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手のひらの中のアジア
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May 27, 2006

家族のかたち

テーマ:(11)バングラデシュ

kazoku


バングラデシュ・ダッカでお世話になることになったルナ・パルヴィン家。


ルナは9人からなる兄姉の上から数えて3番目の娘だった。2人の姉とは顔もよく似ているが、下の弟や妹になるにつれてその度合いは薄れてゆく。この9人を家系の中心として、それぞれに家庭があって子供がいて多くの親戚関係があって、という具合にその家系図からして無数に枝分かれしているので、全てを把握するのは容易ではない。


あまりに多く複雑な家系は、何十人といるその全員と挨拶を交わすだけでも大仕事。引っ越してきた隣近所への挨拶まわりや仕事の赴任先での担当地区挨拶まわり、新年の親戚挨拶まわりといったもの以上に大変だといってもいいくらいだ。 それでもルナの家にたくさんの親類が訪れてきたり、または僕をあちらこちらへ連れていって紹介をし、あれは誰だ、これは誰の弟で、こっちは誰の姉だ、といったことを一生懸命に説明してくれる中で、まるで少しずつこのルナ一族の「謎」が解けていくかのようにいろいろなものが見えてきて実に興味深いものがあった。


「家族のかたち」について考える。


そもそも、社会保障制度が十分に整っていない環境で暮らす人たちの中には、自分たちの子孫を多く残すことが家系の存続だけでなく、自分たちの豊かな老後を保障してくれる最良の方法だと考えている人は未だに多い。


少し前を振り返れば、ラオスやタイ、ミャンマーなどの小さな村で生活していた人々は特にそうだった。皆が互いを慈しみ、助け合って生きる。家族や親戚関係だけでなく、同じ場所で暮らす隣近所の人々までもがまるで1つの家族のように集団で共同生活をする。


その背景にあるものは何だろう。


ラオスのある村で10人の子供を抱えるお母さんがいた。彼女は僕に聞いた。


「ヒロは兄弟、何人いるんだい」


「いないよ、1人」


そう答えると、彼女はこう言う。


「そぉかい、じゃぁ、お金持ちだね。うちは10人もいるから大変だよ。貧乏、貧乏(笑)」


そう言いながら子供たちの何人かは既に立派に働くようになって家庭を支えるようになっていたから、生まれたばかりの赤ん坊を他の家にやってしまったり、最悪の形として間引くこともなく、その当時の最良の方法をとったことによってある程度自分たちが望むような「家族のかたち」になったのだろうし、これから先もその家庭の生活はなんとかなるのだろうと思った。


同じ村にいる若いママさんは、逆に子供が1人だけだった。そして彼女は言う。


「うちにはお金がないからね。そんなに子供たくさん作れないよ。」


今の世の中では子供をたくさん作ればそれだけ養育費がかかり、今後の生活を豊かにしてくれるどころか、逆に自分たちの生活を圧迫するものになりかねない。こうした人々が民族単位での経験に基づいてできた定説のようにきちんとした形でそれに気づき始めたのは、ごく最近のことのようにも思える。


バングラデシュにおいても基本は同じような気がした。ルナの両親が9人の子供を作った背景には、それが今後の自分たちのためという理由もあったのではないか。そして期待通り、子供たちはそれぞれが立派に社会で生活するまでになっている。とりわけ3女のルナは、9人の中でもずば抜けて生活力があり、頭も切れる。そのルナをはじめとして家族、親戚が助け合って今の家系の安定した生活がある。


そんな中、ルナにはルーモンという8歳の息子が1人いるだけだった。ルナは、やはり同じことを言う。


「子供、そんなにたくさん作れないよ。今は1人を育てるだけでも大変、お金もかかるでしょ(笑)」


さらに続けて言う。


「私は25で結婚したよ。バングラでは遅いよ、これ。バングラ、10代で結婚して子供をたくさん作る人多いよ。でも日本だって同じ、結婚が多いのは20代30代でしょ。私、普通よ(笑)」


「貧しい人たちは、そういうのわかんないよ。子供もたくさん作るよ。男も女も好きにくっつくよ。でもある程度のレベルの家庭は、そうじゃない。まだ親が決めた人としか結婚できないのだって多いよ。でも私は今の旦那さんと愛し合って、ちゃんと結婚したけどね(笑)ただ、子供はルーモン1人だけ。。」


そう言いながらルナは、隣に座って何を話しているのかわからずにきょとんとしていたルーモンの頭を撫でる。


でもルナの家族が複雑なのは、そこからだった。


ルナ自身はルーモン1人しか子供がいないものの、同時にお手伝いとして働く12歳のアキィや18歳のサミィといった子供たちの「母親」でもある。それは形式上、雇っていることになっているけれど、実のところは「身寄りのない子供たち」を引きとって母親代わりとして面倒を見ているという現実があった。


ルナの家だけではない。故郷であるタンガイルの実家には、ルナの両親が住む家にやはり「身寄りのない子供たち」が数人、今では家族の一員として暮らしている。ただでさえ数えきれないほどの家族の中にあと数人「新たな家族」が増えたところでたいしたことはない、とでもいう一家の寛大さからくるのだろうか。話を聞かせてもらわなければ、誰と誰の血は繋がっていないなどということもわかりはしない。それに皆が一緒にいるのを見ている限りは、何の違和感もなく1つの家族に見えるのだから。そしてここまでくると、もうそんなことさえどうでもよく思えてくる。


ルナの家族、親戚は皆、温かい。どこからともなくやってきた僕までもをも「家族の一員」のように接してくれた。


日本ではあまり見られない家族のあり方。


バングラデシュで暮らす人々が助け合って生きていく姿。


子供から大人まで大勢で賑わう毎日。


そこにある見えないけれど強い確かな「絆」。


素敵な家族。


僕は知る。


これもまた1つの「家族のかたち」なのだと。


kazoku

12/26

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May 25, 2006

ダッカ・ホームステイの始まり・プレゼント

テーマ:(11)バングラデシュ

heya


ダッカの滞在が1週間になろうとしていたある日、僕は荷物の整理をしていて1枚の名刺を見つけた。


「ルナ・パルヴィン」


そう名前が刻まれている。住所はバングラデシュ、ダッカだ。


彼女とはタイ・バンコクのドンムアン国際空港で1度会ったことがある。1ヶ月と少し前、ミャンマーへ向けて旅立つ僕がビーマン・バングラデシュ航空のチェックインを待っていた時だった。


トイレに行ってチェックインカウンター前に戻ってくると、僕の自転車をもの珍しそうに眺めながら輪行袋のチャックを開けてちらりちらりと覗き見をしている少年が1人。僕が戻ってきた時にチャックを開けていたことを気まずく思ったのか少年は急いでチャックを閉じると慌てた様子で、


「No,No・・な、何もしてないよ・・」


と言いながら両手を広げて首を横に振った。少年に悪意がないことなど見てすぐにわかった僕はそれを笑って流していたのだが、すぐ隣にいたお母さんが代わりに弁解をした。


「I’m sorry.ごめんなさいね、でも大丈夫、この子は悪い子じゃないから」


「Never mind(笑)」


気にしないで、僕も気にしてませんからと答えた。それから少年のお母さんは僕に聞いた。


「あなたは日本人?」


そうだと答えると、今度は驚いたことに彼女も日本語で話し始めたのだ。


「あぁ、そぉ日本人ですか(笑)私、少し日本語話せるよ(笑)」


「すごい!!どうして?」


「日本で働いてたことあるよ、10年くらい。今は旦那さん、日本で働いてるよ」


「へぇぇ・・」


「これからどこ、行きますか?バングラ?」


「いや、ミャンマーに1ヶ月くらい。その後バングラにもいきます」


そんな話をした後、ダッカに住んでいるという彼女はもしよかったらと言って、名刺を1枚くれたのだった。


あれから1ヶ月以上経ち、ミャンマーを旅する間にそんな出来事をすっかり忘れていた僕は、バングラデシュのダッカで1週間を過ごしてもうそろそろ出ようかと思った頃に、そのもらった名刺をふと見つけてその出来事を思い出した。


「せっかくだから顔だけでも出していこうかな」


そう思った僕は、バンコクで出会ったその親子の家を訪ねる日を1日作ることにしたのだった。


僕が宿泊していたホテルからは2、3キロほど離れたモッグバザールという地区に彼女の家はあった。実際に自転車で走るダッカの街というのは、大通りならまだしも細かい具体的な住所を探し出そうとするのは土地感のない来訪者にとってそう簡単なことではない。モッグバザールという地区「であろう」場所まではわかるのだが、そこから先は自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなる。周辺に立ち並ぶ露店や商店を見ていると、どこも同じような景色をぐるぐるまわっているような気がしてくるし、辺りを見まわしても読めるわけもない看板の文字が目につくだけだった。


それでも街の人々はなんとか僕を目的地へ辿り着かせようと協力してくれた。というより、立ち止まって場所を確かめようとするとすぐに人が集まってくる。「どこへ行きたいんだ?」と聞くから「ここへ行きたいのだ」と名刺を見せると、すぐに話し合いが始まる。そしてその中の1人が途中まで案内してくれる。その場所でまた彼から事情を聞いた新たな人々が集まって話し合いを始め、次の案内役がまた僕をそこへ連れていってくれる。僕がたった一軒の家を見つけるために、暇なのか親切なのか話に加わって協力してくれた人は、ただの物珍しさで集まってきた人を除いても30人以上は下らなかったと思われる。すぐに見つけられるだろうと思っていた2,3キロ程度の距離の家を探し出すのに数時間かかって、ようやく辿り着いた。いや、やっとめぐり逢えたといった感じだ。これもまた「バングラデシュならでは」の出来事。


想像していたよりかなり大きな5階建てコンクリートマンションの3階が家だった。


途中で電話をいれた際に話をしていたルナは笑顔で僕を迎えてくれた。そしてバンコクの空港で会ったあの少年の姿もあり、あらためて聞くと8歳、名前はルーモンだと教えてくれた。旦那さんは今、日本で働いているためここにはいない。他に12歳のアキィ、18歳のサミィというお手伝いとして雇われている女の子が2人。はじめましての挨拶をしているところへ、さらに1人のベンガル人青年がやってきた。そういえば彼はマンション1階の入り口で門番をしていた。名はアリン、彼もまた雇われの身だという。


門番がなぜ3階の家に出入りしているのか、雇っているとはどういうことなのか・・不思議に思った僕がよくよくルナに聞いてみると、実はこのマンションの3階のみが家なのではなく、5階建てマンション全てが彼女のものなのだという答えが返ってきた。


「わたしがオーナーなのよ(笑)」


ルナはそう言った。1階と2階には一般のベンガル人家族が、そして4階と5階にはルナの姉妹や親戚たちの家族がそれぞれ住んでいる。


家で夕食をごちそうになっている時間には、その姉妹や親戚、それから近所の人たちまでもが次から次へとぞくぞくやってきた。


「アッサラーム・アライクム!!」


「ワライクム・アッサラーム!!」


このまるで悪魔の呪文のような挨拶の言葉をこの時だけでも何回、口にしただろう。それだけ多くの人がやってきた。そしてルナや彼女の旦那さんをはじめ、今でも日本との接点を持っていることで親しみやすいこともあるのか、怪しげな表情一つ見せずにその日本からやってきた僕を厚く歓迎してくれた。


「明日、ホテルを出てウチへいらっしゃい。部屋ならあるから」


ルナはそう言ってくれた。


初め、1日顔を出して出発しようと思っていた僕は、ここで大きく予定を変更して、このルナの家族にしばらくの間お世話になることを決めたのだった。


この日はクリスマス・イヴ。


日本では、街中がイルミネーションで彩られ、華やかな雰囲気に包まれているであろう頃合い。


人々の約90%がイスラム教徒であるバングラデシュにはそのような光景はない。残りのほとんども数%のヒンドゥー教とわずかな仏教で占められるこの国では、キリスト教の割合は1%にも満たない。


ダッカの街では人々にクリスマスという認識はあるものの、本来のクリスマスイベントを公に催すのは各宗教の占める割合をそのまま反映するかのように微々たるもので、わずかな家や店舗に電色の付いた小さなツリーが見うけられる程度だった。


僕が訪れたルナの家族ももちろんイスラム教。クリスマスだからといって特別な何かがあるわけではない。


しかし、そんなことはどうでもよかった。


僕は、バングラデシュで生活する人たちの日常を見てみたかった。


ここにいれば「バングラデシュ」という世界がほんのちょっとでもわかるような気がした。


この日、僕は素敵なプレゼントをもらったのだ。


「バングラデシュという国でこの家族に出会ったこと」


それは、僕にとって何よりも最高のクリスマス・プレゼントだった。



12/24

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May 20, 2006

『ああ、ショドルガット』

テーマ:(11)バングラデシュ

syodoru


ショドルガットは昔の上野駅で、オールドダッカは昔のアメ横だった。


いったい何のことやら。


景観が似ているわけでもないし、なんの接点もない。


ある程度見たままに言うならこうだ。


ショドルガットは川と運河の国バングラデシュを象徴するブリコンガ川に面した港で、船着場に出入りする人々や川に浮かぶ大小様々な船を、しばしダッカの喧騒から離れてぼんやりと眺めるには恰好の場所だった。


オールドダッカは細い路地が迷路のように広がり、古い街並みに無数の商店、工房、問屋などが連ねる活気に溢れたところで、臭気と混雑に圧倒されながらも、車の出入りがなく徒歩で散策するには丁度いい場所だった。


それがどういうわけか、僕にとってこのオールドダッカやショドルガット周辺というのは、どうも昔の東京と重なる部分を多く感じさせるのだった。


それは「台東区・墨田区」といったあたりだろうか。もっと限定的にいえば中心は昔の「上野」だ。この一見、何の繋がりもなさそうな事柄、いや実際にはないのだけれど・・それは僕の頭の中で突き詰めていけばいくほど、意外にも様々な接点が浮かび上がってくるのであった。


オールドダッカの細い路地に所狭しと立ち並ぶ無数の店。ルンギやサリー、ブルカなどの専門店、靴屋、金・銀細工、アクセサリーショップ、茶屋、印刷屋、食堂、メガネ屋、本屋、床屋、時計屋・・・とにかく何でもありといった感じのバザール一帯は、上野駅と御徒町駅の間に広がるアメヤ横丁のそれに相当する気がした。かつて闇市から始まった昔のアメ横の錯雑ぶりは、オールドダッカに漂う怪しげな雰囲気とだぶる。


少し離れたところにはスターモスジットと呼ばれるモスクがあり、そこのタイルには「富士山」の絵が描かれている。「なぜそこに富士山なのか」という疑問は、僕に古い銭湯の壁を思い出させる。昔ながらの銭湯の壁にはよく「富士山」の絵が描かれている。上野周辺にあった下町公衆浴場に確かそんな絵があったなと思いつつ、いずれにせよモザイク様式のスターモスジットに富士山という妙な組み合わせは「銭湯の壁に富士山」というやはり妙な組み合わせを想起させるのだった。


オールドダッカの界隈を抜けて辿りつくショドルガットは「昔の上野駅」のようなところなのではないかと僕は想像する。昔々、上野駅前には「人力車」がずらりと並んでいた時代があったという。そもそもダッカの街に溢れるリキシャも、元を辿ればこの日本の「人力車」に由来するのだ。このことはますます僕の想像を膨らませる。


僕が都心に出る際に必ずといっていいほど通っていた上野駅は、東北や上信越方面を繋ぐ「玄関口」だった。一方ショドルガットは、船という手段であるもののチッタゴンやクルナ、ボリシャルといった各地へ向かうやはり「玄関口」としての役割を担っている。


また、玄関口であった昔の上野駅には地方から上京してくる女の子に焦点をあてたカモねらいの怪しい男がたくさんうろついていたという。この地について何も知らない彼女たちは、仕事の話だなんだと巧妙に言いくるめられたあげくにもてあそばれるといった事件が多発していたという現実がある。ショドルガットも似たような恐さはある。入り口付近をうろうろしているとすぐに声がかかる。「なにしてる」ただ散策しているのだと答えると「舟に乗らないか」と誘われる。全てとは言わないまでも、値段をふっかけてカモねらいにする輩もいれば、舟の船頭と結託して船上で強盗に早変わり、なんてことも稀ではあるが実際にあると聞く。同じ玄関口に潜むそんな殺伐たる世界もまたよく似ている気がする。


syodoru


僕はしつこくて怪しげな相手をなんとかかわして、ショドルガット周辺のブリコンガ川を遊覧してくれる安全そうなボートを見つけて乗りこむことにした。


このショドルガットの船着場から出ている観光用の手こぎボートで僕は、しばし喧騒から離れてゆっくりと流れる時間の中で1人浸る。


ショドルガットやその周辺の岸辺からブリコンガ川を眺めるのと、舟で川を渡りながらショドルガットや周辺の街並みを眺めるというのはまったく違った趣を感じさせることに気づく。それは吾妻橋や地上の通り沿いから見る隅田川と、隅田川で舟に揺られながら見る都心の街並みというものがその趣を異にするのとよく似ていた。


停泊している大きな船のデッキの端では男たちがくみ上げたブリコンガ川の水で水浴びをしていた。ある者はTシャツやパンツを丹念にこすりながら洗濯をし、ある者は石鹸で泡立った頭をごしごしと洗い、ある者は順番を待ちながら水のくみ上げを手伝っている。僕を乗せたボートが近づくとある者はにっこり笑って手を振り、ある者はガッツポーズを決めて拳をかかげて見せた。


川岸に沿うようにして進んでいくと、これまでの船体とは造りがまるで違う大型船の姿が現われた。噂に聞くオールドスタイルな客船「ロケットスチーマー」だ。普通の客船でありながら珍しい「外輪船」スタイルをとるこの船は、今の時代には貴重な乗り物。別の機会に陸から停泊中のロケットスチーマーの乗り場を見せてもらったが、2等も3等も何も、通路までもがびっしりと人で埋まり、その人と人の隙間がないほどに地元乗客たちが船のあらゆるスペースを占拠していた。


完全に船が持ちこたえうる積載量を越えている気がするのだが、そんなことはおかまいなしに詰めるだけの人を詰めてロケットスチーマーは目的地へ向けて出発するようだった。のちに聞いた話では、案の定とでもいうべくして数ヶ月前にこのロケットスチーマーは航海途中にずぶずぶと川底に沈んでいったという大惨事があったようだ。いずれ近い将来この老朽化した外輪船はなくなる運命にあるのかもしれない。客船としての運行は幕を閉じても、せめてブリコンガ沿いの川岸に見物用としての外輪船の姿を残しておいてほしいものだ。


syodoru


外輪船と同じように、デッキで水浴びする男たち、街で見かけるリキシャ、それらは皆ダッカの街の発展とともにいずれ見られなくなってしまうもののように思えた。


舟をこぐ男たちもまた同じだろうか。


オールを力強くかきだす男の姿は妙に哀愁が漂っているように見えた。そんな姿を見て僕は


「ああ、上野駅」


を思い出す。かつての仕事柄、昔の古い歌を耳にする機会が多かった僕は、観光バスの中でお客が歌ったカラオケの曲というのを嫌でも覚えた。


当時、就職列車に揺られて上京してきた人々が到着したのは「上野駅」だった。



どこかに故郷の香りを乗せて

入る列車のなつかしさ

上野はおいらの心の駅だ

くじけちゃならない 人生が

あの日 ここから始まった



当時の人々にとって「ああ、上野駅」という歌は心の支えであり、応援歌だった。バスの車中で熱唱する男性の姿には、昔を懐かしむようにして、どことなく哀愁が漂っているように見えたものだった。


ショドルガットで舟をこぐ男の姿は、僕にそんなことを思い出させた。彼らがどのような経緯で今この仕事を生業としているのかはわからないが、地方からやってきたのであろうという点で想像すると、どこかしらその背景に重なるものがある。



ショドルはおいらの心の港

お舟の仕事は辛いけど

胸にゃ でっかい 夢がある



男は静かに遠くを見つめながらただ黙って舟を漕いでいた。


目の前で舟を漕ぐその男の寡黙な姿は語る。


「ああ、ショドルガット」


ダッカの喧騒から離れたこの静かな場所で、穏やかな風に乗ってどこからともなくそんな歌が流れてきそうな気がした。


syodoru

12/22

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May 08, 2006

リキシャの美学

テーマ:(11)バングラデシュ

rikisya

ダッカの街に渦巻くリキシャの波。


何千といるリキシャとそのこぎ手であるリキシャワラたちには、それぞれ親方というものがいた。個人で勝手にやっているわけではないのだ。


もともとリキシャ1台を買う金どころか何1つ元手のない彼らは地方からの出稼ぎ者も多く、親方からリキシャを借りてダッカの街で働き始める。街の人々はこれまたちょっとした移動に際しては必ずといっていいほどリキシャを利用するので、無数のリキシャも無駄に存在しているわけではない。ある程度需要と供給のバランスはとれているようだ。


しかし、利用する側からすればけっこうな距離を走ってもたかだか10円~30円程度(現地の人が利用した場合)の料金で済むというこの素晴らしく使い勝手のある乗り物も、リキシャワラのことを考えると少々気の毒な気もするのであった。


リキシャは親方からの借り物にすぎず、要は会社の営業車を使っているようなもの。あるところでは150タカ(260~280円程度)を親方へ支払って一定期間リキシャを借り、あくせくと働くリキシャワラもいた。


相当な肉体労働であることを考えると1日にさほど多くの客を乗せられるわけもない。せいぜい300円から400円といった稼ぎが平均なのではないだろうか。一人身ならいざ知らず、家族を持つ者にとっては厳しい数字。リキシャ稼業も楽ではないのだ。


彼らも生きるために必死だった。ひたすら乗客を探しては走りまわる「質より量」のリキシャワラもいれば、お金持ちだけを狙って「量より質」で稼ぐリキシャワラもいる。


「今からあの市場は遠すぎる」


「疲れてるから他をあたってくれ」


「あと20タカ積み増しならいってやる」


利用する時間帯やリキシャワラ自身の体力、気分の問題で乗客側が断られたり、逆に1台のリキシャに3人乗っても1人分と同じ料金で文句1つ言わずに走るリキシャワラもいる。皆一様にみえるリキシャもその数の分だけ特色があり、よくよく見ていると興味深い世界であった。


街でよく見られるリキシャの光景の1つは、リキシャ同士の喧嘩だった。ガシャン、ガシャンとリキシャ同士がぶつかり合う音はあちらこちらでよく聞こえてくる。


これだけ無数のリキシャがひしめく混雑の中では当たり前といえば当たり前の出来事、それは当人たちもわかっていようものだと思うのだが、意外にも彼らは短気だった。


「この混雑の中をいかに他車と接触せず、さらりと交わしながら進むことができるか、それがリキシャの美学だ」


そう言いたげにも思える彼らは、その美学に反して接触が起こるとすぐさま喧嘩になる。


すれ違いざまにお互いの後輪が接触する。


ガシャンッ・・。


それくらいたいしたことなかろうとこちらは思っているのだが、当の本人たちは違う。


「ふぅぅぅ・・っ」


双方ため息交じりにリキシャをこぐのを止める。そしてギロリと相手を睨みつけ、怒りを可能な限り抑えたような静かな口調で言い始める。


「おぉぉ・・何してくれとんじゃ、ぼけぇ・・」


相手も相手で言い返す。


「おいおい・・お前が避ければ済んだことだろうよ・・」


こうなるともう止まらない。


「はぁぁぁ・・誰にもの言っとんじゃ、われ」


「お前に言ってんだ、くそが」


「んだと、こらぁ・・死にてぇか、きさま」


「死ぬのはお前だ、髭面」


「うるせぇ、ハゲちょびん」


とまぁ、田舎の中学生ヤンキーのような大人気ない罵倒のし合いが続く。


「まぁまぁ、そう青筋たてて怒りなさんな」


そう言ってなだめるのは、まわりのリキシャやそれぞれのリキシャに乗っている乗客たち。


「気をつけろっ」


「次、会った時はただじゃおかねぇぞ」


お互いそんな様子の捨てゼリフを吐きながら、再び走り出すのである。


このような状況になるのは、たいてい傷の多いリキシャ同士。同じようなことを各地で毎日のように繰り返しているのかもしれない。


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それに対して、傷一つなくピカピカのリキシャというのも見かける。彼らのリキシャは飾りやペイントからして他のそれとは明らかに違う。やたらと大きな音が響くひとまわり大きなベルを装備し、ハンドルまわりには造花や革でできたひらひらの飾りつけ、そしてリキシャ全体にカラフルなペイントを施している。


「リキシャ・アート」としても注目を集めているというこうした派手なリキシャが走る姿もまたよく見られる光景の一つであった。


それらのリキシャには、インドやバングラデシュの映画スターを始め動物や神話上の生き物、町や村の風景、その他様々なものをモチーフにした絵が描かれている。リキシャ・アート展なるものが開催され、そこで一躍有名になったリキシャワラもいるというのだから、これはもう1つの芸術だといっていいのかもしれない。


道路脇で一生懸命に客探しをするリキシャワラをよそに、黙々と自分のリキシャの手入れにいそしむ者もいる。


「これ、おじさんが書いたの?」


試しに聞いてみると、待ってましたとばかりに嬉しそうに説明を始める。


「はっはっは、聞いてくれたか兄ちゃんよ。どうだ俺の華麗なるリキシャ・アートは。これはな、有名な映画スターの人物画でな・・・」


ほうほう、と聞きながらペイント部分を手で撫でようとすると、


「おぉっと!!触ってくれるな、兄ちゃんよ。高いぜこいつは。。」


彼は慌ててそれを制止する。


「あぁ・・ごめんごめん(苦笑)」


と僕は一応謝る。


「大事なのはわかるけど、乗せるお客を探した方がいいんじゃないの・・」


と心の中で思いながら。


時々リキシャワラの見せる妙なこだわりというものは、どうも僕の理解を越えている。


季節がら吐く息が白くなるほど寒い日もあるこの時期、ニット帽を被り首にマフラーを巻いたリキシャワラの姿を多く見かけるのだが、その割に下半身はルンギ(スカートのような腰巻)に裸足、サンダルなのだ。そして待機中は手をこすり合わせたり、はぁはぁと暖かい息を吹きかけたりしている。


「そんなに寒いならせめて靴下やシューズを履いたらいかがなもんで・・」


その姿を見てそう思うのは僕だけではないと思うのだ。


「ルンギに裸足、サンダルってのが俺たちのスタイル、リキシャの美学だ」


またしてもそこに「リキシャの美学」とやらが存在するのか、それを崩してまでも暖かい格好をしようとする者など誰一人としていない。


まったくもって不思議な世界である。


しかし探れば探るほど興味深いものであることもまた確か。


何はともあれリキシャ世界は、バングラデシュにおける特筆すべき一つの「文化」であることは間違いないのであった。


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May 01, 2006

ダッカ最速の男

テーマ:(11)バングラデシュ

リキシャ


バングラデシュにきて、一夜が明けた。


「あぁ、そういえばもうここはあの穏やかなミャンマーではないんだ・・」


それが目覚めたばかりの僕の頭に浮かんだ、ため息交じりの一言だった。


外に出ることが何よりも億劫だった。


しかしこの日、インドビザの申請をはじめ野暮用のために、僕はダッカ市街から北へ10キロほど離れたボナニ・グルシャン地区へ出かけなければならなかった。


「やれやれ・・」


昨日の街の狂乱ぶりですっかりカルチャーショックの波に呑まれていた僕は、仕方なしに、といった感じで準備を始める。


自転車を担いで外へ出ると、そこら辺にたむろしていた近所の連中がすぐに近寄ってきた。


「おぉ・・GOOD BICYCLE!!」


そして1人が2人に、2人が3人に、3人が4人に、次々と濃い顔のベンガル男たちが集まり始める。


「早速そんな好奇心ぶりを発揮してくれなくていいよ・・・」


と心の中で思いながら、愛想笑いで対応する。


ある男はサドルのクッション具合を揉んで確かめたり、ある男はベルを勝手にチリンチリン鳴らして妙に嬉しそうな顔をしている。どこから来た、というお決まりの会話で始まったその場を早く切り抜けようと、ある程度のところで、


「ボナニいくよ、ボナニ。グルシャンもね。じゃぁね。ばぁい」


そう言って僕は足早に大通りへ向かって自転車を押し始めた。あまりしつこいわけでもなく、皆にこやかでいい人たちなのだが、


「今はちょっと・・ね」


そんな言い訳を自分にしながら大通りへ出た。


案の定、道路は午前中早い時間にもかかわらず、両車線ともにびっしり、あらゆる乗り物とリキシャによって埋め尽くされていた。


信号待ちで道路脇にずらりと並んでいたリキシャの列におそるおそる僕も割って入る。


リキシャワラ(リキシャの運転手)からぎろりと向けられた視線をやたらと強く感じる。小型のベビーもタクシーもバスも「GOサインはまだか」といった様子でぶるんぶるんとエンジン音を唸らせている。まるでレースのスタートラインにでも立ったような心境だ。


僕も自分のマシンにゆっくりとまたがる。


少し血が騒いだ。


10ヶ月前、中国の田舎町で80歳お爺と激しいバトルを繰り広げたガチンコ・チャリンコ大レース を思い出していた。あの時は「不戦勝」という納得のいかない不完全燃焼で終わったのだ。


今日こそは公式第2戦といこうではないか。


昨日から今朝方までの陰鬱な気分は消えていた。


武者震いがした。


ベビー、マキシ、テンプー、ミシュック、小型バス、中型バス、大型バス、タクシー、そして無数のリキシャたち、その数ざっと数百、いや軽く千を越えているかもしれない。


あらゆる種類のマシンが集い、何でもありの様相を呈したこのレースはまさにバングラデシュ版キャノンボール。僕はたった1人アウェイに乗りこんできた侍ジャポンだった。


それぞれが自分の選んだマシンに乗り込み、スタートラインに立つ。


シグナルが青になる。


唸りを上げて怒涛の如く走り出す全てのマシン。


僕も負けじとペダルを全開に踏み込む。


ゴールは10キロ先、ボナニの町だ。


千台以上のマシンがひしめき合い、隙間もないほどに並んでいたコース上では、スピードのスの字も出せずレースにもならないのではないかと思っていたのだが、意外にも流れ始めると速いマシン、遅いマシンの各差で自然と縦に長く延びるようにして隙間が広がった。


ダッカの中心地、金融ビジネス街でもあるモティジールをスタートし、モッグバザールロードを抜け、テジガオ地区に入ると、がらりと様子が変わった。


道幅は広く、ボナニのゴールまでほぼストレートのまさにガチンコ勝負となる。豪快に飛ばすエンジン付きのマシンが有利であろうと誰もが思うこの状況は、まったくもって逆だった。なにせ道路を埋め尽くす大半はエンジン付きのバスやタクシーでもなければ小型のベビーやテンプーでもない、人力でひた走るリキシャなのだ。


自転車の姿を見つける方が難しいはずの東京都心の大通りという大通り、そのど真ん中を何百台、何千台という自転車が怒涛の勢いで走っている夢のようであって、かつ決してありえない光景、まさにそれがここにはあるのだ。バングラデシュの無秩序冥利に尽きるアンビリーバブルなコース。


そしてリキシャワラたちは、どんなにけたたましいクラクションを鳴らされようと少しもひるまない。例え目の前で直接自分に向けて鳴らされているものだとしてもだ。そんなやつらが何千といるのだから恐ろしい。しかし、この状況はやはりリキシャ同様、人力で動く自転車に乗ってゴールを目指す僕にとってはこの上なく好都合だった。


リキシャの大群に阻まれて思うように前に進めないエンジン付きマシンをよそに、僕はそのリキシャの間を抜けて走っていく。あれほど「狂乱」に満ちていたはずのこの街が、意外にもこんなにも「走りやすい」などと誰が想像できただろうか。


何もない大通りになればさすがにバスやタクシー、ベビーは速い。しかしリキシャがひしめく通りでは、そのリキシャはエンジン付きマシンと同等かそれ以上の力を発揮する。だがそれ以上に3輪のリキシャよりも2輪の僕の方がずっと速いわけだ。


つまり、この街で一番速いのは僕ということになる。


目の前が多少の渋滞になろうとも、僕は止まらない。


べらぼうに速いスピードなんてものは要らない。


必要なのは、わずか5、60センチの隙間をマックスですり抜ける度胸と衝突間際3センチで止まれる利きの良いブレーキ、それだけだ。


まっすぐに延びた直線道路、僕はほんのわずかの間に軽く2、300台抜きを成し遂げる。


各マシンが、なかなか通常のスピードを出しきれない中、たった1人豪快に飛ばす僕を見て、街ゆく人々が皆立ち止まってこちらを見る。


「おい、なんだあれは」


「おい、なんだあいつは」


僕は、この上ない優越感に浸りながら心の中で思う。


「はっはっは!!これが侍ジャポンだ、バングラさんよ」


負けじと張りあおうとする愚かなリキシャに対しては、1度抜かせておいてから、再度抜き返す。


「ふっ・・」


抜きざまにニヤリと笑みを見せながら。


チェッカーフラッグはふられ、僕は他を寄せつけない圧倒的なスピードと力で、10キロ先、ボナニのゴールをきった。後ろを振り返ると、まだ1つ前の信号で全員がつかまっている。


汗を片腕で拭い、ペダルをこぐのを止め、そのまま自転車を流しながら、僕は右手の人さし指を高々と空へ掲げ・・・ということまではしていないけれど、それでも完全なる勝利だった。


日本からやってきた僕はこの日、ダッカ最速の男になった。


「今日は、勝利の美酒に酔いしれよう」


そう思いながら、上機嫌で用事を済ませた僕はゆっくりと宿へ帰る。


しかし・・。


その後、僕はこのバングラデシュ、ダッカでのレースの本当の恐ろしさを思い知らされることになったのだった。


宿へ戻って一息つき、ふと鏡を見ると、顔は真っ黒、いや鼻の中も首まわりも着ているTシャツも、何もかもが真っ黒だ。気が抜けたのか今度は、喉が痛くなって咳込むようになり、頭痛まで起こり始めた。


なんということか、レースの敵はリキシャでもなければ、バスでもタクシーでもベビーでもなく、全ては大気に渦巻く「排気ガス」だったのだ。


豪快に意気込んで走っていた僕は、誰よりもその排ガスを吸いこみ、全身に浴びていた。そしてバングラデシュという地で「初戦」にすぎない僕は、排ガスという最大の敵に対して百戦錬磨の強者であるベンガル人と比べれば、その足元にも及ばないのであった。


時既に遅し、僕はそれから夕食も採らずにベッドに沈みこむことになった。


こうしてダッカ最速の男の栄光は、1日して幕を閉じたのだった。


ダッカ最速


12/19

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