Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』  日々是好日 心灯 頬笑

歴史上の有名人 ( も含む ) 御墓ネタですが、幅が広過ぎてUPしている本人も「ちんぷんかんぷん」気味で御座います ( 笑 )  どれか一つでも 御気に召して頂ける記事が有りましたら幸いで御座います。

薄雲太夫 ( うすぐも - だゆう )
江戸中期に江戸・吉原 ( よしわら ) の三浦屋四郎左衛門方にいた遊女。


薄雲は『源氏物語』第 19帖 ( じょう ) からとったもので、太夫は揚女郎 ( あげじょろう ) の最高の職制をいう。


勝山、高雄、吉野らとともに吉原で著名な遊女だが、薄雲を名のった遊女は 3人あり、それぞれの詳細はさだかでない。


一般に知られる薄雲は信州 ( 長野県 ) 埴科 ( はにしな ) 郡鼠宿 ( ねずみじゅく ) の出身で、舞伎 ( ぶぎ ) に優れ、猫を愛したといわれる。


1700年 ( 元禄 13 ) 7月に 350両で身請けされた。


ところが・・・仙台伊達家 3代目藩主の伊達綱宗は吉原通いにうつつを抜かし、高尾太夫に袖にされ、代わりに薄雲太夫を身請けしていったという


そんなことばかりして、政事をしない伊達綱宗は、幕府から隠居を命じられ、跡を嗣いだのがたった 2歳の伊達綱村だったことが、後の伊達騒動の原因となった。 ( 自業自得 )


● 花魁
花魁 ( おいらん ) は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。


18世紀中頃、吉原の禿 ( かむろ ) や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。


「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある[1]。


江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ[2]。


また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。


今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。


下記に江戸時代の花魁について記述する。


概要
吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年 ( 1658 ) の吉原細見によれば、太夫 3人であった。


またその下位の遊女として格子 67人、局 365人、散茶 669人、次女郎 1004人がいた。


江戸時代後期の安永 4年 ( 1775 ) になると、吉原細見には散茶 50人 ( 内、呼出し 8人 )、座敷持 357人 ( 内、呼出し 5人 ) 、部屋持 534人など ( 総計 2021人 ) となっている。


花魁は、吉原の遊郭で最も格の高い遊女で張り店を行わないため、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。


呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中 ( 後に花魁道中 ) と呼んだ。


花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。


花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった ( 花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した )。


人気の花魁は「遊女評判記」などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。


浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。


遊女の位
遊女には位があり、それによって揚代が決まっていた ( 吉原細見に格付けが記載されている。店にも大見世・中見世・小見世の別がある )。


時代による変遷もあり、詳細が不明な点もあるが、花魁に相当するのは、おおむね次の遊女である。


・太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった。


高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。


宝暦年間 ( 18世紀中頃 ) に吉原の太夫は姿を消した。


・格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。


・散茶:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。


・座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。


禿が付いている。


・呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。


本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。


これらより下位の遊女は花魁とはいわなかった。


なお、店の筆頭である遊女を「お職」と呼ぶことがあるが、本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったという。


しきたり
下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、花魁を揚げるには様々なしきたりが存在していた。


・花魁には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった


このため、茶屋で豪勢に遊び金を落とす必要があった。


・座敷では、花魁は上座に座り、客は常に下座に座っていた。


花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。


・初会 ( つまり一回目 )、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。


この際、客は品定めをされ、花魁にふさわしくないと思われたらその花魁とは付き合うことができなかった。


客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。


・裏 ( つまり二回目 ) には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。


・三回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。


このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。


通常は、三回目でようやく床入れ出来るようになった ( なお、この初会から三会目のしきたりは、存在を疑問視する意見もある )。


・馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされる。


他の花魁に通ったことがわかると、花魁は客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。


客は金を支払って詫びを入れたという。


・花魁には馴染みの客が何人もいるため、時には指名がかち合うこともある。


その際は名代といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。一方で、通常の揚代金を取られることになる。


関連用語
花魁道中 ( おいらん どうちゅう )
  花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くこと。


今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されることがある。


忘八 ( ぼうはち )
  遊女屋の当主。仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠 の 8つの「徳」を忘れたものとされていた。


禿 ( かむろ )
  花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。


彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。


禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。


番頭新造 ( ばんとう しんぞう )
  器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。


ひそかに客を取ることもあった。


「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。


振袖新造 ( ふりそで しんぞう )
  15 - 16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。


多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。


しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。


その代金は「つきだし」( 花魁としてデビューし、水揚げを迎える日 ) の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。


留袖新造 ( とめそで しんぞう )
  振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、十代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。


振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。


しかし、まだ一人立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。


太鼓新造 ( たいこ しんぞう )
  遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。


後の吉原芸者の前身のひとつ。


遣手 ( やりて )
  遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役。


誤解されがちだが当主の妻 ( 内儀 ) とは別であり、あくまでも従業員。


難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造のなかから優秀な者が選ばれた。店にひとりとは限らなかった。


廓詞 ( くるわ ことば )
  遊女達は全国から集められており、訛りを隠すために「 - ありんす」など独特の言葉を使っていた。廓詞は揚屋によって異なっていた。


里詞、花魁詞、ありんす詞とも。


三枚歯下駄 ( さんまいば げた )
  花魁が履く黒塗りの下駄。重いこともあって、普通に歩くことが出来ないため、吉原の「外八文字」、嶋原の「内八文字」などと呼ばれる独特の歩き方をした。


きちんと八文字で歩けるようになるには三年かかったともいわれる。


八文字 ( はちもんじ )
  花魁の道中での歩き方。


「内八文字」( 嶋原・新町 ) は、踏み出す足が内側を回り、「外八文字」( 吉原 ) は外側を回る。


伊達兵庫 ( だて ひょうご )
花魁の格式に相応した壮麗絢爛な髪型。横兵庫の派生形。


文金高島田の髷を大きく左右に張り、そこに松や琴柱をあしらった簪を左右に計六本、珊瑚大玉の簪を二本、鼈甲の櫛を三枚挿したもの。


歌舞伎『助六由縁江戸櫻』の三浦屋揚巻や『壇浦兜軍記』の阿古屋に見ることができる。


身請け ( みうけ )
花魁に限らないが、客が遊女の身代金や借金を支払って勤めを終えさせること。


大見世の花魁では数千両[3]にものぼったという。


吉原細見 ( よしわら さいけん )
郭ごとに遊女の名を記したガイドブック。


当時のベストセラーの一つであったといわれる。

注釈
1. 小松奎文 『いろの辞典 (改訂版)  (綺語文章 壹之巻 おいらんの傳)』 文芸社、2002年。ISBN 4835514998。
2. 藤田真一 「関西大学文学部コラム 第41回『京都・角屋の文化 ―学問の手伝えること―』[1]」 関西大学、2006年1月27日。
3. 今日の貨幣価値で数千万円から億に近い価格。
(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10518981127.html
133 西方寺・万治高尾之墓(豊島区巣鴨4-8-42・西方寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10496011311.html
21 二代目高尾太夫の墓(台東区東浅草2-14-1・春慶院)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10498188956.html
38 若紫供養碑(三ノ輪・浄閑寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10495910026.html
9 新吉原花園池(弁天池)跡(台東区千束3-22)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10656910528.html
327 見返り柳(台東区・千束4)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10593704989.html
258 新比翼塚(荒川区南千住2・浄閑寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10547290701.html
183 比翼塚(豊島区巣鴨5・慈眼寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10531697007.html
150 投げ込み寺(浄閑寺)(荒川区南千住2-1-12・浄閑寺)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1203a
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1203b
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1203c

AD
いいね!した人  |  コメント(0)

台東区・千束にある花吉原名残碑 ( はなのよしわら なごりのひ ) です。


吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和 3年 ( 1617 )「葺屋町東隣 ( よしやちょう ひがしどなり )」( 現中央区日本橋人形町付近 ) に開設した。


吉原の名称は、植物の葦 ( よし ) の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葦原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。


明暦 3年 ( 1657 ) の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され同年 8月、浅草千束村 ( 現台東区千束 ) に移転した。


これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。


新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和 33年「売春防止法」の成立によって廃止された。


その名残を記す当碑は、昭和 35年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳 ( こせんりゅう ) 研究家の山路閑古 ( やまじかんこ ) による。


昭和 41年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
(案内板より)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1186a
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1186b

AD
いいね!した人  |  コメント(8)

江ノ島参道入り口に有る 青銅の鳥居をよく見ると、気になる御名前が有りました。


『八百善四郎、松葉屋半蔵、駿河屋市兵衛、扇屋宇右衛門、大黒屋勘四郎、駿河屋市兵衛』


それ以外の、多数の御名前は遊郭関連でしょうか?


商売繁盛を祈念して奉納されたのでしょうか・・・


願主
扇屋宇右衛門
大黒屋勘四郎
松葉屋半蔵

下之坊恭真

江ノ島屋利助
江ノ島屋佐兵衛
伊勢屋庄五郎


世話人
駿河屋市兵工 ( カタカナの"エ"でしょうか 何故に『衛』ではないのか )
松屋新八
大口屋攵右エ門


浅草新鳥越町

世話人 八百善四郎


寄進者の中には花魁 ( おいらん ) 代々山という名もある。

その他多数の御名前が刻まれています。


また八百善は毎年、一族郎党、友人、芸者衆などを引き連れて江ノ島詣でをしていたと云われています。


また江島神社 ( 奥津宮 ) には、『八方睨みの亀』の絵があります


この絵の作者は、酒井垉一さんですが やはり八百善との繫がりが有り江ノ島に来ていたのかもしれません


なぜ江ノ島に・・・、それは生身の弁天様で・・・(以下略)


素盞雄神社には狛犬、虎ノ門金比羅神社には、銅鳥居があります。 ( 近い内に取材します )


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10713413884.html
383 大田南畝墓(文京区白山4-34-7・本念寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10611427769.html
279 葛飾北斎墓(台東区・元浅草)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10613314278.html
282 亀田鵬斎墓(台東区今戸・称福寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10608637129.html
275a 八百善跡(台東区東浅草1-8-12付近)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11276609812.html
275b 白髭神社の狛犬(墨田区東向島3-5-2・白髭神社)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861873646.html
2192 八方睨みの亀の絵(江島神社・奥津宮)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 江の島神社参道入り口
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 江島大明神と読みます。

Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 新吉原
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 無数の御名前が刻されています。
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 願主 扇屋、大黒屋、松葉屋
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 世話人 八百善四郎
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 願主 下之坊恭真
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 文政四年に再建されたようです。

AD
いいね!した人  |  コメント(2)

向島の白髭神社に、八百屋善四郎 ( 八百善 ) と吉原の松葉屋半左衛門、駿河屋市兵衛の寄進した狛犬 ( 文化 2年 = 1815 ) が有ります。


商売繁盛を願って寄進したのでしょうか。


● 松葉屋
また遊郭松葉屋は遊女瀬川を抱えていた店として知られ、主人は宝暦中期から代々半左衛門を襲名しています。


千住の素盞雄神社の狛犬と虎ノ門の金比羅神社の銅鳥居には
「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあり、半蔵が通り名と思われます。


● 駿河屋市兵衛
駿河屋は仲ノ町の茶屋です、新吉原の大門を入ると真っ直ぐな通りがあります。


これが「仲ノ町」と呼ばれ、左右に茶屋が並んでいます。


駿河屋は七軒茶屋と呼ばれた別格の茶屋の一軒で、入口近くの右側にあったようです。


吉原に来たお客はまず茶屋駿河屋に上がり、そこから松葉屋に連絡、遊女を呼んで貰います。


そして八百善から料理や酒を取り寄せ、ひとしきり楽しんでから、松葉屋へ移って一晩過ごす事になります。


お金がもの凄くかかるようになっている。


このお金の一部が狛犬になったのでしょう ほんのちょっと・・・だけ(笑)


狛犬の銘 文化十二乙亥年二月吉日 ( 1815 )


奉納 御寶前 松葉屋半左衛門 八百屋善四郎 駿河屋市兵衛


石工 神田今川橋 六兵衛明貴


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10608637129.html
275a 八百善跡(台東区東浅草1-8-12付近)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11276611276.html
275c 江ノ島青銅鳥居(神奈川県藤沢市江の島2-1-7横)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 向島白髭神社
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 松葉屋半左衛門
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 八百屋善四郎、駿河屋市兵衛
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 寄進された狛犬
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 ♂だそうです。
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 ♀だそうです。

いいね!した人  |  コメント(0)

数拳 ( かずけん ) の名手です。


太田南畝 ( なんぼ 蜀山人、四方赤良と称した ) の漢詩を冒頭に置き


ひらく手の五ゥは勝なり梅のはな


と続く「五ゥ」の「ゥ」は「五」の読みを示す


ふり仮名であって「うっ ( 打っ )」の意味である。


文化旧年建立
(案内板より)


● 拳遊び
拳遊び ( けんあそび ) は、二人で手の開閉または指の屈伸などによって勝負を争う遊戯の事。


後に、三人以上であったり、手だけでなく体全体を用いたりするものも現れたが、基本的に形によって勝敗を決める遊びである。


酒宴で行われる遊びだったが、そのうちのいくつかは子供の間でも行われるようになった。


日本・中国など東アジアを中心に数多くの拳遊びがある。


歴史
拳遊びは大別して「数拳」と「三すくみ拳」があった。


数拳は 2人が互いに片手の指で数を示すと同時に双方の出した数の合計を言い、当たった方が勝ちというもの。


中国が発祥地で日本では 18世紀の初めから広がった。


16世紀の後半に長崎から入ってきた遊びなので本拳・長崎拳・崎陽拳ともよばれた ( 崎陽は漢学者たちによる長崎の異称のこと )。


江戸時代の天保年間までは、これが大人の拳遊びの中心だった。


現代でも九州では球磨拳などの数拳が行われている。


子供の遊びにも、数拳によく似た遊びがある ( → 手を用いた遊び#数字を指定する遊び )。


三すくみ拳は日本の平安時代には存在していたとされる。


日本での代表的な三すくみ拳は虫拳でヘビ、カエル、ナメクジの三すくみ ( 人さし指はヘビ、親指はカエル、小指はナメクジ ) である。


ルールはじゃんけんとほぼ同じで、蛙はナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝ち、蛇は蛙に勝つというもの。


江戸時代後期には天竺徳兵衛をモデルにした児雷也ものが読本・浄瑠璃・歌舞伎で当たりし、児雷也の蝦蟇への大変身が話題となった。


そこでカエル・ナメクジ・ヘビの「蛇拳 ( じゃけん )」というものが流行し、幕末には「狐、庄屋、猟師 ( または狐、猟師、鉄砲 )」の狐拳という三すくみ拳が流行った。


明治になり数拳の手の形と三すくみ拳からの現代行われているじゃんけんが考案されたと考えられている。


またタイには「象、象使い、王様」の三すくみ拳がある。


種類
脚じゃんけん ( あしじゃんけん )
兎拳 ( うさぎけん )
ウントコ拳 ( うんとこけん )
S拳 ( エスけん )
お上げのお手を ( おあげのおてを )
おいでなさい
尾上拳 ( おのえけん )
開帳拳 ( かいちょうけん )
狐拳 ( きつねけん ) 猟師は狐に勝ち、狐は庄屋に勝ち、庄屋は猟師に勝つ。ルールはじゃんけんに同じ。


畸陽拳 ( きようけん )
球磨拳 ( くまけん )
軍師拳 ( ぐんしけん )
源平拳 ( げんぺいけん )
こいこい拳 ( こいこいけん )
薩摩拳 ( さつまけん )
答礼拳 ( さようけん )
三国拳 ( さんごくけん )
庄屋拳 ( しょうやけん )
匕玉拳 ( すくいたまけん )
台湾拳 ( たいわんけん ) かけ声とともに相手と自分の出した指の数を当てるジャンケン


チョン脱拳 ( ちょんぬげけん )
津軽拳 ( つがるけん )
聾拳 ( つんぼけん )
唐山拳 ( とうしんけん )
唐人拳 ( とうじんけん )
藤八拳 ( とうはちけん )( 東八拳とも )
都市拳 ( としけん )
とてつるけん
併せ併せ・伴せ伴せ ( 拳 )( ともせともせ ( けん ))
虎拳 ( とらけん )
どんどん拳 ( どんどんけん )
長崎拳 ( ながさきけん ) 本拳に同じ
なんこ、または、なんこ拳 ( なんこけん ) 薩摩拳に同じ
箸拳 ( はしけん )
ブサ、ブーサー
裸拳 ( はだかけん )
花拳 ( はなけん )
深川拳 ( ふかがわけん )
本拳 ( ほんけん ) 片手の指で、0から 5までの数を表現し、互いに出した数の合計を中国語で当てる拳


幕の内拳 ( まくのうちけん )
まくら拳 ( まくらけん )
雑拳 ( まぜけん )
廻り拳 ( まわりけん )
虫拳 ( むしけん ) 蛙はナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝ち、蛇は蛙に勝つ。ルールはじゃんけんに同じ


盲人拳 ( もうじんけん )
野球拳 ( やきゅうけん )
安来拳 ( やすぎけん )
柳拳 ( やなぎけん )
ヨイヨイ拳 ( よいよいけん )
吉原拳 ( よしわらけん )
世直し拳 ( よなおしけん )
呼拳 ( よびけん )
柳拳
流行すててこ拳 ( りゅうこうすててこけん )
雑拳 ( まぜけん ) 本拳と虫拳とをたがいちがいに打って勝負を決するもの。また本拳を打つべき場合に虫拳の指を出し、虫拳を打つべき場合に本拳の声を出した方が負けとするもの。
(wikiより)


関連情報
数拳 ( いっせーのーせ!)
http://www.k2.dion.ne.jp/~t.makky/mukasi/janken/suuken.htm


日本全国 ジャンケンの掛け声

http://www.freeml.com/wefree/say/scissors/


Drunken Johnny 2nd.の 『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー                日々是好日 心灯 頬笑-878a

Drunken Johnny 2nd.の 『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー                日々是好日 心灯 頬笑-878b

いいね!した人  |  コメント(6)

「幇間 ( ほうかん ) 塚碑」


「幇」は、たすける意。

幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。


たいこもち、男芸者のこと。


幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和三十八年に建立された。


碑には、浅草生まれで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎の俳句がある。


「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
(案内板より)


吉原の幇間として聞こえた桜川の一門が昭和 38年建立


● 幇間
幇間 ( ほうかん、たいこ ) は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。


歴史的には男性の職業である。


解説幇間は別名「太鼓持ち ( たいこもち )」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。


歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。


秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。


ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。


鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。


また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。


「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。


この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。


宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。


専業の幇間は元禄の頃 ( 1688年 - 1704年 ) に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦 ( 1751年 - 1764年 ) の頃とされる。


江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。


現在では東京に数名、関西には 1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。


古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。


台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には 1963年に建立された幇間塚がある。


幇間の第一人者としては悠玄亭玉介が挙げられる。


男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。


正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。


通常は 5 ~ 6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。


師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。


もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。


芸者と同じように、芸者置屋に所属している。


服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。


一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。


これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。


幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。


噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。


文献
太鼓持ちあらい『「間」の極意』
太鼓持ちあらい『太鼓持あらいのユーモア話術』
桜川忠七『たいこ持ち 幇間五十年の一代記』
藤井宗哲『たいこもち(幇間)の生活』


関連項目
道化師
愛宕山 ( 落語 )
鰻の幇間
たいこ腹
芸妓
パンパンボーイ
櫻川千代助
正岡子規

高橋茂雄
(wikiより)


Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      お墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑
Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      お墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑

いいね!した人  |  コメント(0)

根津八重垣町 ( 昔は門前町と言った ) から根津神社まで遊郭があった

そして昔根津は不寝 ( ねづ ) と書かれていたようだ


小石川本郷と谷中の中間の谷間で、天保十余年この根津に娼妓がいたことを記している


更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ、俗に言う水野越前守の禁粛政治で根津遊郭も禁止した


明治維新となるや、この根津の遊郭復帰は声高く叫ばれ公然と開業された


ところが東大 一高が本郷向岡に開設されるに及び、再びこの根津遊郭廃止論は大きく起こった


そして遂に明治二十年十二月限りで廃止、その殆どは洲崎に移り 又一部は吉原に移った


明治十五年当局の調査によると吉原 ( 娼妓、1,019人 )、根津 ( 娼妓、688人 )、品川 ( 娼妓、588人 ) と記され、その繁華ぶりが偲ばれる。
(案内板より)


( 注 画像は周辺画像です )
文京区歴史研究会の一員に、浪越徳治郎さんの名前があります。


○ 根津遊郭

根津遊郭 ( ねづゆうかく ) は、東京、根津にあった遊郭である。


根津神社創立ののち、同地は私娼の集まる地でもあった。


天保 13年水野越前守の改革によって禁止され、新吉原に移され、のちに、慶応年間江戸幕府陸軍奉行の許可を得て、遊郭が建設され、じょじょに繁昌し、明治 3年根津八重垣町の両側にサクラ 200余株をうえつけ、総門をかまえて新吉原にならったが、年限を限って許可した遊郭であり、明治 21年 6月末日をもって撤去され、洲崎において営業を継続するものに許可した。


明治 21年 7月 1日、洲崎 ( 現・江東区東陽町 ) に移転した。


洲崎遊郭は、洲崎弁天町一丁目・二丁目にあった。


同地はもともと明治20年5月の埋め立てにより、深川区に編入された。


東北は川をへだてて西平井町に対し、西は一条の浅い渠をへだてて埋め立て地に面し、南は永代浦にせまった。遊郭の敷地は 5万坪であった。


○ 遊廓
遊廓 ( ゆうかく ) は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。


一区画にまとめてあるのは、治安や風紀を公権力側が統制するため。


成立は安土桃山時代。
別称としては、くるわ、遊里、いろまち、傾城町などがある。
( 「廓」は「城郭」と同じ、囲われた区画を意味する )


江戸時代、公許の遊廓以外には、宿場町にあって半ば公認の飯盛旅籠や、門前町などには岡場所 ( おかばしょ ) と呼ばれる私娼窟があった。


尚落語には遊廓を題材にした廓噺 ( 艶噺 ) がある。


前史
古代から女性による接客は存在した。


神社の巫女による官人の接待がその起源である。


江口、神崎のように港や宿場で遊女が多く集まる地域があった。


室町時代には足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収していた。


遊郭の成立
権力の統制と保護を受け、遊郭として 1箇所に集められるのは、近世以降のことである。


豊臣秀吉の治世に、遊郭を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。


今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。


その 5年後 ( 1589年 天正 17年 ) には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。


大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町 ( 新町遊廓 ) と朱雀野 ( 島原遊廓 ) に移転した。


各地の遊郭
江戸に遊廓が誕生したのは 1612年 ( 慶長 17年 ) である。


駿府 ( 今の静岡市 ) の二丁町遊郭から遊女屋が移され、日本橋人形町付近に遊郭がつくられ、吉原遊廓と呼ばれた。


吉原遊廓は明暦の大火 ( 1657年 明暦 3年 ) に焼失。


その後浅草山谷付近に仮移転、まもなく浅草日本堤付近に移転した。


人形町付近のものを元吉原、日本堤付近に新設されたものを新吉原とも言う。


大阪の夕霧太夫のいる新町、京都の吉野太夫のいる島原、江戸の高尾太夫のいる吉原の遊廓は、三大遊廓 ( 長崎・丸山を入れる説もある ) と呼称された。


この他にも江戸時代には、全国 20数カ所に公許の遊廓が存在した。


最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には 300軒近い遊女屋があったと言われている。


鎖国時、唯一の西洋との窓口として栄えた長崎に、丸山遊郭が誕生したのは 1639年 ( 寛永 16年 ) ごろ。


井原西鶴は日本永代蔵に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。


南蛮貿易で潤った当時の華やかさをうかがわせる。


『色道大鑑』 ( 1678年 ) には当時の遊郭 25箇所が列挙されている。


京島原、伏見夷町 ( 撞木町 )、伏見柳町、大津馬場町、駿河府中、江戸山谷 ( 吉原 )、敦賀六軒町、三国松下、奈良鴨川木辻、大和小網新屋敷、堺北高洲町、堺南津守、大坂瓢箪町 ( 新町 )、兵庫磯町、佐渡鮎川、石見温泉、播磨室小野町、備後鞆有磯町、広島多々海、宮島新町、下関稲荷町、博多柳町、長崎丸山町寄合町、肥前樺島、薩摩山鹿野田町 ( 山ヶ野金山 )

遊郭の文化
江戸時代初期、遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。


上級の遊女 ( 芸娼 ) は太夫 ( たゆう ) や花魁 ( おいらん ) などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。


このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。


江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。


また、遊郭自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。

近代以降の遊郭


1872年 ( 明治 5年 )、成立したばかりの明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、実態はほとんど変わらなかった。


ただし都市化の進展と共に、遊廓の存在が問題になり、郊外などへ移転させられる事例もあった ( 例:東大の近くにあった根津遊郭が深川の洲崎に移転、など )


明治 33年の娼妓取締規則によって、a 娼妓は指定された地域外に居住することは禁止され、b 庁府県令に貸座敷に関する取締規則を制定させ、その規則によって貸座敷営業の許される地域が指定され、娼妓居住指定地と貸座敷指定地とを一致させ、この指定地外に娼妓は居住することを禁止され貸座敷を営業することはできなかった。


この指定された公娼街が、「遊郭」である。


草間八十雄によれば、明治 33年、内務大臣の命によって警保局長が遊郭新設に関する標準内規を定め、地方長官に通牒した。


すなわち、次の条件を具備しなければ貸座敷免許地の新設は詮議しない。


1 その土地市街を形成して戸数 2000戸以上、人口 1万以上を有する。
ただし兵営所在地、船着場、その他特別の事情のあるものはこの限りでない。


2 貸座敷営業者が無いために密売淫の弊に堪えない。


3 付近に貸座敷免許地が無いために新設の必要がある。


4 その他地方民情に背馳しない。


5 貸座敷免許地に適当な場所がある。


内規の定めはあっても世論の趨向に顧み、新設はもちろん遊郭の拡張は認めない。


これがのちに不文律となって新設、拡張は許可されなかったという。


草間によれば、昭和 4年 12月末日現在のデータは以下の通り。


・貸座敷指定地は全国で 541箇所である。


うち 30箇所は貸座敷営業者は存在しない、いわば有名無実のもので、したがって貸座敷の存在する遊郭は 511箇所。


・貸座敷指定地の最も多いのは北海道 ( 45箇所。うち 3箇所が有名無実 )で、ついで山口 ( 41箇所。うち 15箇所が有名無実 )、三重 ( 30箇所 )、山形 ( 26箇所 )、福島 ( 25箇所 )、長崎 ( 23箇所 )、栃木 ( 21箇所 )、新潟および静岡 ( 20箇所 )、広島 ( 19箇所 )、京都 ( 17箇所 )。


・少ないのは鹿児島および沖縄 ( 1箇所 ) 鳥取、徳島および山梨 ( 2箇所 )、奈良、和歌山および愛媛 ( 3箇所 )。


・廃娼が実行されたのは群馬および埼玉。


・100戸以上の貸座敷で公娼街をなす遊郭の個数は 19箇所で、大阪市南区五花街 499戸、京都市東山区祇園町 449戸、宮川町 418戸、東京市浅草区新吉原 295戸、深川区洲崎 286戸、大阪市西区松島 257戸、京都市下京区七条新地 237戸、沖縄県那覇市辻町土之蔵町 234戸、京都市東山区祇園町 ( 乙部 ) 227戸、大阪市西区新町 212戸、京都市中区先斗町 194戸、大阪市西区堀江 156戸、京都市上京区北新地 151戸、下京区島原 146戸、名古屋市西区旭 139戸、岡山市東西中島町 120戸、堺市龍神 107戸、京都市伏見区中書島 104戸、大阪市住吉区飛田 100 戸。以上は確実であるが総数不詳。


・娼妓 1000人以上を有する遊郭は大阪市西区松島遊郭 3657人、東京市浅草区新吉原 2557人、深川区洲崎 2329人、名古屋市西区旭遊郭 1562人、京都市東山区宮川町 1340人、神戸市福原遊郭 1329人。


・1遊郭に娼妓 1人を置き、かつてのなごりをとどめるものは、北海道厚岸郡浜中村遊郭、岩手県紫波郡日詰町遊郭、石川県鳳至郡宇出津町遊郭、珠洲郡小木町遊郭、山口県熊毛郡曾根村遊郭の 5箇所。


・1箇年間の遊客が 100万人以上の遊郭は、大阪の松島遊郭 209万 440人、東京の新吉原 167万 8305人、大阪の飛田 153万 7576人、東京の洲崎 137万 2535人の 4箇所。


・全国 511箇所の遊郭において貸座敷を営業する者は 1万 1154人、娼妓は 5万 56人、遊客の総数は 1箇年に 2278万 4790人、その揚代は 7223万 5400円。


昭和 6年末で遊郭の個数は減少しないが、貸座敷営業者は 9799人となり、娼妓は 5万 2064人、遊客は 2239万 3000人と、昭和 4年と大差は無い。


第二次世界大戦後の 1946年 ( 昭和 21年 ) にはGHQの政策により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、ほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域になった。


1956年、売春防止法が成立し、1958年 3月 31日、同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は、完全に幕を閉じることになった。


現在公認の娼婦街はないが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の元に、1958年以前と変わらない営業を継続している地域もいくつかある。


また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所などもある。


参考文献
小野武雄著『吉原と島原』 講談社学術文庫 ISBN 4061595598
(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10541799178.html
170 浪越徳治郎墓(文京区小石川3-14-6・伝通院)


Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      お墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑
Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      お墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑
Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      お墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑

いいね!した人  |  コメント(0)

安藤 浩 ( あんどう - ひろし )     
嘉永 4年 ~ 昭和 7年 2月 12日 ( 1851 - 1932 )


東京芝の「紅葉館」社長。

父、山梨県出身の安藤太蔵 ( 二男 )。


明治 10年 ( 1877 ) 第三銀行に入行。


明治 11年 ( 1878 ) 横浜支店支配人心得、のち独立して織物業に進むが失敗。


川崎銀行頭取の川崎八右衛門の支援で、明治 15年 ( 1882 ) 川崎銀行水戸支店主任。


明治 17年 ( 1884 ) 本店支配人・営業部長。


以来、勤続 30有余年ののち、同行顧問。


他に、「紅葉館」社長・東京商業倉庫・日本火災保険会社・第百銀行各取締役。82歳。


※ 明治 14年 ( 1881 ) 2月に芝の紅葉山に建てられた会員制の超高級料亭「紅葉館」は、明治の代表的な和風社交場として知られ、政財界文人の社交場であった。


西洋風のきらびやかな社交場である鹿鳴館とならび称されていた。


鹿鳴館は、洋式で西洋の舞踏などが主で、あまり馴染めず、わずか7年でその役目を終えている。


一方、「紅葉館」は万事みやびな和風で中庭には見事な庭園があり庭内には、渓流、滝、築山がしつらえてあった。


昭和 20年 ( 1945 ) の大空襲で焼失。


現在この「紅葉館」の跡地には東京タワーがそびえ建つ。


この「紅葉館」の女中の中から後に、伊藤博文夫人となる「おすま」や川上音次郎の妻で女優一号になった「貞奴」がいた。


また、尾崎紅葉を筆頭に硯友社の文士たちも出入りし、尾崎紅葉は、自分のペンネームに使った。


明治最大の小説、尾崎紅葉著「金色夜叉」の主人公の鴫沢宮 ( しぎさわみや ) は、この紅葉館の女中の中村須磨がモデルになっている。( 芝紅葉館と光子HPより )。


● 川上貞奴 ( 貞奴 )
川上 貞奴 ( かわかみ - さだやっこ、本名 川上 貞 ( 旧姓:小山 )、明治 4年 7月 18日 ( グレゴリオ暦 1871年 9月 2日 ) - 昭和 21年 ( 1946年 ) 12月 7日 ) は、戦前の日本の女優。


生涯
東京・日本橋の質屋・越後屋の 12番目の子供として誕生。


生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となる。


伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。

日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。


1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。

しかし当初は苦労も多く、音二郎の 2度もの衆院選挙落選により資金難に陥る。


1898年に 2人は築地河岸よりボートに乗り、国外への脱出を図るという挙に出たこともある。

この試みは失敗し、淡路島に漂着して一命を取り留めた。


1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため ( 興行主から「女の役は女性がするべきで女形は認められない」と拒否されたためとも ) 急遽代役を務め、日本初の女優となった。


ところが、公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされた。


一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着し、極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が ( 空腹で倒れたのを、何も知らない観客が演技だと勘違いしたのもあって ) 観客に大受けした。


エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。


1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年にパリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行った ( 日本の事務局には許可願いを出していなかったという )。


7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていた。

ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。


8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。


踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。

こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。


パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行。


ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。


1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。


1911年に音二郎が病で死去。遺志を継ぎ公演活動を続けるも、演劇界やマスコミの攻撃が激化。


ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、『日本の近代女優第一号』として舞台から退いた。


福澤諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家・福澤桃介 ( 旧姓 岩崎 ) との関係も話題を呼んだ。


桃介との馴れ初めは 1885年頃にさかのぼる。


馬術をしていた貞が野犬に襲われるのを、学生だった桃介が制したことで2人は恋に落ちる。


1年後、桃介は諭吉の二女・房と政略結婚。

この後、貞奴と桃介は長い別離を挟む。


しかし、女優を引退した後の貞奴は、再び悲恋の相手だった桃介と結ばれる。


事業面でも実生活でも桃介を支え、仲睦まじく一生を添い遂げた。


2人並んで公の場に姿を現し、桃介が手掛けた大井ダム工事の際も貞奴は赤いバイクを乗り回し、現場を訪れ、他の社員が尻込みする中を1人桃介について谷底まで向かったという。


1920年頃、2人は同居を始めた。


2人が名古屋市内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、政財界など各方面の著名人が集うサロンとなった。


現在は復元・移築され、「文化のみち二葉館」として再生している。


作家の長谷川時雨は、初老にさしかかった桃介と貞奴を見かけた折に「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやう」だと驚き、記している。


2人のロマンスは、1985年にNHK大河ドラマで『春の波涛』の名でドラマ化された。


1946年、膵臓癌により死去。享年 75。

その亡骸は、貞照寺に埋葬された。


年表
・1871年 ( 明治 4年 ) 小山久次郎、タカとの間に誕生。本名 小山貞


・1878年 ( 明治 11年 ) 浜田屋亀吉の養女となる


・1891年 ( 明治 24年 ) 川上音二郎と結婚


・1899年 ( 明治 32年 ) アメリカ巡業を実施


・1900年 ( 明治 33年 ) パリ万国博覧会に出演


・1901年 ( 明治 34年 ) ヨーロッパ巡業実施


・1901年 ( 明治 34年 ) 養母・浜田可免死去


・1901年 ( 明治 34年 ) 渡仏。現地の劇場や女優養成学校を視察


・1908年 ( 明治 41年 ) 東京・芝に帝国女優養成所を設立


・1911年 ( 明治 44年 ) 夫・音二郎死去


・1917年 ( 大正 6年 ) 女優引退を宣言


・1918年 ( 大正 7年 ) 名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立


・1924年 ( 大正 13年 ) 川上児童劇団を結成( - 1932年)


・1933年 ( 昭和 8年 ) 岐阜県各務原市鵜沼に貞照寺を建立し、入山。

門前に別荘「晩松園」を建築


・1938年 ( 昭和 13年 ) 福澤桃介死去


・1946年 ( 昭和 21年 ) 熱海の別荘で死去


・2005年 ( 平成 17年 ) 「二葉御殿」の復元・移築完了。「文化のみち二葉館」として開館。


関連書籍
杉本苑子 『マダム貞奴』 読売新聞社、1975年


山口玲子 『女優貞奴』 新潮社、1982年、ISBN 410335402X


童門冬二 『川上貞奴―物語と史蹟をたずねて』 成美堂出版、1984年、ISBN 441506552X


江崎惇 『実録 川上貞奴―世界を翔けた炎の女』 新人物往来社、1985年、ISBN 4404012578


白川宣力 『川上音二郎・貞奴―新聞にみる人物像』 雄松堂出版、1985年、ISBN 4841900179

貞奴を演じた女優
・夜明けの序曲 ( 1982年宝塚大劇場他、1999年再演 ) 若葉ひろみ ( 1982年 )、大鳥れい ( 1999年 )


・春の波濤(1985年NHK大河ドラマ第23弾)松坂慶子


・夢舞台貞奴~女優ものがたり~ ( 1996年新歌舞伎座 ) 斉藤由貴


・恐れを知らぬ川上音二郎一座 ( 2007年シアタークリエ ) 常盤貴子


・石川さゆり特別公演・奇想天外―マダム貞奴オッペケペー人生 ( 2008年明治座 ) 石川さゆり

関連項目
貞照寺
晩松園
玄冶店 濱田家 元、貞奴のいた置屋。現在は料亭。


● 金色夜叉
金色夜叉 ( こんじきやしゃ ) は、尾崎紅葉著の明治時代の代表的な小説。


読売新聞に 1897年 ( 明治 30年 ) 1月1日~1902年 5月 11日まで連載された。


作者逝去の為、未完。

昭和に入って、度々、映画、ドラマ化されるようになった。


追いかけて許しを乞うお宮を貫一が蹴り飛ばす、熱海での場面[1]が有名である。


あらすじ
一高の学生の間貫一 ( はざま かんいち ) の許婚 ( いいなずけ ) であるお宮 ( 鴫沢宮、しぎさわ みや ) は、結婚を間近にして、富豪の富山唯継のところへ嫁ぐ。


それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。

貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになる。


一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。


モデル
文芸評論家・北嶋廣敏によれば、主人公・間貫一のモデルは児童文学者の巖谷小波である。


彼には芝の高級料亭で働いていた須磨という恋人がいた。

が、小波が京都の新聞社に 2年間赴任している間に、博文館の大橋新太郎 ( 富山唯継のモデル ) に横取りされてしまった。小波は別に結婚する気もなかったのでたいして気にも留めていなかったというが、友人の紅葉が怒って料亭に乗り込み須磨を足蹴にした。

熱海の海岸のシーンはそれがヒントになったという。


評価
作者が未完のままに亡くなったため、作品の全体像が掴めないという難点はあるが、雅俗折衷の文体は当時から華麗なものとして賞賛された。


だが、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われ、ストーリーの展開の通俗性が強調され、真剣に検討されることは少なくなった。


1940年頃に企画された中央公論社版の『尾崎紅葉全集』の編集過程で、創作メモが発見され、貫一が高利貸しによって貯めた金を義のために使い切ること、宮が富山に嫁いだのには、意図があってのことだったという構想の一端が明らかにされた。


しかし、戦渦の中でこの全集が未完に終わったこともあって、再評価というほどにはならなかった。


1980年代になって、硯友社文学全体の再評価の中で、典拠や構想についての研究が進み、アメリカの小説にヒントを得て構想されたものであるという説が有力になり、2000年 7月、堀啓子北里大学講師が、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー ( Bertha M.Clay ) 『WEAKER THAN A WOMAN ( 女より弱きもの )』が種本であることを解明した。


文学碑
熱海サンビーチ「お宮の松」 ( 静岡県熱海市 ) 追いかけて許しを乞うお宮を貫一が下駄で蹴り飛ばす場面が銅像になっている。


映画版
1912年 『金色夜叉』 - 製作:横田商会


1912年 『金色夜叉』 - 製作:吉沢商会


1918年 『金色夜叉』 - 製作:日活向島撮影所/貫一:藤野秀夫、お宮:衣笠貞之助、その他出演:大村正雄、山本嘉一、横山運平


1918年 『続金色夜叉』 - 製作:日活向島撮影所/貫一:藤野秀夫、お宮:衣笠貞之助


1921年 『金色夜叉』 - 製作:日活向島撮影所/貫一:横山運平、お宮:中山歌子


1921年 『続金色夜叉』


1921年 『金色夜叉』 - 製作:小松商会/貫一:伊藤芳夫、お宮:三浦清


1922年 『金色夜叉』 - 製作:松竹キネマ蒲田撮影所/貫一:諸口十九、お宮:川田芳子、その他出演:勝見庸太郎、岩田祐吉、栗島すみ子


1922年 『傑作集枠 金色夜叉(明治文壇海岸の悲劇)』 - 製作:松竹キネマ蒲田撮影所/貫一:岩田祐吉、お宮:栗島すみ子


1923年 『金色夜叉 宮の巻』 - 製作:マキノ映画製作所等持院撮影所/貫一:宮島健一、お宮:田中嘉子


1923年 『金色夜叉 貫一の巻』 - 製作:マキノ映画製作所等持院撮影所/寛一:宮島健一、お宮:田中嘉子


1924年 『金色夜叉』 - 製作:日活京都撮影所第二部/寛一:鈴木伝明、お宮:浦辺粂子


1924年 『金色夜叉』 - 製作:帝国キネマ/寛一:松本泰輔、お宮:歌川八重子


1925年 『絵巻金色夜叉』 - 製作:アシヤ映画/寛一:松本泰輔、お宮:歌川八重子


1930年 『剣戟から生れた金色夜叉』 - 製作:市川百々之助プロダクション/寛一:市川百々之助、お宮:久野あかね


1930年 『続金色夜叉 前後篇』 - 寛一:広瀬恒美、お宮:不明


1932年 『金色夜叉』 - 製作:松竹キネマ蒲田撮影所/寛一:林長二郎、お宮:田中絹代、その他出演:八雲恵美子、岩田祐吉、川田芳子、江川宇礼雄


1932年 『金色夜叉』 - 製作:不二映画社/寛一:高田稔、お宮:佐久間妙子、その他出演:鈴木伝明、英百合子


1933年 『金色夜叉』 - 製作:日活太秦撮影所/寛一:鈴木伝明、お宮:山田五十鈴


1933年 『間貫一』 - 製作:新興キネマ/寛一:中野英治、お宮:中野かほる、その他出演:岡田時彦、菅井一郎


1934年 『金色夜叉』 - 寛一:片桐敏郎、お宮:西条麗子


1937年 『金色夜叉』 - 製作:松竹大船撮影所/寛一:夏川大二郎、お宮:川崎弘子、その他出演:佐野周二、大塚君代、佐分利信、三宅邦子、高峰三枝子、笠智衆


1948年 『金色夜叉 前後篇』 - 製作:東横映画/寛一:上原謙、お宮:轟夕起子、その他出演:古川ロッパ、大日方傳、木暮実千代


1954年 『金色夜叉』 - 製作:大映東京撮影所/寛一:根上淳、お宮:山本富士子、その他出演:信欣三、細川ちか子、水戸光子、船越英二、菅原謙二


テレビドラマ版
1955年 『金色夜叉』 - 放送:日本テレビ系列/寛一:伊志井篤、お宮:水谷八重子


1962年 『近鉄金曜劇場 金色夜叉』 - 放送:TBS系列/寛一:和田孝、お宮:朝丘雪路、その他出演:中村伸郎、沢村貞子、原保美、丹波哲郎、小山明子、須藤健、並木一路


1963年 『コメディフランキーズ 笑説金色夜叉』 - 放送:TBS系列/寛一:菅原謙二、お宮:朝丘雪路


1965年 『金色夜叉』 - 放送:NHK/寛一:川崎敬三、お宮:冨士真奈美


1966年 『金色夜叉』 - 放送:フジテレビ系列/寛一:勝呂誉、お宮:高須賀夫至子、その他出演:金子信雄、久保菜穂子


1973年 『水曜ドラマ 金色夜叉』 - 放送:NHK/寛一:山本亘、お宮:佐久間良子、その他出演:藤木悠、加賀まりこ、加藤嘉、堀越節子、東野孝彦、岡本茉莉


1982年 『土曜劇場 金色夜叉』 - 放送:テレビ東京系列


1990年 『新金色夜叉 百年の恋』 - 放送:フジテレビ系列/寛一:石橋保、お宮:横山めぐみ、その他出演:田辺靖雄、内藤剛志、小島三児、佐々木すみ江、二階堂千寿、大川栄子、杉原あつ子、星野博美、大場健二、矢野明仁、立原ちえみ、伊東知則、中沢敦子、井上香、中村篤、松村冬風、斉川一夫、川倉淳、伊藤高、沼崎悠、石田純子、原田和代、田嶋基吉、ナレーター 神田紅 原案:早坂暁

歌曲
『金色夜叉』1918年 ( 大正7年 )、後藤紫雲・宮島郁芳という 2人の演歌師によって作られた。


脚注
1. 原作では、お宮を足蹴にしたとき貫一が何を履いていたのかは特に書かれていない。なお、原作初版の挿絵では革靴が、熱海にある貫一・お宮の像 ( 館野弘青 作 ) では下駄が描かれている。
(wikiより)

Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑
Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑
Drunken Johnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』      墓マイラー    日々是好日 心灯 頬笑

いいね!した人  |  コメント(2)

旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。


遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、「きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな見返れば意見か柳顔をうち」など、多くの川柳の題材になっている。


かつては山谷掘脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による消失などによって、数代にわたり植え替えられている。
(案内板より)


吉原(よしわら)は、江戸時代以降、公許の遊女屋が集まる遊廓 ( 吉原遊廓 ) があった地域で、東京都台東区に 1966年まで存在していた地名である。


台東区新吉原江戸町一丁目、新吉原京町一丁目…などの名があった。


現在は住居表示の実施により、台東区千束三丁目、四丁目になっている。


日本一のソープランド街としても知られる。

近隣には日雇い労働者が集まる地域である山谷がある。


江戸幕府開設間もない 1617年、日本橋葺屋町 ( 現在の日本橋人形町 ) に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。


「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある ( 葦 = 悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた )。


いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。


吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである ( 二丁町遊郭 )。


明暦の大火 ( 1657年 ) で日本橋の吉原遊廓も焼失。

幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられた。


以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原 ( 略して吉原 ) と呼ぶ。


江戸城の北に当たるところから「北国 ( ほっこく )」の異名もある。


周囲にお歯黒溝 ( どぶ ) と呼ばれる幅 2間 ( 3.6 m ) 程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていた。


遊女には花魁 ( おいらん )・新造・禿 ( かむろ ) などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬 ( そうまがき:大店 ) から、路地裏にある小店までの序列があった。


大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。


一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったという。


遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあった。

武士は編み笠をかぶり顔を隠していた。


よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城 ( けいせい ) に嫌がられ」とある ( 傾城とは国を傾けるような美女のことだが、ここでは遊女を指す )。


時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。


木材の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や、金貸しである札差たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。


吉原は女性を前借金で縛る人身売買の場所であったが、文化の発信地としての役割も持っていたのである。


1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。


1842年には吉原以外の場所での売春が禁止された。


吉原を歴史的な名所として位置付け、山谷堀、大門などを復元し、観光名所として復活させようという意見もあるといわれる。


● 吉原土手
現在の土手通りに平行して山谷堀があり、堀を船で通う遊客も多かった。


堀と通りの間が土手になっていたが、現在では取り崩されている。


現在も「土手通り」の通称で名前が残る。

また、日本堤というのももとはこの土手を指したものである。


● 衣紋坂 ( えもんざか )
遊客がここで衣紋をつくろう ( 身なりを整える ) ことに由来するという。


土手通りから吉原遊郭の入口の間にある坂。


将軍が日光に赴く際などに、街道から遊廓を見通せないよう、S字状に道を付けたとされる。


● 見返り柳
衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったという。

現在は跡地に石碑が建つ。


すぐ後ろにある柳の木は昭和になってから植えられたもの。


● 大門 ( おおもん )
吉原歓楽街への正面玄関。

治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされた。


江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には 2代目となる鉄門が築かれたが、明治 44年 ( 1911年 ) の大火で焼失。

関東大震災を機会に撤去された。


現在は「吉原大門 ( よしわらおおもん )」の交差点名が残るほか、直近の都営バス上 46系統、草 64系統のバス停名として残っている。


江東区の洲崎 ( 現在の江東区東陽 ) にあった遊郭『洲崎遊郭』の洲崎大門と吉原大門をつなぐ『大門通り』という街道が現在もバス通りとして残る。


遊郭と遊郭を繋ぐ街道ということで、ここを遊びに行き来した男たちを皮肉って「親不孝通り」の別称でも呼ばれた。


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10593704989.html
258 新比翼塚(荒川区南千住2・浄閑寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10547290701.html
183 比翼塚(豊島区巣鴨5・慈眼寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10531697007.html
150 投げ込み寺(浄閑寺)(荒川区南千住2-1-12・浄閑寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10518981127.html
133 西方寺・万治高尾之墓(豊島区巣鴨4-8-42・西方寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10498188956.html
38 若紫供養碑(三ノ輪・浄閑寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10496011311.html
21 二代目高尾太夫の墓(台東区東浅草2-14-1・春慶院)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10495910026.html
9 新吉原花園池(弁天池)跡(台東区千束3-22)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11365226991.html
1203 薄雲太夫墓(品川区南品川1-1-1・妙蓮寺)


酔いどれJohnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』 お墓マイラー
酔いどれJohnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』 お墓マイラー
酔いどれJohnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』 お墓マイラー

いいね!した人  |  コメント(0)

安政年間創業の料亭.

重箱に入れた鰻,特に鯰が有名だった.


山谷堀に面していたが,昭和初期に熱海に移転.

再び赤坂 2 - 17に戻ってきた.


1985年ではまだ,赤坂にありながら山谷の重箱の行灯看板.

一食数万円では庶民には縁がないが,続いてほしいもの


山谷の「重箱」については、様々な本に書かれています。


今回は谷崎潤一郎です。
「多磨」の昭和 18年 6月号に「白秋と私」と題して書かれた中に「重箱」が登場しています。


「…それは明治末期のことで、場所は常時青山北町にあった恒川陽一郎の家。


たしか大貫晶川と私とが遊びに行ってゐたところへ、偶然興謝野大人が若き二人の愛弟子 ── 白秋氏と吉井勇氏とを伴って来られたのであったが、此の六人のうち今や勇氏と私とを除いて他は皆故人であると思ふと感慨に堰へない。


その時私達は歌の会を開き、大人の講評を聴いたことであったが、中では「燕」と云ふ題で詠まれた白秋氏の歌の ── 「六波羅の大路にまろぶ油壷」と云ふ上の句だけを覚えてゐる。


その後、或る時吉原の朝帰りに、勇氏や長田 ( 秀雄 ) 氏などと山谷の重箱で飲み、蒲焼の折詰を土産に提げて紫煙草舎時代の氏を訪ねたこともあったが、越えて氏の小田原在住時代、大正八九年頃の一二年間は私も小田原に住んでゐたので、自然最も氏と親しむ機合を持った。…」。
 
これらは、谷崎潤一郎が小田原十字町三丁目に住んでいたころなので、大正 8年から 10年頃だとおもいます。


小田原事件が大正 10年 3月ですから、その前になります。


又、上記に名前が登場する吉井勇氏はこの後、谷崎潤一郎と長い付き合いになります。


京都の祇園「大友」跡の記念碑も吉井勇氏の詩です。


「重箱」にも吉井勇氏は書いています。


「友も、われも、なほ華著にして、い往きたる、山谷重箱、ありやあらずや」


● 小田原事件
谷崎潤一郎は大正 44年 5月 石川千代と結婚 本所区向島新小梅町 4番地 16号に新居をかまえます ( 現在の墨田公園付近 )。


その後大正 18年に小田原に転居します。


移った翌年から潤一郎は横浜に創設された「大正活映」に関係し、横浜に出かけることが多くなります。


そのため佐藤春夫との間に「小田原事件」が起こります。


野村尚吾の「谷崎潤一郎 風土と文学」では「小田原のこの家には、大正十年九月まで、約一年十カ月ほど住んでいたが、この期間に有名な谷崎潤一郎と佐藤春夫との間に、ややっこしい千代夫人の譲渡事件が、最初に持ちあがったわけである。


佐藤春夫との交友は、本郷曙町時代から、急速に親密になっていた。


……ところが潤一郎が、すこし以前から千代夫人の妹のせい子とねんごろになっていた。


…冷遇されるその夫人に同情を寄せたのが、佐藤春夫であった。


そうした入りくんだ関係が、小田原移住後まで継続され、春夫は十字町の家に泊ったり、近くの養生館に逗留したりして親密な交際がつづいていたが、そこで一つの解決が見出されそうにまでなった。


-潤一郎夫妻は離婚し、春夫が千代を妻にむかえ、潤一郎がせい子と同居するという話しあいが一応出来たのであるが、急に潤一郎が翻意して、ご破算にしたため、春夫は憤慨して絶交になった。」とあります。


これが世に言う「小田原事件」なのです。


佐藤春夫と千代夫人との結婚はこれにより約十年間も先送りされます。

関連情報


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10591066953.html
255 谷崎潤一郎生誕の地(中央区日本橋・人形町)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10536050840.html
156 谷崎潤一郎居住の地跡(文京区西片1-15付近)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10590218009.html
254 谷崎 潤一郎墓(豊島区巣鴨1丁目・慈眼寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10495948179.html
15 浄閑寺の永井荷風文学碑と荷風花畳型筆塚(荒川区南千住2-1-12・浄閑寺)

酔いどれJohnny 2ndの 『意外と身近にある歴史散歩』 御墓マイラー 画像中央グレーの建物付近

いいね!した人  |  コメント(0)

[PR]気になるキーワード