小谷山城(桧原城・福島県耶麻郡北塩原村)
いわゆる裏磐梯と称される福島県・北塩原村にある桧原湖の北岸に桧原城とも呼ばれる小谷山城があります。
標高954mの山上にある現在の情勢を見るといかにも桧原湖を見下ろす立地のやうに思えるのですが、桧原湖は大正の磐梯山噴火の際に形成された堰止湖であり、本来、城の麓には宿場町でもあった桧原村がありました(現在はそのほとんどが湖底に沈んでいる)。
会津という立地から想像される通り、中世、一帯は芦名氏の支配下にあり、戦国期には有力被官の穴沢氏が守っていました。
桧原は北に吾妻連峰といふ巨大な障壁があるものの伊達氏の領国とは境を接するところであり、伊達氏が兵を進めて来ることもしばしば。
伊達氏の狙いは芦名の北面を脅かすことにもあったが、実は一帯で産出される金の存在も重要でした。
すなわち桧原金山で、独眼竜を謳われた伊達政宗が伊達当主となった頃には芦名氏による金山開発が進んでいたのです。
他にも磐梯山周辺は黒森金山などの金山がいくつもあり、芦名氏の重要な財源となっていた。
まさに会津磐梯山は宝の山で、笹に黄金が成り下がらんばかりだったのです。
度重なる伊達氏の侵攻に対し、穴沢氏は戸山城や岩山城をもって防戦し、芦名氏も天正12年(1584)に桧原の後背地に綱取城、柏木城を整えて守りを固めますが、伊達政宗は穴沢氏の一族を調略して桧原を強襲、穴沢当主・俊光らを討ち取ってついに桧原を支配下に収めました。
時に天正12年10月であり、翌13年には小谷山に城を築いて後藤信康を城番とし、桧原支配の足場を固めました。
小谷山城の構造を簡単にまとめますと頂部から南に曲輪を連ねており、即ち頂部に土塁に囲まれた主郭を配し、堀切を隔てて二の曲輪、次いで三の曲輪と連続(二、三の曲輪内は何段かに分かれる)、これらをぐるりと外土塁を用いた空堀にて囲んでいます。
こう言ってしまふと単純なやうですが、主郭へ向かう導線が攻め手としては極めて厄介なのである。
現状、麓から主郭へ向かう道は南と西にありますが、大手は南にあったと思われ、この方面は比較的緩斜面。
ここを登ってゆくと三の曲輪下で三重の堀切に阻まれ、この先は三の曲輪西堀外を進むことになりますが、三の曲輪からは常に俯瞰されてしまう道なのです。
三の曲輪北端で空堀を越え虎口をくぐって二の曲輪を目指すのですが、特筆すべきはむしろこれから。
二の曲輪への道は執拗に折り曲げられており、三の曲輪北端の虎口をくぐってから左→左→右→右→左→左→右→左→左と曲がってようやく二の曲輪着。
勾配はさほど急ではないのですが九十九折りともいふべき導線となっています。
なお比較的急勾配の搦手道(推定)は二の曲輪西に到達しますが、ここでも右折れの桝形が採用されています。
さて山上から南麓に目を転じますと、ここに方形に高くなった居館があり、その北には外構と称される東西に延びる長大な土塁があって馬出と呼ばれる出桝形が張り出している。
長大な外構えは今や桧原湖の湖中に没していますが、この広大な空間に兵を収容し、大事の時には守りに凝り固めた山上の城へと退避する心算だったのでせう。
伊達氏としてはそれほど芦名氏の反攻を警戒していましたが、この時、芦名氏では当主の盛隆が横死し、その後も混乱が続いたため桧原奪回の余裕とてなく、穴沢氏の残党による伊達政宗狙撃(失敗)が伝えられるばかりです。
その後、小谷山城は芦名氏と雌雄を決した摺上原の戦いの前進拠点となり、伊達氏の会津併吞をもってその使命を終えたといえるでせう。
天正19年(1590)、豊臣政権によってその会津領も召し上げられ、城も廃されたものと思われます。
小谷山城へ公共交通機関利用の場合はJR磐越西線・猪苗代駅より裏磐梯行きに乗車。
裏磐梯高原駅より桧原湖一周の周遊バスが発着しています。