2010-08-12 17:56:45

幕末維新力士伝⑫ 長州藩諸隊の一・力士隊(前編) 

テーマ:幕末維新力士伝

幕末維新の主役の一・長州藩。

尊王攘夷を掲げて幕府や諸外国を敵に回しながら艱難辛苦の末、ついに倒幕を成し遂げ、明治新政府の中核を担いました

その原動力となったのが奇兵隊に代表される、身分に捉われず編成された民衆による戦闘部隊―諸隊の存在。

そしてそこには力士による゛力士隊(角力隊)゛の活躍もありました。


諸隊発足の発端は文久3年(1863)のこと。

幕府より攘夷実行の約を引き出した長州藩は時来たれりと、下関を通過する外国船への砲撃を開始します。

ところが最新の軍備を誇るアメリカやフランスがこれを黙って見逃す訳もなく、長州はその報復を受けて手痛い損害を被ることに―。


軍備の増強を焦眉の急と見た藩は、6月、高杉晋作を登用し、その下で身分の貴賎を問わない屈強果敢たる人材による奇兵隊が創設されます。

これを奇貨として藩内では挙国一致の動員体制が敷かれ、士農工商の別なく様々な部隊が作られる。

これが゛諸隊゛であり、その数、400にも及んださうで、中には地雷製造、敷設のための地光隊、医者や僧侶等からなるエレキ隊、女性によって編成されたパトロン隊なんてのもありました。


一方、江戸にあった長州藩抱え、出入りの力士たちも藩の危急を見て、動かずにはいられなかった。

山分勝五郎(二段目4=十両、年寄・山分5代)以下、錦川長五郎(三段目13)、菊ヶ浜亀吉(後に大坂中相撲)、若稲荷勝蔵(後に大坂中相撲)、山猫万吉(四段目26)、岩ヶ井粂吉、生雲山市蔵らは長州に帰国。

藩に対し自らも戦闘に加わりたい旨を願い出、7月7日、藩侯・毛利敬親より長さ1間(約1.818m)以上もある狭間筒(銃身が長い火縄銃)を授けられました。

ちなみに7月7日と言へば野見宿禰と当麻蹴速が垂仁天皇の御前で相撲を取った日であり、この日に狭間筒が授けられたのも単なる偶然ではなかったらう。


これら大相撲力士に、さらに草相撲の力士を加えた約50名により力士隊(角力隊)は結成されたのです。



星ヶ嶺、斬られて候 <力士隊の中核を担った山分勝五郎。前名は菊ヶ浜勝蔵>





かくて成立した力士隊は来島又兵衛率いる遊撃隊に付属し、元治元年(1864)7月、蛤御門(禁門)の変で一躍、その名を轟かすこととなります。

京都を前に一旦、大山崎(京都府八幡市)に布陣した遊撃隊はさらに尊攘派浪士の籠る嵯峨・天竜寺(京都市右京区)へと移るのですが、この時、力士隊は手に手に金剛棒や長槍を持ち、鉦(かね)・太鼓を打ち鳴らしつつ行進して京雀の耳目を大いに驚かせたのです。


7月19日、遂に戦端は開かれて遊撃隊は蛤御門へ殺到、守備する会津藩兵を押しに押しますが、薩摩藩の側撃を受けて敗退し、来島は被弾して戦死、その遺骸は力士隊によって後方へ運ばれました。

力士隊では隊長・那須唯一(ただいち・壬生藩浪士)以下、阿武潟東三郎、阿武潟力松、玉石卯之助が戦死―。


長州藩は朝敵となり、忍従の秋を迎えます。



以下、後編へ―。



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