一.人肉
「何も無い所ですね。夜星が綺麗でしょう」
「星なんかに興味を持つ人間はここには居ない」
今もし日本から友人が訪ねてきたならば、会話は天気云々よりも風景の話から始まるかもしれない。言われるまでも無い、見渡す限り「文明」と呼べるものが無い。別段田舎暮らしが好きでここに居る訳ではない。
今俺がここに住んでいるのは国が「ここに住めよ」と指定したからに他ならない。
パチンコも無い、雀荘も無い、飲み屋も無い。何を楽しみに生きているのかと聞かれると、まあ人間そんな物が無くても別段ダラダラと生きていけるものだから心配は要らない。
「北朝鮮に帰国して、あなたは幸せですか?」
「……」
ここの環境が珍しい訳では無く、北朝鮮と言う国は地方に行けば行く程鮮やかな色が無くなり、白、黒、こげ 茶、銅色と言った暗いイメージが辺りを支配するのが普通だから、ド田舎に住んでいると恥かしがる必要は無い。夜のイルミネーション等は首都平壌に行かなければ見る事は出来ないし、日照時間の少ない冬場には家にひょっとかかる裸電球さえも贅沢に見える事がある。
電気の生産量が使用量よりも遥かに少ないので、電気が使えるのは朝と夕方の食事の準備をするほんの一時でしか無い。だから電気が点いていると言う事は自家発電装置を備えた近代的な家庭であると言う事なのだ。
曲がる事無く一直線平壌に伸びる道には交通整理の女性が立ち、信号代わりに手を振っている。とは言え通る車は党の幹部が乗るベンツばかりで殆どの人間が徒歩で舗装されていない埃だらけの道を懸命に目的地に向って歩いていた。高速道路で人が車に轢かれた場合、運転手が罪を問われる事は無い。悪いのはたとえめったに通らなくても車が通る道に入り込んだ人間の方なのである。人間の値段は一番安く確かに、自動車の方が高価で普通そう簡単に手に入らない。
危険な高速道路を避け、一体皆どこへ向っているのか? 説明するまでも無く、今日は食料品の配給は無く、代わりに朝から闇市場が立つ日なのである。
日本と北朝鮮には現在国交が成立していない。友人が訪ねてくる筈も無いのに、俺は何を考えて居るのだろうか。
北朝鮮の闇市場。おそらくここはこの国の施設としては一番賑わっている場所では無いだろうか。米、服、自転車。ウサギの角以外手に入らぬ物はまず無い。外貨・特に米ドルさえあれば、その時手に入らなくても、次に市が立つ時には大概揃うのが普通であった。
闇市場の存在は違法ではあるが、一般庶民は勿論の事党の政府高官さえも恒常的に利用する物流の要としての意味合いがあった。物を買うと言う行為は人間の根源に関する行為なのだろうか、普段は暗い人の顔も闇市で目的の商品を見定めるその時は何故か明るく、楽しそうに見えてくる時があった。
日本からの帰国者である俺はポケットに米ドルを十ドルだけ入れ、何買うで無くあちこちの店を覗き、気分転換がてら油を売っていた。
日本からの帰国者の階層は一番低く、仕事の内容は厳しい上に配給は少ないのが普通だが、逆に日本からの仕送りに事欠く事が無い、俺のような要領の良い人間は、逆に贅沢する事さえ望まなければ、食料不足が続いて居ても、不足分は外貨を使い闇市で調達する事が出来るので、そこそこ、いや北朝鮮ではかなり裕福な生活する事は決して難しい事では無かった。
もっとも金日成が亡くなり、経済状態が目に見えて悪くなってからは、仕事自体殆ど無くなってしまい、「仕事に出勤するのは配給の権利を得る為だけだ」と言う人も少なくはない。とは言え現在はその配給さえも雀の涙と言った状態なのだけれども。
仕事の合間に実際計算してみた所、生活費は日本などに比べたら恐ろしい程安く、一年間家族四人が普通に暮らしていて、一万円もかかっていなかった。そう考えてみると、日本で満員電車に揺られ、あくせく生きるよりも、北朝鮮でノンビリ暮らすと言う事も決しておかしな選択では無い事に気がつく。
そうだ。日本から友達がやって来たらそうやって教えてやろう。
ここは
「元祖・地上の楽園だぞ」
「働かなくても喰えるんだ」
と。人間何でも考えよう。後ろを向いて考えてばかり居たら、一日あっという間につまらなく終ってしまう。
「これは何だい?」
「肉だよ。肉。見て分らないか?」
「何の肉だって聞いてるんだ」
「……豚だよ豚。見れば分るだろう」
肉といえば牛か豚、鳥と考えるのが普通であろうが、北朝鮮ではまず牛肉が店先に並ぶ事は無かった。それは農作機械が殆ど無い北朝鮮において牛は重要な農業補助生物だからだ。俺自身二十年以上前に食べた牛肉の味など覚えていないから、例え目の前にあるその肉を「牛肉だ」と言われれば、誰でもそう信じてしまうだろう。
売っている男の服の上部は白く、裾から全体にかけては黒くスス汚れていた。衛生状態は余り良くないようだが、腐ってさえ居なければ、肉を火にかけさえすれば食べられない事は無いだろう。この国で肉を口に出来るのは正月か金正日総書記の誕生日位だけだけだから、とりあえず買って帰れば今日の夕食が楽しくなる事だろう。
「幾らだ?」
「一斤で五十ウオン」
高い。
大体一般労働者の給料が九十ウオンだから、その約半分の値段だ。でも肉ならその位が相場だろうか。いや安い方かもしれない。であるにも関わらずその肉屋は人気が無かった。冷やかす人間は居るのだけれど、殆どの人間はその店よりも明らかに高い値段で肉を買っている。鮮度が良くないのだろうか? 乱雑に筵の上、ボコボコと並ぶその肉の色は鮮やかで、不味そうな質の悪い肉のようには見えなかった。念のために匂いを嗅いでみるが、鼻につくような腐臭が漂って来る事は無かった。
闇市に立つ他の肉屋はあからさまに「豚の肉を売っています!」とばかりに軒先に豚の足やら頭やらを吊るしている。多感な幼児期を日本で過ごした俺としてはどうしてもこうしたアピールの仕方は馴染めなかった。北朝鮮ではまず見かける事は無いが、出来れば肉は薄切り、最悪はブロックの形で購入したい。今日偶々発見した店はそうした俺の欲求に珍しく合致した店だったのだ。
「どうしようか……」
と一人悩みつつ、店の邪魔になっても迷惑なので、静かに店を離れ遠目にその肉を観察してみると、その肉は豚の肉にしては小振りで、心持ち色も赤身が強いような気がした。
「余り肉が取れない生物なのだろうか? それとも子豚の肉なのかもしれない……」
肉の素性がどうしても気になり、俺は購入をなかなか決断する事が出来なかった。
「最後に寄ってみるか……」
後ろ髪を引かれながらも、俺は活気溢れる闇市の喧騒の中を歩き始めた。
その後、闇市を全て回り終え、幾つかの余計な買い物を済ませた後、「肉が残っていたら……買ってみるか」と思い、最終的に遠回りをして俺はその店に立ち寄ってみる事にした
「お、さっききた日本人だね。売れ残っているんだ。安くするからさ。どうだい」
見た目、帰国者と北朝鮮人は明らかに違う。服装もどちらかと言うと清潔で垢抜けているのは帰国者の方だ。季節は秋を入ったばかりだが、気温は大分冷え込んできており今日の俺は薄地の灰色のセーターをワイシャツの上に軽く着込み道を歩いていた。見た目は使い古しているので、質が悪いように見えるかもしれないが、足元の靴からポケットの中のハンカチまで、全ては日本製で揃えていた。
北朝鮮においては自国の製品よりも、質の良い日本製が好まれる傾向がある。深く被った帽子であまり良く見えないかもしれないが、頭の毛は月に一度はバリカンで短く揃え、髭も毎朝剃るようにしていた。
又俺の身長は百七十五センチあるが、北朝鮮男性の平均身長は百六十センチだそうだから、頭一つ位俺は身体が大きい事になるのだから、服装以前にこうした体格差から見分けがついたのかもしれない。
個人的にはこうした体格・身長差は、遺伝云々の問題よりも、幼児期の栄養状態が影響しているのではないかと思う。日本人が平均身長を十センチ伸ばすのに十年かかったというが、北朝鮮人の平均身長は年々減少の一途を辿っていた。どう考えても悪政のせいだと思うのだが、世界的にそれらを指摘する人間は少ない。
その他顔色についても、北朝鮮では肝炎を患っている人が多いので、どちらかと言うと黄色い顔の人間が多い中、俺はそうした感染病については徹底して対策をしているため、常に健康的な黄色人種的な黄色い肌色を守っていた。もっとも温かい国で育った為、どうしても冬場になると唇が荒れてしまい、裂傷に悩んでしまう事があるのだが……これはもうどうしようも無い事であった。
帰国者の中では、定期的に日本から援助を受けている人間は俺のように恒常的に健康を保っているが、逆に受けられない人間は逆に北朝鮮人よりも酷い格好をしている事があった。
「生まれてから一度も下着を付けた事が無い」
と言った帰国者にも会った事があるが、あれはあれで悲惨な状況だった。食料不足から顔は浮腫み、唇は上下合さらないほど離れてしまっている。物を食べないと口が後退するのだろうか? 氷点下の道であっても靴下無しで歩き、飢えを凌ぐ為に、時には豚の糞に消化しきれずに排出されたトウモロコシの芯さえも食べる。人間ここまで落ちられるのか……と思ったことは一度や二度では無い。
朝鮮戦争が終って数年しか経っていないのに本当に地上の楽園が存在していると思ったのだろうか? もし本気でそう思ったのならば、本当に気楽な、状況判断が出来ない人間と言われても仕方が無いのではないのでは無いだろうか。
「豚だよ豚。ネズミじゃねえって」
「ネズミは某人物が食べるから市場には出回らないだろ」
「かもしれねえ」
「って、食べるのはネズミのナニだけだって話だけどな。アハハハハ。あんなちっこいの百ケ食べたって腹の足しになるのかね」
人差し指を嫌らしそうに四十五度に曲げ、ゲラゲラ嫌らしく笑う。何度か陸軍の人間を総動員し野生のネズミを荒野で狩る演習風景を見た事があった。「誰が何の為に」。兵士も町の人間も誰も確かな情報を口にする事は無いけれど、そうした事がこの国で実行が可能な人間は唯一人しか居ない。平均身長も、平均寿命だって縮められるのは……ちょっと考えさえすれば誰だって分る事だろう。
「でも野ネズミのナニを食べるとあそこがビンビンになるらしいから……」
「冷やかしなら帰ってくれ。で、どうするのだい? 買うのか買わないのか」
「じゃ、折角だから半斤だけ包んでくれ」
話が長引くにつれ、肉屋の店主は迷惑そうな顔をした。闇市とは言え政府の密告者が居ないとは限らない。余計な事を口走った結果として強制収容所に送られたならば、とたんに家族・親族が路頭に迷うのである。
「じゃ、これ。お、米ドルか悪いな」
ちょうど手持ちにウオンが無かったので、真新しいドル札で金を支払ってしまった。偽札ではない。本物の米ドル札である。ついうっかり、間違えた。
と慌てて取り返そうと思ったが、店主の笑顔を見てやめる事にした。肉の一つ一つの塊は小さかったが、突き刺す指を押し返す強い弾力がある。脂肪では無く筋肉の部位なのだろうか?
しかし、直感本能的に
「絶対豚では無いな」
と思った。
闇市場で見つけた不思議な肉。家に持ち帰り、どうしても味が気になったので、嫁さんに小さめの固まりの一つを夕食前に焼いて貰った。とたん異臭が家中を漂い始めた。何とも臭い。我慢できなくなった嫁さんは人目を気にしつつも窓を開け、バタバタと匂いを家の外へと追い出した。
「あなた。これは何の肉なの?」
「え。豚だって聞いたけど」
「豚??? これが???」
匂い対策をし、大騒ぎしている間にコゲコゲになってしまった肉。とりあえず折角焼いて貰ったのだから口に運んではみたが、口当たりから何ともボソボソしていて、味や風味は良く分らなかった。欲目ちょうど良く焼けたとして評価をしても、決して旨い肉だとは思えなかった。
嫁さんは「煮込んだらいいと思うわよ。香草を入れて匂いを消せば食べられない事は無いと……」とまだ残る肉の塊を見詰めながら料理の仕方を思案していた。都会に住むカラスは不味くて食べられないが、山に住むカラスは鳥の肉だと思えぬほど良い香りがし、非常に美味だと言う。そういえばそんな話を狩猟が趣味だった亡父から聞いた事があった。
「都会のカラスは不味い。戦時中腹が減って、ワシは一度食べた事あるから、間違い無い」
亡父のガラガラ声を思い出しながら考える。何故都会のカラスは不味いのだろうか、それは都会において人間の食べ残しなど雑食性であるからだと言う。一体この肉は何の肉なのだ? どう考えても穀物だけを食べている豚の肉では無さそうだった。
「焼いて食う肉じゃ無いんだろ。食っている餌が悪いのかもしれないし」
「食べている物が違うと味が変わるの?」
「そらそうさ。中国にはフルーツ・コウモリと言う動物が居るが、こいつはフルーツしか食べないからスープにすると最高だって言う話を闇市の業者から聞いた事がある」
「そうなの……私最近味覚がおかしくて、あなたも変だと思うのなら間違い無いわね」
帰国者と結婚したと言う事で嫁さんは北朝鮮社会で肩身の狭い思いをしている。三代前にさかのぼって状態をチェックされるまでもなく、我が家は「敵対階層」だった。北朝鮮国家体制について非難した事も、文句を言った事も無いけれど、なんとも理不尽な話である。
「お前は資本主義に毒された帰胞野郎だ!」
小さい頃は良くそんな罵声を浴び辛い思いをしたが、何年も続くようになると何とも感じなくなっていた。俺は慣れたけれど、嫁さんはそうでは、ないのかもしれない。
日常外の風当たりが強いのだからこそ、家の中ではノンビリと安らかに過ごして欲しいと思った。嫁さんの生まれは決して悪くないのだが、中央から失脚し、縁あって俺と再婚した。顔は卵形の色白のすっきりとした顔つきで、どちらかと言うと垢抜けた、典型的な北朝鮮の美人顔だ。
嫁さんはどんなに忙しい朝でも、必ず眉墨を必ず引き、髪を編み上げる事を忘れない。美人だから性格が悪いかと言うとそうでもなく、家事一般から近所づきあいまで、そつ無くこなす八方美人型である。「欲しい物があったら日本から取り寄せるぞ」と言う俺の言葉にも、嫁さんはめったに自分の私物を頼む事は無かった。
中国人の最高の贅沢は中国人の料理人を持ち、洋風の家に住み、日本人の嫁さんを持つ事だと言うが、絶対最後の嫁さんの部分は北朝鮮の女性を貰った方が男は幸せになれると思う。優しく強く、そして美しい。こうした特長は前妻もそうだった。
あまりジロジロ見ていると恥かしがってどこかに行ってしまうので心で思っても、実際口に出して誉めたりするのは出来るだけ、控えるようにしているが、子供が居ないと結婚してもう何年も経つと言うのに、ツイツイ手を握ってしまいたい衝動にかられてしまう。
今考えてみると、何故再婚である俺と結婚する気になったのか、良く分らない。無論何度か聞いてみた事はあるのだが、何時も笑顔で言葉を濁し、真面目に答えてくれた事は無かった。
年齢は俺よりも二つ下のまだ二十台ではあるが、幼い頃から踊りを専攻し、身体を酷使した為実年齢よりも十歳は年を取って見える上に、腰はもう曲がりかけてきている。本人が言うには伸ばすより曲げていた方が体勢として楽なのだと言う。
「疲れているなら無理するなよ」
「ありがとう。でも、子供達がそろそろ帰ってくる時間なのよ頑張らないと」
嫁さんとちょっと話している間に、子供達は元気良く玄関の扉を開け入ってきた。顔も手も泥だらけ。鍋の上で弾ける大豆のように、ハアハア勢い良く息を切らし、二人揃ってリビングへとやって来た。
「とおちゃんただいま!」
「おう。お前達帰ったのか」
「今日はちびっこ計画だったのだ。僕たちがんばってきたから」
北朝鮮では子供でも社会奉仕として、定期的に古紙や空き瓶集めをする事が義務づけられていた。我が家はどうせ社会の最階層。無理はするなと子供たちには常に教えていた。しかし双子のこの兄弟は俺の実子では無い。子が無い事を嘆いた前妻が弟の子を乳飲み子の頃に引き取ったのだ。
北朝鮮では出産する女性は多いが、栄養状態が悪いせいか死産する事も、母体が死んでしまう事も決して珍しくは無い。義弟の場合は授かった子供が双子であった上に初産だった。後で話を聞くと、栄養も妊娠しているからと言って多い目に取っていた訳では無かったと言う。しかし四人以上産むと住宅が配給され、八人以上産むと「努力英雄」という称号が与えられるこの国では、多少の危険を顧みず、女性はどんどん出産に挑んで行く。
又運良く三つ子を出産した場合、女の子には銀製の懐刀、男の子には金の指輪が進呈される。無論帝王切開では無く、自然分娩で簡単に三つ子を無事出産する事は相当困難な事であり、成功例は公開されてい
る情報を見る限り、ここ五年間で百をようやく越えた程度であった。
妊娠中でも通常人と同じように農作業に従事し、陣痛が起きるその時まで働く。結果無事出産は出来たのだけれど、産後の経過が悪く産婦は亡くなってしまったのだ。義弟の下に残されたのは生まれたばかりの赤ん坊が二人と三歳の息子、五歳の娘が一人。親族会議が持たれた結果として手間のかかる赤ん坊二人は親の本音と建前の海を泳ぎ、ある程度の資産を持ち「後継ぎ」を求む前妻の下へとやって来た。これは決して俺にとって不愉快な事では無く、北朝鮮と言う地で家族の無い俺にとっては本当に有難い申し出であった。
「義兄さんが名前を付けてやってください」
実の親に名前を付けられる事無くやってきた双子の兄弟。色々考えた結果「日進」と「月進」と言う名前を付けた。幸薄く生を受けた二人の兄弟を昼の太陽と夜の月が交代で守ってくれないだろうか、と思ったのだ。
日本でもそうだが、北朝鮮でもやはり「男の子」と言えば後継ぎ扱いとなる。血は繋がってはい無いが、わけ隔て無く愛情込めて育てたつもりではあった。しかし五歳、六歳と年を取るにつれ「実の父では無い」と言う事を殊更気にするようになったような気がする。
誰から真実を聞いたのか知らないが、いつしか自然に実父である義弟の元へ遊びに行くようになっていた。俺はそれを咎めるような事は一切しなかった。寂しい事だが選ぶのは二人であるし、前妻が亡くなった今となっては止める権利さえ「有る」ような、「無い」ような状態であったからだ。
「じゃ、僕たちは出かけてくるから。何か持って行っていいものない?」
「肉買ってきたから、それを持って行ってやれ」
どうせ実父の元に行くつもりだろう。だったら菓子何かより酒の足しになる物の方がいい。他人だとは決して思わず、二人を大事に育てたつもりだったが、やはり実父と養父では違う部分があるのだろうか?
思い悩む俺をそっちのけに、嫁さんからバタバタと肉を包んで貰い、二人は俺の顔を見る事無く足早に立ち去って行った。二人がこの家から居なくなる事があるのだろうか……と一人悩んだ事もあったが、現実問題として手間と金のかかる二人が弟の家に戻ると言い張っても不可能であろうと言う結論に達した。
「とおちゃん。今僕たち虫取りにはまってるんだ」
「そうかそうか。精々楽しんで来いよ」
「うん。良いのが取れたらとおちゃんに見せてあげるから、楽しみにしてね」
俺は韓国風に「アボジ」と呼ばれるよりも日本的に「とおちゃん」と呼ばれるほうが好きだった。子供達もそれを知っており、俺の呼称はいつしか他人には通じない「とおちゃん」に固定されるようになっていた。
「焼いて食ったら不味いからな。煮て食うように伝えてくれ」
「わかったー」
翌日、肉の文句を言ってやろうと闇市に出かけた。しかしその店はその場所から何故か消え去っており、そこには質の悪い繊維質ばかりのトウモロコシ粉を売る店が二軒並んでいた。一応知らないかと聞いてみたが「来月までお休みだって」としか教えてはくれなかった。
「別の闇市を回っているみたいですよ。私が知っているのはそれだけです」
闇市場とは言え色々と細かい取り決めがあり、場所取りに関しては一ヶ月単位で取り決めがあるようだ。居ないのなら苦情を言いようも無い。来月また出直す事としようか。俺は仕方なく何も買わず闇市場を後にした。
雪がチラチラと空から舞って来た。今年も餓死者は出るのだろうか。他人の事など知った所では無いが、北朝鮮の老人は死期が近くなると、家族に黙って家を出、路上で死ぬ事が多くなっていた。
葬式で多大な金をかけるよりも、家族の食料にそうした金を回して欲しいと思うからであろうか。気温が冷たくなるに連れて、町中には通常みかけないような老人達の姿がポツポツ目につくようになって来る。流石に故郷の町ではすぐ連れ戻されてしまい、死ににくいかもしれないと思ったのだろうか。
着古した、父の遺品であるトレンチコートの襟を立て、足早に家路を急いだ。そろそろ雪が降るだろうと荷物になっても持ってきて、正解だった。毎年雪の降り始めを見る度に、その下に今年もおそらく誰知る事無く埋もれ行く、痩せた遺体の数々を想像しない訳にはいかなかった。