父方の祖父はわたしが中学生のころ、祖母はわたしが産まれる前に亡くなっています。
だから、というわけでもないのですけど、母の生前も、また亡くなってからも、わたしと父と弟が年末年始に帰省するのは、母方の祖父母の家であり、わたしにとっての“じいちゃんとばあちゃん”は、この祖父母のことでした。
父は外婿の立場であり、祖父母の家には母の弟である叔父夫婦がいるで少々気も使うようでしたが、疎遠にするのもかえって祖父母を悲しませることになり、祖父母が元気なうちは、一緒にお正月を過ごそうという風習になってきたのです。父と母は同郷なので、祖父母の家に滞在して、正月は近所の父方の親族にあいさつ周りに行く、というのがここ何年もの年末年始の過ごし方でした。弟はやがて、結婚して奥さんの実家(父の妹宅なのでこれまた近場)に泊まるようになりましたが、行き遅れのわたくしは、父とともに、つい最近の正月までそのように過ごしていたのです。

斎場には、通夜の1時間くらい前に到着しました。
ちょうど、祭壇の前では、斎場の人たちがじいちゃんの体を、専用の浴槽に入れて洗っているところでした。母のときも見た光景でしたが、ここでは3人がかりで洗っていました。さらに、体を洗うだけでなく、実に器用に、新しい着物に着せ替えるのです。その着物は、祖母が家から持ってきたものでした。
そういや、『おくりびと』はまだ観てなかったっけ……。もちろんこれもオプション料金だけど、お金を払っているとは云え頭が下がる仕事だよなあ……とぼんやり考えながら、その光景を凝視していました。

家族葬とは云いながら、通夜の列席者の数がそこそこ多かったのは、田舎ならではの親戚の多さによるものでした。わたしが子どもの頃に会ったかもしれない、名前だけは聞いたことがある、そんな親族たちが、じいちゃんの元に続々と集まっていました。これが仮に、大阪に住むうちの父の葬儀だったら、さすがにここまで足を運ぶ人もいないだろうなあ……。
通夜を取り仕切るのは、村の在所に古くからあるお寺の印主さんで、昔、うちのじいちゃんにも「ぼん、ぼん」と云ってずいぶんかわいがってもらったという話を、声に涙を含ませながら話していました。都市部では、お寺との繋がりなんてほとんどないですから、こういうのも田舎ならではの光景だなあと思います。

通夜は粛々と進み、食事をしたあとは、大半の親族も帰っていきました。
残っているのは祖母と、じいちゃんの弟嫁にあたるおばさんと、父とわたし、叔母夫婦くらいになりました。叔父といとこは、いったん母屋に帰って、その日泊まる親族の世話をしてからまた戻ってくるといいました。
静かになった広間の隅っこで、ぼんやりとスマホを閲覧していると、父が叔母の旦那さんに、母の病気の話を語っていました。
わたしが、母がすい臓がんだったことを知ったのは、旅から帰って来てからでした。その頃は、医者の告知義務もなかったので、父が最後まで病名を、母とわたしと弟に伏せていたらしいのです。わたしは急性すい臓炎だと聞かされていました。入院してから死ぬまでの期間の短さを思えば、わたしも気づいてもよさそうなものでしたが……どこかで信じたくなかったのでしょうかね。
何年もしてから、親戚がポロッと喋ったことで事実を知ったわけですが(知らぬは子ばかりなり…)、今さら父に問い質す気にもなれず、ただ胸の内で納得するのみでした。
わたしが聞き耳を立てているとも知らず、父が叔父と話していたところによると、死の1年前、テレビでがんの告知に関する番組を観ていたとき、母が父に、「もしわたしががんになったら、告知する?」と尋ねたらしい。父が迷った末に「告知する」と答えると、母はむちゃくちゃ怒ったそうです。そのことがあったから、父は母に病名を告げず、母も薄々は分かっていたのかも知れないけれど自分ががんであることを知らずに死にました。
わたしは、父母が単にわたしと弟の父母ではなく、一組の夫婦であったという事実に今さらながら思い至りました。前にも書いたけれど、家族と云えども、きっと知らないことの方が多いものなんだろうな……と。
しかしまあ、がんが分かったのも、死の数ヶ月前のことで、それまでは胃の調子が悪いというので近所の医者にかかって、おそらく普通に胃薬なんかを処方されていたので、わたしも長らく「お母さん、コーヒー飲み過ぎやねん」くらいの認識しかありませんでした。父は長らく、その医者のことを恨んでいたようですが、膵臓がんという病気は手遅れになるまで分からないことが多いようなので、医者が悪いとも云いきれず……。
ともあれ、わたしは母の死について、まだまだ知らないことが多すぎて、しかしほじくり返すのも気が引けて、消化できないままこんな年になってしまいました。母が死んだ年齢のほうが、もはや実年齢に近づいているというね……。わたしも、その年まで生きられる保証はどこにもありません。

弟は、その日の夜遅く、家族とともに帰ってきました。奥さんと子どもは実家に滞在し、弟だけ斎場に泊まることになりました。
今は、10時間灯り続ける渦巻き式線香もあるので、線香の火の見張りなどしなくてもよいのですが、なんだか、そんなに簡単に寝てはいけない気がして、2人して線香の番をしていました。
年に1~2度しか会わない弟と話す機会も珍しいので、他愛もない会話をダラダラとしていたら、その光景を見ていたおばさんには、「おじいさんも、こんなふうに孫2人に見守ってもらえて、幸せもんやなあ」と映ったようでした。
弟は、「じいちゃんの思い出って何やろ、と思ったとき、昔、船着き場まで送り迎えしてくれた姿が最初に浮かんできた」と云いました。わたしは、ここ数年の弱ったじいちゃんの姿で記憶をだいぶ上書きしてしまっていたので、弟に云われるまでそれを思い出すこともなかったのですが、まだ明石海峡大橋が架かる前、わたしは家族4人で、フェリーに乗って盆と正月のたびに帰省していたのです。
わたしは田舎で過ごす休暇をことのほか愛していて、大阪に帰る日の前夜は、布団のなかで声を殺して泣いていたほどでした。船着き場から船までの通路ギリギリまで、じいちゃんがいつも見送りに来てくれて、母が「こんなとこまで来んでも大丈夫やから」と苦笑していたものでした。
わたしが大人になってくると、今度は一人で電車に乗ってあっちこっちに行きたい病をよく発症させ、そのたびにじいちゃんが心配して途中の駅まで車で送ってくれたり、迎えにきたりしていました。そんなじいちゃんの姿を、どこかの駅で撮影した写真も残っています(笑)。
じいちゃんは、体がそんなに大きかったわけではないのですが、実に家長そのものといった威厳がありました。しかし、性格は仏門に入っているのかと思うほど穏やかで、地域の世話役なども進んで引き受けるタイプの優等生キャラで、道徳の教科書みたいなことをさらっと云うなあ、とよく思ったものです。優しいけれど、隙のない人でした。
だから、こんなにしっかりした人でも、年を取ると子どものように何もできなくなってしまうのか……と、ここ数年は帰省するたびにやるせない諦念を抱いていました。洗濯物のタオルをゆっくりと、しかし端と端を一分の隙もなくきっちり揃えて畳む姿だけに、昔の名残を留めていましたが、昨年はそれすらも失われていました。

棺桶に入ったじいちゃんの顔は、何度見ても眠っているようで、何度見ても、まったく同じ顔でした。だから、もう見納めだと思っても、ポイントを貯めるように何度も見ても、そこには積算がありませんでした。
昨年の晩秋、わたしよりも若いバンド関係の仲間の一人が交通事故で急逝し、お棺のなかの顔を見た時も、こんなにきれいなのに、死んでるのか……と、『タッチ』の7巻のタッちゃんみたいなことを思ったものですが、生きているのか死んでいるのかも分からないほど、ただただきれいな人形のような死体に対して、いったいどんな感情を抱けばいいのか、じいちゃんの顔を何度見ても、分かりませんでした。
ただ、この顔を父に置き換える日がいつかやって来る。そのときわたしは、耐えられるだろうか? それ以前に、わたしは年老いて弱っていく父の姿を、ちゃんと直視できるだろうか? 
誰しもいつか、己も含めて人生から退場せねばならない日が来る。人が古来、来世や天国や浄土を作りだしたのもむべなるかな、と思うほど、人の一生はあまりに移ろいやすく儚い。水よりも濃い血で結ばれているはずの家族でさえ、一生をともにする契約を結んだはずの伴侶でさえ、かりそめの縁に過ぎないのです。

斎場に泊まっていた誰もが、何となく寝るのをはばかって、何をするでもなくダラダラと起きていました。せっかく敷いた布団も、誰も手をつけようとはしませんでしたが、無理に起きて明日に差し支えてもよくないなと思い直し、わたしはひと足先に就寝。にも係わらず、翌日の葬式では何度か意識が落ちた瞬間がありました。小学生か!
正直なところ、お経を唱えている儀式のまっただ中には、悲しみだけでなく感情自体が涌いてきません。マニュアル化されていることに人は気持ちを揺さぶられにくいのか、はたまた単に、わたしが欠落しているだけなのか……。
葬式のハイライトともいうべき、棺に花を入れる”別れ花”のときは、さすがに鬼のようなわたしの目からも涙が出てきました。しかし、それもまた、周りが大泣きするから呑まれてしまっているだけという気もして……。いつも、人の死に対する正しい気持ちと態度が分からなくて、自分のことがとても不安になる。涙が出てきたときだけ、ああ、これが正しいんだと思うけれど、それもすぐに引っ込んで、あとは空洞のような心が続くばかりです。

昼から火葬場に移動し、焼き終わるまでの1時間ほど、親戚たちとともに待機場で過ごしました。
そこで感心したのは、弟が、顔もろくに知らない親戚たちとも如才なく話している様子でした。わたしがいつまでも頭の足りない娘さんという感じが抜けないのに対して、弟は姉の100倍くらい社会性が身についているように見えました。
仕事はわたしより遙かにたいへんそうだけど、好きな仕事だから続いているし、狭苦しそうなアパートに住んでいるけれど、一人前に家庭をもち、この春には3人目の子も産まれ……。それに引き替え、わたしは完全に行き遅れ、いや、生き遅れて久しく、もはやいろんなことが時間切れになりつつあるという現状。成績優秀で将来有望とされていたわたしよりも、底辺に近い学校卒で就職もなんとかありついた感じの弟の方がまともに人生を歩むことになろうとは、父ですら予想していなかったでしょう……。
そんなことを思っているうちに、じいちゃんの遺体はいよいよ骨だけになりました。お年のわりにとても立派な骨です、と斎場の人が云い、じいちゃんの長い人生を支えてきた骨は、確かに健康な人らしい力強さがありましたが、それも、菜箸を入れるとすぐにくしゃっと潰れました。
小さな骨壺に入ったじいちゃんは、家に帰って、白いベニヤ板で作った簡易的な祭壇に安置されました。

祖母は、時々大泣きしながらも、その他はしっかりしていて、伊達に長生きしてないなと感心します。それでも、伴侶を失って急激に弱ってしまうというのはよくある話。しかも、葬式が終わって続々と親戚たちが去っていくと、ものすごい空虚感に襲われたりしないでしょうか……。
気がかりではありましたが、わたしとて1日やそこらは延ばせても、いつまでも滞在できる身でもありません。こんなとき、ニートだったら1カ月くらい側に居てあげられるのにな!(そんなに要らんか)
後ろ髪を引かれながら大阪に帰る途中、昨年から老人ホームに入っている伯母(父の姉)の見舞いに行きました。
父は、じいちゃんの死については広く知らせないという家族の方針もあって、今回は寄らずに帰ろうと云いましたが(何せ狭い田舎社会なのです)、わたしには、80を過ぎた人にまた今度という機会があと何回あるんだよという焦りがあるので、少しでも機会があれば会っておかないと気が済みません。
伯母は、突然の来訪に驚いていましたが、正月に来たばかりなのに日を空けずまたやって来たことにすぐピンと来たようでした。伯母と祖母は昔からのご近所で仲がよかったこともあって、じいちゃんの死を聞いて泣き崩れました。
伯母とも、あと何度会えるのか……考えたくはないけれど、考えざるを得ません。

そしてわたしは、じいちゃんが最期まで着けていたという腕時計(どんなときも、腕時計だけはしていないと落ち着かなかったらしい)を形見に貰い受けて、また日常へと戻って行きました。
遠く離れて暮らしていたじいちゃんとわたし。生きていたとしても年に1、2回会えばいい方でした。だから、じいちゃんのいないこれからの人生も、これまでとそう変わらないのかもしれません。
でも、最後に「結婚したよ」と告げたときの崩れるような微笑みを、もう1回くらい見たかった。そんなことを云い出したら、もっと早く、自慢できるような仕事や、人並みの家庭をもった姿を見せてあげたかったなとか、キリがないんだけどさ……。
もしほんとうに死後の世界があるのなら、母と再会してくれることを切に祈るばかりです。