2017年05月15日(月)

日本語の文章力を上げるには

テーマ:翻訳

中一だか中二だかの登校時、地下鉄の向かいの席で校章付きの帽子を律儀にかぶった小柄な学生が、本を読みながら一人でゲラゲラ笑っていた。同じ学年の倉君だった。そういう変わったところがあるから少しイジめられていて、僕はイジめはしなかったものの積極的に仲良くしようとはしていなかった。けどあまりにも楽しそうだったので、何読んでるの?と聞いてみた。北杜夫の「天井裏の子供たち」という本で、その作家のお薦め作品をいくつか教えてくれた。それで少しだけ仲良くなったのだが、その後彼がイジめられているときに「ヤメろ!」と止めるほどの正義感や勇気を僕は持ちあわせていなかった。(たぶん、今も持ちあわせていない)

 

薦められた本を通学中に読むようになった。僕はゲラゲラ笑いはしなかった。いや、そうしたかったんだけど必死にこらえていた。すでに倉君よりは人目を気にするようになっていたので。僕はすっかり杜夫ファンになった。百人一首テストの成績優秀者に贈られる文庫本の希望を国語の先生に聞かれると、杜夫の「幽霊」をリクエストした。(自腹で買ってくれたと思っていっそう嬉しかったけど、きっと領収証もらってるよね)

 

それは電車の中で笑いをこらえていた他の作品とは毛色が違ったが、冒頭の美しい文に惹かれた。大学生になって東京で下宿生活を始めてからも、その痛みに痛いんだ本を身近に置いていた。久々に訪ねた祖母の家にも連れていった。三重の田舎の港町で、昔は行くと近所の子供たちと一緒に遊んでいた。ケンケンパ、ハンドテニス、ゴム跳び、チヨコレイト.....三姉妹の家に泊まりにいったりもした。だがその頃にはそんな交流はなく、大学生にもなって「チ、ヨ、コ、レ、イ、ト!」と喜んでいるわけにもいかず退屈していた。しかも夜更かしの習慣がついていた。外は真っ暗で店などなく、港まで歩いて水平線ギリギリの辺りにカノープスという、見ると不老不死になると藤井旭の本に書いてあった幻の一等星を探した。(それが本当なら南半球の人は全員死なない)

 

魚の卸売業をしている祖母の家には、当時そこそこ普及していたワープロ専用機「書院」があった。しょうがない。カノープスも見つからないからこれで暇をつぶすか。クマが出てきたら「く」「ま」と入力する、簡単なタイピングゲームを一晩中やっていたらブラインドタッチができるようになった。入力が楽しくなり、翌晩は何かタイプするものはないかと物色していた。そうだ、あれがあった。

 

「どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うかに見える ― だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。」 ―「幽霊」より―

 

毎晩これをタイプした。そして、感熱紙にプリントアウトした文を見て思った。なかなかの名文書くじゃん ――― 自分。そう、杜夫でなく自分が書いたような気になってくるのだ。「ばあちゃん、これ見て!」と自慢したかもしれない。もちろんそんな勘違いは長持ちしない。しかし「ぼく文章得意」という錯覚は残ったのか、この1週間の「写経」を境に、書くことに対する意識が明らかに変わった。読書感想文は嫌いだったし、小論文は苦手だった。ところが、卒業論文なんて書けるかなという不安はなくなった。むしろ何かを書いてみたくなった。(ただ、それを就職活動につなげるという発想はなかった)

 

会社を辞めてから始めた翻訳者になるための準備にも、この写経を採り入れた。「吾輩は猫である」、「草枕」、「人間失格」、「仮面の告白」、「平家物語」......全部写すわけではなく一部だけ。例えば冒頭。誰だって書き出しには最大級の力を入れるはず。そのエッセンスを手っ取り早く自分のものにしてしまおうというわけだ。次男の小学校の先生の手作り教材にも「文章エチュード」といって、名作の書き出しを朗読させるものがあり、ナイス指導法だと思った。(頭じゃなくてもお気に入りの部分があればそこでもよい)

 

そして今なお、たまに写経をしている。昔とは逆で、今は手書きが新鮮なので何か紙に書きたくなった時、お気に入りの(やっすい)万年筆で書く。最近はもっぱら古文や漢文で、果たして40代半ばでそんなものを書き写して文章力や翻訳力の向上につながるかどうかは見てのお楽しみである。(へったな字でゴメンネ!)

 

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