祖父はとうとう、リベンジを果たせず、望郷

の想いのまま、不自然な死を遂げた。

(祖父には三男がいて、私の父は末子だった)



祖父の息子、長男には父親の無念が解っていた

だろう。しかし、若い彼にもまた親父が道楽の果て

取り上げられた故郷の山野を買い戻す力は無かった。

だが、せめて(父親の遺骨は故郷の一隅に納めてやり

たい)

そう考え、故郷に行ってみた長男は驚いた。

屋敷と先祖代々の墓地のある山野は、道楽者だった

祖父と反対に働き者だった弟が買い戻してあったのだ。

むろん、全体ではなかった、と思うが。

祖父の弟は、彼ら一族の物となった屋敷に、

(祖父の弟だから、兄の長男は)甥にあたる長男を

暖かくもてなし、墓地の一角に納骨することを

許可したのだった。


墓地は広く、幕末前からの先祖の墓も林立していたし、

敷地の一角はやがて旧跡指定された弥生式土管、船?

のある洞窟もあった。

(後年、私はそれを見て遠い先祖が大陸からやって

来たのだと確信した)



感謝しつつ、長男は心に誓ったのだった。

出世してやる。必ず出世して、故郷に錦を

飾るんだ。父が出来なかったことを果たすんだ。

横浜に行こう!大阪より仕事があるに違いない)



こうして当時はまだ幼かった弟(私の父親)

や、兄嫁らを連れて上京した長男は横浜で

建築事業を起こし、新聞にも載る立身出世

を果たしたのだった。

(続く)
福島県に津波のニュース、心配ですね。



宗教嫌いの父に育てられた宗優子は、

仏事も神事も知らない、まあ、非常識な

人間でしたが、相次いでの父母死亡後、

友人の重病の予知したことなどから、必然的

に宗教的行事や心霊の世界に入っていくこと

になりました。

これは私自身が(霊能者)という奇異な職業

についたいきさつなどを子孫に残す記録です。



生前は会ったことも無ければ話題になったことも

ない祖父でした。今、思えば、その特殊な死、ゆえ

でしょうか。

道楽の果て、お大尽の身から転落、一家で大阪に

出奔した祖父は(成功して岡山に戻って来るぞ)の

悲願の元、大阪でわずかな年月のうち、本籍地を

転々と移していたのでした。(大阪は終生の地では

ない、という思い)、祖父の本籍地移動の理由

を知らなかった孫の宗優子は大阪のすべての本籍地

を訪ね、ついに岡山の地にたどり着いたのでした。



大阪での祖父一家は時に理髪店を営み、時に刑務官

になり、時に代書や(司法書士)をして糊口をしのいで

いたようですが、故郷に帰れる(錦を飾れる)なんてことは

(夢のまた夢)だったでしょう。

祖父は、間違えて?選んで?農薬の種類を飲み、壮絶な死

を迎えたそうです。祖父の恩讐は彼方に消えたのでした。

続く





話をはしょります。


愚かな私は、祖父は母方の祖父のほか父方の祖父もいる

事実を考えたこともなかった。おこずかいをくれる母方の

やさしい祖父一人で十分だった。


それが、司法書士に言われて相続のために父の除籍謄本を

集めるうちに父の一族に否応もなく迫っていた。

いや、今思うに司法書士は、父12,3才までの除籍謄本を要求

しただけなのに、、大阪で本籍を目まぐるしく動かした祖父ら

一族に疑問を持ち、私が勝手に追跡、もしくは、引き寄せられ、

百年前一族が岡山を出て大阪に出た事実まで迫っていたので

した。



明治のころ、祖父は岡山の田舎のあたり一帯の山野を

所有する豪農だった。

だが豪放磊落な性格と相まって生来の放蕩者。酒は酒席で

ばくちはばくち場、芸者屋通いの、飲む打つ買う。

とうとう、お大尽がすってんてんどころか、返しきれない借金を

背負い、ある日一家で岡山を出奔したのでした。

つまり夜逃げした。


泣くな妹よ 妹よ泣くな

泣けば幼い二人して

故郷を捨てた 甲斐がない

遠く寂しい日暮れの道で

泣いて叱った兄さんの

涙の声を 忘れたか 、


有名な「人生の並木道」という歌のような心境だったのでしょう。



それで分かったのです。わが身の愚かさのせいとはいえ生まれ

故郷を出奔せねばならなかった祖父は無念の気持ちを抱いて、

(いつか必ず戻ってやる。一族の故郷は岡山にしかないのだ、と

いう気持ちで、大阪では決して根を下ろさず、本籍地と決めず、

点々としたのではないだろうか。

その祖父の魂に、なぜ百年後の私がせまることになったのか。

なんで祖父母のはかがここにあるのか、、。


心霊という言葉も、霊能者という言葉も知らず、宗教嫌いな

父に育てられ。仏教も先祖もまともに知らなかった人間が。

父から墓の話など聞いたこともなかったし。墓の話題など

出たこともなかった。



父母は父の死後、母が買った墓に眠っている。父の死後、たった

35日後、急性心不全で逝った母は、自分のために墓を用意した

ようなものだった。はじろ馬手、墓というものの意義をしったのも

そのころだった。

続く