Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』 日々是好日 心灯 頬笑

歴史上の有名人 ( も含む ) 御墓ネタですが、幅が広過ぎてUPしている本人も「ちんぷんかんぷん」気味で御座います ( 笑 )  どれか一つでも 御気に召して頂ける記事が有りましたら幸いで御座います。


テーマ:

左から浅野内匠頭長矩公夫人瑶泉院殿供養塔、浅野内匠頭長直 ( 長矩の祖父 ) 公夫人高光院殿之墓、浅野大学長廣 ( 長矩の弟 ) 公夫人蓮光院殿之墓がある。


● 瑤泉院
瑤泉院 ( ようぜんいん、延宝 2年 ( 1674年 ) - 正徳 4年 6月 3日 ( 1714年 7月 14日 )、生年については異説も ) は元禄赤穂事件で有名な浅野長矩の妻である。


名は阿久里 ( あぐり )( 阿久理・阿久利とも )。


夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。


瑤泉院は「ようぜいいん」と読まれることが多いが、これは冷泉家の「泉」を古代の呉音で「ぜい」と読むことにつられた読み癖 ( 誤読 ) で、正しくは漢音で「ようぜんいん」と読む。


来歴
初代備後国三次藩主の浅野長治が晩年に成した三女で、父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。


母は浅野長重 ( 浅野長矩の曽祖父 ) の娘。


はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、さらに阿久里姫と改名した。


三次藩士の落合勝信 ( 与左衛門 ) がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たるが、この落合勝信は生涯彼女に仕えることになる。


生まれてすぐに播磨国赤穂藩主浅野長矩との縁組が進められ、延宝 5年 9月 ( 1677年 10月 ) に婚約が成立、延宝 6年 4月 9日 ( 1678年 5月 29日 ) には婚儀に備えて長矩の屋敷へ移っている。


天和 3年正月 ( 1683年 2月 ) に婚儀が執り行われて同年 4月 9日 ( 5月 5日 ) に正式に長矩室となった。


時に阿久里 10歳、長矩 17歳。


以後、殿中刃傷までの 18年間長矩と夫婦生活をいとなんだが、子には恵まれず元禄 8年 12月 ( 1696年 1月 ) には長矩の弟浅野長広を養子としている。


元禄 14年 3月 14日 ( 1701年 4月 21日 )、夫長矩が吉良義央を江戸城内で傷つけたため、切腹・領地没収となったため、16日には赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られていった。


落飾し瑤泉院として夫の菩提を弔った。


赤穂浪士四十七士が吉良を討ち取って幕命により切腹したのち、彼女は伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児たち ( 吉田伝内・間瀬定八・中村忠三郎・村松政右衛門の四人 ) の赦免運動に尽力し、宝永 3年 8月 ( 1706年 9月 ) に将軍家綱の二十七回忌にあたって三人の赦免を実現させた ( 間瀬定八は赦免の前年大島で病死 )。


正徳 4年 ( 1714 ) 三次浅野家下屋敷で死去。享年 41歳。


夫と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られた。


戒名は瑤泉院殿良瑩正燈大姉。


生まれ故郷の三次の鳳源寺に、瑤泉院を供養した五輪の遺髪塔がある。


南部坂雪の別れの真相
討ち入り直前に赤穂藩家老の大石良雄が南部坂の瑤泉院のもとに赴くという「南部坂雪の別れ」は芝居や時代劇などでお馴染みの名シーンだが、事実ではない。


浅野家改易後に大石が彼女に拝謁したのは、討ち入りからだいぶ前の元禄 14年 11月 14日 ( 1701年 12月 13日 ) の一度のみだった。


「南部坂雪の別れ」は、大石が瑤泉院の結婚時の持参金を、浅野家の家名再興や討入りの運動資金として使用していて、討入り直前にその収支決算書を瑤泉院の用人落合勝信に提出したことがヒントになっているようである。


そもそも瑤泉院は当時、南部坂には住んでおらず、同じ赤坂の今井町にあるお里方の三次浅野家の下屋敷に引き取られていた。


この瑤泉院自前の三次領からの収益を、大石らの討ち入り費用に用立てたとする説もある


生年に関する異説

瑤泉院の生年、享年については『赤穂義士事典』の「浅野長矩年譜」、平尾孤城『人間赤穂浪士』、また瑤泉院の墓所の泉岳寺も享年 41歳説で、延宝 2年生まれということが定説となっている。


これに対し、赤穂大石神社の宮司を務め、 赤穂義士研究者でもあった飯尾精が異説を紹介している。


飯尾によると、全浅野家の記録で、浅野宗家に伝わる「三次分家済美録」では瑤泉院は寛文 9年 ( 1669 ) 生まれであるという[1]。


これが正しいとすれば、瑤泉院の享年は 46歳で、夫の長矩とは 2歳違いである。他の義士研究団体『中央義士会』もこの説を踏襲している[2]。


出典
1. 『忠臣蔵の真相』 飯尾精 著、1988年。
2. 『忠臣蔵四十七義士全名鑑(完全版)』 財団法 中央義士会 特別監修、2007年
(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10498837269.html
40 瑤泉院墓


40 瑤泉院 瑤泉院 ( イメージ )
2205a 瑤泉院のお墓の裏に、お岩さんの墓石が有ります。
2205b
2205c








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( 幼名・貞吉、嘉永 7年 ( 1854 ) 生まれ )


会津藩士・飯沼猪兵衛一正 ( 禄 450 石 ) 二男。


慶応 4年 ( 1868 ) 戊辰戦争の際、白虎隊士として出陣するも飯盛山で同志と共に自刃。


偶然救助され唯一人蘇生した。


後、白虎隊自刃の顛末を手記にし、歴史の貴重な証言者となる。


明治 5年 ( 1872 ) 逓信界に入り、電信技術者として九州から北海道にいたる全国の通信・電話網の架設に尽力した。


この間、明治 27 ~ 28年 ( 1894 ~ 1895 ) に日清戦争に出征し、朝鮮半島の軍用電信架設を成功させた。


明治 30 ~ 37年 ( 1897 ~ 1904 ) に仙台郵便局勤務、後、札幌郵便局を経て、明治 43年 ( 1910 ) に仙台逓信管理局工務部長となり、以降仙台に住んだ。


大正 2年 ( 1913 ) 退官。従 5位勲 4等。


昭和 6年 ( 1931 ) 没。享年 78歳。


父方の叔母に会津藩家老・西郷頼母妻・千重子、母方の従兄妹に山川浩、山川健次郎、大山捨松あり。なお、この碑の隣に聳え立つ柏の木は貞雄が苗木を札幌から持ち帰ったもの。


2013年 8月 貞雄孫飯沼○浩、同一○、同○元 建立 ( 個人名は、伏字にしました。)
(案内板より)


最初はアパートの裏に建てられた様ですが、現在はこちらに移動されたみたいです。


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11041395188.html
700 白虎隊墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10891068571.html
556 西郷邸跡(福島県会津若松市追手町5-3 )


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11435277119.html
1264 松平容保公忌歌の碑(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11284663354.html
1001 飯沼貞雄翁の墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861415898.html

2184 白虎隊士・飯沼貞雄墓(宮城県仙台市青葉区北山1丁目14-1・輪王寺)


2185a 光禅寺通幼稚園跡地に、アパートが立っています。


2185b  アパート裏に「碑」が有った場所。
2185c アパート横に移動しました。
2185d 壁に表示板が有ります。
2185e 表示板の左側に・・・
2185f 石碑が有ります。 また隣には飯沼貞吉木手植え、柏の木が有ります。


2185g
2185h
2185i






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( 幼名・貞吉、嘉永 7年 ( 1854 ) 生まれ )


会津藩士・飯沼猪兵衛一正 ( 禄 450 石 ) 二男。


慶応 4年 ( 1868 ) 戊辰戦争の際、白虎隊士として出陣するも飯盛山で同志と共に自刃。


偶然救助され唯一人蘇生した。


後、白虎隊自刃の顛末を手記にし、歴史の貴重な証言者となる。


明治 5年 ( 1872 ) 逓信界に入り、電信技術者として九州から北海道にいたる全国の通信・電話網の架設に尽力した。


この間、明治 27 ~ 28年 ( 1894 ~ 1895 ) に日清戦争に出征し、朝鮮半島の軍用電信架設を成功させた。


明治 30 ~ 37年 ( 1897 ~ 1904 ) に仙台郵便局勤務、後、札幌郵便局を経て、明治 43年 ( 1910 ) に仙台逓信管理局工務部長となり、以降仙台に住んだ。


大正 2年 ( 1913 ) 退官。従 5位勲 4等。


昭和 6年 ( 1931 ) 没。享年 78歳。


この墓は、輪王寺第四十一世中興福定無外和尚が貞雄没後 1周期に建立した。貞雄の戒名は「白巌院殿孤虎貞雄居士」とされ、『白虎』と貞雄の雅号『孤虎』が織り込まれている。


貞吉の出陣に際して、母・ふみの ( 雅号・玉章 / たまずさ ) が詠んだ歌が色紙にのこされている。


あずさゆみ  むかふ矢先はしげくとも  ひきなかへしそ  武士の道

貞吉の出撃するときに  よみてつかはしける   玉章


2013年 9月 貞雄孫飯沼○浩、同一○、同○元 建立 ( 個人名は、伏字にしました。)
(案内板より)


● 飯沼 貞吉

飯沼 貞吉 ( いいぬま - さだきち、嘉永 7年 3月 25日 ( 1854年
4月 22日 ) - 昭和 6年 ( 1931年 ) 2月 12日 ) は白虎隊 士 ( 士中二番隊所属 )。


維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。


軍人としての最終階級は陸軍 大尉 。栄典は正五位勲四等。


年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争 にも従軍した。


1931年 ( 昭和 6年 ) 2月 12日、77歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。


生涯

出生

嘉永 7年 ( 1854年 ) 3月 25日、会津藩 士・飯沼時衛一正 の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。


時衛は物頭を務め、家禄 450石、家紋はからおしきにちがい鷹羽。母・文子は西郷十郎右衛門近登之の娘で、玉章 ( たまずさ ) という雅号を持つ歌人でもあった。


家族は、両親と兄の源八 、妹のひろ、弟の関弥 ( 会津松平家 家宰 )。他に祖父の粂之進 、祖母、曾祖母、叔父、下男下女が同居していたという。


会津藩家老・西郷頼母 の妻・千重子は父の妹[1] 山川大蔵 ( 浩 )、山川健次郎 大山捨松 山川二葉 らの山川兄弟姉妹は従兄弟 ( 母同士が姉妹 )。


10歳で藩校 日新館 に入学。二経塾一番組に編入され、15歳で止善堂に入った。学業・武術ともに優秀で、白虎隊編成時はまだ 15歳だったが、長身だったせいもあり、嘉永 6年生まれの 16歳と年齢を 1歳偽って申請し入隊できた ( 従兄妹の山川健次郎は同年生まれであるが、幼年白虎隊だった )。


白虎隊

白虎士中二番隊出陣の慶応 4年 8月 22日、父の時衛は既に白河口に出陣、兄の源八 ( 18歳 ) も越後口の戦線に出ていた為、母の文子から厳かな訓戒を受けた。「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より ( 母方の ) 祖母との面会を許された。貞吉は祖母の西郷なほ子を訪ね、はなむけの一首を賜った。


重き君軽き命と知れや知れ おその媼 ( おうな ) のうへはおもはで


玉章 ( たまずさ ) という雅号を持つ歌人でもある母は、短冊に一首したためた。


梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士 ( もののふ ) の道


旧暦 8月 22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。


翌 23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下に、戦ったが敗走。飯盛山に至り、炎に包まれた城下を見て、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。


彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻・ハツと言われている。ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。


その後、医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。


翌朝町医者の三本住庵 ( みつもと - じゅあん ) が手当てしたが、夕刻には長岡藩 の軍医・阿部宗達、吉見雲台 ( 吉見乾海 の父 ) が治療し一命をとり止めた。


その後の貞吉

その後、貞吉は貞雄と改名し、明治 3年 ( 1870年 ) 静岡の林三郎の塾 ( 静岡学問所、静岡市 ) に入り、後の海軍大将・出羽重遠 らと共に学ぶが、翌年藤沢 ( 志摩守 ) 次謙 ( 奥医師・桂川甫賢の 3男 ) の書生となり、明治 5年 ( 1872年 ) に工部省 技術教場 ( 東京 ) に入所、電信技師となり、同年 10月 5日には赤間関 ( 山口県 下関市 ) に赴任。


その後、国内各地での勤務を経て、1885年 ( 明治 18年 ) に工部省が逓信省 に変わった時には新潟に勤務。


1891年 ( 明治 24年 )、広島電信建築区電信建築長に就任、2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌 1894年 ( 明治 27年 ) には日清戦争 のため、大本営付となり陸軍歩兵大尉として出征。


この間、1892年 ( 明治 25年 ) 6月 18日付で戸籍訂正し、生年を真実の嘉永 7年に改正している。


1905年 ( 明治 38年 )、札幌郵便局工務課長となり、1910年 ( 明治 43年 ) に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。正五位勲四等を受章。会津会 の会員[2] でもあった。


飯沼貞雄は1881年 ( 明治 14年 ) に広島藩士・松尾錬太郎の娘・れんと結婚、1882年 ( 明治 15年 ) に長男・一雄、1885年 ( 明治 18年 ) に長女・浦路、1897年 ( 明治 30年 ) に二男・一精と 3人の子に恵まれた。


しかし、一雄が日露戦争に出征して帰還した直後の 1906年 ( 明治 39年 ) に札幌で長男を失った。原因は赤痢という。


一精は北海道寿都出身の貞弘弘子と結婚し、三男一女に恵まれた。なお孫に石巻赤十字病院 院長・飯沼一宇 [3] 国際医療福祉大学 大学院教授・飯沼一浩 に大正期から昭和の終戦直後に掛けて内務 官僚貴族院 議員 などを歴任した飯沼一省 がいる。


晩年

退職後も仙台に住み続けた。


晩年は、會津三園會のメンバーとなり、秋月満志子に和歌の指導を受けた。


1931年 ( 昭和 6年 ) 2月 12日、仙台にて永眠。墓は同市内の輪王寺にある。「死後若し形見のものを会津の方へ持って葬りたいという話があったら、これをやれ」と、次男・一精に髪と抜けた歯を収めた箱を渡して遺言した。


1957年 ( 昭和 32年 ) 9月、戊辰戦争九十年祭の時、前島会の手で飯盛山に墓碑が建てられた。貞吉は白虎隊のことを一部の史家以外にはほとんど話さず、子孫も一部の史家のみに史料を委託した。


詠歌

飯沼貞雄が詠んだ歌を、三首紹介しておく。


皇太子殿下の飯盛山行啓をききて

日の御子の御かけあふきて若桜 ちりての後も春を知るらん


祝 節子姫

よろこびをかわすことばにどよむらん いいもり山の苔の下にも


往時如夢

すぎし世は夢か現(うつつ)か白雲の 空にうかべる心地こそすれ


エピソード

・日清戦争に従軍中、危険だからとピストルを持参するよう促した者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったという。

・長身で、鼻が高くはっきりした顔立ち、スーツにネクタイ姿がよく似合った彼は、英国人の電信建築顧問と並んでも全くひけを取らず、外国人が二人並んで歩いている、と言われたという。

・仙台市の自邸の庭に、貞雄は札幌から持って来た柏の木と、会津地方特産の身不知 ( みしらず ) 柿の木を植えている。


出典

1. 『会津白虎隊のすべて』新人物往来社(2002年)

2. 『会津会会報第17号』

3. 藤原正彦 の管見妄語 95 日本の底力 『週刊新潮』2011年4月7日号参照



参考文献

平石弁蔵 『會津戊辰戦争』

・宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』

・中村謙『白虎隊事蹟』

・神崎清『少年白虎隊』

・秋月一江『飯沼貞吉救助の実証を追って』(『会津史談』第50号)

・中村彰彦『白虎隊』、金山徳次『札幌にいた白虎隊士 ―飯沼貞吉―』

・堀田節夫『帰る雁が祢 私注』

・NHK取材班『白虎隊 生死を分けた二日間』(『堂々日本史』第3巻)

・二瓶由民『白虎隊勇士伝』

・戊辰戦争120年記念出版『会津白虎隊』

・宮崎十三八『少年白虎隊』

・前田宣裕『会津戦争の群像』

・小桧山六郎編『会津白虎隊のすべて』

・安西悠『勝海舟の参謀』

・花見詮『白虎隊士自刃蘇生者飯沼貞吉の生涯 ―塩川での治療と静養を中心に―』(『会津史談』第79号)

・飯沼孤舟(貞雄)『會津三園會 詠草』

・芳山史哲『飯沼貞雄翁を訪ふ』(『新東北』第17巻190号)

・一坂太郎『長州奇兵隊』

・田村哲夫編『防長維新関係者要覧』


登場する作品

ドラマ

獅子の時代 (NHK大河ドラマ ) - 演:鹿股裕司

白虎隊 (1986年のテレビドラマ) - 演:宮川一朗太

白虎隊 (2007年のテレビドラマ) - 演:崎本大海

白虎隊~敗れざる者たち - 演:須賀健太

八重の桜 (NHK大河ドラマ ) - 演:峯崎雄太

(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11041395188.html
700 白虎隊墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10891068571.html
556 西郷邸跡(福島県会津若松市追手町5-3 )


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11435277119.html
1264 松平容保公忌歌の碑(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11284663354.html
1001 飯沼貞雄翁の墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861418225.html
2185 飯沼貞吉終焉之地碑(仙台市青葉区錦町)


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白虎隊士自刃者中唯一人の蘇生者、飯沼貞吉少年 ( 後貞雄と改めた ) 印出新蔵の妻・ハツに助けられ、後逓信省の技師となり仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし昭和 6年 78才で仙台市において没した。


白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。


昭和 32年 9月戊辰戦役 90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によって、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。
(案内板より)


● 飯沼貞吉
飯沼 貞吉 ( いいぬま - さだきち、嘉永 7年 3月 25日 ( 1854年 4月 22日 ) - 昭和 6年 ( 1931年 ) 2月 12日 ) は白虎隊士 ( 士中二番隊所属 )。孤舟、孤虎と号した。


年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。


維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。


1931年 ( 昭和 6年 ) 2月 12日、77歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。


生涯
出生
嘉永 7年 ( 1854年 ) 3月 25日、会津藩士・飯沼時衛一正の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りにて生まれる。


時衛は物頭を勤め、家禄 450石、家紋はからおしきにちがい鷹羽。


母文子は西郷十郎右衛門近登之の娘で、玉章 ( たまずさ ) という雅号を持つ歌人でもあった。


家族は、両親と兄の源八、妹のひろ、弟の関弥。他に祖父の粂之進、祖母、曾祖母、叔父、下男下女が同居していたという。


会津藩家老・西郷頼母の妻・千重子は叔母にあたる。


山川大蔵 ( 浩 )、山川健次郎、大山捨松、山川二葉らの山川兄弟姉妹は従兄弟 ( 母同士が姉妹 )。


10歳で藩校日新館に入学。


二経塾一番組に編入され、15歳で止善堂に入った。


学業・武術ともに優秀で、白虎隊編成時はまだ 15歳だったが、長身だったせいもあり、嘉永 6年生まれの 16歳と年齢を 1歳偽って申請し入隊できた ( 従兄妹の山川健次郎は同年生まれであるが、幼年白虎隊だった )。


白虎隊
白虎士中二番隊出陣の慶応 4年 8月 22日、父の時衛は既に白河口に出陣、兄の源八 ( 18歳 ) も越後口の戦線に出ていた為、母の文子から厳かな訓戒を受けた。


「いよいよ御前は君公の御為に身命を捧げる時が来ました。日頃父上よりの御訓えもあり、今日この家の門を出たならば、オメオメと生きて再び帰るような卑怯な振る舞いをしてはなりません。就いては、武士の子として目出度い今日の門出なれば、西郷のお祖母さまにも御暇乞いをして来なさい」と、母より ( 母方の ) 祖母との面会を許された。


貞吉は祖母の西郷なほ子を訪ね、はなむけの一首を賜った。


 重き君軽き命と知れや知れ おその媼 ( おうな ) のうへはおもはで

玉章 ( たまずさ ) という雅号を持つ歌人でもある母は、短冊に一首したためた。


 梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士 ( もののふ ) の道


旧暦 8月 22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃。


翌 23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下に、戦ったが敗走。


飯盛山に至り、炎に包まれた城下を見て、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。


貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。


彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。


ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。


その後、医者を求めて塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。


翌朝町医者の三本住庵 ( みつもとじゅあん ) が手当てしたが、夕刻には長岡藩の軍医 ( 阿部宗達、吉見雲台 ) が治療をし一命をとり止めた。


その後の貞吉
その後、貞吉は貞雄と改名し、明治 3年 ( 1870年 ) 静岡の林三郎の塾 ( 静岡学問所、静岡市 ) に入り、後の海軍大将・出羽重遠らと共に学ぶが、翌年藤沢 ( 志摩守 ) 次謙 ( 奥医師桂川甫賢の 3男 ) の書生となり、明治 5年 ( 1872年 ) に工部省技術教場 ( 東京 ) に入所、電信技師となり、同年 10月 5日には赤間関 ( 山口県下関市 ) に赴任。


その後、国内各地での勤務を経て、1885年 ( 明治 18年 ) に工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。


1891年 ( 明治 24年 )、広島電信建築区電信建築長に就任、2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌 1894年 ( 明治 27年 ) には日清戦争のため、大本営付となった。


この間、1892年 ( 明治 25年 ) 6月 18日付で戸籍訂正し生年を真実の嘉永 7年に改正している。


1905年 ( 明治 38年 )、札幌郵便局工務課長となり、1910年 ( 明治 43年 ) に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。


飯沼貞雄は 1881年 ( 明治 14年 ) に広島藩士松尾錬太郎の娘れんと結婚、1882年 ( 明治 15年 ) に長男一雄、1885年 ( 明治 18年 ) に長女浦路、1897年 ( 明治 30年 ) に二男一精と 3人の子に恵まれた。


しかし、一雄が日露戦争に出征して帰還した直後の 1906年 ( 明治 39年 ) に札幌で長男を失った。


原因は赤痢という。


一精は北海道寿都出身の貞弘弘子と結婚し、三男一女に恵まれた。


なお孫に東北大学医学部教授・飯沼一宇、国際医療福祉大学大学院教授・飯沼一浩、甥に大正期から昭和の終戦直後に掛けて内務官僚・貴族院議員などを歴任した飯沼一省がいる。


晩年
退職後も仙台に住み続けた。


晩年は、會津三園會のメンバーとなり、秋月満志子に和歌の指導を受けた。


1931年 ( 昭和 6年 ) 2月 12日、仙台にて永眠。


墓は同市内の輪王寺にある。


「死後若し形見のものを会津の方へ持って葬りたいという話があったら、これをやれ」と、次男・一精氏に髪と抜けた歯を収めた箱を渡して遺言した。


1957年 ( 昭和 32年 ) 9月、戊辰戦争九十年祭の時、前島会の手で飯盛山に墓碑が建てられた。


貞吉は白虎隊のことを一部の史家以外にはほとんど話さず、子孫も一部の史家のみに史料を委託した。


詠歌
飯沼貞雄が詠んだ歌を、三首紹介しておく。


皇太子殿下の飯盛山行啓をききて

 日の御子の御かけあふきて若桜 ちりての後も春を知るらん

祝 節子姫

 よろこびをかわすことばにどよむらん いいもり山の苔の下にも

往時如夢

 すぎし世は夢か現(うつつ)か白雲の 空にうかべる心地こそすれ


エピソード
・日清戦争に従軍中、危険だからとピストルを持参するよう促した者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったという。


・長身で、鼻が高くはっきりした顔立ち、スーツにネクタイ姿がよく似合った彼は、英国人の電信建築顧問と並んでも全くひけを取らず、外国人が二人並んで歩いている、と言われたという。


・仙台市の自邸の庭に、貞雄は札幌から持って来た柏の木と、会津地方特産の身不知 ( みしらず ) 柿の木を植えている。


・また、会津若松に死ぬまで帰ることがなかったという説もあるが、 会津大窪山に飯沼家代々の墓があり、貞雄もその家族の墓を建てているので、ひっそりと会津を訪ねていると思われる。

参考文献
平石弁蔵『會津戊辰戦争』
宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』
中村謙『白虎隊事蹟』
神崎清『少年白虎隊』
秋月一江『飯沼貞吉救助の実証を追って』(『会津史談』第50号)
中村彰彦『白虎隊』、金山徳次『札幌にいた白虎隊士 ―飯沼貞吉―』
堀田節夫『帰る雁が祢 私注』
NHK取材班『白虎隊 生死を分けた二日間』(『堂々日本史』第3巻)
二瓶由民『白虎隊勇士伝』
戊辰戦争120年記念出版『会津白虎隊』
宮崎十三八『少年白虎隊』
前田宣裕『会津戦争の群像』
小桧山六郎編『会津白虎隊のすべて』
安西悠『勝海舟の参謀』
花見詮『白虎隊士自刃蘇生者飯沼貞吉の生涯 ―塩川での治療と静養を中心に―』(『会津史談』第79号)
飯沼孤舟(貞雄)『會津三園會 詠草』
芳山史哲『飯沼貞雄翁を訪ふ』(『新東北』第17巻190号)
一坂太郎『長州奇兵隊』
田村哲夫編『防長維新関係者要覧』

登場する作品
ドラマ
獅子の時代(NHK大河ドラマ)
白虎隊 (2007年のテレビドラマ)
(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11041395188.html
700 白虎隊墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10891068571.html
556 西郷邸跡(福島県会津若松市追手町5-3 )


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11435277119.html
1264 松平容保公忌歌の碑(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861415898.html
2184 白虎隊士・飯沼貞雄墓(宮城県仙台市青葉区北山1丁目14-1・輪王寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861418225.html
2185 飯沼貞吉終焉之地碑(仙台市青葉区錦町)


1001 飯沼貞雄 飯沼貞雄
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浅野大学長広室蓮光院


土方雄豊の養女 ( 土方豊高の娘 )


法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。


● 浅野長広
浅野 長広 ( あさの - ながひろ ) は、江戸時代前期から中期の旗本。


元禄赤穂事件で有名な浅野長矩の弟。幼名は戌千代 ( いぬちよ )。通称は大学 ( だいがく )。

生涯
寛文 10年 ( 1670年 ) 10月 29日、赤穂藩主・浅野長友の次男として江戸で生まれる。


母は内藤忠政 ( 鳥羽藩主 ) の娘・波知。


大垣藩主・戸田氏定、岡部藩主・安部信峯は母方の従弟にあたる ( 母同士が姉妹 )。


15歳のときに兄とともに山鹿素行の門下に入り、兵学などを学んだ。

元禄 7年 ( 1694年 ) 8月 21日、兄・長矩から播磨国赤穂郡の新田 3,000石を分与されて旗本の寄合 ( 3,000石以上の旗本で無役の者 ) に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。


同時に長矩の養子となり、同年 9月 1日、初めて将軍・徳川綱吉に拝謁した。

元禄 13年 ( 1700年 ) 11月 14日には菰野藩主・土方雄豊の養女 ( 雄豊の早世した嫡子・土方豊高の娘 ) を正室に迎えた。


この縁組の背景には長矩が天和 3年 ( 1683年 ) に勅使饗応役を命じられた際に雄豊が院使饗応役を務めていたことが関係していると思われる。

元禄 14年 ( 1701年 ) 3月 14日、兄・長矩が江戸城において高家肝煎吉良義央に刃傷に及んで切腹となると、長広や広島浅野本家、従弟の戸田氏定や安部信峯なども連座。


また 3,000石の所領も召し上げられた。


その後、長矩の遺臣・大石良雄らは浅野家再興運動を行っていたが、翌年 7月 18日に広島浅野宗家にお預けとされる。


大石らによる吉良邸討ち入りがあったのはそれから 5ヶ月後の事であった。


なお長広自身は、お預かり中に宗家から 1,000俵が支給された。

宝永 6年 ( 1709年 ) 8月 20日、将軍・綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永 7年 ( 1710年 ) 9月 16日には新将軍・徳川家宣に拝謁して改めて安房国朝夷郡・平郡に 500石の所領を賜り旗本に復した。


またこれとは別に浅野宗家からも 300石を支給され続けた。


ここに赤穂浅野家は旗本ながら「御家再興」を果たした。


享保 9年 ( 1724年 ) 7月 19日、家督を嫡男の長純に譲って隠居した。

享保 19年 ( 1734年 ) 6月 20日に 65歳で没し、兄や四十七士と同じ高輪泉岳寺に葬られた。


また四谷の妙行寺には室の墓があり、法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。


● 土方雄豊
土方 雄豊 ( ひじかた - かつとよ、寛永 15年 11月 19日 ( 1638年 12月 24日 ) - 宝永 2年 7月 1日 ( 1705年 8月 19日 )) は、伊勢国菰野藩の第 3代藩主。

土方氏久 ( 初代菰野藩主・土方雄氏の次男 ) の三男。母は松本藩主・水野忠清の娘。子は土方豊高 ( 長男 )、土方久長 ( 次男 )。通称は清十郎、主殿助、杢助。官位は従五位下・備中守、市正。

京都に生まれる。


慶安 3年 ( 1650年 ) 5月 11日、伯父にあたる第 2代藩主・雄高の娘と結婚してその養子に入った。


慶安 4年 ( 1651年 ) 9月に雄高が死去したため、翌承応元年 ( 1652年 ) 2月 8日に 15歳で家督を相続した。


寛文元年 ( 1661年 ) 12月 13日、将軍・徳川家綱に初御目見し、28日に従五位下・備中守に叙任された。


寛文 2年 ( 1662年 ) 4月に初めて菰野に入った。


寛文 3年 ( 1663年 ) 12月には江戸で火消し大名として活躍し、将軍家綱からも表彰された。


延宝 7年 ( 1679年 )、官職を市正に改めた。


延宝 8年 ( 1680年 ) に鳥羽藩主・内藤忠勝が刃傷事件のために改易に処された際には、雄豊が鳥羽城受け取り役に命じられ、志摩国鳥羽へ赴いた。

天和 3年 ( 1683年 ) に院使饗応役を命じられているが、このとき赤穂藩主・浅野長矩が相方の勅使饗応役を勤めていた。


指南役は吉良義央であった。この時に浅野と土方は親しくなったようで、長矩の養子長広 ( 長矩の実弟 ) は、雄豊の養女 ( 長男・豊高の娘 ) と縁組することになる。

宝永 2年 ( 1705年 ) 7月 31日に死去した。享年 68。菰野の見性寺に葬られた。


法名は通霄院殿玄峯孤順大居士。


家督は長男・豊高が父に先立って死んでいたため、孫 ( 豊高の長男 ) の豊義が継いだ。

(wikiより)


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瑤泉院の祖母・高光院 ( 浅野匠頭長直室 ) 墓です。


また隣には、『浅野内匠頭長矩後室瑤泉院』の供養塔が建てられています。


瑤泉院は、ここが菩提寺というわけでなく祖母の供養を依頼した ( 永代供養料として金 30両を納めたという寄付を記念した ) 縁で供養塔が建てれられたようです。


ですが、古い物ではなく昭和 28年の 240回忌に建てられた物のようです。( あくまで、泉岳寺が菩提寺です。)

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両名は赤穂浪士四十七士の中でも文化・文人として知られる。


木村岡右衛門は漢詩に秀で、吉良家討入の際、兜頭巾の裏に漢詩を縫い込んでいたと伝えられる。


  身寄浮雲滄海東

  久愆恩義世塵中

  看花對月無窮恨

  散作暁天草木風


大高源吾は茶道と俳句に優れ、切腹の際「ちょっとお筆を拝借」と次の辞世の句を残した。


 梅てのむ 茶屋も有べし 死出の山


大高子葉 ( しよう ) ( 不詳 - 1703 元禄 16年 )


赤穂浪士・大高源五は、子葉と号し宝井基角 ( たからい - きかく ) に俳諧を学んだ。


元禄 15年 12月 14日主君の仇を報じて後、江戸松山藩邸に預けられ同 16年 2月 4日同藩邸において切腹を命ぜられた。


その死に臨んでこの句を遺して潔く自刃、享年 32歳。


基角遺稿の俳諧選集『類柑子 ( るいこうじ )』( 宝永四年刊 ) の文字により昭和三九年建立。
(案内板より)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503906839.html
94 宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞いの碑)〔墨田区向島2-5-17・三囲神社 〕


http://ameblo.jp/honmokujack/theme-10022718773.html
654 宮原久太夫墓(愛媛県松山市末広町14-1・興聖寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503137040.html
65 木村岡右衛門貞行墓


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503196727.html
69 大高源五忠雄墓


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11135571179.html
818 松平容保墓(松平家廟・福島県会津若松市東山町石山院内)


65 木村岡右衛門貞行 木村 岡右衛門
817 大高源吾 大高 源吾
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白虎隊 ( びゃっこたい ) は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から 17歳の武家の男子によって構成された部隊である。


中には、戦へ行きたいため生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、13歳の年端の行かない子も駆り出されていた。


他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。


概要
慶応 4年 ( 1868年 )、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。


会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。


白虎隊は本来は予備兵力であった。


隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ 340名程度とされた。


なお、装備していた火器は旧式銃 ( ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、前装装条銃 ) のみであったとされる。


これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた。


ただ、東北諸藩のほとんどは軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入しており、白虎隊だけが旧式装備を与えられていたわけではない。


会津藩では若松城 ( 鶴ヶ城 ) を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍した。


少年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。


しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。


なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。


このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原 ( 戸ノ口原の戦い ) で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた ( この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた )。


だが、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を、若松城が落城したものと誤認して悲観、その結果総勢 20名が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉 ( のち貞雄と改名 ) を除く19名が死亡したとされているが、事実は若松城が落城したと誤認して悲観したのではない。


飯沼貞吉が生前に伝え残した史料によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも会津武士らしく飯盛山で自刃を決行した。


途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。


籠城戦は 1ヶ月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。


その後、飯沼貞吉は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に 79歳で没した。


飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の最期の様子が現在に伝わった。


ちなみに、日清戦争時に電信技師としてソウルに渡った際にピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。


同じ「士中二番隊」の隊士であった、酒井峰冶 ( さかい みねじ 1851年 - 1932年 ) の手記が近年発見された。


酒井も生前、当時のことは家族にもほとんど話さなかったそうである。


飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された ( 但し、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている ) 。


あくまでも予備兵力であったために実効的な火力を持ちえなかった事から、実際の戦局への影響力はさしたるものではなかった。


しかし、構成員が少年ばかりであったこの隊が、終始一貫して組織的な戦闘行動を取れていたことは特筆に価する。


反面、その最大の長所が却って隊員の意識の硬直化を促進し、悲劇的な最期に繋がったのではないかという説も根強い ( 仮に彼らに現実的な発想があり、かつ柔軟な対応が取れていれば、城で戦う友軍が敵の攻撃に持ち応えている可能性を考慮し、少なくともその場で全員自刃はしていなかったであろう )。


白虎士中二番隊
隊長
 日向内記


小隊頭
 山内弘人 
 水野祐之進


半隊頭
 佐藤駒之進 
 原田克吉


隊士 
 安達藤三郎  
 池上新太郎  
 石山虎之助  
 井深茂太郎  
 片峯祐之進 
 笹原傳太郎 
 篠沢虎之助 
 庄田保鉄 
 多賀谷彦四郎 
 津川喜代美  
 永瀬雄次  
 江南哲夫
 成瀬善四郎 
 野村駒四郎  
 原鋧三郎 
 間瀬源七郎  
 簗瀬勝三郎  
 矢島八太郎 
 有賀織之助  
 石田和助  
 伊東悌次郎  
 伊藤俊彦  
 伊東又八郎 ( 伊藤又八 )
 飯沼貞吉  
 酒井峰冶
 篠田儀三郎  
 城取豊太郎 
 鈴木源吉  
 遠山雄午 
 永野兵太郎 
 西川勝太郎  
 林八十治  
 藤沢啓次 
 原三四五郎 
 簗瀬武治  
 吉田錺之助 
 津田捨蔵  
 石黒寅三郎 
 浮洲政 
 小野田尚四郎 
 志賀与三郎 
 竹村幸次郎 
 田中清三郎 
 松原孫次郎 
 向山仙吾

うち 印の者は飯盛山での自刃者として名が挙がっている。 


白虎隊の構成
士中一番隊 49名 二番隊 42名
寄合一番隊 106名 二番隊 67名
足軽隊 79名
 
から成り、合計 343名である。


関連
・白虎隊士墓のある飯盛山には、戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子約 200名の霊を慰める石碑の「会津藩殉難烈婦碑」がある。


また、1935年に駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフ氏が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑や、1928年にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑がある。


これらは第二次世界大戦後、進駐軍により破壊されたが、後に一部が復元された。


・北海道久遠郡せたな町に隊士の有賀織之助、永瀬雄次の従兄弟である丹羽五郎が開拓した丹羽 ( 村 ) があり、飯盛山を遥拝するための「白虎隊遥拝所」がある。


・山口県萩市唐樋町の火除け地蔵堂に、額入りの石版画「白虎隊自刃図」がある。


戦火に包まれた若松城下を望む少年たちが描かれているが、いつ誰が描いたものかは不明である。


戊辰戦争終結 10年以内に描かれたという由来文があるが、山と城の位置関係が間違っており従軍した者が描いたにしてはおかしいとの指摘を受けている。


・井深茂太郎の一族からは、後にソニーの創業者となる井深大が産まれている。


・石山虎之助は井深家からの養子であり、後にソニーの創業者となる井深大の祖父・井深基 ( もとい ) は虎之助の実の兄である。


・白虎隊をテーマにした歌曲は複数あるが、中でも名高いのが 1952年に霧島昇が歌った「白虎隊」 ( 作詞:野村俊夫、作曲:古賀政男 ) である。[1]。

関連書籍
『會津藩校日新館』
『まんが会津白虎隊』中島昭二(単行本歴史春秋刊)
『白虎隊 (劇画)』杉山義法原作、小島剛夕作画、日本テレビ、1986年 
関連項目 [編集]飯盛山
二本松少年隊

脚注
1. オリジナルは、1937年に歌・藤山一郎でテイチクレコードより発売

参考文献
星亮一『会津戦争全史』講談社、2005年、43-44頁。
中島昭二『まんが 会津白虎隊』歴史春秋出版株式会社、1995年第一刷発行
(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11025242576.html
678 遠藤嘉竜二墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11156850816.html
881 斎藤一(藤田五郎)墓(福島県会津若松市七日町4-20・阿弥陀寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11284663354.html
1001 飯沼貞雄翁の墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11435277119.html
1264 松平容保公忌歌の碑(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861415898.html
2184 白虎隊士・飯沼貞雄墓(宮城県仙台市青葉区北山1丁目14-1・輪王寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861418225.html
2185 飯沼貞吉終焉之地碑(仙台市青葉区錦町)


700 白虎隊 白虎隊 ( イメージ )

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● 池田 勇太郎

17歳
白寄一原隊

慶応 4年 9月 15日
門田一ノ堰


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● 西村 四郎

17歳
白士一春日隊

8月 23日
若松・鳥居町


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● 星 勇八

16歳
白寄二太田隊
8月 10日
越後口佐取


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● 星 八弥

16歳
白寄一原隊
8月 29日 

河沼郡舟渡


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● 若林 八次郎

16歳
白寄一原隊
8月中か 9月 15日
越後口赤谷・一ノ堰


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● 好川 龍三郎
15歳

白寄一原隊
9月 15日傷・16日
一ノ堰傷・門田面川


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● 高崎 駒之助

17歳
白寄一原隊
8月 24日傷・25日
津川傷・八木山


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● 高橋 富太郎

17歳
白足軽
8・23日傷 9.29日
不明門傷・城中


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● 江川 次郎八
17歳
白寄一原隊
9月19日
門田面川


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● 黒河内 八十記
17歳

白寄一原隊
不明
河沼郡舟渡か朝立


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● 山本 太郎
17歳
白寄二太田隊
9月 1日
河沼郡朝立


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● 安恵 助三郎
16歳
白寄二太田隊
9月 14日
城東・小田垣


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● 藤森 八太郎

16歳
白寄一原隊
8月 25日
越後口津川


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● 古川 深松
14歳
白足軽
8月 23日自刃
若松博労町自在院


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● 小浅 安次郎
17歳
白足軽
8・23日か 9・15日
三の丸又は城中


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● 小松 八太郎

16歳
白寄二大田隊
8月 12日
越後口佐取

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● 青山 勇之進
17歳
白寄二大田隊
9月 14日
城東・小田垣


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● 酒井 源吾

17歳
白士日向隊
9月 15日
城中


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● 佐々木 新六郎

16歳
白寄一原隊
8月 14日
越後口・赤谷


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● 佐久間 直記

16歳
白士一春日隊
8月 23日
若松・鳥居町


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● 岸 彦三郎
17歳
白寄一原隊
9月 5日
河沼郡窪村


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● 木村 次郎

17歳
白寄一原隊
9月 17日
門田・一ノ堰


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● 椎野 恒四郎

14歳
白虎
9月中
城中


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● 遠藤 嘉龍二

15歳
白寄一原隊
9・11日傷 10・7日
耶麻郡熊倉


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● 樋口 勇四郎

16歳
白寄一原隊
9月 15日
門田・一ノ堰


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● 百瀬 外次郎

17歳
白寄二太田隊
8月 10日
越後口石間


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● 森 新太郎

16歳
白足軽
6月 13日
白河太平口


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● 関原 繁太郎
17歳
白寄一原隊
9月 15日又は 17日
門田一ノ堰


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● 鈴木 平助

17歳
白寄二太田隊
9月 1日
河沼郡朝立


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● 鈴木 五郎

16歳
白寄一原隊
9・15日傷 12・6日
一ノ堰傷・雨屋


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● 鈴木 久五郎

16歳
白足軽
9月中傷・10・12日
城中傷・門田御山


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● 井深 茂太郎

17歳
300石 石井守之進・長男
深明院殿忠道義人居士


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● 石山 虎之助

16歳
井深数馬・次男 150石 弥右衛門養子
秀了院殿義覚剣忠居士

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● 伊藤 俊彦

17歳
五人扶持 伊藤亘・長男
浄忠院心誉義喜居士

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● 石田 和助

16歳
側医格 7人扶持 石田竜玄・次男
秋山義遊居士


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● 池上 新太郎

16歳
池上与兵衛・長男
義勇院忠達日清居士

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● 伊東 悌次郎

17歳
130石 伊東左太夫・次男
仁進院忠節剣義居士

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● 林 八十治

16歳
16石 5人扶持 林忠蔵・長男
義光院剣誉忠勇清居士

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● 西川 勝太郎

16歳
300石 西川半之丞・長男
節顕霊神


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● 津川 喜代美

16歳
高橋誠八・3男 150石 瀬兵衛養子
清進院良誉英忠居士

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● 津田 捨蔵

17歳
13石 3人扶持 津田範三・次男
清進院勇猛義忠清居士

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● 永瀬 雄次 ( 治? )

16歳
18石 3人扶持 永瀬丈之助・次男
功勲院忠誉義道居士


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● 野村 駒四郎
17歳
130石 野村清八・3男
義詮孝忠居士


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● 簗瀬 勝三郎

17歳
350石 簗瀬源吾・3男
仁顕院忠肝剣光居士


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● 簗瀬 武治

16歳
150石 簗瀬久人・次男
武勇院殿義戦居士

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● 間瀬 源七郎

17歳
350石 間瀬新兵衛・次男
勇猛院忠誉義道居士


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● 有賀 織之助

16歳
350石 有賀権左衛門・次男
秋峰院戦誉義道清居士

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● 安達 藤三郎

17歳
400石 小野田助左衛・ 4男
信忠院殿英山見雄居士


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● 篠田 儀三郎

17歳
200石 篠田兵庫・次男
賢忠院軍誉英信居士

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● 鈴木 源吉

17歳
120石 内科側医・鈴木玄甫の次男
秋峰院戦義道清居士


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遠藤敬止の弟、遠藤嘉竜二の墓碑である。


遠藤嘉竜二は白虎隊に属し、9月10日、会津郊外熊倉における戦闘で戦死した。


● 遠藤敬止
遠藤 敬止 ( えんどう - けいし、嘉永 4年 ( 1851年 ) - 明治 37年 ( 1904年 )) は、幕末期の武士 ( 会津藩士 )、明治期の大蔵官僚、七十七銀行第二代・四代頭取、仙台商工会議所初代会頭。


経歴
嘉永 4年 ( 1851年 )、会津藩士・遠藤清直の長男として江戸に生まれる。


幕府の開成所に学んだ後、戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いの際には会津軍として歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わりのち敗れて江戸にて謹慎生活を送る。


独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学ぶ。


大蔵省に銀行事務講習所が創設されると、講師として出仕。


渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援。


明治 23年 ( 1890年 ) に鶴ヶ城の払下げが決定すると、募金を集めて私財を投げ打って 2,500円で鶴ヶ城は払下げられ、旧藩主松平家に寄贈した。


鶴ヶ城城保存の恩人として北出丸に顕彰碑が建立され、顕彰会が毎年開催されている。


参考文献
鶴ヶ城趾保存の恩人遠藤敬止
(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11041395188.html
700 白虎隊墓(会津若松市東栄町3-46・飯盛山)



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● 宮原久太夫
宮原久太夫は 20人扶持と軽輩ではあったが、武士道に厚く剣の腕もあり、義士受け取りの徒歩頭の中にもその名前が伝えられている。


宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている。


● 木村貞行
木村 貞行 ( きむら - さだゆき、万治元年 ( 1658年 ) - 元禄 16年 2月 4日 ( 1703年 3月 20日 )) は赤穂浪士 47士の 1人。


赤穂藩では馬廻り役・絵図奉行 150石。譜代。通称は岡右衛門。


赤穂浅野家家臣・木村惣兵衛の子として赤穂で生まれる。


母は大岡次左衛門 ( 赤穂浅野家家臣 ) の娘。

弟に源右衛門 ( 幕府旗本・真田蔵人の家臣 )、姉と妹も一人ずついた。


天和 3年 ( 1683年 ) に父・惣兵衛は死去するが、貞行が家督したのはこの数年前と見られる。


赤穂藩内では馬廻り役兼絵図奉行職にあり、150石取りであった。


また木村は学問熱心な藩士でもあり、陽明学を小川茂助から学んでいる。


同じ赤穂浅野家家臣の牧太郎左衛門の娘を妻に迎え、その間に二男二女を儲けた。


元禄 14年 ( 1701年 ) 3月 14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にあった。


はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わらなかったが、赤穂城開城業務には絵図奉行として参加し、残務処理終了後は加東郡に移り住んだ。


元禄 15年 ( 1702年 ) 1月になってようやく山科の大石に神文血判書を提出。


またこの頃に妻子を大阪へ移し、長男惣十郎は仏門に入れている。


9月 25日に江戸へ下向。


石田左膳となのって本所林町の堀部武庸借家に住んだ。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。


本懐後は松平定直の屋敷にお預かりとなり、同家家臣・宮原久太夫の介錯で切腹した。享年 46。


主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃通普剣信士。


なお木村は高名な臨済宗の僧侶盤珪禅師の弟子でもあり、彼から授かった法名は「英岳宗俊信士」。


討ち入りの際にもこの法名を書いたものを左肩に縫い付けていたという。


関連項目
元禄赤穂事件
忠臣蔵
赤穂浪士
大石神社


● 大高忠雄
大高 忠雄 ( おおたか - ただお ( 源五・源吾 ( げんご )) 寛文 12年 ( 1672年 ) - 元禄 16年 2月 4日 ( 1703年 3月 20日 )) は、赤穂浪士四十七士の一人。


子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。


赤穂藩では、金奉行・膳番元方・腰物方、20石 5人扶持。


父は大高忠晴。

母は小野寺秀和の姉 ( 貞立尼 )。

弟に小野寺秀富がいる。


本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。


出自
大高家は平安時代から続く名門である。


奥州豪族・安倍貞任の一族で奥州の大高館を本拠としていたので大高氏を称するようになったという。


その後も代々大高家は安倍氏嫡流 ( 安東氏 ) に仕え続け、江戸時代にも安倍氏・安東氏の嫡流である陸奥国三春藩主・秋田氏に仕えていた。


なお大高家も安倍氏一族の出自であるので大高本家は藩主と同じ「秋田」姓を名乗ることを認められていた。


源五の父である忠晴は、この秋田家 ( 大高本家 ) の庶子であった。


庶子であるので「秋田」の家名ではなく「大高」を家名とし、浅野長直に仕えた。


浅野家では新参ながら 200石という厚遇であったことからも大高家の出自の良さがうかがえる。


生涯
忠雄は、赤穂藩士・大高忠晴 ( 200石 ) の長男として赤穂に生まれた。幼名は六郎。


延宝 4年 ( 1676年 ) 4月 3日に父・忠晴が死去したため、大高家の家督を相続。


ただし父が 200石であったのに忠雄は 20石 5人扶持しか相続を認められなかった。藩内では金奉行・膳番元方・腰物方などを務めた。


水間沾徳に弟子入りして俳諧を学び、俳人としての才能を大いに発揮した。


同じく俳人として名高い萱野重実や神崎則休などと並んで“浅野家三羽烏”などと称されていたといわれる。


俳諧集『二ツの竹』を編著したのも子葉 ( 大高忠雄 ) である。


元禄 9年 ( 1697年 ) の参勤交代への従軍ではじめて江戸へ入り、翌年 10年 ( 1698年 ) に赤穂へ帰国するが、その時の旅の様子を紀行文にして『丁丑紀行』を著している。


ところが、元禄 14年 ( 1701年 ) 3月 14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。


この凶変の際には忠雄は主君に供奉して江戸にあった。


しかし急遽赤穂へと向かい、赤穂城内の論争では一貫して大石良雄派として行動し、大石の盟約にも加わった。


赤穂城開城後は、大津や京都に住んだ。


忠雄は大石の信任がかなり厚い人物の一人で重要な局面でよく使者に立てられている。


元禄 14年 ( 1701年 ) 9月下旬、江戸急進派の堀部武庸らが大石良雄の御家再興運動中にそれを差し置いて吉良義央への仇討ちを強硬に主張して大石の江戸下向を迫った際には、鎮撫の使者として進藤俊式とともに江戸へ派遣されている ( もっとも逆に安兵衛らの意見に同調して仇討ち急進派となってしまっている。大石良雄自らが江戸下向し、帰京した後に大高も一時帰京した )。


元禄 15年 ( 1702年 ) 7月、浅野長矩の弟・浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となり、大石は京都円山での会議で仇討ちを決定し ( 円山会議 )、大石は命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を実行することとしたが、この際にも同志のところを回る使者として選ばれたのはこの大高忠雄と貝賀友信であった。


元禄 15年 ( 1702年 ) 9月 18日、忠雄は江戸下向にあたり、豪商・綿屋善右衛門 ( 赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた ) より 26両を借用。


また遺作として『二ツの竹』を江戸下向直前に出版する。


親交のあった水間沾徳や宝井其角などそうそうたる俳人が句をよせている。


そして 10月 18日に主君の仇・吉良義央を討つため江戸へ下った。


江戸では町人・脇屋新兵衛 ( わきや - しんべえ ) を名乗った。


俳人としての縁から吉良家出入りの茶人・山田宗偏に入門して、12月 14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。


大石良雄は忠雄の入手した情報を信用し、この日を討ち入りの日と決める。


吉良屋敷への討ち入りでは、忠雄は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。


吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。


泉岳寺では子葉を知る僧侶から一句を求められ、「山をさく刀もおれて松の雪」の一句を残した。


幕府により大石の嫡男・大石良金らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へ預けられた。


元禄 16年 ( 1703年 ) 2月 4日、赤穂浪士へ切腹が命じられ、忠雄は松平家預かりの浪士 10人の最後に切腹の座につき、「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の一句を残した。


松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年 32。戒名は、刃無一劔信士。


宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている。


逸話
大高忠雄が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。


大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。


大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。


これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。


大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。


しかしながらこの大高の詫び証文とされているものは後世の人が作ったものと言われている。神崎則休にも同様の逸話がある。


源五は俳人・宝井其角とも交流があった。


討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた源五が両国橋のたもとで、其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶した源五に対し、其角は、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。


これに対し、源五は「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残る。


明治になってこの場面を主題にした歌舞伎の『松浦の太鼓』がつくられた。


関連
元禄赤穂事件
赤穂浪士
忠臣蔵
大石神社
大高又次郎‐大高忠雄の子孫。幕末、池田屋事件にて新選組により殺害。
(wikiより)


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11135566097.html
817 木村岡右衛門・大高源吾辞世の句碑(松山市末広町14-1・興聖寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503137040.html
65 木村岡右衛門貞行墓


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503196727.html
69 大高源五忠雄墓


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10504645703.html
96 大高又次郎墓(京都市左京区岩倉花園町・三縁寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503906839.html
94 宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞いの碑)〔墨田区向島2-5-17・三囲神社 〕


Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      お墓マイラー           日々是好日 心灯 頬笑
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