Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史上の有名人 ( も含む ) 御墓ネタですが、幅が広過ぎてUPしている本人も「ちんぷんかんぷん」気味で御座います ( 笑 )  どれか一つでも 御気に召して頂ける記事が有りましたら幸いで御座います。

● 玉菊

玉菊 ( たまぎく、1702年 - 享保 11年 3月 29日 ( 1726年 )) は、江戸時代 江戸
新吉原 遊女 太夫


角町中万字屋勘兵衛のかかえで、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲など諸芸に通じ、才色兼備、殊に河東節 の三味線と の妙手であった。


仲の町をあるくときは床几のこしかけるごとに、禿にもたせた 100匹、200匹という目録を置いていった。


大酒のために若くして世を去った。


享保 11年 7月、盂蘭盆に吉原の茶屋は軒ごとに燈籠をかかげて玉菊の精霊をまつった。


これが玉菊燈籠で、吉原三景容のひとつとなった。


享保 13年 7月、三回忌に二代目・十寸見蘭洲 が「水調子」という河東節をかたって、玉菊の追善供養をしたが、中万字でこの曲をひくと玉菊の霊があらわれるとつたえられた。


歌舞伎 講談 に脚色された。

(wikiより)


● 玉菊灯籠
新吉原の年中行事の一。


盂蘭盆 ( うらぼん ) に灯籠を軒先にともすもの。


若くして死んだ玉菊という遊女の霊をとむらうため、新盆につけたといわれる。


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相良妙子 ( さがら - たえこ )

天保元年 ~ 大正 4年 11月 16日 ( 1830 - 1915 )・・・182年説あり。


大隈重信の姉。


父、佐賀県士族・大隈与左衛門。


同藩の砲術師・相良十郎左衛門と 19歳で結婚するが早くに死別。


大隈重信らが築地の私邸に「梁山泊」を構え、伊藤博文や井上馨らと政談にふけったときの女主人 ( 女太夫 )。


子に相良剛造がいる。86歳没。


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11998051806.html
2853 相良剛造墓(台東区・谷中霊園)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11998052953.html
2854 相良好子墓(台東区・谷中霊園)


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幇間塚 ( ほうかんづか )
「幇 ( ほう )」とは、たすける意。


幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。
たいこもち、男芸者のこと。


幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和三十八年に建立された。


碑には、浅草生まれで、大正、昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎の俳句がある。


「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
(案内板より)


● 幇間

幇間 ( ほうかん、たいこ ) は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者 舞妓 を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業である。


解説

幇間は別名「太鼓持ち ( たいこもち )」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。


歴史は古く豊臣秀吉 御伽衆 を務めたと言われる曽呂利新左衛門 という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。


また、太鼓持ち は俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。


この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。


宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。


専業の幇間は元禄 の頃 ( 1688年 - 1704年 ) に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦 ( 1751年 - 1764年 ) の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。


現在では東京に数名と岐阜に1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。


古典落語 では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。


台東区 浅草 にある浅草寺 の本坊伝法院 には 1963年 に建立された幇間塚がある。


幇間の第一人者としては悠玄亭玉介 が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。


正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は 5 ~ 6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。


もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。


芸者と同じように、芸者置屋に所属している。


服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織 を着て、白足袋に雪駄 扇子 をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。


一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。


幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。 噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。


文献

太鼓持ちあらい 『「間」の極意』角川ワンテーマ21、2001 

太鼓持ちあらい『太鼓持あらいのユーモア話術』三笠書房、2004 

桜川忠七 『たいこ持ち 幇間五十年の一代記』かのう書房、1990 

藤井宗哲 『たいこもち ( 幇間 ) の生活』雄山閣出版、1982 

悠玄亭玉介 『幇間の遺言』小田豊二 聞き書き、集英社、1995 のち文庫


関連項目

木戸芸者

落語

道化師 - 宮廷道化師

軽口

愛宕山 (落語)

鰻の幇間

たいこ腹

芸妓

パンパンボーイ

櫻川千代助

幇間探偵しゃろく - 幇間が主役の漫画。

正岡子規

高橋茂雄 (お笑い芸人)

タイチ (プロレスラー)


外部リンク

男芸者「太鼓持あらい」のホームページ

平成の太鼓持ち 祇園顕良(平野顕良)紹介ページ

(wikiより)


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薄雲太夫 ( うすぐも - だゆう )
江戸中期に江戸・吉原 ( よしわら ) の三浦屋四郎左衛門方にいた遊女。


薄雲は『源氏物語』第 19帖 ( じょう ) からとったもので、太夫は揚女郎 ( あげじょろう ) の最高の職制をいう。


勝山、高雄、吉野らとともに吉原で著名な遊女だが、薄雲を名のった遊女は 3人あり、それぞれの詳細はさだかでない。


一般に知られる薄雲は信州 ( 長野県 ) 埴科 ( はにしな ) 郡鼠宿 ( ねずみじゅく ) の出身で、舞伎 ( ぶぎ ) に優れ、猫を愛したといわれる。


1700年 ( 元禄 13 ) 7月に 350両で身請けされた。


ところが・・・仙台伊達家 3代目藩主の伊達綱宗は吉原通いにうつつを抜かし、高尾太夫に袖にされ、代わりに薄雲太夫を身請けしていったという


そんなことばかりして、政事をしない伊達綱宗は、幕府から隠居を命じられ、跡を嗣いだのがたった 2歳の伊達綱村だったことが、後の伊達騒動の原因となった。 ( 自業自得 )


● 花魁
花魁 ( おいらん ) は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。


18世紀中頃、吉原の禿 ( かむろ ) や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。


「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある[1]。


江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ[2]。


また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。


今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。


下記に江戸時代の花魁について記述する。


概要
吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年 ( 1658 ) の吉原細見によれば、太夫 3人であった。


またその下位の遊女として格子 67人、局 365人、散茶 669人、次女郎 1004人がいた。


江戸時代後期の安永 4年 ( 1775 ) になると、吉原細見には散茶 50人 ( 内、呼出し 8人 )、座敷持 357人 ( 内、呼出し 5人 ) 、部屋持 534人など ( 総計 2021人 ) となっている。


花魁は、吉原の遊郭で最も格の高い遊女で張り店を行わないため、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。


呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中 ( 後に花魁道中 ) と呼んだ。


花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。


花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった ( 花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した )。


人気の花魁は「遊女評判記」などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。


浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。


遊女の位
遊女には位があり、それによって揚代が決まっていた ( 吉原細見に格付けが記載されている。店にも大見世・中見世・小見世の別がある )。


時代による変遷もあり、詳細が不明な点もあるが、花魁に相当するのは、おおむね次の遊女である。


・太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった。


高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。


宝暦年間 ( 18世紀中頃 ) に吉原の太夫は姿を消した。


・格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。


・散茶:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。


・座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。


禿が付いている。


・呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。


本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。


これらより下位の遊女は花魁とはいわなかった。


なお、店の筆頭である遊女を「お職」と呼ぶことがあるが、本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったという。


しきたり
下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、花魁を揚げるには様々なしきたりが存在していた。


・花魁には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった


このため、茶屋で豪勢に遊び金を落とす必要があった。


・座敷では、花魁は上座に座り、客は常に下座に座っていた。


花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。


・初会 ( つまり一回目 )、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。


この際、客は品定めをされ、花魁にふさわしくないと思われたらその花魁とは付き合うことができなかった。


客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。


・裏 ( つまり二回目 ) には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。


・三回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。


このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。


通常は、三回目でようやく床入れ出来るようになった ( なお、この初会から三会目のしきたりは、存在を疑問視する意見もある )。


・馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされる。


他の花魁に通ったことがわかると、花魁は客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。


客は金を支払って詫びを入れたという。


・花魁には馴染みの客が何人もいるため、時には指名がかち合うこともある。


その際は名代といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。一方で、通常の揚代金を取られることになる。


関連用語
花魁道中 ( おいらん どうちゅう )
  花魁が禿や振袖新造などを引き連れて揚屋や引手茶屋まで練り歩くこと。


今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されることがある。


忘八 ( ぼうはち )
  遊女屋の当主。仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠 の 8つの「徳」を忘れたものとされていた。


禿 ( かむろ )
  花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。


彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。


禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。


番頭新造 ( ばんとう しんぞう )
  器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。


ひそかに客を取ることもあった。


「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。


振袖新造 ( ふりそで しんぞう )
  15 - 16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。


多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。


しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。


その代金は「つきだし」( 花魁としてデビューし、水揚げを迎える日 ) の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。


留袖新造 ( とめそで しんぞう )
  振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、十代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。


振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。


しかし、まだ一人立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。


太鼓新造 ( たいこ しんぞう )
  遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。


後の吉原芸者の前身のひとつ。


遣手 ( やりて )
  遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役。


誤解されがちだが当主の妻 ( 内儀 ) とは別であり、あくまでも従業員。


難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造のなかから優秀な者が選ばれた。店にひとりとは限らなかった。


廓詞 ( くるわ ことば )
  遊女達は全国から集められており、訛りを隠すために「 - ありんす」など独特の言葉を使っていた。廓詞は揚屋によって異なっていた。


里詞、花魁詞、ありんす詞とも。


三枚歯下駄 ( さんまいば げた )
  花魁が履く黒塗りの下駄。重いこともあって、普通に歩くことが出来ないため、吉原の「外八文字」、嶋原の「内八文字」などと呼ばれる独特の歩き方をした。


きちんと八文字で歩けるようになるには三年かかったともいわれる。


八文字 ( はちもんじ )
  花魁の道中での歩き方。


「内八文字」( 嶋原・新町 ) は、踏み出す足が内側を回り、「外八文字」( 吉原 ) は外側を回る。


伊達兵庫 ( だて ひょうご )
花魁の格式に相応した壮麗絢爛な髪型。横兵庫の派生形。


文金高島田の髷を大きく左右に張り、そこに松や琴柱をあしらった簪を左右に計六本、珊瑚大玉の簪を二本、鼈甲の櫛を三枚挿したもの。


歌舞伎『助六由縁江戸櫻』の三浦屋揚巻や『壇浦兜軍記』の阿古屋に見ることができる。


身請け ( みうけ )
花魁に限らないが、客が遊女の身代金や借金を支払って勤めを終えさせること。


大見世の花魁では数千両[3]にものぼったという。


吉原細見 ( よしわら さいけん )
郭ごとに遊女の名を記したガイドブック。


当時のベストセラーの一つであったといわれる。

注釈
1. 小松奎文 『いろの辞典 (改訂版)  (綺語文章 壹之巻 おいらんの傳)』 文芸社、2002年。ISBN 4835514998。
2. 藤田真一 「関西大学文学部コラム 第41回『京都・角屋の文化 ―学問の手伝えること―』[1]」 関西大学、2006年1月27日。
3. 今日の貨幣価値で数千万円から億に近い価格。
(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10518981127.html
133 西方寺・万治高尾之墓(豊島区巣鴨4-8-42・西方寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10496011311.html
21 二代目高尾太夫の墓(台東区東浅草2-14-1・春慶院)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10498188956.html
38 若紫供養碑(三ノ輪・浄閑寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10495910026.html
9 新吉原花園池(弁天池)跡(台東区千束3-22)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10656910528.html
327 見返り柳(台東区・千束4)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10593704989.html
258 新比翼塚(荒川区南千住2・浄閑寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10547290701.html
183 比翼塚(豊島区巣鴨5・慈眼寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10531697007.html
150 投げ込み寺(浄閑寺)(荒川区南千住2-1-12・浄閑寺)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1203a
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1203b
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1203c

台東区・千束にある花吉原名残碑 ( はなのよしわら なごりのひ ) です。


吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和 3年 ( 1617 )「葺屋町東隣 ( よしやちょう ひがしどなり )」( 現中央区日本橋人形町付近 ) に開設した。


吉原の名称は、植物の葦 ( よし ) の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葦原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。


明暦 3年 ( 1657 ) の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され同年 8月、浅草千束村 ( 現台東区千束 ) に移転した。


これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。


新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和 33年「売春防止法」の成立によって廃止された。


その名残を記す当碑は、昭和 35年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳 ( こせんりゅう ) 研究家の山路閑古 ( やまじかんこ ) による。


昭和 41年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
(案内板より)


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Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』  お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑-1186b

江ノ島参道入り口に有る 青銅の鳥居をよく見ると、気になる御名前が有りました。


『八百善四郎、松葉屋半蔵、駿河屋市兵衛、扇屋宇右衛門、大黒屋勘四郎、駿河屋市兵衛』


それ以外の、多数の御名前は遊郭関連でしょうか?


商売繁盛を祈念して奉納されたのでしょうか・・・


願主
扇屋宇右衛門
大黒屋勘四郎
松葉屋半蔵

下之坊恭真

江ノ島屋利助
江ノ島屋佐兵衛
伊勢屋庄五郎


世話人
駿河屋市兵工 ( カタカナの"エ"でしょうか 何故に『衛』ではないのか )
松屋新八
大口屋攵右エ門


浅草新鳥越町

世話人 八百善四郎


寄進者の中には花魁 ( おいらん ) 代々山という名もある。

その他多数の御名前が刻まれています。


また八百善は毎年、一族郎党、友人、芸者衆などを引き連れて江ノ島詣でをしていたと云われています。


また江島神社 ( 奥津宮 ) には、『八方睨みの亀』の絵があります


この絵の作者は、酒井垉一さんですが やはり八百善との繫がりが有り江ノ島に来ていたのかもしれません


なぜ江ノ島に・・・、それは生身の弁天様で・・・(以下略)


素盞雄神社には狛犬、虎ノ門金比羅神社には、銅鳥居があります。 ( 近い内に取材します )


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10713413884.html
383 大田南畝墓(文京区白山4-34-7・本念寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10611427769.html
279 葛飾北斎墓(台東区・元浅草)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10613314278.html
282 亀田鵬斎墓(台東区今戸・称福寺)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10608637129.html
275a 八百善跡(台東区東浅草1-8-12付近)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11276609812.html
275b 白髭神社の狛犬(墨田区東向島3-5-2・白髭神社)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11861873646.html
2192 八方睨みの亀の絵(江島神社・奥津宮)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 江の島神社参道入り口
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 江島大明神と読みます。

Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 新吉原
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 無数の御名前が刻されています。
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 願主 扇屋、大黒屋、松葉屋
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 世話人 八百善四郎
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 願主 下之坊恭真
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 文政四年に再建されたようです。

向島の白髭神社に、八百屋善四郎 ( 八百善 ) と吉原の松葉屋半左衛門、駿河屋市兵衛の寄進した狛犬 ( 文化 2年 = 1815 ) が有ります。


商売繁盛を願って寄進したのでしょうか。


● 松葉屋
また遊郭松葉屋は遊女瀬川を抱えていた店として知られ、主人は宝暦中期から代々半左衛門を襲名しています。


千住の素盞雄神社の狛犬と虎ノ門の金比羅神社の銅鳥居には
「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあり、半蔵が通り名と思われます。


● 駿河屋市兵衛
駿河屋は仲ノ町の茶屋です、新吉原の大門を入ると真っ直ぐな通りがあります。


これが「仲ノ町」と呼ばれ、左右に茶屋が並んでいます。


駿河屋は七軒茶屋と呼ばれた別格の茶屋の一軒で、入口近くの右側にあったようです。


吉原に来たお客はまず茶屋駿河屋に上がり、そこから松葉屋に連絡、遊女を呼んで貰います。


そして八百善から料理や酒を取り寄せ、ひとしきり楽しんでから、松葉屋へ移って一晩過ごす事になります。


お金がもの凄くかかるようになっている。


このお金の一部が狛犬になったのでしょう ほんのちょっと・・・だけ(笑)


狛犬の銘 文化十二乙亥年二月吉日 ( 1815 )


奉納 御寶前 松葉屋半左衛門 八百屋善四郎 駿河屋市兵衛


石工 神田今川橋 六兵衛明貴


関連情報

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10608637129.html
275a 八百善跡(台東区東浅草1-8-12付近)


http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11276611276.html
275c 江ノ島青銅鳥居(神奈川県藤沢市江の島2-1-7横)


Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 向島白髭神社
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 松葉屋半左衛門
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 八百屋善四郎、駿河屋市兵衛
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 寄進された狛犬
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 ♂だそうです。
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑
Drunken Johnny 2nd.の『意外と身近にある歴史散歩』   お墓マイラー 日々是好日 心灯 頬笑 ♀だそうです。

数拳 ( かずけん ) の名手です。


太田南畝 ( なんぼ 蜀山人、四方赤良と称した ) の漢詩を冒頭に置き


ひらく手の五ゥは勝なり梅のはな


と続く「五ゥ」の「ゥ」は「五」の読みを示す


ふり仮名であって「うっ ( 打っ )」の意味である。


文化旧年建立
(案内板より)


● 拳遊び
拳遊び ( けんあそび ) は、二人で手の開閉または指の屈伸などによって勝負を争う遊戯の事。


後に、三人以上であったり、手だけでなく体全体を用いたりするものも現れたが、基本的に形によって勝敗を決める遊びである。


酒宴で行われる遊びだったが、そのうちのいくつかは子供の間でも行われるようになった。


日本・中国など東アジアを中心に数多くの拳遊びがある。


歴史
拳遊びは大別して「数拳」と「三すくみ拳」があった。


数拳は 2人が互いに片手の指で数を示すと同時に双方の出した数の合計を言い、当たった方が勝ちというもの。


中国が発祥地で日本では 18世紀の初めから広がった。


16世紀の後半に長崎から入ってきた遊びなので本拳・長崎拳・崎陽拳ともよばれた ( 崎陽は漢学者たちによる長崎の異称のこと )。


江戸時代の天保年間までは、これが大人の拳遊びの中心だった。


現代でも九州では球磨拳などの数拳が行われている。


子供の遊びにも、数拳によく似た遊びがある ( → 手を用いた遊び#数字を指定する遊び )。


三すくみ拳は日本の平安時代には存在していたとされる。


日本での代表的な三すくみ拳は虫拳でヘビ、カエル、ナメクジの三すくみ ( 人さし指はヘビ、親指はカエル、小指はナメクジ ) である。


ルールはじゃんけんとほぼ同じで、蛙はナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝ち、蛇は蛙に勝つというもの。


江戸時代後期には天竺徳兵衛をモデルにした児雷也ものが読本・浄瑠璃・歌舞伎で当たりし、児雷也の蝦蟇への大変身が話題となった。


そこでカエル・ナメクジ・ヘビの「蛇拳 ( じゃけん )」というものが流行し、幕末には「狐、庄屋、猟師 ( または狐、猟師、鉄砲 )」の狐拳という三すくみ拳が流行った。


明治になり数拳の手の形と三すくみ拳からの現代行われているじゃんけんが考案されたと考えられている。


またタイには「象、象使い、王様」の三すくみ拳がある。


種類
脚じゃんけん ( あしじゃんけん )
兎拳 ( うさぎけん )
ウントコ拳 ( うんとこけん )
S拳 ( エスけん )
お上げのお手を ( おあげのおてを )
おいでなさい
尾上拳 ( おのえけん )
開帳拳 ( かいちょうけん )
狐拳 ( きつねけん ) 猟師は狐に勝ち、狐は庄屋に勝ち、庄屋は猟師に勝つ。ルールはじゃんけんに同じ。


畸陽拳 ( きようけん )
球磨拳 ( くまけん )
軍師拳 ( ぐんしけん )
源平拳 ( げんぺいけん )
こいこい拳 ( こいこいけん )
薩摩拳 ( さつまけん )
答礼拳 ( さようけん )
三国拳 ( さんごくけん )
庄屋拳 ( しょうやけん )
匕玉拳 ( すくいたまけん )
台湾拳 ( たいわんけん ) かけ声とともに相手と自分の出した指の数を当てるジャンケン


チョン脱拳 ( ちょんぬげけん )
津軽拳 ( つがるけん )
聾拳 ( つんぼけん )
唐山拳 ( とうしんけん )
唐人拳 ( とうじんけん )
藤八拳 ( とうはちけん )( 東八拳とも )
都市拳 ( としけん )
とてつるけん
併せ併せ・伴せ伴せ ( 拳 )( ともせともせ ( けん ))
虎拳 ( とらけん )
どんどん拳 ( どんどんけん )
長崎拳 ( ながさきけん ) 本拳に同じ
なんこ、または、なんこ拳 ( なんこけん ) 薩摩拳に同じ
箸拳 ( はしけん )
ブサ、ブーサー
裸拳 ( はだかけん )
花拳 ( はなけん )
深川拳 ( ふかがわけん )
本拳 ( ほんけん ) 片手の指で、0から 5までの数を表現し、互いに出した数の合計を中国語で当てる拳


幕の内拳 ( まくのうちけん )
まくら拳 ( まくらけん )
雑拳 ( まぜけん )
廻り拳 ( まわりけん )
虫拳 ( むしけん ) 蛙はナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝ち、蛇は蛙に勝つ。ルールはじゃんけんに同じ


盲人拳 ( もうじんけん )
野球拳 ( やきゅうけん )
安来拳 ( やすぎけん )
柳拳 ( やなぎけん )
ヨイヨイ拳 ( よいよいけん )
吉原拳 ( よしわらけん )
世直し拳 ( よなおしけん )
呼拳 ( よびけん )
柳拳
流行すててこ拳 ( りゅうこうすててこけん )
雑拳 ( まぜけん ) 本拳と虫拳とをたがいちがいに打って勝負を決するもの。また本拳を打つべき場合に虫拳の指を出し、虫拳を打つべき場合に本拳の声を出した方が負けとするもの。
(wikiより)


関連情報
数拳 ( いっせーのーせ!)
http://www.k2.dion.ne.jp/~t.makky/mukasi/janken/suuken.htm


日本全国 ジャンケンの掛け声

http://www.freeml.com/wefree/say/scissors/


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「幇間 ( ほうかん ) 塚碑」


「幇」は、たすける意。

幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。


たいこもち、男芸者のこと。


幇間有志によって、幇間物故者供養のため、昭和三十八年に建立された。


碑には、浅草生まれで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎の俳句がある。


「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
(案内板より)


吉原の幇間として聞こえた桜川の一門が昭和 38年建立


● 幇間
幇間 ( ほうかん、たいこ ) は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。


歴史的には男性の職業である。


解説幇間は別名「太鼓持ち ( たいこもち )」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。


歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。


秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。


ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。


鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。


また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。


「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。


この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。


宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。


専業の幇間は元禄の頃 ( 1688年 - 1704年 ) に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦 ( 1751年 - 1764年 ) の頃とされる。


江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。


現在では東京に数名、関西には 1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。


古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。


台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には 1963年に建立された幇間塚がある。


幇間の第一人者としては悠玄亭玉介が挙げられる。


男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。


正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。


通常は 5 ~ 6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。


師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。


もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。


芸者と同じように、芸者置屋に所属している。


服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。


一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。


これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。


幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。


噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。


文献
太鼓持ちあらい『「間」の極意』
太鼓持ちあらい『太鼓持あらいのユーモア話術』
桜川忠七『たいこ持ち 幇間五十年の一代記』
藤井宗哲『たいこもち(幇間)の生活』


関連項目
道化師
愛宕山 ( 落語 )
鰻の幇間
たいこ腹
芸妓
パンパンボーイ
櫻川千代助
正岡子規

高橋茂雄
(wikiより)


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根津八重垣町 ( 昔は門前町と言った ) から根津神社まで遊郭があった

そして昔根津は不寝 ( ねづ ) と書かれていたようだ


小石川本郷と谷中の中間の谷間で、天保十余年この根津に娼妓がいたことを記している


更に当時の江戸市中の風紀から見て一大改革が持たれ、俗に言う水野越前守の禁粛政治で根津遊郭も禁止した


明治維新となるや、この根津の遊郭復帰は声高く叫ばれ公然と開業された


ところが東大 一高が本郷向岡に開設されるに及び、再びこの根津遊郭廃止論は大きく起こった


そして遂に明治二十年十二月限りで廃止、その殆どは洲崎に移り 又一部は吉原に移った


明治十五年当局の調査によると吉原 ( 娼妓、1,019人 )、根津 ( 娼妓、688人 )、品川 ( 娼妓、588人 ) と記され、その繁華ぶりが偲ばれる。
(案内板より)


( 注 画像は周辺画像です )
文京区歴史研究会の一員に、浪越徳治郎さんの名前があります。


○ 根津遊郭

根津遊郭 ( ねづゆうかく ) は、東京、根津にあった遊郭である。


根津神社創立ののち、同地は私娼の集まる地でもあった。


天保 13年水野越前守の改革によって禁止され、新吉原に移され、のちに、慶応年間江戸幕府陸軍奉行の許可を得て、遊郭が建設され、じょじょに繁昌し、明治 3年根津八重垣町の両側にサクラ 200余株をうえつけ、総門をかまえて新吉原にならったが、年限を限って許可した遊郭であり、明治 21年 6月末日をもって撤去され、洲崎において営業を継続するものに許可した。


明治 21年 7月 1日、洲崎 ( 現・江東区東陽町 ) に移転した。


洲崎遊郭は、洲崎弁天町一丁目・二丁目にあった。


同地はもともと明治20年5月の埋め立てにより、深川区に編入された。


東北は川をへだてて西平井町に対し、西は一条の浅い渠をへだてて埋め立て地に面し、南は永代浦にせまった。遊郭の敷地は 5万坪であった。


○ 遊廓
遊廓 ( ゆうかく ) は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。


一区画にまとめてあるのは、治安や風紀を公権力側が統制するため。


成立は安土桃山時代。
別称としては、くるわ、遊里、いろまち、傾城町などがある。
( 「廓」は「城郭」と同じ、囲われた区画を意味する )


江戸時代、公許の遊廓以外には、宿場町にあって半ば公認の飯盛旅籠や、門前町などには岡場所 ( おかばしょ ) と呼ばれる私娼窟があった。


尚落語には遊廓を題材にした廓噺 ( 艶噺 ) がある。


前史
古代から女性による接客は存在した。


神社の巫女による官人の接待がその起源である。


江口、神崎のように港や宿場で遊女が多く集まる地域があった。


室町時代には足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収していた。


遊郭の成立
権力の統制と保護を受け、遊郭として 1箇所に集められるのは、近世以降のことである。


豊臣秀吉の治世に、遊郭を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。


今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。


その 5年後 ( 1589年 天正 17年 ) には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。


大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町 ( 新町遊廓 ) と朱雀野 ( 島原遊廓 ) に移転した。


各地の遊郭
江戸に遊廓が誕生したのは 1612年 ( 慶長 17年 ) である。


駿府 ( 今の静岡市 ) の二丁町遊郭から遊女屋が移され、日本橋人形町付近に遊郭がつくられ、吉原遊廓と呼ばれた。


吉原遊廓は明暦の大火 ( 1657年 明暦 3年 ) に焼失。


その後浅草山谷付近に仮移転、まもなく浅草日本堤付近に移転した。


人形町付近のものを元吉原、日本堤付近に新設されたものを新吉原とも言う。


大阪の夕霧太夫のいる新町、京都の吉野太夫のいる島原、江戸の高尾太夫のいる吉原の遊廓は、三大遊廓 ( 長崎・丸山を入れる説もある ) と呼称された。


この他にも江戸時代には、全国 20数カ所に公許の遊廓が存在した。


最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には 300軒近い遊女屋があったと言われている。


鎖国時、唯一の西洋との窓口として栄えた長崎に、丸山遊郭が誕生したのは 1639年 ( 寛永 16年 ) ごろ。


井原西鶴は日本永代蔵に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。


南蛮貿易で潤った当時の華やかさをうかがわせる。


『色道大鑑』 ( 1678年 ) には当時の遊郭 25箇所が列挙されている。


京島原、伏見夷町 ( 撞木町 )、伏見柳町、大津馬場町、駿河府中、江戸山谷 ( 吉原 )、敦賀六軒町、三国松下、奈良鴨川木辻、大和小網新屋敷、堺北高洲町、堺南津守、大坂瓢箪町 ( 新町 )、兵庫磯町、佐渡鮎川、石見温泉、播磨室小野町、備後鞆有磯町、広島多々海、宮島新町、下関稲荷町、博多柳町、長崎丸山町寄合町、肥前樺島、薩摩山鹿野田町 ( 山ヶ野金山 )

遊郭の文化
江戸時代初期、遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。


上級の遊女 ( 芸娼 ) は太夫 ( たゆう ) や花魁 ( おいらん ) などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。


このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。


江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。


また、遊郭自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。

近代以降の遊郭


1872年 ( 明治 5年 )、成立したばかりの明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、実態はほとんど変わらなかった。


ただし都市化の進展と共に、遊廓の存在が問題になり、郊外などへ移転させられる事例もあった ( 例:東大の近くにあった根津遊郭が深川の洲崎に移転、など )


明治 33年の娼妓取締規則によって、a 娼妓は指定された地域外に居住することは禁止され、b 庁府県令に貸座敷に関する取締規則を制定させ、その規則によって貸座敷営業の許される地域が指定され、娼妓居住指定地と貸座敷指定地とを一致させ、この指定地外に娼妓は居住することを禁止され貸座敷を営業することはできなかった。


この指定された公娼街が、「遊郭」である。


草間八十雄によれば、明治 33年、内務大臣の命によって警保局長が遊郭新設に関する標準内規を定め、地方長官に通牒した。


すなわち、次の条件を具備しなければ貸座敷免許地の新設は詮議しない。


1 その土地市街を形成して戸数 2000戸以上、人口 1万以上を有する。
ただし兵営所在地、船着場、その他特別の事情のあるものはこの限りでない。


2 貸座敷営業者が無いために密売淫の弊に堪えない。


3 付近に貸座敷免許地が無いために新設の必要がある。


4 その他地方民情に背馳しない。


5 貸座敷免許地に適当な場所がある。


内規の定めはあっても世論の趨向に顧み、新設はもちろん遊郭の拡張は認めない。


これがのちに不文律となって新設、拡張は許可されなかったという。


草間によれば、昭和 4年 12月末日現在のデータは以下の通り。


・貸座敷指定地は全国で 541箇所である。


うち 30箇所は貸座敷営業者は存在しない、いわば有名無実のもので、したがって貸座敷の存在する遊郭は 511箇所。


・貸座敷指定地の最も多いのは北海道 ( 45箇所。うち 3箇所が有名無実 )で、ついで山口 ( 41箇所。うち 15箇所が有名無実 )、三重 ( 30箇所 )、山形 ( 26箇所 )、福島 ( 25箇所 )、長崎 ( 23箇所 )、栃木 ( 21箇所 )、新潟および静岡 ( 20箇所 )、広島 ( 19箇所 )、京都 ( 17箇所 )。


・少ないのは鹿児島および沖縄 ( 1箇所 ) 鳥取、徳島および山梨 ( 2箇所 )、奈良、和歌山および愛媛 ( 3箇所 )。


・廃娼が実行されたのは群馬および埼玉。


・100戸以上の貸座敷で公娼街をなす遊郭の個数は 19箇所で、大阪市南区五花街 499戸、京都市東山区祇園町 449戸、宮川町 418戸、東京市浅草区新吉原 295戸、深川区洲崎 286戸、大阪市西区松島 257戸、京都市下京区七条新地 237戸、沖縄県那覇市辻町土之蔵町 234戸、京都市東山区祇園町 ( 乙部 ) 227戸、大阪市西区新町 212戸、京都市中区先斗町 194戸、大阪市西区堀江 156戸、京都市上京区北新地 151戸、下京区島原 146戸、名古屋市西区旭 139戸、岡山市東西中島町 120戸、堺市龍神 107戸、京都市伏見区中書島 104戸、大阪市住吉区飛田 100 戸。以上は確実であるが総数不詳。


・娼妓 1000人以上を有する遊郭は大阪市西区松島遊郭 3657人、東京市浅草区新吉原 2557人、深川区洲崎 2329人、名古屋市西区旭遊郭 1562人、京都市東山区宮川町 1340人、神戸市福原遊郭 1329人。


・1遊郭に娼妓 1人を置き、かつてのなごりをとどめるものは、北海道厚岸郡浜中村遊郭、岩手県紫波郡日詰町遊郭、石川県鳳至郡宇出津町遊郭、珠洲郡小木町遊郭、山口県熊毛郡曾根村遊郭の 5箇所。


・1箇年間の遊客が 100万人以上の遊郭は、大阪の松島遊郭 209万 440人、東京の新吉原 167万 8305人、大阪の飛田 153万 7576人、東京の洲崎 137万 2535人の 4箇所。


・全国 511箇所の遊郭において貸座敷を営業する者は 1万 1154人、娼妓は 5万 56人、遊客の総数は 1箇年に 2278万 4790人、その揚代は 7223万 5400円。


昭和 6年末で遊郭の個数は減少しないが、貸座敷営業者は 9799人となり、娼妓は 5万 2064人、遊客は 2239万 3000人と、昭和 4年と大差は無い。


第二次世界大戦後の 1946年 ( 昭和 21年 ) にはGHQの政策により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、ほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域になった。


1956年、売春防止法が成立し、1958年 3月 31日、同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は、完全に幕を閉じることになった。


現在公認の娼婦街はないが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の元に、1958年以前と変わらない営業を継続している地域もいくつかある。


また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所などもある。


参考文献
小野武雄著『吉原と島原』 講談社学術文庫 ISBN 4061595598
(wikiより)


関連情報
http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10541799178.html
170 浪越徳治郎墓(文京区小石川3-14-6・伝通院)


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