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2005-05-11 10:09:04

地上の地獄 十.自由

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

十.自由 

 帰国後は即外務省に連絡を取り、親父の国籍から俺の国籍を分割し家族の名前を記載してもらった。子供たちはというと叔父が用意してくれたマンションで、快適な生活を楽しむようになった。疲れ果て腰が曲がっていた嫁さんも適切な治療を受け、最初出会った時のような咲き誇る花のような美しさを取り戻していた。

 嫁さんの両親は強制収容所に送られたそうだが、その後叔父の献金により一年で元の家に戻されたと言う。義弟は何とか上手くごまかす事が出来たのか、強制収容所に送られる事も無く、脱北エージェントを経由し譲られた俺の家の家財道具を持ち帰り、快適な生活を送っているという。時折ブルーベリー畑の様子や肥料を無心する手紙が送られて来るが、脱北した俺を責めるような内容を書いて来た事は一度も無かった。逆に気になり俺が「何故?」と問い正す事も考えたが、寝た子を起こすのも迷惑かと思い、弟の望むまま、物資を送り続ける事を約束した。

 帰国を果たし、自由な生活を満喫する事は勿論だが、海外の某所に保管された金塊を現金化し、叔父を助ける事。子供たちを立派に成長させる事。やらなくてはならない事は机の上、これでもかと満載されていた。

「帰国おめでとうございます。これで我ら家族も安心です」
「色々とありがとう。何とか無事脱北できたよ」

 母国に戻って今感じることは、今北朝鮮で苦しんでいる同胞についてである。今の俺に何が出来るだろうか。何か手伝える事は無いだろうか? それは暫定の処置として米を送るといった事ではなく、永久対策として。あの荒れた土地を緑豊かな大地に変えるような事は出来ないだろうか。北朝鮮では持てなかった夢を頭に描きつつ、俺は今力強く歩き出そうとしていた。



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2005-05-11 10:05:25

地上の地獄 九.実行

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

九.実行

 北朝鮮最大の敵国である韓国では北朝鮮からの亡命者に対し、「鶏の丸焼き」「水拷問」「電気拷問」を行うと本気で信じられていた。アメリカ軍に対し媚を売り、飴を売る生活をするならば、北朝鮮で苦しんでいた方が良いと本気で考えているのだ。
果たして俺は嫁さんを説得出来るだろうか? 俺は言葉少なげに嫁さんに明日脱北する胸を伝えた。

「何故ですの。どうして……どうして保衛部員に睨まれるような事に……」

 流石にアシカのペニスを獲る事を手伝ったから、とは言い辛かった。

「子供たちを自由の国で育てたくないか? 頼む承服してくれ」

 俺にとって幸いだったのは、嫁さんが一時期だけにしろ、中央に居た事だろうか。中央の人間がめちゃくちゃな政治をしている事を肌で感じ、北朝鮮人民が受けている「洗脳」が解けかかっていたのだ。韓国が北朝鮮より貧困である事は嘘である。と言う事は理解していたのだが、突如明日「脱北する」と言われる事など想像もしなかった話であろう。ぐずる赤ん坊をあやしながら、必死に言葉を探しているようだった。

「私の両親はどうなるのです? もし私が脱北したら」
「強制収容所に送られる可能性が高いだろう。しかし今は昔と違い数年経てば出られるようになっているようだ」

 とは言え年配の老夫婦が入った場合、例え数年であっても致命傷にならない保証は無かった。小学校から子供たちが戻って来る迄の一時間程の時間、俺と嫁さんは小さな声で疑問をぶつけ合った。

 子供たちの将来の事、日本の国籍の事、北朝鮮での生活の不安。など。嫁さんも半分は分っていたに違いない。脱北すると俺が言った以上、一緒について行かない限り明るい未来は無い、と。自分の旦那が脱北し、もし取り残されたとしたらやはりそれも強制収容所送りとなってしまうし、そうなった場合子供とは一緒に生活する事が出来なくなってしまう。自分の運の悪さを嫁さんは呪っていたが、それが杞憂になるよう俺は約束するしかなかった。

「一生かけてお前達を守るから。どうか許してくれ」

 俺の全身込めての問いかけに嫁さんからの返事は無かった。

 玄関から扉の開く音と共に歓声が聞え、子供たちが帰ってきた事が分ったからだ。翌朝まで嫁さんが赤ん坊と共にこの家に居るかどうかは不明だった。もし保衛部員に密告され掴ったとしても、嫁さんの密告だったら仕方が無い事だと諦めようと思っていた。自分の手で旦那を密告したのであれば、この国の人間も嫁さんを粗略に扱う事はしないだろう。かわいそうなのは父親を奪われた子供達だが、それは「ばかな親父を持った」と運の悪さを嘆くしか方法は無いだろう。

 その日の夕食は食べなかった。自室に篭り闇市で揃えた物資を一人確認する。長時間の航海に耐えられるよう食料としてはチョコレート、乾パン、キムチ、米を用意した。必要となるか分らなかったが赤ん坊用の菓子も幾つか購入し、すぐ出しやすいようバッグの上のほうにしまっておいた。後は飲料水を仕舞っておくポリタンクに着替え数枚。日本から北朝鮮にやって来た時持ってきた戸籍のコピーや期限の切れたパスポートは父の遺品であるトレンチコートの内側に縫い付けてしまった。この国では全く役に立たなかったけれど、日本に到着した瞬間これらの紙は抜群の威力を発揮する。俺は難民では無いのだ。考えてみれば、れっきとした「日本国民」が「帰国」をするだけの事なのだから、何を一体憚る必要があるのだろうか。

 旅立ちの朝は晴れていた。さて、と嫁さんの部屋を覗くと荷物を整理し子供たちにリュックを背負わせる、嫁さんの姿があった。

「お前!」
「もう何も言いません。あなたとこの国を出る事も一つの運命だったのでしょう。例え失敗したとしても私は決して後悔いたしません。共に行きましょう」

 流れる涙を必死で拭い、家族五人で抱き合う。子供達はどこに出かけるのか全く分っていないようだ。食料を探しに海の町へ向うと嫁さんは教えたらしい。人の目線を恐れず、軽く会釈をしながら道を歩く。

「散歩がてら嫁さんの検診に海の町まで行って来ます」
「おう。三ヶ月検診か。もうそんなになるかねえ」

 嘘は言っていない。が、大きな嘘を隠す為に小さな本当をいっている。家族全員が突然移動した事をもし保安部員が知ったならば、追跡の手がかけられても不思議は無いだろう。俺たちは足早に、人目が少ない道を選んで歩き続けた。

 途中一目が少なくなる時点から、脱北エージェントは車を用意してくれていた。突然黒いベンツから日本語で声をかけられた時は驚いた。何しろ一般庶民には全く縁の無い、党ご用達のベンツである。何故たかが脱北エージェントがベンツを? と思ったが、これ以外の車を用意した場合、むしろ手続きが煩雑になり面倒な事が発生する可能性があるからだと言う。生まれて初めて乗るベンツの総牛皮の肌触り。子供達は偶然を装い路肩に止まった車の内装を見て興奮していた。

「とおちゃん凄い! ツルツルしている! この前乗った車より上等だよ!」
「汚れた靴で入るな。せめて泥を払ってからにしろ! そしてもっと落ち着かんか!」

 俺は助手席に座り、脱北エージェントと日本語で話をした。嫁さんは表情を変えず、必死に赤ん坊を抱きしめている。途中火あぶりの後悔処刑があった汁飯屋を通り、海辺を目指す。社会主義国家の道は土地が全て国の物であるから、真っ直ぐとしていて遮蔽する物が殆ど無い。更に党幹部が乗るベンツである場合は尚更である。

 途中一度だけ休憩し、闇が辺りを支配してから海の町へと入った。荷物を持ち脱北エージェントに連れられ、何とも古ぼけた一台の漁船の前にたどり着く。そこには二人の漁師と思しき人間と、もう二家族俺達同様脱北を目指す親子の姿があった。北朝鮮において漁船は重要な資源である。よもや俺達人家族に一台用意するような事はできなかったようだ。

「私が出来るのはここまでです。後は幸運を祈ります」
「え、一緒に乗船してはくれないんですか?」
「そうです。私の仕事はここまでです。後は日本でお会いする事を楽しみにしています」
「あ、ちょっと。ちょっと待ってくれ」
「これは脱北への一つのセレモニーだと思って下さい。恐れず力強く闘うのです。そうすればこの忌まわしき国を脱出する事が出来ます」

 おそらく脱北エージェントは正規のビザを持ち、堂々と出国する権利を持っているのだろう。で、あればワザワザ漁船の地下に潜り込み出国する必要など毛頭無いのだ。

 俺の静止を振り切り、男はベンツの運転席に飛び乗り夜の中に消えて行った。さてこれからどうしたら良いのだろう……と思うと漁師が全員揃った事を確認し、船腹の入り口を開けた。どうやらここに入れと言う事らしい。子供達の手を力強く掴み意を決し、中に入る。中には裸電球一つ点いて居ない。家族で身体を寄せ合い、とりあえず場所を確保する。

「出航は夜中の十二時だ。それまでは会話をして貰って構わない。しかしその後は絶対に声を出さないようにしてくれ。でないと……ここに居る全員、強制収容所送りになってしまうから」

 子供達はこの時点でようやく事の重大さに気がついたらしい。見えないが体を小刻みにバタバタ動かしている所から、動揺している所が察知できる。船腹の入り口がバタンと閉められ、出航の準備が始まったようだ。

「とおちゃん! まさか脱北するのか?」
「そうだ。すまない。とおちゃんの生まれた国に帰る事になったんだ」
「すげー格好いい! さすがはとおちゃんだ!」
「俺たちって今まで二回車に乗った事あるけど、日本に行ったらもっとたくさんの車に乗る事が出来るかもしれないぞ! それは何て凄い事なんだ」

 予想外の回答に俺は戸惑ってしまった。しかし空喜びに水を刺すつもりは無かった。この時期の子供にはまだ強制収容所の怖さや、船旅の恐ろしさが理解出来ないのだろう。暗闇に目が慣れてきてから荷物を降ろし、場所を確保する。三家族はどれも詮索し合う事は無かった。ただ一番小さな子供を連れているのが我が家であり、一番足を引っ張りそうなのは我が家である事は一目瞭然の事実であった。

 脱北のチャンスは一度だけ。決して失敗は許されない。とりあえず足を伸ばして横になれる状態を確保し、出航の時間を待った。

「今から出航する。この船はエンジンが付いているから数日で日本に到着するとは思うが、それ以上長くなる事も考えておいてくれ。食料水などはこちらで大量に用意したので、問題は無いと思うが……くれぐれも国境警備隊がやって来た時は声を出さぬよう、気をつけてくれ。それ以外は全く自由だ。好きにして貰って構わない」

 その言葉の後に、船腹入り口にはどさどさとタラバガニが入った籠が詰まれてきた。もうこれでは中の人間が外に出る事は出来ない。万が一船内を検査されても発見されないよう配慮したのだろうか。まだ生きているタラバガニはギチギチと煩いが、赤ん坊が泣き出してしまい、それをあやすのに必至となり文句を言ってばかりも居られなかった。

「ほら、星妃、おかしですよ。食べなさい。泣いては駄目よ。我慢しなさい……いらないの。じゃあオッパイをあげましょう……」

 国境警備隊が管轄しているのは一箇所では無い。一つ、二つ。船が停止し、人が話している声が聞える。時には船腹を開けタラバガニを数匹取り出し渡している姿が見えた。こう何度も監査をしているのを見詰めていると、賄賂を多く求める為に検査をきつくしているように思えてならなかった。脱北を取り締まるのではなく、それを理由に私欲を貪る。この国はもう腐り切っている。ゲラゲラと聞える笑い声を横耳に何度も聞きながら、俺はそう思わざるを得なかった。

「あともう少し。あともう少しで国境を越える」

 海の上の事で本当に北朝鮮の領海を越えているのか実際は分からないのだが。監査の回数はもう三回目になっていた。おそらくはこれが最後だったのだろう。その時突如として寝ていた赤ちゃんが泣き始めた。暴れる身体を押さえ必死に口を押さえる。しかし一瞬声が漏れてしまったようだ。頭上部分、人の動きが激しくなる。まずい。まずい。しかし星妃はバタバタと暴れ泣き止もうとはしない。暗闇の中二家族の目がこちらに向いていた。目は何かを語っていた。三家族全員の命を守る為にその赤ん坊の口を黙らせろ。自分の手で出来ないのであれば、我々の手でその細い首を捻って……

 全身から湧き上がる人間の根源からの殺意に恐怖を感じた。嫁さんも涙を流しながら必死に赤ちゃんの口を押さえる。ここで殺されてはならない。この赤ん坊の為に家族の為に国境を越える決心をしたのだから。暗闇の中の目がどんどん俺の側に近づいて来た。

「共倒れはごめんだ。さあその子をこちらに寄越せ! 殺すんだ!」

死と直面した人間の生に対する貪欲さ。その為には他人の子など芥子粒以下の存在でしかないのだ。星妃を庇うかどうか、俺は躊躇してしまった。ここで星妃を庇い脱北が失敗したならば、一人の命で全員の命が無くなってしまうのだ。

 例え星妃が亡くなっても俺には前妻の血を引く二人の子供が居る。そして嫁さんが……動きが止まった俺に郷を煮やしたのか、二人の子供が嫁さんを庇うように攻め寄る大人達の前に立ちはだかった。「これ以上近寄る事は僕らが絶対に許さない。例え全滅したってかまうものか! 赤ん坊が殺されてしまうのなら、僕らは絶対にお前達を許さない!」子供の気迫に大人が押される。これ以上近寄ったら大声を上げる。日進と月進は涙を流しながら両手を広げ大きく口をパクパクさせ赤ちゃんの前に立ちはだかった。

「やめて下さい。お願いです。何とか黙らせますから」

 嫁さんが小声で話し、必死に赤ん坊を大人の目から隠す。船腹で修羅場が展開されている中、船上では国境警備隊と漁師の間でこんな会話が交わされていた。

「今船腹から声がしなかったか?」
「いいや? 中にはタラバガニが入っているだけだよ。オットセイとかアシカ、海獣の声がしたんじゃないか?」
「そうか? 人の声のように聞えたが……」
「中を見てみるかい? 探すだけ無駄だと思うがね」

 船腹の入り口が開き、ランタンの光が入ってきたがそれ以上光が内部に近づいて来る事は無かった。又してもタラバガニ数匹が取り出され、扉が閉められる。何とかやり過ごしたのか? 暗闇の中にも緊張感が走った。

「海猫の声でも聞えたんじゃないか? これで一杯やってくれよ」
「一応貰っとく。本部の方に洋酒も数本送っておいてくれ。あと俺らには日本製のビールを追加で一箱」
「手配しておきます」

 時が動き出し、離れて行くけたたましいエンジン音が聞えて来た。ほおっ。と三家族のため息が漏れる。何とか。何とかやり過ごしたのだ。
腐りきっていてありがとう。賄賂を受け取ってくれてありがとう。見逃してくれて……訳の分らない事を何度も頭の中で繰り返す俺の隣で嫁さんは全身を震わせながら泣きそびり、赤ん坊を抱きしめて居た。

「星妃……星妃……私の……良かった……」

 その後の航海は順調だった。

 公海に出てからは会話も解禁され、退屈な時間を快適に過ごす為に、親はそれぞれの生い立ちなどを順繰りに話した。子供同士は狭い空間を上手に使い遊びに興ずるようになった。ほんの数時間前、お互い命のやりとりをしていたなど想像も出来ない。日本に到着し、北朝鮮よりも多く輝く日本の街の夜景を見た時、俺はついこう叫んでしまった。

「帰って来たぞ俺は! 金正日のばかやろう!」

 力一杯言いたかった一言。
 ついに俺は生まれ出でた母国に帰ってきたのである。

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2005-05-11 10:03:42

地上の地獄 八.脱北

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

八.脱北

 北朝鮮の人間にとって一番の敵は、韓国であり、二番目の敵はアメリカ、その次が、食事時に入って来る客であると言われる。自分達が食べて行くだけでも大変なのに、それ以上の人間には構って居られないと言うのが本音の部分だろうか。ちょっと時間が出来る度に世話になった義弟に生まれたばかりの星妃を見せに行きたいと思うのだが、中々時間が取れず汲々と日々を悶々と過ごしていた。相変わらずの息抜きは実益を兼ねた闇市回りである。脱北すると一言に言っても方法は色々とある。一番確実に日本にたどり着ける方法はどうしたら良いのだろうか。答えは簡単に見つからず、ため息をつく日ばかりが続いた。

 なけなしの重油をはたいて、北朝鮮の船は日本から色々な荷物を運んで来る。車、電気洗濯機、自転車。こうした物資は修理・再加工され外貨獲得の為に中国に輸出され、人民の手に渡る事はまず無い。

 しかし北朝鮮の国では「横領」する事が日常的に行われる。港に船が到着し修理工場が活気を帯びるようになると闇市場には「自転車」若しくは「電気洗濯機」が並ぶようになる。自転車、車は乗っていると人目につくので人気は余り無いが、家の中にしまい込み使う事の出来る電気洗濯機は帰国者の間では垂涎の品であった。我が家にも数年前闇市で購入した電気洗濯機があるが、停電が多い為朝早い時間に一度使うだけであまり重宝はしていない。何か掘り出し物はあるだろうか……

「良い物あるよ。見ていかないか?」
「ん?」

 ずっと下げていた頭をあげると、そこには日焼けした肉付きの良い男の姿があった。行商人だろうか? この辺りでは余り見かけない顔である。売り物は中国製の扇子や玩具など。食料品などに対し、こうした娯楽品は北朝鮮ではあまり人気が無い。しかし赤ちゃんが居るのだ一つ二つ買っていこうか……と腰を屈めると男は何と小声日本語で語りだした。

「驚かないで下さい。アツシさんですね」
「は?」
「あなたは常時監視されています。いいですか、商品を見ている振りをして下さい。私はあなたの親戚から依頼された脱北斡旋エージェントです」
 持っていた赤いボールを落としそうになってしまった。慌ててボールを拾い、並んでいた元の位置に戻した。
「疑われるのも当然の事だと思います。いいですか、真中の赤いウサギのマークの付いたボールを買って家に戻り中の手紙を読んで下さい。次の連絡は又次の闇市の時にします。いいですか動揺しないで、くれぐれも自然に」
「分った」

 震える手を押さえ、ポケットの十ドル札を男の手に渡した。大丈夫だ。今の時点でもし保衛部員に見つかっても、罠であったとしても言い訳は幾らでも立つ。しかしすぐに家に戻れば疑われるかもしれない。と思い更にいくつかの店を冷やかし家路についた。
家に戻って直ぐ嫁さんの顔も子供の顔も見ず自室へと向う。ガチャガチャ机の中からカッターを取り出し、丁寧に暑いボールのゴムに穴を開けて行く。

 中に入っていた手紙は二通。一つは恐らくは俺しか知らない俺の家紋の入った小さな紙で、もう一つは薄いパラフィン紙に拡大しなければ見えない程小さな文字が書かれていた。引出しから新聞を読む為に時折使用している虫眼鏡を取り出し内容を確認する。文字は日本語で、読みやすいように丁寧にワープロで書かれていた。

「はじめまして。私は北朝鮮を脱出し、その後韓国で脱北エージェントとして活動している金と言います。日本の親戚の依頼を受けこの手紙を書いています。私と連絡が取れた事の確認に、次に日本に手紙を書く際に赤ちゃんの為に赤いウサギのボールを買ったと連絡して貰えませんか? すぐ確認の手紙が届くはずです。くれぐれも保衛部員にこの事を連絡しないように、もし脱北の必要が無ければ赤いウサギのボールは捨てたと日本に連絡して下さい。紙を読み終わった後は即焼却して下さい。あなたといい仕事が出来る事を期待しています」

 二度内容を確認し、マッチを擦って紙を焼却した。穴が開いたボールを捨てるのも変かと思い、明かり取り用の蝋燭を使い時間をかけて全て燃やしてしまう事にした。とたん部屋中に酷い化学臭がしたので、窓を開けて換気をする。アイデアは良いと思うのだが、次はボールはやめてもらったほうがいいなと思った。

 空気の入れ替えが終った所で日本に手紙を書く。内容は本当にどうでも良い事ばかりを列記し、その合間に「赤ちゃんの為に赤いウサギのボールを買ったのだが、うっかり蝋燭をこぼしてしまい穴を開けてしまい困ってしまった。気に入っていたので又購入したいと思うが、次は出来れば子供に安心して与えられる天然素材の物が良い」と書いた。日本に届くには二週間程度かかるのだろうか。

 脱北エージェントについては何度か噂を聞いた事があったが……まさかそうした人間が直接コンタクトを取ってくるなどとは想像もつかなかった。数年前までは脱北し韓国で生活をする場合には政府が準備金を用意してくれる他に北朝鮮の窮状を訴えた本でも書けばそれなりに生活して行けたのだが、最近はあまりにもそうした「暴露本」が多くなってしまい、一般人が知りえるような内容では「大もうけ」は勿論の事、出版社でも取り合ってはくれなくなってきてしまって居ると言う。

 北朝鮮の洗脳され育った人間が、急に自由主義国家で生活する事は並大抵楽な事では無い。では、どうしたら良いだろうか……と北朝鮮名物の冷麺レストランを開き大儲けした人間も居るが、一部の人間は脱北した時のノウハウを活かし、再び北朝鮮へと舞い戻って来ているのだと言う。無論その時は中国パスポートやソ連パスポートなど友好国の帰国可能なビザを取得し、銃殺される事の無い中国経由の飛行機を使用してである。

 脱北までしなくても、日本の人間が北朝鮮に送金をした場合、中間搾取が多く、手元に殆ど届かない事は一般的に知られている。そうした日本人の為に荷物を運搬したり、商品を斡旋したり。手伝いをする脱北人も勝手知ったる母国である。かくして一つの商売として成立し、日本国籍を持つ人間を脱北させる場合は日本政府に脱北の「手数料」を取る事もあると言う。

 存在は噂の段階を越え徐々に知られつつあるも、連絡方法などは一切不明。もし北朝鮮で彼らが掴った場合は即刻処刑される事は間違い無いだろう。

 手紙を送った一ヵ月後、待ちに待った返事が届いた。赤ちゃんの成長を喜ぶ話の次に「あなたのお父さんは男なのに何故かウサギのマークのついたタオルが好きでした。赤ちゃんは女の子なので今回の失敗に懲りず、又ウサギのボールを買って上げて下さい。きっと喜ぶと思いますよ」と書かれていた。

 前回は特に記載をしなかったのにも関わらず、今回の手紙の最後には俺の家紋が押されていた。日本の叔父が何らかの手段を用い、脱北エージェントに連絡を取ったのだ。それだけ日本の家に危機が訪れているのだろうか? 本物だと分った以上、次の連絡を素直に待つしか無かった。

 仕事が終った後、はやる気持ちを押さえつつ闇市を訪れたが、中々赤いボールを見つける事は出来なかった。昨日も駄目、今日も駄目。明日はどうだろうか……頭の中が「ぼーっ」としてきたある日、ついに闇市の軒先で目の前に先だって見たあの古ぼけた中国製の扇子の店を見つけた。いくつかのゴムボールが売られ、中には赤いウサギのマークが付いた物もある。

「これ幾らだい?」
「お、このボールかい。こいつは中国の高級ゴム製ボールだから高いよ。そんなにお金があるのかい?」

 売主は全く売る気が無い。が、俺の顔を見て表情が少し動いた。売主は前回の男とは違う。人違いだろうか? とは思ったが、言われた通り金を払った。家へと舞い戻りゴムボールの中を開ける。するとそこには前回同様二枚の紙が入っていた。一枚には赤いリンゴのマーク、そしてもう一枚には前回同様小さなワープロ文字が書かれていた。

「日本との確認が取れ安心しています。以後は私の指示に従ってください。まず脱北するからと言って決して動揺したり騒いだりと生活を変えない事。又そうした事を、家族を含む全ての人間に話さない事を約束してください。脱北は複数人によるグループにより行われます。詳細は三日後、山際にある松の木林でお待ちしています。くれぐれも一人で来て下さい」

 松の木林とは自宅から一時間程歩いた所にある小さな林だ。北朝鮮の森や林は燃料として伐採され殆どが禿山と化していた。しかし一部食料とする為に残っている部分があった。今回指定された林もそうして辛うじて残った緑の残る場所であり、松の実が実る頃になれば、松の実酒を作るために業者が訪れ、飢饉が酷くなった時はその皮を剥ぎ食べる為に飢えた人々が訪れる普段は使われない、寂れた場所であった。

 人間は、カモシカや猿とは違う。木の皮は消化できない。食ったら、消化しきれず腸に引っかかって七転八倒しなければならないのだが、辛うじて空腹を満たし一部エネルギー化する事が出来るので、後日苦しむと分っていても手を出す人間は後を絶たなかった。

 三日後、脱北エージェントの指定した林に到着し、何故この場所が指定されたのか分ったような気がした。松の木には辛うじて線のような葉が生えてきて居るが、それ以外の部分は赤い土が無様に露出し、見通しが良くなっていた。もし俺を追跡してくる人間が居るのであれば、これなら数百メートル先に近づいただけで一目瞭然に知る事が出来る。

 座れそうな岩場を見つけ、軽く埃をはたいて座り込んだ。北朝鮮では五人以上が一箇所に集まり話し合っているだけで「談合の疑いあり」とされ逮捕の理由となるが、こうした荒れ果てた場所に一人座っているだけなら何ら問題は無い。待つこと数分、俺が先ほど歩いてきた荒地の中を歩いてくる一人の男が居た。目を凝らし、近づいて来る所を確認する。間違い無い。先だって、俺に赤いボールを売った男である。汗だくとなり坂を登り、男はまず俺と握手した。

「安全だと思い対談の場所をここにしましたが、ここは来るのが大変ですね」
「お会いするのは二度目ですね。初めまして」

 二度目なのに初めましてというのも不思議な話だ。男は汗を拭いながら辺りを見回した。荒地にぼうっと幽霊のように生える松の木はある意味禿山よりも恐ろしく見える事がある。大地に残った最後の養分をしぶとく吸い続け、生き続ける松の木。この木さえも伐採される時はもう近づいて来ているのかもしれない。地上の木が全て枯れた時、この山は何を思うのだろうか。かつて青々と生い茂っていた過去を思い、再び勢いを増す時が訪れるのだろうか? しかしそれは現政権が倒れない限り、それは想像さえも不可能な事では無いかなと思う。

「こちらこそ。まず質問があれば聞きましょう。何かありますか?」
「どうして私は保衛部員に監視されるようになったのですか? 確かに父は北朝鮮に戻って直ぐの辺りは監視されていましたが、高価な外国製の盗聴器を取り付けられるほど酷い監視では無かった筈です。その辺どうなっているんですか?」
「こちらに届いている情報では、あなた海辺の町で国家機密に触れましたね」
「国家機密?」

 驚いた声を上げたが、次の瞬間答えは自分の中にあった。アシカだ。あのアシカを捕まえた件について言っているに違いない。

「アシカのペニスは北朝鮮では国家機密に当たります。あれを食べた人間は即公開処刑だそうですが……あなたの場合例え好意であったとしても、アシカを捕獲した時点で国家機密を漏らす可能性があると判断され、監視の対象となったのです。幸いあなたはこの件について奥様にも教えていないようですが……もし一度でもアシカの件を他人に漏らした場合は夜中保衛部員が踏み込んでくる可能性があります」
「そんな……」
「ちなみに山間部であればシカのペニスがアシカのペニス同様の価値あるものとして扱われます。畑などではネズミですね。あ、これはご存知でしたか。全ては例の人物の、精力促進の為であると言われています」

 何ともばからしい。金正日総書記の精力促進の為に日々捕獲されるアシカについては誰しも知っている事では無いか。それを今さら機密扱いし、監視の対象にするとは……

「現在北朝鮮は日本からの帰国者を、外貨を稼ぐ為に必要な人間と認知していますが、それらを優遇する必要性は感じていないようです。むしろ冷遇すればする程親族は環境を憂い、送金をして来る。だからめったな事では逮捕される事は無いと思いますが……とりあえず事情としてはそう言う事です」

 その後は一方的に脱北の手順について説明があった。変更があるかもしれないが、脱北方法としては海の町から漁船を使い、船底の魚を入れるスペースに隠れ日本まで向う。監視の目もあるだろうが、その際は船に前もって積んだタラバガニや鱈などを渡し事無きを得ようと言う話であった。嫁さんに脱北の意思を伝えるのは脱出の前日、子供にはその時になるまで知らせるなと言う事であった。理由としては、子供は意味も無く、政府の教えに従って親の行動を密告する可能性があるからだ。実際脱北の際、子供の密告により失敗をした例も決して少なく無いのだと言う。

「密告した子供が幸せになれるかというと、それは違います。強制収容所送りにはなりませんが、一生「裏切り者の子供」として生き続けなくてはいけない事になります。子供の幸せを考えるのであれば、沈黙を守って下さい」
「もし家内が脱北を承知しなかった場合はどうなるんだ?」
「強制収容所送りになるでしょう」

 前日に話すと言う事は、絶対に承服させなければなら無いと言う意味が込められていた。日本に到着した場合、俺の場合は日本国籍を持っているので、到着さえすれば日本の親族が迎えに来てくれるだけでなく、俺の戸籍に子供達の名前を列記する事も然程難しい問題では無く、書類上の手続きも問題なく出来るだろうと伝え聞いていた。

 現在日本政府は難民を受け入れていない。表向きは日本国籍を持っている北朝鮮脱北者さえも受け入れてはいないよう振舞っている。男の話によると実際は情報漏洩をしないよう厳重注意された後、帰国が認められるのが普通であるようだ。

 船の手配から移動手段まで、男は全て用意すると言う。日本の親戚から一体幾ら受け取ったのだろうか? それらについては一切教えてはくれなかった。脱北については分ったのだが、後気になったのは北朝鮮に残される親戚一堂についてだった。残された義弟や嫁さんの両親は咎を受ける可能性はあるのだろうか? 遠回りに言葉を濁し質問してみると、「当たり前だろう」と言う顔をして返事が返ってきた。

「今は強制収容所に送られる人数が多くなって来たので、あえて前妻の弟さんにまで手が及ぶ可能性は低いですが、奥様の両親は強制収容所送りにされる可能性が非常に高いと言えるでしょう」
「やはり」

 両親の幸せを守るか、子供の幸せを守るか。無論両方が守れるのが一番良いのだが、決断をしなければならない時は迫っていた。時折闇市で赤いボールが売られて居ないかと探してみたが、会談以後それを見つける事は出来なかった。

 情報が漏れる事を極力恐れてか、最終的な準備については脱北する二日前にならなくては俺さえも知る事は出来なかった。突如として闇市に赤いボールが並び、決行の日を告げた。従うも従わないも俺次第だが、今回脱北の一番のネックとなるのは生まれたばかりの赤ん坊である。万が一海岸警備隊の査察を受けている際に泣かれでもしたら……脱北が失敗する事は間違いが無い。

 赤ん坊を泣かさない為の準備、そして家族の説得の重要性。この地にもう未練が全く無いと言えば嘘になるが、そう思わなければ足を動かす事が出来なかった。芳樹がこの国に来た時と同じように盗聴器を一箇所に集め、嫁さんを寝室へと誘う。「昼間から……」と言う艶っぽい顔を嫁さんは一瞬していたが、途中空気が違う事を察したのか、赤ん坊を連れ黙って部屋へと入って来た。賽は投げられた。もう後戻りする事は出来ないのだ。

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2005-05-11 09:56:38

地上の地獄 七.賄賂

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

七.賄賂

 ここの所は食糧事情が更に悪くなり、一般の刑事犯が、ごく短期間で餓死してしまうようになった。普通の人間も満足に食べられないのだ。犯罪者にまで食料が行き渡る訳は無いだろう! と裁判所に怒鳴り込んできた遺族に対し刑務官は怒鳴り散らしたと言うけれど、何だか最近はうっかり万引きをしても死に繋がるようになっているようだ。

 暦の上の季節は春を迎えたが、気温はまだ上がらない。肌に刺すのは冷たい風ばかりである。

 俺は極力子供たちに派手な服装をしないよう、人気の少ない所に行かないように何度も教えた。極力目立たず、憎まれず。新品の服は多少洗って古着のような状態にしてから着るようにさせるようにした。

 遅まきながら、諸外国から援助品が北朝鮮に届いてきたが、配給として各家に配られた後夜には軍隊の手により「最前線に居る兵士への供出米」として回収されて行った。「援助物資」は「愛国米」と名前を変え、国民の間をあっという間にすり抜けていく。

 人伝いに聞いた話では孤児院用に送られたカンズメは潜水艦の非常食用に送られたと言う。北朝鮮の新聞には海外からの援助米は豚に食べさせていると書かれていた。無論絶対に米は豚に食べさせていないとは思うが。もし真実そうであるのなら米を食えない人民は豚以下と言う事だろうか。

 嫁さんの出産の日が近づいて来た。北朝鮮の女性は通常自宅に助産婦を呼び出産をする物だが、初産及び高齢出産である事から考えて、出来れば平壌の設備が整った病院で産ませたかった。

 北朝鮮でもし「やりたい事」があった場合、まず必要なのは「コネ」で次は「賄賂」である。日本から高級ブランデーを取り寄せ、地域の党幹部の方に伺いを立てたが、やはり平壌市民のしかも第一子出産時で無ければ、そうした設備が整った病院に入院する事は難しいという。

「あれは観光用としても意味合いもあるからね、地方の人間が希望してもそう簡単には通らないよ」

 平壌のムンス通りにある十五階建ての近代的な建物で子供を産む事は、北朝鮮妊婦にとっては一つの夢であった。出来れば嫁さんの夢を叶えてやりたいと思ったが、そうなると仕方が無い。党幹部の人間はトラック一台を提供すれば、評判の産婦人科医が居ると言う噂の海州第二病院へ入院する事を斡旋しても良いと回答して来た。

 北朝鮮では出産前十回ほどの定期診断があり、障害児として判定されれば堕胎が勧められる。嫁さんは堕胎する事を極力恐れ、定期診断の前日になる度に調子を崩していたが、幸い蜂蜜が良かったのか? 臨月近くの診断でも「障害児」とは判断されなかった。

 日本の親戚にトラック一台を無心しようと思ったが、金額にすると日本円で四百万円からの金額がかかる事が分り、断念する事にした。子供に対して極力目立たぬよう教えて居るのに親がもし率先してそうした事をしたならば、子供達は一体何と言うだろう。嫁さんには事情を話し、家で出産するよう手配を進めた。貧困が続く北朝鮮において、今出産数はどんどん減る傾向にあると言う。賄賂を受け取り損ねる事を察知した党幹部の人間は賄賂を大幅にダンピングし、トラックからトヨタ製の中古自動車一台で手を打つと連絡して来た。

「いいですよ。助産婦さんにお願いしますから」

 頭の中ではそう思っても、条件がここまで甘くなると、さすがに断る勇気は無かった。叔父に連絡を取り、中古自動車を送ってもらうよう連絡を取る。すると「どの種類がいいんだ?」と返って質問されてしまった。どうやら日本では「トヨタ」の車と言っても様々な種類があるらしい。

「山間部を走る事が多いみたいだから、ランクルみたいなのがいいのかな?」

 送られてきた手紙の内容も意味不明であったが、ともあれ、自動車選びは叔父に任せる事にした。党幹部に推薦された海州第二病院は確かに良かった。施設自体は老朽化しているが、腕の良い助産婦さんが居り、嫁さんに対して高齢出産でも母子共に問題無しと太鼓判を押してくれた。

 この時期一番驚いたのは従兄弟の芳樹が日本から突然万景峰号に乗ってやって来た事だろうか。外国為替管理法では百万円以上持ち出す場合許可が必要だが、それ以下の場合例えそれが車であっても許可は必要無いのだという。日本から北朝鮮への訪問。総連に幾ら寄付をしたのだろうか? それとも以前程、日本から北朝鮮への行き来は厳しく無くなったのだろうか? 写真でしか見たことの無い芳樹は百九十センチを越える巨体で、およそ同じ血筋の人間には見えなかった。

「頼まれた車の方持って来ました。港に準備してありますので、送り先を教えて下さい」
 控えておいた党幹部の住所を手渡すと、芳樹は足早に家を立ち去り、そして戻って来た。真ん丸となった目が全く戻らない。嫁さんも日本からの突然の来訪に驚きを隠せなかった。

「良くいらっしゃいました」
「あ、気を使わないで下さい。今日の夜の便で僕は帰りますから。急に船のチケットが余ったので来る事が出来たのです。今日こちらに挨拶をしたらすぐ港へ向います」

 誰に話しているのか、妙にでかい声で話を始める。
 臨月近い嫁さんの腹はもう最終段階に達している。気を使いたくても及ばない状態である。芳樹は唇に一本指をかざし、玄関や窓を一つづつ閉めていった。

「何を?」
「シッ!」

 ジャケットの内側から灰色の機械を取り出し、アンテナをアチコチに向けて行く。場所によっては「ガーガー」と雑音のような機械音が鳴り出して来た。芳樹はその方向位置を確認し、リビングの明かりの上、植木鉢の土の中、ベッドの下、から小型の機械を取り出して来た。机の上に並べられた奇妙な機械類。見た事は無いが、おそらくこれは

「盗聴器」

 芳樹は机の上に置いた紙にそう漢字で書いた。目線で盗聴器の前から移動し、寝室のベッドへと向う。そこから先の会話は全て北朝鮮ではまず見られない、上質な紙の上で行われた。

「この家は監視されています」
「何故? どうしてだ?」
「理由はまだ分りません。日本からの帰国者は常に監視の対象であるとも聞いています」
「何故?」
「信用してないのでしょう。北朝鮮の窮状は日本にまで届いています。しかし今回僕がこちらに来たのはそうした物とは全く関係ありません」
「何をしに来たのだ?」
「日本ではデフレが進み、父の事業も暗礁に乗り上げようとしています。このままでは数年以内に倒産する可能性があります。そうすると北朝鮮で生活するあなたに送金を続ける事が出来なくなります。家族会議などで色々相談したのですが」
「家族会議?」
「アツシさん。そろそろ日本に戻ってきませんか?」
「残された金塊の事を言いたいんだな」
「それらを譲ってくださいとは言いません。父に低利子で貸して欲しいのです。今父は銀行からの融資の折衝に明け暮れ、今日明日も無い状態です」
「今すぐ戻って来いと……」
「こちらからの援助は惜しみません。北朝鮮は連座制が引かれているので脱北は家族単位となるでしょう。今この国に未来があると思いますか? 子供を安心して育てて行ける地上の楽園だと? あなたは今も思って居るのですか」
「それは」
「今この紙はすぐ燃やします。このまま行けば脅しだけでは無く、日本の親族が路頭に迷い来年からの援助は出来なくなると思って下さい」

 聞きたい事は山ほどあった筈なのに、盗聴器の存在を恐れ、声を出して尋ねる勇気は無かった。あっという間に紙は燃やされ、芳樹は盗聴器を元に戻した。

 芳樹の入国が安易に行われた理由が後日義弟からの礼状により判明した。芳樹は北朝鮮の以来によりブルーベリーの苗を千本肥料と共に運んできたのだ。査証無しで来るとは何とも大胆な……最悪戻れなくなるとは思わなかったのだろうか? 飢饉前までは北朝鮮にも化成肥料製造工場があったのだが、飢饉の後肥料を作るための材料が不足となり、無用の長物と化した工場はあっという間に人の手により解体されて行った。

 作物を育てたくても肥料が無い。種が無い。技術が無い。タダで援助を申し出た芳樹が、もし入国を許可されないのであれば、もうこの国には例え親戚であっても、入国する事は出来ないだろう。とはいえ何度考えても査証無しはやりすぎだ。これは逆に北朝鮮の人間が日本に入り放題だという事では無いか。本当にこんな事がまかり通って良いのだろうか?

「援助は出来なくなると思って下さい」

 頭の中で最後の言葉を反芻する。俺がこの国で安楽に生活できるのは、叔父からの定期的な援助あっての事だった。もしそれが無くなってしまったら……豚より酷い生活を送らなくてはならない事は間違い無いだろう。

 それに、自分でも良く分っているが、芳樹の言葉には裏がある。来年以降も援助を求めるのであれば、父の残した金塊の場所を教えろ。と言う事だろう。しかしあれを渡してしまったら、俺は二度と日本に戻る事は出来なくなるだろう。いや、戻る事は出来ても人並みの生活が出来るかどうか、金塊を渡してまでこの国で生活をするメリットがあるのかどうか。

 俺が一人思い悩んでいる間に、嫁さんは出産予定日を迎えた。

 助産婦の腕が良かったのか、母子共に健康で、生まれてきた子供は女の子だった。色々考えた挙句名前は「星妃」とした。北朝鮮人らしくない名前かも知れないが、顔を見て名前を一人考えていたら、どうしてもその名前以外、しっくり来なかったのだ。妊娠が分った時に見た夢を今思い出す。きっとこの子は家族の絆をより強くする鎹のような子供に育つのだろう。

 この子の未来を考えよう。
 この国に明るい未来はあるのだろうか。

 妹の誕生に只管喜ぶ二人の息子。温かくなり着る服の数が減るにつれて、何時誰につけられたのか分らないが、明らかに誰かに投打された生傷が全身にある事に気がついた。性格が優しいので俺に何も言わないが、どうも学校で虐待、いじめを受けているようではあった。

「決断すべきだろうか」

 乳飲み子を抱えての逃避行を決断した朝は何故か雨が降っていた。

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2005-05-11 09:54:31

地上の地獄 六.子供

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

六.子供

 食料が欲しいと平壌の学生がハンストをやった所、公開処刑で全員火あぶりの刑に処せられたと言う噂が飛び込んできた。無論こんな話は新聞、テレビ、ラジオにも載らない話である。この国では口伝いにはあっという間に情報が広がって行く。俺が聞いたのは闇市場の売り子の口からだが、何しろ犯罪者が刑務所に入ると裁判前に飢えで死んでしまう国である。文句を言う人間は例え高学歴の学生であろうと、容赦されると言う事は無い。

「頭のいい人間を殺すと、国自体が駄目になってしまうのに……」

 平壌の学生一人育てるのに、一体どの位のお金と涙がかかったのだろうか。帰国者の子供は大量の寄付が無ければ大学に入る事は許されない。「地上の楽園」「無料で大学へ行かれる」と言うのは勿論嘘である。

 しかし党幹部の子供は学力が劣っていても、お金が無くても大学に行く事が出来、迷惑放題行動しても咎める人間はまず居ない。そういった意味では話は全て嘘では無い。と考えると処刑された人間は間違い無く党とは関係無い人間なのであろう。社会主義に階級があると言うのは本当に不思議な事だが、あまりそれらを追求すると、自分の命が危なくなって来るので考えるのをやめにした。

 その日は先だって不味い肉を売っていた店が又しても店を開いていた。苦情を言ってやる! 大嫌いな暗い話を聞いた後だけに俺は無意味に一人いきりたっていた。

「いらっしゃい。何にするね?」
「先日ここで肉を買って焼いて食べたら酷い味がしたんで、文句を言いに来たんだよ」
「お、それは悪かったね。焼かないで煮た方が旨かったかもしれないな」

 店主に悪びれた様子は無い。相変わらず並んでいる品物は何の肉だかはさっぱり分らない。鳥の太もも大のものから小さな肉片、豚のあばら肉のようなものまで本当に全部同じ動物の肉なのか、それさえも大きな疑問であるように思えた。

「お前金はあるのか?」
「金?」

 懐を見透かされたような気がした。店主は奥の箱から二つの色鮮やかな肉片と、赤茶けた肝臓と思しき肉片を目の前に並べた。鮮度は良いのか、血の腐ったような肉独特の匂いはしなかった。

「これ食ってみな。特にこの肝臓の方はおそらく地球上で一番旨い肉だと思う。生でもいいが、軽く表面を茹で、ゴマタレを付けて食べてみてくれ。これなら絶対に満足して貰えると思う」
「旨いのか?」
「旨い。長年肉屋をやっている俺が言うんだから間違い無い。もし、これが不味かったって言うなら、今まで受け取った全ての金を返すよ」

 そこまで言うのなら……とミイラ取りがミイラになったような気分だが、言われるままに金を払った。丁寧にビニール詰めされた肉は少し重みがある。俺はこの時になって山間で食べた汁飯屋の事を思い出していた。

「前の肉はちょっと大きくなった奴の肉でな。癖がある。今渡した肉は生後一年未満の若い肉だから、余計な物を食べていない。絶対に旨い筈だ」
「若い肉……この間山間の汁飯屋のばあさんもそんな事を言っていた」
「同じ肉?」
「間違い無い。で、これは何の肉なんだ? スンデに出来るのだから腸もデカイし」
「それは……」
「あんたはあの店に肉を卸しているんじゃないのか? この辺肉屋など殆ど居ないんだし、だったらあの店の事知っているだろ?」
「豚だって言っているだろ。買う物買ったんだからとっとと返ってくれ。これ以上は迷惑だ!」

 何故か最後は怒鳴られ、ほうほうの体で俺は家へと戻った。何か聞かれて困る事を言ってしまったのだろうか?

 その日買った肉は店主が胸を張るように、確かに旨かった。小さな塊の肉は汁飯屋の肉と遜色無い独特の風味を醸し出し、軽く表面を茹でて食べた肝臓の肉は下の上でトロケて極上の美味を演出してくれた。家族で奪い合うように食べたので、あっという間に食事は終了。子供たちが言うには、先日苦労して手に入れた鱈よりも断然こっちの方が旨かったと言う。

「この肝臓肉美味しい! とおちゃん又買って来てくれよな」
「おう。任しておけ。これは買わなきゃ損だろう」

 二匹目のドジョウを狙い、翌日も闇市へと向ったが、既に肉屋の姿は無かった。代わりに今度は古着屋の店がそこに並んでいた。一応行き先を訪ねたが、前回同様分らないといった返事が返ってきた。まあ、まめに通っていればその内又来るだろう……そうしたら買えばいいじゃないか。

 その日の北朝鮮新聞では自分の子供を殺し、食べた親が公開処刑に処されたニュースが報じられていた。地方の僻地では病気の人が子供を殺して体の一部を食べれば、病気が治るといった迷信が信じられ、幼い子供が行方不明になる事件が発生する事があるが、この親は空腹に耐えかね、涙を流しながら子供を殺し貪り食ったのだと言う。

「普通自分の子供を食うかね」

 獣の脂肪は円形で固まるが、人間の脂肪はダイアモンドの形で固まる。もし出先不明な肉を見つけたらこうした方法で見分けをして欲しいと新聞は結んでいた。

「出先不明な肉」とは? 俺はふと昨日食べた肉の事を思い出した。一度頭に浮かんだ疑問を払拭しきれず、俺はリビングへと向う。昨日の肉は全て食べ尽くしており、跡形も無い。でも何か残ってないだろうか……

 鍋回り、冷蔵庫、皿の縁、一通り手に取って見るが油一筋さえも残っていない。何か、何か無いだろうか。取り付かれたように俺は「何か」を探しつづけ、数分後それを見つけた。それは肉を入れ持ち帰ったビニール袋である。もしこの表面に残っている脂肪がダイアモンドの形をしていたら……目を皿のようにして俺はビニールを光に翳した。見える。脂肪の形が! これは!

「あなた何をしているの?」

 背後から嫁さんの声が聞え、俺は慌ててビニールを隠した。「ちょっと探し物をしていて……」とバタバタリビングを立ち去る。嫁さんの腹はもう外から妊娠が分るほど大きくなっていた。

 息を切らし、部屋に戻った後二度確認し様かとも思ったが、それ以上現実を見詰めているのが辛くなり、俺は仕事部屋のゴミ箱にそれを投げ捨てトイレに駆け込んだ。真実は俺の胸だけに秘めておこう。こんな事子供や嫁さんに教えられるだろうか……胃の中に入っている物体をゲロゲロ・ゲロゲロ全て吐き出す。こんな事をした所でもう全ては消化され手遅れなのだろうけれど……俺はこの国の闇の深さを改めて感じたような気がした。

「北朝鮮で、もし夜死体が埋められるとすれば、翌朝になる前に人肉として売り渡されるだろう」

 と言う噂を聞いた事があったが、十歳以下の子供などどうやって手に入れているのだろうか? しかもあの肝臓肉は妙に新鮮だった。売り出す前日に殺したのか???

 その日の夜は頭の中がぐるぐると纏まらず、夕食を食べなかった。嫁さんは俺の容態を気にしたが、「今日はちょっと放っておいてくれ」と一人部屋に閉じ篭っていた。

 数日後山間の汁飯屋の店主が逮捕されたと言うニュースを人伝いに聞いた。通報者は分らないが、どうやら情報を流した人が居たらしい。俺はおそらくそれを闇市の肉屋だとよんでいた。情報が漏れ、共倒れする事を恐れたのだ。

 どう考えても、何年も問題なく営業を続けていたのに、突然の手入れはアカラサマに不自然である。そして扱っている肉の事などは普通の人間は殆ど興味無いだろう。店主は家族の手により火炙りとなり、山間の店は呆気無く消滅したと言う。

 更に後から聞いた話によると、店主は孤児院から子供を養子として迎え材料にしたり、母親が外地に食料を求めにでかける間、食堂に預けた子どもを調理してしまったり、材料に事欠く事は無かったらしい。火あぶりの点火は家族の手によって行われ、罪状の深さにその後家族・親族は三代に至るまで成年、未成年を問わず強制収容所送りとなったと言う。

 そう言えば大分前党から「昼間葬式をするべからず」と言う通知がやって来た。何故なのだろ? と思いはしたが、噂によると昼間葬式すると夜には墓を暴き人肉を取り出すことが出来るからだと言う。

 夜に葬式をし、深夜に死体を埋めれば、昼間は人目につく為夜にならないと死体を取り出す事が出来ない。一日土に埋められた肉など、既に腐敗が始まっており幾ら安くても売る事は出来ないと言うのだ。

 取り出される肉の多くは尻又は大腿部の肉が多いと言う。おそらくはこれが最初に食べた肉の正体なのだろう。最近は深夜に埋葬する事は勿論だが、死体が多少腐敗し食べられない状態になってから埋葬する事も少なく無いと言う。

「地球上で一番旨い肉」。

 それがどんなに旨くても、俺は二度とそれを食いたいとは思わなかった。

「子供を絶対に人に預けたりするなよ。いいか。生まれて来る子は勿論、大きくなった二人の子供もだ? うっかり人に頼るような事は絶対にするな」
「え? どうして」
「どうしてもだ。いいか。二人を外に出す時は必ずお前が付き添うようにしろ。無理なら俺が出るから。万が一の事があった時俺は後悔をしたくない」

 そんな事は絵に描いた餅。冬の間、子供達の行動が制限される時だけしか無理なのだろうけれど。正月が近いから、と闇市で買った餅米を一晩水に漬けて置いたら、朝にはコクゾウ虫がウジャウジャ這い出して来ていた。「うぎゃー」と騒ぐが無論勿体無いので捨てるような事はしない。嫁さんは、もう大分大きくなった腹をユサユサと揺らし、丁寧にコクゾウ虫を取り除いていた。北朝鮮の人間にとって餅は貴重な正月用品である。少々虫が居たくらいで捨てたら、罰が当たってしまう。

「この位大丈夫ですよ。このお米を捨ててしまったらお正月我が家は辛い思いをする事になるのに」
「子供達は餅が大好きだからな」

 冬が終わり春になれば、食べる物も増えてくる。そうすれば更なる悲劇も少なくなって来る筈だ……中央の人間はこうした事実をどこまで知っているのだろうか? 知った上で配給を止め、人民を追い詰めているのだとしたら……一体我々は何の為に海を渡り北朝鮮にやって来たのだろう? 認めたくは無いが、もしかしたら飢えて死ぬ為? なのかもしれない。

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2005-05-11 09:43:28

地上の地獄 五.市場

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

五.市場

 夏場雨量が多いと、何故か蛇口からミミズが湧き、冬場は雪が水道の配管を凍らせる。ミミズを取り去り煮沸すれば水を飲む事は出切るけれど、凍ってまず水そのものが出なければ手の出しようが無い。

 北朝鮮では凍るのは水道管だけでは無く、国境近くの川も凍る。そうなると徒歩で中国へと脱北する人間が増えるので国境警備が厳重になり町はより深い闇に包まれるようになる。
 北朝鮮で水の準備をする事は女の仕事だ。朝と夕方必ずバケツに水を溜めておかなければ、食事を作る時間になって隣の家に頭を下げに行かなくてはならなくなってしまう。妊娠四ヶ月と診断された腹はまだ膨れては居ない。医者の説明によるとこの時期胎児の脳味噌やら神経やら身体の中で一番大切な物が創られて行くので、栄養面で注意する事は勿論だが、くれぐれも重いものを持たないように、無理をしないように念を押された。医者に言われなくても嫁さんには何もせず寝ていて欲しいと思うけれど、嫁さんが全然言う事を聞かないので、「くれぐれも無理をしないように」と声をかける事ぐらいしか俺にはできないのだ。

「義姉さんが妊娠! それはめでたい!」

 噂を聞きつけた義弟は朝鮮人参入りの蜂蜜を子供伝いに贈って来た。日本から送られてきた蜂蜜と違い、色は幾分黒く匂いも一種強烈だ。北朝鮮の人間は朝鮮人参を強壮剤として好んで使う。匂いはきついが、これは決して嫌がらせでは無く、義弟にとっては最大級のお祝いであったようだ。

「こんなに蜂蜜ばっかり見るのは本当に初めてよ。こうなったら蜂蜜屋でも開こうかしらね」

 北朝鮮で蜂蜜は珍品として扱われ、妊婦が出産後に飲む特別な栄養剤のように扱われている。一般人であれば出産の際「愛の配慮の杯」と呼ばれる卵の黄身に蜂蜜を混ぜて飲むのが一生に一度あるか無いか。人より恵まれ、睨まれ告発される事を恐れた嫁さんは送られてきた蜂蜜の半分を産婦人科に寄付した。毎朝お茶に一杯の蜂蜜を入れ飲み干すと何だか元気が出て来ると嫁さんは言う。甘みのある食材が少ない北朝鮮において、砂糖よりも甘い蜂蜜独特の味わいは女性にとって不味い物であろう筈が無かった。

 冬場は虫が取れないせいか、それとも嫁さんの調子が優れず気になるせいか子供達はあまり外を出歩かなくなっていた。小学校も休みとなり家でゴロゴロする子供たちを見ていると「やはりどこかに遊びに行ってくれないだろうか……」と言う気分になって来る。

 居なければ気になるし、ズルズル居れば邪魔だし。めちゃくちゃ言っているのは自分でも分るのだが、やっぱり人間は難しい。気分転換しようと雪の降りしきった窓を開けると
、窓に付いた鉄格子の合間からキーンと肌が切れそうな程冷たい風が部屋の中に入ってきた。駄目だ……これでは何時ものように気分転換がてら闇市に出かける事さえも出来ない。仕事机から俺が席を立ったのをいち早く発見した子供達が俺にばさっと飛びついて来た。
「とおちゃん。どこか連れてってよ! 明日は休みだろ!」
「休みの日に新聞が出なければいいけどな。休日は休日でしっかり仕事があるんだよ!」
「今遊んで居たじゃないか! もう終ったんだろ。ケチケチするなよー」

 段々自分の家に居るだけなのに、肩身が狭くなって来た。二人の子供を背中に乗せたままリビングへと向う。嫁さんはクスクスと笑うだけで、子供に「やめなさいよ」とも俺に「遊んであげなさいよ」とも言ってはくれなかった。嫁さんは赤ん坊が出来てより鷹揚になったような気がする。とにかく争わない。何かといえば笑顔で返し、幸せそうである。
 仕事を草々に切り上げ午後の食事を食べた後、嫁さんに新鮮な魚の鍋を喰わしてやろう。と思い暇そうな子供二人を連れて今住んでいる山間から海岸の町へ出る事にした。下着からコートまでを鎧のように衣服をまとい列車の駅へと向う。雪はも止んでいたので、おそらくもう列車は出る筈だ。

「今日はもう列車は出ないよ。除雪が間に合わないんだ」

 駅まで行った所でそう言われても困ってしまう。仕方無く駅前でヒッチハイクさせてくれる乗り物を探し、山を越え南浦へ向うと言う二頭立ての牛車に乗せて貰う事が出来た。車でも見つかれば御の字だが、これに乗せて貰えれば明日のお昼頃には海の町に着く筈だ。

「助かります」
「いやいや。子供を連れての山道は大変だろうからな」

 北朝鮮の人間は大概どこへ行くのにも徒歩で移動する。それは自転車などで長距離勝手に移動する事は厳重に禁止されているからである。以前は届出無しで長距離の移動をする事は一切合財禁じられていたが、最近は二週間以内の食料を求めて移動する事は許されるようになった。もし二週間で戻らなかった場合は、残った家族が強制収容所送りとなってしまう。が、海まで歩いて往復したとしても二週間かかる事はまず考えられないから大丈夫だろう。

 カタカタ荷台に揺られながら目的地を目指す。途中子供連れの妊婦や老女などが乗ったり降りたりを繰り返す。北朝鮮においては不便である分、長距離の移動については相互扶助の精神が確立されているのである。

 海へと続く山頂付近で汁飯食堂を発見した。牛車にこれだけ長時間乗せてもらっているのに、タダは悪いだろう。と思い途中休憩し三人で温まって行く事にした。店は中々盛況で町から町へ行商している人間から旅人まで、狭い店内に十人程が飯椀を囲んでいた。

「何にするね」
「汁飯とスンデを。三人分」
「あいよ」

 愛想が無い。メニューの数は多くない。後あるのは飲み物で焼酎とビール、食べ物はジャガイモを蒸かしただけの物や唐麺、トッポギがあるだけのようだ。汁飯と言うから米飯にトウモロコシが混じった混ぜご飯に何らかの汁がかかったものかと何時ものご飯と思いきや、出て来た飯には肉の塊がチラホラではあるが覗いていた。「うわー肉だ!」と子供達は茶碗が机にのった途端にスプーンを振りかざし、食べ始めた。俺も思いがけないご馳走に驚きつつ、笑顔で飯を口に運んだ。独特の風味のある奇妙な味付けだ。何の肉なのだろう? 

「この汁飯屋は結構有名で。わしも食べるのは久しぶりなんだが、うまいだろう」
「高いんですか? ここ」
「高いと言う程ではないが、毎回寄れる金額でも無い。でもやはり肉を食べると身体が温まるだろう」
「はい」

 キムチを食べながら汁飯を口に運ぶ。何の肉なのだろうか? 少なくとも豚肉でない事は確かだった。気のせいかもしれないがこの癖のある匂いは先日闇市場で買ってきたあの臭い肉にも似ているような……中身が気になりつつも、皆が旨そうに食べて居るのだから問題無いだろうと次はスンデに手を伸ばした。スンデとは良く洗って裏返した腸に春雨と豚の血、野菜などを詰め蒸かしたウインナ-―のような物である。香草を多く使っているせいか、匂いは汁飯程分らないが、ここでも一風変わった匂いがある。決して不味くは無いのだが、間違い無い。これは先日闇市で買ってきたのと同じ肉だ。

「おばさん。この肉は一体何の肉なんだい?」
「どうしてそんな事聞くんだい!」

 とたんに店主は怒り出した。聞かれて困る企業秘密なのだろうか?  

「いや。別に教えたくないのならそれでいいのだが、先日多分同じ肉を闇市で買ってね。焼いて食べたらエラク不味かったんだ。今日のは格段に旨いなと思って。この肉はやはり焼くより煮た方が食べ易いのかな?」
「教える程の事も無い、ただの豚の肉だけどな……おそらくあんたが食べたのは年を食った性質の悪い肉だったんだろ。この種類の豚はでかくなると量は取れるんだけど、臭くて喰えたものじゃ無いんだ。あんたが今食べているのは生まれて十年経たない、若い肉さ。旨いだろう」
「特徴的な風味がありますよね」
「この肉のお陰でこの店も繁盛している。次その肉を買うときは気を付けたらいい。旨い肉を食べたいと思ったなら、私は出来るだけ小さくて若い肉を選ぶ事をお勧めするよ」

 店主は不機嫌な顔から一転し、前歯の抜けた黒い口をバクッと大きく開きニタニタと笑い始めた。急に背筋がぞわっと感じたのは何故だろうか。結局俺はその時感じた悪寒を追い払う事が出来ず、スンデを一本と汁飯を半分食べただけで席を立った。しかし食欲旺盛な子供たちは厭な予感や悪寒は何のその、頼んだ物を全て食べ終え、笑顔で牛車に戻って来た。

「後少しですがんばりましょう」

 ざくざくと雪を踏みしめながら、牛車はゆっくりと動き出した。数時間して海辺の町に到着し早速飛沫舞い上がる海辺を散策する。冬の海の光景と言うのは何度見ても、もの寂しい。魚でも落ちていないかと思ったが、水温が冷たく離れてボーっと見るのが精々だった。

「とおちゃん。海の近くまで行って来ていい?」
「駄目だ。濡れたら替えが無いだろう」

 浜辺から少し離れた岩場にアシカの群れを発見した。こんな所にまで海獣が来るのだろうか? 北朝鮮と言う国は先進国と違い開発が遅れている分、自然が残り美しい景色を描いている所がある。魚は見つからなかったけれど、これは普段は見られない、いい物を見た。

 子供とアシカに手を振り市場へと急いだ。今の季節だったら鱈が手に入ったら最高なのだけれど。時間が遅い事もあり市場はもう完全に閉まっていた。事務所と思しき所に火が見えたので行って見ると三人の男性が暖を取りながら話をしていた。一礼し中に入り事情を説明する。どうやら日本からの帰国者が鮮度の良い魚を探しに来る事は決して珍しい事では無いらしい。

「日本ではきっと旨い魚を食べてたんだろ。で無理を押して探しに来る奴ってのは結構居るんだ」
「そうですか……」

 相場を聞くと鱈一匹二百ウオンとの事。高い。一般人の月給以上の金額である。「別にぼってる訳じゃねえ」と言うので相場が高騰している理由を尋ねると、まず漁に出たくても重油が無い上に波が高く、魚が多く取れる漁場までそう簡単に行かれないからだと言う。そしてもし良い鱈が取れた場合はまず輸出用に確保されるので、まずこちらには回ってこない。輸出に回らない傷物の鱈を干したミョンデだったら安い。とはいってもこちらも七十二ウオンである。

 それでも買えるのなら嫁さんも喜ぶだろうし、手ぶらで帰る訳にもいかないし、断腸の思いで買って帰ろうか。冷凍された大き目の鱈を一匹とミョンデを三匹、持ってきた袋に包んで入れて貰う。支払いはやはり外貨を要求された。この国の自国通貨は本当に流通を潤滑化させる為に役に立っているのだろうか? どう考えても米ドルを持っていた方が使い勝手が良いような気がする。

「もうこれで帰るのかい?」
「急げば深夜には戻れるでしょうから……と帰りの列車は動いているのか確認しないと」
「坊主達は買い物だけじゃ全然つまらないな。海は見てきたのかい」
「うん。見てきたよ。そしたらね、アシカがいーっぱい岩場に居てね、びっくりしちゃった。僕達ね手を振って挨拶したんだ」

 アシカ。と言う単語を聞いた途端漁師達の動きが止まった。

「坊主。本当に見たのかい?」
「うん。黒くてヌルヌルした奴だろ。いーっぱい海から離れた岩の所に居たよ」
「海軍に連絡だ! 緊急事態発生!!!」

 動きの止まっていた漁師達が動き始めた。電話などと言う便利な道具はこの事務所には無いらしい。一人は伝令として外に駆け出し、残りの人間はモリを持って外へと駆け出した。何故か俺も使い古された赤い持ち手のモリを渡され、海辺へと急かされる。仕方なく手に持った魚は子供に預ける事にした。外の雪はもう止んでおり、雲の合間からは薄日が差し込んできていた。

「あんた、どこで見たんだい?」
「あっちです。ちょっと行った所だからすぐ分りますよ」
「おーいあっちの岩場らしい! 皆行くぞ!」

 雪の中を駆け出す漁師達。ツルツルと滑る道も気にならないのか全身から殺気を漲らせ、突撃して行く。まさかこの小さなモリで海獣のアシカを突こうと言うのだろうか??? そんなにアシカが旨いのだろうか? 価値があるのだろうか? 高く売れるのだろうか? 国民全員公務員。仕事を要領よくこなし、手を抜く事を第一とする北朝鮮人民にしてみては常識から外れた通常行動外の行為であった。

「いたぞーーー突入せよ!」

 先頭の人間が岩場に付いたとたん、アシカ達は慌てて海の中に飛び込んで行った。明らかに観光客と漁師との見分けがついているようだ。「あいつらはやばい」「ヤラレルゾ」クークー冷たい風の中聞える泣き声は確かにそう言っているようであった。

 冷たい海の中、心臓麻痺も恐れる事無く果敢に飛び込んで行く漁師達。俺も最初は全くその気は無かったのだが、勢いに飲まれついうっかり、一緒にモリをかざして海に飛び込んでしまった。全身に襲い掛かる冬の海の恐怖を振り払い波間を泳ぐ。先頭の人間は岩場に到着したようだが、既に足かは立ち去った後であったらしい。岩場に登った後にそれに気がつき、慌てて再び海に飛び込み、波に紛れたアシカを探す。全員失敗か……と思った次の瞬間、俺の脇を小柄なアシカが通り過ぎようとしているのを感じた。

「いたぞーーここだ!」

 実は声を上げるよりも早く手が動いた。昔取った杵柄。幼い頃日本の海で魚を突いていた記憶を瞬間的に取り戻し、振り絞っていたモリのゴムを一気に離し、アシカの頭部を狙った。肩に響く手ごたえがある。ドグウンと運良くアシカの胴体部分に命中した。暴れる血まみれのアシカ。バタバタと動き回りまだ生きている。トドメを刺さなければ……と思ったが手にはもうモリは無かった。飛びついて素手で押さえるか……しかしその後俺が獲物を仕留めた事を知った漁師が側にどんどん集まり、正確に急所にモリを打ち込んで行った。

「あんたすごいね。やったじゃないか。これは勲章物だよ」
「いやー偶然ですよ。勲章物だなんて大げさな」

 大量の血を見興奮が冷め我に帰ったのか、急に顔に当たる風が冷たく感じてきた。濡れた服で必死に泳ぎ、陸を目指す。後は任せて大丈夫だろう。子供たちが「さすがはとおちゃん」と迎えてくれたが、濡れた服が体温を容赦無く奪い、今は子供の顔を見るよりもストーブにあたりたかった。びちゃびちゃ音を立てながら事務所へと戻り、事情を説明し服を乾かして貰う事にした。

「今日一番の功労者の服だ。任せておきな」
「すまん」

 その間は使い古した毛布に包まり白湯を飲み身体を温めた。気のせいか鱈を買った時よりも漁師の態度が柔和で親切だ。しかしアシカはどうなったのだろう? トドメは刺せたのだろうか? 肉の一切れでもストーブの前で炙って喰ったら旨いだろうに、そうした気の利いた事を考える人間は居ないのだろうか。

 いつになっても到着しない獲物に不安を感じつつ待った一時間。毛布に包まった俺の前に現れたのは金ぴかの勲章を幾つも付けた海軍高官の姿だった。

「アシカを発見し捕獲に成功したのはお前か?」
「は・はあ」
「良くやった。事情は漁師達から聞いている。何しろこの雪だ。連絡を受けても海軍が間に合わない場合も多々発生する。今回の英雄的行動は党本部に報告しておくから」
「いえいえ。アシカはどうなったのです? 掴ったのですか? 逃げられたのですか?」
「無事捕獲し、海軍に引き渡された。ここから先は海軍の管理下に置かれる事になる」

 俺が最初に捕まえたのに……俺に尻尾の一本でも貰えないのか? と思ったが、これ以上余計な事を言って強制収容所送りにされてはたまらないと思い、軽く会釈して炎の方を向いた。

「漁師達から事情を聞いたのだが、身重の奥さんの為に鱈を買いに来たのだが、帰宅の足に困っていると言うではないか。今回の英雄的行為の報酬として、もし良ければ軍の車で家まで送っても構わないが」
「本当ですか! それは助かります」

 北朝鮮では党幹部であっても自家用車を持っている事はまず無い。一般人は車に乗る事よりも轢かれる可能性のほうが高いのが普通だ。思いがけない申し出により、子供達は生まれて初めて大型の軍用ジープに乗る事が出来、大喜びだった。

「とうちゃんすごい! 木がびゅんびゅん外を走っているよ! 雲が僕らを追いかけて来る。太陽は……一緒に僕らと競争しているよ」

 あっという間に自宅へと到着。軍の車が突然家の前に到着したので嫁さんは家の中でかなりパニックを起こしていたが、笑顔の子供たちと、まだ海水に髪を濡らした俺の顔を見ると、とりあえず落ち着いたようだった。帰り道海軍の人間に言われていたのは今回のアシカ騒動については一切口外無用と言った指示であった。よもや海軍が善意で送迎をしてくれるとは思わなかったが……言葉厳しく「口外した場合は強制収容所送り」と釘を刺されると事の重大さとその理由についてやっと事情が分ったような気がした。

「では!」

 運転席に乗ったままであったが、一応軽く敬礼をして海軍の兵士は海辺の町へと戻って行った。後日噂で聞いた話では、俺の想像は当たり、ネズミのペニス宜しくアシカのペニスもアルコールに漬けられ金正日総書記の精力増進剤として珍重されていると言う。量が漁師だけで確保できない場合は海軍が総出でアシカの群を追うのだという。万が一重要部位を傷つけてしまった場合は公開処刑若しくは強制収容所送りになってしまうというから、たかが捕獲と言えど気は抜けない。

 俺が捕まえたのは雄のアシカだったのだろうか? とにかく慌てていたので重要部位は確認できなかったが、つまりはネズミのペニス同様、驚く程でかい物では無いのだろう。
 ともあれ、その晩は予想外に早く帰れた事と新鮮な鱈を手に入れる事が出来た事を嫁さんは誰よりも喜んでくれた。子供達も多少? 今回の事を受けて俺の事を尊敬してくれるようになったような気がした。義弟から貰った白菜に韮、ネギ、キムチ、そして鱈を入れて食べた鍋は頬が落ちるほど旨かった。厭な事は忘れよう。楽しい事だけ考えようじゃないか。鱈を食べた翌週、ついに安定期になった嫁さんは大分容態を好転させ、洗濯を干している時などは鼻歌を歌うようにさえなっていた。

「大丈夫か? 辛かったら早めに休むようにしろよ」
「はい。もう大丈夫。お陰で大分元気になってきました」

 しかしこの好意、いや祭り気分で行った行動が後日家族を絶望の淵に追いやる大事件に発展してしまう事を俺はこの時知る由も無かった

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2005-05-11 09:39:43

地上の地獄 四.妊娠

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

四.妊娠

 親父が北朝鮮に戻った事に対し、親父の弟、つまり俺の叔父にあたる人間は親父から無償で事業を引き継ぎ、永久的に北朝鮮に援助を行う事を約束していた。別段反故にしても叔父が困る事は無いと思うが、親父と叔父の仲は相当良かったらしい。毎月の交換手紙の主が親父から俺に代わっても、北朝鮮の飢餓や国際情勢を憂い、荷物を送ることを決して途絶えさせようとはしなかった。

 無論理由は仲が良かったからだけでは無いと思う。将来的に国交が回復次第俺は日本に戻る予定であったし、その際は凍結してある親父の財産が日の芽を見る事になる。そうすれば事業を起こしている叔父にも当然メリットがあった筈だ。

 更に言えばもしかしたら同じく北朝鮮出身である叔父も最後は父同様故郷の地で死にたいと思っていたのかもしれない。ともあれ、親身な手紙は異国に暮らす俺の一つの支えになっていたし、何より年の近い叔父の息子とも文通するようになってからは更に手紙を書く楽しみも増えて行った。

「アツシ君どうだい。そろそろ僕たちもそちらに移住した方がいいかね」
「そうですねえ。芳樹がおじいちゃんになった頃、来たらいいんじゃないんですか?」

 俺が書く手紙は北朝鮮の人間に閲覧されていると考えた方がいい。真実を直接書くのは自殺行為だった。芳樹とは俺と同い年にあたる従兄弟の事である。

「従兄弟がおじいさんになったら」

 と言う事は、絶対来るなという同意義の意味合いになるのでは無いだろうか。もし面倒くさいからと真実を文面に手を抜くとうっかり強制収容所に入れられでもしたら、本当に目も当てられない事態になってしまう。日本からの手紙はまず紙質から大きく違う。俺は段々擦り切れた藁半紙のような紙で手紙を送るのが恥かしく感じてしまう事があった。

「前略 英妃さんの調子が優れないとの事。心配になり医者に色々と尋ねてみたのですが、一つの答えとして英妃さんが妊娠しているのではないか。と言う結論に達しました。滋養強壮の為にカナダ産のマヌカハニーを送ります。これは妊婦の身体にとても良いとの事です。それから妊娠判定薬も多目に入れておきますので、一度陰性が出ても時間を離してもう一度試験をするようにして下さい。

 ブルーベリーの苗についてはこちらで調べました。こちらとしても北朝鮮の農業を良くするために幾らでも援助は惜しまないつもりです。
苗を準備する事は可能なのですが、移動をさせる場合は冬場よりも春の方が向いているようです。春に日本を出荷して夏に北朝鮮でたくさんの実が出来るよう、現在業者の方に三年物の苗木を用意して貰っています。二年経てばとりあえず実が生るようになるそうなのですが、それはあまり量が取れないようなのです。
 根がついたらその後は挿し木で増やす事が出来るそうです。細かい事は後日その時にでも連絡します。
 寒い季節になりましたので新しい冬物のコートと下着なども入れておきます。容態等分りましたら早めに連絡を下さい。遠い国日本であなたたちの幸せを祈っています 草々」


「妊娠?」

 手紙の入っていたダンボールの中には一ダースにも及ぶ蜂蜜の瓶と真新しいコート、米二十キロに薬が詰め込まれていた。これだけ瓶が入っていれば重い訳だ……考えもしなかった答えに戸惑いつつも嫁さんに妊娠判定薬を渡した。使い方は至って簡単。オシッコを所定の位置にかけさえすれば即その上の判定窓に結果が現れる仕組みだ。嫁さんは始めてみる判定薬に迷惑そうな目線を送って居たが、叔父たっての願いと聞き、仕方なさそうにトイレに向って行った。

「私は子供が出来無い体質だって、結婚した時に言ったでしょ」
「それは分っているって。何しろ年寄りの言う事だから。これで安心するんだから安い物だろう」

 トイレの隣に立っているのも何なので、少し離れて結果を待つ。こうした時子供と言うのは非常に便利な生き物だ。何と嫁さんと一緒にトイレに入り、結果に立ち会う事になった。一分も経たずして子供達の悲鳴が聞えた。どっちだ? どっちだったんだ??

「とおちゃん。青くなったよ! 青い線が出た!!」

 と言う事は……

「あなた……もしかして」

 嫁さんは恥かしそうな顔をしてトイレから出て来た。まだ水で濡れている妊娠判定薬をそっと俺の方に見せる。まさか。北朝鮮は夜になると電気が消え、特にそれ以外する事も無くなる。と言う事情もあり、前妻とは大分がんばったつもりだったが、如何せん子供は出来なかった。俺に子種が無い物だとずっと思っていたが……ついに、ついに

「おめでとう。よくやった。これは更に安静にしないと」
「オモニおめでとう! 僕たちも可愛がるからね! 男の子かなあ。女の子でもいいな」

 妊娠の一報は、日本は勿論、電報で義弟の下にも伝えられた。近所中でも大騒ぎであった。祝い事が少ないこの国で、妊娠のニュースと言うのは結婚の次に喜ばしい事であると認識されている。嫁さんは恥かしそうに頬を赤らめる。お祝いをしよう。と夜二人で話し込んで居た時、嫁さんはポツポツ、過去の出来事について語ってくれた。

「結婚の時、あなたは父に「子供が出来なくても構わない。ただずっと側に居て欲しい」と言ってくれたそうですね。本当に嬉しかったです。
 今更告白する事では無いのかも知れませんが……中央で仕事をしていた時、色々と事情があって、複数の男性と関係を持った事があったのです。他の人が妊娠し姿を消して行く中、私は一度も妊娠する事無く、中央を退くその日まで無事生き残る事が出来ました。おそらく一生妊娠できない体質。そのお陰で生きながえる事が出来たのだ。とだからそれは悲しむ事では無くて喜ぶべき事なのだと」

「生き残るって……妊娠したらどうなるんだ」
「分らないです。ただ妊娠と判明したとたん、その人は居なくなってしまうんです」
「そんな……」
「やめましょう。こんな話。ごめんなさい。私は今日ちょっとおかしくなっています」
「いや。俺こそ……信じられない。奇跡だ」
「ありがとう。全てのものに私は今感謝しています」

 北朝鮮で結婚をする場合、女性は処女である事が最低条件だった。結婚前から嫁さんは近所に住んでいた事もあり、中央で何か問題を起こし、実家に戻って来たのだ。と言う話は結婚前から聞かされていた。

 半分、いや全部嘘だとは思うが、嫁さん失脚の際の罰として、散々中央からプレゼントされた電化製品等が全て没収され、実家は金に困っており、適齢期を逃し家族の幸せを奪った嫁さんを中国に売ろうと画策している。と言う話も聞いた事があった。

 失脚したら取られてしまうプレゼントなど何の価値があったのだろう? そしてそう言う物に頼り切っていた家族の方が正義であり、散々家族のために働いて居た人間が、更に家族に対して奉仕をしなければならないのだろうか? どうもその辺の理屈を俺が理解する事は出来なかった。

 その後下世話に幾ら? と人伝いに聞いた事があったが、何と金額は米ドルで二百ドルから三百ドルと言うから、考えてみれば外貨ショップで売られて居る冷蔵庫よりも安い金額である。「年増は安いんだよ」冗談とも本気とも取れない表情で笑う。背筋がぞっとしたがそれ以上追求する事はしなかった。とにかく最初はそうした興味から嫁さんとの縁が始まった。前妻が若くして亡くなった事、日本からの帰国者である事、手間のかかる悪ガキが二人居る事など、通常であればまず再婚は難しい状態の中、もしかしたらそうした女性だったら再婚してくれるかもしれない。その時俺は打算の塊と化していた。

 お互いの条件が合い、もし運良くお互い良い印象で嫌いあわなければ、多少の悪い所は眼を瞑って、いや俺が折れて何とかやっていけたら楽しいのでは無いだろうか。でもブスは厭だなあ……家に閉じ篭りきりだった嫁さんとあったのはそうした噂を聞いた数日後の事だった。一目惚れ、とはああ言う時の事を言うのだろう。前妻とは見合い結婚だったが、農作業を日々手伝い逞しく育った前妻は「美人」と言うよりも「闊達」若しくは「元気」と言った形容詞が似合う女性だった。絶対俺よりも長生きすると思ったが、人間の寿命と言うのは本当に難しいと思う。

 嫁さんはと言うと色からして白く手足はすっと真っ直ぐ伸びており、おおよそ町の人間には見えない程整った顔つきをしていた。美人だからこそ中央に昇り、失脚する事になったのだろうが……この美貌ならば、中央の人間も気が迷う事も頷けた。

 その日はそのまま嫁さんの実父に会い、見合いについて交渉を行った。資金援助を行う事は勿論、帰国者であるが故のメリットなど。又そして嫁さんを大切にする事などを切々と語った。突然の申し出に嫁さんの実父は驚いていたが、数日後見合いを承諾する旨の電報が届いた。

「最初に言っておきたい。家の娘はおそらく子供を産む事が出来ないが、それでも構わないか? 一生慈しんで仲良く暮らしてくれるのか?」
「私には幸いにももう二人子供が居ます。これ以上望んだら不幸になるでしょう」
「傷物だが……そうした事を分っているか? それを理由に離婚と言う事は?」
「私も再婚になります。そうした傷はお互いの障壁には為らず、家族を形成するための礎となるでしょう。私は本気です。英妃さんさえ承諾して頂ければ」
「準備など何も要らない。ただ慈しんでくれればそれでいい。お互い近所に住む仲間同士、仲良くしてやってくれ。血のつながりが何と言うのだ。結婚と同時に孫が二人出来るなんて、普通には無い至高の幸せじゃないか」

 噂が半分嘘であった事を知り、この時は本当にホッとしたのを良く覚えている。その後結婚式は行わなかったけれど、写真館に行ってウエディングドレス姿の写真だけは記念に撮り、嫁さんは俺の家へとやって来た。北朝鮮では嫁入りの際蒲団や家具一式を持って嫁入りして来るのが普通である。

 無論そんな物は直ぐに手に入る物では無く、女の子がその家に生まれた瞬間から、結婚するその時の為に親が少しずつ買い用意するのである。嫁さんはそれこそ家中の家具を全て入れ替えられる程の家具を持って俺の元へとやって来た。中国に娘を売るなんてとんでもない。嫁さんの両親は心から嫁さんの事を愛し慈しんでいたのである。

 結婚後の生活は順調に進んだのは勿論の事で、滅多に喧嘩する事さえも無かった。だからこそ逆に俺は愛されているのか時折不安になる事さえもあった。嫁さんが今日程までに感情をぶつけてきた事があっただろうか? いやこれまで無かったような気がする。

「あなたの子供を産めるなんて……」

 回りの目を気にせず抱き合い喜ぶ俺と嫁さんの隣で、狭い家の中騒ぎすぎてしまったのか気がつくと側に集まって来ていた二人の子供はあからさまに不愉快そうな顔をしていた。この感動の場面に何か気に障る事があったのだろうか? 

「とおちゃん。赤ちゃん生まれても僕らちゃんと可愛がってよね」
「当たり前じゃないか! というか最近冷たいのはお前達の方だろう!」
「そんな事無いよ。でも一応確認しとかないと。さあ」
「ねえ。そりゃ父ちゃんは俺らにとって大切な存在だし」
「どっちかと言うと居て当たり前だから、どうでもいっかなって思うことがあるだけ。無論父ちゃんが一番大事に決まっているじゃないか!」

 血が繋がらない兄弟が出来る事を、子供ながらに危機感を感じたのだろうか? 自分に常に向けられていた愛情が減るとでも思ったのだろうか? 子供と言うのは余計なところに気が回る。だったらもっと俺を大切にしろ! 最初からそうしてろ! と思うが、やはり子供。そこまで頭は回らないらしい。

 その日は初めてに二人の子供と嫁さん、俺の四人で一塊になって寝た。

「きつい」「あっちいけ」「かあちゃんの腹を蹴るな!」とにかく皆興奮したのか蒲団に入ってから何時間も眠る事が出来なかった。嫁さんの妊娠と言う事実が、バラバラで協調性の無い家族をようやく一つに纏めたのかもしれない。

 夜は吹雪が舞い始め、気温はもう氷点下を十度以上下回っていた。その日の夜見た夢では明るい太陽と月が星のネックレスを仲良く首にかけ踊り騒いでいる夢を見た。これは何かの暗示を指し示して居るのだろうか? 気になった俺は起きたとたん夢の内容をノートの隅に書き込んで置いた。

「妊娠している時、Hは控えた方が良いのか? どうなんだろう?」

 目じりがきゅっと落ちたニッコリ顔の太陽と月、そして星。この星が生まれてくる赤ん坊の最初の危機を指し示している事に気がついたのは、その後暫らく経ってからの事だった。

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2005-05-11 09:25:59

地上の地獄 三.密造

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

三.密造

 俺が北朝鮮に来る事になった理由は親父がこの国で死ぬ事を望んだからだ。俺は親父が五十歳の時に出来た子供だった。お袋は十五歳年下の三十五歳。当時ではかなりの高齢出産だった。戦時中に北朝鮮から日本に渡り苦労の末財を為した親父としては、最後の夢としていずれは故国に戻り先祖代代の墓に眠りたかったのだ。北朝鮮人は「墓」と言う物をとても大切にする。中国人も昔は親の棺桶代を稼ぐために子供を売ったと言う。普通なら到底理解出来ない話だが、親父的にはこの発想は良く理解出来たらしい。

「子供は親の言う事に従うべきだ! お前は黙ってワシについて来い!」

 テレビや総連の甘い言葉は嘘だと親父は初めから見破っていた。だからこそ北朝鮮に渡る時全財産は寄付せず、事業の一部は弟に譲り、現金の一部はスイス銀行に、そして残りの全ては金塊化し……と財産を効率良く分割し自分の我侭のせいで、北朝鮮で生活する事になった俺の将来に準備をしてくれていた。無論「皆から憎まれない事」が一番大切だと知っていた父は力を持っていても極力目立たず、質素な生活を第一としていた。

 父はこの国に死に場所を探しに来たのだ。

 北朝鮮に渡って三年後、六十五歳で見事大往生し父は希望通り先祖代々の墓に埋葬された。この為にこの国に来たのだ。涙など流れる筈が無い……と思っていたが、日本人妻であった母は嘆き悲しみ、親父が死んだ半年後、後を追うように、黄泉の国へ旅立って行った。俺には寂しい出来事であったけれど、母にしてみれば時期を大きくずらさず父と共に旅立てた事は生涯最大の幸せであったのかもしれない。

 親父は俺に色々な余計な知識を教えてくれた。日本の本は持ち込めないが、頭に入っている知識や知恵までは持ち込む事を拒否する事は出来ない。と。親父の死後、軍から依頼されていた新聞翻訳の仕事はそのまま俺の仕事となった。

 翻訳の人出が足りない? 訳は無いと思うがかくして俺は階層が低いのにも関わらず、大学へと進学する事が出来、就職の苦難も味わう事も無かった。こうした事を後で考えてみると、やはり親父が死ぬ前に色々と手を回していてくれたのかもしれない。とも思うし、政府としてはまだ親父が財産を隠している可能性が高いと見、俺が尻尾を出すまで見張っているつもりなのかもしれない。

ともあれ俺も親父に習い、目立った行動は厳に慎み、北朝鮮で地道な生活を続けていた。とりあえず喰えて平和な生活が送れるのならば、どの国で暮らしても同じ事では無いだろうか。時が経つに連れ、俺は母国日本に無理に戻るよりも、静かに北朝鮮で生活する道を自然と選ぶようになった。

「おい。大丈夫か。ぼーっとしているぞ」
「あ、ごめんなさい。えっと何してたんだっけ……」

 休みの日は特に、嫁さんが椅子に座ったまま呆けている事が多くなってきていた。やはりそろそろ医者に見せるべきだろうか。考え込んでいるよりまずは行動する事が大切だ。日本から取り寄せた頭痛薬に風邪薬、そして万能薬アリナミンを袋に入れ病院へと向った。
 病院の中は閑散としていて、外来患者の数は少ない。遠目越しに傷だらけのビール瓶を使って点滴を受ける患者などが居ると多少不安な気持ちになるが、調子が悪い以上病院以外頼る所は無い。数十分待った後で診察を受けた。

「どうしました?」
「どうも毎日ぼーっとして調子が悪いのです……」

 外貨を幾らか渡し無理を言って、血圧体重のみならず心電図なども取って貰ったが以上は無し。医者にお礼を言い、持っていた薬はアリナミンを除き全て病院に寄付をした。どうしたのだろう? どこが悪いのだろう??? 原因はさっぱり分からず、嫁さんも「動けなくなるほど悪い」と言う事も無かったので、結局「様子を見ましょう」と言う事で終ってしまった。

「オモニは調子が悪いの? 直らないの?」
「ん。大丈夫だ。とうちゃんがついているからな。お前達は気にしなくていいぞ」

 嫁さんが暗いと家庭全体が暗くなってしまう。俺は何とかしたいとは思っても出来ぬ不具合さに家中歩き回り、弱っている嫁さんを質問漬けにしてしまっていた。

「欲しい物は無いか? 食べたい物は無いか」
「別にありません。ちょっとゆっくり休ませて下さい……」
「じゃあ母ちゃん。おじさんの所に行こうよ! あそこに行けば新鮮な野菜も果物も食べられるから、母ちゃんの病気きっとすぐ良くなっちゃうと思うけど」

 他に良い案が浮かばなかったので、子供たちに誘われるまま、仕事が終った後、嫁さんを連れ義弟の所に久しぶりに遊びに行く事にした。

 考えてみれば、義弟の自宅に行くのは前妻が死んでから以来だろうか。町から少し離れた農村に暮らす義弟は事有るごとに俺と接触を取りたがった。外貨をせびりに来たり、外国製品が家に置かれている事を子供達に聞けば物色しに来たり。迷惑と言えば迷惑だが、子供たちが望んで遊びに行って世話をかけている以上、鬱陶しいとは思っても、無下に義弟を追い出す事も出来なかった。

 町から村への移動手段はディーゼルエンジンの搭載された列車である。スピードは人が歩くよりも遅い。子供達はいつも歩いて義弟の所に遊びに行っているそうだが、嫁さんの調子が悪い以上、手間で遠回りであっても列車を使い移動したかった。

「義兄さん! 良く来てくれました!」

 北朝鮮の人間は人との縁を大切にし、特に来客に対して手厚くもてなすのが普通だ。とは言え電話が通っていない義弟の家に前もって連絡をしようにも、する手立ては電報しかない。転地療法と言う言葉があるが、空気の良い田舎で数日過ごせば嫁さんの調子が好転するかもしれない。と思ったのだ。事情を説明し、前妻が以前使っていた部屋を暫らく貸してもらえる事となった。

「そう言う事情でなくても、縁深い我らではありませんか。もっと遊びに来てくれてもいいと思いますけど」
「いやその。子供達がいつも世話になっていて……」
「今家内の方に料理を頼みました。こちらで少し静養すればきっとすぐ良くなりますよ」
 手土産としてまず石鹸と小麦粉を五キロほど義弟に渡す。こちらではウドン一つ食べるのにも自分で麺を打たなければならないので、何か持っていくとしたら素材をそのまま持って行った方が活用し甲斐があり喜ばれる事がある。石鹸も北朝鮮では貴重品である。手を洗い全身を清潔に保つ事が感染症を防ぎ、健康に暮らせる事を誰しも知っているが、食料品すらロクに手に入れられない現状では、石鹸にまで業者も国家も手が回らないのだ。
北朝鮮ではめったに手に入らない香水石鹸。料理を用意してくれた義弟の奥さんが大切そうに手に持ちながら、エプロンを外し俺の前へやって来た。年齢は義弟よりも大分若い。石鹸を鼻に近づけ笑う姿に暗い陰湿な影は無く、再婚の相手とは思えない程、面差しに嫌味の無い優しげな物腰であった。

「いつも洒落た物をありがとうございます。こう言う物を使っていると気のせいとは分っていても若返るような気がします」
「いえいえそんな事は……」
「義兄さん本当にありがとうございます。子供たちを大切に育ててくれただけでなく、貴重な輸入品まで何時も頂いてしまい……感謝しています」

 義弟は決して悪い人間ではない。が、子供が奪われるかもしれない。と想像していると、ついつい悪い方に考えが向いてしまうのかもしれない。普段抱えている悩みを今日はとりあえず切り替え、その日は義弟が作ったと言う特製ドングリ酒で乾杯をした。

「これって密造品か?」
「細かい事言わないで下さいよ。誰でもやっている事じゃ無いですか。ゴミが浮いているまずいビールよりも絶対こっちの方が旨いですよ」

 本業よりも副業を大切にするのは、北朝鮮では決して珍しい事では無い。その日は手土産として持って行った松の実を酒の肴に時を過ごした。

北朝鮮の山沿いの畑は酸化鉄が多く含まれているからだろうか、土が赤く実りが少ない。義弟が言うには下手に農作物を作るよりも、密造酒を作って、闇市場で売った方が商売になるのだと言う。もっとも農作物を作りたくても北朝鮮では農薬も肥料もすべて個人負担である為、安定した収入を得る為にはある程度の副業が認められるのが普通だった。

 北朝鮮では酒に溺れる人間が少なくない。アルコール自体単価が安い事もあるし、自分の生活に絶望した意思の弱い夢の無い人間がその理由であるのかもしれない。何度か絡まれ、厭な思いをした後、いつしか町中で顔も目も黄色い人間を見かけたら、目を合わさず、出来るだけ関わらぬように立ち去るようになっていた。アルコール中毒の人間は突然暴れ出す事があるし、誰彼無く酒をせびる事も決して珍しい事では無かったからだ。

 アルコール中毒の人間が酒を飲むのは酒が美味しいからではなく、簡単に現実逃避できるからだろう。町中で極稀に酒を飲んだまま泥酔し、倒れ込み動かない人間を見つける事がある。脈を取るとまだ生きているが、顔が赤く息も荒い。こうした人間を見つけるとどんなに面倒でも、雪の降っている時は特に屋根のある所まで身体を引っ張って行くが、既に手遅れで生き絶えてしまった人間や、道路の中央でうっかり眠ってしまい、車に轢かれてしまった人間は既に手遅れで、さすがにそうした人間までどうこうしようとは思わない。そんな時は目を背けて足を早める事が精々だった。

 酒を日々飲みすぎたせいで全臓不全となり死に行く人、慢性的な栄養不足により浮腫となり、酒のせいで更に肝炎を煩わせる人も少なくない。酒を造る人間が悪いと言う人も居るだろうが、禁酒法のあったアメリカの時代を除き、「酒を造るのは犯罪だ!」と言う人が居るだろうか。忘却の手段としての酒ではなく、会話を促進させる北朝鮮の特産物にもなる楽しい酒を作りたい。弟の口調は本気であり、何でもナアナア、他人任せで、何でも人のせいにして済ませる北朝鮮人とは一線を画していた。

「無論全く農作物を作らない訳では無いですけどね。最近は酒を造る事が多くなってきました。作って楽しい、飲んで楽しいですからかね」
「作らなかったら党から罰せられるだろう。大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。この辺の役人全員に賄賂・定期的に贈っていますから」

 あっけらかんとしたこの態度は、見習うべきなのかもしれない。
 こうした性格だからこそ、再婚ながらも美人な奥さんを貰う事が出来たのだとしたら……やはり義弟は優秀な人間なのだ。

 平壌で売られて居るビールにははろ過技術が遅れているため、殺菌の為に硫酸を少量入れているそうだが、義弟はそういった余計な添加物を一切入れていないらしい。理由としてはそうした物を買ったほうがコストが高くつくからだそうだ。

「北朝鮮は元々農業には向いてないのですよ兄さん。メチルアルコールを飲んで目を潰す前に僕の作ったドングリ酒を飲んで欲しい物です」
「確かに、この酒は旨く出来ているが……ま、ナゲヤリにそう言うな。お陰で我が家は飢えなくて済んでいるのだから。もう少しがんばってくれよ」
「しかし、飢餓が進んでいるせいか、年々材料となるドングリの木の伐採が進み、材料の調達に苦労するようになってきました……それでお願いがあるのですが……実は今度ブルーベリー酒に挑戦してみようと思うのですが、情けない事に苗も肥料も調達する当てがありません。政府の高官と話してみたのですが、直接手伝いをする事は出来ないが、義兄さんがもし日本から調達してくれるのであれば、輸入の手続きに便宜を図ってくれるというのです。もし良かったら協力して貰えないでしょうか」
「しかし、何でブルーベリーなのだ? 酒にするなら他にも良い果実がありそうな物だが」
「ブルーベリーは荒地を好むんですよ。昨年、夏頃に政府高官の庭先で元気に育って居るのを見た事があるのですが、それはもう大粒の実が見事に実っていて、一個食べて見たら甘くて旨い事。僕は即「これだ」と思いましたね」
「日本の親戚と連絡を取るのは構わないけれど……もし上手く調達出来なかったら諦めろよ」
「ありがとうございます! さすがは義兄だ!」

 とはいえ日本からブルーベリーの苗を北朝鮮に送る。それは例え百本送った所で大した金額にはならないと思うから、義弟の願いはおそらく来月には叶う事になるだろう。

 息子達が何気なく誘ってくれて結論としては良かったのかもしれない。何だか嫁さんだけでなく俺も良い気分転換になったような気がする。卑屈に物事を考えず、前妻が亡くなっても変わらぬ付き合いを続けてくれる事は感謝すべき事で、多少の希望を受け入れる事は関係を潤滑に継続させる為に必要な事なのだ。

 義弟が作った野菜の一部は平壌に運ばれ、高級幹部に供されると言う話を聞いた事が有る。チェチェ農法とは良く言うが、結局党から連絡があるのは今年の作物の取れ高を示した紙が一枚送られてくるだけ。後は種は勿論道具に至るまで全て自前である。

 うっかり予定通りに作物が取れなければ最悪強制収容所送りと言う事にも成りかねない。農業などはまだ土地があるだけいい方なのだ。ある者は専門学校にパソコンを複数台設置するよう紙一枚の指令を受け、途方に暮れてしまったと言う。結局は頭が回る者が中国から大量に安いテレビを仕入れ、それを香港で売り払い差額の儲かった金額でパソコンを何とか格好がつく程度パソコンを揃えたと言う。

 中途半端な知識で化学肥料をとにかく大量に使い、土を荒らし、使い物にならなくしてしまった者、耕作する事自体を諦め、当ても無く河を越え脱北する者。こちらに来る途中の電車から見る北朝鮮の風景は何とももの寂しく、希望を感じる事が出来なかった。

 そうした中多少寄り道をしつつも、緑豊かな畑を守っている義弟はある意味美食を求める高級幹部達にとって便利な存在であるようだ。前妻が俺と結婚した理由は農家の家に生まれ、町での生活を望んだから、だと言っていた。北朝鮮では勝手に住所を移動させる事は許されていない。町で暮らしたければ町に住む男性と結婚するしか方法が無いのだ。

「本当は平壌に住んでいる男性と結婚したかったけど、そんな人一度も会った事無いし」

 憎まれ口は良く叩いたけれど、前妻は本当に良く尽くしてくれた。あれ程元気であったのに、絶対に俺よりも長生きすると笑っていたのに、突然の肺炎であれ程あっさりと亡くなってしまうとは……救急車と言う制度が無い北朝鮮の制度を呪った事もあったが、義弟の顔を見る度に亡妻に似たその面差しから、その時の事が思い出してしまい、目じりに軽く涙が浮かんでしまった。

 子供達はというと義弟の家に居る間中、親の行動を完全に無視し、ひたすら虫捕りにあけくれていた。日本から取り寄せた虫かごを誇らしげに首から下げ、田舎の子供たちを引き連れる姿は何とも頼もしく、二人が義弟の元に通う理由の一つが見え隠れするような気がした。

 もしかしたら俺は気を回しすぎていたのだろうか……酒を飲みながら自慢気に煙草の煙をくゆらせる笑顔の義弟と話している内に、長く沈んで居た俺の気持ちは自然と晴れて行くようだった。

「義兄さんはとにかく考えすぎ。気楽に行きましょうよ。気楽に」

 ついつい深酒してしまうのを必死に理性で押さえ、とりあえず休暇中は嫁さんを空気の良い所で休ませて貰う約束をした。しかし容態は良くならず、一日何度か「ぼー」と空を見詰める時間が出来る事は変らなかった。よもやこの年で痴呆症では無いだろうか? 悪い方悪い方に考えてしまい、月に一度定期的に日本の叔父に送る手紙にもついつい容態を書き綴ってしまった。一体どうしたのだろう……又前妻のように俺より早く逝ってしまうような事は無いだろうか……悩めば悩むほど仕事をする手は遅くなり、日々空虚につまらなく感じてしまった。

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2005-05-11 09:18:57

地上の地獄 二.国家

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

二.国家

 南北分断される前、南は農業が中心産業であり、北は工業中心の土地であった。
 第一次世界大戦時に日本の植民地になった事から、韓国人は自由に日本に出入りする事
が可能となった。本当は禁止されていたそうなのだが、同じ日本国民と言う事で、この時大量の韓国人が日本にやって来、そして第二次世界大戦が終っても、大部分の人間は韓国へ戻ろうとはしなかった。母国に戻らなかった理由としてはいくつか考えられるが、やはり経済面で韓国に戻った場合、生活面などで苦しくなる事が考えられたからであろう。

 三十八度で南北分断され、農業力の無かった北朝鮮の人間は餓えに苦しみ、ある時三十八度線を越え韓国に潜入した。最初は優勢を誇っていた北朝鮮軍だが、その後アメリカの参戦により結局三十八度線まで戻されてしまった。結局戦争の成果としては何も上げる事が出来ないまま、韓国との休戦協定が結ばれ、北朝鮮は又しても食料及び人手不足と言う問題に直面する事になった。

「人が足りないのなら、連れてくれば良い」

 そうした考えから始まったのが日本から北朝鮮への「帰国事業」だ。

説には日本在住の朝鮮人からの要望により、受け入れが決まったとされているが、何故それが同じ自由主義国家である韓国では無く北朝鮮なのかは知らされなかった。

「地上の楽園」
「お金の要らない平等社会」

送り出す日本政府側も、朝鮮人達の多くが貧しく生活保護を受けていた事から新潟の船着場までの交通費を補助し、「帰国事業」を推進した。

 行ったら戻れない「片道切符」。

 北朝鮮に帰ってきた事を悔やむ人は、まず船が港に着いた瞬間に「嘘つきだ!」「騙された!」と叫んでいた。しかし船に乗り込んだ全員は赤十字の人間立会いの元、出国する事が自分の意志に基づく物である事を確認した上で乗船して居た。総連の宣伝文句を信じた人間は三年も経てば国交が樹立すると説得されていたようだ。

「すぐ戻ったら格好が悪いかもしれない……」

 こうした一時の見栄で残った人間は一生涯後悔をし続けた事だろう。 母国に戻って来た在日朝鮮人はともかく、日本人妻に至っては猛反対され、「親の縁を切る」「二度と連絡が取れなくても構わない」と言い切って乗り込んだ人間が殆ど。自業自得、自分の判断ミス。日が経つに連れ、首都平壌にさえも住めない冷たい現実に自殺する人さえも少なく無かった。

「帰国の際は全財産を寄付しなくてはならない」

 真面目に寄付をした人間はそれこそタダのばか。北朝鮮の良いカモだっただろう。実際北朝鮮の政策は大当たりし、国民は苦しんでも、国家としては外貨には事欠かなくなっていた。とりあえず食べて生きていられれば、帰国者達も自分の愚かさ悔い、我慢出来たのかもしれない。

現実問題として北朝鮮では主食がトウモロコシの入った雑穀であった。良かれと植えたトウモロコシは土地の栄養を尽く吸い取って行き、転作には不向きな農作物だったのだ。
「土地が無ければ、作ればいい」

 この辺りの選択から、間違いの綻びを人の手では修正できない状態になっていた。山の斜面を切り崩し、農地を作るという計画に人海戦術を使い、木を切り崩し苗を植えたまでは良かったが、そうした事により元々山が持っていた保水能力が奪われてしまい、翌年の雨季、梅雨の季節から水害が多くなり、農作物の出来高が極端に少なくなってしまった。
 配る物が無ければ、配る事が出来ないのは誰でも分かる事だろう。

 押し寄せた洪水の水は地下要塞化していた北朝鮮の地面を容赦無く遅い、溜め込んでいた食料、備品までも押し流していった。

「物が無ければ借りれば良い」

 と言う人も居るかもしれないが、自由主義の国となった韓国でさえ資金調達には苦労したと言うのに、一体世界のどの国の人間が北朝鮮にお金を貸してくれるのだろう? 韓国の場合は最終的には日本から戦後の賠償金及びドイツからお金を借りる事により経済復興したそうだが、北朝鮮の場合、お金があってもそれらは中央の人間が個人の贅沢や軍事力のために使ってしまい、苦しみ死んで行く国民に回る事は無かった。

時折外国から食料を輸入する事があっても、料金の支払いをする事が殆ど無いので、次にその国に農作物の買い付けを依頼しても、「前回の支払いがまだだから」と断られてしまう。

 各国からの無償援助物資にしてみても、北朝鮮は国境を挟んで隣の中国から列車で運ぶ為の燃料さえ調達できない時があるのだ。無い袖は振れず、かくして配給制度は絵に描いた餅となり、崩壊した。

 とは言え人間食べなければ生きてはいかれない。かくして人は山に入りより多くの枝を折り、皮を剥ぎ、木を切り倒して生き延びてきた。そうした行為が翌年、更なる天災・危機を呼ぶ事を知っていても、それを誰も止められなかった。

 北朝鮮では遺体を火で燃やさない。基本的には棺に遺体を納め、先祖代々の墓に埋めるのが普通だ。しかし冬場は死ぬ人間が多すぎて、一人一人の棺を作る事さえもうままならない。最後は鉄製の大型な棺を作り、墓場まで死体をピストン配送し、送った後は棺を埋めずに戻すようになった。

 町中に小さな遺体がぽつぽつと転がって居ても事件にならない国は地球上に幾つあるだろう。転がる死体の数が増えるようになると、人々は今年も寒い冬を迎えた事を目で見て知るようになる。

 新聞の情報によると、今北朝鮮では主食をトウモロコシからジャガイモにするよう農業改革を行っていると言うが、地方にまでその声は届いては居ない。相変わらず一般人が食べる飯はトウモロコシや雑穀の入った飯にキムチの古漬けが食べられれば良い方。ジャガイモは粉にされ、唐麺という名前で売られる事もあったが、めったに口にする事は勿論、見かける事もそう多い事ではなかった。

「後五年で体制は崩壊する」と言う話を聞いて俺はもう十年にもなる。

ソ連邦は崩壊し、中国も緩やかに自由主義と社会主義を融和させた政策を行うようになった。社会主義の忌まわしき亡霊とまで言われている北朝鮮。外見兵士がたくさん居るので国家として形を為しているようにも見えるが、中身は「空っぽ」で国民は前を向いては居なかった。

「今日公開処刑があるそうよ……父さんは行きます? 今回は行った方が……」

 俺の仕事は日本から送られて来た新聞をハングル文字に書き換える事だった。軍事的な意味合いも強いので、地位は最下層ではあっても軍関係者と近所の人間には認知され、あからさまな嫌がらせなど、不愉快な目に合う事は少なかった。芸は身を助く。一日数時間集中して作業すれば、仕事はあっという間に終ってしまう。

 俺は出来るだけ多くの仕事をして、金を稼ごうと言う気は毛頭無かった。目立たぬよう静かに生きる為、日々必要最低限の仕事をこなしているだけに過ぎなかった。

 嫁さんの不安そうな顔は自分の意志を持とうとしない、俺の一番大嫌いな根性の無い顔つきだった。誰かの目を常に意識し、それを最高として行動する。俺は嫁さんのこの顔を見るのはあまり好きでは無かった。今日の作業はまだ終っていなかったが、嫁さんのそんな態度を見ていたら、行かざるを得ないと思った。先週あった公開処刑は寒かった事もありついうっかりサボってしまったのだが、後日嫁さんは北朝鮮の女性だけの集会「女性同盟」で「批判」されたのだと言う。

大勢の前で一人頭を下げて批判されるのは、例え誰であっても辛いだろう。

「今日は行くよ。いつものコート出しておいてくれ」
「分りました。私も一緒に行きますから」

 何故公開処刑に行く事が国民の義務なのだろうか……あんなグロいもの見て楽しい人間が居るとでも思うのだろうか??? 体制維持の為、権力に逆らった場合どうなるか知らしめる為。理由は色々とあるのだろうが、とにかく迷惑な話だった。処刑は大概町一番の広場の中央に白いテントが張られた後、その真中に柱が立てられ、準備がされるようになっていた。

 決められた時間になるとこの場所に黒い目隠しされた犯罪者が、黒い紐で両腕を後ろ手に縛られ連れて来られる。手順良く柱に括りつけ逃げられないようにした後、六人の兵士によって銃殺される。今更飛び散る血潮を見て興奮する人が居ると思って居るのだろうか? 北朝鮮にやって来た直後興味があって、幼い頃に一番前で公開処刑を見学した事があったが、子供が正面切って見るような代物では無かった。

 六人の兵士が指揮官の合図に揃えて一斉に銃を撃ち、犯罪者を血まみれにする。それでも身体が倒れなかった事から考えると、六発の銃弾だけでは対象者は死にきれなかったのだろう。身体がぶるぶると痙攣を起こし、遠目にも血がダラダラと流れ出る様子が見えた。「まだ生きている」と判断した指揮官は腰の短銃を抜き、「ガン・ガン・ガン」とダランと下がってきた頭蓋骨部分に銃弾を打ち込んだ。頭蓋骨は人の骨の中で一番堅い部分であると言うが、一メートル足らずの近距離からの銃弾に、頭から弾が抜け出た所は爆弾が落ちたように破裂し、脳漿が地面と白いテントをどす黒く汚して行った。

 一番悪趣味だと思ったのは、その処刑の瞬間を、関係者及び家族にも見せていた所だろうか。涙を必死に堪え、父親の死を毅然として見守る少女の姿は、柱に添いながらずるずると地面に血を吸い込ませながら崩れ落ちて行く死体の次に悲しすぎて、その後何年も俺はその記憶を何年も眠れない夜の度に思い起こすようになっていた。

 しかしこれも政府広報によれば「慈悲」の賜物なのだと言う。

 銃殺用の弾代が支払えない犯罪者は安らかな? 銃による死では無く、殴打又は絞首により拷問にも等しい苦しみの死が与えられる。「頭の中によくないものが入っているから、頭を撃て」との金正日総書記の指示により、いつしか銃殺のトドメは頭に三発と決まっていた。

 これはまだ良い方だと思うのには理由があった。それは先日ある厭な話を聞いたからだ。その時聞いた話によると、脱北した二十代の妹が中国に居る姉に会う為に自分裸体を撮り、中国国境近くでヌード写真を売り生活費を稼いでいた所捕縛され、父母の手により火あぶりにされたという話だった。

 木に縛り付けられ、親族の手により足元に薪が集められ、家長である父の手により火がかけられる。生乾きの木が多かったのか、火力が弱く中々死ねない妹は「私は死んでも、お姉さんは中国でお金たくさん稼いで、いい生活をしてね」とかなりの時間泣き叫び絶叫し、息絶えたと言う。

自分の写真を撮って売る事がそこまで酷い刑罰を科される程の罪悪だろうか? 皆到底そうでは無いと思って居るのだが、口に出すような事はしなかった。無論それは自分が次の火あぶりの被害者になる事を恐れたからに違いない。

 過去の厭なフィルムを頭の中でぐるぐると回しながら、その日は嫁さんと連れ立って広場の一番隅に陣取り、処刑が終った事を人の流れで確認し、家路についた。

 人の死ぬ姿を眼前で見たからか、嫁さんの調子は明らかに家を出た時よりも悪くなっていた。手袋を外し額の体温を測る。冷たい。言わん事は無い俺は慌てて嫁さんを抱き上げ、家へ向って駆け出して行った。広場のどこかで処刑を見ていたのか、出かけていた二人の子供も後からついて来て居た。

 家についても暖房器具などは殆ど無い。慣れない手つきで石炭ストーブに火をつけ、とりあえずベッドに優しく嫁さんを寝かしつけた。「大丈夫です。心配しないで」と言うが、顔色はどんどん悪くなるばかり。中から温めた方が良いだろうか……とこっそりしまっていたソ連製のウオッカを口移しで唇へと運んだ。とたんに「ゴホン・ゴホン」むせてしまったが、一口二口は飲めたようだ。

「すいません。心配かけて」
「気にするな。お前のお陰で、あんな不愉快な所に長居しないで済んで良かったよ」

 ようやく部屋の中の温度が上がってきた。我が家は夫婦の寝室に子供部屋、そして俺の仕事部屋の三部屋で構成されて居た。子供達も心配そうに嫁さんを見詰めている。血が繋がっていないのは俺も嫁さんも一緒だが、この二人は俺よりも嫁さんに良く懐いていた。
「無理しないでね。僕たち手伝うから」
「今日はもう寝ていて。僕たち料理上手いんだよ!」

 料理が全く出来ない俺とは大きな違いだ。

 その日はぶつ切りにしたジャガイモとトウモロコシのスープに滋養をつけるために潰した鶏肉を少し入れてキムチの古漬けと共に食事を済ませた。嫁さんの顔色は徐々に良くなって来たが、起き上がるのも億劫な程身体の節々がギシギシ痛いと訴えていた。

 社会主義国家は医療費が無料。というが、北朝鮮の場合医師も道具も少ない上に、治療に使う薬は患者が持っていかなくてはいけない決まりだった。薬は普通の店舗では売っていない。闇市で手に入れる他に手段は無いのだ。

 首都平壌まで行けば薬専門の店「薬局」があるそうだが、例えそこまで行ったとしても薬の解説書は英語で書かれている為、地方の学の無い人間が必要な薬を見つけられる稀だと言う。

 一般人がもし薬が必要となった場合は八方手を尽くして闇市場で手に入れるのが普通だった。止む無く俺は日本の親戚に送ってもらった滋養強壮の薬「アリナミン」を嫁さんに飲ませた。日本では栄養補助食品として使われるものだが、栄養事情が悪い北朝鮮の場合は時には薬以上に効果を発揮した。

「明日には病院に連れて行ってやる。今日はとりあえず寝ろ」

 普段はノンビリ役に立たない俺でも、嫁さんが弱っている時こそ力になってやりたかった。格好つけかもしれなかったが、普段多少調子が悪くても「辛い」と言わない嫁さんの事、必要以上に気にならずには居られなかったのだ。

 翌日嫁さんは何事も無かった様に起き上がり、家事をこなしていた。
精神的な物だったのだろうか? 俺には良く分らなかったが、家事をこなした後はいつも通り歩いて職場に通勤して行った。強制では無いのだから、やはり他人が何と言おうともう公開処刑に立ち会うのはやめにしよう。心身の安全を考え、俺はその時固くそう心に誓った。

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2005-05-11 09:00:46

地上の地獄 一.人肉

テーマ:ホラー小説 地上の地獄

一.人肉


「何も無い所ですね。夜星が綺麗でしょう」
「星なんかに興味を持つ人間はここには居ない」


 今もし日本から友人が訪ねてきたならば、会話は天気云々よりも風景の話から始まるかもしれない。言われるまでも無い、見渡す限り「文明」と呼べるものが無い。別段田舎暮らしが好きでここに居る訳ではない。


 今俺がここに住んでいるのは国が「ここに住めよ」と指定したからに他ならない。


 パチンコも無い、雀荘も無い、飲み屋も無い。何を楽しみに生きているのかと聞かれると、まあ人間そんな物が無くても別段ダラダラと生きていけるものだから心配は要らない。 


「北朝鮮に帰国して、あなたは幸せですか?」
「……」
 
 ここの環境が珍しい訳では無く、北朝鮮と言う国は地方に行けば行く程鮮やかな色が無くなり、白、黒、こげ 茶、銅色と言った暗いイメージが辺りを支配するのが普通だから、ド田舎に住んでいると恥かしがる必要は無い。夜のイルミネーション等は首都平壌に行かなければ見る事は出来ないし、日照時間の少ない冬場には家にひょっとかかる裸電球さえも贅沢に見える事がある。


 電気の生産量が使用量よりも遥かに少ないので、電気が使えるのは朝と夕方の食事の準備をするほんの一時でしか無い。だから電気が点いていると言う事は自家発電装置を備えた近代的な家庭であると言う事なのだ。


 曲がる事無く一直線平壌に伸びる道には交通整理の女性が立ち、信号代わりに手を振っている。とは言え通る車は党の幹部が乗るベンツばかりで殆どの人間が徒歩で舗装されていない埃だらけの道を懸命に目的地に向って歩いていた。高速道路で人が車に轢かれた場合、運転手が罪を問われる事は無い。悪いのはたとえめったに通らなくても車が通る道に入り込んだ人間の方なのである。人間の値段は一番安く確かに、自動車の方が高価で普通そう簡単に手に入らない。


 危険な高速道路を避け、一体皆どこへ向っているのか? 説明するまでも無く、今日は食料品の配給は無く、代わりに朝から闇市場が立つ日なのである。


 日本と北朝鮮には現在国交が成立していない。友人が訪ねてくる筈も無いのに、俺は何を考えて居るのだろうか。


 北朝鮮の闇市場。おそらくここはこの国の施設としては一番賑わっている場所では無いだろうか。米、服、自転車。ウサギの角以外手に入らぬ物はまず無い。外貨・特に米ドルさえあれば、その時手に入らなくても、次に市が立つ時には大概揃うのが普通であった。


 闇市場の存在は違法ではあるが、一般庶民は勿論の事党の政府高官さえも恒常的に利用する物流の要としての意味合いがあった。物を買うと言う行為は人間の根源に関する行為なのだろうか、普段は暗い人の顔も闇市で目的の商品を見定めるその時は何故か明るく、楽しそうに見えてくる時があった。


 日本からの帰国者である俺はポケットに米ドルを十ドルだけ入れ、何買うで無くあちこちの店を覗き、気分転換がてら油を売っていた。


 日本からの帰国者の階層は一番低く、仕事の内容は厳しい上に配給は少ないのが普通だが、逆に日本からの仕送りに事欠く事が無い、俺のような要領の良い人間は、逆に贅沢する事さえ望まなければ、食料不足が続いて居ても、不足分は外貨を使い闇市で調達する事が出来るので、そこそこ、いや北朝鮮ではかなり裕福な生活する事は決して難しい事では無かった。


 もっとも金日成が亡くなり、経済状態が目に見えて悪くなってからは、仕事自体殆ど無くなってしまい、「仕事に出勤するのは配給の権利を得る為だけだ」と言う人も少なくはない。とは言え現在はその配給さえも雀の涙と言った状態なのだけれども。


 仕事の合間に実際計算してみた所、生活費は日本などに比べたら恐ろしい程安く、一年間家族四人が普通に暮らしていて、一万円もかかっていなかった。そう考えてみると、日本で満員電車に揺られ、あくせく生きるよりも、北朝鮮でノンビリ暮らすと言う事も決しておかしな選択では無い事に気がつく。


 そうだ。日本から友達がやって来たらそうやって教えてやろう。


 ここは


「元祖・地上の楽園だぞ」

「働かなくても喰えるんだ」


 と。人間何でも考えよう。後ろを向いて考えてばかり居たら、一日あっという間につまらなく終ってしまう。


「これは何だい?」
「肉だよ。肉。見て分らないか?」
「何の肉だって聞いてるんだ」
「……豚だよ豚。見れば分るだろう」


 肉といえば牛か豚、鳥と考えるのが普通であろうが、北朝鮮ではまず牛肉が店先に並ぶ事は無かった。それは農作機械が殆ど無い北朝鮮において牛は重要な農業補助生物だからだ。俺自身二十年以上前に食べた牛肉の味など覚えていないから、例え目の前にあるその肉を「牛肉だ」と言われれば、誰でもそう信じてしまうだろう。


 売っている男の服の上部は白く、裾から全体にかけては黒くスス汚れていた。衛生状態は余り良くないようだが、腐ってさえ居なければ、肉を火にかけさえすれば食べられない事は無いだろう。この国で肉を口に出来るのは正月か金正日総書記の誕生日位だけだけだから、とりあえず買って帰れば今日の夕食が楽しくなる事だろう。


「幾らだ?」
「一斤で五十ウオン」

 高い。


 大体一般労働者の給料が九十ウオンだから、その約半分の値段だ。でも肉ならその位が相場だろうか。いや安い方かもしれない。であるにも関わらずその肉屋は人気が無かった。冷やかす人間は居るのだけれど、殆どの人間はその店よりも明らかに高い値段で肉を買っている。鮮度が良くないのだろうか? 乱雑に筵の上、ボコボコと並ぶその肉の色は鮮やかで、不味そうな質の悪い肉のようには見えなかった。念のために匂いを嗅いでみるが、鼻につくような腐臭が漂って来る事は無かった。


 闇市に立つ他の肉屋はあからさまに「豚の肉を売っています!」とばかりに軒先に豚の足やら頭やらを吊るしている。多感な幼児期を日本で過ごした俺としてはどうしてもこうしたアピールの仕方は馴染めなかった。北朝鮮ではまず見かける事は無いが、出来れば肉は薄切り、最悪はブロックの形で購入したい。今日偶々発見した店はそうした俺の欲求に珍しく合致した店だったのだ。


 「どうしようか……」


 と一人悩みつつ、店の邪魔になっても迷惑なので、静かに店を離れ遠目にその肉を観察してみると、その肉は豚の肉にしては小振りで、心持ち色も赤身が強いような気がした。


「余り肉が取れない生物なのだろうか? それとも子豚の肉なのかもしれない……」


 肉の素性がどうしても気になり、俺は購入をなかなか決断する事が出来なかった。


「最後に寄ってみるか……」


 後ろ髪を引かれながらも、俺は活気溢れる闇市の喧騒の中を歩き始めた。


 その後、闇市を全て回り終え、幾つかの余計な買い物を済ませた後、「肉が残っていたら……買ってみるか」と思い、最終的に遠回りをして俺はその店に立ち寄ってみる事にした


「お、さっききた日本人だね。売れ残っているんだ。安くするからさ。どうだい」


 見た目、帰国者と北朝鮮人は明らかに違う。服装もどちらかと言うと清潔で垢抜けているのは帰国者の方だ。季節は秋を入ったばかりだが、気温は大分冷え込んできており今日の俺は薄地の灰色のセーターをワイシャツの上に軽く着込み道を歩いていた。見た目は使い古しているので、質が悪いように見えるかもしれないが、足元の靴からポケットの中のハンカチまで、全ては日本製で揃えていた。


 北朝鮮においては自国の製品よりも、質の良い日本製が好まれる傾向がある。深く被った帽子であまり良く見えないかもしれないが、頭の毛は月に一度はバリカンで短く揃え、髭も毎朝剃るようにしていた。


 又俺の身長は百七十五センチあるが、北朝鮮男性の平均身長は百六十センチだそうだから、頭一つ位俺は身体が大きい事になるのだから、服装以前にこうした体格差から見分けがついたのかもしれない。


 個人的にはこうした体格・身長差は、遺伝云々の問題よりも、幼児期の栄養状態が影響しているのではないかと思う。日本人が平均身長を十センチ伸ばすのに十年かかったというが、北朝鮮人の平均身長は年々減少の一途を辿っていた。どう考えても悪政のせいだと思うのだが、世界的にそれらを指摘する人間は少ない。


 その他顔色についても、北朝鮮では肝炎を患っている人が多いので、どちらかと言うと黄色い顔の人間が多い中、俺はそうした感染病については徹底して対策をしているため、常に健康的な黄色人種的な黄色い肌色を守っていた。もっとも温かい国で育った為、どうしても冬場になると唇が荒れてしまい、裂傷に悩んでしまう事があるのだが……これはもうどうしようも無い事であった。


 帰国者の中では、定期的に日本から援助を受けている人間は俺のように恒常的に健康を保っているが、逆に受けられない人間は逆に北朝鮮人よりも酷い格好をしている事があった。


「生まれてから一度も下着を付けた事が無い」


 と言った帰国者にも会った事があるが、あれはあれで悲惨な状況だった。食料不足から顔は浮腫み、唇は上下合さらないほど離れてしまっている。物を食べないと口が後退するのだろうか? 氷点下の道であっても靴下無しで歩き、飢えを凌ぐ為に、時には豚の糞に消化しきれずに排出されたトウモロコシの芯さえも食べる。人間ここまで落ちられるのか……と思ったことは一度や二度では無い。


 朝鮮戦争が終って数年しか経っていないのに本当に地上の楽園が存在していると思ったのだろうか? もし本気でそう思ったのならば、本当に気楽な、状況判断が出来ない人間と言われても仕方が無いのではないのでは無いだろうか。


「豚だよ豚。ネズミじゃねえって」
「ネズミは某人物が食べるから市場には出回らないだろ」
「かもしれねえ」
「って、食べるのはネズミのナニだけだって話だけどな。アハハハハ。あんなちっこいの百ケ食べたって腹の足しになるのかね」


 人差し指を嫌らしそうに四十五度に曲げ、ゲラゲラ嫌らしく笑う。何度か陸軍の人間を総動員し野生のネズミを荒野で狩る演習風景を見た事があった。「誰が何の為に」。兵士も町の人間も誰も確かな情報を口にする事は無いけれど、そうした事がこの国で実行が可能な人間は唯一人しか居ない。平均身長も、平均寿命だって縮められるのは……ちょっと考えさえすれば誰だって分る事だろう。


「でも野ネズミのナニを食べるとあそこがビンビンになるらしいから……」
「冷やかしなら帰ってくれ。で、どうするのだい? 買うのか買わないのか」
「じゃ、折角だから半斤だけ包んでくれ」


 話が長引くにつれ、肉屋の店主は迷惑そうな顔をした。闇市とは言え政府の密告者が居ないとは限らない。余計な事を口走った結果として強制収容所に送られたならば、とたんに家族・親族が路頭に迷うのである。


「じゃ、これ。お、米ドルか悪いな」

 ちょうど手持ちにウオンが無かったので、真新しいドル札で金を支払ってしまった。偽札ではない。本物の米ドル札である。ついうっかり、間違えた。


 と慌てて取り返そうと思ったが、店主の笑顔を見てやめる事にした。肉の一つ一つの塊は小さかったが、突き刺す指を押し返す強い弾力がある。脂肪では無く筋肉の部位なのだろうか? 


 しかし、直感本能的に


「絶対豚では無いな」


 と思った。


 闇市場で見つけた不思議な肉。家に持ち帰り、どうしても味が気になったので、嫁さんに小さめの固まりの一つを夕食前に焼いて貰った。とたん異臭が家中を漂い始めた。何とも臭い。我慢できなくなった嫁さんは人目を気にしつつも窓を開け、バタバタと匂いを家の外へと追い出した。


「あなた。これは何の肉なの?」
「え。豚だって聞いたけど」
「豚??? これが???」


 匂い対策をし、大騒ぎしている間にコゲコゲになってしまった肉。とりあえず折角焼いて貰ったのだから口に運んではみたが、口当たりから何ともボソボソしていて、味や風味は良く分らなかった。欲目ちょうど良く焼けたとして評価をしても、決して旨い肉だとは思えなかった。


 嫁さんは「煮込んだらいいと思うわよ。香草を入れて匂いを消せば食べられない事は無いと……」とまだ残る肉の塊を見詰めながら料理の仕方を思案していた。都会に住むカラスは不味くて食べられないが、山に住むカラスは鳥の肉だと思えぬほど良い香りがし、非常に美味だと言う。そういえばそんな話を狩猟が趣味だった亡父から聞いた事があった。


「都会のカラスは不味い。戦時中腹が減って、ワシは一度食べた事あるから、間違い無い」


 亡父のガラガラ声を思い出しながら考える。何故都会のカラスは不味いのだろうか、それは都会において人間の食べ残しなど雑食性であるからだと言う。一体この肉は何の肉なのだ? どう考えても穀物だけを食べている豚の肉では無さそうだった。


「焼いて食う肉じゃ無いんだろ。食っている餌が悪いのかもしれないし」
「食べている物が違うと味が変わるの?」
「そらそうさ。中国にはフルーツ・コウモリと言う動物が居るが、こいつはフルーツしか食べないからスープにすると最高だって言う話を闇市の業者から聞いた事がある」
「そうなの……私最近味覚がおかしくて、あなたも変だと思うのなら間違い無いわね」


 帰国者と結婚したと言う事で嫁さんは北朝鮮社会で肩身の狭い思いをしている。三代前にさかのぼって状態をチェックされるまでもなく、我が家は「敵対階層」だった。北朝鮮国家体制について非難した事も、文句を言った事も無いけれど、なんとも理不尽な話である。


「お前は資本主義に毒された帰胞野郎だ!」

 小さい頃は良くそんな罵声を浴び辛い思いをしたが、何年も続くようになると何とも感じなくなっていた。俺は慣れたけれど、嫁さんはそうでは、ないのかもしれない。


 日常外の風当たりが強いのだからこそ、家の中ではノンビリと安らかに過ごして欲しいと思った。嫁さんの生まれは決して悪くないのだが、中央から失脚し、縁あって俺と再婚した。顔は卵形の色白のすっきりとした顔つきで、どちらかと言うと垢抜けた、典型的な北朝鮮の美人顔だ。


 嫁さんはどんなに忙しい朝でも、必ず眉墨を必ず引き、髪を編み上げる事を忘れない。美人だから性格が悪いかと言うとそうでもなく、家事一般から近所づきあいまで、そつ無くこなす八方美人型である。「欲しい物があったら日本から取り寄せるぞ」と言う俺の言葉にも、嫁さんはめったに自分の私物を頼む事は無かった。


 中国人の最高の贅沢は中国人の料理人を持ち、洋風の家に住み、日本人の嫁さんを持つ事だと言うが、絶対最後の嫁さんの部分は北朝鮮の女性を貰った方が男は幸せになれると思う。優しく強く、そして美しい。こうした特長は前妻もそうだった。


 あまりジロジロ見ていると恥かしがってどこかに行ってしまうので心で思っても、実際口に出して誉めたりするのは出来るだけ、控えるようにしているが、子供が居ないと結婚してもう何年も経つと言うのに、ツイツイ手を握ってしまいたい衝動にかられてしまう。


 今考えてみると、何故再婚である俺と結婚する気になったのか、良く分らない。無論何度か聞いてみた事はあるのだが、何時も笑顔で言葉を濁し、真面目に答えてくれた事は無かった。


 年齢は俺よりも二つ下のまだ二十台ではあるが、幼い頃から踊りを専攻し、身体を酷使した為実年齢よりも十歳は年を取って見える上に、腰はもう曲がりかけてきている。本人が言うには伸ばすより曲げていた方が体勢として楽なのだと言う。


「疲れているなら無理するなよ」
「ありがとう。でも、子供達がそろそろ帰ってくる時間なのよ頑張らないと」


 嫁さんとちょっと話している間に、子供達は元気良く玄関の扉を開け入ってきた。顔も手も泥だらけ。鍋の上で弾ける大豆のように、ハアハア勢い良く息を切らし、二人揃ってリビングへとやって来た。


「とおちゃんただいま!」
「おう。お前達帰ったのか」
「今日はちびっこ計画だったのだ。僕たちがんばってきたから」

 北朝鮮では子供でも社会奉仕として、定期的に古紙や空き瓶集めをする事が義務づけられていた。我が家はどうせ社会の最階層。無理はするなと子供たちには常に教えていた。しかし双子のこの兄弟は俺の実子では無い。子が無い事を嘆いた前妻が弟の子を乳飲み子の頃に引き取ったのだ。


 北朝鮮では出産する女性は多いが、栄養状態が悪いせいか死産する事も、母体が死んでしまう事も決して珍しくは無い。義弟の場合は授かった子供が双子であった上に初産だった。後で話を聞くと、栄養も妊娠しているからと言って多い目に取っていた訳では無かったと言う。しかし四人以上産むと住宅が配給され、八人以上産むと「努力英雄」という称号が与えられるこの国では、多少の危険を顧みず、女性はどんどん出産に挑んで行く。


 又運良く三つ子を出産した場合、女の子には銀製の懐刀、男の子には金の指輪が進呈される。無論帝王切開では無く、自然分娩で簡単に三つ子を無事出産する事は相当困難な事であり、成功例は公開されてい

る情報を見る限り、ここ五年間で百をようやく越えた程度であった。

 妊娠中でも通常人と同じように農作業に従事し、陣痛が起きるその時まで働く。結果無事出産は出来たのだけれど、産後の経過が悪く産婦は亡くなってしまったのだ。義弟の下に残されたのは生まれたばかりの赤ん坊が二人と三歳の息子、五歳の娘が一人。親族会議が持たれた結果として手間のかかる赤ん坊二人は親の本音と建前の海を泳ぎ、ある程度の資産を持ち「後継ぎ」を求む前妻の下へとやって来た。これは決して俺にとって不愉快な事では無く、北朝鮮と言う地で家族の無い俺にとっては本当に有難い申し出であった。


「義兄さんが名前を付けてやってください」


 実の親に名前を付けられる事無くやってきた双子の兄弟。色々考えた結果「日進」と「月進」と言う名前を付けた。幸薄く生を受けた二人の兄弟を昼の太陽と夜の月が交代で守ってくれないだろうか、と思ったのだ。


 日本でもそうだが、北朝鮮でもやはり「男の子」と言えば後継ぎ扱いとなる。血は繋がってはい無いが、わけ隔て無く愛情込めて育てたつもりではあった。しかし五歳、六歳と年を取るにつれ「実の父では無い」と言う事を殊更気にするようになったような気がする。


 誰から真実を聞いたのか知らないが、いつしか自然に実父である義弟の元へ遊びに行くようになっていた。俺はそれを咎めるような事は一切しなかった。寂しい事だが選ぶのは二人であるし、前妻が亡くなった今となっては止める権利さえ「有る」ような、「無い」ような状態であったからだ。


「じゃ、僕たちは出かけてくるから。何か持って行っていいものない?」
「肉買ってきたから、それを持って行ってやれ」


 どうせ実父の元に行くつもりだろう。だったら菓子何かより酒の足しになる物の方がいい。他人だとは決して思わず、二人を大事に育てたつもりだったが、やはり実父と養父では違う部分があるのだろうか?


 思い悩む俺をそっちのけに、嫁さんからバタバタと肉を包んで貰い、二人は俺の顔を見る事無く足早に立ち去って行った。二人がこの家から居なくなる事があるのだろうか……と一人悩んだ事もあったが、現実問題として手間と金のかかる二人が弟の家に戻ると言い張っても不可能であろうと言う結論に達した。


「とおちゃん。今僕たち虫取りにはまってるんだ」
「そうかそうか。精々楽しんで来いよ」
「うん。良いのが取れたらとおちゃんに見せてあげるから、楽しみにしてね」


 俺は韓国風に「アボジ」と呼ばれるよりも日本的に「とおちゃん」と呼ばれるほうが好きだった。子供達もそれを知っており、俺の呼称はいつしか他人には通じない「とおちゃん」に固定されるようになっていた。


「焼いて食ったら不味いからな。煮て食うように伝えてくれ」
「わかったー」


 翌日、肉の文句を言ってやろうと闇市に出かけた。しかしその店はその場所から何故か消え去っており、そこには質の悪い繊維質ばかりのトウモロコシ粉を売る店が二軒並んでいた。一応知らないかと聞いてみたが「来月までお休みだって」としか教えてはくれなかった。


「別の闇市を回っているみたいですよ。私が知っているのはそれだけです」

 闇市場とは言え色々と細かい取り決めがあり、場所取りに関しては一ヶ月単位で取り決めがあるようだ。居ないのなら苦情を言いようも無い。来月また出直す事としようか。俺は仕方なく何も買わず闇市場を後にした。


 雪がチラチラと空から舞って来た。今年も餓死者は出るのだろうか。他人の事など知った所では無いが、北朝鮮の老人は死期が近くなると、家族に黙って家を出、路上で死ぬ事が多くなっていた。

 葬式で多大な金をかけるよりも、家族の食料にそうした金を回して欲しいと思うからであろうか。気温が冷たくなるに連れて、町中には通常みかけないような老人達の姿がポツポツ目につくようになって来る。流石に故郷の町ではすぐ連れ戻されてしまい、死ににくいかもしれないと思ったのだろうか。


 着古した、父の遺品であるトレンチコートの襟を立て、足早に家路を急いだ。そろそろ雪が降るだろうと荷物になっても持ってきて、正解だった。毎年雪の降り始めを見る度に、その下に今年もおそらく誰知る事無く埋もれ行く、痩せた遺体の数々を想像しない訳にはいかなかった。

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