紹介:中尾知代『日本人はなぜ謝りつづけるのか』 | 田口裕史のブログ

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 やっと時間ができたので、書く。


 長年、英国人元捕虜問題を研究してきた中尾知代さん(岡山大学准教授)が、本を出版した(『日本人はなぜ謝りつづけるのか―日英〈戦後和解〉の失敗に学ぶ (生活人新書 264) 』)。

 『なぜ謝りつづけるのか』というタイトルは、「もう謝る必要はない」という意味合いをも含みこんでいるかのように思われ、誤解を生むのではと少しばかり危惧するが、内容的には「日本政府の“おわび”がなぜ受け入れられず、さらなる謝罪要求をつきつけられるのか」を論じた本である。


 これまで日本政府は、英国人元捕虜に向けた「おわび」を二度表明してきた(95年・98年)。にもかかわらず、元捕虜たちの怒りはおさまらず、補償要求、謝罪要求は続いている。これは、いったい何故なのか。

 本書第2章では、その理由が詳細に論じられている。


 元捕虜問題にかぎらず、戦争責任にかかわる政府要人の発言や公の文書では、ことごとく「謝罪」という言葉が回避される。そして、「謝罪」という表現をかたくなに回避して発せられる「おわび」は、かえって被害者たちの不信をまねく。かつて私は「謝罪の“値切り”をやめよ」と述べたことがあるが、英国の場合も元捕虜たちは、日本のこの対応に対し、「何かを迂回し、ごまかしているのではないか」と感じているという。

 そのほか、「おわび」の掲載メディアや英語表現の選択ミスなど配慮不足による問題も多い。こちら側では謝っているつもりだとしても、元捕虜・元抑留者やその遺族・家族たちにとっては、いつまでたっても謝罪が発せられないという思いが募っていくのは当然だろう。読みながら、なるほどと思わされる部分がいくつもあった。

 「謝罪」は、被害者たちの心情や、それぞれの社会の文化・伝統への十分な配慮のもとに行われる必要がある。そのことを再確認させられた。そもそも「謝罪」が個々の被害者の痛みに向けられるはずのものである以上、人間としての基本的配慮を欠いた「謝罪」など、謝罪と呼ぶに値するものとはならない。

 「もう十分謝ったのだから、これ以上謝る必要はない」と考えている人々に、ぜひ読んで欲しい。

 

 本書のもう一つの重要性は、「和解成功」の例として語られることの多い英国人元捕虜問題が、じつは深刻な課題を抱え続けた状態にあることを伝えている点にある(第3章・第4章)。

 元捕虜を日本に招き、市民交流を行なうなどの形で被害者たちの痛みを癒そうとする民間和解活動は、もちろん一定の成果をあげたのだと思われる。元捕虜たちの中にもそれを歓迎する人々がいる。しかし、もしもその「和解」によって傷つく人びとがあるのなら、そこを見逃したまま「和解成功」と言うわけにはいかないだろう。

 市民同士の心情的な和解は、政治的な責任としての謝罪・補償を求める主張と別のものだ。しかし、民間和解を後押しした外務省の意図は、謝罪・補償要求の沈静化にあり、そのことが問題を複雑化した。さらに、政府とつながった民間の和解活動が、元捕虜たちを深く傷つけてしまっているケースさえある。

 詳しくは本書をお読みいただきたいが、気になったことを一点だけ取り上げておきたい。本書142ページには以下のような記述がある。


 「(前略)『謝られれば許さなければならない』あるいは『相手が謝らなくても許さなくてはならない』という神の命令のパラダイムの中では、<許せない>捕虜は神の命令に従わない造反者となってしまうからだ。日本を<許す捕虜>と<許せない捕虜>の二分法で処理しようとすると、許せない人間は、神を認めない悪い信徒・悪い人間という立場に追い詰められる。(略)<許せない自分>が別のトラウマにもなりかねない。『許してやる』という、日本側からすれば傲慢な位置に自分を置くことでしか解決を見出せなくなる。このような立場に捕虜を置くことも、許せぬ自責の念に苦しませることも、元捕虜に対して残酷ではないだろうか」


 著者の中尾知代さんは、これを、キリスト教を背景にもつ日本側和解推進団体のもたらした問題として論じているが、似たことは「和解」活動一般にも言えるのではないか。私のまったく個人的な気持ちからいえば、被害当事者以外がもちだす「和解」には、どこか傲慢なところがあるようにも感じられる。これは、被害者を無視した国家間レベルでの「和解」に、典型的に当てはまることだ。

 「許せない」人々がいるのは、その痛みの深さからすれば当然である。もちろん、相手を許せないのはつらい。しかし、「許せない」という苦しみの存在を、物事の前提にすべきだだろう。「許せない」という現実を肯定しなければ、被害者の問題を考えることはできない。求められるのは、「許せない」という痛みに想像力を向け、そこに少しでも寄り添おうという私たちの不断の構えではないか。

 国家間の「和解」も、こうした被害者個々の痛みにどれだけ配慮を向けたものになるかが問われる。被害者が「自らの痛みは社会的に承認されている」という実感を得られるような、何らかの持続的な取り組みが必要だ。戦後ドイツの政治家の発言や振る舞い、教育の試みなどは、その意味で十分見習うべき点をもっている。「国家が和解したのだから国民はそれに従え」という論理は、「人間」の問題として間違っている。


 本書の内容から離れた個人的主張を述べてしまった。本題に戻ろう。

 本書第4章「日本が謝れない四つの理由」については、(この一章を入れた意図は分かるものの)多少議論を呼びそうな部分があるように思う。私自身も、著者の問題提起について、もう少し検討をしてみたい。


 中尾知代さんは、長年にわたり英国人元捕虜や遺家族からの聞き取り調査を続けてきた。本書は、その成果である。被害者たちとの人間関係を丁寧に築きあげながらの作業であったことが、記述の端々から読み取れる。わたしたちのもとに届きにくかった(ときにはメディアによって歪められてきた)被害者たちの「声」がここにはただしく刻み込まれている。
 なぜ日本の「おわび」が被害者に受け止められないのか、そして「謝罪」や「和解」がどうあるべきかを、真摯に考えさせられる好著である。


中尾知代さんが、POWOW.ASIAというウェブサイトを公開している。

参考文献や本書の正誤表、ウェブ上の情報へのリンクが載せられているので、ぜひ参照願いたい。

POWOW.ASIA


戦争責任資料センター の紀要『季刊戦争責任研究』に、関連する中尾さんの論文が載っている。

こちらもあわせてお読みいただくと、いっそうの理解が可能になるはず。

「捕虜問題をめぐる日英〈和解〉の断層」『季刊戦争責任研究』第57号~第59号

こちらのページ に戦争責任資料センターへの購入申し込み方法が記されています)


本書に関する中尾知代さんのインタビュー

毎日新聞2008年8月19日付記事




日本人はなぜ謝りつづけるのか―日英〈戦後和解〉の失敗に学ぶ (生活人新書 264)
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