山の舟歌・穂積亮次新城市長の怪~新城市~ | 山の舟歌 マル青同バンザイ!

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愛知県ほの国奥三河、知られざる不思議な話や場所、不可解な事件や歴史を不惑の惑庵が御案内。角度を変えて見る山里はまた興味深いもの。里の川の山の舟歌花歌祭歌が聞こえそうなそんな山郷・奥三河。

我がまち鳳来町時代に新町長に立候補したのが穂積亮次氏である。新城市との合併後の現在も、新城市長として市政を任されている。

小生はこの鳳来町選時にこの立候補者の名前を聞いて愕然としたのを覚えている。
彼は極左過激派集団"マルクス主義青年同盟の代表だったからだ。

この現在新城市長の穂積亮次氏は、なんの罪もない学生"大沢真"君を殺害し、リンチを加えた揚句死体を埋め隠し逃走しているところを逮捕され服役した経歴のある市長である。

1975年5月25日にその殺戮は起こった。

顛末をかい摘まむ。
1975年春、4月16日のことだ。
穂積亮次をリーダーとしたマルクス主義青年同盟は軍服軍靴姿で岡山大学を襲撃する。

岡山大学教養部・学館・さらには講義中の教室を襲い、その学生らに容赦ないリンチ暴行を行う。同時に岡山大学学生寮では寮運営委員を中心に"オルグ"という名の恫喝が始められた。

彼らの主張は「プロレタリア独裁の路線を持てないものは挙国一致体制に組み込まれる。だから我々は我々以外の一切を許さない。マル青同がマルクス主義である。お前達はマル青同の統制下に入れ」とナイフで脅し、まずは金を要求した。

しかしこの恫喝に屈する事ない寮生の前に完全に孤立した穂積亮次らは次の手段に入る。
5月22日、外出中の寮生の部屋から勝手に荷物を放り出し拠点として使おうとした。理不尽窮まりないこの暴挙に寮生らは実力で部屋を元にもどした。

翌日5月23日、これに憤慨した穂積亮次率いるマル青同は、ドアやガラスを破壊し寮生を無差別に鉄パイプや丸太で殴り無差別リンチを開始したのである。

5月24日を挟み5月25日午後3時50分。
穂積亮次率いる全員が軍服姿のマル青同30余名が寮の出入口を全て固め、寮生に対する無差別テロ、リンチを開始。
彼らは寮生を拘束し、運営委員や命令に従わない者など約20人を鉄パイプで殴り拉致。
さらに全員に鉄パイプで顔面や頭部が陥没するほどの壮絶なリンチが長時間にわたって行われた。これは本人が後日語るように殺害を前提にしていた。

夕方5時過ぎ、救急車のサイレンをパトカーと誤認し穂積らはいったん学外に逃走。
寮生は医師を呼び治療が始まるが、医師の手の施し様がない有様で動かす事も出来ないほどであった。

6時15分頃、穂積亮次らマル青同は再度寮への襲撃を開始。ケガ人・救護の寮生・医師ら約20名が再び拉致され再び壮絶なリンチが行われた。医師が「やめろっ!死んでしまう」と止めるのを無視し、さらに凄絶なリンチを加えた。この間マル青同同志らは全私室を捜索し寮生の私物を略奪・廃棄。

夜8時10分頃、マル青同は攻撃を行うため宣伝カーを先頭にゆっくりと接近させた。
マイクで「殺せ!」「ひき殺せ!」という絶叫と共に全速で車を突っ込ませた。彼らは終始「殺せ!殺せ!」と絶叫し、教養キャンパスを逃げまどう寮生を猛スピードで追いかけ回し、寮生は何メートルも車にはね飛ばされた。さらに車につづいて鉄パイプをふりかざした部隊が寮生に殴りかかった。
この数十分に及ぶ虐殺行為の中、理学部化学科1年生の大沢真君が宣伝カーにひき殺された。またほとんどの寮生が重軽傷を負った。

穂積亮次らは大沢真君の死体を車に積み立ち去った。

大沢君の遺体は山中に埋められた。この穴は襲撃の数日前に殺害後の死体隠し場所として用意周到に掘られていた事がわかっている。

数日後、大沢真君の死体を警察が発見。顔や頭部は原形を留めないほどの凄惨な形状であった。
司令官穂積亮次はこの襲撃後逃走し行方をくらます。指名手配犯として捜索されるも見つけ出されるまで6年を要した。

そしてその6年後の1981年、捜索の渦中、アジトが強制捜査。アジト内にある大型クーラーの中に隠れていたところを発見され逮捕された。甲府刑務所にて服役。

逮捕時の穂積亮次氏の名言である。
「あと30センチ深く埋めていたなら・・・」


殺された大沢真氏の無念と、殺した新城市長穂積亮次氏の無念。
市民ですらほとんど知らない事実がここにある。