本コンテンツをご覧になるには、Flash Playerプラグインが必要です。FlashのWebサイトよりインストールしてください。



bloglank


手のひらの中のアジア
QRコード
BLOG QR
March 22, 2007

ダージリンへの道

テーマ:(12)インド

インド ダージリンへの道 photo by children

photo by children


仕切り直し、と僕は思う。


シリグリに到着して3日目、あらためて地図を広げる。


目指すはダージリン。


シリグリからダージリンまでは88km。
数字だけで判断するなら一日でたどり着ける距離である。だがそう簡単にはいかない。標高200m程度の平地シリグリに対し、ダージリンは標高2,134m。その標高差、約2,000m。ダージリンの手前8km、標高2,257mの最高地点グームまでは延々と登りが続く。通常、ダージリンまではジープで約3時間、世界遺産のダージリン・ヒマラヤ鉄道―通称トイトレイン―で約8時間ほどだ。


自転車だと果たしてどうなるのか。仮に自転車をすべて押して登った場合を想定して平均時速5kmとする。約18時間かかる。一日の走行時間を6時間とすれば距離にして30km、ダージリンまで3日。地図上で確認できた宿泊地はティンダーラとカルシャン。それぞれ一日ずつ余分に滞在したとしてダージリンまで所要5日。


本来、ダージリンまでは一日でたどり着くことも可能だ。必死で自転車を漕ぎ続ければいいだけのこと。はじめはそうするつもりでいた。無心で何かに没頭するという環境、過酷な条件こそが今の自分に必要なことだと思ったからだ。でも僕はもう一度考え直した。何をそこまでストイックに自分を追い込む必要があるのだろうか。今の僕にとって必要なのは苦境を乗り越えて得られる達成感ではなく、あくまで自分のペースを取り戻すこと。もう一度旅を楽しむ気持ちを自分に思い出させること。


シリグリまでのバスの車内で僕は2ヶ月前のコルカタでの出来事、あの時の荒んだ自分を思い出していた。嫌なイメージがトラウマの如くふっと脳裏をかすめた。その途端、僕は僕ではなくなってしまいそうな気がした。いろんなことを楽しみたい気持ちはどこかにある。でもそうできない自分がいる。そのことに僕は静かな苛立ちを感じていた。シリグリに着いてからも人に優しくなれず、冷たくあしらってしまう自分がいた。頭ではわかっている。でも心と体が反応しない。このままではどこへ行っても同じになってしまうような気がした。負の感情が僕の頭の回路をぷつんと立ち切り意思と言動を分裂させてしまう前に、立て直しを計らねばならなかった。


仕切り直し、ともう一度僕は思う。
その言葉が心の中でこだまする。
大丈夫、まだ思考は停止していない。


3月も下旬に入り、日差しが日一日と強さを増す中、僕はシリグリを出発した。しばらく平坦な道が続き、13km地点の小さな町スクナを過ぎた辺りから本格的な登りが始まる。と同時に景観も少しずつ変わっていく。人通りはほとんどなくなる。対向車がぎりぎりすれ違えるほどの狭い道にトイトレイン専用のレールが並行して敷かれている。レールは頻繁に道路と交差する。いちいち踏み切りなどはない。人が両足を軽く開いた程度、わずか61cmしかない軌道はとても人々を乗せた列車が走るとは思えない。まさに‘おもちゃの機関車’というにふさわしいトイトレイン、僕はまだその姿にお目にかかってはいない。


僕の進む先、いくつもの山が重なるようにして目の前にそびえ、道路は山沿いを巻くようにして延々と遥か彼方まで続いている。遠く向こうで車が非常に緩慢な速度で走行しているのが見える。かすかに動めく虫のようにさえ見えるその車は、実際には4、50kmで走っているのだろう。距離が遠すぎるのだ。そこまで僕がたどり着くにはいったい何時間かかるのだろう。そう考えると少し気が遠くなった。


それでも遥か遠くまで見渡せる分、視界は開けている。登れば登るほど下方には絶景が広がる。山の斜面に段々に区画された茶畑の緑がまぶしい。高度が増すにつれて空気は澄み、汗ばむほどだった下界の暑さが嘘のように気温は下がっていく。次第にひんやりとした風が肌を撫でるようになる。


インド ダージリンへの道 茶畑

20km地点を過ぎた頃、数人の子供たちがハロー、ハローと叫びながら勢い盛んに山の斜面を駆け降りてきた。道路に飛び出るやいなや、僕の目の前に立ちはだかり、横一列に手を繋いで‘通せんぼ’する。男の子も女の子も上下紺色で統一された制服を着ている。子供たちが降りてきた方向に目をやると、林に包まれるようにしてひっそりと建つ小さな学校があった。


「ホワッツユアネイム! ホワッツユアネイム!」


質問というよりは、単に知っている英語をぶつけてくるという感じの子供たち。僕が名前を答えると、まるで聞いていない様子でおかまいなしにいくつもいくつも別の質問を浴びせかけてくる。ホワッツユアマザーズネイム? ホワッツユアファザーズネイム? ホワッツユアブラザーズネイム? ホワッツユアシスターズネイム? ホワッツユア・・・・・・。


やれやれ、と僕は思う。先へ進もうにもすっかり取り囲まれてしまい、身動きもとれない。仕方なく自転車を道路脇に寄せ、ここで一息つくことにした。シリグリを出発して一度も休憩していなかったからちょうどいい。とはいえ、やたらと積極的な子供たちを相手にちっとも一息つく間なんてないのだけれど。しばらく煙草をふかしながら自転車にまたがったりベルを鳴らしたりする子供たちを眺め、あれこれと話しかけてくる子供たちに適当に相槌を打って相手をしていた。


ふと遠くで汽笛が鳴り響いた。


僕はどこからともなく聞こえてきた音に向けて人差し指を立てた。


「トイトレイン?」


子供たちがうんと頷く。いよいよ世界遺産のトイトレインとの対面だ。


僕は身を乗り出して谷の下の方を覗き込んだ。道路に並行して続くレール、いくつものカーブを描いて山を回り込んでくるためか、まだその姿を捉えることはできない。


トイトレインを写真に撮ろうとウェストバッグからカメラを取り出すと、子供たちは自転車にまたがる姿を撮ってくれ、あたしたちを撮ってくれ、と言い始めてすぐに収拾がつかなくなってしまった。トイトレインが来ちゃうからだめだよ、と僕が子供たちを押しのけて立ち上がろうとすると、「トイトレイン、ノー。トイトレイン、ノー」と言って手を横に振りながら僕の行く手を遮る。


トイトレインが写真撮影禁止だなんて聞いたこともない。トイトレインなんか撮らなくていいから自分たちのことを撮ってくれ、と言っているのだと思い、僕は少しうんざりした気持ちになった。僕が立ち上がってもまわりでぴょんぴょん飛び跳ねたり、手を差し延ばしてきたりするのでゆっくり構えることもできない。だんだん撮影する気も失せてきて、僕は再び道路脇の石に腰を下ろした。汽笛が聞こえてから20分ほど経つが、トイトレインはまだやってこない。やっぱりそろそろ先に進もうかな、と思ってカメラをしまい込もうとした時、今度は子供たちが僕の手を引っ張って道路へ連れ出そうとする。


「トイトレイン、トイトレイン!!」


いったい何なのだ。子供たちは今まで以上に騒ぎ出し、道路上で躍り出す子までいる。僕が呆れて苦笑いしていると、再び汽笛が鳴り響いた。今度はすぐ近い。ややあって、もくもくと煙を巻き上げながらトイトレインが姿を現した。時速10キロ程度、人が走った方が速いくらいの実にゆっくりしたペースでやってくる。


子供たちが線路沿いまで僕を連れ出した。
僕は今更ながら彼らの言いたかったことがわかって、またもや自分の卑しさに気づかされることになった。いつも決まって学校の真下を通るトイトレイン。毎日いつ、どのタイミングでこの場所にやってくるのか、子供たちは全部知っていたのだ。トイトレイン、ノーというのは、汽笛は聞こえるけどまだここには来ないよ、ということだったのだ。時間はまだあるからそんなに焦らなくても大丈夫なんだよ、と。


稚ない女の子がちっちゃな手で僕の手をぎゅっと握りしめ、僕の顔をじっと見上げた。一緒に写真を撮ろう、と。
少年がカメラを貸して、と手を出した。写真を撮ってあげるから、と。


僕は何も言葉にできずにそのまま彼らに従った。
他の子供たちはトイトレインの乗客に笑顔で手を振ったり、道路でくるくると躍ってみせたり、走って追いかけたりする子までいる。わずか四両ほどしかないトイトレインは、シュシュシュシュシュという小気味よいドラフト音を鳴らしながらゆっくりと僕たちの目の前を過ぎ、ダージリンへ向けて山の斜面を登っていく。麓からダージリンまで約8時間、今日の夕方には目的地へ到着するのだろう。


トイトレインが去ってしまってからもしばらくの間、僕は子供たちと戯れていた。思えば、インドに来てから初めての、子供らしい子供たちとの出会いだった。


午後1時、学校から授業の開始を知らせるベルの音が鳴り響く。
ティンダーラまではあと5kmか6kmくらいだよ。子供たちはそう教えてくれてから、一斉に山を駆け登って学校へ戻っていった。授業時間は始まっているにも関わらず、バイバーイ、バイバーイと山の上から叫ぶ子供たちの声は、僕が自転車を押し始めてその姿が見えなくなるまでずっと聞こえていた。


一人になると、また自分の息づかいだけが聞こえるようになった。自転車を押して一歩一歩足を進め、時々サドルにまたがりペダルを漕ぐ。遠くから見たら、まるで動いていないように見えるのかもしれない。でも僕はゆっくりと、確実に前進していた。肌に触れる嫋嫋たる風が一段とひんやりしてきたことで、確かに登っているのだと実感した。


インド ダージリンへの道

しばらくして、遠くでまた汽笛が鳴った。


僕はふと立ち止まり、耳をすませる。
だいぶ前に目の前を通り過ぎていったトイトレインは、今どの辺りを走っているのだろう。甲高い汽笛の音は山々に反響して遥か遠くまで響く。天を衝くようなまっすぐで力強い音でありながら、次第にたおやかで透き通った音に姿を変え、それは里全体に染みわたる。おそらくはこの一帯に住むすべての人々にまで聞こえているに違いない。


遠くから風に乗って聞こえてくる汽笛の音が僕の耳に届いた時、僕は少しだけ優しい気持ちになれた気がした。


インド ダージリンへの道 photo by children

photo by children

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)
March 12, 2007

コルカタからの脱出

テーマ:(12)インド

インド・コルカタ


バザール周辺のチャイ屋で過ごすコルカタ三日目の午後。


通りには買い物客が溢れ、人込みに紛れて袖を引く物乞い、ハシシハシシと耳元で囁きかける男たちの姿。インド国産車アンバサダーのタクシーが乗客を探してうろつき、リクシャーが人と車の隙間を縫うようにしてすり抜けていく。


コルカタはいつ見てもエネルギッシュだ。
でもそれは時として僕に巨大な渦を思わせる。空模様のせいもあるかもしれない。これまで辿ってきたダッカからコルカタまでの西ベンガル州一帯で、僕は一度も晴れ渡る青空というものを見たことがない。日差しはどこからともなく差し込んでくるけれど、見上げるとコルカタの空はいつでも薄い灰色の大気に覆われている。この暗澹たる空は、人々が放つあらゆる種類のエネルギーが渾然一体となって創り出された大きな気の塊なのではないだろうか、と僕は時々思う。街の様相をただ眺めているだけで生気を吸い取られていくような、そんな力をこの空は、この街は、持っている。喧騒の中を歩くのは楽しいけれど、ずっと歩き続けているといささか疲れる。そんな時、僕を和ませてくれる唯一の空間がチャイ屋だった。


チャイを片手に談笑するインド人の男たち、一人でやってきて軽く腹を満たし、食べ終わるとすぐに席を立ち出ていく若者、通りすがりに揚げ物を買って持ち帰る人々、気軽に立ち寄れるチャイ屋はいつも地元客で賑わっている。


サモサを作る男

(※サモサ:カレー粉や各種香辛料で味付けして茹でたジャガイモや豆類などの具材を、小麦粉で作った皮で包み揚げたインドの軽食。店によって様々)


ウェイターの少年が僕のテーブルへ注文の品を運んできた。
銀色のプレートにほくほくのサモサが二つ、銀色のコップには熱々のチャイ。


「ダンニャワード」


ありがとう、と僕が告げると少年は首を横にかしげるOKの仕草で応え、またすぐに別のテーブルへと注文を取りに行った。


サモサを一つ手にとって二つに割ると、もわっと湯気が立ち昇る。ふうっと一息吹きかけてから一口頬張ると、カレーの味わい深さがじんわりと口の中に広がり、僕は少しほっとする。


「エクスキューズミー」


サモサを食べながらぼんやりと街の様子を眺めていた僕の前に、一人の青年がやってきて相席を求めた。見まわすと、他の席はどこも地元のインド人で埋まっている。どうぞ、と僕は手で向かいの席を勧めた。すぐにウェイターの少年がさっきと同じように二つのサモサとチャイを彼の元へ運んできた。


青年はサモサを一つ手にとると割らずにそのままかぶりついた。もごもごと動かしながら‘ほ’の字にした口元から湯気が昇る。しばらくの間、青年は向かいに座っている僕の方をちらちらと気にかけながら、サモサを食べてはチャイをすする、という行為を繰り返していた。


僕が二つ目のサモサを半分食べ終えた頃、青年はおもむろに話しかけてきた。


「君は旅行者? どこから来たの」


僕が日本からの旅行者だと答えると、彼は自分も旅行者なのだと言った。インド北部の町ラクソウルからやってきたという青年は、細身の体に白いカッターシャツ、前髪が目尻にかかる程度の長さの髪を整髪料でさらっと固め、いかにも好青年といった感じが窺える。インド人よりも日本人に近い東アジア系の顔立ちをしていて、どことなく親近感も覚える。


もし時間があるなら少し話をしないか、と彼は言う。前回より多少なりとも気持ちに余裕のある僕は、その申し出に快く応じた。追加注文したチャイをすすりながら、僕らはお互いいつコルカタに来たのか、どれくらい旅をしているのか、いつ帰るのか、といった初対面ならではのよくある会話をした。


チャイ屋の軽食


しばらくして、別のテーブルに座っていたインド人の男が声をかけてきた。


「君は日本から来たのかね」


僕がそうだと答えると、男は青年にも英語で訊ねた。「君は?」


「私はラクソウルから来ました」と青年は答えた。


男は軽く頷いてから「少し一緒に交ぜてもらってもいいかな」と言い、「ええ、どうぞ」と僕らは言った。


僕の斜め向かい側、青年の隣に男は腰を下ろした。四十代半ばほど、青年とは対照的に小太りで光沢のあるワインレッドのシャツ、軽く袖をまくった腕にはゴールドの時計が巻かれ、首には同じくゴールドのネックレスをぶら下げている。こちらはいかにも金持ちといった雰囲気を漂わせている。


「二人とも旅行のようだね」と男は言った。「実は私もコルカタには旅行で来ているんだよ」


有名なタージマハルのあるアグラから列車に乗ってやってきたというその男は、もう何度もコルカタには来ているらしい。男はウェイターの少年を呼びつけると新たにチャイを一杯注文した。それから胸ポケットにしまっていた煙草を取り出し、ケースを指先でとんとん叩いて一本摘まみ出した。


「コルカタはどうだね。インドは大きい。その土地によってまったく雰囲気が異なる」


「そうですね。ラクソウルとはだいぶ違います」と青年が答えた。


「うむ。我々はこうして今、自由に旅行をしている。いろんな世界を見て、感じられることは素晴らしい。勉強にもなる」


男はマッチを擦り、煙草に火をつけた。深々と吸い、勢いよく斜め上方に向かって煙を吹く。


「でもそこで一つ、忘れてはならないことがある」と男は言った。それから僕の方に目をやり、言葉を続ける。


「いいかい、これはすべての人間ができることじゃない。君も見てわかるようにインドには大きな身分格差がある。ひどく貧しい者もいれば、裕福な者もいる。日本とは違うだろう。日本は多少の差こそあれ、ほぼ平等といっても過言ではないね」


僕は頷いた。ゆっくりとした説得力のある口調、落ちついた面構え。それなりの教養、知識を持つアグラの男は単なる金持ちというわけではなさそうだ。男はウェイターの少年が運んできたチャイを手にとると、一口ふたくちすすった。青年も僕も男の一挙手一投足に注目していた。


「いずれにしても」と男はテーブルの上にグラスを置きながら言う。「我々は幸運にもこうして旅行できる身にある。なぜそれが可能か。それは、我々の両親が我々を生んでくれたからだ。我々はこのことに何よりも感謝しなくてはならない。わかるね」


ラクソウルの青年が頷き、僕もまた頷いた。


「私はヒンドゥー教を信奉している。君は日本人だから仏教かね?」


厳密に言えば僕は無宗教ということになるけれど、話の腰を折らないよう、そうだと答えた。


「そうか、だがね、これは宗教以前の問題だ。現実的に考えて我々は神よりも何よりもまず、この世に我々を生んでくれた両親に対する感謝の気持ちを忘れてはならない。我々は裕福だ。君たちもそうだね? 私もそうだ。旅行をしている時点でそれは疑いようのない事実だ」


また青年が頷き、男はチャイをすする。僕は黙ったまま話を聞いていた。


「私は思うんだよ。今我々が持っている金というのは、本来自由に使うべきものじゃない。いいかい、まずは感謝すべき人々のために使う。両親のため、家族のため、友人のため。それから我々は社会のためにも貢献しなくてはならない。残りの一割だ。残りの一割だけは自分の好きなように使っていい。実際、私の身に付けている物はその一割で私が好きなように使って買ったものなんだがね」


男は、はっはっはと大きく笑いながら、左手首に巻かれたゴールドの時計を右手で軽くさする。それからチャイをぐいっと飲み干すと、ちょっとトイレにいいかな、と言って席を立った。


男の姿が見えなくなると、僕と青年は顔を見合わせ、ふっと力を抜いたように笑った。青年は僕に言う。


「あの人は、とても高貴な方だと思う。インドにはいろんな人がいるけど、こういう考え方を持った人はそう多くないと思うよ。貴重な出会いだ」


僕は頷いて、少し冷めたチャイの残りを飲み干した。随分と説教臭い話ではあるが、ある種のインド人の価値観を知るという点では興味深いものがあるな、と思った。


インド・コルカタ


しばらくしてアグラの男がトイレから戻ってきた。


「さて、私はこれから旅行土産を買いにいくつもりなんだが。母と妻にサリーをプレゼントしようと思ってね。知り合いのいい仕立て屋があるんだが、もしよければ一緒に来て見てみるかね」


男は自分がすべて支払うと言ってウェイターの少年を呼びつけ、勘定を頼んだ。青年は男の誘いを一つ返事で承諾した。「君は?」と青年が僕に訊く。どうしようか迷ったが、特に用事があるわけでもなかった僕は二人に付いて行ってみることにした。


チャイ屋を出るとすぐにアグラの男がタクシーを掴まえた。三人でそこへ乗り込み、十五分か二十分ほど走った後、比較的大きな通り沿いで降りた。まったく見知らぬ通りではあるが、道の両脇には露店が並び、そこそこの人通りと賑わいがある。男に先導され、通りから一歩入った細い路地を進む。四、五階建てのマンションが立ち並び、道に面した一階には似たようなサリーの仕立て屋が一軒置きくらいの間隔で並んでいる。我々の目指す仕立て屋は、もう少し進んだ先の建物の階段を下りて、地下の一室にあった。


店内はまるで狭い地下倉庫のようで、様々な色合いの生地がガラスショーケースから壁の棚までびっしりと埋まっている。通路はやっと人ひとりが通れるほどの幅しかない。窓や換気口さえ見当たらず、夏場の酷暑期にはこんなところで営業ができるのだろうか、大切な生地は痛まないのだろうかと疑問ばかりが先立つような場所だった。


店の奥から姿を現した店主が、いやぁよく来てくれました、といった様子でナマスカール、ナマスカールと何度も言い、男の手をとって歓迎した。青年と僕にもナマステ、ナマステと言って合掌し、笑顔で迎えてくれた。我々はひどく狭い通路を抜け、店の一番奥、四畳程度しかない座敷に靴を脱ぎ、胡座をかいて座った。


「サリーを売る店はこの街に腐るほどある。値段も様々だ。その中でもこの店は高級店なんだよ。店主には前回もお世話になってね。非常に良い質の物を扱っている」


アグラの男がそう言って後方へ向かって指を鳴らすと、早速店主が十数枚の生地を左腕にかけて運んできた。絨毯の床にそれらが並べられると、男は一枚ずつ手にとって色と手触りを確認し始める。そして鮮やかな赤色と橙色の生地を選んで掲げてみてから、今度は僕らに訊ねた。


「君たちがそれぞれ二種類の色を選ぶとしたらどれがいいかね」


ラクソウルの青年は濃い緑色と水色の生地を選んで指差した。僕はバングラデシュでアキィとサミィが着ていた素敵なサリーをふと思い出し、黄色と紫色の二枚を選んで男に勧めた。


「良いセンスをしているな」


アグラの男が僕を見て笑った。そして僕らが選んだそれぞれの生地を手にとって感触を確かめる。しばらくして男は、ちょっと頼みがあるんだが、と僕らに言った。「これから私はディスカウントを試みようと思う。その際、君たち二人にも協力してほしいんだ」


それくらいのことなら、と僕らが承諾すると、男は早速店主を呼びつけ、交渉を始める。


「二着で八百のところをおもいきって四百にしてもらえないかね」


店主はそれを聞いてひどく顔をしかめる。


「それはできませんよ旦那。うちは最高の物を扱っているのはご存知のはずです。いくらなんでもそれは無理だ」


まるでお話にならない、といった様子で大きく首を横に振る。


「では、五百はどうだね」


アグラの男は店主にそう言うと、ちらっとこちらを向いて僕らに目で合図した。するとラクソウルの青年が店主に言う。


「僕からもお願いします。最高の物を両親、家族のために贈りたいんです。お願いします」


まるで自分のことのように必死で頼み込む青年を見て僕はちょっと驚いたが、店主は尚も首を振り続ける。青年はまた頭を下げ、今度は僕の膝元をつついて促した。僕は一瞬とまどったけれど、二人の妙に真剣な様子に押されてぎこちなくも両手を合わせ、店主に目で訴える仕草をした。我々は何度か同じことを繰り返した。


店主は腕を組んでじっと考え込んでいた。しばらくして大きな溜息をつくと、それから手をぽんと打った。


「仕方ない。それで手を打ちましょう」


アグラの男がガッツポーズをし、青年も笑顔を見せる。


「三人とも二着ずつでその値段、ということでいいね」


店主が言うと、アグラの男は頷いた。


―は?


僕は一瞬驚いて割って入ろうとしたが、男はその隙を与えなかった。


「君たちもそれでいいね」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。僕は買うなんてひとことも言ってない」


僕は慌てて助けを請うように青年の方を見た。しかし青年は「ええ、私はそれでいいです」と平然と答えたのだ。僕は唖然として言葉を失った。好きな色はどれかと訊かれたからただ選んだだけではないか。一緒に頼み込んでくれと言ったから仕方なく手助けして頼み込んだだけではないか。いったいどういうことなんだ。


「買うつもりはない」


僕ははっきりと断わった。するとアグラの男は呆れた様子で両手を広げて苦笑いする。


「今さらそんなことを言うのはやめてくれんかな。私はもちろん、この若い彼も買うと言っている。三人とも購入するのを前提に店主は苦渋の思いでディスカウントしてくれたんだ。せっかくここまで上手く進んだ話を君一人のためにぶち壊す気かね」


「僕はあなたが買うと言ったから付き合いで来ただけだ」


男は大きく溜息をついた。


「君は私の言った話を頷きながら聞いていたではないか。君が今こうして旅行できるのは、君の両親のおかげなのだ。感謝しなくてはいけない。私はそう言ったね? そして君は頷いた。私もこの若い彼も、すべては大切な人への感謝の気持ちを込めてサリーを買うのだ。それを思えば五百ドルくらい、君にとって高い金でもないだろう」


―ドル!?


思わず素頓狂な声をあげそうになった。ルピーではなく、ドルだと?
僕は愕然として頭を垂れた。ここにきて、ようやく気がついた。


僕は完全に‘ハメられたのだ’。


すべては最初から仕組まれていたことだったのだ。チャイ屋でラクソウルの青年が相席を求めてきたのは意図的で、別席に座っていたアグラの男の登場もあらかじめ決められていたことだった。青年と男は最初から仲間だった。おそらくはサリーの仕立て屋の店主までもが。僕の頭の中は混乱し、ひどく動揺していた。焦りばかりが募る。どうする? どうすればいいのだ・・・・・・。


「五百ドルがどうしてもだめなら、百ドルくらいは私が負担してあげよう」とアグラの男が言う。「私は君が両親を思う気持ちに敬意を評する。君はこうしてインドを訪れ、私と出会った。これもまた神の意志によるものだ。私は君と君のご両親の幸せを願って、手助けを惜しまないだろう」


ラクソウルの青年までもが買うべきだ、などと僕に言う。


「そんな金は今、持ってない」と僕は言った。


「今、手元に現金がないならATMでおろせばいい。簡単なことだ。私が一緒に付いていってあげよう」


アグラの男は涼しい顔で言葉を返す。状況は圧倒的に僕の方が悪い。この場所は地下の一室で、出口は一つしかない。狭苦しい通路の一番奥にある座敷は出口から最も遠い位置にある。さらに僕は靴を脱ぎ、ウェストバッグを腰から外して後ろの壁に置いてある。それらをさっと取って出口へ走るのはほぼ不可能といっていい。通路上には行く手を阻むかのように店主が立っている。


アグラの男もラクソウルの青年も店主も、強引な手はいっさい使わない。じりじりと自分たちのペースに引き込んで獲物を追い詰める。嫌とは言えない方法で。よくもここまで手の込んだ手口を考えついたものだ。男たちが計画を実行に移すまでの打ち合わせ風景が目に浮かび、なんだかむしょうに笑えてきた。僕はまんまと引っかかり、ここでこうして王手をかけられているわけだ。


思わず大きな溜息が洩れた。


「わかった、買うよ。二着で五百ドルだね・・・・・・」


僕はアグラの男に言った。「でも今はお金を持っていないから、ATMに行かなくちゃならない。もし一緒に来たいなら来ればいい」


そしてバッグを腰につけると、ゆっくり靴を履いて立ち上がった。あくまで男たちは本性を現さない。店主はサンキューサンキューと言って合掌する。青年はそれが演技なのか、相変わらず好青年的な笑顔を見せて僕を見送る。アグラの男が笑いながら僕の肩を叩いて言う。


「君の両親もきっと喜ぶだろう」


僕はアグラの男と一緒に地下の階段を上って外へ出た。元来た道を戻り、大通りへ出る。男はATMのある場所まで誘導しようと僕の一歩前を悠々と歩き始めた。


やっぱりそうだった。思ったとおり、僕があきらめて購入する意思を見せたことで男は完全に油断している。獲物を完全に捉えたつもりでいる男の表情には、したり顔の笑みさえ窺える。バカな日本人がいたものだ、と心の中であざ笑っているのだろう。結構なことだ。それが僕の逃げ道を作る唯一の手段なのだから。ある程度の人通りと賑わいがある状況も僕に味方してくれた。


アグラの男がわずかに気を緩めた隙をつき、僕はとっさに逆方向へ走り出した。人込みに突っ込んでぶち当たりながらも、なりふりかまわず全速力で駆け抜ける。大きな路地を曲がり、その後いくつもの小さな角を曲がった。この場所がコルカタのどの辺りなのかはまったくわからない。とにかく男を巻こうと必死だった。一時間ほどぐるぐるとさまよっただろうか。少し先にマイダン公園が見えた時、宿がそう遠くないことがわかった。


しかし、安心はできなかった。男たちの手口は実に巧妙だった。チャイ屋での会話中、僕はあくまで自然なコミュニケーションの一環として、あらかたの情報を引き出されてしまっているのだ。ホテルの場所、名前、年齢、自転車で旅をしていること、いつ出発するのか、どこへ向かうのか。うかつだったとはいえ、二度目のコルカタでは積極的にインド人との交流をはかろうと思っていた僕にとってそれは仕方ないことでもあった。


いずれにせよ、僕は男たちの怒りを買ってしまったに違いない。いつどこで待ち伏せされているかもしれない状況を考えると、気が気ではなかった。何とか宿へたどり着くと僕はすぐに荷物をたたんだ。予定は変更だ。コルカタの街はもう数日かけてじっくり歩いてみたかったのだが、そうも言っていられなくなった。この街で出会う人々とは、ことごとく相性が悪いようだ。


宿のスタッフがいったいどうしたんだ、と聞いたが説明している余裕はなかった。午後五時をまわり、とっくに規定の時間を過ぎている中、無理を言ってチェックアウトし、僕はそのままバスターミナルへ向かった。


辺りが暗くなり、ターミナルの敷地内には煌々とランプが灯り始めた。光に照らされた人々の影がぞろぞろと蠢く。バスの待機しているすぐ目の前を、路面列車が途切れることなく次々と通過していく。街はギラギラと輝き、昼間以上に騒々しい。でも今の僕には、そんな混沌の中に自分の身を置く方が気が紛れていい。


一刻も早く、できるだけここから遠くへ離れたかった。

午後七時過ぎ、夜行バスが動き出す。

北へ約630キロ離れたダージリンの麓、シリグリの町へ向け、僕はコルカタを脱出した。


インド・コルカタ
AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。