放的な店構え、そこで初老の店主がミシン台に向かっている。少し離れて依頼主の女性が、椅子に腰かけて仕上がりを待っている。


「ナマステ」


僕が両手を胸元で合わせて挨拶すると、


「ナマステ、ナマステ」


店主はにこやかな表情で2度、挨拶を返してくれた。


「どうも、こんにちは」


「いやいや、どうもどうも、こんにちは」


そんな日本語のやりとりによく似ていて、ほっと気持ちが和む。


ネパール イラムの裁縫屋


しばらく歩いていると、ほんのり漂う香ばしい匂いに鼻先をくすぐられて、また足を止める。少し先の並びの食堂から立ち昇る湯気、そこへ吸い寄せられるようにして店先へと足を向ける。


鉄鍋の中には、油に浸されジュワジュワと音を立てて踊るサモサ。

思わず生唾をごくりと飲みこんでしまうほど魅惑的だ。


じっと見つめる僕に、店主がこんがりキツネ色に揚がったできたてのサモサを一つすくいあげ、新聞紙にくるんで差し出してくれた。


僕はその場でいただくことにして、勢いよくかぶりつく。


が、これがとにかく熱い。あつあつのサモサを口の中でほくほくさせ、むせびながら、思わず日本語で「熱い、熱い」と声を上げてしまった。


それを聞いた店主が、どういうわけか、僕にこんなことを言う。


「アッチャ、ヒンディー。ネパリ、ミトチャ」


アッチャはヒンディー語だ。ネパール語ではミトチャというんだ、と。

(どちらもそれぞれ「おいしい」という意味)


話がよく噛み合ってないな、としばらく変に思っていたのだが、どうやら店主は、僕がヒンディー語で「アッチャ(おいしい)」と言ったのだと勘違いしているようだった。


僕はただ日本語で「熱っちゃ(熱い)」と発してしまっただけなのだけれど・・・。


「アッチャ」と「熱っちゃ」、おかしな言葉の取り違え。


いずれにせよ、僕はうまいと伝えたくもあったのだからそれでいいことにしよう。


ネパール イラムの食堂


立ち寄りついでに、家族で経営するこの食堂で食事をとることにする。


手元の時計は正午を少しまわった頃、昼食にもちょうどいい。

注文する品はあらかじめ決まっている。

ネパール本国に入ってからは初となるダルバートだ。


待っている間、店主がサモサを作る工程を実演して見せてくれる。あらかじめ出来上がっていた具材と皮をそれぞれ手にとり、慣れた手つきで器用に包み込んでいく。


感心しながら様子を見ていると、店の少年(店主の息子)が負けじと、自分のまかされている作業の工程を僕に見ろ見ろといって勧めてくる。


キッチンから青年が出てきて、そんな少年を一喝する。


「お前はうるさい」


そんな言いっぷりで少年のベースボールキャップをぐいっと押し下げると、目の前が見えなくなった少年は、「わぁわぁ!!」と叫びながら、―でも楽しそうに―、外へ飛び出していってしまった。


今度は代わりに、青年が僕をキッチンに案内してくれる。


これが俺の担当なんだ、といって見せてくれた大鍋にはおいしそうなダル(豆のスープ)がたっぷり入っている。もう一人の青年は軽食用の甘菓子を作っているところを、さらに別の青年はチャパティ用の生地をこねている自分の持ち場を、それぞれ見せてくれた。


ひととおり食堂を見てまわってから席につくと、店主の奥さんだというまだ若いお母さんが、まぁまぁ一息おつきなさい、とでもいった感じでチャイを運んできてくれた。


ネパール イラムの食堂


チャイを飲みながらさらに待つ間、今度は店にいた少女が僕の向かいの席に腰を下ろした。


水色の花柄模様のワンピースが、彼女の艶やかで張りのある黒い肌によく似合っている。右腕に腕輪、両耳にはピアスとお洒落に着飾ってはいるけれど、まだあどけなさを感じさせるこの子は10歳そこそこといったところだろうか。


彼女はテーブルの上に頬杖をついて、しばらくの間じっと僕の様子を眺めていた。最初は何だか僕の方が気恥ずかしくて、目が合うたびにさっと逸らしては食堂を意味もなく見回したりしていたのだけれど、何度か続くとそれもぎこちない気がしてきて、僕は思いきって声をかけてみることにした。


「サンチャイチャ?」


元気?と僕が言うと、今度は彼女の方が恥ずかしそうに後ろにいたお母さんの方を振り返る。


「ほら、元気かって訊いてるよ」


そんな様子でお母さんは笑いながら娘に促す。


彼女は僕に背を向けたまま両手を椅子の上につき、体を左右に揺らしてもじもじしている。後ろで一本にまとめた彼女の長い髪と耳もとのピアスが、体の動きに合わせてかすかに揺れている。


しばらくして、心を決めたかのようにゆっくりと向きを戻した彼女に、僕はもう一度声をかけてみる。


「ラムロォ チャ?」


グッド?と。


一呼吸おいて、彼女ははにかみながらも首を横に傾げる(OK、肯定を表す)仕草で、うんと答えてくれた。


言葉を口にはしなかったけれど、十分に気持ちが伝わってくるグッドな笑顔だった。


ネパール イラムの少女


ようやくのこと、銀のプレートに盛られたダルバートが運ばれてくる。


小さな器に入った煮くずれてとろりとしたダルを、その都度ご飯にかけてトルカリ(野菜)と混ぜて食べる。さらにアチャール(漬物)も混ぜて口へ運べば、じわっと広がる香りと味。


店内では、相変わらず陽気に歌いながらサモサ作りを続ける店主の姿。


店に戻ってきてからも走りまわってはなんやかんやと食堂を賑わす少年。


温かいチャイを銀のプレートに載せて客のもとへ運ぶお母さん。


キッチンの裏で大鍋に入ったダルスープをかき混ぜる青年と、出来上がった甘菓子をショーケースに並べるもう一人の青年。


向かいの薬局のお母さんが、泣き喚く赤ちゃんを抱き、店にやってきた。


隣の商店のおじさんが、そんな赤ちゃんをあやそうと話しかける。


端の方に座ってその様子を静かに眺めるお婆ちゃん。


奥の座席でチャイを片手に談笑する老人たちとその笑い声。


そんな食堂の光景を見まわしながら、あらためて、


「あぁ、この町に来て良かった」


と僕は思った。


ネパール ナマステ
AD
いいね!した人  |  リブログ(0)
October 24, 2007

国境の町 カカルビッタにて

テーマ:(13)ネパール
ネパールの女性

インドとの越境地点、東の国境からネパールに入ると、まず最初の町はカカルビッタだ。


特に何の見どころがあるわけでもない。30分もあれば隅から隅まで歩けてしまうほどの小さな町、その中心はバスターミナルになっている。ターミナルといっても近代的な屋根付きの豪華施設があるわけでもなく、ただ町のど真中に大きな広場があって、大小様々なおんぼろバスがそこへ集まり、そこから出ていくだけだ。ネパール各地からやってきてインドへ抜ける人々はこの町でバスを降りる。インドからやってきてここからネパール各地を目指す人々はこの町からバスに乗る。ここから出るバスに一応の出発時刻はあっても、人が集まらなければいつまで経っても動かない。早朝のバスは頻繁に出るようだが、日中になると、運転手はおろかバスまでもが退屈そうに沈黙している光景を見かける。


ぐるぐると周辺を歩きまわってみたけれど、観光滞在を目的とする旅行者の姿は見ていない。カトマンズで起こった大規模デモの影響で旅行者がネパールへの訪問を控えているということはありうるが、いずれにせよカカルビッタは越境する上で必ず通らなければならない町、バスの発着地点として立ち寄るだけの町、といってしまえばそれまでだ。地元以外の人にカカルビッタに行く理由を訊ねれば、十中八九、そこに国境があるからだ、という答えが返ってくるかもしれない。


二日目の午後、これといってすることもなくなった僕は、広場の脇の石段に腰かけてぼんやりとバスの発着の様子を眺めていた。何台かのバスがカトマンズ方面からやってきて、何台かのバスがカトマンズ方面へ出ていった。それ以降、取り残されたように一台のバスが初日と同じように沈黙している姿があるだけだった。


先日、一応の収拾がついたカトマンズの事態に関しては、ここにいる限りなんら影響ないようにみえる。話も聞かないし、そもそも最初から何事もなかったかのように、人々はいつもと同じ日常を送っているように思える。町自体の面白みに欠けてはいるけれど、そこには平穏無事なネパールの一光景が広がっていた。


僕はネパールのことをなんとなしに考えているうちに、旅の途中、タイのチェンマイで出会った30代後半くらいのある日本人男性のことを思い出していた。JICA(日本国際協力事業団)の一員としてネパールで活動していた経験を持つという彼は、これから初めてネパールを訪れる僕に対していろんな話を聞かせてくれた。


「ネパールはね、たくさんの問題を抱えてるんですよ。例えばそれは貧困に始まり、地域格差、性差別の問題、カーストの問題であったり、国王の政治権力の問題だったり、それからご存知のようにマオイストのことなんかもね・・・・・」


ネパールの深い部分まで足を踏み入れて現実を見た彼の話は、ほとんど何も知らないといっていい僕にとって非常に興味深いものばかりだった。


これまでに訪れた国でどこがよかったか、というよくある話題になった時、僕がラオス、と答えると彼はこう言った。


「ラオスもいいですよね。そう、ネパールはね、僕がいた数年前の時点で、例えばGDP、国内総生産。この一人当たりの国内総生産なんかでも当時のラオスよりずっと低かった」


僕はただただ頷きながら彼の話を聞いていた。まだ見ぬネパールのことを漠然と想像してみたけれど、頭の中でうまく映像を結ぶことはできなかった。一方で、ラオスのことについて妙に熱くなって語っている自分がいた。


「なんていうか、厳しい現実の中でも力強く生きる人たちとか、輝いた目を持つ子供たち、そういうのを見てすごく心を打たれたんですよね。ラオスは特にそんな感じでした。あまり深いところまで見たわけじゃないんですけど。でも子供たちの目なんか、まるで希望とか、可能性の象徴みたいに思えるほどとても素敵なものでした」


彼は聞きながら、何か具体的なことを頭に思い浮かべているように見えた。おそらくは、自分がネパールに携わっていた頃に出会った子供たちの顔や声を。


「ネパールの子供たちもかわいいですよ」と彼は何かを確かめるようにゆっくりとした口調で言った。「キラキラした目でね。それを見てると、とても癒される」


懐かしそうな趣きを含んだその言い方が、印象的だった。


「ネパールには多くの民族がいますよ。36だった、かな。私も旅行者としてネパールの各地をまわったりもしましたよ。顔も違えば、肌の色も違う。考え方だって違う。もし時間があったらね、いろんな地方を訪れてみたらいいですよ。きっとその違いがわかるから。もちろん危ない地域もあるから、それには気をつけて」


僕が彼と話をしていたのはほんの30分ほどのことで、彼がネパールでどんなことをしていたのか、今はチェンマイで何をしているのか、そういったことについては何も聞いていない。そもそも僕は彼の名前さえ知らないのだ。でもそんな些細な出会いのことが、ネパールというキーワードをきっかけに、ふっと湧き上がるようにして思い出された。子供たちのことを話した時に見せた彼の表情が、やはり印象的だったからかもしれない。きっといい出会いがあったんだろうな、と僕は思った。そして自分にはどんな出会いが待っているのだろうか、とさらなる思いを巡らせた。


甲高い音のクラクションが何度か鳴り響いて、ふと我に返ったように僕は顔を上げる。


駐車場で沈黙していたはずのバスが午後遅いこの時間、いつのまにか大勢の人で埋まっている。夜行のカトマンズ行きバスのようだ。出発はまだかまだかと言わんばかりにバスはエンジン音を威勢よく奮わせている。


「おい、乗らんのか。出発するぞ!!」


扉のないバスの乗車口に立った車掌が僕を見つけて叫ぶ。

「ボォリイ、ボォリイ!! バイサイクル!!」


明日、明日と叫び返しながら、僕は両手を拳にして車輪のようにぐるぐる回してみせる。明日、自転車で出発するからバスには乗らないよ、と言いたかったのだ。しかし、「なんのこっちゃわからん」といった様子で車掌は顔をくちゃくちゃにし、両手を広げて肩をすくめるだけだった。それからまもなく、今にも壊れそうなおんぼろバスは、車体を大きく上下に揺らし、真っ黒な煙を吐き出しながら、カトマンズへ向けて出発していった。


再び静かになった広場で、僕は今のことを振り返る。とっさに出たとはいえ、あんな言葉とジェスチャーでは通じるわけがない、と車掌の困り果てた表情を思い出して思わず心の中で苦笑してしまった。


もっとネパール語の勉強をしないといけない。

思い立ったが吉日、宿へ戻って早速始めよう。


そう思いながら歩き始めた10分後、僕は近くの食堂の席についてビールを注文していた。

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)
October 23, 2007

明るい兆し

テーマ:(13)ネパール
東ネパールの道

「Welcome to Nepal」


カトマンズでの事態を重く受け止めていた僕にとって、それはあまりにも意外な一言だった。


ネパール側の国境、私服姿で現れた若いイミグレーションの担当者は、一ヶ月ビザのスタンプを押したシールをパスポートに貼り付けると、にこやかな笑顔とともにそれを僕に手渡した。


あっさりとネパール入国を認められて拍子抜けしつつも、どこか心の片隅に靄がかかったような信じ難い気持ちだった僕は、疑わしい目でもう一度担当者を見返した。まさか、首都で起きている事態を知らないのではないだろうか。それともネパールの東の果てにおいては、何の影響もないということなのだろうか。あるいはそれは、「旅行者に限っては」ということなのだろうか。


「カトマンズでデモが起きていると聞きましたが、問題ないんでしょうか」


おそるおそる僕が訊ねてみると、担当者から予想外の答えが返ってきた。


「ノープロブレムだよ。ニュースを見たから今日ここに来たんじゃないのかい?」


「ニュース?」


あっけにとられた僕の様子を見て担当者は、今度は安全性の面を強調してか、ゆっくりと言い聞かせるように言う。


「大丈夫。昨日で終わったんだよ」


担当者の表情を見る限り、嘘を言っているようには見えない。が、やはりにわかには信じ難い。昨日、というのがどうにも都合の良すぎるタイミングに思えるし、ただ安心させたいがためにテキトウなことを言っているような気がしないでもない。


しかし実際、何も知らないのは僕の方だったのだ。


実を言うと、僕はここ2、3日のニュースをまったく見ていない。明るい兆しの見えないネパール情勢が続く中、しばらく別のところへ目を向けようと思った僕は、スィリグリからバスで北東へ4時間ほど離れた場所にあるジャイガオンを訪れた。この町の中心に建つ、中華街によくあるような巨大な門は、隣国と接する国境ゲートになっていて、すぐ向こうはブータンだ。たった一日だがブータン側の町プンツォリンをも訪れた僕は、つい先日までのネパールに対するどんよりした気持ちを忘れてしまうほど、充実した時を過ごしていた。


スィリグリへ戻ってきてからの僕は、すぐさま約60キロ西にあるネパール国境を目指して自転車を漕ぎ始めた。ネパール入りを踏みとどまった時とは違い、冷静な判断や綿密な情報収集があっての行動ではない。ブータンを訪れて気をよくしていたからかもしれないし、足踏み状態にしびれを切らしたからと言ってもいいのかもしれない。とりあえずネパール国境まで行ってみよう、という程度のものだったのだ。国境へ行けばもっと具体的なことがわかるだろう、駄目だったら迂回して北インドの旅を続ければいいじゃないか、と。4月25日、そうして訪れた国境で、張りつめた空気どころか、こうして「ようこそネパールへ」と予想外の歓待の言葉で迎えられたというわけだ。


後に知ったニュースでは、ギャネンドラ国王は高まる民主化運動に対して直接統治を断念、4月24日夜、テレビ演説にて国民へ権力を移譲すること、旧議会を復活させるとの発表をした。それにより、ぎりぎりのところで危機は回避、事態は収拾したというのである。まさに僕がネパールを訪れる前日の出来事である。失礼ながら、イミグレーションの担当者が言っていたことは本当だったのだ。


ネパールで大きな政変があったからといって、すべての状況がたちまちによくなるはずはないし、問題は山積みなのだろう。しかし和平に向けて一歩前進したこともまた確か。


ネパールに、わずかながら明るい兆しが見え始めた。


僕は僕で、インドのダージリンからミリク、スィリグリと、いい具合いに続いてきた旅の流れをここで断ち切られたくなかった。思わぬネパールの事態に気持ちもどんより沈みかけていた僕にとっても、この絶妙なタイミング、前向きな気持ちの高まりは、まぎれもなく明るい兆しだった。


わくわくする気持ちが膨らんできたら、それはGOサイン。


この国でも素敵な出会いがありそうだ。


そんな予感を感じさせながら、気持ち新たにネパールの旅が始まる。

いいね!した人  |  リブログ(0)
October 16, 2007

2006年4月 ネパール

テーマ:(13)ネパール

ネパール カトマンズ


2006年4月、ネパールはここ数年において最も緊迫した事態に直面していた。


それは僕の旅のステージが、まさにインドからネパールへ移ろうとしていた時のことだった。


ダージリン周辺を旅している時から、ここ最近のネパール情勢については大きな話題を呼んでいた。ミリクでお世話になっていたシャルマ家のテレビでも、ネパール国境に近いスィリグリの宿の新聞でも、連日のように反政府運動による首都カトマンズのデモの様子が伝えられた。


いったいネパールで何が起こっているのか。事情をまだよく把握していなかった僕は、ネパール入りを直前で踏みとどまり、しばらくの間、情報収集と事の背景理解に努めることにした。


調べによると、ここ数年におけるネパール政党政治の混乱やマオイスト(共産党毛沢東主義派)の台頭など、事件に繋がる諸要因はいくつもあるが、2005年のギャネンドラ国王による当時の首相解任と自らの政権掌握、つまり事実上の絶対君主制導入が、今回の事態の発端となったようだった。「国王」の独裁、様々な行政上の一方的措置に反発する「政党」側は、ますます国王との溝が深まる中、今度は「マオイスト」との連携を試みる。


マオイストは、もう10年ほど前から人民戦争という名の下に王制打破、強いては社会構造そのものを変革しようと活動を活発化させてきた集団だ。テロ行為も辞さない武力闘争、地域住民をも巻き込むそのやり方は、非人道的で野蛮な山賊行為に等しい面もあるが、一方で彼らを支持してきたのは、貧困に悩み、民主化の恩恵などまったく受けていない山岳地帯の農村の人々だったという。政府とマオイストの間には、過去に和平への歩みよりもあったが、失敗に終わっている。


国王(政府)、政党、マオイストという三つ巴の覇権争いは、本来相容れないはずの「政党」と「マオイスト」が、「国王」からの政権奪取を目的に共闘を組んだことにより、急激に加速した。


つまり今ネパールで起きている事態は、国王vs政党、マオイストの構図なのだ、ということが何となくだがわかった時、多くの一般住民を巻き込んで続く抗議活動は、すでに10万人規模のデモにまで発展していた。日々拡大していく反政府運動により、カトマンズでは生鮮食品や燃料などの物資が不足し始めているとの報道もあった。


日本と同じようにメディアの報道の仕方にもきっと問題があり、すべてを鵜呑みにするのは避けたいところだが、やはりそれだけを見ていると、とてもネパールを旅できる状態にあるとは思えないほどだった。


実際、僕の知るカトマンズ滞在中の旅行者たちは、外出禁止令やバンダ(ゼネラルストライキ)により身動きのとれない状態が続いていた。やむを得ず飛行機を使って国外へ脱出する者、なんとか陸路で抜けようとするも国境で数日間の足止めをくらう者など、多くの旅行者がこの事態によって多大なる影響を受けていた。


「ネパールに行くのはやめなさい」


シャルマ家のパダムもインド在住のネパール人たちも、このネパール王国のニュースには敏感になっていて、報道を目にするたびに僕のネパール入りを止めた。スィリグリの町でも、インド人たちが僕に行き先を訊ね、ネパールだと答えるたびに苦い顔をした。


おそらくカトマンズだけなのだろうとは思う。これからまず訪れようとしている東ネパールの田舎町や村には、意外にも拍子抜けしてしまうほど穏やかな光景が広がっているような気がする。それはこれまでの経験からも想像のつくところだ。カトマンズそのものが遥か遠い別の国のように感じている人たちはきっと多いだろう。ラオス・ムアンシンの村人にとって首都ヴィエンチャンがそうであったように。さらに田舎ともなればテレビのない家庭だってまだ多く、事件のことを知らない人さえいるかもしれない。そんな中、自分を温かく迎えてくれる人たちもいるにはいるだろう。国境は開いているというから、入国できないこともない。


しかしそうは言っても、一国の首都でこのような混乱が起きている中、のほほんと自転車を漕いで「ナマステー」などと笑顔を振りまいていられるほどの余裕は僕にはなかった。


ヒマラヤの麓にある小さな王国ネパール。そのどことなく牧歌的なイメージに誘われて、僕はこの国を訪れてみたくなった。


しかしそのネパールは今、首都カトマンズを中心に底知れぬ混沌の渦の中にある。


ネパール入りを目の前にして、僕は数日間、大きな足踏み状態が続いていた。

いいね!した人  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。