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手のひらの中のアジア
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October 23, 2006

犠牲祭 コロバニイード(後)

テーマ:(11)バングラデシュ
バングラデシュ ダッカの少女

「イード ムバラク!!」


それはメリークリスマスやハッピーニューイヤーなどと同様の挨拶言葉。コロバニイード当日、ダッカの街のいたるところで、立ち止まっては笑顔で挨拶を交わす人々。僕もルナ家の親戚、友人、知人と出会うたびに何度となくこの言葉を口にした。そして右、左、右、とお互いの肩(胸)を三度合わせ、称えあうように軽く抱き合う。誰もが初対面であるにも関わらず、にこやかに応じてくれるムスリムの男たちはみな紳士的だ。


午前中の早い時間、男性の多くは、パンジャビ(膝丈の長シャツ)にトピー(縁なし帽子)という正装をしてぞろぞろとモスクへ向かった。街で見かける女性はいつもよりちょっと綺麗めなサリーを身にまとい、より華やかに見える。ルナにプレゼントしてもらった紫陽花色のサリーを着て、お手伝いのサミィも朝からご機嫌だ。ストリートチルドレンの少女も、以前に何度か見かけた時にはボロボロの服装だったのに、どこで手に入れたのか、この日ばかりはとても綺麗なサリーを着こなし、髪型までおめかししているのを見て驚いた。足元だけはいつもと変わらず裸足のままだったけれど。


ルナがお客様用にと大量に作った特製ミスティ(牛乳から作る甘いお菓子)を味見と朝食がわりに済ませ、僕は一階のガレージへ下りた。


大きなナタが数本、牛を縛り上げるロープ、切り取った肉を置くためのビニールシートとたらい。そして支柱に繋がれた牛を前に、ヌルッジャマンとディル、ジンナー、近所の男性が二人、さらにはコーランの先生の姿までが並ぶ。


既に準備は整っていた。


六人の男たちは早速、牛を四方から囲み、まず前足二本をまとめてロープで縛り上げにかかる。牛は片足を引き上げたりしながら嫌がるけれど、まだ状況が呑み込めていないのか、さほど暴れない。ぴっちりと蹄が合わさるように重ねられて前足の自由が奪われると、続いて後ろ足二本に同じようにロープが巻きつけられる。牛は低い姿勢から角を突き立てて怒り出す。動きが鈍いとはいえ、その力は相当なもの。二人の男が片方ずつの角をぎゅっと掴んで動きを止める。後ろ足が縛り上げられるとほぼ同時に、男たちは一斉に牛を横に押し倒す。どすん、という重々しい音と共にバランスを崩した牛の巨体がガレージに横たわった。


ようやく自分の置かれている状況がはっきりとわかったのか、体を激しく左右にゆさぶり、牛は狂ったように暴れ出す。跳ね飛ばされそうになりながら、男たちも必死でそれを抑えつける。角をぐいっと押し下げると、顎が上がり、喉の筋が一直線に伸びた。


一人の男が大きなナタを持ってその前に立ちはだかる。


牛が怯えているのがはっきりとわかった。巨体は恐怖に震え、鼻息は荒く、瞳孔が異様なほど見ひらいている。自ら暴れるがためにガレージの床に何度も側頭部を強打しながら、それでも牛はもがき、悲痛な叫び声をあげる。しかし、もはやなす術は、ない。


バングラデシュ 犠牲祭

ナタがそっと首筋に当てられる。その鋭利な刃が皮膚を突き抜けると同時に轟く断末魔の叫び。これまでに聞いたこともない凄まじさ、悲愴の極み。そしてその瞬間、僕の視界全体は真っ赤に染まっていた。決定的瞬間を撮ろうと構えていたカメラのレンズが、突如吹き出してきた大量の血で一瞬にして塞がれてしまったのだ。二、三メートルほど離れていたにも関わらず、全身に重い衝撃が走り、そう感じた時には既に顔もシャツもズボンも、全身が返り血で染まっていた。まるで水道管が破裂したかのごとき吹き出し様だった。


のこぎりのように刃を数回前後させて、頭部と胴体がわずかな筋によって繋がっている程度の状態になっても、まだ牛の体は激しくもだえていた。すぐ傍に繋がれていた二匹の山羊たちが失禁していた。次は自分たちの番だ、とわかったのだろう。いつも感情希薄な目をした山羊の表情までもが恐怖に怯え、助けを求めるように次々と鳴き喚き出した。


男たちは血まみれになりながら、そんなことを気にもせず、牛の体をそれぞれ手にしたナイフで切り刻んでいく。その姿、そのあまりにも淡々とした行為。内臓を引きずり出し、体の各部位を切り落とし、皮を剥ぎ、肉を削ぎ落とす。手伝うようにと渡された切断済みの後ろ左足は、まだ妙に生温かくて柔らかい。床に広げた大きなシートに積み上げられていく各部位ごとの細切れ肉。もはや牛の体はその原型を留めていない。


バングラデシュ 犠牲祭

解体作業は丸半日をかけて続いた。


それが終わると、今度は配布作業に移る。まず親戚も含めたルナ家の取り分、それから手伝ってくれた男たちの家族、その他隣人へ。


それでもまだまだ大量に余る肉。


ヌルッジャマンがジンナーに玄関の鉄格子の扉を開けるよう指示すると、いまかいまかと外で待ち構えいた路上生活者たちがにわかに騒ぎ始めた。その数ざっと五十人ほど。牛や山羊を買うことさえできない経済状況の家庭はたくさんある。彼らはこうして街を俳諧しては、おこぼれに預かろうと各家庭の入り口で朝から待ち構えていたのだ。一年のうちでも、タダでこれだけ大量の肉が出回ることもないから、彼らもそれを手に入れようと必死だった。そしてそれを配る側のルナ家も、すべてを自分たちだけで消費できるわけでもないため、彼らに快く分け与えてやる。このようなやり取りは、いかにもムスリムの世界の一端を見ているようであり、またそれは犠牲祭におけるしきたりにもなっているようだった。


バングラデシュ 犠牲祭

押し寄せる人々の目は、お目当ての「肉」を目の前にして血走り、息も荒い。まるで死肉に食らいつく亡者のようである。押し合いへし合いになって群がる人々をなんとか一列に並ばせて、順番に分け前を与える。さらに勢いづく彼らを半ば強引に追い払って扉を閉める頃には、あれだけあった大量の肉がすっかりなくなり、たった一つ牛の頭部を残すのみとなっていた。


「へへへ…こいつが一番うめぇんだ」


最後に取り出した牛の脳味噌を手のひらに載せて、ディルが嬉しそうに、ちょっと不気味な笑みを浮かべてそんなことを言った。


すべての作業を終えてから夕食までにはまだ時間があったので、僕は少し街を歩くことにした。


外へ足を一歩踏み出すと、すぐに血生臭い匂いが鼻をついた。どの路地を曲がっても道はすべて赤黒く染まっている。まさに血の雨が降ったが如く、血だまりがそこかしこに見受けられる。通りかかる家々からはまだハンマーで牛の骨を打ち砕く奇怪な音が聞こえ、ぐちゃぐちゃになって原型を留めていない牛の体の一部を道路脇の溝に投げ捨てる青年たちの姿もある。ゴミ捨て場に山のように積まれた牛や山羊の皮。死骸には無数のハエがたかり、飢えた犬が口元を真っ赤に染め、舌を出し、涎を垂らしながら周辺を俳諧している。その先の路地を曲がると、道を塞ぐようにして人間の三倍近くもある大きな牛が、ありえない角度に首をねじり切られて無残な姿で放り投げられている。手足や顔を返り血で染めたままはしゃぎまわる子供たち、おこぼれをもらうためにまだそこらの家々を必死で訪ねまわる路上生活者の群れ。異様な光景以外の何物でもない。そしてその中を、血だまりを避け、牛の死骸をまたぎ、血に染まった人々を横目に、僕は街を歩いているのだ。


バングラデシュ 犠牲祭

夕食時。


ビリヤニをはじめとしてスープ、煮物、ステーキなど、ルナ家のテーブルを彩るメニューはすべて牛肉料理。それはもう確かにこの上なく豪勢な料理ばかり。


「さぁ、たくさん食べてね」


ルナは笑顔で僕にそんなことを言う。サイコロ状になった肉の塊を一口噛むたびに、あの断末魔の叫びが聞こえてくるような気がして、正直、食欲は減なり気味だった。皆とイードを楽しく祝いながら、料理の方は控えめにいただいた。


ヨーロッパでは、動物愛護者、団体が毎年このイードの時期になると気が気でなくなり、ヒステリックな声を上げて中止要請や反対運動を行う、というけれど、街の殺伐たる光景を見ればそれは少なからずわかる気がした。しかしその一方で、犠牲祭においてたくさんの来客と親戚、友人、皆で祝福しながら食卓を賑わすルナ家の光景を見ていると、イスラムの人々にとってはやはり一年に一度の大行事で、古くから続くこのしきたりがなくなるわけでもないだろう、とも思うのである。


どちらとも言えぬ複雑な気持ちの中、僕はもう一度、目にした事実のみを振り返る。


犠牲祭、コロバニイード。


想像を遥かに越えるスケール。


圧倒的な衝撃。


それは少しも大げさではなく。


今日、僕のいるダッカの街は、血の海と化した。


バングラデシュ 犠牲祭

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October 16, 2006

犠牲祭 コロバニイード(前)

テーマ:(11)バングラデシュ
bangla

毎年、イスラム暦の12 月に催される祭り、コロバニイード(イード=アル=アドハー)。牛をはじめとして山羊、羊などを神の生贄として捧げる、いわゆる犠牲祭。


ダッカの街の中心から三キロほど離れた特設会場で、生贄に捧げる牛を買うところから犠牲祭の準備は始まった。


牛の買い付け担当として駆り出されたのは、ルナの弟ヌルッジャマンと友人ディルの二人。


犠牲祭のために特別に設置された荒野のようなだだっ広い会場は、何千という牛と売り買いする人々で溢れかえっていた。北海道の雄大な牧場でさえ楽々と隙間なく埋まってしまいそうな、それはもう異様な数である。


bangla

入場する前からむんむんと熱気が伝わってくる。場内に設置された拡声器を通して轟く呼号は、売り手の宣伝文句か買い手の自慢合戦か。それとも神への感謝の申し上げか。単なる会場案内とは思えない興奮した叫び様。


会場の中央付近を、うまく値段の折り合いをつけた購入者たちが次から次へと牛を追いながら人の波を抜けて出口へ向かっていく。


「通るよ!!さぁ、どいたどいたぁ!!」


誰もが皆、満足気な表情だ。


「いくらで買った?」


「二万だ」


「それいくら?」


「一万八千」


まだこれから牛を買う男たちとの間では通りすがり、そんな問答がくり返されている。ディルとヌルッジャマンも同様に、牛の大きさと相場を把握するため、出口へ向かう彼らに片っ端から値段を問う。牛は一頭が安いもので一万タカ(約一万八千円)、高いもので四万タカといった相場でやり取りされているようだった。経済的に余裕のない家庭では、牛の代わりに値段の安い山羊を買っていく姿も見られる。


そんな中、ディルとヌルッジャマンが目をつけた一頭の牛がいた。しかし、先ほどからその牛飼いの青年は断固として譲らない。


「こいつは俺が大事に育てたんだ。そう簡単には売れない」


そんな様子で首を横に振りながら牛の背中をいとおしそうに撫でる。別の牛を何頭かあたってはみるのだが交渉成立には至らず、気づけば既に会場を訪れてから二時間近くが経とうとしていた。


bangla

辺りが暗くなり始める頃、会場のあちらこちらに設置された電球に明かりが灯された。ルナ家の予算からすれば選択肢は相当広いはずなのに、未だに交渉未成立なのはどうしてなのだろう。そろそろ決めにかからないと質の良い牛もいなくなってしまうのではないか、と一人焦りを感じ始めていた僕の傍で、それでも二人は尚も落ち着きをはらっていた。


ほぼ一回りして戻ってきたのは、先ほどの牛飼いの青年の場所だった。まだ彼の元にはそのまま牛が売れずに残っている。まわりには同じように値段の駆け引きをする男たちがいたけれど、その誰に対しても青年は首を横に振るばかり。ディルとヌルッジャマンが再び彼に話しかけても、対応は同じだった。


大切に育てた牛とはいえ、売れなければ意味がないものを、牛飼いの青年はなぜそこまでかたくなに拒むのか。しかも十分過ぎるほどの値を提示した者もいるはずなのに、だ。値段の問題ではないというのだろうか。その答えは、ディルとヌルッジャマンが身をもって教えてくれた。


牛飼いの青年を三度訪れた時だった。


「また来たのか、あんたたち」


そんな表情を見せた青年に、ディルとヌルッジャマンは諦めずに真剣な顔で話をする。しばらく飽きれたような反応を示していた青年だったが、二人の熱心な様子に彼もまた次第に目つきが変わっていった。


「わかった。手をうとう」


あれほどかたくなに拒んでいた青年が、ようやく柔らかい表情を見せた。交渉が成立したのだ。


そら稼ぎ時だ、とばかり大量に売りさばく者もいれば、当然の如く最高値を提示した男へさっさと売り渡す者もいる。でもこの青年は違った。彼は、生贄として捧げる牛を、それを実行するに値する人物だけに売りたかった。宗教上、毎年恒例になっているという理由だけで、さっと殺してありがたみもわからずに食らうだけの生贄なんて。牛飼いの青年には、そんな彼なりの譲れない気持ちが感じられた。


ディルとヌルッジャマンには、牛飼いの青年がそんな気概のある男であることがはじめの段階でわかっていたのかもしれない。値段の問題なら買おうと思えばいつでも買えるものを、何かにこだわっているがゆえになかなか交渉成立に至らなかった二人の状況、一人の牛飼いを三度も訪ねるほどこだわった、数時間にも及ぶ駆け引きの結果がそれを物語っていた。


「いい人たちに買われたな、お前」


そんな眼差しで牛飼いの青年は、牛の背中を最後にぽんぽんと叩いて別れを告げ、繋がれていた手綱を解いてディルに手渡した。


これまでの男たちと同じように声を張り上げながらディルとヌルッジャマンは会場出口へと向かう。


「さぁ、どいたどいた!!道をあけてくれ!!あぶないぞ!!」


今度は、まわりの人たちから質問される側。


「それ、いくら?」


ディルとヌルッジャマンは歩きながら答える。


「一万五千だ」


その質でそりゃぁ安い、といった反応を見せる男たち。二人は誇らしげな表情で人だかりを堂々と抜けていく。


三キロほどある会場から家までの距離、牛の横尻を紐で叩いて追いながら歩いて帰る。他にも同じような男たちがずらり。すっかり夜になったダッカの街を牛と人間がぞろぞろと行列をなす。会場付近の道路は特別に整備されているわけでもなく、車やバスは普段通り行き交っている。道路脇を歩くとはいえ、興奮して闘牛の如く暴れ出す牛を手に負えず、引きずりまわされる者。手綱を手放してしまった途端に街を縦横無尽に走り回る牛。そのせいで道路はひどく混雑し、普段からクラクションの絶えない街は、もはや一瞬たりとその音が鳴りやまないほどの状態になっていた。


ようやくのこと家に連れてこられた牛は、一階のガレージの太い支柱に結びつけられた。今日一日の会場での出来事、交渉成立までの過程などをディルとヌルッジャマンが熱弁しながら、家族みんなで賑やかに食卓を囲んだ。


深夜、僕はイードのことを考えて眠れずに、牛の繋がれている一階のガレージへ下りた。牛は、ただ夢中で黙々と干し草を頬張っていた。明日の自分の運命さえも知らずに。この家だけでなく、この街だけでもなく。バングラデシュだけでもない。全世界のイスラム圏における、何万という牛や山羊、羊たちの生贄。明日、そのすべてが、一斉にこの世から姿を消すのだ。跡形もなく。そう考えたら、背筋がぞっとした。


会場での熱気が嘘のように、街は静かな夜に戻っていた。牛が干し草を噛み砕く音だけが淡々と響いている。ひんやりとした空気がたらいに積まれた干し草の匂いを運んできた。


妙に、しんとした夜。


それはまるで、嵐の前の静けさのようだった。


bangla

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October 10, 2006

小さな願いの始まり

テーマ:(11)バングラデシュ

ダッカへ戻った翌朝。


目を覚ましてからしばらくベッドの上でぼんやりしていると、やにわに、恐ろしい剣幕で怒鳴り散らすルナの声が少し離れた僕の部屋まで突き抜けてきて、思わず飛び起きた。いったい何事だというのか。


おそるおそる居間へ行ってみると、ルナと友人のディルがテーブルを挟んで相対し、五階から下りてきた親戚の女性たちがそのまわりで表情をこわばらせたまま立ちすくみ、ルナの顔色をうかがっている。ルナはちらっとこちらに向けた視線をすぐに戻し、憤懣やるかたないといった様子で再び怒気を発した。いつも冷静沈着でどっしりと構えているルナがこんなにも激昂した姿を見るのは初めてだった。居間にはびりびりとした空気が張りつめ、まるで金縛りにあったかのようにその場を動こうにも動けなくなっていた。嫌な予感がした。


たたみかけるように吐き出される怒涛のベンガル語。ルナの口から「アキィ」という言葉が出た時、僕は思わず目をつむった。問わずとも、それがアキィとモニールの一件であることは明白だった。僕の心配していたことは、早々に現実となってしまったのだ。二人の噂は驚くべき早さで広まっていた。おそらく村中の人々がもうこの話を知っているのだろう。たった一日で。さらにそれが、よりによって一番知られてはいけない人の耳に入ってしまったのだから、もうただではすまされない。たかが十二歳の女の子の淡い初恋、という程度の問題でないことは、ルナの激昂ぶりといい、ルナ家全体を巻き込んで大騒ぎになっている状態からも容易にわかる。


「もうそうなってしまったものは仕方ないじゃないか…」


腕組みをしてルナの向かい側に立っていたディルがそんな様子でなだめようとするけれど、ルナの怒りは治まらない。だが本人たちのいないこの場では、正面から感情のぶつけようがない。やり場のない怒り。ルナは吐き捨てるようなため息の後、目の前の椅子にどすんと腰を下ろし、テーブルに片肘をついた。それから今度は日本語で僕に向かって話し始めた。


「ぜんっぜん、だめ!!あの子たち。ほんと」


アキィとモニールを弁護したところでルナの感情をいっそう煽るだけになってしまうと思った僕は、苦笑いするしかなかった。


「アキィは今は私の子でしょ。モニールはモニールで家族と同じ。そんな二人が結婚なんて」


ルナはそう言いながら首を横に振った。


「それにあの子はまだ子供でしょ。モニールだって働いてない。お金ないでしょ。どうやって生活する?無理でしょ?今だって誰が面倒見てる?わたしでしょ?」
 
僕はただ黙ってルナの話を聞いていた。


「家もある。ご飯だって食べさせる。服もたくさんあげる。必要なもの、全部あるよ。でも何もわかってない、あの子。男のことばっかり。ぜんっぜん、だめ!!ほんと」


ディルは腕組みをし、まわりの女性たちは表情をこわばらせたまま、先ほどからその場を一歩たりとも動いていない。ルナは額に手を当てて、再び大きなため息をついた。


ルナにはルナのプライドがあるのだと思う。若い頃から日本で汗水垂らして死にもの狂いで頑張ってきた。家族のため、自分のため。今の生活基盤を半ば一人で築き上げてきた自負がある。


―私は25で結婚したよ。バングラでは遅いよ、これ。バングラ、10代で結婚して子供をたくさん作る人多いよ。でも日本だって同じ、結婚が多いのは20代30代でしょ。私、普通よ。


―貧しい人たちは、そういうのわかんないよ。子供もたくさん作るよ。男も女も好きにくっつくよ。でもある程度のレベルの家庭は、そうじゃない。まだ親が決めた人としか結婚できないのだって多いよ。


ルナが以前、僕にそう話してくれたことを思い出すとともに、そんな彼女の気持ちがわからないでもなかった。アキィがもしルナ家と出会うことなく別の環境で生活していたならば、誰を好きになろうが子供をつくってしまおうが、誰からも咎められることはなかったかもしれない。でも、アキィは今、ルナの娘。敬憫なイスラム教徒の家族の一員として、特に男女の関係には注意すべき、ましてや人目につくようなことをして、自分の耳にまでそれが入ってきてしまうような浅はかな行動をとってほしくない。ルナは、アキィに楚楚として気品のある女性になってほしいのだと思う。


「アキィはいつ帰ってくるの…?」


僕が訊くと、


「さぁ、わからない。アキィは帰りたくないんだから」


ルナは苦笑しながらそう答えた後、一言付け加えた。


「もう、あの子は帰ってこないかもしれない」


妙な言い方だった。それはつまり、ルナがアキィを切り捨てる、ということを意味しているのだと、少ししてからはっと気づいた。新しいお手伝い役として、タンガイルの実家でやはり身寄りのない子供として育てられてきた青年コービットの名が挙げられた時、けっして冗談ではないその現実の状況に僕は胸がぎゅっと締めつけられるような思いだった。


以前、サミィと結婚したジンナーがやってくる前にルナのマンションの門番役だったアリンという青年がいた。彼もまた家族の一員として毎日を共に過ごしていたのだけれど、ある時、何かの問題を機にルナはあっさりとアリンを解雇し、その翌日から彼の姿はルナ家から消えた。そんな実際の光景を目のあたりにしているからこそ、アキィのことが気がかりだった。


その日の夜、一時間ほど停電になった。


僕は一人、外のベランダに出て腰を下ろし、もらったロウソクを立てて火をつけた。暗闇の中にぽつりと浮かび上がる弱々しい炎。アキィが見つけた光もこんな感じだったんじゃないか、ふとそんなことを思った。


それは、小さな願いのはじまり。


アキィにとって今、自らが必要とし、そして自分の存在を心から必要としてくれる一番の人は、モニールだった。だが、現実は厳しい。風の強さに押されて揺らぐ炎は、まるでアキィとモニールのようだった。


今にも消えてしまいそうなその灯し火を、僕は両手で包み込んだ。そっと守るように、大きくなるように。二人のことを祈るように。


今の僕には、ただそんなことしかできなかった。


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October 02, 2006

ハッピ-エンドのその先は

テーマ:(11)バングラデシュ
バングラデシュ・タンガイル

お皿にたんまりと盛られたムリと小さなティーカップのチャイ。日本でいう「ひなあられ」といった感じの軽い朝食。それでも一粒残らず平らげると腹は十分に満たされた。荷支度を終えると、お世話になったみんなが僕を村の外れまで見送ってくれた。チビっ子、青年たち、村のおじさん、おばさん、おじいちゃん、さらには足の悪い大ババ様まで片足を引きずって、集団に遅れをとりながらも追いかけてきてくれた。


僕はモニールと一緒に午前中最後のバスでダッカへ戻る。見送りのなかにはアキィの姿もあった。タンガイルへ戻ってきてほんの数日、まだしばらくここに残って故郷での生活を満喫する予定のアキィはダッカには帰らない。僕は僕で三、四日後にはダッカを発つ。つまりアキィとは事実上ここでお別れということになる。


大ババ様と同じくらい集団の後方を、アキィはうつむき加減に歩いていた。その表情からはすっかり生気が失せ、今にも泣き出しそうな顔さえ窺える。僕はそれを見て心なくも、思わず笑いそうになってしまった。アキィが今、何を思っているのかすぐにわかったからだ。バス停行きのリキシャに乗り込んでから僕はもう一度みんなに別れを告げ、それから最後に、しょぼくれた顔をしたアキィに向かって檄を飛ばした。


「アキィ!!」


僕との別れが惜しいわけじゃない。アキィは、モニールがダッカへ帰ってしまうことがさみしいのだ。一瞬びくっとしたような反応をして、アキィはなんとも力なく笑って手を振ってみせた。


僕らを乗せたリキシャはゆっくりと走り出す。風がつめたい。そろそろ暖かい日差しが照りつけてもいい頃合い、しかしあいにく今日の空は一面グレイの薄い雲で覆われている。バス停までの道、いつもに比べて言葉少ななモニールの方を見ると、彼もまた何か思いつめたような表情でさみしげに遠くを見つめていた。あえて声をかけることもしなかったのだが、それからしばらくして唐突に口をひらいたのはモニールの方だった。


「ダッカに着いてから、家までの道、わかる?」


その奇異な質問に一瞬疑問は抱いたものの、すぐに察しはついた。本当は道なんてよくわからないけれど、


「わかるよ」


僕は自信ありげにそう答えた。


ちょうどその時、モニールが連絡用にと持たされていた携帯電話が鳴った。ダッカにいるルナからだった。約束の時間通りにバスに乗ることができるのか、今の状況を確認するために。今どこにいるの?予定通りのバスに間に合う?あぁ、問題なく間に合うよ。そう、じゃぁ気をつけて。なんてことはない、たったそれだけの手短な受け答えで終わるはずの電話。しかし、二人は会話が始まって二言、三言目には口論のようになっていた。


「ルナが代われって」


モニールが僕に携帯電話を渡した。


「もしもし?」


受話器ごしに軽いため息が聞こえた後、ルナが言う。


「もしもしぃ?たった今、話してたんだけど…。モニール急に自分は帰らないって言ってる。わたしがモニールに車貸さないって言ったから。ほんと困ったやつ…」


僕にとっては別段、驚くべきことでも、困ったことでもなかった。


「ぜんぜん大丈夫。一人で帰れるから」


僕は吹き出しそうになりながら笑ってルナに答えた。


「ほんとにだいじょうぶ?」


「大丈夫、大丈夫。モニールもその方がいいと思うし」


‘何も知らない’ルナにそう言い残して、電話を切った。携帯電話を受け取ったモニールは、あらためて僕に言う。


「ルナが車を貸してくれないって言うんだ。ダッカに帰ってもそれじゃぁ意味がなくて。だから…」


必死になって子供みたいな言い訳をするモニールがおかしかった。だが、ほんの少しの間をおいて、モニールは真剣な目つきで最後にひとこと言った。


「ごめん…俺はまだ、タンガイルに残る」


それは僕に対して、というより、むしろモニールが自分自身に向けた決意の言葉のようだった。


「アキィ、だね」


その一言が喉元まで出かかったけれど、言うのはやめた。


「大丈夫。自分もその方がいいと思うよ」


ルナの時と同じようにそう答えて、僕はゆっくりとまた前を向いた。


ここは、イスラムの国バングラデシュ。敬憫なイスラム教徒家庭の下で暮らす彼ら。男女の恋愛が決して自由とは言えない世界にあって、二人ともダッカに戻ってしまえば顔こそあわせることはあっても、一緒に出かけたり手を繋いだりすることはおろか、ゆっくり話をすることさえもままならない。二人が寄り添っていられるのも人目を忍んでの今だけ。二人の繋がりを確固たるものにするためのわずかな時間。モニールはタンガイルに、いやアキィのもとに残る選択をした。


バス停でモニールに見送られ、僕は一人、ダッカ行きのバスに乗り込む。手を振るモニール。窓の外へ身を乗りだしてそれに応えた。座席についてまもなく、埃を巻き上げながらバスは動き出す。一番後ろ、右側の窓際の座席。車内全体にまで砂埃がもくもくと立ちこめている。窓枠からさし込む薄い日差しに反射してちかちかと光る数多の塵をぼんやりと見つめながら、僕はもう一度思い返していた。


タンガイルで生まれたアキィとモニールの恋物語。僕が二人とお別れし、タンガイルを去った時点ですべてが終わるのであれば、アキィとモニールの恋は僕の中で綺麗に完結した一つのラブストーリーだった。ハッピーエンド。でも、果たしてそうだろうか。二人の恋はテレビドラマじゃない。現実は、ハッピーエンドのそのあとも続くのだ。僕が希望と想像で作り上げるチープなラブストーリーのラストシーンはむしろ、あり得ぬことのように思えた。


モニールの腕に抱かれた時に見せたアキィのあの表情は、確かに幸せに満ちていた。モニールの遠くを見つめる目には、愛しい人への思いが映し出されていた。だが、そこにはいつも同時に、刹那の影が見え隠れしていた気がする。この時の僕には、二人の恋がほんのつかの間の安らぎのようにしか思えなかった。


バスは、クラクションを断続的に鳴らし、相変わらず埃と排気ガスを巻き上げながら村を抜け、町を抜けていく。ダッカに近づくにつれ、グレイの空はより深みを増していった。


これから二人はどういう道を歩むことになるのだろう。

ハッピーエンドのその先に見えるもの。


モニールとアキィ、彼ら自身にはそれが初めからわかっていたのかもしれない。

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